
入院中の男:その3
気が変わったと言ったのはちゃんと担当に伝わったらしい。誰も迎えに来なかった。
もう用意済みだったからとスウェットの上下が届いた。それが戦利品だった。何と戦ったのかはよく分からないがとにかくこれだけは手に入れたのだ。
もう一つ手に入れたいものがあった。スマホだ。
電話なんかしませんよ、SNSも一切しません、ゲームがやりたいだけなんすよと頼み続けて、ようやく中古のゲーム機を買って貰った。ソフトも2つ付けてくれた。間もなく次の手術の話があって、書類を持ってスーツが来た。男は出された書類全てに内容を確かめもせずにサインした。
男が手術を受けている間に下には誰かが入って来ていて男と入れ代わりに上に行った。
それからも色々なやつが来た。色々と言っても似たような、不景気そうな顔をした男ばかりだった。子供はもちろん年のいったのも来ない。女も来ない。ここに来るまでどこで何をしていたか、人それぞれではあるだろうが、共通しているのは多額の借金を背負っていることだろう。そうでなくてこんなところに来るはずがない。女は他に売るものがある。だから男ばかりなのだ。
あの中年のような話し好きなのは稀でみんな無口で挨拶もろくに返さず、ことに手術後は部屋にこもりきりでいつ出ていったのかも分からない。ドアを開閉する音や足音や話し声で誰か来たようだとかいなくなったようだと思うだけだ。
他に刺激がないせいか音に敏感になって、足音だけで若そうだとか結構年を食っていそうだとか、手術後の回復がよさそうだとか悪そうだとかということがわかるようになった。
わかるといっても自分でそう思うだけで、確かなのはみんな自分の足で歩いて来て歩いて出て行くということだけだった。無理に引きずられて来るのでもない。眠らされて運ばれるのでもない。説き伏せられたにしろ追い詰められたにしろ納得してここに来て、回復するまでの期間に差はあってもいずれは出て行く。
ある日通路から女の声が聞こえた。看護師だろうと思っていたら滞在者で、次の日の朝、朝食を取りに出たとき通路でちらっと姿を見かけた。背が低く小太りで可愛くもなかったがおばさんではなく若そうだった。
みんながそうであるようにその子も数日後にいなくなり、また数日後に戻って来た。戻ってしばらくは部屋にこもっているのが普通だがその子はその日の夕方にはもう夕食を取りに自分で歩いて部屋から出て来た。
前開きの病衣ではなく普通のパジャマを着て点滴スタンドを引きずってもいずパジャマの間からドレーンの管が伸びていたりもせず、けれども足取りは少しふらついて、ワゴンに頼るように寄りかかっていた。
見ると目に眼帯をしていた。
「大丈夫?」男は久し振りにやさしげな声を出し「まだ慣れなくて」女は言った。
少し考えて、気がついた。角膜か。
それから女と話すのが毎日の楽しみになった。好意を持ったわけではない。ただ退屈だったのだ。滞在者同士の会話は禁止されてはいるが、多少のことは黙認されている。話が長引くと天井から部屋に戻ってくださいというアナウンスが流れることもあったが、それだけで特にペナルティもなかった。
女はアイドルグループのファンでグッズを部屋に持ち込んでいた。TVにそのグループが出るときは前の日から楽しみにしていた。男はそんなものに少しも興味はなかったが話は聞いてやった。
女は以前薬の治験モニターをしていたらしい。湿布薬のモニターをしてかぶれ、途中でやめたらお金がもらえないから我慢して続けたら、湿布の跡が痣のように四角く残って今でも取れないのだと言いながら、パジャマの襟元を少し広げて男に見せた。誘ってるのかと思ったが、女はそのまま話を続けた。
ここは個室ばかりだけれどモニターのときは2人部屋で、医者は湿布を剥がしてまた貼るだけで何も言ってくれなかったけれど、同室のおばさんはかわいそうにと言ってくれた。こういうところもあるらしいよと教えてくれたのもそのおばさんで、連絡先を交換して、だいぶ経ってからかかって来て、ちょうどまたモニターやろうかと思っていたときだった。
「ちょこちょこモニターやるよりも、これなら一回でまとまったお金になるからって言われてそうだなあと思って、悩んだけどやることにしたの」と女は言い「腎臓は嫌だったの、肝臓も。だって傷跡残るでしょ。それでこっちにしたの」眼帯で隠れた方の目を指差した。
「目だったら片方見えたらなんとかなるし。両方見える人が1人いて全然見える人が1人いるのと、片方だけ見える人が2人いるのとどっちがいいと思う?片方だけ見える人が2人の方がいいでしょ、絶対そうでしょ。わたしがあげなかったらその人はずっと見えないままなのよ、世界は真っ暗なままなの、でもわたしがあげたら見えるようになる。わたしも見えるしその人も見える、空も見えるし花も見える、好きな人の顔も見える。それってすごいことだなあと思って。でしょ?違う?」と女は言い「うんすごいね」と男は言った。腹の中ではイラついて、あーこいつ殴りてえ、髪の毛掴んで引きずり回して肉団子みたいな顔にしてやりてえという衝動が湧き上がっていた。だがそれも衝動と言うにはずいぶん弱くすぐにどこかに消え去った。
間もなく女は退院し、入れ替わりに中年が入って来た。顔を見て驚いた。上からここに移されたばかりのころに会ったあの中年だった。
向こうも男を覚えていて「また会うなんてねえ。すごい偶然」と言った。まさかあれからずっとここにいるとは思わないのだろう。男もそれは言いたくなかった。
「そっすね。2年振りくらいっすか」
男は言った。2年の間に中年はずいぶん老け込んで、白髪もかなり増えていた。
「足治んなかったの」
「なんか曲がったまま固まっちゃったみたいで。再手術したら金かかるし」
「かかるだろうねえ」
「今度はあれすか、肝臓すか、それとも」男は目を指し「え、何、目?あ、角膜?」中年は言った。
「いたっすよ、女の子で。すげえブスだったっすけど。人の役に立てるからうれしいみたいなこと言ってたっすけど、頭おかしくなってんすかね」
「そうやって自分を納得させてんじゃないの。実際役には立ってるし」
「向こうは感謝してくれてんすかね」
「してんじゃないの、ちょっとくらいは」
「ビジター様同士の会話は控えて下さい。部屋に戻って下さい」天井から声がした。黒縁メガネの声だった。他のスタッフは入れ替わったが黒縁メガネだけは辞めずにいた。
「うるせえ。おまえもオレらに感謝しろ。誰のお陰で高い給料貰えてんだ」男は受付に向かって怒鳴った。
「ここ給料いいの」中年が言った。
「知らないけどいいんじゃないすか。でなきゃ働こうと思わなくないすか、こんなとこで」
「なんか弱みでも握られちゃってるんじゃないの」
「かもですね」
その日はそれで部屋に戻り、次の日また話をした。
普通なら入って2日か3日後には上に行く。けれど中年は1週間経ってもまだ下にいた。スマホを取り上げられて退屈だと言うからゲーム機を貸してやった。
「いいの」
「とっくにクリアしたっすよ。やり方わかんなかったら聞いて下さい」
「そうさしてもらうわ」中年は言ったが一度も聞いて来なかった。
「つまんないよね、ネットに接続出来ないとね。やっぱスマホゲームのが好きだね、オレは」
「エロゲっすか」
「いやまあいろいろ。10年くらい前だけどハマっちゃったのがあって、ランキング入ったこともあってさ。サ終になっちゃったけど」
「サ終は寂しいっすよね」
「寂しいよね」言いながら中年は指を口元に当てて煙草を吸う真似をして「あー吸いたい」と言った。
「検査の数値がよくなくてね。酒と煙草やめろって言われてたんだけど、やめらんなくて。ここに来てからは否応なし。酒はまだ我慢できるけど煙草はツライね」
「数値よくなるの待ちっすか。よくなんなかったらどうなるんすか」
「うちに帰してくれりゃいいけど、それはそれでアレだなあ。腕落とされちゃうかもだから」
「怖。何したんすか一体」
「いや何も。前ので済んだつもりで普通に暮してたら急に呼び出し喰らって、まだ半分残ってるから払えとか言われてね。放りっぱなしにしてたから利息ついて倍になってるって。腕落とすかここ来るかどっちか選べって言われちゃって」
「腕落として金になるっすか」
「傷害保険かけといて落とすのよ。自分で」
「自分でですか。キツいっすね」
「キツいよねえ。で、それはちょっとって言ったのよ、タコじゃあるまいし、腕なんか切ったらもう生えて来ないからって、そしたらじゃあもっかい病院入るかって言われちゃってね。肝臓なら生えて来るからって」
「オレも似たようなこと言われたなあ。誰すかそいつ。もしかしてお笑いコンビの〇〇に似てます?」
「いや全然。どっちかって言うと✕✕に似てる」
「じゃあ違うやつかあ」
「違うやつなんだろうねえ」
「2年も放っといて急に返せとか怪しくないすか。今度で本当にチャラになるんすか。1年もしたらまたまだ残ってたとか言い出すんじゃないすか」
「言われたってねえ。腎臓はもう取られちゃってるし。まさか両方は取らないでしょ」
「肝臓があるじゃないすか」
「実はさ、おれもそこんとこが気になって、ここに来る前ネットでいろいろ検索してみたのよ。再生するからって2回も3回もやられたらたまったもんじゃないと思ってさ。そしたらあれだね、再生するって言うのは厳密には正しくないんだってね」
「そうなんすか」
「そうなんだよ。例えば右半分を切って左半分を残したとして、そしたらその半分が、こう、むくむくっと分裂して増えて、見た目元通りになることはなるけど、なんていうか、完全に元通りってわけでもなくて、残った方が倍に増えただけなんだって」
「どう違うんすか」
「よく分かんないけどなんか血管の位置とかが微妙に違うとか何とかで、手術が難しくなるとかって。だから手術は1回きりで2回も3回もは出来ないんだって。だからその点だけは安心、ていうかなんていうか」
「オレ取られたっすよ。2回」
「まさか」
「いや本当に。本当は2回目は腎臓の予定だったっすけど、なんかの都合でまた肝臓になっちゃって」
男はスウェットシャツの裾を捲りあげて中年に腹を見せた。こればかり着ているからすっかり色褪せ手首のリブは伸びて糸がほつれかけている。
「こっちが1回目でこっち2回目の跡っす。こっちはくっついちゃってどっちがどっちか分かんなくなっちゃってるっすけど」
「フキュキュウキュウシジュツだと跡はそんなに残らないはずだけどね。おれはほら」
中年も着ていたシャツの裾をズボンから引きずり出して男に腹を見せた。腎臓を取られた跡があるにはあるが、少し盛り上がり硬そうになっているだけで膨れたりはしていず、色も生々しい赤色ではなく回りの肌より少し黒ずんでいるくらいでそんなには目立たない。
「すごいね。本当にタコみたいだね」「体質らしいっす。あんまり掻くなとは言われてるんすけどね」
「立ち話は控えて下さい。部屋に戻って下さい」
天井から声がしたが2人は無視して話を続けた。
「本当に2回。難しいって書いてあったけど」
「だってあれじゃないすか、難しいってことは誰かやったやつがいるってことじゃないすか。やってもないのに難しいかどうかなんて分かんないし。現にオレやってるし」
「2回もやって体調どうなの」
「ちょっとダルいっちゃダルいっすけど、まあ、特に。毎日ダラダラしてるだけだから」男はもう、ずっとここにいることを隠さなくなっていた。通路を歩き回れるほどに回復しているのにまだいるのだから隠しようもない。
「帰るとこがないんすよ。それで置いてもらってるっす」
「家族はいないの」
「養父がいるっす」
「あー養父ね」
「そんなんしたってバレたらヤバいことに変わりはないと思うんすけどね。なんか体裁整えたがりますよね、ここって」
「言い訳なんじゃないの、自分への。そんな無茶なことはしてない、ちゃんと手続き踏んでやってるって、自分に思わせたいんじゃないの」
「自己満すか」
「人間そのために生きてんじゃないの。その場しのぎのへ理屈こねて、ごまかしごまかし生きてんのよ」
「かもっすね」男は適当に相槌を打った。
「オレ手術決まったよ。明後日だって」ある日中年は言った。
「数値よくなったんすか」
「いや全然。けど向こうがさ、待てないらしいの。かなり悪化しちゃってるらしくてアレがいいのコレはイヤだの言ってる余裕ないとかで。お兄ちゃんが2回めやったばっかりでなかったらお兄ちゃんのがよかったんだろうけど。オレなんかのしかなくて気の毒だよね。大金払ってんのに」
「向こうの心配してやってるんすか。天使っすか」
「まさか。自分の心配してんだよ。状態よくないのに肝臓半分取られたら死ぬんじゃないかと思ってさ」
「人の役に立つならとか言ってなかったっすか」
「命までやるとは言ってないよ」
「じゃあどうするんすか」男は中年に顔を近づけ小声で「逃げるんすか」と言った。
「どうやって」中年は言った。「無理だろ。玄関はシャッター開くの見たことないしエレベーターは看護師に両脇挟まれてでないと乗せてもらえないし」
「ここじゃなくて上からっすよ。明日も検査あるんじゃないすか。検査台に載っちゃったら看護師も一旦そばから離れるし検査技師は別室に行ったりするし。検査室出たら階段あるからそこから飛び降りるかなんかして一階まで行けば、多分表玄関があるはずだし、外に出れば人目もあるし」
中年が本当に階段から飛び降りるられるとは思わず、からかうようなつもりで男は言った。もしも中年が本気にして逃げたとしても多分すぐに捕まるだろうが、自分が逃げるときの参考になるし、少なくとも退屈しのぎにはなるだろう。
「なんで自分は逃げないの」中年は言い「走れないんで」男は言った。
男がここに詳しいからなのか元々気が弱いのか、中年は年上だからと威張るようなことはなく、むしろ男の機嫌をうかがうような態度をとっていた。けれどこのとき、中年は、ああ、と頷くと、不意に顔つきを変え語調も変えて
「それで足をやられたのか。ここで一生飼い殺しか。肝臓取られて再生して、また取られるのか。それを延々繰り返すのか。おいタコ、このタコ野郎」と言い、笑いながら「気の毒になあ、若いのに」と続けた。自分より酷い目に遭っているやつを見つけていたぶるのが楽しくてしようがないという顔だった。
「オレがタコならそっちだってタコじゃないすか。違うとでも思ってんすか」本性出しやがった、と思いながら男は言った。「明後日は手術だ。楽しみっすよね。うれしいっすよね、人の役に立てて」
「ああうれしいよ。うれしくてたまんないよ」中年は言った。「オレは出てくぞ。手術がすんだら出てくぞ。おまえは残れ。一生ここにいればいい」
「出てって何があるんすか。楽しいことが待ってるんすか。いままで生きててなんかいいことあったっすか。なんもないっしょ。頭も悪けりゃ性格も悪い、もっと悪いヤツもいて、そういうヤツらに小馬鹿にされて利用されて、うまくやったつもりがやられて、気が付いたらどん詰まり」
「人の人生決めつけんな」
「違うのか。じゃあ言えよ。どう違うか言ってみろよ。なんでこんなとこに来るハメになったのか言ってみろよ。それともアレか、本気で人助けのためとか言うつもりか」
「ああそうだよ。人助けだよ」中年は叫んだ。「人の役に立ってんだよ。オレの肝臓で助かる人がいるんだよ。そうだろ」
奥のドアが開いて看護師が2人出て来た。受付のヤツが呼んだらしい。
男と中年は引き離されてそれぞれの部屋に入れられた。次の日は1日鍵をかけられ外に出してもらえなかった。
その次の日の朝、中年は看護師に付き添われて部屋から出て行った。数日後ストレッチャー載せられて戻っては来たものの、部屋にこもりきりで通路には一度も出て来なかった。看護師が毎日様子を見に来ているようだった。
「どしたのあのオッサン、回復遅れてんの」男が受付に行って聞いてみると「どうなんですかね」黒縁メガネは言った。
「だったら上にいた方がよかったんじゃない」
「まあそう言ったことは担当医の判断なので」
「上いると金かかるしね」
「そうかも知れませんね」
「オレあのオッサンにゲーム機貸したままになってんだけど。返してもらっといてくんない。そっちが新しいの差し入れてくれてもいいけど。それかスマホ」
「スマホはムリですね」
「そっか。じゃあ雑誌をなんか適当に。それとポテチ」
「ご要望はメモに書いてご提出下さい」
男が部屋に戻って、少年ジャンプ、ヤングマガジン、「ザ・ファブル」6〜10、ポテチのり塩、とメモ用紙に書いていると、不意に通路が騒がしくなった。エレベーターホールのドアが開く音がしそれに続いて足音が、2人や3人ではなく、次々にやって来る。足音も声も急いでいる。焦っている。「**は」「不明です」「では**を」「いやそれは」「急がないと」「ですが準備が」「それはこっちに」「いやこの方が」「とりあえず」
誰かの容態が急変したときに限らず人の出入りがあるときは該当以外の部屋のドアにはロックがかけられる。けれどもその日はそれがなかった。
ロックの音が聞こえなかっただけかと思いノブを掴んで回して見たらドアは開いた。通路に顔だけ出して見るとあの中年の部屋のドアが大きく開かれ、白衣を着たのやらスーツ姿のやら、何人ものが通路を行き交い、あるいは立ち止まって話したりどこかに電話をかけたりしている。みんな一様に昂ぶった顔をしている。
あの中年か。死んだのか。いやまだ生きてはいるのだろう。また上に運ばれるのか。いやここでなんとかしようとしているようだ。けれどこの慌てぶりはどういうことだろう。病院なのだから容態が急変した患者への対応は充分心得ているはずではないのか?
男はドアを細く開け身体を斜めにねじ込むようにして通路に出てみた。誰も男のことなど気にもしない。みんなあの中年の部屋の方ばかり見ている。奥の方に目をやるとエレベーターに続くドアが開け放されたままになっていた。願ってもないチャンスだ。待ち続けたチャンスだ。
エレベーターホールに向かおうとしたそのときに背後で大きな音がして、男は振り返った。
この2年閉じられままだった玄関が開かれている。ガラスのドアはすでに全開になり、シャッターが音を立てて上がり始めている。光が細い帯になって下から差し込んでいる。帯はだんだんに太くなる。シャッターが上がり切ると通路にまで光が満ちる。そして風。2年ぶりの外気。草の匂い。
けれどすぐに光を遮るように何か大きなものがゆっくりとやって来て止まる。
それは救急車だった。救急車はバックで内側のドアの際ギリギリまで乗り入れて止まり、後部ドアが大きく開かれ、中年が部屋から運び出されてストレッチャーごと乗せられる。ドアは閉じられ救急車は走り去る。その後を数台の車が続く。
この建物はやはり丘の麓に建てられていて、見上げると丘の上にも大勢の人が立っている。救急車が斜面を上って行くのを見守っている。下からもみんなが息を詰めて見上げている。その中を中年を乗せた救急車は上へ上へと昇って行く。空は晴れ日射しが辺りを照らしている。その光。その祈り。
やがて救急車は斜面を上り切り平らな広い道に出て、スピードを上げて走り去ったが、みんなしばらくそれぞれの場所に立ったまま、救急車が通った道を見つめていた。男もその場に立ち尽くしていた。
このどさくさに紛れて外に出て行くことは出来ただろう。けれど玄関まで走り出たところで男は動けなくなった。足が疲れたからと言うのではない。数日前中年に言った言葉が自分に返って来たのだった。
出て行って何がある。楽しいことが待ってるのか。安い給料でこき使われて、人付き合いで神経をすり減らし、たまにはいいこともなくはないが大抵はしんどいことばかり、なんとか自分をなだめすかしてごまかして、叶いもしない夢を見て、日を送るうちに年を取ってあっちこっちが痛くなり、衰えて死んで行く。
なら同じことだ、ここにいようとどこにいようと。
人間なんかみんなクズだ。オレもクズだ、そう思っていた。けれどそう思いながらもオレは他の奴らとは違うと思ってもいた。根拠のない自信。いや根拠はある。誰にとっても自分は特別な存在だ。だがそれは当人にとってそうだと言うだけの話だ。当人以外は誰もそうは思ってくれない。ごく一部の人を除いては。オレはそのごく一部ではない。いくらでも取り替えの効く、死のうが生きようがどうでもいい存在。それを思い知ったいま、何をして生きて行けばいいだろう。こんな足で。こんな身体で。苦労するのはイヤだ。馬鹿にされるのもイヤだ。
ここにいよう。ここがいい。ここならオレの居場所がある。オレを必要としている人がいる。
シャッターは再び下ろされドアは閉じられ、男は部屋に戻った。
また同じ日々が始まると思っていたら、そうではなかった。
スマホが手に入ったのだ。
中年が運び去られて数日後、検査のために上に行った。戻ると部屋の清掃が済んでいたのはいつものことだったが、棚に見慣れないボストンバッグが置いてあった。使い古して角が擦り切れていた。開けて見るとあの中年が着ていた服と下着、それにゲーム機とスマホが入っていた。充電器もあった。
「ボストンバッグあったんだけど。誰のよ。もしかしてあのオッサンの?」
受付に行って聞くと黒縁メガネは頷いた。
「検査行ったらみんなまだ興奮状態だったけど。こんなとこでもああいうことってやっぱ珍しいもんなの?あのオッサンどこに運ばれたのよ。全部取られちゃったの?そう言う約束になってたの?」
「存じません」
「そうだろうね。でアレはどうすんの。オレが貰っちゃっていいってこと?」
「ご遺族の方に確認いたしましたら不要だから処分してくれというご意向でしたので。何かお貸しになっていたというお話もお聞きしてましたので、いるものだけ取っていただいて、ご不用のものはこちらに持って来ていただければ処分いたしますので」
「貰っていいってんなら貰うけどさ。監視カメラあんじゃん。ああいうの持ってるとこ映ってたらマズいんじゃないの」
「何か特別なことがない限り他の者が監視カメラの映像を確認するということはありませんので」
「認証は。あのオッサンの指とかあんの」
「ダブルタップしてから、これで」
黒縁メガネは指で宙に図形を描き「課金はお控え下さい。チャットもなさらないで下さい。急に使えなくなることがあるかと思いますがあらかじめご了承下さい」販売店の店員のようなことを言った。ご遺族というのが解約したらということなのだろう。
「分かった。じゃあ」
男は部屋に戻りスマホに充電器を差し込んだ。
中年の好意なのか黒縁メガネの好意なのかは分からない。憐れみは欲しくない。だがスマホは欲しかった。
古い安物のスマホだった。だがちゃんと充電出来たし起動もした。通信履歴を見たらカード会社や金融会社からの督促ばかりだった。写真ホルダーを見たら子供を抱いた女の写真があった。結婚していたことがあって子供もいるとかいう話を聞いたことがあって、どうせ嘘だろうと思っていたが本当だったのかも知れない。
初期化して入っていたデータは全部消して、ゲームアプリをいくつかインストールした。その内の一つが気に入って、以来そればかりしている。
7層に分かれた世界で1層から5層までは、火、水、木、金、土の5行の魔物が支配している。魔物と戦い他のプレイヤーとも戦って勝ち上がる。6層目はフリーゾーンで、他のプレイヤーと戦い領地を増やしてもよし、武器や防具のグレードアップをしてもよし、売買で稼いでもよいし、下の層に戻って取りこぼしたアイテムを拾って来てもよい。
7層目には日月の魔がいる。日月の魔の魔力は下層の魔物とは桁違いで1人ではとても敵わず他のプレイヤーと徒党を組むことになる。徒党はタバネと呼ばれ、ツカサがいてオサがいる。
男は無課金ながら3ヶ月でランキングのトップ10に入り、半年後には個人、タバネ共に1位を争うまでになった。
要請されてもタバネノオサにはならずツカサにもならずチャットにも参加せず、作戦については◯か✕か?のスタンプだけを送る。ユーザーネームはクラーケンだが、他のユーザーからは、無言の帝王、不眠の帝王とも呼ばれている。深夜でも早朝でも、朝でも昼でも夕方でも、2時間と空けずにログインしているからだった。
だが半日ログインしないこともたまにある。5日ほどログインしなかったこともある。
他のプレイヤ―は知るよしもないがそれは検査のときと手術のときで、持っては出られないのだからしょうがない。3度目の手術から男が戻ったとき、タバネノミウチはみんな喜んでくれたが、誰よりうれしかったのは男自身だった。オレのIDはここにある。オレが積み重ねて来たものはここに確かに残っている。
いつ契約を切られるかという不安は絶えずあったが1年余り経った今でもまだ切られていない。ご遺族様がいまだに解約しようという気を起こさないのは、単にルーズなだけかも知れないが、男はあのオッサンの加護のような気がしている。あのオッサンが自分の守り神のような気がしている。ゲーム漬けになった脳はもう現実を見ない。男を現実に戻すのは腹の傷の痒みだけだ。傷は増えてますますタコに似ている。
6層目にはところどころに塚があり塚には木が生えていたり大きな石があったりする。時が来るとどこかの塚の木なり石なりがキラキラと光り始める。光は天からも降りて来て塚の光と一つになり、光は道となって民を導く。7層目まで行けるのは一組のタバネのみ で、プレイヤーはタバネノミウチと力を合わせ他のタバネの者共と争いつつ上を目指し、一番早く7層に辿り着いプレイヤーが属するタバネノミウチのみが入ることを許され他のものは地に落とされ、落ちた者共は天を見上げ勝利を祈るほか術はない。
その光の道があの日の情景を男に思い出させる。あの中年を乗せて上って行った救急車を取り巻いていたあの光。人々のあの祈り。取り巻いていた人の数は数十人に過ぎなかっただろうが、男の頭の中でそれは数百人にも数千人にも膨れ上がり、光もまた何倍にも輝きを増す。
あの中年の身体に詰まっていた内臓は全て取り出され、いったい何人の生命を救ったことだろう。
自らの身体を差し出して他を救うとは、それこそ神の御業ではないのか。
オレもいつか神になり、いつか多くの人を救うだろう。
だが腹の傷は膨れて赤くのたうち回り、今にもタコが失った身体を取り戻し這い出て来そうにも思える。
オレは誰だ。タコか。神か。
切ってもまた生えてくるタコの足。
切ってもまた再生するオレの肝臓。
医者は知りたがっている。データを取りたがっている。まだ誰も取ったことのないデータだ。AIだって知りはしない。何故ならデータがないからだ。
オレになら何をしてもいい。どこからも苦情は来ない。何をしても誰からも責められないという保証があれば人間は本当に何でもする。どんなに残虐なことでも。良心の呵責などなく。良心などあるものか。それは目だ。自分を見る他者の目だ。見られていなければ何だってする。オレはそれを知っている。女たちの悲鳴。哀願。呻き声。どんなに心地よかったことか。オレは支配者だ。あのときオレは神だった。いや悪魔か。今は何だ。タコか。初めからタコだったのか。いやいい。そんなことはどうでもいい。
男は毎日地面を掘り領土を増やす。ときどき気付かぬうちに眠ってしまうがそれ以外はずっと掘っている。領土はマスで何マス掘ったか数字で分かる。その数字の積み上がりが心地い。
取らなければ奪われる。死んでしまったら奪われる。領地。心臓。肺。膵臓。。
おれのものだったものは他人のものになりそれを糧にしてそいつは生きる。
おのれの血肉を持って他者を生かすものは誰か。それは崇高なものか下賤のものか。
おれは誰だ。神か。タコか。
言葉は巡り螺旋を描く。上になり下になりして絡み合う。秩序はあるか。混沌か。
タコ。神。神。タコ。