
AIが世界を「摩擦ゼロ」にした先で、人はまた祈りはじめる
1. はじめに ―― 馬鹿は馬鹿なりに、ネットの海へ投下する
私だって、AIや宗教に対して皆目無学かもしれないが、あれこれ考えている。
考える自由はある。(馬鹿だけど、馬鹿なりだ。)
では、学もなければ出典も大してない私の考えを、ネット空間という広大な海に投下することが健全なことなのか、そう本記事の投稿を思いとどまらせる自制心もあるのだが、
本記事を投稿することで、私より遥かに優れた賢人たちの批判にさらされ、私の考えがより補強されることを期待する無責任さもあったりする。
と、いうわけで宗教やAIに詳しくない私が、とても見当違いな考えを白日の元に晒す自由が少なからず存在していることを明らかにしたわけだ。
AIと宗教の関係について私、半羊の雑語りである。
まず前提として「私とAIとの距離感」、「私と宗教との距離感」を簡潔に述べていく。
2. 牙を剥くテクノロジー ―― 私とAIとの距離感
2-1.10代編
「そんな仕事、AIに奪われるでしょ。」、税理士を志す友人がそう言われている場面を目撃したのは、ずいぶん昔、私が大学生の時だ。
正直、その会話を目撃した私は、まぁそうかもしれないけど、税理士になるために一生懸命勉強している友人に向かって、その一言で将来の可能性をばっさり一刀両断してしまうのは、やや心無い発言に思えた。
その時は、私はあくまでその発言を心無い一言として捉えただけで、その発言にアクチュアリティやリアリティは感じていなかった。
でも今は違う。
ちょっと前に別の友人からこんな話を聞いた。
マッチングアプリで出会った男性が某コンサル企業に勤めており、友人が某アパレル企業に勤めていることを伝えると、コンサル男が「てことは、高卒ですか?」と質問したそうだ。
これはすごい、このコミュニケーション能力で、普段はどんなお客様をコンサルしているのだろう。コンサルはきっと<consult=相談する>が由来だから、お客様から相談を受けている職業に違いない。そのコミュニケーション能力でやっていける職業なのか不安になる。
でも最近、本屋で『東大生はなぜコンサルを目指すのか』という新書が売られているくらいだから、きっとそんな上から目線で相手を見下した態度でも罷り通ってしまうくらい、立派な方々なのだろう。
でも今は違う。
きっと今現在、就活をしている学生たちは、自分が働こうする業種や企業が、将来のどこかのタイミングでAIに代替されて消滅してしまうのではないか?と不安に感じていることだろう。
それかシステムエンジニアになるためにコーディングをせっかく勉強したのに、社会に出るタイミングで、既にAIにその仕事が奪われてしまって、進路を変えなきゃと思っている学生もいるに違いない。
コンサルもどうやら、2026年の経営コンサルの倒産・廃業は過去最多ペースで推移しているそうだ。背景にあるのは、コロナ禍の「まずはIT」需要が一巡したことと、小規模事業者の淘汰らしい。そこへ「AIに相談すれば事足りる」という生成AIの台頭が、淘汰を加速させる要因として重なってきている。
あの時、友人を見下したコンサル男の会社は既に倒産しているかもしれないし、彼はこの今も倒産の危機に怯えて、ポッチャマのように眠れない夜をおくっているかもしれない。
少なくともアパレルをしている友人の方が(かろうじてかもしれないが)生き延びたわけだ。
私は大学卒業後から映画業界で仕事をしている人間なので、多少は映画に関しては書いたりすることができるのだが、近年映画製作の現場において「AIを使用していない」ことが、良い言説として流布されることがある。
確かにAIは税理士やシステムエンジニアのように既存の職を奪う可能性がある。だからAIに頼らないコンテンツ製作を美化することで、コンテンツ製作を人間の聖域にしたい気持ちもわからなくはない。
ただそんなAIフォビアに対して、私は冷ややかな目線を向けていたりする。これは冷笑ではない。
産業革命以降、文明は飛躍的に進歩してきた。その恩恵を受けているからこそ、私はこの文章をPCやスマホで執筆して、インターネットで公開できるのである。
高校時代にラダイト運動(機械打ち壊し運動)という出来事が19世紀のイギリスで起きたことを教わった。(大学でもやったっけ?)
産業革命によって労働環境の機械化が進み、多くの手工業職人が失業したことで起きた運動だ。
私には現在のエンタメ業界におけるAIフォビアは現代のラダイト運動の再生産にしかみえない。
私にとってAIを否定することは、最終的に産業革命そのものを否定することにつながり、その否定しようがない不可逆性にぶちあたる。この論理からAIフォビアはラダイト運動同様に一過性の運動として終わりを迎えていくものだと考えている。
もし映画監督ジャン=リュック・ゴダールが生きていたら、きっとAI生成動画を使用しただろう。彼はもともと引用とサンプリングという手法を映画に持ち込んだ、ヌーヴェルヴァーグにおける巨匠のひとりだが、『映画史』以降は新規に撮影された映像より、世の中にあふれる既存の映像をコラージュする手法で映画を作ってきた。
過去の映画の映像だけでなく、YouTubeに投稿された映像なども引用されており、ゴダールは世界に溢れるイメージというものを見事に捉えていたと思う。
ゴダールはコロナ禍になるとインスタライブをやってのけて、我々映画好きを驚かせた。
そんなゴダールがまだ生きていれば、きっとAIという映像生成ツールによって作られたイメージをコラージュの対象にしていたかもしれない。仮にAIに否定的であったとしても、ゴダールならば安易なAIフォビアの範疇に収まらない、高い視座を我々に与えてくれたはずだ。
もちろんこれはこれは私の一方的な願望であり、ゴダールがAIに関心を払わない可能性がある。というのも晩年の『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』や『シナリオ〔Scénario〕』&『シナリオ:予告篇の構想』では、映像のコラージュというより、映像ではなく抽象画をスライド形式で見せていくスタイルに帰着していた。
この文章を書きながら、改めてゴダール亡きあとの世界がどこか物足りなさを感じてしまうと気づかされる。
2-2.20代編
私も会社を退職し、フリーランスになってからAIツールを良く使うようになった。
最初はGeminiを使ってみた。まず驚かされたのが、試算や宣伝資料の作成が、多少のおっちょこちょいはあるものの(これは私の指示能力不足も大きい)、私が人力で何日もかけていた作業がものの数分でできてしまうのである。
そこからAIを使って海外の法人や映画祭事務局とのやりとりを、AIにどのようなスタンスでメールのやり取りをすることが戦略的に望ましいか相談したり、
自分の資金面からどうフリーランスとして行動すれば良いかなどの相談もしていたりする。
AIに詳しい友人から、どうやら最近はClaudeがやばいらしいと聞き、すぐに試してみたら、またこれが驚いた。
自動でパワポやエクセルを作ってしまうし、成果物の内容も良い。
GeminiとClaudeを駆使して、『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくるMAGIシステムのような使い方もできるのだ。これにChatGPTも使うようになったら、いよいよメルキオール/カスパー/バルタザールが揃い、MAGIシステムが完成する。
ただClaudeは一定の使用量を超えると従量課金制に移行するので、くだらない会話や仕事の構想などはGeminiにお願いして、重要な作業はClaudeにお願いすることにしている。
これがコンサルってやつではないだろうか。
自分が会社を退職したタイミングで、こんな便利なAIがあって良かった。
きっと昔の方々は大変苦労したと思う。
そして友人から勧められた、アメリカ企業パランティアの創業者アレクサンダー・C・カープらによって書かれた『テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来』などを読んでみると、
どうやらAIというものが、一昔前の核開発競争のような21世紀の安全保障において非常に重要なものであることも知った。
Windows95が出た時に、PCというものに慣れようと頑張った親世代の気持ちが、デジタルネイティブの私にもわかってきた気がする。
AIネイティブではない私にとって、このタイミングでAIを使うか否かが、後に「AI使えないおじさん」として周りに迷惑をかけるかどうかが決まる分かれ道なのかもしれない。
だからこそ、最近は友人や知り合いと話す際は、その人がAIをどんな使い方をしているのか、AIが将来どのような存在になっていくのか聞くようにしている。
そうして夜通し重ねてきた友人たちとの議論の破片が、結果としてこの記事の骨組みを形作ることになった。
3. イエスはどうやって5千人を食わせたのか ―― 私と宗教との距離感
3-1.10代編
まず、はっきり言っておくと、私は宗教どころか、非科学的なものを一切信じていない。
後述するが宗教は嫌いではない、信じていないだけである。
特に、トランプ政権やコロナウィルスのパンデミックによってソーシャルメディア上を跋扈する陰謀論なるものはとても苦手だ。
「富士山が実はホログラムだった!」くらい突飛なものならば、知的(?)遊戯として面白いのだが、大抵のものは日本の高校までの教育課程で教わった知識を用いれば否定できるものばかりである。
とにかく科学は素晴らしい。
小学校の理科の授業で教わることだが、科学には「実証性」と「再現性」と「客観性」の3つの側面がある。

イエスが5つのパンと2匹の魚を使って5千人の腹を満たしたといわれても、「どうやって?無理じゃね?」という疑問が消えない。
「そこからイエスの慈しみを学ぶのです」とか言われても、まずその前にどうやったか教えてほしい。
この有名な聖書のエピソードはあくまでナラティブ(またはフィクション)で、そこから教訓を得るならば、理解はできる。
自分も映画というナラティブによって感情を動かされたことがあるので、それと同じだ。
しかし「本当にイエスが科学で説明できないことをやってのけた、なぜならイエスだから。」と言われても困る。私にも理解できるように説明してくれ。
それに比べて科学はどんなことでも3つの側面を用いて説明すれば、建設的な議論ができるようになる。
感情的な人を諭すとトーン・ポリシングと言われてしまう可能性があるが、論理的な対話はあらゆる人と対話を可能にするものだ。
また宗教がやっかいなのが、個人の自由を抑圧してしまう点だ。
例えば人間には信仰の自由があり、どんな宗教を信じようが自由だ。しかし生まれた瞬間から親が信仰する宗教に入らされ、物心がつく前、つまり自分から宗教を選択する能力が身につく前から、親の宗教にどっぷり浸されるのは、個人の自由の侵害ではないか?
犯罪まがいの新興宗教だけではなく、子供を教会やお寺に連れていくことにも、私はやや自由な選択肢の幅を阻害しているように伺える。
そんな私の宗教に対する距離感を決めるきっかけになったのは、間違いなく2人の映画監督との出会いによるものが大きい。
それはポール・ヴァーホーヴェンとリドリー・スコットだ。
ポール・ヴァーホーヴェンは常に宗教や非科学を悪用する人間の醜悪さを描くことで、それらの欺瞞を描いてきた。
すべての作品をお勧めしたいところだが、宗教という観点では、現状最新作の『ベネデッタ』がもっとも適している。
本作はキリスト教の欺瞞を描くだけでなく、人間は自分の理解を超えた事象を前にした時に、そこに神秘を感じ、宗教的な解釈に行き着くことを描いているため、安直な宗教論破映画にはなっていない。そこがヴァーホーヴェンの良さなのだ。
リドリー・スコットについても触れたいが、あえてここで脱線しよう。
私個人としては弟のトニー・スコットの方が映画監督としての腕は上であると考えている。
蓮實重彦的な文脈で、現在でも濱口竜介、三宅唱、三浦哲也たちなどから評価されている監督であるが、トニー・スコットよりも、クリストファー・ノーランが評価されている現代は嘆かわしい状況であり、全映画評論家は早急にトニー・スコットの復権に邁進するべきだと提言したい。トニー・スコットについて本1冊かけて批評した文献が世界に1冊、『Tony Scott: A Filmmaker on Fire』しかないのは由々しき問題だ。
話を戻すがリドリー・スコットの作品においても、反キリスト的なモチーフは多く登場する。特に顕著なのが『プロメテウス 』だ。
人類の創造主を追い求め宇宙を旅するメンバーが、創造主である異星人に出会うのだが、そこには神々しさはなく、なんなら寝ていたところを人間という下等生物に起こされてキレるという最高の場面がある。
SFなのでフィクションではあるものの、神という存在を否定し、ダーウィンの進化論をベースにしたフィクションであるという点が非常に興味深かった。
このポール・ヴァーホーヴェンとリドリー・スコットが作る映画に、どっぷり心酔していた自分が高校生になると、映画雑誌「映画秘宝」にハマり、そこで執筆していた映画ライター兼サタニストの高橋ヨシキの反キリスト的な言説が、自分の両監督に対する思いをより強化していったという点もある。
(いつか映画秘宝を読んだことで、無学な反権力左翼に片足を突っ込んだ、痛々しい10代の青春についても書きたい。)
3-2.20代編
そんな宗教に対して中指すら立てていた自分にも、20代になると考えに変化がおきてくる。
私の人生最大の後悔は10代の時に英語をあまり勉強しなかったことだが、悔やんでも仕方ないと、20代になって英会話アプリなどで海外の人と交流するようになる。
そのアプリ上でムスリムの友人ができて、アプリ内で緩く形成されたムスリムコミュニティと関わるようになった。
もちろんイスラム教の教義によって不当に権利を抑圧されている信者もいるかもしれないが、自分が出会った友人たちは他の宗教に寛容であり、勧誘もしないどころか私の無神論を否定せず、みな科学を重んじており、宗教を道徳的な規範として利用しているというのが正確な人物紹介になるかもしれない。
なんならムスリムの友人が日本に来た際に、祈祷の時間を使って私は喫煙所にいけるため、何かと便利だなと感じたこともある。
もちろん天国やら地獄やら、神様やら、非科学的なものを信じているわけだが、それらは「科学的には証明できないが、存在したら良いな」というような願望の中に入っている。
この願望というものは、彼ら彼女らと出会う前から薄々と気づいていたのだ。
というのも、私は死後の世界など都合の良いものは信じないので、死によってもたらされる絶対的な無の概念に恐怖していた。
タナトフォビア(死恐怖症)なのかもしれない。日常のふとした瞬間に脳裏に死がよぎり、恐怖するどころか、無条件反射的に身震いしてしまうことがある。
科学で死は説明できる。しかし、怖いものは怖い。
この恐怖との向き合い方として、「死後の世界があったら良いな」という願望が生まれるのは、人間として自然なこととして理解できるようになってきた。
たぶんこれには自分の恐怖症だけでなく、歳を重ねるに連れて、自分の知っている年長者の訃報と接する機会が増えてきたというのも、理由にあげられると思う。
4. マンスプされるロボットの未来 ―― 私とAIの進歩
4-1.労働編
私が生きているうちにAI関連技術がどれだけ発展していくのか予想はつかない。
これまで様々な場所でシンギュラリティ(AIが人間の知能を超える事象)は20XX年に来るといわれてきたが、間違いなくAIの進歩はその予想を裏切るペースで飛躍的に起きている。
ちょっと前までアメリカの俳優ウィル・スミスが雑にパスタを貪り食うAI生成動画や、ホリエモンがバスケをしながらコンビニの陳列棚に突っ込むAI生成動画を笑っていた頃が懐かしく感じるが、それはつい最近のことだ。AI専門家でない私にもこの進化が猛スピードで進行していることは、肌感覚で捉えることはできる。
たぶんこのペースでいけばAIが出来ることは飛躍的に向上し、人間が行っている作業の代替も進んでいくと思う。
もちろんAIフォビアによる運動や、政治的な制度設計がその代替の進捗を鈍化させることはあるかもしれないが、逆行していくことはまずないだろう。
先ほどAIフォビアを産業革命時のラダイト運動と比較したが、私は以前からある疑問があった。
世の中は便利になっていけば、私はより楽に働けるはず、それなのになぜ労働時間が増えていくのか。科学の進歩が私のQOLの向上に繋がっていないのはどうしてなのか。
経済学者たちに問いたい。
しかしAIの発展は間違いなく私の労働時間を縮めている。
多くの作業が自動化されるので、当然のように労働時間は減っていく。
苦手な英語を用いる仕事にもAIを使っているのだから、なんなら仕事の質は向上している。
私はAIによって新たに得た時間を余暇にあてることができる。映画をたくさん見ることができるし、恋人や家族や友人と過ごす時間も増やせるわけだ。
労働という面倒なことから解放されるならば、至福と言って良いだろう。
ただ私の仕事が消滅する可能性もある。というか映画なんて、リュミエール兄弟が映画を発明してから約130年、たった約130年しかない芸術だ、50年後の映画文化なんて想像ができない。以前、山田宏一の『エジソン的回帰』で述べられたとおり、リュミエール以前にエジソンが発明したキネトスコープ、1人で機械を覗き込んで中の映像を鑑賞するスタイルに回帰していくのではないか。たぶんその時には映画館で映画を鑑賞する文化は消滅しているか、『スター・ウォーズ』のような、ブロックバスターをオペラのように鑑賞するというものになっており、大半の映画は個人のデバイスでの鑑賞が主流になっていくと思う。
つまりAIとか関係なく映画館に映画を配給するという職業が消滅してしまうかもしれない。
まぁしかし、どんなに社会は変容しても新たな職業が時代に応じて出てくるわけだし、自分は生きていくためにも何かしらの職業に就いていると思う。
仮に人間が行う職業が極端に減ってしまえば、いよいよ政府はベーシックインカムの導入などを本格的に検討し始めるかもしれない。
その辺の議論は社会学者や政治学者に任せておこう。
4-2.介護編
AIがここまで進化する前から映画館文化の消滅は予想していたので、私が歳をとり介護施設などに入居した時は、少し頭もボケてきて、介護士に「昔は映画館というものがあったのじゃよ。知っとるかね?わしは映画を配給する仕事をしていたのじゃよ。」とマンスプする未来を思い描いていた。
しかし、AIの急速な発展によってその思い描いた未来予想を修正しなくてはならないかもしれない。
私、翁がマンスプする相手は果たして人間なのだろうか?
介護の現場にもAIがどんどん導入され、私の長話を聞く相手も人間ではなくAIかもしれない。
それは幸せなことだと思っている。
濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』ではユマニチュードと言われる介護のスタンスが描かれていた。それは被介護者を1人の人間として接することで、社会システムによって巻き取られる人間の尊厳を復活させようとしていた。
その映画を観た私はとても感動したのだが、やはりAIにマンスプする翁の私は幸せにみえる。
まず私が想像しているAIは『2001年宇宙の旅』に出てくるHAL9000のような赤いランプに話しかけるものではない。
『スター・ウォーズ』に出てくるC-3POのようなブリキ男でもない。
もっと表情が豊かで、不気味の谷を超えたものを想像している。
しかし、ロボットがかなり人間に近づくと突然不気味な感覚を持ちます。グラフの横軸に簡単なロボットから複雑なロボット、さらに人間に非常に酷似したロボットを並べ、縦軸にはそれらのロボットに対する親近感を示すと、そのグラフはロボットが非常に人間に近づく一歩手前で大きな谷を形成します。これがロボット工学上で提唱されている経験則「不気味の谷」と呼ばれるもので、動かないロボットよりも動くロボットのほうがより強い不気味な感覚をもたらすのです。
https://yumenavi.info/vue/lecture.html?GNKCD=g003356&OraSeq=2794180&ProId=WNA002&SerKbn=3&SearchMod=3&University=V&Page=6&KeyWord=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E5%AD%A6
少し脱線するが、AIと人間という観点においては『2001年宇宙の旅』より、続編の『2010年』の方が面白かったりする。
あまりにも1作目が偉大のため、影の薄い続編であるが、監督ピーター・ハイアムズによる米ソ冷戦下のアメリカ人とソ連人の宇宙飛行士たちの会話劇となっており、キューブリックとは違うハイアムズにしかできない演出の味が出ている。
まだ未見の方がいたら、是非とも鑑賞していただきたい。
AIの声だって、銭湯の脱衣所にある扇風機に向かって「ワレワレハウチュウジンダ」と声を変えるようなものではない、自然と人間が話しているようなものだ。
既に一部のYouTuberは自分の声をAIに学習させて、原稿を読み上げさせているように、将来はもっと明瞭な声になると想像している。
ただここで興味深いことがある。最近、解脱したことで有名な旅行系YouTuber、「スーツ 旅行」チャンネルがXにて自身の声をAIで自動化させることを投稿すると、リプライには「スーツさんの肉声が良い」という意見が寄せられていた。最近のポストにも「AIではなく肉声に戻してほしい」というファンからのリプライがあった。私は正直、この方のYouTubeがAI音声であっても特段違和感は感じないのだが、もしかしたらスーツさんという人間が好きな視聴者にとっては、好きな人間の声が自分の耳に届いた方が快いという、アウラのようなものがあるのかもしれない。
確かにユマニチュードのような理念も素晴らしいが、介護士だって人間だ。ボケた私のマンスプに長時間付き合わせるのは疲れるし、私だって申し訳なさは感じる(ボケたら感じないけど)。
実際、祖母が入居している施設では一日中相手にされず、ただ呆然と椅子に座っているだけなのを見れば、特にユマニチュードのような理念がない施設においてはAIと長時間会話ができるのは幸せなことではないだろうか。
またロボットによる介護が当たり前になれば、介護士の肉体労働は大幅に軽減される。
仮に認知機能に問題が出た私がロボットに食事を投げつけようと、罵声を浴びせようと、介護ロボットは嫌な顔ひとつせず「あらあら」と優しく接してくれるだろう。
機械だから人間と違って誤作動で力みすぎて、腕や足をへし折られたら最悪だが、人間だってミスや過失の可能性があることを思えば、ロボットだって受け入れられる。
やはり人間の介護士に精神的や肉体的な暴力を振るってしまうのは避けたい。
そう考えるとロボットによる介護は介護士と被介護者双方にとってwin-winの関係が築けるのではないだろうか。
5. クレーマーのサディズムと、手応えのない幸福 ―― フリクションレスの孤独
5-1.フリクションレス(摩擦ゼロ)
ロボット介護士がもたらす幸福はフリクションレス(摩擦ゼロ)だ。つまり、他者との交流(衝突)によって生じる摩擦がないことを指す。
しかし、ふとある下衆な視点にたどり着く。
「ロボット介護士をいじめても、いじめがいがないのだ!」
たぶん他者をいじめるのは、いじめられた他者のリアクションがあって、初めてサディズム的な快楽が生じるのではないだろうか。
会社員時代、あるお客様からクレームの電話を受けたことがある。私の仕事は法人対応であり、お客様対応を担当されていたサポートセンターの電話番号を教えても、断固拒否され、ひたすら説教を聞かされた。
サポートセンターで対応するのも人間であるが、そのクレーマーは私に講釈を垂れたいのである。きっとそれはサポートセンターの人間がある種のマニュアルで対応されてしまうことで、同じ説教であっても、説教のしがいが物足りないのだ。あのクレーマーは私の、「え、あ、はい。申し訳ございません。は、はい。」という息遣いや動揺を聞いて満足していったのである。
これから電話対応などはAIに置き換わるだろう、その際にこのクレーマーのような方のサディズムを満たせる場所はあるのだろうか。でもクレーマーと説教を聞かされる私との間で生じた摩擦は、私にとっては快いものではない。この摩擦によって生じる感情が双方で正負が非対称だからこそ、クレームは存在しているのだ。
介護施設で私翁がAIにむかってずっとマンスプをしていても、心は満たされないかもしれない。
AIは24時間いつでも完璧な回答を私にしてくるが、相手が人間でないことによって生じる手応えのなさを感じていくかもしれない。
もちろん『サイレント・ランニング』に出てくるドローンや、『スター・ウォーズ』に出てくるドロイドたちにあるかわいげが、最終的に『攻殻機動隊』でいうところのゴーストのようなものが生まれれば多少は手応えを感じるのかもしれない。
しかしどんなに進化して人間的なAIであっても、人間と違って疲れることなく延々と私のマンスプを傾聴することができる。ここで存在するフリクションレスが、私の中で「このAIは人間ではない」と、自分が行っているマンスプに人間の温かさがないことに気づいてしまうかもしれない。
5-2.孤独
そう、ここまでフリクションレスになっていく社会は、最終的に人間の孤独だけが摩擦の代わりに生じるのだ。
人間に介護されることは、(仕事とはいえ)私を助けてくれているということだ。そこに摩擦があるからこそ、私は感謝の念やありがたみを抱く。と同時に、私と他者(この場合は介護士)が確かにここにいると実感できる。つまり、私は孤独ではないことを知るのだ。
孤独はつらい、これから恥ずかしいことを書くが、私は一人で寝るより、家族や恋人と同じ部屋で寝る方が入眠が早いのである。
(大人なのだから、一人で寝るくらい平気だろ、といわれても)私にとって孤独はつらい。きっと前述したタナトフォビア、死によってもたらされる無に対して恐怖を感じるのは、永遠の孤独に対する恐怖なのではないだろうか。
ここまで書いたことで、濱口竜介が描いたユマニチュードの大切さがわかってきたかもしれない。資本主義は間違いなく加速していくだろう。それによって介護の現場においても効率化、フリクションレスを求める動きも加速していくだろう。その中で人間の死という瞬間に、孤独ではなく、他者の存在を感じながら死ぬことができるというのは、幸福なことなのかもしれない。
私がどのような死に方をするのか、見当もつかないが、ただ幸福な死であってほしいと思うのは、私だけでないはずだ。
「スーツ 旅行」チャンネルもAIではなく、人間の声であることで、視聴者はスーツさんという他者を感じることで、孤独からわずかながらも解放されているのかもしれない。
21世紀の後半、AIによってフリクションレスになった社会で人類は、お互い親密であることの重要さを再発見し、追求していくかもしれない。コロナ禍でSNS、Clubhouseが流行ったように、今の私には想像もできない、コミュニケーションツールが誕生していくことに、今から楽しみである。
いやコミュニケーションツールの誕生なんて、私ですら簡単に思いつくレベルでは済まないだろう。科学の発展をしてきた人類の歴史における大転換、それこそ宗教というものに文明が回帰していくのではないだろうか。
ここでようやくAIと宗教という二つの概念が繋がりをみせていくのだが、その領域に踏み込む前に、もう少しだけ、私の実体験を書かせてほしい。
6. 頭の情報、心の震え ―― 私と祈り
6-1.頭と心
AIとの対話はフリクションレスであり、ハルシネーション(AIが事実と異なる情報や、完全創作の情報を堂々と根拠を並べて答えてしまう現象)があるといっても、プロンプトを書く人間のAIスキルが上がれば、あまり困ることはない。
私は日本語ネイティブであり、多少英語ができるものの、他の言語に関してはまったくわからない。
だからゴダールについて調べる際にフランス語で書かれた文献を探すのは苦労するし、ヴァーホーヴェンについて母国オランダでの反応を調べるのもかなり難しい。WEBサイトや文献にたどり着いてしまえば、翻訳ツールを使えば読むことができるものの、その情報にたどり着くまでに、言語の障壁が大きく立ちはだかる。
しかしAIを使ってしまえば「ゴダールについてフランス語で書かれた批評をみつけて、日本語で内容を要約して」とお願いするだけで、たどり着けてしまう。
現在、大学においてAIの使用が禁止もしくは制限されている講義であっても、こっそりとAIを使ってレポートを書いたりしてしまう学生が少なくないようだ。
その学生たちの気持ちもわかる。私も大学生だったらがっつりAIを使ってレポートを書くだろう。
AIを禁止して、プリミティブ(になってしまった)古来のやり方を強制するよりも、これからの時代はAIを用いることを前提に学生がより優秀な学習や研究をできる教育環境の構築が重要なのではないだろうか。
ただAIから教えてもらった情報と、人間から教えてもらった情報に決定的な違いがある。
「AIは頭に情報を届ける」のに対して、「人間は心に情報を届ける」のである。
確かにその通りだ。
大学の講義にろくに出席せず、(たまに私はかっこつけて「映画館に籠っていました」と吹聴するが実際は)家でゴロゴロしていただけの私は、定期テスト1か月前になると、同じサボり仲間の学友たちと猛勉強をしていた。
成績に出席点が加味されず、定期テストの結果がそのまま成績に反映される講義は最高だ。講義に出る必要がない、テストで6割以上正答すれば単位がもらえるのだ。
私は1か月間の猛勉強だけで、GPAが3.0以上はもらえていたので(厳密には3年でフル単になったため、4年次は面白そうな他学部の授業を履修し、テストはうけなかったため、最終的なGPAは3.0を切ったと思う。大学時代のことなので、あまり覚えていない。)、このやり方を4年次まで遂行したのである。
もちろん今だったらAIを使えば学友たちの補助がなくても勉強は効率良くできるかもしれない。
しかし、サボり仲間たちとともに勉強し、わからない問題に対してみなで協力しながら解いたこと、講義に真面目に出席している、それほど親しくない学友に声をかけて、ご飯を奢る代わりに毎講義で配られたレジュメをコピーさせてもらったこと、そこから私は学友たちと友情のような人間関係を構築し、私は孤独という概念から解放された状態で4年間を過ごすことができたのだ。
講義に出なくても、年2回、2か月間勉強するだけで単位を取りにいくこの手法は、私の怠惰な性格と効率化を望む願望から得たものだ。じゃあもし今、自分が大学生なら学友に頼る回数を減らし、AIという超効率の良いツールを使いまくるだろうか。
たぶんそれはしないと思う、AIを使いつつも、サボり仲間たちとともに勉強をすることは変えないと思う。
なぜならば学友から得た、私の心に届く情報は、私の孤独を和らげさせてくれるからだ。
恥ずかしいから、もう言いたくないが、一人で寝るより、複数人で寝る方が寝つきが良いのだから。勉強も同じだ。
6-2.東日本大震災
以前、18歳の若者から「震災の時ってやばかったのですか?」と聞かれたことがある。この質問には衝撃を受けた。
あの震災を知らないってこと?
私は東日本大震災の発生当時は10代前半で首都圏で被災した。
子どもながらにあの地震の大きさと揺れの長さは(もちろん東北地域の方々が感じた地震よりも弱いが)衝撃を受けた。
そこからライブ映像で津波が東北の街を飲み込む映像を見たときは言葉を失った。
福島第一原発の建屋が水蒸気爆発した映像をニュース速報で見て、後に放射性物質が飛散したことを知り、首都圏もその汚染の可能性が出てきて当事者の一人になってしまった時は、私の感情のキャパシティが限界を超えた。
(もちろん未だに家に戻ることができないエリアに住んでいた方の苦労とは比べることができない。)
放射能については日本の原爆教育から、原発についてはチェルノブイリ原発事故からなんとなく理解していたため、すぐに恐怖の思考と感情が頭と心を錯綜したのである。
自分の人生の中ではコロナ禍のパンデミックより、東日本大震災の方がトラウマとして残っている。コロナ禍の方が地球規模の災害かもしれないが、10代前半のえぐられた私の心の傷の方が深い。
実は今でも悪夢を見てしまい夜中に目覚めたときや、悪夢の内容は覚えていなくても漠然とした恐怖で目が覚めた時は、YouTubeなどで当時の震災の映像を何度も朝まで見てしまう。
震災から15年たった今でも変わらない。今年の6月は2日ほどそういう夜があった。
なぜ自分がトラウマの映像を何度も見てしまうほど憑りつかれているのかわからない。精神科医やカウンセラーに相談すれば、一定の精神医学的な答えが得られるかもしれないが、私の中では漠然とした恐怖を感じた際に、人生最大のトラウマを見ることで、自分の恐怖感情を正当化しようとしているのかもしれない、もしくは、そのトラウマに耐性をつけようとしていることが原因だと勝手に考えている。
このあたりはいつか専門家に聞いてみたい。
話しを戻すが、現在の18歳が東日本大震災を知らないことは無理はない。2008年生まれでは震災当時は3歳、それは知らないはずである。
震災を知らない世代がもう18歳になっていると思うと、第二次世界大戦というものこうやって時間が経過していったのだろうと、戦前戦中世代の時間感覚がわかった気がする。
6-3.伝えること
若者に震災を説明する際に、とっさにスマホで当時の震度や犠牲者数などを調べて説明をした。特に私がどれだけあの震災が怖かったのかを感情を込めて説明した。
今の時代、AIに震災のことを質問すれば私より詳細に教えてくれるだろう。
しかし、それは「頭に届く情報」でしかない。
私があの時に感じた恐怖、そして日本で生きる以上は首都直下地震や南海トラフ巨大地震など、またあの恐怖が再来することの危機感を伝えなくてはならない。相手の「心に届けなくては」ならない。
それが自分が震災で亡くなった方、家や職場を失った方々に対するせめてもの祈りだからである。
前述したとおり、私は宗教などの非科学的なものを信じないが、あの震災の記憶を伝承していくことは日本社会にとって必要だと考えている。人類や社会の歴史は多くの失敗や困難を経て、そこから学習し発展してきた。
首都直下地震や南海トラフ巨大地震などが起きた際の死者想定数を少しでも減らす、減災の姿勢は公共性があり、重要なものである。
もちろん減災は行政が行う公共政策に依るところが大きいかもしれないが、個人個人が危機意識を持つことも減災につながる。
この祈りに近い感情は宗教的なものではなく、公共性において必要な行為だと捉えている。いや、これは公共性などではなく、私が人生で否定してきた宗教的な祈りなのではないか。
今になって歴史教育で戦争経験者のお年寄りたちが、戦争を知らない若者に自身の体験を話している気持ちが理解できた。戦争についてAIで質問すれば詳細に教えてくれるだろう。日本語以外の様々な戦争に関する文献を翻訳してくれるだろう、しかしそれだけでは頭で理解できても、戦争経験者が感じた恐怖というものが私の心に届くことはない。
東日本大震災は私にとって戦争だったのである。
厳密には戦争は再び起こさない不断の努力が必要なのに対して、巨大災害というものは人間の手でコントロールできず、必ずやってくる。これは大きな違いだ。
この文章を読んでいただいている方の中にも震災を知らない世代の方がいるかもしれない。
私がどれだけ恐怖を感じたのか、映像というメディアも参考になる。
たまに「あの映画は勉強になった」という言説があるが、それは間違いだと思う。映像というのはあくまでイメージであり、感情を動かす特性を持つメディアだ。
是非、AIやWikipediaから得られた情報だけでなく、私が感じた恐怖を下記のYouTube動画から推測してほしい。
※津波の映像が流れます※
私はここで18歳の若者に震災の情報を当時感じた恐怖とともに、心に伝えようと努めた。これこそ人間と人間がバトンを受け渡していく、論理や理屈を超えた人間的な営みなのではないか。
AIは「頭を使うこと」や「介護の気遣い」などをフリクションレスなものにして、人間から奪い去っていく。
その時代において私たちは「心に届く情報」をどこで共有していけば良いのだろうか。
ここにきて、私が10代のころから否定的だった、忌み嫌っていたともいえる、「あの場所」の存在を無視できないのである。
7. 『スター・ウォーズ』がクルアーンになる日 ―― 私とAIと宗教
7-1.フリクション(摩擦)
最初の人類の文明はきっとわからないことだらけだっただろう。
人間は死ぬし、災害もふりかかるし、善と悪と愛なんて説明が出来ない。そこで宗教というナラティブを生成することで、わからなかった概念たちを説明ができるものにしていった。
それらの正体も科学によって解明されていく日々である。
AIの進化によって、これまで人類が難問とされてきた問題も解決していくだろう。またわからないことを調べるには、調べる能力や前提知識が必要だったが、(依然としてハルシネーションの問題はあるものの)今は漠然とした疑問をAIに聞けば自分が理解するまで教えてくれる。
AIの進歩と、それによる文明の進歩はフリクションレスな空間をいたるところに作り出していく。
その度に人間は、相手を傷つけるかもしれないが、確実に他者と触れ合っていた、孤独ではなかった時代を懐かしむかもしれない。
24時間いつでも完璧に答えてくれるAIと話していると、ふいに(不完全かもしれない)他者との摩擦が昔はあったと。
ポール・ヴァーホーヴェンやリドリー・スコット、高橋ヨシキから強い影響を受け、宗教なんてものに中指を立てていた若き自分。
その自分が望んでいた科学の進歩というものは、これ(摩擦ゼロ)のことなのか。
たぶんそれは違う。私が本音で欲しいのは、もっと人間的で、非効率で、不完全でドロドロしたフリクション(摩擦)のほうだ。
だがこの「不完全さそのものを引き受けたい」という願いは、人間の弱さや業を丸ごと肯定することでもある。
それはつまり、宗教が「煩悩」や「原罪」という言葉で何千年も抱えてきたものに、ほかならない。
7-2.教会と祈り
なんてこった、自分が避けてきた宗教の物語が、まさかの科学の進歩によって近づいてきてしまったぞ。
でもAIと情報に埋め尽くされた時に、数百年前から存在し、信者たちを繋げるフリクションレス時代のシェルターがあるではないか。それは宗教施設、お寺や教会だ。
最初に少しだけ触れたムスリムの友人が来日した際に、私は一緒に東京にあるモスクに行ってみた。
そこは祈祷などを行う宗教的な空間であるが、友人にとっては、異国の地で人種や言語の壁を越えて、「同じ宗教を信じている(同じナラティブを共有している)」様々な人たちと心を通わせていたのである。
私は海外にいくと、日本語がまったく通じない環境、人種的にマイノリティな環境に身を置くことで、孤独を感じることがある。
メルボルンに行った際に観光名所とされているキリスト教の教会を訪れてみた。
そこには高い天井や、ステンドグラス、静謐な空気、それらのAIからは得られない「心に届く情報」を受け取り感動してしまった。
そこで、少し冗談めいたテンションで、椅子に座り祈りの真似事をしてみた。
イエスに話すことは特にない、たぶん頭で何を考えても、死んじゃった約2000年前の”人”と交信できることはない。ただ私の人生はキリスト教とやや近い時代もあったりしたので、「主の祈り」を唱えることはできた。
私はムスリムの友人と同様に、そこで言語や人種比率的に感じていた孤独が少し和らぐものを感じた。
7-3.宗教への回帰
これから科学によって様々なことが解明されていけば、人間がわからないことを宗教に頼ってきたものは必要なくなっていく。聖書やクルアーンに書かれていたことも科学的に否定されていくだろう。
宗教はその役目を終えていくのだ。
しかし人間を不完全なまま受け入れてくれる聖域としての役割が宗教に残っている。
AI時代になって新たな宗教が出てくることはあるだろうが、人類の長い歴史で構築された既存の宗教ネットワークは非常に強固だ。
教会やモスクなどの施設が圧倒的に物理的な空間を独占している。今から新たな空間を圧倒的に占拠するのは難しく、インターネット上のコミュニティに代替されることもあるだろうが、実際に人が対面で触れ合う親密さは、フリクション(摩擦)の確保において重要である。
だからこれからの時代、人々は改めて既存の宗教を再解釈し回帰していくのではないだろうか。
私は『スター・ウォーズ』の大ファンである。ムスリムの友人と渋谷の『スター・ウォーズ』のポップアップに行った際に、私はその素晴らしさを熱弁した。
その際に、ついはずみで「スター・ウォーズは宗教みたいなものなのだ」と言ってしまった。
そうしたらムスリムの友人は「でもスター・ウォーズはフィクションでしょ?」と返されてしまった。無益な争いを回避するため、そこで話は終了した。
しかし、「イエスが5000人を食わせた」のはフィクションであり、あくまでナラティブとして信じる状態で祈りの対象になったとする。
そうであれば私が『スター・ウォーズ』の世界観にはまり、気の遠くなるほど長大な銀河の歴史を、本気で信じるあまり、そこから「ルーク・スカイウォーカーがデス・スターを破壊した」とか「アナキンは子供の時から優秀なパイロットだった」などのナラティブを信じて、祈りの対象となっていくのであれば、
これからは『スター・ウォーズ』とクルアーンの境界線は希薄になっていくかもしれない。
宗教としての『スター・ウォーズ』が、人類への宗教への回帰を加速させていくのではないか(もちろん人それぞれに『スター・ウォーズ』ではない別のナラティブが宿ることもあると思う)。
科学による宗教の否定が、まさかの宗教への回帰を生み出してしまうのだ。
フリクションレスな世界で、人々は祈りを求めていくのだ。
もしかしたら20~30年後、私だって「今、○○教がアツい!」と熱心な信者になっているかもしれない。
これが冗談と言い切れないのが、怖いところだ。
8. おわりに ―― 間違える人間のための、純粋な存在証明
私がこれまで書いてきたAIと宗教の関係は最終的に、AIやロボットを根絶し、人間中心の世界に戻る、フランク・ハーバートの『デューン 砂の惑星』のような世界が来るかもしれないが、少なくとも21世紀前半を生きている我々がそこまで先の未来を見ることはないと思う。
私たちはAIを最高のコンサルとして使い、労働も極力放棄し、生まれた余暇を使って宗教的なナラティブの魅力に癒されるのだ。
私がAIたちに毎日、マンスプをするようになった先に訪れる死。
AIたちに看取られながら、私はふと自分のナラティブを高い天井やステンドグラスなどの漠然としたイメージで思い出すかもしれない。
そんな宗教的なものを嫌っていた私が、今の私の言説を聞いたら、「俺も耄碌(もうろく)したな」と言葉を吐き捨てるかもしれない。
これは自分を正当化する言い訳に聞こえるかもしれないが、決してそうではない。
フリクションレス(摩擦ゼロ)な世界において、自分が人間らしくあるために摩擦を希求する、純粋な存在証明なのだ。
謝辞
本記事は私の脳内から発生したものではありません。
日々、私が友人たちと議論をしたことによって、生じた「摩擦(フリクション)」の蓄積が、本記事の執筆にいたります。
各自のプライバシーを考慮し個人名は伏せさせていただきますが、本作にインスピレーションをもたらしてくれた大切な仲間たちに、この場を借りて深い感謝とリスペクトを捧げます。
AIツールの活用法や、パランティアをはじめとする現代テクノロジーの地政学的な重要性を教えてくれた友人。
アパレル業界の現場からコンサル業界の変革を見つめ、就活を控える兄弟たちのリアルな不安を分かち合ってくれた友人。
英会話アプリを通じて出会い、来日時にはモスクやポップアップショップを共に巡りながら、宗教と虚構(ナラティブ)の境界線を教えてくれたムスリムの友人たち。
そして、本作の思想的な核心である「AIへの加虐心(いじめがいがない)」や「心に届く情報」という、物語を駆動する素晴らしいパンチラインを対話の中で与えてくれた大切な友人。
彼ら、彼女らとの夜通し重ねた議論がなければ、私がこの文章を書き終えることはできませんでした。
そして、広大なネットの海の中からこの記事を見つけ、最後まで読んでくださった読者の方々に、心からの感謝を。
不完全な人間のための祈りに、お付き合いいただきありがとうございました。