
ドラゴンリング #214 第十三⑫ フェアリーリングへの祈り
第214節:ー 作戦エリア:世界の相転移と部隊の秩序ある後退 ー
「なにか、聞こえるわ」
セリア・ケイ少佐は、遥か彼方に聳え立つフェアリーリングの巨大な水の柱へとその視線を向け、額に手をかざすようにして、掠れた声で言った。
地球を覆い尽くしていた時空の隔離壁が、まさにその物理的境界線を失って消滅しようとしていた。それは、狂おしいタイムループの中に閉じ込められていた時間の流れが、本来のあるべき姿である、過去から未来へと向かう一方向のみの厳格な刻みへと、ゆっくりと戻りつつある確固たる証でもあった。
「不協和音が聞こえる」
セリアは、耳を塞ぎたくなるような大気の軋みに眉をひそめ、もう一度呟いた。彼女の鋭敏な知覚は、天空の最深部から響く不快な「時空の摩擦音」を確かに捉えていたのだ。
「私にも、聞こえます、少佐」
隣にいたアルテア・アルテミス少尉が、張り詰めた面持ちで同意した。
なにかしら、繊細なハープの音色を思わせるような、あるいは人間が聞こえる周波数の限界に近い精霊のささやきのような、奇妙な魅力をたたえた旋律が天空から静かに降り注ぎ始める。それにあわせるように、フェアリーリングで天高く噴き上がっていた、間欠泉にも似た巨大な水の柱の内部で、凄まじい熱量を伴った青い閃光が、強力なフラッシュのように何度もひらめいた。
第1小隊の兵士たちにとって、それはこれまでの戦場の惨劇をすべて忘れさせるほどの、畏敬に満ちた圧倒的な情景であった。なにかが起きようとしている。誰もが言葉を失いながらも、胸の奥底で、この世界の均衡が劇的に書き換わろうとしている確信を得ていた。
見る間に、天をうがつ水の柱はまばゆい輝きを増していき、それに同調するかのように、全天を塞いでいた鉛色の空も不気味に白く輝き始めた。すると、限界まで膨張したエネルギーに耐えかねたかのように、巨大な水の柱は内部から一気に破裂し、急速に周囲へと霧状になって拡散していったのである。
セリアたちは、巨大な水の壁が幾重もの白い幕となって平野へ広がっていく様を、ただ呆然と、大自然への畏怖の念をもって眺めていた。水の幕の広がりは留まることを知らず、周囲の冷たい大気へと溶け込むようにして、徐々にその物理的な厚みを失い、薄くなっていく。かわりに、大気中の水分が急激なエネルギー変動によって結晶化したかのような、無数のダイヤモンドダストのような美しい光の粒子が、きらきらと空間からこぼれ落ちていくように見えた。だが、それもまた、正常な物理法則の回復とともに、すぐに大気の中へと静かに溶けて消え去ろうとしていた。
一瞬ではあったが、82式指揮通信車の内部に設置された各種計器や、データリンクのコンソール画面が、時空の激しいゆらぎによる強烈な電磁干渉に見舞われて大きく明滅した。しかし、それもたった今回復したばかりの共通戦術状況図の画面の上で、何事もなかったかのように正常なグリッドへと滑らかに復帰していく。特異点の崩壊に伴う、強烈なエネルギーの相転移現象に一時的に巻き込まれたためであった。
水の幕が完璧なダイヤモンドダストとなって平野へ完全に拡散してしまうと、先程から耳元をさいなんでいたあの不快な不協和音の旋律が、信じられないほどに清らかな、見事なハミングの調和へと滑らかに転じていった。それとともに、十年間もの長い間、人々の頭上を絶望で覆い尽くしていたあの重苦しい灰色の雲が、強風に煽られるようにして、猛烈な速度で晴れ渡り始めた。
フェアリーリングのあった中心地の上空から、よどんだ雲がみるみるうちに消失し、透き通るような深い青空が広がり始めていた。すると、その消えゆく雲の隙間から、これまで遮断され続けていた本物の太陽の、まばゆい白銀の光が差し込み、荒涼としたベームスターの泥濘を優しく照らし出した。
セリアは、その美しいハミングの旋律に、自らの魂の芯を物理的に掴まれたかのように心を奪われていた。身体の奥底から、昔どこかで確かに聞いたことがあるような、強烈なデジャヴの感覚がこみ上げてきていたからである。
「フェアリーが歌っていたメロディだわ……。そうよ、間違いない、あの時のサラの歌声だわ……」
セリアは、すべての元凶であったフェアリーリングが、今、完全に消滅しつつあることを確信した。あまりにも長い間、決して癒えることのなかったこの地球の巨大な傷跡が、多くの人々の想いと奇跡の連鎖によって、やっとのことで優しく癒されようとしているのだ。
ふと見上げれば、青く晴れ渡る空の彼方に、ひとつの不気味なほどに巨大な月が姿を現していた。見たこともないほど大きく、輪郭を鮮明にした月。地球の時間が何度もループを繰り返している間にも、重力の干渉作用によって、月は地球の軌道へとじわりじわりと接近し続けていたのだ。それは、時間が本来の流れを取り戻したその瞬間、人類が今までに経験したことのない、狂暴なほどに巨大な大潮(大津波)が発生しようとしていることを、冷酷に意味していた。
月の強い引力によって、地球上の海水が猛烈に引き寄せられていく。北海ではゆっくりではあるが、確実に海面の高さが異常な速度で増し始めており、アムステルダム一帯を囲む歴史ある環状堤防の高さに向けて、白い牙を剥きながら迫ろうとしていた。海岸の方角から、不気味な地鳴りにも似た「ゴゴゴ……」という大潮の波涛の音が、はるか何キロメートルも離れているにもかかわらず、このベームスターの平野にまで、恐ろしい海鳴りとなって響き渡ってきた。
その直後、遠いフェアリーリングの物理境界の近くから、作戦完了を意味する、赤い信号弾が天高く2発、続けて打ち上がるのがはっきりと見えた。マールス・グラディウス少尉からの、封印成功と離脱開始の合図であった。
大気の中に舞い散るダイヤモンドダストの残光の中に、セリアには再び、サラのあどけない姿が見えていた。幻影であるサラは、大好きなお姉ちゃんの手をそっと引っ張って、「早くこの危ない場所から離れて」と、必死に伝えているようであった。
フェアリーリングが完全に消えつつあることを確認すると、セリアは指揮官としての冷静さを取り戻し、直ちに部隊の撤退を開始することを決意した。これ以上、この海抜マイナス数メートルの泥沼の平野に踏みとどまれば、押し寄せる大潮の濁流によって、せっかく地獄から助け出した友軍の兵士たちの命が、一瞬にして冷たい水底へと呑み込まれてしまうからである。
「これ以上の滞留は、全員の命に関わります。取り残された生存者が周囲にいないことを確認し、直ちにこのセクターから撤退します!」
セリアが決然とマイクを握りしめたその瞬間、サラの小さな姿が、再び目の前の眩しい光の中に現れ、お姉ちゃんたちを送り出そうとするかのように優しく微笑んでいた。セリアは無意識のうちに、いっしょにここから連れて帰りたいと願い、その小さな手に向けて右手をそっと差し出した。しかし、指先が触れた瞬間、サラの幻は光の粒子となってベームスターのそよ風の中に消えていった。ただ、セリアの右手の手のひらには、十年間決して忘れることのなかった、サラの小さな手の確かな温もりだけが、愛おしい感触として残されていた。
「これより、全部隊、帰還行動に移ります!」
セリアが基幹通信機を通じて力強く宣言すると、各車両の無線機から、どよめきに似た歓声が沸き起こった。これでようやく、あの安全な地中海の要塞へと帰ることができる。それは、この戦場にいる誰もが、何年もの間ただ黙って待ち望み続けていた、唯一の希望であった。
「しかし、少佐。あの特異点の奥にいる、坂井伍長たちはどうするのです?」
アルテア・アルテミス少尉が、心配そうな表情を隠さずにセリアに問いかけた。
「大丈夫よ。すでに海上部隊に対して、撤収用の大型輸送ヘリコプターEC725カラカルの派遣要請を出して、承認を得ています。アルテミス少尉、あなたはそれに乗って、大潮が押し寄せる前に、坂井伍長とグラディウス少尉たちを直ちに迎えに行ってください。彼らと合流し、いっしょに上空から脱出するのです。私たちは、のちにアントワープ港で合流しましょう。……私は、この陣地に逃げ込んできたすべての同胞たちを、私の責任を持って安全な場所へと送り届けなければならないから。……それから、アルテミス。今まで、頼りない私をずっと支え、助けてくれて本当にありがとう」
セリアは、すべての信頼を託すように、アルテミスの肩にその華奢な手をそっと置いた。救出用の輸送ヘリコプターの手配には見事に成功していたものの、収容人数には物理的な制限がある。ここに集結した数十名に及ぶ取り残された友軍たちを全員乗せることは到底不可能なため、第1小隊はセリアに率いられて陸路を移動するしかないのだ。アルテミス少尉は、その命令の意味を深く理解し、直立不動の姿勢で力強く敬礼を捧げた。
帰路を安全に確保するため、後退の障害となる前方のドラゴンたちを退けるため、最後の威嚇砲撃の準備が整えられていった。その緊迫した瞬間を全員が息を呑んで見守っていたため、無線チャネルは不気味なほどの静けさを取り戻していた。その場にいたすべての兵士たちが、行動開始を告げる指揮官の命令を、今か今かと待ち構えている。すでに移動不可能と判断されたボロボロの車両や、泥に埋まった重機は潔く放棄され、後退を開始する際、誰がどの動ける車両に飛び込んで跨乗するかは、兵站の割り当てシステムによって秒単位で決定されていた。セリアの手によって基幹連隊指揮統制システムのタブレット端末に描かれた、完璧な最適移動経路のデータは、すべての車両のコンソールへと瞬時に共有されていく。ここまで、セリアは実に見事な手腕で、指揮官理者としての任務をやり遂げていた。
「これより帰路の安全を力ずくで確保します。第1小隊、今よ! このドラゴンたちの狭間の空間に向けて、ありったけの誘導弾と機銃弾を撃ち込みなさい! その後は全員、車体の頑丈な何かにしがみついて……。かなり着弾が近いから、爆風に巻き込まれるわよ!」
セリアの鋭い号令とともに、この世の終わりとも思えるような、大気を引き裂く大音響が間近で爆発した。ベームスターの湿原が、再び激しい爆発の衝撃と物理的な震動に見舞われる。残弾数も、砲身の耐熱限界も一切考慮せず、エマ・ブランドの保有するすべての重火器が前方の空間に向けて一斉に投入されたのだ。
今回の砲撃は、特定の個体を狙って殺傷するための精密射撃ではない。単なる火力量の数にものを言わせた、圧倒的な面制圧の威嚇攻撃であった。いわば、恐怖に駆られた子供が、喧嘩の最中に両手を疲れるまでめちゃくちゃに振り回しているのと同じ、まさにただの力押しである。しかし、野生の獣や野生のドラゴンは、無闇に突進してくるものを警戒し、自らの負傷を避けるために後退する習性がある。これほどの圧倒的な鉄と火薬の嵐を見せつけられれば、いかに強靭なドラゴンといえども、たまらず後ずさりをせざるを得ないのだ。
82式指揮通信車の頑強な車体が、至近距離での爆風の風圧を受けて激しく左右に揺れ、車内の何人かの技術兵たちが耐え切れずに床板へと転がり、倒れてしまった。衝撃の余波からやっとのことで立ち直ったとき、指揮室の内部は落下したタブレット端末や散乱した書類で足の踏み場もないほどに荒れ果てていた。サスペンションが軋み、車体は大きく右へと傾いてしまっている。指揮室としての統制機能のほとんどを物理的に喪失してしまったが、キャタピラとエンジンが生きている限り、ただ前進して走行するだけであれば何の問題もなかった。
「各員、損害状況を……いいえ、精密な報告はもういいわ! 乗り遅れた者が一人もいないか、それだけでいいから、確認を最優先で急いで頂戴!」
「全員、問題ありません! 全兵員、跨乗を維持しています!」
すぐに車内のタチアナ・ベルテンス准尉が、大声で報告を返す。
「総員、撤退準備!」
セリアは車内に響き渡るあらん限りの大声で、自分たちはこの地獄の最前線で任務を完璧に全うしたのだという、確固たる誇りと覇気をもって、ハッチの外にいる皆に聞こえるように号令を発した。
「総員、これより跨乗開始! 動けるすべての車両の外装に、全員、何が何でもしがみつきなさい!」
セリアは車長用ハッチから身を乗り出し、怯えて立ちすくんでいた一人の少年兵の手を力強く掴み、その華奢な身体に似合わぬ強さで、82式指揮通信車の車上の安全なスペースへと強引に引き上げた。
誰もが整然と、しかし死に物狂いで泥濘を蹴って車両へと飛び乗り、車両のボンネットや装甲板の横に、人が鈴なりになって溢れかえるようにしてしがみついていた。戦場にポツンと取り残されていた、何十名もの第6軽機甲旅団の生き残りたちの救出に、彼女は完全に見事な手腕で成功していたのである。重傷者や歩行不可能な兵士も含めて、一人残らず全員の跨乗が完了した。
「各車、出発準備。前部員、進路の安全を徹底して確保!」
セリアは、すべての兵士の跨乗が完了したのをその肉眼で確認すると、次の号令を力強く発した。
ベームスターの重い泥濘の中で、一斉にエンジンを吹かす重厚なディーゼルの排気音が響き渡る。普段の生活であれば耳障りで不快に感じるだけのそのエンジン音も、死地からの脱出を控えた今の彼らにとっては、最も待ち焦がれていた、生命の脈動そのものの音であった。第1小隊の16式機動戦闘車が、奇数番号車と偶数番号車で砲身をそれぞれ進路の左右へと交互に振り向けて、いつでも敵の急襲に応射できるよう、出発の備えを完璧に整えた。
「全車前進微速、――単縦陣!」
セリアのそのよく通る凛とした号令とともに、すべての戦闘車両がゆっくりと泥を蹴って動き出した。先頭の戦闘車に続き、美しい隊列を崩すことなく、整然と移動を開始していく。
セリアがうっかりと「単縦陣(たんじゅうじん)」という、陸上部隊には馴染みのない艦隊運用の専門用語を使用してしまったため、通信担当のタチアナ・ベルテンス准尉が、その場を取り成すように、戸惑っている運転手の耳元へ「進路を一直線にして前の車にぴったりと追従しろという意味よ」と、こっそりと教えていた。セリア自身はまだ自覚していなかったが、彼女の深層心理には、すでに広大な海原を進む操船の精神が宿り始めていたのである。
「帰路に向けてようそろ、速度増速!」
進路を帰路に保ちなさい、そして速力をただちに増速しなさい、という意味の、セリアのこれまた見事な操船指揮の号令が前線に響く。
「第1小隊に命じます。我らが進むべき帰路へと、全車を安全に先導しなさい!」
出発時の混乱を防ぐための初期の統制は、最高指揮官であるセリアの最も重要な仕事であったが、整然と移動が開始された後は、前線の進路を知り尽くした先頭車の前部員が代理で進路の直接的な指揮を執るのが、最も合理的であった。
「前部員、指揮いただきました。これより本隊を安全圏へと先導します!」
第1号車から頼もしい無線返信が入ると、セリアは基幹連隊指揮統制システムのタブレット端末を胸に抱き、表示される共通戦術状況図で、車両ひとつひとつの動きを念入りに見守った。
本来の軍隊であれば、このような歴史的な撤退戦の成功の瞬間には、軍歌や高らかな国歌を全員で詠唱するところなのかもしれない。しかし、車上にしがみつく将兵たちの視線は、歌うことすら忘れて、ただ一様に天空の青空へと釘付けになっていた。
十年間もの長い間、一度も姿を見せることのなかった、本物の青空。それが、今、目の前で静かに広がっていく様子は、彼らにとっておとぎ話の奇跡よりも遥かに不思議な、言葉を失うほどの現実であった。すっかり忘れてしまっていた、深く澄んだ本当の青空の色に、誰しもが無口になり、胸を熱くしていた。ひょっとしたら、これは一瞬の夢であり、再びおぞましい雲に覆い尽くされてしまうのではないかという、本能的な不安に駆られながら、誰もが今のうちに、この美しい光を瞼の裏へと必死に焼き付けようとしていたのだ。大小の差はあれ、その美しさに、誰もが静かに涙を流し、感動していた。
後退を続けるエマ・ブランドの車列は、一切の混乱を起こすこともなく、規律正しく秩序立っていた。
古い兵法書には、「整然と統率され、規律の取れた軍隊は、その戦意と士気が極めて高いため、安易に攻撃を加えてはならない」と記されている。
数々の実戦を経験し、人知を超えた知性を宿しつつあるドラゴンたちにとっても、それは十分に承知している大自然の掟であった。傷つきながらも、お互いを支え合って整然と進む人間たちの美しい規律と、未来を掴み取ろうとするその不屈の意志に対して、彼ら空の王たちもまた、最大級の敬意を表するかのように、これ以上の無駄な手出しをすることは決してなかった。
セリアは、外の物理的な状況を自らの肉眼で直接確認するため、車長用ハッチのロックを解除して重いスチールカバーを押し開けた。
走行する装甲車の激しいピッチングと泥濘の震動に身体をあずけながら、彼女はハッチのフチの足掛けを踏み込み、ハッチアウトした。腰のあたりまでその華奢な上半身を大きく乗り出し、ハッチの開口部に取り付けられたスチール製のアシストバー(手すり)を片手で固く握りしめて身体を支える。
吹き抜ける冷たい潮風にその美しい金髪をなびかせながら、セリアは高いコマンダーの車上から、後方に続く長い車列を見渡した。逃げ遅れた兵士たちが背後にいないかをくまなく調べるために、手にした双眼鏡を覗き込み、退避状況の確認を急ぐ。
先ほどの橋頭堡の陣地から、部隊の車列はすでにかなりの距離を安全に移動しているのが見てとれた。また、自分たちの車列と、ドラゴンたちとの間に、期待通りのお互いを刺激しない安全な距離(狭間)が、見事に形成されているのが、ハッチアウトした彼女の広い視界からよく見えた。
セリアの立案した撤退作戦は、完璧に成功していたのだ。統合軍陸上部隊の生き残りたちは、整然と隊列を保ったまま、アントワープ港への撤退を整々と続けていた。
セリア・ケイ少佐は、その華奢な身体の奥底に秘められた魂をもって、戦場にいた何十人もの尊き同胞の命を、文字通り一人残らず、救い出したのである。