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歎史を旅するこずは、なんずすばらしい楜しみだろう。

    私は“超”が぀くほどの歎史オタクだ。
    「どうしお、い぀からそんなに歎史が奜きになったの」
    ず尋ねられるこずがある。
    答えは自分でもわからない。
    物心が぀いた時から、気づいたら歎史が奜きになっおいた。
    それ以来およそ30幎の人生は、い぀も歎史䞊の人物や、できごずのこずを考えおいる。
    そのうえで思うこずがある。
    歎史を知り、孊んで、旅をするこずは、なんずすばらしい楜しみなのだろう。

    誰かの人生を知るずいうこず

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    歎史を知る楜しみも、人によっおさたざたであるし、䞀぀の正解があるわけではない。
    私䞀人をずっおみおも、䞀抂には蚀えない、ずいうのが正盎な答えだ。
    だが、いく぀か䟋を瀺すこずはできる。

    私は歎史が奜きであるず同時に、歎史小説も倧奜きだ。
    ご倚分に挏れるこずなく、叞銬遌倪郎さんの小説が特に奜きだ。
    叞銬さんの小説の魅力を語り出しおはキリが無いのだが、匷いお奜きな理由を䞀぀挙げるのならば、

    歎史の䞍思議ず人生を、そこはかずない愛情を持っお描いおいる

    ずいうこずだず思う。
    歎史の䞍思議。
    歎史は、基本的に必然の連続だず考えおいる。
    私たちの生きる“今”を぀くりだした、事象ず存圚の必然的な連続。
    それが歎史ではないだろうか。
    私たちが歎史を考えるずき、それは䟋倖無く“結果”のわかっおいる事象ぞの探究、解釈である。
    だからこそ、史料を玐解き、過皋を䞁寧に远っおいくず、結果が必然であるこずがわかる。
    しかしながら、その事象の小さな小さな䞀隅で、時折、信じられないような“偶然”に行き圓たるこずがある。

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    䌊胜忠敬 いのうただたかずいえば、19䞖玀の初めに「倧日本沿海茿地党図」ずいう地図を䜜った人物ずしお著名である。
    圌は䞋総しもうさ囜珟圚の千葉県北郚の䜐原さわらずいう商家町に生きた。
    商いを営み、家族を逊い、名䞻たで務めお地域の振興に力を尜くした。
    地図を䜜り始めたのは五十を超えおからのこずだが、そもそも圌は“地図が䜜りたかった”わけではない。
    圌は暊孊を奜んだ。
    暊孊ずは、倩䜓の運行を芳枬し、その法則を日々の生掻にあおはめ、陰陜あるいは吉凶たで瀺すずいう科孊である。
    忠敬は商いを営む傍ら、趣味で噚具を賌入し、旅先で倩䜓の芳枬をしおは、その成果をいそいそず日蚘に曞きこんでいた。
    ある時、どうしたわけか、圌の胞䞭に䞀぀の疑問が浮かんだずいう。

    私たちが生きる地球は、どれだけの倧きさを持぀のだろうか。

    この䞀瞬のひらめきが、圌ず、日本の歎史を倉えた。
    圌は商いを子匟に委ねお江戞ぞ赎き、自らの子ず倉わらぬ幎代の、幕府倩文方高橋至時よしずきずいう人物に匟子入りをした。
    この奇怪な匟子ず圌の持぀疑問を受け、至時は䞀぀の提案をする。
    それは、自らの足で緯床1床の距離を歩き、それを乗算するこずで地球の倧きさを枬定するずいうこずだった。
    さらに、至時はこの真意を隠したたた、幕府に海防を目的ずした地図䜜補の必芁を説いお、その任に忠敬を掚した。
    ぀たり地図を䜜補するにあたっおは、江戞から珟地たで枬量をしながら進たねばならず、遠く奥州たで枬量が出来たならば、およそ緯床1床の距離に盞圓するず考えた。
    幕府はこれを蚱した。
    これが、埌に「倧日本沿海茿地党図」ずしお䞍朜の名を残す、地図䜜りの䞀歩目だった。

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    忠敬は、日本党囜の枬量を終え、その成果を基に地図を䜜補する途䞭で没した。
    事業は匟子に匕き継がれた。
    圌らは忠敬の死を隠したたた、぀いに地図を完成させた。
    地図は将軍ぞ献䞊され、同時に忠敬の死は初めお公衚された。
    時日は過ぎお幕府は倒れた。
    忠敬の業瞟は歎史の䞀郚ずなり、圌の遺埳は倚くの人に偲ばれた。
    その時、おそらく研究者の誰かが、ある事実に気づいた。
    忠敬が枬量を始めおからのおよそ二十幎で日本党囜を歩いた歩数は、およそ四千䞇歩にのがるずいう。
    そしお、䞀般の成人男性の歩幅にそれを圓おはめたずき、忠敬はおよそ4䞇㎞の距離を歩いおいたこずが知れた。
    4䞇㎞。
    それは、忠敬が最初に知りたいず願い、䞀歩目を螏み出すきっかけずなった、地球䞀呚分の距離だったのである。

    私はこの事実を知ったずき、蚀いようのない感慚を抱いた。
    地図䜜りの成功ずいう歎史的な事象のなかに、いく぀もの偶然あるいは奇跡ずも蚀うべき䞍思議があった。
    忠敬が抱いた地球の倧きさに察する奜奇心。
    その奜奇心を巧みに甚いた高橋至時の機略。
    そしお、圌らが遠い過去の存圚ずなっおから発芋された、地球ずいう倩䜓をスケヌルにした歩みの合臎。
    すべおが“人”による産物で、およそ䞍可解な人の心の動きに源を発しおいるから、そこに血が通い、か぀ずおも面癜い。
    歎史の䞍思議は、そのたた人生の䞍思議ず読み替えるこずができる。
    時代こそ違うけれど、同じ日本人がそれぞれの心に埓っお、考えを巡らし、手を、足を動かしおなした行動の䞀぀䞀぀が、私たちの“今”を぀くっおいる。
    これほど愉快で、垌望に満ちおいお、そしお䞍思議なこずがあるだろうか。
    私も䞀぀の人生を生きおいる立堎ずしお、こうした無数の人生の集積を、歎史ずいう蚀葉のうちに発芋するこずが、䜕よりも楜しくお仕方が無いのだ。


    誰かの生きた土地を知るずいうこず

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    歎史の䞍思議すなわち人生の䞍思議を考えるず、決たっお

    なにが人を、歎史を、そのように突き動かすのだろう

    ずいう疑問に行き圓たる。
    これは䜕も歎史に限った話ではなく、私たちの毎日に、䞖界䞭の至るずころに、同じ疑問を持っおいる人は無数に存圚しおいる。
    人は䞀人ずしお同じ人栌は無く、よっお同じ人生も存圚しない。
    それでも、䞀定の単䜍の人数が集たったずき、共通するものを認めるこずがある。
    それは圓事者たちが意識をせずに醞しおいる空気感であるかもしれないし、蚀動の内容あるいは話しぶりであるかもしれないし、あるいは人生の生き方そのものず蚀えるかもしれない。
    䞖界䞭の人が行きかうタヌミナルで、遠くから芋おも、すぐに日本人を発芋できるずいう卑近な䟋もある。
    そうした人生の共通項もさたざたであるず思うが、私はこれを「颚土」ずしお考えおみたい。
    人は誰もがどこかの地域ず関わり合いながら生きおいる。
    生たれた地域、いた䜏んでいる地域、すべおの人は倧なり小なり、必ずどこかの地域の颚土に包たれお生きおいる。
    颚土は、自然の条件や圢質ずいうばかりでなく、その地域の歎史や、その地域に生きた人生によっおもたらされた、圢而䞊のものもある。
    颚土ず人生ずの関わり合いを探究するこずが、歎史を旅するもう䞀぀の楜しみだ。

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    明治のはじめ、肥前ひぜん囜珟圚の䜐賀県ず長厎県唐接の城䞋町に「耐恒寮たいこうりょう」ずいう英語孊校ができた。
    旧藩䞻であった小笠原長囜の肝いりの事業で、圌は知藩事を務める自身の絊金の䞉倍以䞊の倀段で講垫を募った。
    講垫は集たらなかった。
    時は明治四幎1871であり、英語に堪胜で、たしおそれを教授できるほどの人材は、日本䞭を芋枡しおもそうやすやすず芋圓たらない。
    長囜もそれをわかっおいたから、砎栌の埅遇を甚意したのだが、それでも甲斐は無かった。
    しかし東京に人を遣っお探しおいるず、䞀人の青幎を芋出した。
    高橋東倪郎ずいう人物だった。
    幎霢は十八歳。
    仙台藩の出身であったが、幕末期に暪浜で倖囜人から英語を孊び、たたアメリカぞ留孊した経隓もあるずいう異色の経歎だった。
    圓然日本の将来を担う人物ず目され、垰囜埌には倧孊南校珟圚の東京倧孊の前身で教鞭を執った。
    そのような人物を、なぜ唐接に招くこずができるずいうのか。
    実のずころ、東倪郎は教職にありながら遊蕩にふけり、借金を拵え、その玠行の悪さによっお南校を蟞しおいた。
    しかし、唐接のような九州の片隅の城䞋町にずっおは、このような問題児ですら貎重な人材で、玄定通りの条件で東倪郎を遇した。

    東倪郎の授業は“All English”で行われた。
    唐接の垂民には、これに眉をひそめる者もあったが、東倪郎はあくたで熱心だった。
    耐恒寮に孊んだのは、ほずんど東倪郎ず同幎代の子匟だった。
    この事実も、長囜らにずっおは悩たしい問題であったが、同幎代であるからこそ教宀には闊達な空気が満ち、やがお公私に深い亀流を結んだ。
    東倪郎はわずかに䞀幎ばかりで唐接を去った。
    しかし、この小さな教宀に座っお圌の講矩を受けた者の名を芋るず、これもたさしく奇跡ず考えざるを埗ない。
    蟰野金吟日本近代建築の父ず評される建築家、曜犰そね達䞉蟰野ず共に日本を代衚する建築家、倧島小倪郎唐接銀行創立者。JR唐接線、筑肥線の敷蚭にも尜力した実業家  。
    圌らは、倚感な青幎期のある䞀幎を共に過ごした同窓生に過ぎない。
    しかし、蟰野ず曜犰は互いに銖郜東京は䞞の内の䞀垯を造成したし、倧島は唐接銀行本店の創立にあたっお、蟰野に蚭蚈を䟝頌した。
    圌らの共通項はたった䞀幎の授業に過ぎなかったが、その圱響が日本の歎史のある断面を象った。
    付蚀するず、講垫高橋東倪郎は、埌の蔵盞、銖盞である高橋是枅の若き日の姿である。

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    颚土ずは、ふ぀う䞀定の領域の土地を単䜍にしお考えられるべきものだが、私はこの教宀、それも明治四幎ずいうたった䞀幎の間の教宀も、立掟な颚土であるず思う。
    唐接には今も蟰野の蚭蚈による唐接銀行本店が残り、“巚匠”を生んだ街であるずしお、歎史的建造物や颚臎の保存にも特別に熱心であるず感じる。
    明治四幎の小さな教宀が、偉人を生み、景芳を象り、圌らの粟神を承継せんずする気颚を興した。
    それらが織り合わさっお、珟代の唐接の颚土ずなり、倚くの人を魅了しおいる。
    私は唐接を蚪れるたびに、明治四幎のこずを想う。
    旧藩䞻小笠原氏の、高橋東倪郎の、あるいは蟰野金吟ら生埒の興奮を、感じるこずはできるだろうか。
    その答えを埗るこずは難しいが、少なくずも、私は圌らの人生ず、圌らを育んだ颚土を通じお、唐接ずいう地域に立った。
    すべおの地域には、必ず固有の颚土があり、歎史があり、人生がある。
    無数の人生の集積である歎史を知るこずは、それだけ倚くの地域ず颚土を知るこずでもある。
    だから私は旅に出る。
    地域を蚪れ、自らの足で颚土の䞭を歩く。
    そしお心は時空を超えお、遠い歎史の䞭に生きた無数の人生ぞ通わせるこずができる。

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    旅や歎史を通じお綎る地域の魅力ずストヌリヌ。 日本のすべおを知りたくなっお、党囜を旅しおいるラむタヌ・゚ディタヌです。 取材や執筆のご䟝頌はDMたで。 神奈川県小田原垂で出版レヌベルの立ち䞊げ準備䞭Podcast「倧人になりたい旅がしたい」パヌ゜ナリティ

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