メインコンテンツへスキップ
見出し画像

これは、とある温泉宿のお話

    あらすじ

    その温泉宿は、山深い渓谷にぽつんと建っている。遊ぶところは何も無い。ただ、美しい渓流が流れているだけ。
    だが、ここは極上の宿。
    その温泉が、その料理が、そのもてなしが、全てが極上。
    訪れた客はここで美味い料理を食べ、温泉に身を沈め、女将と従業員たちに心を癒やされる。

    都会の生活に疲れた中年男性は、ひとりの女性従業員との間で。
    心に傷を持つ17歳のギャルは、年の離れた料理長と。
    そして、9歳の兄と6歳の妹は、女将とある絆を結ぶ。

    3組の宿泊客は、ここで何を思い、何を知り、誰と出会うのか。


    本文

    第1章 渓水の間のお客様

     私が辿り着いたのは、山深い峡谷にぽつんと建っている温泉宿だった。
     宿の周りには他の宿はおろか土産物屋もない、正に秘境の宿。

     “何も無いが、有る”

     そんなベタな宣伝文句を思い浮かべながら、私は宿の門をくぐった。

     宿の建物自体は古民家の風情たっぷりだが、玄関の正面に立ってみると、まず建物の大きさに圧倒される。見上げても屋根のてっぺんが分からないのだ。

     空を見上げて呆けたように突っ立っている私に気づいたのだろう、奥から和服の女性が近づいてきた。

    「本日よりご予約のお客様、遠いところ、ようこそいらっしゃいました」

     丁寧にお辞儀をして、その女性は続けた。

    「わたくし、この宿の女将、きさらぎと申します」
    「あ、女将さんですか、はい、お世話になります。えっと予約していた東京の、えっと」
    「はい、承知しております。さ、お上がりになってくださいませ」

     女将と名乗った女性、きさらぎ。

     二十歳を少し過ぎた頃だろうか、予想外のことに少し慌ててしまった。

     女将は再び丁寧にお辞儀をして、私を招き入れてくれた。

     宿の廊下は薄暗くて長く、奥の突き当たりで左右に分かれている。

     廊下の両側に並ぶ部屋には、それぞれ名前が付いていた。和風の名前、英語の名前の部屋もある。

    -このご時世だ、外国人の客も多いんだろう。だけど、まだひとりも見てないな。

     そんなことを考えながら歩いていると、女将が立ち止まった。

    「こちらでございます」
    「あぁ、ありがとうございます。えっと、部屋の名前は」
    「渓水の間でございます」
    「ケイスイの間、ですか」

     部屋に入ると畳間がふた間、窓は大きく、開け放すとサラサラと流れる水音が聞こえてきた。なるほど、この部屋は宿の側を流れる渓流に面しているのだ。

    「気持ちのいい水音だ、空気も爽やかに感じます。だから渓水の間、ですか」
    「はい、これからの季節、いつでも渓流の新緑がお楽しみいただけますよ?」

     女将はにっこりと笑いながら部屋の説明を始めた。

    「お風呂はお部屋にはございませんので、皆様大浴場をお使いいただいております。大浴場は五つございまして、順番に掃除をいたしております。大浴場の方へお越しいただいて、使える浴場をお好きにお使いください。24時間いつでもお使いいただけます。それとお食事ですが、朝食、昼食、夕食はご準備の時間を毎度お伺いしますので、何なりとお申し付けください」
    「え、三食全部ですか?それはかなり手間なのでは、そちらで準備された時間に合わせますよ」

     恐縮して言う私に女将は「いえいえ、ご遠慮は不要でございます。食べたいときにおっしゃってください。お夜食でもいいんですよ?」と言う。

     そこまで言うならそうするか。私はそう思った。

    「分かりました、ありがとうございます。それではお世話になります」
    「はい、どうぞごゆっくりなさってください」

     そう言って女将は部屋を出て行った。

     ひとりになった私はいっとき畳間に寝転がって、ぼんやりと天井を見上げた。

    「さてと、これからどうするか」

     早速大浴場に行ってみるのもいいだろうし、川に降りて渓流の風情を楽しむのもいい。とにかく時間はあるんだ、このまま少し昼寝と決め込むのもいいかな。

     そこまで考えて、私はブンブンと頭を振った。

    「いやいやいや、せっかくの温泉宿だぞ?迷う必要なんかないだろ」

     いくつかの選択肢があったが、そもそもの目的を考えれば風呂一択だ。

    「よし!行くか!!」

     私は無駄な気合いを込めて起き上がり、大浴場に向かった。

     大浴場棟は本館の隣に建っていたが、もしかしたら裏手なのかもしれない。

     ただ、部屋から長い廊下を歩いてきたが、どういう訳か他の宿泊客と会わない。こんな宿なら夫婦連れや賑やかな団体客がいるものだが。

     女将の言ったとおり、五つある大浴場のうち三つは清掃中だ。後の二つが男湯、女湯に分けられている。

     脱衣所から浴場への引き戸を開けると、広々とした石造りの湯船に数カ所から温泉が流れ込んでいる。外に出る扉もあるから、露天風呂も楽しめそうだ。

     先客は3名、一人は外国人か。廊下では誰にも会わなかったが、宿泊客がいることに不思議とホッとした。

     私は早速下湯を使い、先客たちと十分に間を置いて湯に身体を沈めた。

    「ふぅ~」

     目をつむって顎を上げ、腕を広げ、足を投げ出して天井を見上げるような格好、至福のときだ。

     いっとき名湯の心地よさを味わって、先客たちに目を向けてみると、いつの間にか一人増えて、湯船には私を含め五人が浸かっていた。

    「あれ?何の音もしなかったけれど、ふぅ、あんまり気持ちよくてボンヤリしたかな?」

     私は取り留めもなく考えながら、十分に体を温めた。

    「さ、少し外の空気にもあたるか」

     そう思い湯船を出た私は、扉を開けて外に出てみた。
     想像通り、そこは広々とした露天風呂になっていた。東屋造りの屋根も大きい、これほど大きな東屋は見たことがない。
     岩が配置された湯船には、孟宗竹のように見える管から温泉が注がれている。緑も多く、苔むした雰囲気はまるで庭園だ。

    「すごい、こんな露天風呂は見たことないな」

     私は身も心も洗われるような時を過ごし、部屋に戻った。十分に暖まったのか頭もふわふわとして、どうやって部屋まで戻ってきたのか曖昧なほどだ。

    「さて、温泉に入ると腹が減る、夕食をお願いしよう」

     私がここに着いたのは昼をかなり過ぎた頃だったから、これが宿での最初の食事だ。少し緊張しながら部屋の電話の受話器を持ち上げると、すぐにフロントに繋がった。

    「はい、渓水の間のお客様ですね。いかがなさいましたか?」

     男性の声だ。

    「あ、はい、夕食の準備をお願いしたいのですが」
    「承りました。では、お部屋にお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
    「あの、少しお酒も欲しいのですが・・ありますか?」
    「はい、お酒でしたらなんでも取り揃えてございます。いかがなさいますか?」
    「そうですね、じゃ、ビールとウィスキーにします」
    「承知いたしました。それぞれ準備してお持ちいたしますので」

     私はそれほど飲む方ではないが、なんでもと言われればどんな酒が出て来るのか気になる。飲むのも仕事のうち、なんていう仕事柄というヤツか。

     ほどなくして、部屋の扉がノックされた。

    「はい、どうぞ」
    「お待たせいたしました。では、お食事を整えさせていただきますので、少々お邪魔いたします」

     食事を持ってきてくれた従業員は二人。男性の方はさっきの電話の人だろう。もうひとりは女将と同じくらいの年齢に見える女性、というか、女将によく似ている。

     二人は手際よく料理を卓上に並べていった。肉料理が中心のようだ。

     そう言えば私は魚が苦手だが、そんなことは伝えていなかったはず。

    「あの」

     私は女性従業員に声を掛けてみた。

    「私が魚が苦手っていうこと、前にお伝えしていましたか?」

     女性従業員は振り返るとにっこりと笑った。

    「ええ、承知しております。この宿をご予約なさるときに、いろいろとお伺いしていますよ?」
    「そ、そうですか」

     そうだったのか。確かに予約したのはずいぶんと前だった、と思う。私はそんなことも忘れていたのか。そう得心がいった私は、先ほどから気になっていることも聞いてみた。

    「えっと、お嬢さんは女将さんによく似てらっしゃる。ごきょうだいとか、ですか?」

     その問いに応えようとした女性従業員より先に、男性従業員が話し出した。

    「お客様、このような田舎の宿でございます。女将もこのうみみこも、私もみな同族なんですよ」

     うみみこと呼ばれた女性従業員が続けた。

    「そうなんです。そして、こちらはやまみこと申しまして、私の兄でございます」
    「そうなんですか、なにか、失礼なことを聞いてしまいました」

     やまみこと呼ばれた男性従業員は、首を横に振りながら応えた。

    「とんでもございません。私どもはみな、お客様にご奉仕することを誇りにしていますから、お客様はただ、この宿をお楽しみいただければ、私どもも嬉しいのです」

     そのような話をしている間も、料理はてきぱきと並べられ、その傍らにはビールとウィスキーが準備された。どちらも数種類の銘柄が置かれていて、とても飲み切れそうにない。

    「お酒、こんなにお願いしてすみませんでした。今日は頑張っていただきますけど、明日からは控えますね」
    「ははは、いや失礼しました、もっと色々なお酒がありますから、またお申し付けください」

     やまみこはそう言うと、うみみこに目配せをして立ち上がった。

    「それでは、ごゆっくりとお楽しみください」

     ふたりは頭を下げると、そろって部屋を出て行った。

    「そうか、ここは同族経営ってことか、しかしうみみこさんは綺麗な子だ。やまみこ君もモデル並みだったな」

     私は自分のだらしない腹をポンポンと叩いて、ふぅ、とため息をついた。

    「ま、それはそれ、これはこれ、食べるか!」

     料理は美味かった。

     牛肉はローストビーフのようなタタキ、小ぶりだが肉厚のステーキ、焼き加減は私好みのウェルダンだ。薄切り肉の冷やしゃぶサラダは野菜と一体化する柔らかな牛肉、よほど肉質がいいのだろう。
     豚肉は角煮、バラ焼き、酢モツ、まるで居酒屋のような料理もここまで昇華するのかと感心するほど美しく盛り付けられ、そして旨い。
     鶏もそうだ。唐揚げにしろ焼き鳥にしろ煮込みにしろ、締めにと用意された鶏そぼろ茶漬けまで、こんな家庭的、大衆的な料理がこれほどの味だとは。

     どれも食べたことのある料理ばかりだったが、その中で間違いなく1番。安い言い方だが、そう感じるものだった。

    -こんなすごい料理、初めてだ。もしかしたら苦手な魚料理も、食べなきゃもったいないんじゃないかな?

     それぞれの料理に合う酒を少しずつ飲みながら、私はそう考えていた。

    「よし、明日の夕食は魚をお願いしてみるか!」

     ビールもウィスキーも少しずつ飲んだはずだが、締めの茶漬けを食べる頃、私はしたたかに酔っていた。

    「あぁ、もうだめだ。もう飲めないし、食べられないよ」

     ふかふかの布団に潜り込んだ私は、夢の中で飲み食いしている子供の様な事を呟いた。

    ・
    ・

     翌朝、私は気持ち良く目覚めた。昨夜は記憶が曖昧になるほど飲んだはずだが、それどころか少し腹が減っている。

    「昨夜の飯は美味かった。しかしあんだけ食ったのに、やっぱり腹は減るもんだな」

     そんなことをぶつぶつと呟きながら、受話器を持ち上げた。

    「おはようございます。お客様」
    「あ、うみみこさんですか、えっと、朝食をお願いしたいんですが」
    「かしこまりました。朝食には和食と洋食をお選びいただけますが、いかがなさいますか?」

    -夕食は魚料理を頼むんだよな。では!

    「じゃ、洋食でお願いします」
    「承りました。あ、ところでお客様、わたくし、うみみこではなくて、いざよいと申します」

     いざよいと名乗った女性従業員は「よく同じ声と言われますので、お気になさらず」と笑いながら付け加えた。

    「あ、すみません、いざよいさん、ですね」
    「はい、では少々お待ちくださいませ」

     私は少し慌てて謝り電話を切ったが、とてもすがすがしい気持ちになっていた。

    「気持ちの良い対応、というのはこういうものなんだな」

     長らく営業職だった私だが、すぐに顧客と打ち解けるのは難しいものだ。だけど、それをいとも簡単にやってのける、そんな才能を持った人もいるもんだ。

     営業の天才?
     口から先に生まれてきたような?
     好感度の塊?

     私はそれほどのものは持っていなかったから長年すり減ってしまって、少し疲れていたかもしれない。

     先ほどのいざよいの対応は気持ちの良いものだった。わざとらしくない自然体の心地よさ。きっと彼女は、そんな才能を持った人、なんだろう。

    -あれ?俺って結局、営業で何がしたかったのかな。いや、俺って、そもそも何かしたっけ・・

     目を瞑ると、ふっと東京の景色が浮かんだ。
     見渡す限り広がるビルの群れ。車も人も、ちっぽけだ。
     顔に当たる風が・・・気持ちいい・・

     急に風が強くなって、景色が流れて・・


     ”コンコン”


     扉がノックされ、私はハッとして目を開けた。

    「はい、どうぞ!」

     朝食を持ってきてくれたのはいざよいだ。やはりきさらぎ、うみみことよく似た女性。

    「では、少々お邪魔いたします」

     いざよいはそう言うと、てきぱきと食事を準備してくれた。

     理想の朝食とはこういうものか。美しく盛り付けられたサラダとエッグベネディクト、保温容器に入っているのはクラムチャウダーだそうだ。数種類のパンもバスケットに盛られて、コーヒーの芳香が部屋を満たす。

    「それではお客様、ごゆっくりお楽しみください。片付けは時間をみて参りますので」

     そう言って立ち上がろうとするいざよいに、私は少し話し掛けてみた。

    「あ、いざよいさん、でしたよね。ちょっといいですか?」
    「はい、いかがなさいました?」
    「あの、朝食の後なんですが、このあたりで何かできることってありますか?周りには何もなさそうなので・・」
    「そうですねぇ、お客様にもよるんですが、川岸を散策される方が多いでしょうか。よく、渓流の景色が美しいとおっしゃっていただきます。でも、部屋でずっと本を読んでおられる方や、温泉にずっと入っている方もおられますよ?のぼせないかと心配なのですが」

     いざよいは微笑みながらそう教えてくれた。

    「つまり、何かの施設とかで楽しむんじゃなくて、とにかく自分のやりたいことをしてるんですね」

     そうは言ったものの、自分はこれから何がしたいのか、まったく考えつかなかった。

    「困ったな、私にはこれといった趣味がなくて、川に降りてみようとは思いますけど、やっぱり景色を見るだけになりそうですね」

     いざよいは少し首をかしげながら私を見つめていたが、ふいに何か思いついたように話し出した。

    「お客様、宿には釣り具が常備されています。このような田舎の宿ですから、お楽しみいただけるような場所もありませんので、なにか経験してみたいことがあれば私がお手伝いいたしますよ?」
    「そうですか、じゃあ朝食をいただきながら考えてみますよ」
    「承知しました。では、後ほど」

     なるほど、いくら温泉が良くて食事が美味くても、退屈するのは私だけではないようだ。そう思うと少し安心して朝飯が食える。

     私はまず、バスケットに手を伸ばした。

     ちぎったロールパンを熱々のクラムチャウダーに浸せば幸せの味だ。エッグベネディクトのソース、いざよいはオランデーズソースと言っていたか、に絡めてもいい。半熟の黄身がカリカリのクロワッサンによく合う。新鮮なサラダをライ麦パンに挟んで好みのサンドイッチにするのも面白い。

     私はあっという間に数個のパンを平らげて、いい香りのコーヒーを楽しんだ。

    「あぁ、パンってこんなにも美味いものだったのか」

    -豪華な料理は接待でいくらでも食ったが、味なんて覚えていない。でも、ここの料理は違う。きっとこの味はずっと覚えているだろう。

    「ふぅ・・美味かった」

    -そうか、こんなに美味いものを自分で作るって、面白いんじゃないか?それに、もし自分が釣り上げた魚を美味く料理できるなら、もっともっと・・

    「決めた!」

     私は受話器を取って、いざよいに繋いでもらった。

    「お決まりになりましたか?」
    「はい、いざよいさん。釣りを教えて欲しいんです。それと、出来ればなんですけど、自分が釣った魚を料理できれば面白いんじゃないかって」
    「それはいいですね!では、カメラもいかがですか?」

     それは唐突な提案だった。

    「カメラ、ですか?」
    「はい、カメラです。渓流の景色が美しいのはもちろんなのですが、自分で釣った魚がどれほど美しいか、おそらくご経験なさったことはないでしょう。おまけに料理をされたいのですよね。美しく盛り付けられた料理は人の目を奪います。それらを美しい写真に残すのはとても難しくて、面白いんですよ?」

     ウキウキとした声のいざよいに、私はすっかりその気にさせられていた。

    「分かりました。ではまず魚釣りから、ですか?」
    「そうですね、準備いたしますので、しばらくの間ロビーでお待ちくださいませ」

     受話器を置くと、自然と笑みがこぼれていた。

    「この歳になって魚釣りか、初めてのことにワクワクするなんて、まるで子供の頃に戻ったようだ」

     私はいそいそと普段着に着替え、はやる心を抑えて部屋を出た。

    ・
    ・

     ロビーに着くと、いざよいはフロントの前に立っていた。

    「お客様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

     しばらく待つつもりだったが、いざよいはもう準備を終えているようだ。
     私は軽く会釈していざよいに駆け寄った。

    「すみません、逆にお待たせしたようですね」
    「いえ、お気になさらず。準備もそれほどではありませんので」

     いざよいの笑顔にホッとしながら、傍らに置いてある数種類の釣り具に目をやる。

    「いざよいさん、私は釣りって初めてなんですけど、竿が何本もありますね、リールが付いてたり、付いてなかったり」
    「はい、渓流での釣り方は何種類かありますので、お客様がどのような釣り方がお好みか、まずはお試しいただこうかと」
    「そうなんですね。じゃ、お願いします」
    「かしこまりました、では、参りましょう」

     私といざよいは遊びに行く子供のように、いそいそと玄関を出た。

     川岸に来ると水の流れは意外と強く、岩に当たった飛沫が風に乗って冷たい。その水音に、いざよいの声も私の声も自然と大きくなる。

    「いざよいさん、これでいいですか?」

     私はリールが付いていない釣り竿を選び、言われるまま草鞋に履き替えた。

    「はい、渓流の石は滑りやすいのでお気をつけください。さぁ、その竿にはもう仕掛けを付けてありますから、まずは餌を探しましょう」
    「エサ?ここで探すんですか?」
    「はい、この流れの中の小石をひっくり返すと、ほら」
    「わっ!」

     手の平に収まるような小石だが、その裏側には小さな虫が何匹かくっついていた。なにやら蓑虫の巣のような砂の塊もある。

    「なんですか?これ」
    「これは、カゲロウの幼虫なんです。他にカワゲラなど何種類かいますが、釣り人はこれを川虫と呼んでいます。渓流の魚はこれが大好物なんですよ?」
    「はぁ、カゲロウは知っています。あのカゲロウの幼虫ですか。初めて見ました」
    「カゲロウはこうやって水の中に住んでいて、羽化して成虫になると水から飛び立ちます。そして子をなし、死んでいきます。カゲロウの成虫には子孫を残す機能しかありません。水も飲まず、何も食べないから、口も、消化器官もないんです」

     ではカゲロウはいったい、なんのために生きているのか。

    「なにか、悲しいですねぇ」

     ぽつりと正直な感想が漏れた。

    「いえ、お客様。それがカゲロウなんですよ?カゲロウは自分が不幸だなんて思っておりません。ただ、釣りの餌になるのは嫌かもしれませんね」

     いざよいは少し微笑みながら言った。

    「そうか、そうですね!じゃ、カゲロウの幼虫に感謝して!」

     一投目はいざよいに餌を付けてもらった。小さな釣り針に小さな川虫を2~3匹刺し、流れを読みながら振り込む。思ったより簡単だ。
     二投目からは自分で餌を付け、岩の影の渦や落ち込みなど、魚がいそうなところを教えてもらいながら振り込んだ。

     激しい水音も気にならず、振り込んだ糸に付いている目印を凝視する。

    「ほら!」

     ふいにいざよいが声を上げた。私はその声につられて竿を立てた。

    「あっ!」

     竿が大きくしなり、糸は下流に引っ張られていく。魚は流れに乗って竿先を絞り込み、本流に乗ろうと暴れ回る。私は必死で耐えた。

    「お客様、竿を少し岸寄りに、そうですそうです!あとはもう少し竿を立てて、流れに乗せては駄目です。流れから斜めに魚を誘導して」

     いざよいの言うとおりにすると、魚はゆっくりと岸に寄ってきた。

    「さぁ、あとはこの玉網で掬ってください」

     私はいざよいに手渡された玉網を魚に近づける。魚も身をくねらせながら避けようとするが、竿を立てて魚を寄せ、そして玉網に収めた。

    「はぁ、や、やった!!釣った!!」
    「やりましたね!お客様!!」

     私もいざよいも満面の笑みだ。こんなに気持ち良く笑うのは、いつぶりだろうか。

    「いざよいさん、この魚は?」
    「これはヤマメです。大昔、サクラマスが渓流に閉じ込められた魚なんですよ?」
    「ヤマメか、テレビで見たことあります。でも、しかし、なんて美しい」

     玉網に収まったヤマメは渓流の清らかな流れに横たわり、木洩れ日を浴びて美しい魚体を更に美しく輝かせていた。

    「これは、食べられますか?いや、食べていい大きさですか?」
    「はい、25cmはありそうです。お持ち帰りいただけますよ?それとお客様、さきほどこの魚を美しいとおっしゃいました。写真に残したくありませんか?」
    「はい!ぜひ!!」

     その後、私はいざよいが持ってきていたカメラを借りて、ヤマメの写真を撮った。

     古い一眼レフで扱いは難しかったが、やはりいざよいが教えてくれて、何枚撮ったか分からないほどの写真を撮った。たった1匹のヤマメの写真を。そして私は、レンズを美しい渓流と、そしていざよいに向けた。

    「いかがですか?釣りと魚、そして風景、写真、ご満足いただけましたでしょうか?」

     いざよいは目を細めながら私に問う。

    「はい、なんて面白い、それよりなんて美しい、生きた魚が、川の流れが、木々と太陽と、光と影が作り出す光景が、そしてそこにいる人が、なんて美しいのか。そしてそれを写真に残す行為が、なんと面白くて尊い事なのか」
    「ふふ、お客様」
    「いや、どうしてこれまで気が付かなかったんだろう。なんてもったいない時間を過ごしてきたんだろう。こんな簡単なことなのに」
    「お客様」

     私はハッとした。夢中になりすぎて、いざよいの声が耳に入らなかった。

    「は、はい、ごめんなさい」
    「ふふふ、お客様、謝る必要なんて。それよりお客様、もう夕刻ですよ?」
    「えっ?!ホントだ!もう夕方になってる!」
    「はい、お客様はもうかれこれ6時間か7時間か、お遊びになりました」
    「信じられない。時間を忘れて遊ぶなんて、子供の頃以来です」
    「ところでお客様、おなかは?」
    「あ!お昼食べてない!!おなか、すきました!」
    「じゃあ、帰りましょうか」
    「うん、帰ろう!」

     私といざよいは夕方まで遊んだ友達のように、宿へと歩を向けた。

     途中、辺りは傾く太陽に紅く染まり、この世とは思えない景色を作り出した。私はまた、その景色とそこに佇むいざよいの姿をカメラに収めた。

     美しい、その言葉しか思い浮かばなかった。

     宿に着き、私はいざよいに今日一日の感謝を伝えて部屋に戻った。

    「あぁ、楽しかった。しかし昼飯も忘れて遊ぶなんて、それにしても、楽しかった」

     風呂と食事がいくら良くても退屈、そんな思いはもう微塵もなかった。

    -夕食は風呂に入ってからとお願いしてある、それに一品は自分が釣ったヤマメだ。さっさと大浴場に行って、いざよいさんに取り次いでもらわなきゃ。

     私は大浴場に急いだ。

     昨日は清掃されていたのであろう、今日の大浴場も手入れが行き届き、また違った造形の湯船は違う温泉宿に来たかのように錯覚させる。

    -昨日の大浴場は石造りだったが、ここは檜か。それにしても、こんな大きな檜風呂なんて、いったいどんな大木なんだ?

     そんな事を思いつつ、檜の芳香を胸いっぱいに吸い込んで、湯船に身を沈めた。

    -いや、気持ちのいい風呂だ。遊んだ疲れがこんなに心地良いとは。それより明日も釣りをしよう。ワクワクするな。

     私はこの温泉宿を、心から楽しんでいることに気がついた。

    -おっと、明日の前に、まだイベントは残ってるぞ。

     私は少し早めに温泉を切り上げ、身支度してロビーに向かった。

    ・
    ・

     フロントにはやまみこがいた。

    「やまみこさん、すみませんが、いざよいさんに取り次いでいただけませんか?ちょっとお願い事をしてまして」
    「あぁ、いざよいですね、少々お待ちください」

     やまみこは微笑みながら受話器を持ち上げ、誰かと話している。と、やまみこは受話器を降ろし、私に向き直った。

    「お客様、大変申し訳ありませんが、いざよいはただいま所用で手が離せません。お客様のお話は承っているということですので、女将のきさらぎに取り次がせていただいて、よろしいでしょうか?」
    「あぁ、女将さんですね。もちろん結構です。よろしくお願いします」
    「承知いたしました。それでは少々お待ちください」

     やまみこはまた受話器を持ち直し、ひとことふたこと話して受話器を置いた。

    「すぐに女将が参ります。どうぞそちらでお待ちください」

     きさらぎはほどなくしてやってきた。

    「お待たせいたしました、お客様。厨房の準備をいたしましたので、さぁ、参りましょう」
    「あぁ、女将さん、ありがとうございます。急にこんなことお願いして」
    「いえいえ、いざよいはとても良い提案をしたものだと感心しています。それにお客様もとても喜ばれたご様子で」
    「えぇ、本当に楽しかったんです。それに、私が魚料理が苦手だって承知していただいてるのに、今日は魚が食べたいなんて、それも自分で料理したいなんてわがまま言って、すみません」
    「そんなお気になさらず、それに今日ご自分で料理してみて、もしご興味がおありでしたら、これからも調理場にいらしてくださいませ。料理長にはそう申しつけておきますので」
    「いやいやそんな、本当は自分で釣った魚を食べられるだけで良かったんですから」
    「左様ですか、でもやってみたら釣るよりもっと面白い、とお感じになるかもしれませんよ?」

     きさらぎはいたずらっぽく笑っている。

    「さぁ、着きました。では中へどうぞ」

     厨房では幾人かの料理人が忙しく働いている。こんなところで自分の釣った魚を料理するのは、やはり気が引けた。

    「お、女将さん、さすがにちょっとご迷惑では」

     私が辞退を申し出ようとすると、料理人のひとりが近づいてきた。

    「渓水の間のお客様ですね。料理長のうみかぜと申します。今日は良いヤマメをありがとうございます。それに、本日は魚料理をと承っておりますので、昨日同様、数種類の魚で整えて参りますから、よろしければその様子もご覧ください」

     昨日の夕食はうみかぜと名乗った料理長の手によるものなのか。私は絶品肉料理の数々を思い出した。

    「うみかぜさん、昨晩いただいた肉料理は本当に美味しかったですよ。あんな美味しい料理、私は食べたことがありません。全部が私の一番でしたよ」

     私はなんの誇張もなく、うみかぜの料理を絶賛した。

    「今日も楽しみでしょうがありませんが、その前に、自分が釣った魚の料理など受けてくださって、本当にありがとうございます」
    「そう言っていただくと料理人冥利につきますね。さぁ、ヤマメを調理してみましょうか」

     そう言いながら、うみかぜは調理台の方へ歩いて行く。背が高い。年齢は四十過ぎというところか、それにしても男前だ。外見も立ち振舞いも格好良い。この宿の従業員は皆そうだが。

     私と女将がうみかぜの後ろをついて行くと、まな板の上にヤマメが置かれていた。

    「では、私が言うように下ごしらえしていきましょう」

     私はうみかぜに習ってヤマメのぬめりを取り、初めて握る包丁でヤマメの腹を割き、内臓を取り出した。
     ヤマメを流水で洗っていると、うみかぜが感心したように話しかけてきた。

    「うん、初めてとは思えない包丁さばきです。この後は水気をよく拭き取り、塩焼きにいたしましょう。まずは素材の味がしっかりと分かる料理がいいでしょうし」

     私はうみかぜの言葉に少々照れくささを覚えながらも、初めて触る生の魚や内臓の感触を思い出して、不思議な感覚に囚われていた。

    「うみかぜさん、生まれて初めて生の魚や内臓を触っても、そんなに嫌じゃありませんでした。それよりも、ただの魚がこれで料理になるんだって、新鮮な気持ちでいっぱいです」
    「それは何よりです。ところでお客様、どうして魚が苦手なのですか?」
    「いや、お恥ずかしい話ですが、私は魚の骨が苦手で、子供の頃から上手く食べられなくて、骨が喉に刺さることもあって、そんなこんなで魚自体を敬遠するようになってしまったんです」
    「ははぁ、それはよくある話ですね。でもお客様、そういう方も魚の仕組みを知れば、結構上手に食べられるようになるんですよ?」
    「さかなのしくみ、ですか?」
    「そうです、魚の仕組みです。魚の骨や内臓の位置を知っていれば調理するときも食べるときも上手くいくんです」
    「なるほど、骨の位置とか分かっていれば避けられる、ということですね」

     私が感心していると、きさらぎが話しかけてきた。

    「お客様、今夜のお食事は魚ばかりです。当然骨の入った料理もあります。ですがうちの料理長は、魚の骨を抜いてお出しするようなことは絶対にいたしません。ホントにこの人は頑固で・・コホン・・料理の一つ一つに工夫を凝らしてお出ししますが、ヤマメの塩焼きは骨を避けて食べるしかありません」

     スッとヤマメに視線を移すと、すぐに笑顔を私に向けた。

    「いかがでしょう?差し出がましいようですが、今夜の夕食に私がご一緒して、魚の仕組みを教えて差し上げる、というのは」
    「えっ!?そんなご迷惑をお掛けするわけには!それに、私も子供ではありませんので」

     さすがにこれは辞退しなければ、私はそう思ったが、うみかぜが賛同した。

    「これはチャンスですよ?一度覚えてしまえばもう忘れることはありません。それに私もきさらぎがいてくれるとなれば、制限なく魚を料理できるというものです」
    「そ、そうですか。制限なく・・いや、それではその、私のヤマメの塩焼きだけで結構です。ヤマメを美味しく食べられるように、教えていただけますか?」
    「そうですね!お客様が初めて釣り上げたヤマメです。美味しく食べていただけるよう、私も全力でっ!!」
    「いやいや女将さん、そんなに力を入れなくて大丈夫ですよ」
    「あら、私としたことが、お恥ずかしい」

     うみかぜは笑っている。いや、調理場の料理人皆が、私たちのやり取りを聞いて笑っているようだ。嘲笑ではない。暖かく見守ってくれているような、そんな笑顔だ。

     次々と出来上がっていく料理を目前にして、私は今夜の酒に日本酒を選んだ。

    ・
    ・

     ”配膳には私と、やまみこがお伺いします”

     きさらぎはそう言っていた。私は窓際の椅子に腰掛け、川のせせらぎを聴きながら今日一日のことを思い出し、自然と笑顔になっていた。

    「そうだ、まだたったの一日が終わってないんだ。もうすぐ女将さん、きさらぎさんとやまみこ君が料理を持ってきてくれる。こんなに一日を長く感じるのは、なぜだろう」

     ノックの音がした。

    「失礼いたします。夕食のご準備に参りました」
    「はい、どうぞお願いします」

     きさらぎとやまみこは、手際よく料理や皿を並べながら、それぞれの料理の説明をしてくれた。

     今夜の料理は先ほど厨房で見たものだが、器に盛り付けられると違う料理のように見える。和食の始まりを告げる八寸、美しく盛り込まれた造り三種盛り。魚は鯛とマグロ、それにイカ。鯛は松かさ造り、マグロは本マグロの中トロの湯霜だそうだ。イカはアオリイカ。細かな細工包丁が施され、軽く炙ってある。
     煮物は意外にも鯖の味噌煮だ。昨晩もそうだったが、こんな大衆的なものが恐ろしく美味かった。これもきっとそうだろう。
     そのほかに揚げ物や椀物があり、締めは鯛飯だそうだ。上品でありながら十分な品数と量がある。

    「お客様」

     やまみこが私に話しかけてきた。

    「こちら、焼き物となります、ヤマメの塩焼きでございます。これは特別に、こちらに運ぶ直前に焼き上がるよう料理長が差配しておりました。食事の順としてはおかしいのですが、ぜひ最初にお召し上がりください」
    「本日の料理の中で、この塩焼きが一番難しいと思いますよ?せっかくお客様が釣って、料理もされた初めての魚です。私がお手伝いしますので、温かいうちに召し上がってください」

     きさらぎがいたずらっぽい笑顔を浮かべながら私の横につき、まずは、と日本酒を勧めながらそう言った。
     私は日本酒をひとくち含み、意を決して箸を手にした。

    「そうですね、では!いただきます!!」

     きさらぎはヤマメの頭の付け根、胸びれのあたりを少し押さえ、全体を軽くほぐして箸を入れるように教えてくれた。

    「魚の骨は背骨の他に、背びれ、腹びれの根元にある骨、それと側線の下に血合い骨が並んでいます。ですから、魚の体は背側と腹側に綺麗に割れるんです」

     なるほど、きさらぎの言うとおりに箸を入れると、ヤマメの体は綺麗に割れた。ひれに付いた骨もこうしてみるとよく見える。
     私はまず、背側の身をむしり、口に運んだ。

    「熱い、う、旨い」

     思わず声が出た。炭火で焼いたヤマメの身はまだ熱々で香ばしく、何ともいえない旨味と、上品な香りを放っていた。

    「これが魚の匂い、いや、香りか」
    「ヤマメは元来、鱒です。香りは鮎のような独特なものではありませんが、とても上品ですね」
    「それに、日本酒とこの上なく合う」

     ヤマメの程よい塩加減は日本酒の甘さとよく合い、ひれに施された化粧塩の強い塩味とも相まって、更に酒を進ませる。

    「きさらぎさん、ここは」
    「はい、ここが一番の難関、腹骨です。ですがよくご覧ください。腹骨は長く、湾曲しながら内臓を守っています。ですからその太い方をちょいとつまめば」
    「あぁ、分かりました、スルッと抜けますね!この要領で骨を抜いていくと」

    -うん、よく分かる。骨があるところの身をむしろうとするからだめだったんだ。骨があるなら抜けばいい。

    「うん!美味しい!背中の身より脂が乗っていて、柔らかくて」

     私はあっという間にヤマメを骨だけにしてしまった。

    「お客様、お上手でした。これで他の魚も、本日の料理ではこの鯖の味噌煮も、椀ものの鯛のあらも、上手く食べることが出来るはずですよ?」

     きさらぎはそう言うと、更にいたずらっぽく笑いながら続けた。

    「ではお客様、渓流魚の塩焼きの最後に、あまり上品ではありませんが、最上の味をご用意します。やまみこさん、お願い」

     促されたやまみこは黙ってうなずき、私の前の皿に残ったヤマメの骨を、大振りの杯に移した。傍らには小さな火鉢が置かれ、その上でなにやら器が温められている。やまみこはおもむろにその器を持ち、ヤマメの入った杯に一気に流し込んだ。

     湯気が立つ、この香りは日本酒だ。それも相当な熱燗。そしてその香りはすぐにヤマメの香りと交わり、更に炭火で焦げた香ばしい香りも加わった。

    「ヤマメの骨酒でございます。どうぞ」

     やまみこは杯を私の前に置いた。私はそれを両手に捧げ、恐る恐る口をつけ、ひと口含んだ。

    「はぁ、これは、すごい」

     日本酒の芳醇な香り、味、それにヤマメ本来の味と塩味、炭火の香ばしさ、焦げた皮の香りまで渾然一体となって、私を圧倒した。

    「う・・美味い、こんなの初めてです」
    「ふふ、本来は身を食べずに作るんですけど、今日は特別です。でも骨酒、というくらいですから、味はあまり変わらないんですよ?」

     夢中になって飲み干す勢いの私を、きさらぎは満足げに見ていた。

    「しかしきさらぎさん、ヤマメ1匹でこれほど楽しませてもらったのに、まだこんなに料理があります。私、酔ってしまいそうですよ」

     昨晩のこともあって、私は少し不安になった。

    「酔ってしまったら酔ってしまったで、お休みいただいて大丈夫ですよ?昨晩もそのようでしたし」
    「あ、やっぱりそうでしたか。いや、お恥ずかしい」
    「お気になさることは何もありません。ここはそのように、ご自分のことを見直し、そして気付くための場所でもあるのですから」
    「そうですか、ではお言葉に甘えて」

     私はきさらぎの言葉の意味も考えず、並べられた料理を堪能し、数種類用意された日本酒を楽しんだ。

     結局きさらぎとやまみこの二人は夕食の間ずっと私の側で、使われている魚の種類や調理法、食べ方などを教えてくれた。

    「そうなんですね、鯖はマサバとゴマサバがあって、え?厳密にはマグロもサバ?」
    「カツオは生で美味しくても火を通すとあんまりって、そうなんだ・・え?カツオもサバ?」
    「へぇ、で、マグロは5種類か、鯛も5種類?って、鯛はたくさんあるんじゃ、え?あれは鯛じゃない?」

     苦手だったはずの魚料理、それはこれまでの人生を後悔させるほど美味くて、面白かった。

    「きさらぎさん、やまみこさん、今夜は本当にありがとうございます。ふたりとも忙しいのに、こんな私のために」
    「いえいえ、私もやまみこも、なかなか良い経験をさせていただきました。魚料理が苦手な方はこれまでもいらっしゃいましたし、肉料理が苦手という方も多いんですよ?今夜のことはこれからこの宿のマニュアルにしようかしら、って考えてるところです」

     きさらぎはにこやかに応えてくれた。その横で片付けをしているやまみこも笑顔でうなずいている。

    「そう言っていただけると私もうれしいです。あ、それと、明日以降の食事なんですが、肉も魚も関係なくお任せしたいと思うんですが」
    「左様ですか、それはとても良いことだと思いますよ?では、うみかぜにそのように伝えておきますので、でももし、うみかぜが凝りすぎな魚料理を出そうとしたら、あらかじめお伺いしますね」

     きさらぎはまたいたずらっぽく笑って言った。この人はよく、こんな笑顔を見せる。

    「え?凝りすぎって、それはどんな料理でしょう?」
    「そうですねぇ、フグの卵巣ですとか、コノワタですとか、くさやですとか」
    「はぁ、それはどんなふうに?」
    「あぁ、フグの卵巣は本来猛毒、コノワタはナマコの内臓、くさやは」
    「うわ、猛毒に内臓、あ、でもくさやは知ってます。匂いが、あれなやつですね」
    「そうです。でも私は大好きですよ?」
    「そうですか、じゃ、挑戦してみようかな」
    「ふふ、うみかぜに申し付けておきますね。では、そろそろ片付けも終わりましたので」

     そう言って、きさらぎは片付けを終えたやまみこと部屋を出て行った。

    「あぁ、楽しい一日だった」

     私はひとりになって、心底そう思えた。そして先ほども感じた感覚に浸っていた。

    「たった一日、たった一日だぞ?楽しくて、長かったなぁ」

     その想いは、布団に入って寝入るまで、消えることはなかった。

    ・
    ・

     私は翌日から毎日、川に降りて釣りをした。

     初めての仕掛けは延べ竿とエサを使った脈釣りだったが、他にも様々なルアーや毛針を使う釣り方もあり、そのどれもが面白く、とにかく飽きなかった。

     カメラにも嵌まった。川辺の木々と渓流の岩と水が創り出す幻想的な景色、そして美しい渓流魚を夢中になって撮った。

     その時々にいざよいが付き添ってくれることもあり、私のカメラには彼女と自然の風景が数え切れないほど納まった。

    「お客様とこうして過ごすのは、とても嬉しくて、そして、楽しい」

     そう言う時のいざよいは、息を呑むほど美しい。

     夕方まで遊んで宿に戻れば、ゆっくりと温泉に浸かって疲れを癒やす。

     そんな日々、私の中にちょっとした変化が起こった。

    「やまみこさん、今日の食事なんですが」

     私はもう、全ての食事を宿に任せるようになっていた。そもそも出てくる料理はいつも美味く、文句の付けようがないからだ。

     だけど・・

    「はい、いかがいたしましょうか」
    「えっと、いつも食事は美味しいし、飽きたわけでもないんですが」
    「はい?」
    「えっとですね、ラーメンとか、食べたいんです」
    「左様ですか、お客様もいよいよですね」

     何が”いよいよ”なのか、やまみこの真意は分からなかった。まぁ、美味い料理に慣れすぎて、たまにはB級グルメが食べたくなる客も多い、ということか。

    「う~ん、ラーメンって言うのも、インスタントラーメンが食べたいんですよ、みそラーメン、それと」
    「カレー、ですか?それもレトルトの」
    「そうですそうです!何で分かるんです?」
    「ははは、いや、失礼しました。ついでに申し上げますと、お客様が食べたいと思われているのは、あと、ハンバーガー、それもビッグマっ」
    「ぐ、うん」
    「それからピザ、チーズがどっさりのっていて、取り分けるときチーズがビヨ~ンと伸びる」
    「は、はぁ」
    「はふはふ食べるタコ焼きにお好み焼き、焼きそば、それも大盛りで!!」
    「え~、なんで?」
    「はっはっは!」

     やまみこは本当に失礼なほど大きな声で笑った。

    「いやいや、申し訳ありません。お客様があまりにも分かりやすく反応されるので、つい」
    「やまみこさん、勘弁してくださいよ」
    「はい、お客様、とりあえず本日の朝食は?いかがなさいます?」

     私は朝っぱらからデカいチーズバーガーを頼んだ。

     やまみこがあんなことを言うからだ・・

     この日以来、私は恥ずかしいほどの量を食べた。ハンバーガー2個にポテトにコーラ、全てLサイズとか、インスタントラーメンを3食分と山盛りの白飯とか、カレーなんて、3杯食べて腹一杯!と思ったら、もう少しといって4杯目を平らげる始末だ。

     もちろんB級グルメと言いながら、この宿の飯は美味い。インスタントラーメンなのに別格に美味く感じるのは不思議だが。

     それと、いつの間にか酒を飲まなくなった。

     酒を飲む気が起きないのだ。例えば肉料理なら分厚いステーキや山盛りの唐揚げ、それと山盛りの白飯があればいい。

     そんな日々は夢のように過ぎた。正確には毎日が初めての発見で、一日一日がとてつもなく長く、しかし振り返るとあっという間に過ぎている。という感覚だ。

     これではまるで・・子供じゃないか。

    ・
    ・

    「お客様」

     ある日、いつものように川で釣りをしていると、ふいに後ろから声を掛けられた。振り返ると、きさらぎがにこやかに立っていた。

    「あぁ、きさらぎさん、どうかしましたか?」

     私はキャストしたルアーを手早く回収して、きさらぎの方に向き直った。

    「お客様、最近はたくさん召し上がっておられるようで」
    「あ、いや~、こんな歳なのに、ってことでしょう?ホント、高校生か!ってくらいですよね。それにあんな炭水化物ばっかり、最近は太って太って」
    「本当ですか?お客様、ずいぶんとお痩せになってますよ?それに、こんな不安定な渓流の岩をポンポンと飛んで回っておられます」

     私はハッとして自分の体を見直した。確かに痩せている。
     ここに来たときはたぷたぷだった腹がしっかりと締まっている。それにきさらぎの言うとおり、この渓流の岩場は大きな岩がゴロゴロ転がっているが、岩に登るのも飛び移るのも、まったく苦にならなかった。

    「あ、本当ですね。毎日あんなに食べてるから、つい。しかし、毎日温泉に浸かってるんだから気がつきそうなもんですけど、気づかなかったなぁ」
    「そうですね、お客様はもうずいぶんとこの温泉宿でお過ごしになりました。それで、心も体も生まれ変わっているようです」
    「ホントにそうです。私、帰ったら宣伝しますよ。ここは、人生で一度は来るべき宿だ、って」
    「ふふふ、それは本当に光栄なことですわ」

     きさらぎはいたずらっぽい笑顔を作った。こんなとき必ず、彼女はなにか提案してくる。

    「ではお客様、明日からしばらくの間、私どもでも中々手に入らない、貴重な食材をお試しいただきたいと思うのですが、よろしいですか?」

     この宿の料理が不味かったことなんて一度もない。そんな宿の女将が貴重な、と言うんだ。断る理由などなかった。

    「それは嬉しいご提案です。じゃあ、明日の朝からですね」
    「はい、明日の朝から。では本日の夕食は、お客様が特に食べたいものをお申し付けください」

     きさらぎの言葉の意味は、ときどき分からないことがある。しかし、特に食べたいもの、と聞かれると逆に思いつかないものだ。

    「いや、なんでもいいですよ。美味しくなかったことないですし、まぁ特に、と言われると、焼き肉とかかなぁ」
    「分かりました。では、お肉を何種類か揃えてお持ちしますね。あとお酒は」
    「いえ、アルコールは結構です。その代わり、白飯はたくさん欲しいですね」
    「ふふふ、本当にたくさん召し上がりますものね。ではそのようにいたします」

     そう言って、きさらぎは宿に戻っていった。

    「きさらぎさんが特別って言う食材って、なんだろうなぁ」

     夕食の焼き肉はもちろん最高のものだったが、それ以上のものとは一体なんなのか、私は布団の中でもそのことばかり考えていた。

    ・
    ・

     翌朝、いつものように温泉に浸かり、食事を頼むことにした。電話に出たのはいざよいだった。

    「おはようございます。えっと、今日の食事なんですが」
    「承っております。お客様、本日から特別な献立となりますので、和食か洋食かをお選びいただければ、私どもで厳選した食事をお持ちいたします。いかがなさいますか?」
    「そうなんですね、では、朝は洋食で、昼と夜は和食でお願いします」
    「かしこまりました。では朝食はこれからお持ちいたしますので」
    「はい、じゃあ、お願いします」

     ほどなくして扉がノックされ、いざよいが朝食を運んできた。いつものようなメニューではないだろうと思ってはいたが、いざよいが私の前に置いた食事を見て、私は少々ガッカリした。

    「え、これだけですか?」
    「はい、これだけです。ですが、おかわりはできますので」
    「おかわりと言ったって」

     目の前にあるのは、食パンと牛乳だけだった。バターやジャムなどもない。サンドイッチに出来そうなサラダもない。ただ、傍らに小さな火鉢が置かれ、食パンと牛乳を焼いたり温めたりするようだ。

    「こちらで私がお好みの加減に焼きますので、牛乳も冷たいもの、温かいものとお申し付けいただければ」

     そう言われても私の落胆は消えなかったが、いざよいがわざわざ側で焼いてくれるんだから、と自分を納得させた。

    「分かりました。じゃあ、食パンはカリッとしっかり焼いてください。牛乳は冷たいままで」
    「かしこまりました」

     いざよいは慣れた手つきで食パンを焼いている。炭火で焼くので均一に焼くのは相当難しいはずだが、まるで煎餅でも焼くように、むらなく焦げ目が付き、何ともいえない香ばしい香りが立ちこめた。

     いざよいは皿にトーストした食パンをのせ、透明のグラスに牛乳を注いで私の前に差し出した。

    「どうぞ、お召し上がりください」

     目の前でトーストを割ってみると、香ばしさの中から更に強い、甘い香りが放たれ、私の嗅覚を直撃した。サックリとした表面に反して中はふわりと柔らかく、餅を割るような粘りさえ感じる。

    「はふ」

     口に含むと小麦の香りと味が炸裂し、次に強い甘みが舌に乗る。サックリふわりとした食感も楽しい。耳はカリカリとして、まるでトンカツの衣のようだ。

    「お、おいしい」

     素直な感想が口をついた。続けて牛乳を口に含む。

    「これ、牛乳?」

     これまで飲んだことのある牛乳とは別物と思えた。すんなりと喉を通るが、強いコクと甘みがある。クリームならそういう味だろうが、こんなにスムーズには飲めないはずだ。それが口中でトーストと合わさり、まるで上質なクリームスープを飲んでいるかのようだ。

     私はあっという間に1枚を食べ終え、冷たい牛乳をぐいっと飲み干して、いざよいに向き直った。

    「いざよいさん、次は逆で、牛乳を温めて、パンは焼かずに」
    「かしこまりました」

     いざよいの笑顔は満足げだった。

     私は食パンの焼き加減を変え、牛乳も温めたり、冷たいまま、といろいろに変えて、10枚の食パンを平らげた。牛乳も2リットルは飲んだだろう。

    「ふぅ、美味しかったです。いざよいさん」
    「左様ですか?そう言っていただけるとうれしいです。なにしろこれからはパンやご飯といったものだけを召し上がっていただきますので」
    「え?じゃ、洋風ならパン、和風ならご飯だけ、ってことですか?」
    「左様でございます。それぞれに今回の牛乳のような、シンプルな副菜を添えて召し上がっていただきます」

    -牛乳って、副菜だったんだ。

     少々言いたいことはあったが、その牛乳をぐいぐい飲みながら夢中で食パンに食らいつくんだから文句は言えない。それよりも、これほどに美味い食パン、そして牛乳は初めてに思えた。

    「いざよいさん、この食パン、それに牛乳がすごく特別なものなんですか?きさらぎさんはそう言ってましたけど」
    「そうですねぇ、もちろん最高級のもの、と申し上げたいのですが、実は結構普通の食パンと牛乳です。ただ、その入手は困難で、だから特別、という意味になるでしょうか」
    「普通、ですか、なんだかホントに初めての味だったんですけど」
    「ふふふ、これからお召し上がりいただくものも、みなそのような、お客様が人生で初めて出会ったときのものだと、だから入手が困難な特別なものだと、ご理解いただいた方が良いかもしれません」

     いざよいの笑顔はきさらぎのように、少しいたずらっぽかった。

    「それにしても」
    「え?」
    「本当に美味しそうに、召し上がるのですね」

    ・
    ・

     それから出される食事は、いざよいが言うとおり実に質素なものだった。しかし、これもいざよいが言うように、ごく普通の食材のはずが、どれもこれも生まれて初めて食べたような感動を与えてくれた。

     艶々と光る白飯は、部屋に持ち込まれた七輪の上で炊かれたものだ。必ず女将や従業員の誰かが付いて炊き上げてくれる。土鍋から吹き上がる泡と蒸気、そのあとにわずかなお焦げの香りが立ち、食欲を掻きたてる。
     十分に蒸らされた白飯は茶碗に盛られるとその輝きを増して、口に含めば香りが更に増し、粘りのある米粒を噛み締めると一粒一粒の甘みが味覚を支配する。

     何ともいえない幸福感。

     そしてその白飯を引き立てるのは、ある日は玉子、ある日は香の物、調理法も種類も毎度違う。
     必ず添えられる味噌汁も、やはり毎度違う種類のだしと味噌で調味され、飲むたびにその旨味を実感する。

     最初のうちは何度か洋食も食べた。パンも副菜ももちろん美味しく、毎回驚きの連続だったが、私はどうやら白飯が好きらしい。3日目からは和食のみになった。

     白飯と合う一品というのは、もしかしたら無限にあるのかも?それに味噌汁のだしと味噌の組み合わせも同様だ。

     私はそんな食事を腹一杯食べ、そして朝から夕まで渓流で遊び、温泉に体を浸す日々を過ごした。

    ・
    ・

     ある夜、ふいにノックの音が部屋に響いた。

    「もう寝る時間だけど、誰かな?」

     はーい、と返事をして扉を開けると、そこには包みを抱えたいざよいが立っていた。

    「あれ、いざよいさん、こんな時間にどうしました?」
    「お客様、少々お時間いただいてもよろしいでしょうか?」

     いざよいは私の言葉を遮るように聞いてきた。

    「は、はい、どうぞどうぞ」
    「お邪魔いたします」

     いざよいは窓際のテーブルに向かい、椅子に手を掛けて私に向き直った。

    「お客様、こちらへ」
    「はい」

     いざよいの言葉には抗えない力がこもっていた。私は素直にテーブルに向かい、椅子に腰掛けた。

    「では、私も座らせていただきます」

     いざよいはテーブルを挟んだ向かいに座り、手に持った包みを目の前に置いた。

    「お客様、これはお客様がこの宿にお越しいただいて、これまでにお撮りになった写真です。渓流の魚たち、岩肌に当たる水しぶき、輝く水の流れ、山の木々と太陽が織りなす景色、そして、美しく盛られた料理の数々」
    「わぁ、そう言えば、あんなに写真を撮ったけど、見てなかったですね!」
    「はい、これはフィルムなので、現像が必要だったんです。すべて私が現像させていただきました」

     私は包みを開け、その一枚一枚に目を通した。

    「これを全部、いざよいさんが」
    「はい、覚えていらっしゃいますか?最初に撮った写真。あの後私はこの写真を現像していたんです。最初からお上手でしたよ?」
    「あぁ、これ!懐かしい。私が初めて釣ったヤマメ。綺麗だなぁ。あ、これはあの岩の上から撮った渓流、水が流れてるだけなのになんて美しい、一瞬として同じじゃないのに、写真にするとそれを留めておける」
    「えぇ、お客様は特に釣りと景色の写真がお気に召したようですね」
    「いや、いざよいさん、私は料理の写真も好きですよ?いざよいさんが言ったように、料理人が丹精込めて盛り付けた料理っていうのは、それだけで芸術作品のようです。それは食べればおしまいだけど、写真に残せばずっと楽しめる」
    「あぁ、お客様はとても分かってらっしゃる。きっと、もう忘れませんね」
    「え?忘れないって?」

     いざよいは私に応えず、ひと言だけ呟いた。

    「お客様を見ていると、私も、もう一度って思ってしまう」

     不思議な事を言う、そう思いつつ、一枚、また一枚と写真をめくる私は、更に不思議な事に気が付く。

    「あれ?いざよいさん?」
    「はい」
    「この写真とか、これとか、これも、いざよいさんが写ってませんでしたか?私は魚や風景と同じくらい、いざよいさんも撮ってるはずなんですけど」

     渓流の水辺に立ついざよい、木々の陽だまりに佇むいざよい、魚を見せてくれるいざよいの手、美しい料理を説明してくれるいざよい。

     私が撮ったはずの “いざよいの写真” は、ここに一枚もなかった。

    「あぁ」

     いざよいは返事ともなんとも付かない声を、ひと言だけ上げた。

    「え?」

     私はいざよいに顔を向けた。
     私の目の前には、ただ幾枚もの写真が残されているだけ。

     いざよいは、いなかった。

    「いざよいさん?」

     呼んでみても、部屋にいざよいはいない。

    「そ、そんなはずないよ、今、いまいたのに!!」

     私は立ち上がり、泣きそうな顔で廊下に飛び出した。

    「いざよいさん!!」

     誰もいない。誰も応えない。私は思わず走り出した。

    「誰も、誰もいない・・そうだ、フロント!きさらぎさんがいるはず!」

     私は走った。長い長い廊下だった。初めて来たときと同じ感覚。普段はこんなに長いとは感じていなかった。

     ロビーに着いて辺りを見回したが、やはり誰もいなかった。

    「ち、厨房は?」

     厨房ならうみかぜや他に何人もの料理人がいる。夜食も作ってくれるのだから、誰かいるはずだ。

     私はフロントの電話を掴み、受話器を上げて厨房のボタンを押した。しかし、受話器からは何も聞こえない。呼び出し音すら鳴らない。

    「どういうこと?どういう・・そうだ!温泉!!温泉に行けば絶対に誰かいる!温泉は一晩中開いてるんだから」

     私は向き直り、大浴場に向かって走り出した。もうなにも考えられない。いつもいつも私のそばにいてくれる人たちが、誰ひとりとしていないから。

     なぜだろう?この宿の人たちは温泉の従業員だ。でも、ただの従業員じゃない、私の中でみんなは何者にも替え難い大事な人たちになっていた。

     私は泣きながら走る。

    「きさらぎさん! うみみこさん! やまみこさん! うみかぜさん!」

    「いざよいさん!!」

     私は脇目も振らず大浴場に走り込み、浴場に続く扉を勢いよく開けて飛び込んだ。

     湯船には、人がいた。

     私は立ちすくんだ。

    「お客様は、選ばれたのですね」

     いざよいだった。

    「あ、ご、ごめんなさい!女湯に入っちゃった!」

     いざよいの顔を見て心底安心したが、いくらなんでも女湯に飛び込むとは。

    「ふふふ、いいんですよ、どうぞ、一緒に入りましょ」
    「え?」
    「どうぞ一緒に、お嬢ちゃん」

     いざよいは湯船から手を伸ばし、私の手を取って導いてくれる。私は抗う間もなく、いざよいの胸に抱かれていた。

     もう、なにも分からなかった。なにも考えられなかった。そんな私の耳に、いざよいの言葉が届いた。

    「さぁ、もう温泉から上がりましょう」

     私の意識は徐々に薄れていく。

     その狭間に、何かが見えた。

     誰かの、記憶?

    ・
    ・

    「ね!ママ!今日の晩ご飯はハンバーグがいいな!あとね、目玉焼きも乗ってたら、もっといいな!!」

     いいな、あんな風におねだりできる
     いいな、ママって呼んだら、にっこり笑ってくれて、いいわよ、って

    「あんたなんだよっ!あんたがいるからママは、ママはぁああーーーっ!!」

     ねぇママ、わたしはじゃま?あのひととなかよくするのに、わたしはじゃまなの?

    「いたいっ!いたいよ、ママ」
    「それはそうよ!躾なんだから痛いに決まってる。ほら、あんたはベランダで反省しなさい、そう、反省よ。朝まで反省しなさい!!」

     ああ、さむいよ、さむいよ、ママ

     ああ、おなかすいた

     おいしいものたべたい

     おいしいごはん、たのしそうにたべるのって

     いいな

     あれ?なんだかさむくなくなった、あれ?なんだかふわふわして・・

     あ、そうか、わたし、しぬのか

     きめた

     わたし、ぜったいならない

     ママなんか

     なるんなら

     やさしいおかあさん

    ・
    ・

     気がつくと、目の前にいざよいの顔があった。

    「お客様、最後のお食事ですよ?」

     いざよいが私の口に含ませてくれたのは、甘い液体だった。砂糖を入れた牛乳だろうか。それは温かく、私の脳髄に直接届くような心地よい香りと味を持っていた。

    「お客様が選ばれたのは、いざよいでしたね」
    「えぇ、いざよいと渓水のお客様には、強いご縁が生まれたようです」

     聞こえる声は、きさらぎのようでもあり、うみみこのようでもある。

    「あぁ、ぜんぶ召し上がりましたね」

     やまみこの声にも聞こえたが、うみかぜのようでもあった。

    「でも、もうすぐまた、お召し上がりになりますよ?」

     これは、いざよいの声だろうか。

    「それと、もうすぐまた、会えますね。私と、もう一度・・」

     もう一度?
     私と?

     私の意識は深い闇に溶けた。

    ・
    ・

     私は泣いていた。なにも分からず、とにかく泣いていた。

     “寒い寒い寒い”

     その感覚しかなかった。
     すぐに私は、誰かの胸に抱かれた。

     温かい。懐かしい温かさだ。

     私も泣いているが、私を抱く誰かも泣いているようだ。
     他の誰かが言った。

    「おめでとうございます」
    「さぁ、初めてのお食事ですよ?」

     大きく口を開けて泣いている私。
     その口に、柔らかな甘みの液体が流れ込む。

     私は、その味を知っていた。

    ・
    ・

     わたしは川が大好き。
     いつもじいちゃんと遊びに来るの。

     今日はじいちゃんが釣りを教えてくれるって、とっても楽しみ!
     ”みゃくづり”って、昨日の夜教えてもらったの。

     ちょっと心配だけど、大丈夫、きっと出来るわ。

     わたしはじいちゃんの竿を借りるの。もう仕掛けは付いてるんだって。

     じいちゃんは自分の竿に仕掛けを付けてる。

     もう、釣っちゃおうか?そうだ、もう釣っちゃおう。

     なんかね、石をどけるとね、虫がいるのよ。カゲロウの小さいヤツなの。
     それをね、針にちょっと付けて、あそこに入れてみたら良いんじゃないかな?

     だよね、だよね。

     ほら来た!

     ぐいぐい引っ張られる。すごい力。
     でも大丈夫。竿を立てて、こっちに倒して。

    「じいちゃん!!」
    「はらら?なんだで、もう釣ってるんか?」
    「あはは、釣れた」

     おっきいサカナ。力がすっごく強いの。でも大丈夫だった。

    「じいちゃん!これなに?きれいなサカナ!」
    「それはな、ヤマメだ。うまいぞ~、しかしお前、よくひとりで釣ったもんだ」
    「じいちゃん!これ、写真に撮りたい!!」
    「あ~ん?写真?なに珍しいこと言うとるだ」
    「じいちゃん!これ塩焼きにして、骨酒にしてあげる!!」
    「はぁ?骨酒?なんだでそんなもん知っとるんだ?」

     わたしはちょっとだけ考えたけど、答えはひとつだわ。

    「さよ、わかんない!!」

     わたしは、5歳の女の子。

     名前は小夜。

     じいちゃんと川に行くの、大好き!

     でも一番好きなのは。

     おかあさんっ!!


    第1章 渓水の間のお客様  了


    第2章 早春の間のお客様

     この宿に来て、もう何日経ってんの?

     1週間?2週間とか経っちゃってる?

     やばっ!もう3週間経ってるよ!!

     でも・・たいくつぅ~・・宿の周りには何もないし、ただ川が流れてるだけ。
     あたしったら、なんでこんな遊ぶとこもない温泉に長居してんだろ?

     泊まるお金だって、もうないんじゃないかな?

     あれぇ?

     そう言えば、あたしって、すっごいお金持ってんじゃん!

     そうだったそうだった!泊まるお金は大丈夫だわ。

     爺ちゃんから貰ったお金・・・

     ふふん、あれさえあれば、こんな温泉宿なんて、どってことないわよね。

     でっかいだけで、ほんとつまんないんだもん。

     でも、ここってメシだけは、うっまいわぁ~

     でもでも、ウザいんだよなぁ。

     従業員どもがとにかくウザい。

     あれ食えこれ食えそれも食え、なんかやりたいことは無いのかないのかナイノカぁーー!

     ウザいウザいウザい!!

     あたしってば、なんでこんな萎びた温泉なんて予約したんだろ。

     あたしの趣味じゃないっつぅ~の!!

     特に・・特にアイツ、調理場担当のくせに、やけにこの部屋に来る・・

     アイツよ。

     ”ドンドンドンっ”


     ふいにドアを叩かれて目が覚めた。

     今の今まで夢を見てたのに、おかげでぜ~んぶ吹っ飛んじゃったわ。

    「ハイハイハイ!そんなに叩かないで、もう、入ってきていいからっ!」

     あたしの返事に応えてドアを開けたのは、アイツだ。

     よ~し。

    「早春の間のお客さま!!朝でございますよ!!さぁ、起きて!!」
    「キャー--ッ!!なんなの?あたしまだ着替えてないし!もう、浴衣だってこんなにはだけてるのに!!」

     ふふん、やってやったわ。見てよ、この胸元、そしてフトモモ!!これでコイツは犯罪者。女将に言ってクビにしてやるんだから!!

    「なにがです?ここは温泉宿なんだから、わたしゃ裸なんて見慣れてますよ?」
    「はぁ?なによ、この17歳のおっぱい!見慣れてるって言うのっ?!」
    「ああ、それおっぱいですかぁ、わたしゃ~また、夕べのデザートに付いてた、干しぶど・・」
    「かぁーーー!!それ以上言うな!!このバカ!!朝メシ置いたら、さっさと出てけ!!」
    「はいはい、ではお客様、今日は私が渓流をご案内しますので、お食事が終る頃合いでお迎えに・・」
    「あぁああーもうっ!ウザいんだよお前!!」
    「ハイハイ、ではお食事を整えますので、しばらくお待ちくださいね」

    ・
    ・

     あぁ、腹が立つ。

     なんでアイツ、あたしの世話を焼きたがるんだろ・・ホント、ウザいったらないわ。

     でも、この朝ごはんって・・

     白身はこんがり焼けてるけど、黄身は半熟の目玉焼きと、これもカリカリに焼けたベーコン。

     醤油とマヨネーズを掛けて、ちぎった白身とベーコンをあったかいご飯に・・で、最後は黄身をご飯にのっけて。

     真っ白いご飯が醤油やマヨネーズや玉子の黄身でめっちゃ汚れるんだけど。

     これ、いっつもお代わりしてたなぁ。

     ここのご飯って、どうしていつもあたしの好きなものなんだろ・・

     あーー!そんなこともういいや!ご飯食べたら、お風呂に行こっと!!

    ・
    ・

     ふぃ~、いいお湯加減だわ。朝ごはん食べてすぐにお湯に浸かるなんて、おばあちゃんみたいだけど・・この宿、退屈で従業員がウザい以外は最高なのよね。ご飯も、温泉も。

     でも、毎日毎日部屋とお風呂だけじゃ、退屈にも程があるわ。

     そう言えばアイツ、渓流を案内するとか言ってたな。

     行ってやってもいいかな、仕方ないから。

    ・
    ・

     あたしは部屋に戻るとすぐ鏡に向かった。

    -髪をクルクルにカールして、まつげ上向きパッチリメイク、唇もテカテカさせて、よし!ロビーに行こう!

    「あの、女将さん?」
    「はい、あ、早春の間のお客様、いかがなさいました?」

    -女将さんはやっぱ綺麗、名前はことのはさん、化粧してないっぽいのにな。そう言えばアイツもおじさんだけど、カッコはいいんだよね。そうだ、ここの人たちはみんな、綺麗でカッコいい。

    -あたしなんて、髪も化粧もモリモリに盛らないと誰も見てくれない、ホント、カッコわる。

    「あの、あの、今日の朝、部屋に来た従業員さん、いっつもあたしの部屋に来る男の人が、川を案内するって言ってたんだけど・・えっと」
    「ああ!うみかぜのことでございますね?ええ、ええ、うみかぜはいつもお客様を気に掛けているようで、食事も全部うみかぜが作ってるんですよ?そうですか、川をご案内、ですか」
    「はい・・え?3食全部ですか?これまでのご飯全部?」
    「ええ、お客様がお見えになった初日から、全部です」
    「そうなんですか」
    「じゃあ、すぐに呼んで参りますから、そちらでお待ちくださいね」

     女将さんにうながされ、あたしはロビーのソファーに座って待つことにした。

    -川を案内って、なにを見るんだろ。川なんて水と石しかないじゃんね。

     あたしがそんなことを考えていると、ほどなく、ドタドタと足音が近づいてきた。

    「おっ!いたいた!!早春のお客さん、なになに?渓流を見たいんだって?」
    「なに言ってんの?あんたが案内するって言ったんでしょ?あたしが見たいわけじゃないの!」
    「あっはっは!そうでしたっけ?でもまぁ、どっちでもいいでしょ!ではでは!」

     うみかぜは「さ、行きましょう!早春さんっ」と笑う。

    -なんなのよ、早春さんっだって。ばっかじゃないの?

     あたしは、さも面倒くさそうに立ち上がった。

    ・
    ・

    「うわぁあ、すっずしぃ~!」
    「そうでしょ?ほら、渓流の流れは結構強くて、岩に当たって飛沫が上がるんですよ。それが風に乗って、だからね、河原はこんなに爽やかで涼しい。それに」
    「それに?なに?」
    「ほら、きれいでしょ?」

     うみかぜは木々の枝を指差した。そこには、枝に茂る葉の間から陽光が降り注ぎ、その木漏れ日がキラキラと水面に反射している。

    「う、うん、きれいなのはそうね。うん、きれいよ?でもさ、それだけじゃん。こんなの1回来ればいいんじゃない?」
    「そうですか?じゃ、ホントにそうか、勝負しましょうか。私が負けたら、ここはもうこれっきり」
    「勝負って、何の勝負よ」
    「はは、これこれ」

     河原に転がっている小石を無造作に拾ったうみかぜは、川の流れが緩いところに向かって、”ぴゅん”と投げた。

     ”ぴっ・・びっ・・びっぴっぴぴぴぴ・・”

     小石は水面を切って跳ねる。それは6回か7回か。

    「水切り?それで勝負するの?」
    「そうですよ?どうですか?やりますよね」
    「ふん!そんな小学生みたいなこと、やるわけないじゃない」
    「へぇ、もしかして・・・下手くそ、なのかな?」
    「そ、そんなわけないじゃない!こんなの昔さんざんやったし!」
    「ほぉ、誰と?」
    「なんであんたに言わなきゃなんないの!負けないから!」

     あたしは角が取れてなるだけ平たい小石を選んで、川面に向かって思い切り投げた。

     ”ぴっ・・ぼしゃ”

    「はぁ?なんで?そんなはずないよ。だって前は上手だよって褒められたのに」
    「ははは!もう一回投げてみるか?」
    「もちろんよ!見てなさい!」

     ”ぴっぴっ・・ぼしゃ”
     ”ぴっ・・ぴっぴぴぼしゃ”

     何回投げても駄目だった。跳ねる回数はちょっと増えたけど、うみかぜの一投目を超えられない。それどころか、合間に投げたうみかぜの石は、10回以上も水面を跳ねた。

     もう、絶対届かない。

     でも、なんか・・たのし。

    「はぁ~、もうダメだ!負けました!降参です」
    「え?早春ちゃん、もう終わり?もう一回投げてごらん?ほら、水際のあの小石、大きさもちょうど早春ちゃんの手の平にピッタリだ」
    「もう一回?しょうがないなぁ、どの小石?」

     あたしはうみかぜが指差す先の、水中の小石を手に取った。

    「きゃっ!むしっ!!」

     手の平の小石には、数匹の虫が付いていた。
     びっくりしたあたしは小石を放り投げて、うみかぜにしがみついた。

    「虫!石の裏側にいたよ?水の中なのに?」

     うみかぜは腕にしがみつくあたしの頭で、ポンポンッと手の平を弾ませた。

    「大丈夫だよ。あれは川虫、カゲロウやカワゲラの幼虫だ。噛んだりしないから、ほら、大丈夫」

     あたしの耳に、優しい声が響いた。

     あたしの心は、なぜか少し、和らいだ。

     宿に帰る道すがら、あたしはうみかぜの背中を見つめている。

    -なんだろ、さっきの感じ、この背中・・・優しくて・・懐かしい。

     ふいにうみかぜが振り返った。

    「早春ちゃん、お昼はなにを食べたい?」
    「え?うん・・おむ・・」
    「え?なんだって?」
    「オムライス!オムライスがいいな!!ナポリタンでもいいけど!」
    「おお、オムライスか。はい、承りました。特別にナポリタンも付けましょ」
    「やた!」
    「あ、それとね?」
    「え?」
    「明日、朝早くにもう一度、ここに来ようか」
    「朝早くって、なんでよ」
    「ああ、見せたいものがあるんだ。早春ちゃんにさ」

     あたしは、黙って頷いた。

    ・
    ・

     翌朝、うみかぜと一緒に、わたしは川面を見つめていた。

    「ねぇ、あれ、なに?水面にたくさん何か浮かんで、どんどん飛び上がってる」
    「昨日見たよね?小石の裏の幼虫。あれが羽化してるんだ。今飛んでるのはカゲロウの仲間だね」
    「あれがカゲロウなんだ・・あっ!!」

     水面を飛び立とうとするカゲロウが、一瞬の後に消えた。そして聞こえる、ぴしゃん、という水音。

    「今、カゲロウが消えたよ?」

     ”ぴしゃん”

    「ほらまた!」
    「うん、消えたね、早春ちゃん、ほら、よく見てごらん?」
    「ああ」

     気が付けば、川面に浮かぶカゲロウは、水中から飛び出す魚に次々と食われていた。

    「あれ、サカナだ」
    「そう、サカナだ。あれはヤマメだね」
    「なんで?カゲロウはみんな、ヤマメのエサになっちゃうの?あんな石の下で育ったのに?せっかく飛ぼうとしたら、今度はヤマメに全部食べられちゃうの?」
    「・・・」
    「かわいそう、カゲロウ」
    「・・ほら、始まるよ。見てごらん」

     うみかぜの言葉を待っていたかのように、カゲロウの羽化が始まった。水面をびっしりと埋め尽くすカゲロウ。これまでの数とは違う、川の流れに揺蕩う霧のように、カゲロウはその密度を増す。

     次の一瞬、カゲロウたちは一斉に飛び立つ。

     水中から狙うヤマメを圧倒して、揺蕩う霧は雲のように、川面から立ち昇った。

     その光景を見つめながら、わたしは、もう何も言えなかった。

    ・
    ・

     1時間、2時間が過ぎたか。
     わたしたちは渓流の岩場に腰掛けて、静かになった水面を見つめていた。

    「カゲロウたちは朝、飛び立つんだね。だから朝早く来たんだ」
    「そう」
    「でもさ、うみかぜはなんでカゲロウをわたしに見せたかったの?」
    「ん?ああ、そうだなぁ、カゲロウ、一生懸命生きてたろ?それをさ、昔、娘に見せたかったんだけど、見せられなかったから」
    「娘さんに?じゃ、今見せればいいでしょ?わたしなんかじゃなくって」
    「いや、それがそうもいかなくてなぁ」

     うみかぜはそう言うと、寂しげに俯いた。

    「そっか、なんか・・ごめん」

     わたしたちは、また静かに流れる水面に目を移した。

    ・
    ・

    「女将さん!おはようございます!」
    「あら、早春さん、おはようございます。また来たの?」
    「はい!朝ごはん食べたし、お風呂もいただいたし、部屋にいてもつまんないから、お手伝いします!」
    「うふふ、たすかるわぁ~、じゃ、調理場に行ってうみかぜのお手伝いしてちょうだい」
    「はい!」
    「それにしても早春さん、髪がきれいね、真っ直ぐに伸びた黒髪、それにお肌も、ピカピカね」
    「え?そうですか?えへへ、最近はカールもしてないし、肌は、温泉効果、かなぁ」

     わたしはペコリと頭を下げて、調理場に向かって走った。

    「うみかぜ!なんかお手伝いすること、ある?」
    「おお、早春か、あるぞ?ほら、そこにキノコの山があるだろ?あれ、種類毎に分けてくれ」
    「うん、まかせて!」

     あれから、カゲロウたちが飛び立った朝から、わたしは変わった。

     一生懸命生きてるカゲロウの姿に触れたから?
     うみかぜの優しい心に触れたから?

     今、わたしは女将のことのはさんに付いて、宿の仕事を教えてもらっている。

     ことのはさんには”お客さんじゃなくて、バイトみたいに扱って”って頼んだ。名前は”早春”って呼んで、とも。

     ことのはさんは温泉や料理の知識、接客、それにお酒のこと、全部教えてくれた。でも一番為になったのは、一般常識や普通の勉強だった。前はこんな勉強なんて役に立たないって思ってたけど、ホントは一番必要だったんだ。

     それと、ことのはさんは美しい所作やお化粧、和服の着付けも教えてくれた。これはナイショだけど、オトナのゴニョゴニョ・・も教えてくれたのよ。

     毎日忙しく働いて、美味しいごはんを食べて、温泉に浸かって、うみかぜと冗談を言い合って、笑う。

     楽しかった。

     そうして、いつの間にか時は過ぎた。

    ・
    ・

    「早春さん、お客様がいらっしゃいました。私と一緒にお出迎えしてちょうだい」
    「は~い、女将さん、今行きます」

     宿の玄関で老人がひとり、ぽかんと空を見上げている。
     その老人の顔には、見覚えがあった。

    「あ、爺ちゃん」

     老人は、わたしに大金をくれた爺ちゃんだった。

    「いらっしゃいませ、お待ちしておりました、ご予約のお客様。さ、どうぞ中へ」

     女将が爺ちゃんを部屋まで案内する間、わたしは爺ちゃんのカバンを持って後ろを歩いた。
     お辞儀をして挨拶をしたが、爺ちゃんはわたしのことを忘れてしまったようだ。ただ、ニコニコと笑いながら「よろしくねぇ、お嬢ちゃん」と言う爺ちゃんは、あの頃のままに見えた。

     爺ちゃんを部屋に案内してロビーに戻るとすぐ、わたしは女将に頭を下げた。

    「長瀞の間のお客様、わたしにお世話させていただけませんか?いえ、お世話させてください!」

     女将は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いた声で言った。

    「早春さん、あなたはお客様です。お手伝いはありがたいのですが、お客様をお任せするわけにはいきません」
    「はい!重々承知しております!でも今回だけ、あのお客様、あのお客様だけ」

     女将は思い詰めたわたしの表情を見つめながら、しばし考えていた。

    「早春さん、いいですか?この宿でお客様をお世話するということは、もう後戻りしない覚悟を必要とするのです。これからなにがあっても、なにを聞いても後戻りしない、後悔しないと覚悟をするなら、あのお客様を任せましょう」

     わたしは両手の平を顔の前で合わせた。自然と瞳が潤むのを感じる。

    「では、今からあなたは早春ではありません。さやはる、と名乗ってください。よろしいですね?さやはる」
    「はい!承知しました。わたしの名前は、さやはるです」

     この日からわたしは、長瀞の間のお客様をお世話することになった。
     あの時、わたしにお金をくれた爺ちゃんのお世話を。

    ・
    ・

    「失礼いたします、お客様、朝ご飯はどうでしたか?」
    「おぉおぉ、さやはるちゃん、今朝も美味しかった。メシも玉子も汁も美味かったが、あれはなんだな、魚の干物、あれは、シイラじゃないかい?」
    「はい、シイラの干物です。シイラはとても固くなるのですが、柔らかく食べてもらえるように料理長と相談して」
    「そうじゃな、シイラの干物は塩辛くて固い。儂が子供の頃はあれが嫌いでなぁ。だがこの歳になると、懐かしいもんだの」

     わたしは目を細めて昔を懐かしむ老人を見て、ふと思い付いた。

    「そうだ、お客様、この後温泉に入ったら、お散歩しませんか?」
    「ふん?この宿の周りをかい?何も無さそうだったが」
    「いえ、宿の側の渓流はとても景色が良いんです。気持ちがいいですよ?お風呂の後に行きませんか?わたしがご案内しますので」
    「ほぉ、さやはるちゃんも一緒に?それは嬉しいのぉ」
    「ではでは!急いで片付けますから、あ、お風呂ではいつものように、お背中を流しましょうね」
    「あっはっは、まったく、孫娘でもこんなには、してくれんかったがのぉ」

     上機嫌の老人を見ながら、わたしも幸せを感じていた。

     毎日毎日、わたしは老人の食事を考え、うみかぜに習いながら作った。部屋では美しく盛り付けられた料理を整え、一緒に食事をした。温泉では背中を流し、体調を気遣い、そして川辺を散歩した。

     日々は過ぎる。

     そして老人は、老いていった。

    ・
    ・

     ある朝、わたしは長瀞の間の扉をノックした。

    「お客様、朝になりました。朝食をお伺いしますので、お邪魔してよろしいですか?」

     老人からの返事は無かった。

    「お客様!爺ちゃん!!どうしたの?!」

     慌てて部屋に入ったが、老人は布団をかぶったまま眠り続けていた。
     わたしは女将に事の次第を報告し、そのまま部屋で老人の様子をみることにした。

    -ただ寝てるだけだよね。でも爺ちゃん、ずいぶん痩せちゃったな。

     そんな思いから、わたしは老人の額に手を当てた。すると老人はハッと目を開き、ふぅ~っと大きなため息をついた。

    「あ・・ああ、さやはるちゃんか、儂は、そうか、目が覚めんかったのか」
    「爺ちゃん、いえ、お客様、苦しくないですか?誰か人を呼びましょうか?」
    「いや、大丈夫。ずいぶん長い夢を見ていただけじゃ。そう、長い夢」
    「夢、ですか」
    「ああ、さやはるちゃんのような女の子がの?儂の世話を焼いてくれるんじゃ。街で出会った女の子じゃが、ちょいちょい家に来ての?煮物だの焼き魚だの買って来てくれて、一緒にメシを食うんじゃ。話し相手にもなってくれてなぁ・・・楽しかったのぉ」

     老人の夢の話を聞いて、わたしの体は強ばった。

    -それ、わたしだ。

    「じゃがの、あの子がの、男どもと一緒に来ての、儂の前で泣くんじゃ。爺ちゃん、お金がないと、この人たちに酷いことされる、って」

    -あれ?爺ちゃんはわたしにお金をくれたよね・・・あれ?

     握りしめた手の平は、びっしょりと濡れている。

    -男たち?あれは、あいつら?悪い、ヤツら。

    「儂は知っとった。あの子は最初から儂を騙していたんじゃ。金を巻き上げるためにな」

     わたしは目をギュッとつぶった。まぶたの裏に、男たちの顔と老人の顔が浮かぶ。

    「でもな、儂は本当に嬉しかったんじゃよ。だからあのとき、儂はあの子に言うたよ」

    「儂を騙してるのは分かっていたが、楽しかったから、だからこのカネ、あげるよ」

     わたしの目から、涙が流れ落ちた。

    「爺ちゃん!それ・・わたしなの!わたしが爺ちゃんを騙してたのよ!!」

     老人は目を丸くしてわたしの顔を見つめていたが、すぐに声を上げて笑い出した。

    「あっはっは、そんなわけはなかろうよ。さやはるちゃんとあの子は全然似とらんよ?」
    「それは!わたしは今黒髪だし、メイクもしていないから・・」
    「いいや、違う。儂があの子の顔を忘れるわけはない。あの子の目はまん丸でパッチリ、唇も厚くて少しぽっちゃりさんじゃった」

     老人はそう言いながら、わたしの顔を更にまじまじと見つめた。

    「うん、さやはるちゃんの目は切れ長だし、瓜実顔というのか、そうじゃ、さやはるちゃんは女将さん、ことのはさんによう似とる。まるで姉妹のようじゃ」
    「え?女将さんとわたしが、似てる?」
    「ああ、本当に似ておる」

     それからしばらく話を続けたけど、結局、老人はわたしの言うことを信じてはくれなかった。

    「はぁ、はぁ、はぁ・・」

     喋りすぎたのか、老人の息が上がっている。

    「爺ちゃん、ううん。お客様、ちょっと待っててね。これから食べやすいものを作ってきます。それまでゆっくりと休んで」
    「いや、さやはるちゃん、ちょっとお待ちなさい」

     部屋を出ようとしたわたしを、老人が引き留めた。

    「さやはるちゃん、儂はもう長くない。自分の身体のことじゃ、儂が一番良く分かる。それにな、こんな感じは二度目なのかもしれん。それでな」

     老人は部屋の隅に置いてあるカバンを指差し、枕元に持ってくるように言った。わたしがカバンを置くと老人は体を起こし、ダイヤル錠を回してカバンを開けた。

    「さやはるちゃん、これまでありがとう。楽しかったよ。だからこれをな、さやはるちゃんにあげるよ」

     カバンの中には、いくらあるかも分からない札束が詰まっていた。

    「そうじゃ、あの子にもこれくらいあげたんじゃよ。あの子・・・ちはるちゃんにも」

    -ちはる・・そうだ、それがわたしの本当の名前、早い春と書いて、ちはる。

     名前と共に、わたしは全てを思い出した。わたしが子供の頃のこと、爺ちゃんに何をしていたのか、そしてわたしが・・

     殺された時のことも。

    ・
    ・

     長瀞の間を後にしたわたしはうみかぜに頼んで、ごく軽い食事を準備してもらった。

     老人の食事はいつもわたしが作るのだけれど、今日はどうしても作れなかった。

     わたしは長瀞の間に戻り、朝食を準備した。

     老人は、ほんの少しの白飯と味噌汁を口にしただけで、また深い眠りについてしまった。

     わたしはふらふらと立ち上がり、調理場へ戻った。

     それからどこをどう歩いたのか、わたしは渓流の岸辺を歩いていた。

     いつか、うみかぜとカゲロウを見た岸辺。

     水の流れに沿って、わたしは歩く。どこまでも歩く。

     早瀬があり、瀞場があり、木々が鬱蒼として薄暗く、そして木漏れ日が燦々と降り注ぐ。

     気が付くと、わたしはまた同じ岸辺に立っていた。

     また歩き出す、また戻る。また歩き出す、また戻る。

     繰り返し、繰り返し、同じ道を歩く。

     俯きながら歩いていると涙が溢れてきて、落ちた滴が石に跡を作った。

     ”トンっ”

     わたしは何かに突き当たって足を止めた。

     顔を上げるとそこに、うみかぜの顔があった。

    「うみかぜ、どうしてここに?」
    「探したからに決まってるだろ?ばかだな」
    「ばかって、ひどい・・うっ、うっ、うううっ」

     強がろうとしたけど、嗚咽が込み上げて来ただけだ。
     うみかぜの胸に顔を埋め、わたしは全てを告白した。

     わたしは罪を犯した。

     わたしが持っているお金は、爺ちゃんから貰ったんじゃない。
     あれは、わたしが爺ちゃんから騙し取ったもの。

     偶然の振りをして爺ちゃんに近づいて、話し相手になってあげて、仲良くなって、頃合いをみて悪い連中を連れて行って、お金がないと、コイツらに酷い目に遭わされるって泣いて頼んだら、爺ちゃんはお金を出してくれた。

     でもそのとき、爺ちゃんは言ったんだ。

    「ちはるちゃんが儂を騙してるのは分かってたんじゃよ。じゃが、とても楽しかったよ、ありがとう。だからこれ、このお金を、ちはるちゃんにあげるよ」

     わたしはそのお金を、あいつらから奪って逃げた。

     でも捕まって・・

     あいつらに殺された。

    「わぁああーん!わぁぁあああーーん!!」

     うみかぜの前で、わたしは両手で顔を覆って泣いた。
     膝を折って泣きじゃくるわたしの背中を、うみかぜがさすってくれた。

     少しだけわたしが落ち着くと、うみかぜは川辺に座って、隣の岩をポンポンッと叩いた。
     川辺には飛沫を含んだ風が吹き渡り、わたしの髪を揺らす。

     岩に当たり、複雑な流れを作る川面をふたりで眺めていると、ふわふわと頼りなく飛ぶカゲロウが目に入った。

     ”ぴしゃん”

     水面に触れるか触れないか、その瞬間、カゲロウはヤマメに食われた。だが、次から次へと水面に近づくカゲロウは、あるものは食われ、そしてあるものは水面に触れ、そして落ち、流れた。

    「カゲロウって、生きてる意味、あるのかな」

     そう呟くわたしの頭に、うみかぜはポンッと手を乗せた。

    「ある、あるに決まってるよ」
    「でもわたしは、生きてる意味のない人間だから、だから殺されたんだよ?」
    「・・・」
    「うみかぜも・・もう死んでるの?」
    「ああ、死んでる」
    「じゃあ、うみかぜも生きてたときのこと、忘れてるの?」
    「ああ、忘れてた。ここに来る人たちはみんな忘れてるんだ。そしてね、ここで思い出すんだよ?」
    「生きてたときのこと?」
    「いいや、意味だよ。もう一度生きる意味を思い出すんだ。だけどね、希に生きていた時の記憶を取り戻す者もいる」
    「うみかぜも、そうなの?」
    「そうだよ?わたしはね、生きていた時のことを思い出した。思い出して、今もここにいるんだ」
    「・・・」
    「わたしはね、警察官だったんだ。生きていたとき、ね」

     うみかぜは聞かせてくれた。
     生きていた、自分のことを。


     私はね、警察官という仕事を誇りにしていた。制服の私が道を歩くだけで、街の人たちに安心を与えることが出来るんだよ。

     人が働くのは遊ぶため?美味いものを喰うため?楽しい人生を送るため?

     いいや、違う。

     人が働くのは、人のためなんだ。そして得たお金で、自分の生活を作っていく。

     人は、そういう生き物なんだよ。

     だから働くなら、自分が好きな仕事を、誇りに思える仕事を選ばなきゃ。

     だから警察官という仕事を選んで、私は幸せだった。

     そう思っていた。

     あの日まで。

     あの日、巡回中の私は、老人が公園に引きずり込まれるところに出くわした。
     若者が3人、見るからに悪い輩だった。
     追い掛けると、3人は老人を囲んで暴行を働いていた。

     私は思わず掴みかかって、3人を老人から引き剥がした。
     老人は顔中血だらけで、私は老人の傷を見ようと屈んだんだ。

     それがまずかった。

     3人は背後から襲いかかってきて、ナイフで私を刺した。
     何回も、何回も、何回も刺されたよ。

     でも私は老人を庇って、反撃できなかった。

     私はそこで、死んだ。

     そのとき、私の心は無念でいっぱいだったよ。

     私には、妻と娘がいた。
     小学生の娘。
     私は、娘を残して死んでしまうのか。

     そのとき分かった。

     私が生まれたのは、勉強してきたのは、警察官になったのは、すべて娘のためだった、娘とこの世で、出会うためだったんだ、って。

     そこまで語ると、うみかぜは、ふぅ、と息をついた。

    「カゲロウにはね、仕事なんかない。ただ、自分を未来に繋ぐために、生きるんだ」

     語る間、うみかぜはずっとわたしの頭を撫でてくれていた。
     暖かくて大きな手、間違いなく知っている、優しい手の平の感触。

    「そう思わないか?・・・ちはる」

     わたしはうみかぜの顔を見上げた。

    「え?おとう、さん?」

     わたしの眼に映るその顔は、うみかぜの顔ではなかった。

     それは紛れもない、父の顔だった。

    ・
    ・

     わたしは小学生の頃、父を亡くしていた

     父は家にいるとき、いつもわたしのごはんを作ってくれた。

     朝は目玉焼きとカリカリのベーコン、醤油にマヨネーズ。
     真っ白なご飯が汚れるけど、ぜんぜん構わないの。

     オムライスだってナポリタンだって、わたしの好きなものは全部知ってて、全部作ってくれる。

     よく川に行って、小石を投げて遊んだ。
     父が投げる小石は水を切って、遠くまで波紋を伝えるけど、わたしのは全然だめ。
     でも一生懸命投げるうちに、何回か跳ねるようになった。

    「上手い上手い!すぐに父さん、ちはるに負けちゃうなぁ!」

     目を細めて、口を大きく開けて、大声で笑う父の顔。

     父は、警察官だった。
     優しくて強い、わたしのヒーロー。

     でもある日、父は帰ってこなかった。

     事件に巻き込まれて、殉職したと聞いた。

     わたしは父を奪ったヤツらを恨んだ。恨んで恨んで、わたしの心は荒れた。

     寒い。
     冷たい。
     凍える。

     心も身体と同じなんだ。

     わたしの心は、凍りついた。

     そしてわたしは、あれほど憎んでいたはずの犯罪者に、なった。

    「あぁああ、おとう・さ・・おとう・さん」

    「ごめん・・なさい、ごめん・・な・・ごめん・・なさ・・」

     涙は出ない、声も出ない、息が苦しい、喉を振り絞るけど声にならない。

     ただ、思いが胸を締め付ける。
     ただ、こんな自分が父の娘であることが、罪だと思えた。

     そんなわたしを、父は優しく抱き締めてくれた。

    「大丈夫、大丈夫だよ」

     顔を上げると、父は笑っている。

     優しく、うみかぜの顔で。

    ・
    ・
    ・

     この温泉宿に、生きている人はひとりとしていない。でも、この世とあの世の狭間でもない。

     ここは、現世と来世の狭間。

     現世で死んだ人間は、みながこの温泉を訪れる。
     ここで過ごす間に、人間は本来の自分を見つめ直し、そして二つの選択をするのだという。

     ひとつは、本来の自分を取り戻し、来世に生まれ変わる道。
     もうひとつは、現世に未練なく、生き尽くした人が選ぶ道。

     それは、消滅。

    「さやはるさん、長瀞の間のお客様のことで、お話があるの」
    「はい、どのようなお話でしょうか」

     女将はまっすぐにわたしの目を見た。

    「長瀞の間のお客様は、この宿で十分な時を過ごしました。来世に生まれ変わるお客様は若返っていくのですが、長瀞の間のお客様はそうではありません。気付いていましたね?」
    「はい、日々食事の量も減って、散歩も難しくなっていました。それにお背中を流すとき、背中の肉が落ちて」
    「そのとおりです。長瀞の間のお客様は、今日明日にも、お消えになるでしょう」
    「・・・」
    「そのとき、お客様の傍でお見送りする覚悟は、ありますか?」
    「でも」
    「でも?」
    「父から、いえ、うみかぜからお聞きでしょう。わたしは罪人です。そんなわたしにその資格は・・」
    「さやはるさん」
    「はい」
    「私は、その覚悟はあるか、とだけ聞いているのですよ?」

     女将の、ことのはの凜とした表情に、わたしは頷くしかなかった。

    ・
    ・

     長瀞の間で、爺ちゃんはわたしの手を握っている。

    「さやはるちゃん」

     爺ちゃんは目を瞑りながら、小さい声で私を呼んだ。

    「はい、さやはるですよ」
    「おお、儂はまた夢を見ていたよ。またあの子の、ちはるちゃんの夢じゃった」
    「そうですか、今度はどんな夢でしたか?」
    「うむ、儂があげたカネでな、ちはるちゃんが幸せになっている夢じゃよ」
    「そうですね、そうだといいですね。いえ、きっと幸せになっていますよ」
    「ああ、そうだといいのぉ。いや、きっとそうだのう」
    「・・」
    「はぁ、もう思い残すことはないな。いや、前にもそう思ったの」

     爺ちゃんの手から、力が抜けていく。
     瞼を開けようとするが、ぴくぴくと痙攣するだけで、開きはしない。
     少しずつ、爺ちゃんの体が透けていくようだ。

     その時は、近い。

    「ああ、儂にも妻や子がいた。孫だっている。だけどなぁ、妻が死んでから、誰も儂の側に来んかった。そうじゃ、儂は悪いことをたくさんしてきたからの。子供らも愛想を尽かしたんじゃろ。それと引き換えに財は成したがの、結局、儂には未練と後悔しか残らんかった」

    「じゃがあの子と、ちはるちゃんと出会ってからの毎日。あの日々が、儂を救ったんじゃ」

    「あのカネ、ちはるちゃんが貰ってくれて、良かったわ」

    「そう言えば、さやはるちゃんは自分の事を、”ちはる”、だと言っとったの?」
    「・・・はい、いえ、信じていただかなくていいですよ?」
    「もしそうなら、そうならじゃ・・あんたは儂を、2回も救ってくれたことになるのぉ」
    「・・・」
    「本当にありがとう、さやはるちゃんで、ちはるちゃんの人よ・・」

     それっきり、爺ちゃんは喋らなかった。

     わたしは爺ちゃんの手を握りしめた。

     爺ちゃんの手は、わたしの手の中で、静かに消えていった。

     最後の爺ちゃんの顔、笑ってたな。

    ・
    ・

    「さやはるさん、どうでしたか?お客様の最後のお顔、さやはるさんには、どう見えましたか?」

     わたしはまだ泣いていて、ことのはの問いには応えられなかった。だけど、胸の思いが溢れてくる。

    「女将さん、わたしはあのお客様を騙しました。わたしは罪人なんです。それなのに、わたしはずっと忘れていて、本当は、あのお客様のお世話など出来るはず・・なかった」
    「もう一度聞きます。お客様の最後のお顔、どう見えましたか?」

     ハッとして顔を上げると、目と目が合った。ことのはの瞳は、優しい。

    「お客様は、爺ちゃんは、笑ってました。2度も救ってくれた、って」

     そうだった。現世でわたしにお金をくれたときも、わたしの手を握りしめて消えていくときも、爺ちゃんは微笑んでいた。

    「思い出しましたか?あなたは確かに罪を犯しました。でも、あなたが騙したと思っている老人は、あなたを責めなかったでしょ?」

     そうだ、爺ちゃんはわたしに救われたって言ったけど、本当に助けられたのは・・

    「わたしだ、爺ちゃんは罪人のわたしを、わたしの心を、助けようとしてくれたんだ!!」

    「あ・・あぁああああ・・あああぁぁぁーーぁああっああーーーっ!!!」

     激しく肩を震わせるわたしを、ことのはは、しっかりと抱き締めてくれた。

    「気付きましたね」

    「ずいぶんと成長しましたね、さやはる」

     泣き続けるわたしの耳に、ことのはの声が、微かに届いた。

    ・
    ・

     この温泉は、死人が訪れる。

     ここで彼らは温泉に浸かり、そして食べる。
     それは極上の湯、極上の食材、極上の美味。

     だがそれを上回る、極上の持てなし。
     女将、厨房、仲居、すべてが極上。

     彼らは二つの選択をする。

     ここで若返るのならば、それは、自分がもう一度生きる意味を、見つけた証。
     ここで老いるのならば、それは、自分がもう、十分に生きたと知った証。

     だが、選択肢はもうひとつあるのだ。

    ・
    ・

     17歳のちはるは、早春としてこの宿を訪れた。そして彼女は、さやはるとして歳を重ねた。

     彼女の心は成熟し、大人の女性となった。

     そして彼女は、その容姿を変えた。

     この温泉で成長する者、その者の容姿は、浄化された心の美しさを映すのだ。

     ことのは、と、さやはる、ふたりの容姿は、双子と見まごうほどになっていた。

    ・
    ・

     わたしがここに来て、もう何年経ったかな。

     わたしの前に、ことのは、そしてうみかぜがいる。

    「さやはる、いや、ちはる、おまえはまだ選択出来る。生まれ変わりを望むのなら、これから若返ることができるんだ。どうしたい?おまえはもう一度、現世に生まれ変わるのか?」
    「うみかぜ、いいえ、おとうさん。わたしはここに残ります」

     ことのはが問う。

    「そうですか、さやはる、どうしてそう願うのですか?現世の父親がここにいるからですか?」
    「違います。それは、わたしが出来ること、それをここで知ったから。ここでお客様を見守ることが、わたしの仕事だと知ったから」

     ことのはとうみかぜは顔を見合わせ、そして頷いた。

    「分かりました。私は今、うみかぜと共に決めました。あなたをここに残します。では改めて、さやはるという名をあなたに与えましょう」

     わたしは首を振った。

    -ちがう、ちがうの。ちはる、早春、さやはる、どれもちがう。

    「現世でお父さんは、ずっとわたしを温かく包んでくれた。そのお父さんを失って、わたしの心は凍えたと思った。でもお爺ちゃんが、わたしを温めてくれた」

    「そして、この宿で・・温泉が、美味しいご飯が、お父さんが、そして、女将さんが」

    「わたしは、ここでたくさんの暖かい着物を着せていただきました」

    「何枚も、何枚も、着せていただいたんです・・わたしの、心に」

    「だからわたしは、私の名前は」

    「衣更着・・きさらぎ・・と、名乗りたいのです」

     そう言うわたしに、ふたりは優しく笑いかけてくれた。

    ・
    ・
    ・

     とある日、宿の玄関先に、和箒で入り口を清めるきさらぎの姿があった。

     ことのはからこの宿を継いで、一日も欠かさない日課。

     きさらぎは不意に空を見上げ、ふぅっと息をつき、目を瞑る。

     すぐに開いたきさらぎの眼、その視線が宙を泳ぐように動いた。

    「走馬灯が、珍しいわ、ほとんど同じ走馬灯がふたつ」

    「動けない妹・・兄が妹を介護して、守って、幼い妹を何年も何年も・・」

    「そうなのね、兄は生涯を掛けるのね。妹は・・」

    「兄が車椅子を押して、ふたりだけの日々、ふたりだけど、孤独」

    「遙か下に海が見える、遥か遠くに山が連なって」

    「あぁ・・兄が妹を・・ああ・・」

     きさらぎは目をぎゅっと瞑った。だがすぐに目を開き、宿の奥に向き直る。

    「ご予約が入りました。みなさん、お二人様をお迎えいたします。ご準備を」
    「かしこまりました。女将」

     宿の奥から、従業員が応える。

     返事に頷いて、きさらぎはくるりと向き直る。

     そして誰もいないと見える空間に、丁寧にお辞儀して、言った。

    「お待ちしておりました、ご予約のお客様、さあ、おふたりとも、どうぞお上がりくださいませ」

     そこには、いつの間にか現れた少年と少女が手を繋いで立っている。

     優しく微笑むきさらぎに、ふたりは顔を見合わせた。

    「ようこそ、きさらぎの宿へ」

     ふたりはきさらぎに手を引かれ、宿の奥に消えた。

    「あははっ!やだもう!」
    「女将さん、くすぐったいよ!」

     明るい声が、きさらぎの宿に響いた。


    第2章 早春の間のお客様  了


    第3章 双葉葵の間

     調理場に立つうみかぜの両隣に、小さな頭が見え隠れしている。
     ふたつの頭が交互に、ぴょんぴょんと跳ねながら。

    「ねぇ!おじちゃん!!これ、これはなんてサカナ?鼻がぐにゃって、変なの~」
    「お?これはな、サクラマスっていう魚だぞ?美味しいぞ~」
    「さくら?お腹に桜が入ってるの?だから美味しいの?」
    「いやいや、そんなことはないんだが」
    「へぇ、じゃなんでサクラなの?なんで美味しいの?」
    「いや、えっとね、それは、はぁ・・」
    「な~んで!な~んで!」
    「な~んでサクラなの?」
    「お、女将さ~ん、ちょっとこのふたり、お願いできませんかねぇ。これから包丁使うんで」

     困った顔できさらぎを呼ぶうみかぜ。

    「あらあら、やんちゃな子供のお世話、うみかぜは慣れているのでは?」

     “もう、勘弁してよ、ちはる”

     うみかぜの瞳は心から助けを求めている。

     “もう、分かったわよ。とうさん”

    「はいはい、料理長はぜ~んぜん知らないそうですから、女将が教えて差し上げますよ」
    「女将さん、すご~い、な~んでも知ってるんだ~」
    「うみかぜのおじちゃん、な~んにも知らないんだ~」
    「いやっ!それくらい知って・・うん、はい、では、お願いします」

     ごしごしと頭を掻きながら、うみかぜは仕事に戻った。

    「さて、フタバさんとアオイちゃん、サクラマスはなぜサクラなの?でしたね」

     ふたりはキラキラと瞳を輝かせ、きさらぎを見上げた。

    ・
    ・

    「ね、フタバ、女将さんの話、面白かったね」

     布団をかぶりながら、アオイが話し掛けてきた。たくさん食べて、温泉にも浸かってもう眠いフタバは「うぅ~ん、そうだねぇ」と生返事で返す。

    「あのお魚は海から川に上がるとき、恋をするって、そのとき、体の色が桜色になるからサクラマス。でも、川に閉じ込められたサクラマスもいて、それはヤマメって」

    「ね、フタバ、恋って、恋するって、何かな?」

    「フタバってば!」

    「もう、寝ちゃったの?」

    「でもさ、今日は嬉しかったな。なんでか分かる?」

    「もう・・あのさ、女将さん私たちのこと、大好きよ、だって!」

    「好きって、恋かな!・・ほんとに寝ちゃったんだ。もう、いいっ!」

     頭まで布団を被るアオイの横で背中を向けているフタバは、寝ていなかった。

     “恋・・僕は知ってる。僕はいつ、誰に恋したんだっけ?えっと、えっと・・”

     ぎゅっと目を閉じて思い出そうとするフタバだったが、おぼろげに浮かぶ誰かの姿を捕まえることができず、いつの間にか寝てしまった。

     フタバは、夢を見た。

     太陽、青空、入道雲、風が吹き渡る。

     車椅子を押しているのは、僕だ。そして長い髪をなびかせて、僕を振り返ったのは。

     ・・ごめんね・・わたし、やっぱり無理だ。だって・・

    「お兄ちゃん、お兄ちゃん起きてっ!フタバ!!」

     ハッと目を開けたフタバの目の前に、アオイの顔があった。

    「朝ごはんね、トロトロのスクランブルエッグとトーストだって!フタバ、あれ大好き!!でね、朝ごはん食べたらね、女将さんとうみかぜのおじちゃんが、川に連れてってくれるって!!」

    ・
    ・

    「ほぉらアオイちゃん、釣れたぞ!」
    「きゃーっ!冷たいっ!!」

     びちびちと跳ねるヤマメが水を跳ね飛ばした。顔を覆う手の下で笑顔が弾ける。

    「フタバさんも一緒に釣りませんか?ほら、楽しそうですよ?」

     川岸で魚と戯れるうみかぜとアオイの姿に、フタバは言いようのない懐かしさを感じていた。

    「女将さん、あの、昨日の話なんですけど、あの、サクラマスの・・」
    「ええ、ほら、あれが川に閉じ込められたサクラマス、つまり、ヤマメですね」
    「いえ、それは分かるんです。あの・・恋の話なんですが」
    「はい、川に遡上するとき、サクラマスは恋をする。つまり、産卵のための遡上・・」
    「違うんです!それは恋、なんですか?」
    「フタバさん、それは、どういう?」
    「それは・・愛とは違うんですか?」

     きさらぎはその問いに答えなかった。ただその瞳は、深い憂いを帯びていた。

    ・
    ・

     フタバはまた夢を見ている。それは、明晰夢。

    「なんてことかなぁ、両親を揃って亡くしたと思ったら、妹がなぁ」
    「ホント、家族で遊びに行っただけなのにねぇ」
    「ああ、ところで、どこで面倒を見るんだ?あの子たち」

     この光景、覚えている。家族で川に遊びに行って、その帰り、トラックが突っ込んできて。

     父さん、母さん・・

     病院のベッド。寝ているのはアオイか。傍らで医師の話を聞いているのは、じいちゃんとばあちゃんだ。

    「お孫さんはこれから重度の障害を負って生活することになります。胸から下はほとんど動きません。腕も、指先が少し動くだけでしょう」
    「なんて、なんてことか。アオイはまだ6歳なのに。先生、望みは全くないんですか」
    「がんばってリハビリしていきましょう。出来ることはそれしかありません」

     僕にはなにもできない。ここにいて、横たわるアオイを見つめることしかできない。

     今すぐベッドに駆け寄って言いたい。

     “アオイ!大丈夫だよ!!”

     “これは夢だ、全部夢だ、父さんと母さんが死んだのも”

     “アオイが動けなくなったのも”

     “ぜんぶ夢なんだっ!!”

    ・
    ・

    「うぁああっ!アオイっ!!」

     布団から飛び起きたフタバの顔を、アオイが不思議そうに見つめていた。

    「フタバ、すごい寝言だったよ?」
    「ねごと?そうか、寝言か」
    「ねぇ、わたし、動けなくなったの?それに、父さんと母さんって、誰のこと?」

     “だれのこと”

     アオイのその言葉が胸に突き刺さった。

    -違う、あれは夢じゃない、だめだ、アオイが忘れたままでは・・父さんと、母さんを。

     フタバはアオイの両手を握りしめた。

    「アオイ、思い出せない?父さんと母さんのこと、川で遊んだあの日のこと、そして、あの事故のこと」
    「とうさん?かあさん?・・・事故?」
    「そうだよ、思い出そう。大丈夫、怖くない。これまでと同じだ、兄ちゃんが守る」

     アオイの頭を胸に抱いて、背中を優しく撫でた。

    「ほら目を瞑って、安心して、兄ちゃんが、守るから」

     それからふたりは、深い深い眠りに落ちた。

    ・
    ・

    「きゃーーっ!父さんやめてっ!!」
    「あはは!そんなこと言ったって、魚が暴れてるんだから」
    「もう!水が顔にかかるでしょ!!冷たいんだから!」
    「来たっ!父さん、母さん、僕も釣れた!!」

     竿がぐいぐいと引かれて、糸が川面を切り裂く。その先に、流れに逆らう波紋が一回、二回。

    「いいぞフタバ!そのまま竿を父さんの方に倒して」

     浅瀬に横たわる魚はもう暴れない。ただ鰓蓋を開けて、閉めて、透明な瞳でフタバを見つめている。

    「とうさん、すっごく綺麗だね、キラキラしてる。これ、なんていう魚?」
    「えっとな、これは~、ニジマスだってさ。塩焼きにすると美味しいって、ほら、あそこに書いてある」
    「え?これ、食べちゃうの?」
    「うん、ここはそういう釣り堀だからね・・もしかしてフタバ、食べたくないのか?」
    「えっとね、せっかく楽しかったのに殺しちゃうのは、やだな」

     そうだ、あのとき父さんは微笑みながら、ニジマスを川に帰した。
     自分が釣ったニジマスも。

     アオイはちょっとふくれてたけど、母さんが後ろから抱き締めて、「ほら、父さんとお兄ちゃんは、とっても優しいでしょ?アオイはどう思う」って。

     母さんを見上げて、アオイはすっごく笑顔で、頷いてた。

    「母さん、車がガタガタしてる、怖いよ!!」
    「大丈夫、大丈夫よ。ねぇあなた、ちょっと止まって。アオイが怖がってるし」
    「うん、そうだな。ちょっと待てよぉ~、よし」

     父さんは道の脇に車を止めて、見てみるよって車から降りた。

    「ねぇ母さん、帰ったらね、母さんのごはん食べたい!」
    「そう?なにがいいの?」
    「えっとね、トロトロのスクランブルエッグ!一番好き!パンにのっけるの」
    「もう、アオイったら。それは朝ごはんでしょ?今から夜ごはんなんだから・・」
    「ねぇ、ちょっと一緒に見てくれる?タイヤが何かおかしいんだけど」
    「ええ、いいわよ。じゃ、アオイ、晩ごはん何かいいか決めといてね?フタバも、お願いね」

     ふたりが外に出てすぐだ。

     “ゴゴォオオーーッ!グァッジャアーーーンッ!!”

     トラックが突っ込んできた。

     しゃがんでタイヤを見ていた父さんと母さん、そして、運転席の後ろにいたアオイが、視界から消えた。

     “なんてことかなぁ、両親を揃って亡くしたと思ったら、妹がなぁ”
     “ホント、家族で遊びに行っただけなのにねぇ”

     “ああ、ところで、どこで面倒見るんだ?”

    「あの子たち」

     父さんと母さんは死んだ。トラックに轢かれて。即死だったと聞いた。
     そしてアオイは、脊椎に重度の損傷を負った。

     幼い僕は、運命という言葉を知らなかった。
     だからあのとき、僕は何を呪えばいいか分からなかった。

     他人事のような親戚か、口先だけの教師か、僕を避ける同級生か。

    -みんな嫌いだ。友達なんていらない。僕には、アオイがいればいい。

     9歳の僕は、僕の全てをアオイに注いだ。

     アオイに対する僕の心、それは、愛だったのだろうか。

    ・
    ・
    「きさらぎ、この子たちは子供の姿でここに来て、成長も、若返りもしなかった。この子たちは、またこのままなのか?」
    「まだ分かりません。この走馬灯の中で、ふたりの心が何を知って、何を選ぶのか。それ次第でしょう」
    ・
    ・

    「やだ!おじいちゃんやめて!くすぐったい!!」
    「なにを言うアオイ!くすぐったいってことは、くすぐったいって事だろ!」
    「なにを言ってるの、あのねアオイ、じいちゃんが触ってるのが分かるんだから、アオイが良くなってるってことなのよ?」

     あれから6年が過ぎていた。僕は15歳、アオイは12歳。

     親戚が皆たらい回しする中で、母さん方の祖父母が僕たちを引き取ってくれた。

    「ほんと、アオイは由香里によく似てる。ねぇあなた」
    「ああ、それにフタバは浩介くんに似て優しい子だ。学校の勉強だって、なぁ」
    「お兄ちゃんって、学年で1番なんでしょ?高校、どうするのかなぁ」
    「大丈夫。じいちゃんがなんとかするし・・お金の心配はいらん」
    「アオイだって、フタバが毎日教えてくれてるから、学校に行けば1番よ?」

     そんな会話を、僕は黙って聞いていた。高校には行こうと思う。でも行くのは近場の公立だ。だって、レベルの高い私学なんか行ったら、ここでアオイを教えることができない。

     アオイが僕の全てだ。

     そんな頃、ばあちゃんに癌が見つかった。

    「フタバ、アオイ、ばあちゃんは頑張るからね。それに、じいちゃんが何とかしてくれる。じいちゃんは、ばあちゃんを愛してるから!」

     そんなばあちゃんの横で、じいちゃんは照れくさそうに笑っていた。

    ・
    ・

     僕は大学1年、アオイは16歳。

     あれからたったの4年。ばあちゃんが亡くなって、じいちゃんは失意の中、家に引き籠るようになった。

    「じいちゃん、ほら、お惣菜買ってきたよ?ご飯も炊くし、ちゃんと食べてね」
    「ほぉ、フタバか、じいちゃんなら大丈夫だぞ、ちゃんと食べてるから、お前は大学で頑張ってるんだろ。じいちゃんは大丈夫。心配はいらん。お前は大学に行って頑張ってるんだろ?じいちゃんはちゃんと食べてるから」

     冷蔵庫を開けると、いくつもの惣菜が腐っていた。
     リビングから、僕を呼ぶ声がする。

    「フタバ!ばあちゃんどこに行ったか知らないか?帰ってこないんだよ、ずっと」

     僕はもう、運命という言葉を知っている。

     呪うべきは、運命だ。

    ・
    ・
    「ああ、あの祖父母がなぁ。ふたりにとっては心の支えだったろうに。運命を呪う・・か。フタバの気持ちも分かるな」
    「こんなことがあと何年も続きます。ふたりは、また帰って来てしまうのかしら」
    ・
    ・

     僕は大学を辞めて、就職した。

     じいちゃんは施設に入り、叔父や叔母が面倒を見ることになった。だから僕が、アオイを看てあげなくちゃ。

     その会社で、僕は初めての恋をした。

    「えっと、今日から君の指導係になりました。よろしくね?フタバくん」

     小柄だけど長い髪が揺れて、大きな瞳がキラキラして。これまで友人も作らなかった僕には眩しい、年上の女性。

     彼女との面談の中で、僕はこれまでのこと、アオイのこと、すべてを話した。そして彼女は、そんな僕のすべてを受け止めて、理解してくれた。

    「偉いわねぇ、そんな小さい頃から妹さんを?今も毎日病院に?・・分かった。うちはフレックスや在宅もできるから、できるだけ配慮するように人事に言っておくわ」

    「それに、いつでも相談に乗るわよ?」

    「いつでも言ってね?ホントだよ?」

     いつしか僕たちは、恋人同士になった。

    「わぁ、お兄ちゃんの彼女さん、初めてだぁ~、あ、妹のアオイです。こんなですみません」

     ベッドの上でわずかに動く指先を上げ、おどけてみせるアオイ。彼女はその指をつまんで、手の平を合わせて、両の手で包み込んだ。

     輝くような笑顔を見せるふたり。

     この人となら、上手くいくかもしれない・・きっと。

     2年が過ぎた。僕は22歳、アオイは19歳。

     その日、青空に入道雲が湧き上がっていた。中庭を吹き渡る風が心地良い。

     車椅子を押す僕の前を歩きながら、彼女は俯いている。

    「フタバ、アオイちゃん・・ごめんね・・わたし、やっぱり無理だ。だって・・」

     長い髪をなびかせて、彼女が振り返った。大きな瞳を潤ませて。

    「フタバはわたしに恋してるだけ。フタバが愛してるのは、アオイちゃんだけよ」

     ベッドに横たわり、アオイは窓の外を見つめている。

    「ねぇ、お兄ちゃん。わたしがいなかったら、お兄ちゃんは、幸せになれた?」

    「ねぇ、わたしはあのとき、父さんと母さんと、一緒に逝けば良かった?」

    「ねぇ、お兄ちゃん、わたし、いない方が、いい?」

     僕は、フタバになにも言えなかった。

    ・
    ・
    「この出会いも、そうか、そのままか。ふたりにとって希望のような女性だったが」
    「そうね、でも、これからよ。この子たちが本当に向き合う時間」
    「ふたりが乗り越えるか、どうか・・だな」
    「そうね、乗り越えるか、どうか」
    ・
    ・

     20代、30代、時は過ぎた。僕が34歳、フタバは31歳。

    「うわっ!!」

     職場の廊下で何かに躓いて倒れた。足首に激痛が走る。

    「いってぇ!なに置いてんだ、こんなとこに!」
    「主任、大丈夫すか?わっ、ここで躓いたんすか?2センチくらいの段差すよ?」
    「2センチ?うそだろ?」

     同僚が差し出した手を掴もうとした。

     手に、力が入らなかった。いや、手足に力が入らない。

     僕は、立ち上がることが出来なかった。

     救急車で運ばれた病院から更に大きな病院に移され、様々な検査を受けた。検査入院という形だったが、それが良かったのか、2日目には普通に近く歩くことができた。

     3日目、病室に医師が来た。検査結果が出たという。

    「筋萎縮性側索硬化症、ALSという所見です。早ければ数年以内に筋力が失われて通常の生活ができなくなります。最終的には呼吸困難も・・・原因は不明です。治療法は、ありません」
    「せ、先生!僕には寝たきりの妹がいるんです。こんな病気になるわけにはいかないんだ!どうにか、どうにかなりませんか!!」

     医師は、ただ首を振るばかりだった。

     ベッドの脇でうなだれる僕の手を、アオイの指が触ろうとしている。
     必死に指を伸ばすが、震える指先は届かない。

    「アオイ、兄ちゃんさ、何年かしたら死んじゃうんだって」

     うなだれたままそう言う僕に、アオイの表情を図ることはできない。
     そんな僕の耳に、微かな声が届いた。

    「お兄ちゃん、わたしに何が出来る?何も出来ないよ?ずっとずっと守ってもらって、恋だってわたしが邪魔して、病気になっても何も出来なくて、でも、もしお兄ちゃんが死んじゃったらわたしはひとりで・・それが怖くてしょうがなくて・・なんて役立たずで、なんて身勝手な妹」

     微かな声は、涙で震えていた。
     僕はアオイの手を取って、頬に付けた。
     震える手は、温かかった。

    「兄ちゃんの人生はアオイにあげたんだから、気にしなくていい。それに兄ちゃん、アオイを置いて死にはしないんだ。いつも一緒なんだから」
    「ほんと?いいの?いつも一緒にいて」
    「いいに決まってる。でもさ、兄ちゃんちょっと疲れたな。少しだけ休みたいかも」
    「ねぇ、お兄ちゃん、わたしも疲れた、とっても疲れた。ふたりで一緒に休もうか」


     海が見たいなぁ、何十年も前に、とうさん、かあさんと4人で行ったよね

     そうだっけ、覚えてない。山じゃなかった?ほら、川で釣りをしたろ?

     ううん、行ったよ、わたしはまだよちよち歩き。父さんが波打ち際に連れて行ってくれて

     僕は?

     お兄ちゃんはね、母さんの足にしがみついて泣いてた

     あはは、じゃあ、行こうか。海も山も見えるところに

     ふたりきりで


     崖の上、車椅子の妹が目を瞑る

     ああ、海って広い

     もう一度生まれたら、わたし、海で暮らしたい

     ねぇ、お兄ちゃん、もういいから、ね

     これまで、ありがとう

     愛してる


     僕は、車椅子から手を離した

     がたごとと音を立てながら、車椅子は落ちていく

     妹は目を瞑っているだろう

     僕は走り出し、空に向かって飛び上がった

     高く、高く

     遠くに見えるあの山まで

     飛ぶつもりで


    「走馬灯が終りました。どこかで違う選択があれば、違う結末もあったでしょうに」
    「ふたりの意思で行った世界だ。変えられる可能性なんて思いはしないよ。だが・・」

     きさらぎとうみかぜの前に、大人になった兄妹が横たわっている。
     ぼんやりとした光を纏い、ふたりの姿はうっすらと消え始めた。

    「きさらぎ、俺はこのふたり、消したくないな」
    「そうですね、このまま消えるなら、ふたりでここに来た意味がありません」
    「じゃ、いいか、連れ戻すぞ」
    「はい、では」

     ふたりは消えゆく兄妹に、手を差し伸べた。


     僕とアオイの手に、誰かの手が触れている。
     これは誰の手?どうして僕の手を引くの?

     お兄ちゃん、とっても大きな手。
     それと、細くて白い手も、わたしの手を引いて。

     誰かが、僕たちを抱き締めている。

     ああ、あたたかい。あたたかいね、お兄ちゃん。

     声が聞こえるよ?
     優しい声だね。
     懐かしい声だね。
     何を言ってるの?

     “あなたたちは元々、フタバでもアオイでもありません”
     “それは、この宿での仮の名前”
     “そして、あなたたちはもう、わたしの子供”
     “さぁ、新しい名前を付けてあげる”
     “さぁ、こっちにおいで”

     目映い光に包まれて、兄妹はその姿を変えた。

     幼い少年と、少女の姿に。

    「アオイ、アオイ、起きて、もう朝になってるよ」
    「う~ん、フタバ?あれ、なんかすごい夢を見てた、かなぁ」
    「うん、見てた。でね、僕は思い出したんだ。アオイのほんとの名前」
    「うん、アオイも思い出したよ?フタバのほんとの名前」
    「じゃ、一緒に言おうか」
    「うん、一緒にね!」
    「せぇ~の!」「せぇ~の!」
    「うみみこっ!」「やまみこっ!」

    ・
    ・

     長い長い廊下を走ると、フロントが見えてくる。

     そこにはいつも、女将さんが立っている。

     僕たちは顔を見合わせて、ふたり一緒に駆け寄るんだ。

     女将さんは両手を広げて、僕たちを迎えてくれる。

    「ふたりとも、ずいぶん長く寝ましたね。朝ごはん、まだでしょ?」
    「うん!お腹すいた!!」
    「わたしも!えっと、スクランブルエッグがいい!でも、やまみこと一緒がいいな」
    「ぼくも、うみみこと一緒がいいから、スクランブルエッグにする!」

     女将さんは僕たちの瞳を見つめて、大きく頷いた。

    「さぁ!朝ごはんを食べたら、お外で一緒に遊ぼうか!」
    「やったー!川に行こ、僕、釣りするんだ!」
    「じゃ、うみかぜのおじちゃんも!一緒に釣りする!」
    「そうね、じゃあ、うみかぜにもお願いしましょうか」
    「わ~い!!」

     僕たちは廊下に向かって駆け出そうとしたけど、すぐに後ろから止められた。

    「走っちゃダメよ?走っていいのは、お客様だけ」

    「じゃ、お仕置きね」

    「きゃはははっ!女将さん、くすぐったい!」
    「わー!やめてってば!!あはははっ!よーし、女将さんもだ!!」

     みっつの笑い声が響く。

     きさらぎの唇が、音にならない言霊を結ぶ。

     “やまみこ、うみみこ、大きくなりなさい”

     “もういちど、ね”

     ここ、きさらぎの宿で。


    これは、とある温泉宿のお話  了

     
     
    猫好き、写真好き、釣りが好きで料理好き 面白いことあればいいなといつも思います

    あなたへのおすすめ