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公開しようとした瞬間、手が止まる

最近、「Android版はありますか?」と聞かれることが増えました。
すみません、実はiPhone版もまだありません。

アプリを作っているはずなのに、
少し手が止まってしまうことがあります。

自分専用に作ったアプリを「使ってみたい」と言われるのは素直に嬉しい。

でも、じゃあ「公開します」とはならない。
自分でも少し変だなと思っています。

正直なところ、評価はされたい。
でも、「便利だった」と言われたい訳ではない。

うまく言葉にするのは難しいですが、どこかで違和感があります。

「公開してからがスタート」という言葉

「アプリは公開してからがスタート」
よく聞く言葉です。

ユーザーに届けるのが大事だということ。
たぶん、正しいと思います。

でも、心から「その通りだ」とは思えていない自分もいます。

私の場合、作り始めた時点ですでに楽しくて、
もうスタートしている感覚があるからです。

公開している人はすごい

個人開発でアプリを公開している方のことは、心の底から尊敬しています。

アプリは、作って終わりではなく、
公開した瞬間から、別の仕事が始まる。

作ることとは別の強さが必要になる。
私はまだ、そのフェーズに踏み込めていません。

昔のPCソフトは、「自分が欲しいから作ったもの」を、ついでにおすそ分けするような空気がありました。

でも今は違います。
ストア審査、OSアップデート、ユーザーレビューなど。

公開しようとすると、自分の中の「工作」が、
急に「誰かのためのもの」に変わってしまうかもしれない。

そんな感覚に、少し抵抗があります。

「読まれる」ことと、「使われる」こと

文章は手放せる。
でも、アプリは手放せない。

どう使われるのか、どう評価されるのか、
どうしても気になってしまう。

完成品にしてしまうと、
どうしても「ちゃんとしなきゃ」が働いてしまう。

たとえば私が作った「TapMaster」というビールを注ぐだけのアプリがあります。

泡の成長や、グラスを立てたときのふくらみを、0.01単位で調整しながら、
自分にとって一番気持ちいい状態を探しました。

もしこれを公開したら、
「難しすぎる」「もっと簡単にしてほしい」と言われるかもしれません。

そして私は、その声に合わせて、
この微妙なバランスを壊してしまうかもしれない。

完成品ではなく、「触り方」を置いておく

とはいえ、やはり公開してから分かることもたくさんあるのだと思います。

そこで今考えているのは、完成したアプリを配るのではなく、
その手前にあるものを置いてみようということです。

コードです。

読むこともできるし、触ることもできる。
少し変えれば、自分のものになる。

それは配るというより、
「触り方」を置いておく、という感覚に近いのかもしれません。

うまくいくかどうかは分かりませんが、
そのくらいの距離なら、まだ手放せる気がしています。

みんながそれぞれ、自分専用のアプリを作って、
当たり前のように自分のスマホに入れて使っている。

そんな景色が、
もうどこかでは始まっている気もしています。


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