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異動六度の男

    #創作大賞2026 #エッセイ部門
      
    私は地方の新聞社グループで六度の異動を経験しました。もともと私は、そのグループ会社の旅行会社に就職したのです。しかし、親会社とは給与体系も人事制度も全く違いました。なぜ異動させられたのか。今でも分かりません。旅行業、印刷業、新聞業。四社六職種を渡り歩いた会社人生でした。

    【就職】
    1973年4月。名古屋の商社を辞めて故郷へ戻り、しばらくぶらぶらしていました。そんな時、新聞で旅行会社の求人広告を見つけました。面接では社長から英語のテープを聞かされ、「訳しなさい」と言われました。流れてきたのは、「各テーブルの上にコップを一個ずつ置いて、それに水を注ぎなさい」という程度の簡単な英語です。訳し終えると社長は、「合格」と言いました。実にあっけない採用でした。社員数僅か15人程度の小会社です。新入社員は4人でした。当時は大阪万博後の好景気の余韻が残り、会社の業績も良かったようです。
    私は社長の息子である海外部長の下に配属されました。ところが、この人物がどうにも苦手でした。そこで入社一週間も経たないうちに、「営業へ回してください」と申し出ました。代わりに同期の社員が海外部へ入りました。これが良かったのか悪かったのか、今でも分かりません。ただ結果として、私の人生はここから大きく動き始めます。最初から異動を願い出る新入社員など前代未聞だったのでしょう。仕事は飛び込み営業と添乗員でした。それまで私は、旅行会社に飛び込み営業なるものがあるとは思ってもみませんでした。
    最初の営業は先輩に連れられての外回りです。ところが会社を出ると、まず皆喫茶店に集まって一服するのです。
    「随分いい加減な会社だな」と思いました。こうして私の旅行会社人生が始まったのです。

    添乗。毎週末、新聞広告で募集したバス旅行が実施されていました。私の初添乗は『琴平さんと高松泊』でした。先輩添乗員と一緒の研修です。地元を夕刻5時に出発し、深夜1時10分に東神戸港からジャンボフェリーに乗船。高松築港には午前5時に到着しました。そのまま、琴平さんへ直行です。今でこそ慣れましたが、当時、夜行バスに乗ること自体が初めてで、まったく眠れませんでした。
    3日目ホテルをチェックアウトした後、どこをどう回ったのかほとんど記憶にありません。船内一泊、ホテル一泊の二泊三日。完全な寝不足でした。

    「こんな仕事、とても続けられない」

    本気でそう思いました。帰ったら辞めよう。前の商社に続いて、また退職だ。帰りのバスの中でそんなことばかり考えていました。ところが、ふと思ったのです。

    「今辞めたら、また同じことの繰り返しではないか」

    前の商社は3日で辞めました。ここでも逃げるのか。そう考えると少し悔しくなりました。

    「あと一か月だけやってみよう」

    と思ったのです。まさか、その一か月が何十年にもなるとは思ってもみませんでした。

    飛び込み営業。添乗から帰ると、翌日から早速営業でした。朝、企業団地の真ん中に車を停め、名刺を一箱持っての飛び込み営業でした。私は「100枚配り切るまでは帰らない」と決めました。毎日その繰り返しです。
    飛び込み営業の現実は厳しいものでした。100社回れば95社は門前払い。3社は少し話を聞いてくれますが、当然、既に他社と取引しています。まともに担当者と話ができるのは2社あるかないかでした。しかも、その多くは従業員10名以下の小さな会社でした。
    そんな泥臭い営業を続けていた時、出会ったのがK社の竜雷太似のO専務でした。後に社長になる人物です。今思えば、商業高校出身の専務は新米営業マンだった私を気の毒に思い、情けを掛けてくれたのかもしれません。この人とは不思議な縁がありました。後年、「金を出すから独立しないか」と誘われたこともあります。異動後も交流は続き、結局40年以上の付き合いになりました。
    当時のK社は社員数8名の小さな会社でした。私が初めて受注した仕事はマイクロバス利用の温泉旅行でした。もっとも、それまでK社には社員旅行がありませんでした。どこの旅行会社も相手にしないような小さな会社だったからこそ、私にもチャンスがあったのです。初受注の嬉しさは今でも忘れられません。
    その後、K社は順調に成長しました。社屋を移転し、社名も変更され、社員数も80名になりました。社員旅行は地元発チャーター便利用のハワイ旅行へも行くようになりました。社員8名の温泉旅行から、ハワイ旅行へ。飛行機が飛び立った時、私は感無量でした。
    飛び込み営業は辛い仕事でした。しかし今振り返ると、営業の基本を学んだのはあの時代だったと思います。会社の看板だけでは仕事は取れません。最後は人です。お客様は会社に付くのではなく、営業マンに付くのです。

    マッチ箱。当時の上司は、私には理解し難い独特の嗜好を持つ人物でした。ある朝礼で上司が得意そうに話をしていました。皆黙って聞いていました。ところが、その内容は当日の日経新聞の記事そのままでした。
    私は思わず、

    (なんだ、受け売りか)

    と小さく笑いました。
    その瞬間です。バシッという音とともに、顔に何かが当たりました。卓上に置いてあった旅館の大きなマッチ箱で、私を叩いたのです。カッと頭に血が上りました。一瞬、やり返そうかと思いました。しかし何とか思いとどまりました。もしあの時、やり返していたら相手もただでは済まなかったでしょう。私も退職し、その後の添乗人生はなかったと思います。悔しくて、何日も眠れない夜が続きました。先輩社員から、「警察へ行くか。どうする?」と言われました。しかし私は何とか我慢しました。後年、その上司が別の社員を平手で殴る場面も、私は実際に目撃しました。

    香港。添乗先の香港で、私はもうひとつ忘れられないものに出会いました。それは金(キン)です。初めて香港へ行った時のことです。夜、街をぶらついていると、一角だけが煌々と輝いていました。一体何だろうと思って近づいてみると、そこは金を扱う店ばかりがズラリと並ぶ通りでした。こんなに沢山集まって採算がとれるのかと思いました。店内は多くの客で賑わっています。驚いたのは、その人たちが八百屋で野菜や果物を買うような感覚で金を買っていたことでした。この時の衝撃は今でも忘れられません。日本では見たことのない光景でした。当時の日本人にとって、金は特別なものであまり縁がありませんでしたが、香港では、ごく普通の人たちが当たり前のように売買していたのです。私はしばらくその様子を眺めていました。そして「金とは一体何だろう」と真剣に考えました。

    香港で見た光景が、後年、私の資産形成に大きな影響を与えることになるとは、この時は思いもしませんでした。

    【異動1 印刷工場】
    1995年8月。異動の辞令は突然きました。行き先は印刷会社です。旅行会社一筋で20年以上働いてきた私にとって青天の霹靂でした。理由は最後までよく分かりませんでした。最後の添乗はシンガポールでした。帰国便が日本の空港へ着陸した瞬間、

    「ああ、これで添乗員人生も終わりか」

    と思いました。長く続けてきた仕事でした。楽しいことも辛いことも沢山ありました。しかし、もう添乗員として飛行機に乗ることはない。そう思うと感慨深いものがありました。出張から戻った翌日、荷物の整理と添乗報告のため会社へ顔を出しました。そこで驚きました。私の机の上にゴミがまとめて置かれていたのです。思わず、「誰がこんなことを……」と思いました。出向する者は、もう不要な存在として扱われるのか。それとも単なる嫌がらせだったのか。今でも分かりません。ただ、酷いことをする人がいるものだと思いました。私は黙ってゴミを片付けました。それが旅行会社での最後の日でした。

    その足で印刷会社へ向かいました。年配の女性社員が「ご苦労様です」と、にこやかに迎えてくれ、職場の説明をしてくれました。私は汗と油の臭いが染みついた薄暗いロッカールームでナッパ服に着替え、安全靴を履きました。その時、何とも言えない暗澹たる気持ちになりました。 昨日まで海外添乗員としてシンガポールに行っていた人間が、今日は印刷工場のナッパ服を着ているのです。
    果たして私に務まるのだろうか。
    これからどうなるのだろうか。
    不安ばかりが頭をよぎりました。異動で一番辛いのは、いつまでその職場にいるか分からないことです。一年か二年か、それとも定年までか。印刷現場では2人の先輩社員に挨拶をしました。2人とも長年印刷現場一筋で働いてきた叩き上げの印刷工でした。巨大な印刷機械の前に立つと、新しいナッパ服を着た自分だけが場違いな人間に思えました。
    しばらくすると旅行会社の後輩社員が私の様子を見に来ました。彼はナッパ服姿の私と印刷機械を交互に見つめ、「こんな……」と言ったまま絶句していました。その表情を見て、私は自分が置かれた状況を改めて実感しました。しかし、この出向で一つだけ分かったことがあります。誰が味方で、誰がそうではないのか。旅行会社時代、台湾研修旅行で仲良くなった他社の社員がいました。私の異動を知り、わざわざ電話をかけてきてくれました。

    「大丈夫か?」

    たった一言でしたが、その言葉は今でも忘れられません。その人がM観光社のTさんでした。後になって、彼を色々探しましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。
    人は順風満帆の時には近寄って来ます。しかし、こちらの立場が変わり落ち目になった時にこそ、相手の本当の姿が見えるのです。この出向は、仕事だけではなく人を見る目も私に教えてくれました。

    では、なぜ辞めなかったのか。四十歳を過ぎての再就職は厳しく、今までと同じ給料は望めません。おそらく一段か二段下がった額になるでしょう。会社もそのことは分かっていたはずです。私も妻子を抱え、無給になるわけにはいかなかったのです。

    印刷工場。最初に私が担当したのは、小さな印刷機械二台でした。一台は名刺印刷用のテクセルAR-01。もう一台はハマダの一色印刷機です。どちらも長年使い込まれているらしく、かなり古く見えました。前任者が異動し、その後任として私が配属されたようです。印刷と聞くと、多くの人はインクを思い浮かべるでしょう。しかし実際には水が非常に重要です。印刷はインクと水が互いに反発する性質を利用して成り立っています。このテクセルは名刺のような小さな印刷物が対象で、何とか扱うことができました。ところがハマダの一色機には苦労しました。藁半紙が途中で詰まり、ぐちゃぐちゃになってしまうのです。何が悪いのか分かりません。何度も紙詰まりが起きると泣きたくなりました。後になって分かったことですが、印刷機械は力任せでも優しくしても上手くいきません。適切な準備と微妙な調整が必要なのです。ここで重要な人物が登場します。私の隣で働いていたKさんです。Kさんは高校卒業後、この世界に入り、30年近い経験をもつベテランでした。職人らしく、落ち着きと自信を感じさせる人でした。印刷がうまくいくと、Kさんは決まって

    「べりーぐっど」

    と言いました。旅行会社から来たド素人の私に、嫌な顔ひとつせず基本から教えてくれました。紙の通し方、インクの調整、機械の癖、現場の常識。Kさんはそんなことを一つひとつ教えてくれました。私はKさんから多くのことを学びました。もしKさんがいなければ私は印刷工場を辞めていたかもしれません。今頃、旅行会社の皆は楽しくやっているのだろうなあと思うことがたびたびありました。国内外を飛び回っていた日々が遠い昔のことのように感じられました。

    【異動2 出戻り】
    一年一ヶ月後の1995年9月。いきなり辞令が出て元の旅行会社へ戻されました。初日の朝礼で

    「出戻りですが宜しくお願いします」

    と挨拶すると、周囲から苦笑が漏れました。戻された理由は、海外企画が出来る人間がいなかったからです。会社は、私不在の間、他社商品を販売していました。それで商品数が少なく、マンネリになって利益も落ちていたのです。
    私は考えました。営業時代、一番不満に思ったのは何か? 自社商品のパンフレットが少なく、持参する資料が無かったことです。作成にも時間が掛かっていました。これを何とか短縮できないかと考えました。改善策は、A4コピー用紙裏面に日程と公募の旅行条件を事前に印刷しておくことでした。そして企画商品の実施と販売価格の稟議が下りると同時に、表面に抜けていた価格を入れて即パンフレットが完成するようにしました。この方法で、ある日を境にA4用紙一枚の海外パンフレットが大量にカウンターに並びました。色付きの用紙を使ったペラ物です。それまで、このようなパンフレットはありませんでした。
    独立系の会社なので大手旅行社の商品も売ることが出来ましたが、自社商品は利益率も高く、社員を添乗させれば経験も積ませることもできます。現地情報も入るので、メリットは大きかったのです。

    チラシの多少の見栄えの悪さは関係ありません。自分でも不思議なのですが、アイデアはいくらでも出てきました。自宅でもアイデアを出して取捨選択。当日午後、厳選した2~3本について稟議書を提出します。一過性の人事で親会社の新聞社から出向してきた社長は旅行業に疎く、すぐに押印しました。最終決裁は新聞本社の社長でした。

    自社商品は増えました。しかし、実際に人数が集まり催行出来るのは良くて10%~15%。だから新規プランは月最低50本必要なのです。カウンターの女性社員は自社商品の急激な増加に目を白黒させていました。段々調子が出てきてローテーションが上手く回り始めました。

    自分が行きたいと思う場所を決め、そのプランを商品化して新聞広告を打ち、集客します。集客出来たらコースをチェックするという名目で私が最初に添乗します。催行率も上がりました。これで内勤であっても正々堂々、添乗する良い口実が出来ました。海外企画の面白さが段々分かってきました。
    入社当時、営業部へ転部願いを出した私でしたが、元々営業よりこちらの方が自分に合っていたのではないかと思ったくらいです。この頃の私は仕事が面白くて仕方がありませんでした。マイナスをプラスに変えた経験でした。

    【異動3 印刷営業】
    2000年4月、私は再び印刷会社へ異動になりました。今度は印刷営業です。周囲を見ると、前年の得意先を回る営業が中心で、新規開拓はほとんど行われていませんでした。会社にいて仕事が無いことほど辛いことはありません。私は必死に飛び込み営業を始めました。着目したのは、市内に複数あった全国規模のホームセンターの支店です。思い切って訪問してみると、その会社のチラシは新潟県の印刷会社で印刷してトラックで運ばれていることが分かりました。印刷会社の社長とホームセンターの社長が同級生でした。こういう事情も実際に顔を出さないと分かりません。私は、新潟の印刷会社に「当社で印刷すれば、そのまま隣の折込センターへ納品できます。トラックの輸送費も節約できますし、天候の心配もしなくて済みますよ」と提案しました。幸運にも、この提案は受け入れられました。年間9000万円規模になる仕事でした。旅行会社で身につけた飛び込み営業の経験が、ここで生きたのです。私はようやく一息つくことが出来ました。皆喜んでくれると思いました。しかし、皆シーンとしていました。ド素人の新人が大きな手柄を挙げたことが面白くないのです。何だかなあと思いました。ゆがんだジェラシーです。皆、ホームセンターが巨大だったため、最初から諦めていました。今思えば、怖いもの知らずだったのかもしれません。それ以降は、余裕を持って自分の仕事ができるようになりました。

    失敗談。ある日、高名な書家のもとへ打ち合わせと原稿回収に伺いました。教え子たちの習字作品を小冊子にまとめる仕事です。作品を見ていると、一枚だけ目を引く作品がありました。筆の勢いも字の力強さも、とても子供のものとは思えません。私は感心して、

    「先生、この作品はなかなか良いですね」
    すると先生は少し憮然とした表情で、

    「それは、儂が書いたんじゃ」

    とひと言。大失敗です。もっとも、私が思わず目を留めたのですから、少しくらいは見る目があったのかもしれません。

    この会社でひとつ印象に残っていることがあります。月に一度、新聞本社の専務が会議に来ていました。本社で切れ者として知られる人物でした。

    「君たち、良い報告はいらない。どんなことでも構わないから悪い報告だけをしてくれ。社にとって不都合なことほど早く知りたい」

    と言いました。私はその言葉に感心しました。組織を動かす人間は、耳あたりの良い話だけでは駄目なのだと教えられた気がしました。
     
    【異動4 印刷工場】
    その後、私は再び印刷工場へ異動することになりました。そこにはコモリのスプリントという前より大きな機械がありました。特にN-50という薄い感圧紙の印刷には手こずりました。なかなかスムーズに紙が通らず、苦労しました。後から聞いた話では、私を異動させたのは、私がとった大きな仕事を別の営業担当者の実績にするためのようでした。本当の事情は今でも分かりません。しかしその仕事はやがて途絶えてしまいました。残念です。

    【異動5 折込センター】
    2004年4月、私は折込センターへ異動しました。仕事は町別に仕分けされたチラシを運び、決められた場所へ並べていく単純労働でした。ここはそれまでの旅行会社や印刷会社とは全く違う職場で、力が支配する世界でした。むしろ私には、こういう単純明快な世界が性に合っていました。正社員はフォークリフトを担当する部長と、チラシを結束する課長、それに私を含めて全部で4人です。あとは多くのアルバイトが現場を支えていました。
    私は余計なことは言わず、黙々と仕事をしていました。ところが、ある古参のアルバイトが何かと私に絡んでくるようになりました。旅行会社出身で大人しく軟弱な人間だと舐められたようです。最初は相手にしませんでしたが、あまりにもしつこいので、

    「今度の土曜日、A体育館へ来い。そこで決着をつけよう。ただし、これは喧嘩ではない。空手の稽古だ」

    と言って、空手道場の入会申込書を渡しました。それには、

    「稽古中のいかなる怪我および死亡については自己責任とし、当方は一切責任を負わない」

    と書いてありました。相手は落ち着かない様子で、その用紙をじっと見つめていました。結局、その土曜日に彼が道場へ来ることはありませんでした。この話は職場中に広まり、それ以降、私に絡んでくる人は誰もいなくなりました。戦わずして勝つ。空手を続けてきて、初めてその意味を実感した出来事でした。

    【異動6 新聞販売会社】
    2005年1月、私は新聞販売会社へ異動しました。これだけ異動が続くと、(またか)という気持ちでした。もはや達観です。販売会社はグループ中、最も厳しい職場として知られていました。同じ時期にそこへ異動を命じられた社員の中には、辞表を出して退職した人もいました。仕事は新聞拡張、顧客管理、そして時には新聞配達もします。もちろんメインは新聞拡張です。私の担当区域は14町にまたがり、部数は約2500部でした。
    新聞の購読数は毎月大きく変動します。転勤、引っ越し、入院、死亡などで20部から30部が自然に減っていきます。それを補い、さらに求められるのが、最終的に「前月プラス1以上にすること」でした。たかが一本。されど一本。その一本が本当に遠いのです。調子が良かった月には契約者に当月サービスで配達し、代金は翌月からという手も使いました。

    世間では新聞拡張員というと朝から晩まで回っていると思われがちです。しかし実際は違います。拡張活動は主に夜の4時間(18時~22時)程度です。それ以外の時間は拡張地図をチェックしたり、販売エリアを調査したりしていました。私は図書館へ通い、読書や資産形成の研究をすることも多かったのです。
    当時の私は原因不明の酷い眠気に悩まされていました。昼間よく寝ていたのです。拡張は夜が中心だったこともあり時間はありました。昼食後、猛烈な眠気に襲われ、車の中や自宅へ帰って寝てしまうことが少なくありませんでした。妻は不思議そうに、

    「アンタ、どうしたん。寝てばかりやね」

    と言っていました。私自身も理由は分かりませんでした。後になって検査を受けた結果、睡眠時無呼吸症候群だったことが判明しました。今思えば、あの異常な眠気は病気が原因でした。他の職場だったら、帰宅して眠ることなどできなかったでしょう。それを思えば、販売会社にいたことは僥倖でした。

    必死の拡張。ある雨の日、当月のノルマがどうしてもあと一本足りませんでした。思い切って、それまで何度も断られていた他紙購読者宅を訪ねました。かなり強い雨でした。わざと傘も差さず、びしょ濡れのまま玄関先に立ちました。何度も見慣れた奥さんが出てきました。

    「あら、銀村さん。どうなさったの? こんなに遅く」
    「奥さん、お願いします」

    と、浅黄色の拡張カードを両手で差し出しました。薄い紙は雨を吸い込み、みるみるうちに紙の色が濃い青に変わっていきます。しばらくジッと見ていた奥さんが

    「負けたわ。契約するわ」

    と言った時、全身の力が抜けました。最敬礼して、心から大きな声で「ありがとうございます」と叫びました。斜めに降っていた雨が、街灯に照らされて光っていました。たかが一本。しかし私にとって本当に大きな一本でした。

    ラハマン。新聞配達の現場では、多くの外国人留学生が働いていました。その中の一人が、バングラディッシュから来たラハマンでした。大学でスペイン語、英語、貿易実務を学んだ私ですが、実際英語を使ったのは旅行会社よりもこの販売会社の方がはるかに多かったのです。皮肉なものです。ある時、不配(配達ミス)が2日間続き、一緒に購読者宅へ謝罪に行きました。

    「異国の日本で、一所懸命頑張っております。何卒ご寛恕のほどを……」

    と頭を下げました。その後、不機嫌な私を見てラハマンが

    「ギンムラサン、ウチで一緒に昼飯食わないか」

    と誘われたのです。私は留学生の生活に興味があり、訪ねてみることにしました。立派なマンションでした。驚いたのは部屋に派手な色のサリーを着た奥さんがいたことです。テーブルの上に、カレーが入った鍋が置かれていました。中の肉を見て、

    「何の肉?」と聞くと、
    「すまん」
    「いや、謝らなくていいから何の肉?」
    「すまん」
    何度か聞き返して、ようやく
    「スワン(白鳥)」

    と言っているのだと分かりました。白鳥? 最初は耳を疑いました。事情を聞くと、イスラム教徒の彼らはハラール認証の食材を東京から取り寄せていたのです。それではと、口にいれた途端、「ウッ!」。強烈な臭いとスパイスのダブル攻撃。こんなのは初めてです。残すと悪いと無理やり飲みこみました。帰りのエレベーターの中で、思わず吐きそうになりました。今となっては、異文化に触れた懐かしい思い出です。

    振り返れば、販売店時代が一番自由でした。数字に追われ、病気にも悩まされました。それでも逃げることなく最後までやり切り、最後の五年間、すべてのノルマを達成しました。退職の際、社長から「あと一年やってくれないか」と言われました。最後は異動そのものを楽しんでいたのかもしれません。

    会社は私を飛ばした。
    しかし私は、そのたびに新しい世界を見た。
    旅行業、印刷業、新聞業―――六度の異動。そして多くの経験。

    それが、私の人生でした。
                        


     
     

    kinzan

     
     
    大学でスペイン語、英語、貿易実務を学ぶ。 地方の新聞社の子会社である旅行会社に就職。 六度の異動を経験し、旅行業、印刷業、新聞業の四社六職種を渡り歩く。 現在はひとり旅を楽しみながら、想い出を綴っている。

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