
父が亡くなって7年目の朝
この記事は、わたしの亡くなった父について書いたものです。
家族や死について率直に触れていますので、
苦手な方はここでブラウザバックをお願いいたします。
2019年6月のとある木曜日、わたしの父は亡くなった。
こうやって文字にすると改めて「自分の父親は亡くなってるんだ」と認識するが、実はいまだに実感がない。
受け入れられていないとか、喪失感が大きいとかそういうことではない。
わたしにとって父親が亡くなったという出来事は、いわば「大きめのタスク」であり、そこに感情はなかったのだ。
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亡くなるまでの約1年、父はずっと入院していた。
数年前に誤嚥性肺炎にかかり、以来その症状を繰り返していて、食事が摂れなくなったのだ。
劇的に悪くなるような病状ではなかったが、食事が摂れないことで徐々に体力が落ち、少しずつ痩せていく父。
父の経過を家族から逐一聞いていたこともあり、「驚き」とか「ショック」みたいな感覚は一切なかった。
なんというか、数ヶ月かけてジワジワと「弱っているんだ」「そういう時が近々くるんだろうな」ということを理解していったような感覚だった。
その日、父が亡くなったのを見届けたわたしは、病室を出て近くの葬儀屋に連絡した。
これからどういう段取りになるか教えてもらい、スケジュールを確認する。
家族のLINEで内容を共有し、次のタスクに取り掛かる。
不思議なぐらい頭は冴えていて、わたしは次々とやることをピックアップしていった。
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父は数年前から認知症も発症していて、コミュニケーションは数年前から上手くとれなくなっていた。
だから父が亡くなるまでの2~3年、わたしは父とほぼ話をしていない。
わたしが積極的に話しかけたりしたら、話せる機会はあったかもしれない。
けれど、わたし自身がそうすることはなかった。むしろ父とは距離をとるようになっていた。
父と距離を取ることになった理由。
それは、わたしにとって父が
・芸術家
・先生
・フォローが必要な人
という存在だったからだ。
いわゆる「お父さん」ではなかったのだ。
芸術家としての「父」
父の職業は特殊だった。
ピアニストであり、大学教授だったのだ。
最も記憶に残っている父の姿は、1日中部屋にこもってピアノを弾いている姿だ。
本当に、早朝6時から夜8時ぐらいまで弾いているのだ。
幼いころから見ていたから何とも思わなかったが、今考えたらものすごいことだ。
まず集中力が半端ないし、そんなに曲のレパートリーがあることもすごい。
父の練習方法は新しい曲を始めることもあれば、既存のレパートリーを通しで演奏し続けていることもあった。
それを聴いていたおかげで、わたしは父の十八番だったベートーヴェンのピアノソナタ(全32曲)を、第1番から順番どおりに覚えている。
言うまでもないが、このスキルが役に立ったことは今のところ一度もない。
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一見華やかに見える父の職業だが、間近で見ていたわたしは、その苦労も知っていた。
ピアノニストは、とにかく体を酷使するのだ。
楽譜をずっと見ているため、眼精疲労や肩こりになる。
椅子にずっと座っているため腰痛になる。
それらが慢性化して、背中全体ががカチカチの板のようになる。
プロ意識が強い父は、たとえ体がクタクタになっていても、コンサートで失敗だけはしなかった。
その分、練習の合間によく母にマッサージを頼んでいた。
母はもう何十年もその役割をしていたためか、頼まれるたびにうんざりしていた。けれどなんやかんや、父の演奏活動のためと我慢しながらやってあげていたのだ。
わたしも高校生ぐらいになると、父のマッサージを手伝うようになった。
高校生の娘が、父親の背中を「この辺が凝ってるね」と言いながら揉んでいる姿は、そこそこシュールだ。
とはいえ、そのおかげでマッサージの腕前は上がった。これは役に立つスキルだ。
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身体だけでなく、メンタルも酷使していた父。
もともと父は優しい性格ではあったが、同時に純粋すぎるところもあった。
人に言われたことをすごく気にするのだ。
周りから優しくされているうちは良いのだが、プレッシャーを感じたり、評価を意識すると、それがものすごくメンタルに影響する。
加えてコンプレックスも強い方だった。
自分の音楽に自信満々なときもあれば、できないことを気にしたり、できる人に嫉妬したりすることもあった。
そして、大学の仕事では慣れない人付き合いをし、かなりストレスをため込んでいた。
それらはすべて「地雷」となり、ある日突然一斉に爆発するのだ。
爆発のタイミングは様々だった。
コンサート前のピリついた時期、職場の同僚とのやり取りで行き違いがあった日、生徒さんのレッスンが上手くいかなかった時。
父が爆発すると、それはもう手を付けられない状態になる。
怒った父の姿を見た母が、一緒に爆発するからだ。
当然、壮絶な夫婦ゲンカになる。
最初こそ両親の怒鳴り声に怯えていたわたしも、いつしかパターンを覚えるようになった。
小学生になるころにはすっかり肝が据わり、両親のケンカが始まると、わたしはそそくさと自分の部屋へ隠れるようになった。
その間、両親の仲裁や割れた皿の片付けは、いつも姉たちがやってくれた。
先生としての「父」
話は少し変わり、わたしの進路の話になる。
わたしには姉が2人いたのだが、3人とも進路は「ピアノ」一択だった。
幼いころは母にピアノを教わり、小学生ぐらいになると父の仕事で縁がある先生にピアノを習いに行く。それが我が家のパターンだ。
そして高校生になると、音大受験のために「楽典」や「ソルフェージュ」などの専門科目を習いに行き、受験をする。
ちなみに、わたしは小5と中3のとき「ピアノで進学するか」と母に聞かれた。そしてわたしは「やる」と答えた。
2回聞いて、2回ともやると答えた。
母は心の中で「この子はピアノが好きで、本気でピアノを極めたいと思っている」と解釈したそうだ。
でも考えてみてほしい。
父親が365日ピアノを弾く家庭に生まれ、父のサポートをしながら、自身も子どもにピアノを教える母親のもとで育ち、「ピアノ」を何より優先する環境で育ったら、人はどうなるか。
この環境で生きるためにはピアノをやるしかない。
「やりたい」とか「興味がある」とか以前に、そういう気持ちで選択するのではないだろうか。
少なくともわたしはそうだった。
ピアノが好きかと聞かれても、
「好き嫌い以前に、もう生活にずっとあるものだから」と思っていた。
そして、ピアノを続けるために大切な「好き」「やりたい」という気持ちは、後回しになっていった。
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しかし問題が発生した。
わたしも姉たちと同じように外部の先生に習おうとしたところ、「もう歳だから無理」と断られてしまったのだ。
受け入れ先がなかったわたしは、小学校5年のころから高校3年の音大受験までの約7年間、やむを得ず父にピアノを習うことになった。
かつて「鬼」と呼ばれるほど厳しいレッスンをすることで有名だった父。
やりたいのかやりたくないのか分からない気持ちを抱え、わたしは毎週日曜の14時から、長い時は18時まで父のレッスンを受けた。
ときどき嫌すぎて泣いていたが、その都度レッスンに同席する母に「悔し涙だよね」「本気で頑張っているから泣いちゃうんだよね」と解説された。
次第に「嫌」という感情も感じなくなり、ただ「他にできることがないから」「この家のタスクだから」という気持ちでやるようになった。
「なぜこういう演奏ができないのか」と感情的になる父とは対照的に、わたしは「どうすれば自分が嫌じゃない範疇で、両親を納得させられる演奏ができるか」ということばかり考るようになっていった。
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わたしは「お父さんと娘」としての時間より圧倒的に長い時間、「先生と生徒」として父と過ごしてきた。
でもどこかで「なんで父親を先生と思わないといけないのか」という反発も抱えていた。
だから、レッスンのときは全く素直ではなかったと思う。
素直じゃないわたしに教えているとき、父はどう思っていたのか。
きっと、わたしと同じぐらいやりづらかっただろう。
「お互いやりづらかったよね。」
大人になった今なら、感情抜きでそう声をかけることができそうな気がする。
フォローが必要な「父」
父のレッスンを乗り越え、わたしは音大生なった。
そのころには、家計の収入はかなり減っていた。
父が数年前に定年を迎えたからだ。
他にも家計の事情が重なり、父の年金だけでは暮らせないことが分かっていたが、収入源の確保や支払いの目途は立っていなかった。
不安を抱える両親を支えるため実家に残ったわたしは、通学・勉強・バイト三昧の日々を過ごすことになった。
そんな当時のモチベーションは
「好きか分からないピアノを、奨学金を借りてまで勉強するんだから、できる努力は全部するしかない」
だった。
努力家だった父の遺伝子を、こんなところで強く感じることになるとは、皮肉なものである。
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収入が減った父は、以前ほど自分に自信がないように見えた。
腰痛や肩こりも慢性化し、白内障にもなった。
その都度「つらい」「しんどい」「なんでこんな目に」と言いながら、父は大暴れした。
母は母で、家計のやりくりをなんとかしようと必死だったが、もともと散財癖のある母にとって、それは容易なことではなかった。
「ピアニスト」「芸術家の妻」という煌びやかな世界に数十年いた2人。
「老後」「年金暮らし」という当たり前の現実は、あまりにもギャップが大きかったのかもしれない。
わたしは、いろいろな意味で不安定なこの両親を、いつしかフォローするようになっていった。
機嫌を読み、先回りし、ケンカしたら別々の部屋に連れて行って、いない方の文句を一緒になって言う。
もし今、他人の家庭で大学生の子どもが両親の機嫌をとろうと場を回している姿を見たら、おそらくかなり心配するだろう。
けれど、当時のわたしは何も感じていなかった。
父や母をフォローすることは、ただ「この家で生き延びるために必要なこと」であり、わたしにとってはタスクの1つに過ぎなかったからだ。
タスクはタスクであり、感情は必要ない。
わたしの大学生活は、淡々と過ぎていった。
いま父を思い出しても、感じることは何もない
父はどんな時も努力していた。
ピアニストとして家族のために働き、先生としてわたしの受験をサポートし、認知症になっても最後までピアノを弾こうとしていた。
振り返ったとき、父が一生懸命だった姿はたくさん思い出すことができる。
けれどそこに、自分の感情は一切乗らない。
父に対して「もっとお父さんぽくしてほしかった」とか「今になってすごく感謝している」みたいな気持ちはない。
怒りも不満も感謝も悲しみも、何もない。
ただ「父はこういう人だった」という事実を、改めて見ているだけだ。
父が亡くなって7年。
あの日の記憶は、今のわたしにとってもまだ「一切の感情が抜きとられた大きめのタスク」のままなのだ。
おわり