
ふたつの受験
プロローグ
50代主婦。一人娘が2浪の末、大学生になった。泣いて笑って、大忙しの21年だった。
子育ての大部分を受験と向き合う時間に費やした。
中学受験編
1.大事なことってなに?
子どもが一人だと、親として経験できることが一回になる。その全ての唯一を大事にしたかった。
そんな状況は、計画を立てたがる元々の性格を増長させた。
テレビを見せずに絵本を読み聞かせ、一緒に全力で遊ぶ。幼稚園に入園したあたりから習い事を詰め込んだ。私は、正解の子育てを探していた。
そんな私が作った計画表通りに日常が進む。
2.手がかかる
娘は素直で頭の回転が早い。
だが、こだわりが強く、自分がやりたいことをやり終えないと次に動けない。
この特性はプランニング大好きな私は非常に手こずった。
自分の計画通りに進まないから、手がかかると思っていたのだ。
こだわりが強く、手がかかるのは私の方だったと気づくのは、この後、10年以上先のことだ。
娘が小学生になると、私の教育熱はますます拍車がかかった。
当時、娘の小学校は半分以上が中学受験をしていた。そのため小学校低学年から受験塾に通うことも全く特別なことではなかった。
3.塾とママの狂気
よく聞く、あれ。
これって人それぞれだと思うが、私には当てはまった。
きっかけは単純だった。
私は娘に、家庭学習の延長として、近所の受験塾で全国小学生模試を受けさせたのだ。結果は悪くなかった。むしろ良かった。
「このまま入塾しても良いかな」
そう思ってしまったほど。
当時、すでに英語、ピアノ、水泳を習っており、毎日忙しかったのだが、全ては娘のため。これが娘の将来のためになると信じてスタートしたのだ。舵を切らずにはいられなかった。
文字にしてみると、よく分かる。我が家は中学受験に翻弄されていく。
4.通塾スタート
忙しい小学生生活を作ったのは他でもない私だった。
私は、塾の宿題を「やることリスト」に書き起こし、勉強のスケジューリングにまで手を出すサポーターと化していった。娘の時間を私の安心のために設計していたのだ。
友達と遊ぶことすら計画的でなければならない、という謎の使命感が家の中で幅を利かせていく。
あらゆる経験を「娘の成長のため」と信じて生活していた。
笑ってしまう。何をやっているんだ。
5.正解とは
小学校3年生に上がり、生活は一気に忙しくなっていった。
そんなある日、塾の宿題が終わっていないことがあった。もう塾に行く時間だというのに、娘は宿題を最後までやり続けた。当然、塾には遅刻してしまう。
「早くしなさい。遅刻はだらしがないから。」
そう言いながら、私は娘を急かした。
いかにも真面目な母親が言いそうな
もっともらしい言葉で娘に詰め寄っていたのだ。だって、それが私の正義だったから。
確かに、遅刻は良くない。けれど、塾を遅刻したって、満足いくまで、取り組ませてあげたって良かったんだ。
その選択肢を私は一度も思い付かなかった。
娘のためと思って言っていたつもりだったが、実のところ、親の私が周りからどう思われるか。
そちらの方が気になっていたのだろうなあ。
子どもの正解と、母親の正解。その間に開きがあればあるほど、生きることは、きっと大変になる。
6.ごめんなさい
小学4年生になると、塾の科目に、理科と社会も加わる。内容も難しくなり、通塾の日数も増えた。
私は当然のように、塾の宿題を把握し、効率的な宿題のスケジュールを組んでいた。それに沿って学習を進めて行く娘は、私にとって非常に優等生だった。
いつの間にか、我が家の時間も会話も判断基準も全てが塾を中心に回るようになっていた。
真面目にスケジュールをこなしていた娘は、塾の成績優秀者一覧に、載るようになってくる。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
娘が。私の娘が、ここにいる。
心の中は得も言われぬ高揚感に包まれた。
娘の努力の結果を
私はまるで自分の手柄のように、横から、かっさらっていたのだ。
悪い点数を取り、偏差値が下がると、子どもが自ら私に言ってきた。
「ごめんなさい」
そんなことを言わせているのに、それでも私は気付かない。娘の心の動きに。
大丈夫。またママと一緒に頑張れば、すぐに成績は上がる。と私は娘と自分に言い聞かせる。
私のスケジュール通りに進む娘は多少の変動はあるものの、相変わらず、成績優秀者一覧に度々載って私を安心させてくれていた。
7.何かが違う
小学5年生になり、塾での勉強は佳境を迎える。中学受験でもっとも大事な1年と言われる学年だ。
ところが、夏期講習が始まる頃になると娘の様子の何かが違う。うまく説明できないが、肌で感じる違和感があった。
それでも、毎日はいつも通りに過ぎていく。
気付いちゃいけないやつだと思っていたのかもしれない。
学校から戻って宿題を済ませ、塾の宿題を確認してみると
「まだ終わっていない」と言う。
終わらせてないと注意されるから、と宿題をやり始める。
そんなことが一度ではなく、何度も続くようになった。
当然、私は注意をする。いや、そんな生ぬるい言葉では許されないほど怒ったのだ。
「何故、やらないの?」
「何度言えば分かるの?」
私の声が、家中に響き渡る。
そんなことが何週間か続いた後、娘の様子が明らかにおかしい日がやってきた。
塾の時間になると眠ってしまうようになったのだ。
声をかけても、肩を揺すっても、起きない。
行きたくないとも、休みたいとも言わない。
ただ、動かない。
それと同時に、私への従順な態度も180°変わっていった。
8.塾を辞めたい
小5の秋、娘が塾をやめたいと言い出した。そもそも勉強をする時間になると動かなくなっていた。寝てしまうのだ。
やめよう。
塾をやめるということは中学受験をやめるということだ。
心と体が一番大事だと分かっていても、全てを断ち切ってしまう勇気が私にはなかった。
せめて蜘蛛の糸ほどの何かを残しておきたいという気持ちも少なからずあった。
最善の道を見つけるために相談した塾から
算数はこれからも必要になるから、塾の同じ系列の個別指導塾で算数だけ週一回通うのはどうか、と提案してもらった。
ホッとしてる。この期に及んで、まだ損得勘定をしている。
今まで使った時間と労力を手放すのは惜しい。と感じていたのか。
そう気付いていたのかどうかさえ、今となっては覚えていない。
塾の時間が激減し、娘は週末に沢山遊べるようになった。
けれど、娘の中で私へのわだかまりが消えたわけではなかった。
私との会話は最低限に押さえられていたのだ。冷ややかな目で見る時すらあった。
そんな空気を感じ取った夫は
娘と意識的に時間を過ごすようになった。
学校の自主学習の課題を、夫と二人で進めていた。
テーマを決めてサイクリングをしながら、図書館を巡ったり、公園の植物を撮影したりする。それが習慣になっていった。
クールな自転車で走る時間は、二人にとって気持ちが良いものだったようで
楽しく自主学習に取り組んでいた。
そんな娘の様子を私は少し距離を置いて見ていた。
小学校の保護者面談で担任の先生に、塾は疲れてしまったこと、今は元気になるために、自主学習を外遊びと組み合わせていることを話すと、先生はこうおっしゃった。
「とても良く出来ています。
外に出かけて題材を見つけるというのは、小学生だからこそできるんです。
一石二鳥、いえ、それ以上ですね。」
私は自分の視野の狭さ、価値観の狭さを思い知った。子どもが小学5年生になって、私はようやく理解できた。
9.もう一度
本当は眠くて学校すら行く気力がない日も多かったが
毎朝、夫と私が交代で登校に付き合った。
特に夫は休日もなるべく外へ娘を連れ出していた。
少しずつ家族が元気を取り戻しつつあった年末
夫が、とある私立中学の学校公開を見に行かないか?
と娘を誘ってみたのだ。
娘の返事は、
「たまにはそれも良いかもね。」だった。
もう自分には関係ないと思っていた中学受験だったが、この日のお出かけは娘にとって衝撃的な体験になった。
修学旅行は海外、楽しそうな授業。可愛い制服。
公立小学校しか知らない娘の度肝を抜く内容で、世界が一気に広がったのだ。
学校公開から帰って来た娘が私たちに
「ママの志望校じゃなくて、自分で選んだ学校を受けたい。 もう一度、塾に行きたい。」
と、言ったのだ。
当時、受験校を選んでいたのは私だった。娘の意見ではなかった。
時期は年末。2月には新小6が始まる。悠長に考えている時間はない。すぐに塾に相談した。
「5年生後半のブランクは、非常に痛いですが 頑張りましょう。」
こうして、我が家の中学受験は再開した。
10.現実
心機一転。
けれど11歳。そう簡単に気持ちは切り替わらない。
中学受験は、そんなに甘い物ではない。やらない子は下がる。どんどん差が開く。
集団塾と個別塾を併用し、娘が無理なく勉強できる環境で進めていった。
娘は笑っている。
前より、ずっと。
なのに私は、下がっていく偏差値を見るたびに、心のどこかで焦っていた。
勉強量は以前の半分以下になり、偏差値は10ほど下がった。
模試の度に記入する志望校(仮)の合格判定欄にEが増えていく。
イライラしないふりをするのは苦行だった。
それでも年末辺りから過去問がスタートする。
そうなってくると、いよいよ決めなければいけないことが出来てくるのだ。
11.志望校
志望校は最後まで決まらなかった。
「ママがここに行けって言ったから。」
これだけは言わせてはいけない。娘の人生なんだから。
私の目標はそれだけ。
親の希望なんて、くそ食らえだ。同じ轍は踏まない。そう決めた。
娘の持ち偏差値と通学距離、校風。いくつかの候補から娘が志望校を決めた。
我が家は大学付属を選ばなかった。偏差値が高すぎるという現実もあったが、将来の選択肢を狭めたくなかったというのが大きな理由だ。
模試で合格率が高くても、過去問になると全く歯が立たない学校があった。問題との相性というものだ。
12.受験
志望校が決まれば、日程は私がパズルのように組んでいった。
昨今では珍しい1月受験なしで
東京都、神奈川県の中学受験スタート日が 娘の初日となった。
2月1日の学校は集団面接もあるため、お弁当持参で 14時まで。
力の限り頑張って!塾の先生の言葉だ。本当に大人はもうそれしか言えることがない。
こちらの学校は、偏差値だけで言ったら合格圏内だったが
過去問では問題次第で点数にバラツキがあり、五分五分といったところ。
子どもの緊張しているのが、とても伝わってくる。
頑張れ。
1校目が終わると、午後受験の2校目へと移動した。午後も4教科。1校目の面接も合わせれば、娘はもうヘトヘトだった。
最初に受けた学校は、得意の国語の物語文が何にも頭に入って来ず焦ってしまい、全く出来なかったと言っていた。
こういうことがあるから、みんな、1月受験をするのだろう。とその時気付いた。
緊張に慣れるために。
やはり、模試とは違うんだ
13.合否
当時でもネットで合格発表だ。
初日の結果は、翌朝のWeb発表と、当日夜に同じくWebにての発表だった。
娘は疲れていたため、夜の9時には夢の中。
親だけで発表を見た。
合格
良かった。
まずは私立進学が決定した。
受験2日目。
発表のあった一校が受かっていたことを知って、娘はホッとしていた。
さて、2日目は本命の二校。昨日に増して緊張していた。
私は一度帰宅し昨日の午前受験の合否をオンラインにてチェックする。
なかなかサイトが繋がらない。
やっと開いたところ、不合格だった。
正直、落ちると思ってなかった。
いや、昨日、出来なかったとは聞いていたけれど、いつも合格率が悪くなかったので悔しい。
これが相性というものなのだろう。
夫が仕事を休んで二日目の午後受験の学校へ付き添った。
途中途中で、夫がLINEにて状況を知らせてくる。
初日のもう一校の結果を伝えたところ
「そっか。ダメだったか…」と言う返事だったそうだ。
あまりダメージはないようだった。
娘は二日目の午後受験校の試験会場から出て来るなり
夫に小さな声でこう言ったそうだ。
「国語、完璧。
問題文が面白く夢中で読んだ。続きを読みたい。」
国語で高得点を取る時のパターンだ。
この日の結果は、どちらも当日の夜に発表される。
夜8時。
午前入試の中学の発表。
結果は不合格。
どんより。
暗い空気が家の中を駆け巡る。
娘は泣きながら寝てしまった。
夜の10時に午後入試の中学の発表。
夫と、画面をクリックすれば良いだけの携帯を見つめる。 怖くて見られない。
えいっ、と指を動かす。
『合格おめでとうございます』
おめでとう。
慌てて娘を起こし、携帯を見せたが
何のことか頭が回らないようだった。
のそのそと寝ぼけ眼の娘が起きてきた。
受かったの?受かったの??
本当?行けるの?
そうだよ。良かったね。本当におめでとう。
娘の中ではもう受験は終わりにしたいようだったが
これからの6年、嫌なこともあるだろう。
その時にもう一度、あの中学を受けていたら違っていたかもしれない。
なんて思いをしないで済むように予定通り残りの試験を受けることにした。
結果は不合格だった。
けれど、良いんだ。これで。
合格した学校が子どもに合う学校なんだ。
我が家の中学受験が終わった。
14.中学受験を経て私立中高一貫女子校を卒業した我が子
4月、真新しい制服に袖を通し、美しい校舎や講堂
これから知り合う級友たち。
どれもこれも、輝かしい未来を予感させるものだった。
そして実際、その期待が裏切られることはなかった。
娘の優等生とは言えない性格を、周りの友人たちや先生方が受け入れてくれたことが、我が家には最大のラッキーだった。
娘は美術部と文芸部を掛け持ちし、毎日楽しそうに、それでいてのんびりと過ごしていた。
読書感想文が学内冊子に掲載され
美術部で描いた油絵が校内に展示された。
中学受験の頃には見えなかった「好き」が、少しずつ形になっていった。
私はというと、相変わらず成績について口うるさく言っていたけれど、明らかに穏やかになっていた。
私は、娘が受験することすらできなかった私の志望校を思い出すこともなかったのだ。
六年間を振り返る今なら分かる。
合格した学校が合う学校というのは、娘にはぴったり当てはまった。
それだけ十分な出会いが、この学校にはあったのだ。
これは受験をしなければ得られなかった結果だと思っている。
成績や点数だけでは測れない、人間の土台の部分を、娘は紡いでいた。
高校受験がなく、中学生時代を穏やかな環境で過ごせたことは、娘にとっても私にとっても大切だったと実感している。それは日常生活に直結しているからだ。
そして高校になると、娘には、二つ目の受験が、音を立てて迫ってくるのであった。
大学受験編
15.進路
娘の高校は2年生から文理別のクラス分けになる。
そのため、1年生の秋には進路を固め選択授業を提出しなければならない。
中学に進学してからの様子を見ていて感じたのは、この子はいわゆる机に向かう勉強よりも、絵を描く方が好きなんじゃないか、ということ。
しかし、私がそれを言わせる方向に動いてはダメだ。
ましてや、それを口に出してしまうのは絶対に違う。
中学受験とは決定的に違うこと。
それは子供の年齢だ。
自分で考えて自分で選ばなければ、自分で自分の人生に責任を取れない。
と 私は過去の経験で痛いほど分かっていた。
そんな母親の気持ちを知らない娘の最初の結論は
「社会が好きだから歴史を学べる学部に行きたい。」
であった。
16.やっぱり
私立文系。
高校1年生の担任の先生に史学科に進むための授業の選択を提出して
これで大丈夫だ。とお墨付きを貰う。
後から知ったが
担任の先生からは「絵を描くことを趣味にするのは良い選択だと思う。」
と言われたらしい。
まだ15歳だ。そんなことを大人に言われたら、もう、本当の気持ちは言えないだろう。
高校2年生になり、のんびりと、そして、なんとなく日常が過ぎて行く中、突然、娘の中で何かが弾けたように自分の思いが言葉になる日が来た。
「やっぱり、私、美術の道に進みたい。」
「日本史は好きだし、本当にその勉強を大学でしたいと思っていたけれど
本当はもっとやりたいことがある
ごめんなさい
言えなくて今になってしまった
ごめんなさい。」
やっと本人の口から本心が溢れて出て来た。
これを逃してはいけない。すぐに動かねば。
美大への進学に画塾は必須だ。無駄になっても良いと、以前から、いくつか美大予備校をピックアップしていた。
一度、そちらに進み始めたら、もう戻ることは叶わない。
その覚悟があるか、確認が必要だと感じていた。そして、娘の返事は
「後悔しない。」
そうなったら、親ができることは限られてくる。
お金と忍耐、そして子供を信じること。
こうして再び、未知の世界の受験へ家族で出航することになった。
17.美大受験について
高2の夏に、ある美大予備校を見つけた。すでに4月からの席は満杯だったが、土日コースなら入れるという。
見学の際、娘が教室内を見ている間、私は先生に「娘に美大を目指せる素質はあるか」とストレートに伺った。
「十分あります」という返事を貰ったとき、本当に安心した。娘のやりたいことと素質が合致したのだ、と。
娘もこぢんまりとした雰囲気が気に入ったようで、そこへお世話になることになった。我が家は完全に美大受験へ舵を切った。
18.美大予備校
まだ受験生ではない。それでも、娘の生活は確実に変わっていった。
週末が消えた。
朝から晩まで画塾にいて、気づけば一日が終わっている。
同じ目標と感性を持つ仲間たち。
娘は、その空気に惹かれていった。
美大予備校には「講評」という時間がある。
壁に棚があり、そこに作品が並べられていく。講評棚というのだそうだ。
作品は左上から点数順に並べられ、点数が低ければ床に直置きだ。未完成は0点で更に右に追いやられる
常に上段に並ぶ固定の級友。床置きの娘の作品。可視化のされ方はかつての偏差値と同じだ。
半年ほど経った頃。
上の学年の受験が終わり、娘たちの代が受験生コースに繰り上がる。
通塾は土日だけではなくなった。
平日、放課後は毎日画塾。日曜は学科と実技。
帰宅は夜11時を過ぎる。そこから、鉛筆を削る。電動ではない。ナイフで一本ずつ、芯を尖らせる。その時間が、そのまま睡眠時間を削っていく。
19.高校3年生
高3になり、娘は総合型選抜を受けると言い出した。
試験は一次二次とあり、娘は一次は通過したが、二次で不合格となった。
私は一次を通過した娘を誇りに思っていた。
しかし娘がその入試を選んだ理由を、ある日、悪びれもなく日常会話の中で実は…と告白され知ることとなる。
単純に「早く終わらせたかった」からだと言うのだ。
恐らく、中学受験ママだった頃の私だったら見抜けていたのではないか。
この年、残された道はもう一般試験のみだった。
20.現役時の結果
「最初に憧れた大学に行きたい。それ以外は行かない」
ちなみに推薦で受けた大学ではない。
滑り止めさえ受けないと言い出したのだ。
娘には話さなかったが、実は夫と私は、浪人を覚悟していた。だから、その決断を尊重もしたし、覚悟もした。
Webでの合格発表を、娘は、一人では見られないと言った。
怖いから。
画塾で、友達と見ることにしたらしい。
結果は、全て不合格。
美大の受験は、スーツケースで行く。沢山の画材を詰め込んで。
長時間に及ぶ実技試験を受けに行く娘を、私は毎日見ていたのだ。
覚悟をしていたって結果がほしくなってしまう。
それなのに、全て不合格だなんて。
帰宅した娘は泣きながら伝えてきた。
覚悟していたはずなのに。また、同じ味がした。
あの頃のヒステリーが、私の口の奥に残っていた。
私は叫んだ。
「今からでも受けられる大学を探しなさい」
「現役で行けるなら、どこだっていいでしょう」
娘のための言葉じゃない。私は娘がそれで折れると思ったけれど違った。
「どうしても、あの大学に行きたい」
「もう一年、やらせてください」
そう言って、頭を下げた。
私はその下げた頭を見下ろしていた。
下げるべきなのは、娘の頭ではないことだけは分かっていた。
21.翌年の受験を目指して
2月が終わり、追加受験をしないと決めた娘の一浪生活が始まった。
高校の卒業式もあった。謝恩会にも参加した。もう次の場所が決まっていた同級生たちは輝いて見えた。
さて、5月になり大学入試の得点開示で分かったことは、単純だった。
デザインは通用している。
足りないのは、英語とデッサン。
英語の塾を追加し、再びダブルスクール生活となった。
娘は、淡々とやっていた。デッサンも、目に見えて上達していた。
この年は滑り止めを受け、無事、合格。しかも特待生だった。
本命の試験日は、雪予報。
急遽、前日に二人で近くのホテルに泊まることに。
翌朝、スーツケースを引きながら雪を踏みしめて歩いていく娘の背中を見送っていたのだ。
去年より、ちゃんと準備している。今年は違う。そう思いたかった。
22.結果
今回も本命校は全滅だった。
正確には志望校の志望していない学科が一つだけ補欠合格だった。
ところが、せっかく受かっているのに、魅力は感じていないと言うのだ。
「そこでいいじゃない!」
自分の声が耳の奥でキャンキャンと響く。
言いながら分かっていた。
去年と同じことを、また繰り返している。
私自身が同じ事を。
娘の返事は「そこは絶対に嫌だ」
そして、続けた。
「ママがどうしてもって言うなら、行くけど」
「それでママが怒鳴るのが終わるなら」
夫が口を開いた。
「行きたくないなら、行かなくていい」
「もう一年やればいい。ただし、次で終わりだ」
その言葉に、娘はまた頭を下げた。
二年連続で、同じ光景だった。
去年と同じだけれど同じじゃない。
23.二浪の春
画塾は、高2の時からお世話になっているところに、引き続きお願いすることになった。
同じ時期に入塾した仲間は、合格するか志望校を変えるかして、もう誰も残っていなかった。娘だけが同じ場所に残っていた。
どの大学のどの学科でも受かった所に入学する。
さすがに、そう条件を付けた。
「大学が全てじゃない。あの子がこれだと思うまで付き合ってやろうよ」
という夫の言葉。その通りだ。
試験初日のデッサンが終わり、娘は思ったそうだ。「悪くない」と。
すると、帰り際、知らない受験生から声をかけられたらしい。
「あなたのデッサン。すごくいい」
娘の心を満たすには十分すぎるほどの言葉だった。
一週間、ホテルに泊まり続け、絵を描き続けた。
本命校の試験の初日だったと思う。
1月に受けた滑り止め二校の結果が出たのだ。一つは合格。もう一つは補欠一桁代序盤。
良かった。本当におめでとう。
大学生になることは決まった。
24.発表
合否は全ての学科が同時に発表される。
試験が終わってから二週間ほど待たされる。
毎日ヘトヘトになって、駅前のスーパーでうどんを食べていたホテル生活が、早くも懐かしくなってきた頃だ。
今年も怖くて見られないかもしれない。
発表の時間になったけれど急かすようなことは言わずに待っていた。
すると部屋から娘が飛び出てきた。
「受かったよ」
「第一志望」
泣いていた。笑顔もある。去年とは違う。
第一志望の大学に通うことが決まった。
25.二つの受験を抜けた先
「受かったよ」
あの一言で、終わった。
この二年の間に、成人式も母校の二十歳の集いも終わっていた。
欠席したのだ。共通テストの直前だったから。
振り袖も着ていない。写真もない。
二年。
時間は、確実に過ぎていた。
二浪して志望校に合格。今、娘は楽しそうに大学に通っている。
それを見ていると、あの選択は正しかったと思ってしまう。
でも、それは結果論だ。
美大の入試は、大学ごとに傾向が違う。
回数を重ねるほど、対策が“はまる”確率が上がる。
それが1回目なのか、3回目なのか。
やってみないと分からない。
娘は三回とも、同じ大学を受けた。
そのたびに、頭を下げていた。
私が同じ年齢の頃、自分の進路のために頭を下げたことがあっただろうか。
自分で選ぶということは、失敗も引き受けるということだ。
人生全体で見れば、二年なんて誤差のような時間だ。
でも、その二年を自分で選んだ道で埋められる人は、そう多くない。
合格は通過点。
この先どうなるかなんて、誰にも分からない。
この合格がどう転ぶかなんて、まだ分からない。
それでも、あの二年は必要な時間だったのだろう。たぶん。
娘は、自分で道を選んだ。
私は、それを止めなかった。
それで良かったと思うだろう。
たぶん、死ぬ時に。