
【短編小説】不条理な花束
「世界は広い。だが同時に息苦しくもある」
何ひとつ飾られない白い病室。規則的に響く電子音。かつて絵描きの夢を天才に打ち砕かれ、最後の拠り所だった受験さえも冷徹な数字に拒絶された私は、すべてを諦め、伽藍洞の空白となってベッドの上にいた。世間の人々はいつでも親切な笑顔を浮かべて、こう口にする。――頑張れば必ず報われると。
悪意なき正義に踏みつぶされてきた私の前に、ある日、一房の白百合が混じった花束が無造作に置かれる。
価値を知らない者に笑顔で切り取られた花。そして、夢を殺され消えゆく私。心臓の時針が静寂に向かう中、不条理な世界の因果律を前に、私が最後に選んだ選択とは――。
数々の絶望と葛藤を経験しながら、本当の自分に気づいていく物語。
世界は広い。だが同時に息苦しくもある。
どんなに世界が美しくても、どんなに感動に満ちていたとしても、それを自身で体験できなければ意味がないむしろどこかみじめになるくらいだ。
とはいえ、私が知っている世界なんてほんの一部に過ぎない。海外旅行なんて行ったこともないし精々テレビでやっていた情報を虎視眈々と思い浮かべているだけである。どうも病室に長くいると感性に浸ってしまう。規則的に響く電子音に嫌気がさしているのか、何ひとつ飾られないこの病室に飽き飽きしているかはわからないがとにかくとっくに虚無で満たされていた。
そんな私の心をあざ笑うかのように、机の上には一変して色彩が置かれている。誰かがお見舞いにと持ってきた花束だ。それは驚くほど綺麗で、驚くほど無造作に置かれていた。この花を贈った者は、きっと親切な笑顔を浮かべていたのだろう。ご丁寧にお手紙のおまけつきだ。まあさすがにその花束の中に白百合が混じっているのには驚いたが。
本来ならこの心遣いに感謝するのだろうが、私はどうもできなかった。殺めているようにしか見えなかったのである。あの切り取られた花たちは生きていた。多くの人に見られてもしかしたら誰かが愛した花かもしれないのになんの躊躇もなく切り取られ挙句の果てに無造作に置かれたのだ。綺麗な花びらも、心地よい香りも、その価値を知らない者にとってはただの消費物でしかない。笑顔のまま、平然と命を殺していく。その残酷なまでの無邪気さを見つめていると、どうしても思い出してしまう。私がここに来る前、つまりまだ世界を五感で感じるチャンスがあった時のことだ。苦悩はあっただがその苦悩さえも愛おしいそんな純粋な考えを持っていながら、世界のほんの一部を歩き回っていた頃、私もあの花束と同じように、私の価値を何ひとつ知らない誰かによって、笑顔のまま踏み潰されたことがあった――。
かつて私には夢があった。私は絵を描くのが幼いころから好きだった。絵はいい、ありえない風景も、感情をどんなにぶつけても絵は許してくれる。私はそんな絵に私は恋焦がれていた。いつか多くの人々の心に残る作品を作りたい。そんな事を思いながら日々絵を描いていた。十五の時私は芸術科がある高校に進学した。そこは、私と同じように絵を愛し、夢を抱いた若者が集まる場所だった。誰もが真剣で、誰もが純粋だった。私もまた、自分の描く世界がいつか誰かの心を震わせると信じて、毎日絵の具まみれになってキャンバスに向かっていた。そう、初めは楽しかった。
時間がたつにつれて焦りが生まれていた。気づいてしまったのだ、天才という存在に、自分がただの凡人に過ぎないという現実に。天才たちが描く線はまるで生命線をなぞるかのように繊細で、筆先には私の知らない感情が宿っていた。私が何日も徹夜して、血を吐くような思いで計算し尽くした構図や色彩を、天才たちはたった一枚のスケッチで簡単に超えてくる。絵を許し、絵に焦がれていたはずの私は、無意識にキャンパスに何度も白を塗り足していた。
せめて、せめて絵以外の世界ならと私は考え大学受験に舵を切った。そこでも死ぬと思うほど努力した。何度も模試の結果に心を壊されかけたがそれでも必死にしがみついた。
でも、私は負けた。合格発表の画面に、私の番号はなかった。そこにあったのは、ただの空白だった。まるで、あの日のキャンパスのように。
外野の人々は、いつでも親切な笑顔を浮かべて、こう口にする。 ――頑張れば必ず報われる。結果が出ないのは、努力の方向や量が間違っているからだ、と。それはとても正しく、とても美しい正論である。異論の余地は何一つない、だからこそ苦しい私が抱いた感情が正義に押し殺される。彼らは、願望器にもなりうるが時に凶器にもなる言葉で、他人の心を切り刻んでいることに気がつかない。価値を知ろうともしない花を、笑顔で根元から切り取るように、彼らは私の努力を「足りないもの」として躊躇なく踏み潰した。世界には、どれだけ血を吐くような努力を重ねても、天才のほんの一足飛びに追いつけない境界線が存在する。それは単なる事実だ。 しかし、外野の人間にとって、その『事実』は存在しないことになっていた。彼らにとって世界は、努力すれば誰もが救われる、都合の良い綺麗な場所でなければならなかったからだ。
私は彼らの正義に殺された。
そうして私の心は空白になった。
今では、病に侵されている分、私そのものがなくなろうとしている。なくなれば、私の抱いた感情も、経験も、葛藤も、全て波紋のようにきえてなくなる。でもこれは仕方ない、人は本当の意味で人々は分かち合うことはできない、自分を愛せるのは自分だけだし自分を本当の意味で殺せるのは自分だけなのだから。人が皆花のように咲いて枯れて朽ちることはできない。これは人が何かを求める限り、そしてこの世界が公平ではない限り、決して避けられない因果律のようなものなのだろう。私は、自分の価値を何ひとつ知らない誰かによって、笑顔のまま踏み潰された。そして目の前の白百合もまた、笑顔の誰かによって躊躇なく切り取られ、ここに置かれた。
どちらも、この不条理な世界の犠牲者だ。
しかし私は後悔していない、不条理な世界に絶望して喘いでも自分という存在を最後まで失わなかったからである。世界がどれほど残酷であっても、自分を本当の意味で殺せるのは自分だけだ。外野の正義に、私の終わりの瞬間まで支配させてやるつもりはない。
私は微かな力で机に無造作に置かれた花束を引き寄せた。様々な花の香りの中でも白百合が強く鼻腔をくすぐった。私はその白い花びらに、静かにキスをした。私と同じように切り取られた命への、それが最初で最後の、私なりの心遣いだった。
私の抱いた感情も、経験も、葛藤も、全てはこれでおしまいだ。
心臓の時針が今静寂に向かおうとしているのがわかる。
そっと白い天井に向かって手を伸ばす、子供の時星を見て夜空に手を伸ばしたあの日のように、純粋な気持ちがまだ残っていたみたいだ。それがわかると私は静かに微笑んだ。
何も飾られない病室で私の眼だけが輝きを放っていた。