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相乗り


    東京の郊外にひっそりと建つ総合救急病院は、夜になると特に静まり返る。
    高速道路の事故患者を多く受け入れるこの施設は、最新の設備を備えながらも、古い建物の影が残る薄暗い廊下が特徴的だった。
    白い壁は消毒薬の匂いを吸い込み、蛍光灯の光はどこか冷たく、患者のうめき声やモニターの電子音が夜通し響く場所だった。

    「先生、バスに乗っていたのは乗客六人と運転手一人、合計七人です。
    現場で回収された身分証と、営業所の乗車記録が一致しています。──ですが、遺体の損傷があまりに激しく、亡くなった六人がそれぞれ誰なのか、そして生き残ったのが誰なのか、まだ特定できていません」

    特別病室の隣にある小会議室で、刑事が真剣な顔で言った。
    テーブルの上には事故報告書と身分証のコピーが散らばっている。刑事は指で報告書を軽く叩きながら、ため息を吐いた。

    そのとき、白衣の看護師がノックして入ってきた。
    「影山先生、患者さんが目を覚ましました! 全身包帯で覆われていますが、意識ははっきりしているようです。容体は安定していますが、長時間の会話はまだ負担になるかもしれません」

    白衣の医師・影山は立ち上がり、刑事に目配せした。
    「では、一緒に行きましょう。意識の状態を確認します。刑事さんも同席していただければ、身元の確認にもなるでしょう」

    二人は特別病室に入った。
    ベッドに横たわる患者の全身は、頭の先から足の先まで、厚い包帯とガーゼで完全に覆われていた。高速バスの大惨事で受けた損傷は極めて重く、医師たちは懸命に治療を続けていた。
    モニターのピッという電子音だけが、部屋に冷たく響いている。部屋の空気は消毒薬の匂いが強く、窓の外にはまだ深い夜の闇が広がっていた。

    影山はベッドの横に立ち、刑事は少し離れた椅子に腰を下ろした。刑事はポケットからノートを取り出し、準備を整えた。

    「まず、あなたの名前を教えてください」

    包帯のわずかな隙間から、患者の目がゆっくりと動いた。
    低く、かすれた声が返ってきた。

    「……田中……浩一です」

    影山はうなずき、カルテに記入した。刑事もメモを取っている。

    「事故の日の出来事を教えてください。
    できるだけ詳しく、朝から夜まで思い出せる範囲で。
    記憶と脳の状態を確認するためです」

    田中浩一は、天井を見つめたまま、ゆっくりと語り始めた。

    「その日は朝六時半に目が覚めた。マンションのカーテンを開けると、東京の空はまだ薄暗かった。鏡の前に立ってネクタイを締めながら、自分に言い聞かせた。『今日も俺は勝者だ』。シャワーを浴び、髭を剃り、完璧に整えたスーツを着て家を出た。エレベーターの中で隣の住人が挨拶してきたが、軽く会釈だけで済ませた。あんな平凡な生活を送っている人間と、長く話す気にはなれなかった。
    会社に着くと、すぐに部長から声をかけられた。『田中君、昇進おめでとう。同期の中で一番早いな』。周りの同僚たちが羨ましそうな視線を寄せてくるのが気持ちよかった。俺は今年、同期の誰よりも早く課長になった。努力の成果だ。他の奴らはただ毎日をこなしているだけ。凡庸で、情けない。朝礼で自分の部署の業績を発表したとき、他の者たちを見下ろすような優越感が、胃の底から湧き上がって止まらなかった。
    昼休み、社食で一人で食事をしながら窓の外を眺めた。同期の連中が三人で笑いながら歩いているのが見えた。俺の足元にも及ばないくせに、のんびりした顔をしている。腹が立った。
    午後からは出張だった。地方のクライアントとの重要商談。新幹線の隣の席では、サラリーマンがスマホでゲームをしていた。あんなふうに時間を無駄にする人間を見ると、自分の優位性がますます際立った。窓ガラスに映る自分の顔を見て、満足感が込み上げた。広いオフィスで部下に囲まれ、重要な決定を下す未来の自分の姿を想像した。
    商談は完璧だった。資料を完璧に準備し、自信たっぷりにプレゼンして、クライアントの顔が少し引きつるのを見て、満足感が胸に広がった。
    帰りは夜行の高速バスにした。ボーナスはマンションの頭金に回したい。移動費など削れるだけ削ればいい。最後列の窓側に腰を下ろし、無意識にポケットの財布に触れた。『まだ足りない。もっと、もっと上を目指さないと』。バスが動き出すと、対向車のライトが流れるのを眺めながら、俺は心の中で同期たちを嘲笑っていた。『あいつら、俺の影も踏めない』。事故が起きる直前まで、その思いが胸いっぱいに広がっていた……」


    その日を境に、患者は目を覚ますたび、異なる名前と記憶を告げるようになった。
    影山と刑事は毎回同じ問いを繰り返した。


    「……佐藤……健太です」

    「事故の日の出来事を教えてください」

    佐藤の声は粘つくように長く続いた。

    「朝、目が覚めた瞬間から金のことしか頭になかった。七時にアパートのベッドから起き上がり、スマホの銀行アプリで残高を確認した。『今月のボーナスは二十万か……足りない。絶対に足りない』。会社へ向かう電車の中では証券アプリを開いた。数字が少しでも上がっていると、体の奥から熱いものがこみ上げてくる。下がっていると、胃の底が冷たく重くなる。こんな感情に一日中支配されているのに、やめられなかった。
    子供の頃、父親が『金は人を幸せにしない』と言っていた。あの人は間違っている。金がないから幸せになれないんだ。金さえあれば、何もかも変わる。誰も俺を見下さなくなる。大学時代、奨学金で生活していた頃の惨めさ──アパートの薄い壁、隣の部屋から聞こえる笑い声、食堂で百円を節約するために一品減らした昼食──あの記憶が、今も俺を突き動かしていた。
    その日は地方の取引先との商談だった。契約書にサインをもらう瞬間だけが、唯一息のできる時間だった。数字が大きければ大きいほど、胸の奥に光が灯る。でもその光はすぐに消えて、次の瞬間には『まだ足りない』という声が戻ってくる。商談の席でクライアントが少し迷う素振りを見せただけで、内心で苛立った。あと五十万、いや百万、上乗せできなかったか。
    夜行バスに乗る前、コンビニでコーヒーを買ってレシートを見た瞬間、ため息が出た。こんな小さな出費すら惜しい。バスでは最後列近くの席に座り、窓の外の暗闇を眺めながら計算を始めた。スマホで新築マンションのモデルルームの写真を何度も見返し、不動産サイトを延々とスクロールした。『あのリビングにソファを置いたら、どんな顔で同期に自慢できるだろう。車も新しくしたい。旅行も……』。同期が結婚式で見せびらかした新居の写真、リビングの大きな窓から見える夜景。俺だっていつか、あれ以上のものを手に入れてやる。
    窓に映る自分の顔は、疲れた目をしていた。でも止まれない。止まったら、あの頃に戻ってしまう気がした。恐怖と欲がぐるぐると混ざり合い、指が震えるほどの執着が、事故の直前まで頭の中を駆け回っていた……」


    「……鈴木……美香です」

    「事故の日の出来事を教えてください」

    美香の声は震え、細かく長く語った。

    「前の夜から、私は眠れなかった。元彼の結婚式──彼の地元で式を挙げると聞いて、東京からわざわざ出てきたのだ。ホテルのクローゼットを何度も開けては閉め、どのドレスにするかで二時間以上悩んだ。みんなに『素敵だね』と言われる服を選ばなければ。あの女よりも、美しく見えなければ。自分でもおかしいとわかっていた。でも止められなかった。
    朝七時に起きて、鏡の前で笑顔の練習をした。『おめでとう』と何度も口に出して。式場へ向かうタクシーの中で、二人が出会ったときのことを思い出していた。引き合わせたのは、私だ。親友だったあの女が職場で落ち込んでいたとき、力になってあげたくて、彼を紹介した。それが間違いの始まりだった。私は自分の手で、自分の幸せを差し出してしまった。どれだけ後悔しても、もう取り返しのつかないことだった。
    式場で彼の笑顔を見た瞬間、胸が締め付けられた。あの笑顔は、かつて私のものだったのに。今は別の女に向けられている。白いドレスの彼女を見て、吐き気がした。披露宴のスピーチで壇上に立ったとき、マイクを持つ手が小刻みに震えていた。二人は感極まって涙を流し、私も泣いた。でもその涙の理由は、会場の誰にも気づかれなかったはずだ。
    二次会で乾杯のグラスを掲げたとき、隣に座った知り合いが『お似合いだね』と言った。胸が焼けるようだった。それでも笑顔は崩さなかった。私はずっとそうやって生きてきた。感情を押し込めて、表情だけ笑わせる。そのやり方が、あの日ほど苦しく感じたことはなかった。
    帰りの夜行バスの待合所で、若いカップルが幸せそうに肩を寄せ合っているのを見た。過去の傷が抉られるようだった。乗り込んだとき、体は鉛のように重かった。笑顔を保ち続けた一日が、こんなにも人を消耗させるとは思わなかった。
    座席で携帯を開いて、式の写真を見た。削除しようとして、指が止まった。窓の外に流れる夜の街を眺めながら、同じ問いが頭の中を回り続けた。『どうして私じゃなかったの。どうしてあの女が私の場所にいるの。私の方が美しかったのに。私の方が尽くしたのに』。事故が起きる直前まで、その問いに答えは出なかった……」


    「……高橋……次郎です」

    「事故の日の出来事を教えてください」

    高橋次郎の声は、まるでカメラに向かって話すような明るさと情熱を帯びていた。

    「俺はグルメインフルエンサーとして、全国を旅して美味しいものを探し続けている。ラーメンが一番好きだけど、和食も洋食も中華も、どんな料理でも大好きだ。嫌いな食べ物なんて一つもない。朝起きた瞬間から、次の店のことを考えてワクワクする。
    その日は、地方の小さな町で隠れた名店を巡る取材だった。朝は市場で新鮮な魚介を試食して、絶品の海鮮丼を平らげた。昼は老舗の和食店で季節の懐石を堪能し、夕方には洋食の名店でジューシーなステーキ。日が落ちてからは、店主が自慢のスープを一口飲ませてくれたラーメン屋で、締めの濃厚味噌ラーメン。脳が震えるような喜びだった。どの瞬間もカメラを回した。この感覚を、世界中の人と共有しなければ気が済まない。記録せずに食べることは、俺にとってほとんど罪に等しかった。
    それでもまだ胃に余裕がある気がして、廃業寸前の小さな菓子屋に立ち寄り、売れ残りの和菓子を全種類試食した。上品な甘さが舌に広がった瞬間、またスマホを取り出して動画を撮り始めた。バスの発車まで一時間あったから、駅前の立ち食いそば屋の暖簾もくぐった。スコアの低い店だったが、食べずには通り過ぎられない。出てきた天ぷらそばは正直そこそこの味だったが、それも記録した。普通の味は普通として記録する。それが俺の使命だと思っていた。
    夜行バスの座席に腰を下ろすと、すぐにノートパソコンを開いて今日のレポートをまとめ始めた。海鮮丼の鮮度、ステーキのソース、味噌ラーメンのスープ。採点しながら、これを見た視聴者が『行ってみたい』と感じてくれる瞬間を想像するだけで、指が止まらなかった。フォロワーの『次はどこ?』というコメントが目に浮かぶ。次の企画も次々に湧いてきた。コンビニスイーツ食べ比べ、東北の郷土料理特集、年間百杯ラーメンチャレンジ。ネタは尽きない。一生かかっても食べ尽くせない料理が、この国だけで何万種類もある。なぜ人は三食しか食べないのか。俺には理解できなかった。
    途中のサービスエリアの休憩では、売店の菓子をあるだけ買い込んだ。チョコレート、せんべい、ナッツ、グミ。隣の席の客が驚いた顔をしていたが、気にしなかった。口の中で混ざり合う食感が面白くて、これもネタになると思った。食欲は止まることなく、事故が起きるそのときまで、口の中には何かが入っていた……」


    「……渡辺……拓也です。大学三年生です」

    「事故の日の出来事を教えてください」

    渡辺の声は湿り気を帯びて響いた。

    「サークルの合宿の最終日だった。昼前から打ち上げで、みんなで居酒屋に集まってビールを飲んだ。一年生の女の子が俺の隣に座った。偶然だったかもしれないが、そう思わないようにした。三年になってからサークルでの立ち位置が少し変わって、後輩の女の子が素直に話しかけてくれるようになった。それだけで、毎日が少し楽しみになる。
    彼女が笑うたびに髪が揺れた。その動きに、目が釘付けになった。話している内容なんてほとんど頭に入ってこなかった。ただ、その声と笑顔と体の輪郭だけが、強烈に残った。スカートの裾が動くたび、視線を逸らせなくなった。
    二次会のカラオケで、彼女がマイクを持って歌った。照明が当たって、顔がいつもより明るく見えた。俺は後ろから、その姿をずっと眺めていた。歌い終わった後、少し汗をかいていた。それを見た瞬間、喉が渇いた。この瞬間を永遠に止めておきたいと思った。解散のとき『また飲もうね』と言うと、笑顔で頷いてくれた。その笑顔が、頭から離れなかった。
    みんなはもう一泊するが、俺は翌日のバイトがあって、一人だけ夜行バスで先に帰ることになっていた。酒の残った頭で乗り込むと、斜め前の通路側の席に、パーティー帰りらしいドレス姿の女性が座っていた。脚が長くて、裾が少し捲れていて……頭の中で、あの体を抱く妄想ばかりが浮かんで、喉が渇いた。
    思い返せば、中学生の頃から女の子のことばかり考えていた気がする。授業中も、放課後も、寝る前も。実際にそういう経験をするたび、最初の一瞬だけ満足する。でも次の瞬間にはもう次のことを考えている。どうして満足できないのか、自分でもわからなかった。大学でサークルに入ったのだって、正直に言えば女の子と仲良くなりたかったからだ。友情だの、青春だのという言葉は、あとからついてくる飾りだ。本音はもっと単純で、もっと汚い。でも、笑顔でいれば誰にもバレない。それが当たり前のように思えていた。
    暗い車内で、その思いは手を付けられないほど膨らんでいた。事故なんてどうでもよかった。理性が飛んで、バスの中の空気すら熱く感じていた……」


    「……中村です。……あのバスの、運転手だ」

    「事故の日の出来事を教えてください」

    中村の声は怒りに満ちて荒くなった。

    「この仕事を始めて十二年になる。大型免許を取ったときは誇らしかった。長距離バスの運転手は、プロの仕事だと思っていた。だが実際は違った。会社の管理は杜撰で、シフトは無茶苦茶で、賃金は上がらない。文句を言えば『嫌なら辞めろ』と言われるだけだ。辞められない事情があるから、ここにいる。それが腹立たしくて仕方なかった。
    あの日、夕方に営業所へ着いて点検を始めた時点で、ダイヤはすでに五分遅れていた。『またかよ』と苛立った。更衣室のロッカーに貼ってある家族の写真を見た。妻と、二人の子供。下の子はまだ三歳だ。この仕事を続けているのは、あいつらのためだ。でも最近は、それすら腹が立つようになっていた。俺が毎日怒りをこらえて働いているのに、誰も感謝しない。家に帰っても疲れ果てていて、まともに子供の顔も見られない。
    乗客が乗り込んでくるたび、遅れの理由を説明させられた。乗客は俺をまるで機械のように扱う。乗るときも降りるときも目を合わせず、トラブルがあったときだけ文句を言いに来る。十二年で、感謝の言葉なんてほとんど聞いたことがない。一度だけ、老婦人が降り際に『ありがとう、気をつけてね』と言ってくれたことがある。その言葉だけが、今でも胸の奥にしまってある。あの夜も、そのことを思い出していた。
    夜の高速道路は嫌いだ。流れが速い分、事故のリスクも高い。それでも会社は夜行便を増やした。利益のためだ。『睡眠は四時間あれば十分だ』と言う上司の顔を思い浮かべるたび、拳を握りしめずにはいられなかった。いつかあの顔を……と思う瞬間が、最近は増えていた。
    走り出してからも、前のトラックはノロノロ走り、渋滞で遅れはさらに膨らんだ。割り込んできた乗用車に急ブレーキを踏まされ、後部で荷物の倒れる音がして、すぐに乗客が文句を言った。俺のせいじゃない。あの割り込み野郎のせいだ。なのに謝らなければならないのは俺だ。この理不尽が、日に日に俺を蝕んでいた。
    サービスエリアの休憩でタバコを一本吸いながら、曇った夜空を見上げた。こんな夜にバスを走らせている俺は何なのか、と思った。プロのドライバーか。それとも怒りを飼い慣らすだけで精一杯な、ただの中年男か。タバコを踏み消して、運転席に戻った。
    発車前、客の一人が言った。『運転手さん、もっと飛ばしてくれよ』。胸の奥で、何かが爆発しそうになった。バックミラーには、スマホをいじる客の姿が映っていた。遅れを取り戻そうとアクセルを踏み込みながら、ハンドルを握る手が震えていた。『俺の時間を無駄にするな。乗客の文句がうるさくて腹が立つ』。一日中こらえてきた熱が、事故の直前まで胸を焦がしていた……」


    そして、ある深夜。
    再び同じ特別病室。

    影山は静かに尋ねた。

    「まず、あなたの名前を教えてください」

    長い沈黙の後、声が返ってきた。

    「……山本……龍也です」

    影山は穏やかに促した。

    「事故の日の出来事を教えてください」

    山本龍也の声は低く、はっきりとした口調で語り始めた。

    「俺は、あのバスの最後の乗客だ。
    ナイフを買ったのは三ヶ月前だった。ずっと引き出しの奥にしまったままだった。怖かったんじゃない。取り出すのが、ただ面倒だった。
    何年も、ああいう日を計画していた。正確に言えば、計画しようとしては、毎回途中でどうでもよくなった。強盗は体力がいる。緊張するし、捕まるかもしれない。もっと楽な方法があるんじゃないかと考えては、眠ってしまった。気づけば何年も経っていた。
    仕事はいくつか転々とした。続かなかったんじゃない。続けようという気力が湧かなかった。上司の言葉が面倒くさかった。目標を立てることが面倒くさかった。努力すること自体が、根本的に向いていなかった。人はよく『向いてないなら向いてる仕事を探せ』と言う。でも、働くこと自体が向いていない場合は、どうすればいいんだろうか。誰も教えてくれなかった。
    アパートに籠もって何日も過ごすことがあった。何もしない日は、不思議と充実していた。腹が減ったら食べて、眠くなったら寝て、また眠くなったらまた寝る。それだけで一日が終わる。それの何がいけないのか、俺にはわからなかった。社会はなぜ、常に何かをしていることを求めるのか。
    あの夜、ようやく引き出しを開けた。特別な決意があったわけではない。そろそろいい加減にしなければという、ぼんやりとした焦りがあっただけだ。駅のベンチで、コートの内ポケットに隠したナイフに触れながら、忙しそうに行き交う人々を眺めた。なぜか虚しかった。ナイフを握る手は冷たかったが、心はもう何も感じなくなっていた。
    バスに乗り込んだときには、もう半分くらいどうでもよくなっていた。金を奪っても、逃げるのが面倒だ。捕まっても、刑務所に入れば少し楽になるかもしれない。衣食住が保証される場所で、ただ眠っていられるなら、それでも構わなかった。
    それでも、走り出してしばらくして、俺は席を立った。後ろから運転手にナイフを突きつけて言った。『金を出せ、止まれ』。
    運転手が驚いてハンドルを切り損ねた。スピードの出ていたバスは、そのまま側壁に激突した……
    あの瞬間、すべてがどうでもよくなった。金も、計画も、逃げることも。責任も、欲も、期待も、何もかも放り出して、ただ、何もせずにずっと眠っていたかった。ナイフを握った手が、途中で緩んだのを覚えている。
    ……おかしいんだ。あれから、他の奴らの気持ちが全部、頭の中に流れ込んでくる。誇りも、金への執着も、妬みも、食い意地も、情欲も、怒りも。なのに俺は、ただ『どうでもいい』としか思えない。
    全部、終わればいい……
    痛みすら、どうでもよかった……」

    言葉が途切れた。
    影山はゆっくりとカルテを閉じた。


    影山と刑事は小会議室に戻ってきた。
    刑事は顔を上げ、声を落として言った。

    「先生……これで七人目です。バスに乗っていた七人全員──乗客六人と運転手の記憶が、あの一つの体に宿っている。
    一つの身体に複数の意識が宿ることなんて、あるんですか?」

    影山は目を伏せ、白衣の袖を軽く握りしめた。

    「……お話ししなければならないことがあります。
    あの夜、運ばれてきたとき、生存者は一人もいなかったんです。猛スピードで側壁に激突したバスの中で、七人の身体は、どれが誰のものか判別もつかないほど、完全にバラバラになっていた。
    私はそれを……どうにかこうにか接合して、一つの身体に繋げたんです。心臓は動き出し、拒絶反応もなかった。だから『生存者一名』と報告した。まさか、こんなことになろうとは……
    私は、禁忌を犯してしまったのかもしれません」

    刑事は息を飲んだ。

    「先生……それは……」

    そのとき、隣の特別病室から、言葉にならない声が響いた。
    赤子が初めて声を上げようとするような、喉の奥から絞り出される、意味を成さないうめき声だった。

    「ア……アア……ウ……グ……」

    やがて、そのうめき声は徐々に形を成し、七つの違う声が重なり合うように響き始めた。

    「オレは……誰……?」
    「わたしは……誰……?」
    「自分は……誰だ……?」

    七人の声が、まるで一つの喉から同時に出てくるかのように、歪に重なり合い、部屋に谺した。
    廊下の空気が、凍りついたように冷たくなった。

    声を聞いた影山と刑事は顔を見合わせ、急いで病室へ向かった。だがドアの前に立った瞬間、二人は危険を察して足を止め、そのまま扉を閉ざした。閉じた扉の向こうから、声はまだかすかに響いてくる。

    「オレは誰……?」
    「わたしは誰……?」
    「自分は……誰……?」

    刑事は壁に背を預け、声を低くした。
    「今のは……何だったんですか? 七人の声が、同時に……」

    影山は廊下の窓の外を見つめたまま、静かに答えた。

    「私にも……わからない。
    ただ、あの体は七人の遺体を継ぎ合わせたものです。七つの欲を宿した体の中で、今……八つ目の何かが、生まれたのかもしれない」

    病院の廊下では、後になって看護師たちが囁き合っていたという。
    「七人の声が聞こえていたはずの部屋から、言葉にならない産声のような声と……七つの『誰?』が重なって聞こえた」と。

    そして、包帯の下で、
    七つの欲と、「己が何者かを知りたい」という生まれたばかりの八つ目の欲──
    合わせて八つの思いを宿したその存在は、
    静かに目を閉じ、
    次の「停留所」を待っているようだった。

    終。

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門  

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