コードを書く前に、手触りがある
「豆腐タワー」を作っていた。

最初は、すりおろし生姜の粒が大きすぎた。
画面の上では、生姜というより大豆のように見えた。
鰹節も、ころころ転がっていた。
ふんわり軽く乗ってほしいのに、積み木を置いたようだった。
これは、私がCodeaというアプリで作っていたデジタルな豆腐の話。
コードだけを見れば、粒子の数や、図形の大きさなど、単なる数値の話なのだと思う。
でも、自分が見ていたのはそこではなかった。
「生姜の繊維感と、すりおろした細かさを出したい」
「鰹節は転がらず、ふんわり軽く乗せたい」
そんな感覚。
最近、PythonでAIと一緒にアプリを作るための小さな道具を作った。
Codea上のコードを直接書き換えるためのPatcher。
AIが出力したコードの中から、直したい部分だけを差し替えられる。
自分の手で貼り替える手間やミスがなくなり、試すまでの距離がかなり短くなった。
違和感に気づき、何が違うのかを言葉にする。
直して、触って確かめる。
違ったら戻す。
その往復を止めないための道具になった。
冒頭の豆腐タワーなど、自分が最近作っている「#触れるらくがき」は、
アプリやゲームというよりも、触ると少しだけ動く、小さな装置に近い。
自分の中にある「気持ちよさ」や「違和感」を確かめるための実験をしている。
何かを作っているというより、手触りを探し求めているだけなのかもしれない。
よく「コードが読めないとシステムは作れない」という言葉をよく目にする。
確かに、大きなシステムや長く運用するものを作るなら、プログラミングの基礎は今後も必要なのだと思う。
でも、私が今作っているものは少し違った。
綺麗なコードを自分で書けることよりも、「何に違和感を覚えるか」の方が、出発点になる場面があった。
AIが出したものを、そのまま受け入れることもできる。
ただ、それを続けていると、自分が作り手ではなく、出来上がっていくものをただ眺めるだけになってしまう気がする。
AIには全自動で何でも作ってくれる存在ではなく、自分の感覚を形にしてくれる助手でいてほしい。
技術が発展した先、これから人間には何ができるのだろう。
最近はそんなことをよく考える。
「おいしそうな湯気」と「ホコリっぽい煙」の違い。
「余白」と「何もない場所」の違い。
そういうものを見分ける感覚は、コードだけを見ていて生まれるものではない。
自分の感覚で「これだ」と思えるものを探り当てること。
どこに納得するか。
どこで完成にするか。
今の自分にとって、そこはまだ手放せない。
AIに作ってもらっているのではなく、
「図工の時間」を自由にするために、隣で手伝ってもらっているだけということ。
アプリを出したいというよりも、
自分が作ったものを、外にそっと置いてみたい。
それぐらいの感覚が、今はしっくりきている。
