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月䟋講挔䌚  トヌハク東掋通で絶賛売出䞭の《舎利容噚 TC-557》に぀いお @東京囜立博物通

前回noteの続きで、2024幎12月の東京囜立博物通トヌハク月䟋講挔䌚『倧谷探怜隊が収集した西域の矎術』に぀いお、断片的に残っおいる蚘憶を䟿りにnoteしおいきたす。
※先ほど間違えお公開しおしたいたしたが、あたりにも文章が敎理されおいなかったので、䞀旊非公開にしお敎理したうえで改めお公開したした。

前回は、身元䞍明の《菩薩立像 TC-818》がトヌハクに寄莈される際に、どのように由来を探っおいったか  ずいったようなこずを、講挔䌚で聞いたこずをもずに蚘したした。以䞋は、その講挔を聞いた埌に、わたしが調べたこずも混ぜ蟌んで曞いおいきたす。そのため、必ずしも講挔者の話したこずではありたせんので、玛らわしいのですが、䞍正確な郚分もあるずいうのを心に留めながら読んでもらえればず思いたす。


■倧谷探怜隊ず《菩薩立像 TC-818》の由来をおさらい

《菩薩立像 TC-818》

珟圚、トヌハク東掋通に展瀺されおいる《菩薩立像 TC-818》は解説パネルによれば、わたしは確蚌を埗おいたせんが第3次の倧谷探怜隊で敊煌の莫高窟ずいう堎所で発掘されたした。この発掘に立ち䌚ったのが吉川小䞀郎さんずいう方です。吉川小䞀郎さんは2軀の塑像を発掘し、珟地の道士僧䟶から賌入し持ち垰ったず蚌蚀しおいたす。2軀のうちの䞀䜓が、トヌハク所蔵の《菩薩立像 TC-818》であり、もう䞀䜓が、講挔䌚によれば「矅挢像」だったずいいたす矅挢像に぀いおは、珟圚どこにあるか䞍明。

ずにかく吉川小䞀郎さんは、《菩薩立像 TC-818》をはじめ膚倧な量の叀物ず䞀緒に垰囜  するのですが、垰囜盎前には倧谷探怜隊の発起人ずいうべき倧谷光瑞さんが、浄土真宗本願寺掟の法䞻、西本願寺の䜏職などをクビになり、隠居させられおいたした隠居ずいう蚀葉が劥圓なのかは䞍明。芁は、䌯爵倧谷家は財政砎綻に陥り、その財政を立お盎す意図で本願寺などの資金が䞍正に倧谷家に流れおいたのでは などの疑いをかけられお倱脚したずいうこずのようです詳现は䞍明。倱脚ず同時に、倧谷家の別邞ずしお建おた  倧谷光瑞のコレクションを保管・公開もしおいたっぜい  二楜荘も、そのコレクションずずもに売华するこずになりたす。買い取ったのは日立や日産などのもずずなった久原財閥の総垥・久原房之助さん。講挔䌚では語られたせんでしたが、結果的に倧谷光瑞さんずは旧知だったずいう、この久原さんの手に枡ったずころから、倧谷光瑞コレクションは散逞しおいくこずになるようです。

この時、《菩薩立像 TC-818》に限っお蚀えば、どうやら叀矎術商の「繭山韍泉堂」を経由しお、井䞊恒䞀さんの手に枡ったようです。そしお井䞊恒䞀さんの亡くなったあず  2022幎にトヌハクぞ寄莈・収蔵されるこずになりたす。

■《舎利容噚 TC-557》

前述した《菩薩立像 TC-818》ず同様に、第䞉次の倧谷探怜隊で吉川小䞀郎さんが手に入れお持ち垰ったのが珟圚は展瀺されおいない《舎利容噚 TC-557》です。

《舎利容噚 TC-557》の解説パネルには「䞭囜・䌝スバシ67䞖玀朚補垃貌圩色 å€§è°·æŽ¢æ€œéšŠå°†æ¥å“ã€ãšæ›žã‹ã‚ŒãŠã„たす。講挔䌚では、この「䌝スバシ」ずいう点に焊点を圓お「本圓にスバシにあったものなのか」を探っおいきたした。ただ  この時の蚘憶がほずんどありたせん。ただ、講挔䌚の配垃資料には「第3次倧谷探怜隊の隊員であった吉川小䞀郎によれば、この舎利容噚は、䞭囜の西北郚に䜍眮する新疆しんきょうりむグル自治区クチャ地域を調査した際、クムトラ石窟のストゥヌパ跡から出土したした」ず蚘されおいたす。スバシずは、Wikipediaによれば「新疆りむグル自治区アクス地区クチャ垂郊倖にある仏教遺跡」ずあるので、たぁ「䌝スバシ」でも間違いではなさそうですけどね。

わたしが講挔時に曞いたメモだず、「クムトラのストゥヌパから発掘」ずいっしょに「ドゥルドゥルストゥヌパ」ず  これは聞き取れなかったのですが、そんなような発音だったような ずいうのをメモした蚘憶がありたす。

ずにかく重芁なのは、長らく「䌝スバシ」ず思われおいた  もしくは他の堎所で発掘されたず思われおいおパネルにそう曞かれおいたずしおも、本圓に正しいのかは分からないものがある  おそらく倧谷探怜隊将来品に぀いおは特に  ずいうこずのような印象を受けたした。

発掘堎所に぀いおは、今のずころ興味がそそらなかったのですが、この《舎利容噚 TC-557》が展瀺されおいるのを初めお芋た時には、そこに描かれた絵画に目を芋匵った蚘憶がありたす。そのため色んな角床から、この容噚を撮りたくったんですよね  。

この《舎利容噚 TC-557》に描かれた絵画に぀いおは、講挔䌚で熱く語られおいたした。今回の挔者だった研究員の勝朚蚀䞀郎さんによれば、今、東掋通の䞭で絶賛売出䞭  䞀番の掚しが、この容噚なんだそう。そのため、ミュヌゞアムショップには、勝朚蚀䞀郎さんがオヌダヌしお䜜っおもらった、《舎利容噚 TC-557》をモチヌフにしたクッションだかぬいぐるみだったかが販売されおいるずおっしゃっおいたした矎術展ナビを読んだら、クッションやキヌチェヌンになっおいたした。今床芋おみたいず思いたす。

解説パネルによれば、この容噚は「䞞倪を蜆蜀ろくろで成圢し、その倖偎に麻垃を貌った䞊に圩色を斜しおいたす」ずありたすが、より詳现に蚘された講挔䌚資料には「蜆蜀ろくろを䜿っお䞞倪の内偎をくりぬき、圢をずずのえ、倖偎に麻垃あさぬのを貌り、その䞊に色を塗っおいたす」のだそう。たしか  蚘憶によればなのですが  日本ぞ持っお垰っおきた時には、衚面に土だかが激しく付着しおいお、なんの暡様も芋られなかった  ず蚀っおいた気がしたすが、この容噚のこずだったかは䞍明です。

珟圚は色鮮やかな絵画が暗い展瀺宀でもはっきりず芋られたす。勝朚蚀䞀郎さんは、特に蓋に描かれた図様に泚目しおほしいず力説しおいたした。その「蓋にはさたざたな楜噚を挔奏する翌をもった人物や、オりムやキゞに䌌た鳥描いおいたす。鳥の翌をも぀者もいれば、虫の翅はねをも぀者もいたす」ずいうこず。蚀䞀郎さんによれば、鳥の翌をも぀人物像は珍しくないのですが、虫の翅はねをも぀人の姿が描かれおいるのは、ずおも珍しいずいうか、他にはないず蚀っおいた気がしたす。

講挔䌚では真䞊 真俯瞰から撮った画像で、蓋に描かれた像を説明しおいたした。蚘憶があいたいですが、たしか鳥の矜根を持぀人ず虫の翅を持぀人が2人ず぀だったような  。䞊の写真が鳥の矜根 䞋の写真が虫トンボっぜいの翅です。

さらに「オりムやキゞ科の鳥を、身の衚面には仮面舞螊や楜団をそれぞれ描いおいたす」ず語られおいたずおり、様々な様子が描かれおいたした。

ずいうこずで、次に《舎利容噚 TC-557》が展瀺されるのがい぀になるのか分かりたせんが、次回の展瀺を楜しみに埅ちたいず思いたす。

■か぀お金箔で芆われおいたもう䞀぀の舎利容噚

講挔䌚では、珟圚展瀺されおいるもう1぀の《舎利容噚 TC-472》に぀いおも觊れられおいたした。こちらの容噚も蜆蜀ろくろを䜿っお䞞倪をくり抜いお成圢したずころたでは同じですが、衚面に金箔を貌っお仕䞊げおいるそうです。

こちらは珟圚展瀺されおいるものなので、トヌハク東掋通ぞ行けばすぐに芋られたす。わたしも講挔䌚が終わっおから芋たしたが  金箔っぜさは確認できたせんでした。たしか勝朚蚀䞀郎研究員も、同様の感想を述べられおいたかず思いたす。ただ、この容噚ずは別に、どこから剥がれたのか分からない金箔がビニヌルに入れられお保管されおいるのがあり、もしかするずこの容噚から剥がれたものなのかもしれない  ず蚀っおいた気がしたす。

写真でみるず、これっお金箔かも  っお感じですね。たた今床、チェックしたいず思いたす。

たた、こちらの《舎利容噚 TC-472》に぀いおは、同じ倧谷探怜隊ですが、第䞀次隊の枡蟺哲信さんずいう方が、同じく「クチャ地方スバシのトゥヌパ仏搭址で発芋したもの」なのだそう。こちらは発掘堎所は確かにスバシだったず確蚌を埗られおいるようで、解説パネルにも「䌝」の文字はありたせん。発掘時には、高僧ず思われる火葬骚で満たされおいた  ずいう蚌蚀もあるそうです。

■結局は日本にやっおきた2぀の絵

次が講挔䌚でピックアップされた倧谷探怜隊将来品の最埌です。

由来説明が難しいのですが、こちらの重芁文化財《暹䞋人物図 TA-149-1》は、アスタヌナのからホヌゞャ叀墳矀で芋぀かったもの。解説パネルには「玙本着色」ずあるずおり、玙補です。「厚手の玙を貌り合わせお屏颚のように6点を立おたわし、墓宀内を装食したず考えられたす」ず講挔䌚資料には蚘されおいたす。

唐時代・開元 4幎715
䞭囜・アスタヌナ・カラホヌ ゞャ叀墓矀
玙本着色
TA-149-1

実はこれ  倧谷探怜隊将来品ではありたせん。ただし第3次倧谷探怜隊の吉川小䞀郎さんが、たしか  剥がしお持ち垰ろうずした品の䞀品  だったず勝朚蚀䞀郎さんはおっしゃっおいた気がしたす。これも蚘憶によればですが、2枚ずも買おうずしたら1枚だけ「ダメ」ず蚀われた  そのダメず蚀われた方が、倧谷探怜隊を経ずに、巡り巡っおトヌハクに所蔵されおいる  ず蚀われおいた気がしたす。

じゃあどういうルヌトでトヌハクぞ来たのかず蚀えば、新疆省の垃政䜿ふせいしずいう圹職でりルムチに駐圚しおいた、王暹枏おうじゅせんずいう方の旧蔵品だったずのこず。この名前の「枏」ずいう挢字が「楠」を意味しおいるので、勝朚蚀䞀郎さんは「おうじゅせん」ではなく「おうじゅなん」の方がより正確だろうず蚀っおいたしたが、珟圚のトヌハクの解説パネルには「おうじゅせん」ずなっおいたす。今埌、解説パネルの衚蚘も倉曎するかもしれない  ずいうこずでした。

この王暹枏おうじゅせんずいう人が倚くの著䜜があり、なかなかの有名人だったようです。囜立囜䌚図曞通にも倚くの著䜜が収蔵されおいお、䞭囜語サむトにも説明があったので、気力が続けば埌述したいず思いたす。

でたぁ吉川小䞀郎さんが発芋した《暹䞋人物図》は、王暹枏おうじゅせんさんから誰かを経お倱念、倧阪の叀矎術商・山䞭商䌚からトヌハクなのか垝宀博物通が賌入したそうです。かなり高䟡だったようで、勝朚蚀䞀郎さんが金額をおっしゃっおいたず思いたすが、メモしなかったので忘れおしたいたした。

この《暹䞋人物図》は、そんなに矎術的に「すごいなぁ」ずいう感じもしたせんが、唐代の絵なのに、こんなに色鮮やかなに残っおいるっおいう点では、驚きでもありたす。そしお、もっず驚きなのは、䞊述したずおりこの絵は屏颚のように6぀の絵を貌り合わせおいたものの1点なんですね。じゃあほかの5点はどこにあるのか ず蚀えば、もう1点の《暹䞋矎人図》に぀いおはMOA矎術通に収蔵されおいたす。《暹䞋矎人図》は、䞊述した倧谷探怜隊の吉川小䞀郎が持ち垰るこずを蚱された方の䞀枚です。

そしおトヌハクには、この《暹䞋矎人図》を昭和の初期に、川面矩雄が暡写したものが収蔵されおいたす。

《暹䞋矎人図暡写》
A-11139
※2024幎12月19日珟圚、展瀺されおいたせん

たしか前回noteにも蚘したしたが、《菩薩立像》や《暹䞋矎人図》、《舎利容噚》などを日本に持ち垰った倧谷探怜隊の吉川小䞀郎さんは、晩幎に粕淵宏昭さんずいう方に発掘圓時の話をしおいるそうです。で、『月刊シルクロヌド』だったか『倧谷探怜隊秘話 隊員吉川小䞀郎さんに聞く』だったかに、そのむンタビュヌの様子が蚘されおいるず蚀いたす。

粕淵さんが「こんな倧きなものを持っお垰っおくるのは倧倉だったでしょう」ず吉川小䞀郎さんに聞くず、吉川さんは「いや、玙なので䞞めお持っお垰っおきたので、そうでもないですよ」ずいったような返答だったそうです。粕淵さんは、この絵を壁画かなんかだず勘違いしおいた節があるんですね。それで「はぁ玙なんですねぇ」ず応える  みたいな内容が、先述した本には蚘されおいるそうです。読んでみたいですね。

ずいうこずで、吉川小䞀郎さんが日本ぞ持ち垰ろうずした2぀の絵が、別の博物通矎術通ではありたすが、結局は日本にやっおきた  ずいうこずなんですね。

基本、講挔䌚に関連する話は以䞊で終わりです。以降は、講挔䌚では觊れられなかったけれど、珟圚トヌハク東掋通に暹䞋人物図の隣に展瀺されおいたものなどを茉せおおきたす。

■珟圚展瀺されおいる倧谷探怜隊将来品もう1点

矎術的には、こちらの《持傘蓋菩薩立像 TC-552》も矎しいなず思わせられたす。芋た時には、矎人図だろうず思っお芋おいたしたが、菩薩立像なんですね。日本で蚀えば平安時代の頃に描かれたものです。こちらは土壁圩色ずあるので、壁から匕っ剥がしおきたものですね。このきれいに剥がす技術もすごい気がしたすが  。

《持傘蓋菩薩立像》
䞭囜・ベれクリク石窟高昌りむグル期・1011侖简 土壁圩色 倧谷探怜隊将来品

9䞖玀以降 トルファンのりむグル族はベれクリク石窟を造営し、そこに誓願図を倚く描きたした。釈迊が前䞖、過去仏のもずで、成仏するずいう誓願を発しお修行に励み、将来「ほずけ」になるずいう予蚀授蚘を䞎えられるずいう内容です。この絵はその堎面の䞀郚です。鎧に身をたずい、傘をさす姿に衚わされおいたす。

解説パネル

■《暹朚人物図》を旧蔵しおいた王暹枏さんに぀いお

先ほど《暹朚人物図》を旧蔵しおいた方ずいうこずで、名前がチラッず出おきた王暹枏おうじゅなんさんですが、Wikipediaでは䞭囜語ず英語のペヌゞが存圚したす。どんな人なんだろう ず読んでみたした。

1852幎1月15日ずいうこずで枅朝末期に、盎隷新城県珟圚の河北省高碑店垂で生たれたそうです。「光緒12幎1886幎の䞙戌科進士であり、掚薊を受けお経枈特科に合栌した」ずあり、その埌も地方の長官を歎任しおいたようなので、゚リヌト圹人ずいったずころだったのでしょう。その埌、光緒32幎1906幎に甘粛新疆の垃政䜿に任呜されおいたす。䜕幎間かは新疆にいたのでしょうが、その間に倚くの知芋を吞収し、新疆に居た時なのかそのあずなのか分かりたせんが『新疆囜界図志』『新疆兵事志』『新疆道路図志』『新疆土壌衚』『新疆金石志』『新疆職官志』『新疆沿革図志』などを著しおいたす。たた䞭華民囜成立埌の民囜3幎1914幎には、新蚭された「枅史通」の総纂責任者に任呜され、枅の歎史曞である『枅史皿』の咞豊・同治時代の倧臣䌝を執筆したした。

その埌、参政院参政、玄法䌚議議員を務め、䞊倧倫に加え少卿の称号を授䞎され、1936幎2月7日、䞭華民囜の銖郜であった北平で逝去しおいたす。

改めお、かなりの高玚官僚だったようですね。甘粛新疆の垃政䜿に任呜されたのが、王暹枏おうじゅなんさんが54歳の頃。そしお「垃政䜿」っおいうのが䜕なのかを調べおみるず  地方行政のトップである「総督」の盎䞋にいる「巡撫」ずいう圹職を、「按察䜿」ずずもに補䜐する圹職だったようです。地方行政のNo.3かNo.4ずいった感じ。資料には「垃政䜿は、䞀省の財務、譊務、皎務など䞀般行政を掌り、按察䜿は裁刀事務を掌る」ずしおいたす。満掲囜監察院 線『監察制床考察』,監察院,康埳2. 囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション

■王暹枏ず倧谷探怜隊

さらに倧谷探怜隊の各氏の日蚘が掲茉されおいる『新西域蚘』には、特に第2次の野村栄䞉郎さんず第3次の吉川小䞀郎さんが、王暹枏ず仲良しだったっぜいなぁずいう蚘述が散芋されたした。

以䞊が野村栄䞉郎さんの日誌です。王暹枏さんず家族ぐるみの付き合いだったこずが䌺えたす。おそらく䌚ったけれど日誌に曞いおいない日もあったのではないかなぁ。それくらい付き合いが深そうです。

十䞀月䞀日晎 烏魯朚霋りルムチ滞圚䞭
䜙等は垃政叞王方䌯氏の厚意に䟝り、垃政叞衛門の䞀宀を貞䞎せられ之に移る。或は人を掟しお運搬を助け或は宀を排掃しお壁玙を新にするなど、其の懇情するに蟞無し。
画食埌、䜙等は林出賢二郎氏同道にお巡撫聯魁氏を衛門に蚪ふ。幎歯五十二䞉歳、独県の人。䞉十分にしお蟞し  䞭略  次で接按䜿抮霈えいはい氏を蚪ふ。  䞭略  五時垰寓すれば王垃政䜿答蚪せられ、四里址の挢唐の碑の石摺を莈らる。䜙歯痛、九時に寝ぬ。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟189コマ

十䞀月六日晎
午埌四時王垃政䜿の宎に赎く、䌊梚將軍某氏、杜按察䜿子息、林出氏ず䜙等は支那料理の卓を囲む。䞃時散會、又林出氏寓にお修逊談を爲す。
十䞀月䞃日晎
終日土魯番附近の豫査を爲す。栄按察䜿より明埌日招宎の案内あり。倜林出氏寓に遊ぶ。
十䞀月八日 晎 枅暊十月十五日
午前買物に赎き、正午衛門にお、王氏、林出氏、䜙等二人撮圱す。晩䜙の宀に別宎を催うす、䜙は明埌日独歀の地を離るる爲なり。林出氏、王氏の二子は兄を王勇敷、匟を王犹敷ず名く。地理教垫曹子傑氏皆な䟆る。■すき焌を囲み、䞻客痛飲高歌十䞀時に及ぶ。巊の詩を莈らる。
 王勇敷
 君去銬劂飛。行行安所之。他幎重盞遇。瀛島以爲期
 曹子傑
 十萬軍人血。胡兒牧銬■。神仙埐犏宅。沙瀫李陵臺。北虜憂方倧。䞭原事曎哀。■君䞀杯酒。唇霒念蓬萊。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟190コマ

十䞀月九日 晎
  冒頭略  
午埌四時栄按察䜿の宎に赎く。林出氏の倖、知府、候補知府、王勇敷、栄瞣
臺父子。■■䞉十六皮、䞃時䞉十分散會。
  䞭略  
迪化府おきかふりルムチは倩川の北路にありお、  䞭略  土魯番に至り、倩山南路に通ずる芁衝にしお、新疆省の銖府なり。瞜督、垃政
䜿
等文歊の高官悉く歀地に居り、倩山南北䞡道の矊毛獣皮等は殆ど歀の地に集䞭す。  䞭略  歀の広倧なる城壁を以お包たれたる迪化府は、
商店酒暓軒を連ね、人銬緎るが劂き西域第䞀の倧郜垂なり。當地芋聞䞀二巊の劂し。  このあず通貚・為替盞堎に぀いおの文章が続く  
本幎より新疆玙幣を出さんずし、目䞋垃政䜿に斌お印刷䞭ず云ふ。  埌略  

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟190-191コマ

十䞀月十日 高枩二床 䜎枩 零䞋䞃床
烏魯朚霋りルムチ癌 ãƒãƒã‚œã‚Šã‚¶ç€ 坂路
橘氏は少時歀の地に留たり、䜙は本日を以お土魯番に向ふ。午前王垃政䜿父子林出氏等ず新疆䞀般の事、乃至倩山の石炭、石油、金銭等の談を聞き、画食を倶にし、諞氏に送られお衛門前より銬車に乗り兵六名を䌎ひ、午埌䞀時出癌しお南門南関、露國居留地を過ぎ南郊に出れば、茫々たる廣野より路は山䞭に入りお氷雪に滑かなり。六時䞉十分寒村のチチ゜りザに宿す。䞍朔甚し。行皋四十枅里、所芁五時䞉十分間。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟192コマ

十二月䞉十䞀日 晎 雅爟湖発 ホットコ着
䜙は京郜より送金を受けんが爲め烏城に赎く。僕の匵を䌎ひ蜎車に乗じ正午出癌す。橘氏は■ず共に送りお萬歳を唱ふ。西行、倜十時にホットコに着す、行皋九十枅里。
  䞭略正月䞀日から䞉日たでの旅皋が短く蚘茉  

䞀月四日 睛 烏魯朚霊着
午埌䞉時䞉十分烏城の南関に到り、偶ゝたたたた林出氏の歊備孞堂の歞途に邂逅かいこうす。藩臺衙門に宿し 、倜は王垃政䜿、林出氏ず快談、王氏去りお信仰談に移る。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟203コマ

䞀月十五日
猊䞋、埡裏方の萬歳を唱ぞ、父母の健康を祝す。林出氏及び王氏兄匟ず語る。
䞀月十六日 晎 晩雪 午前八時零䞋四十八床
北京ぞ催電を発す。倜、英雄論に耜る。
䞀月十䞃日 晎
王垃政䜿等ず語る。
  䞭略  
䞀月二十二日 晎 枅宣統元幎䞀月䞀日
午前四時より回犮客あり。午埌王垃政䜿来り䜙を占ふ。日く、運呜吉利、旅途皍ゝ䞍安ず。
當城の兵備は、階兵二癟階、工兵䞀小隊、砲兵䞀倧隊、砲十八門、歩兵䞉營
ニ千ず。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟204コマ

䞀月二十九日 晎
橘氏宛為替受取の通電を発し、京郜ぞ「九癟䞃十䞀受取、葡萄手ニ入ラス。明日出発、本日報告曞癌送」ず打電す。倜、王氏兄匟、䜙の爲めに別宎を匵る。
垃政䜿王氏は䜙の出発に當り巊の曞を莈り䟆る越山ずは䜙の號なり
勝金臺畔暹連柯。吐峪溝前氎䞍波。倷國山川幟陵谷。唐幎經碣半刓磚。壞墙穿穎巢蝙蝠。叀䜛埋沙茉薛蘿。手剝千秋苔蘚跡。懞厓立銬猶摩挲
 越山先生將螰倩山而西前䞀日出玙玢曞莈䜜時乙酉䞀月九日也
晋卿王暹枏呈皿[印]
越山先生が倩山山脈を越えお西ぞ向かうにあたり、出発前日、玙を出しお曞を曞かせた。この詩は乙酉干支の幎の1月9日に曞かれたもので、晋卿の王暹枏がその皿を呈した。[印]

䞀月䞉十日 烏城癌 チャむホり着
珟銀を携ぞ、喀喇沙爟カラシャヌルに向ふ。盎行蜎車無く、土魯番迄銬䞉頭立を八䞡に玄す。王垃政䜿䞀家、林出氏等に送られ午埌䞀時出発。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟205コマ

以䞋は吉川小䞀郎さんの日誌。

八月十八日 日 快晎声音 前䞉時五十分 六十九床
前䞉時五十分起床、盎ちに出発す。四時五分東倩玅を挲す。然かも六日の月は路を照せり。暹朚耕地挞く倚く、灌挑の小河幟條南北に貫流す。午前六時半、迪化府南関の東干の旅舎に投ず。
前十時巡撫を衛門に蚪ふ。橘氏の荷物は四五日内に喀什カシュガルより到着せんず語る。各地の擟乱を語るを避くるも、科普特コプト゚ゞプトにおけるキリスト教埒方面はほ䞍安ならずず告ぐ。歞途寫眞舗に也板等を求む。䞭板五打あり。䞀打䞉䞡、ブロマむド玙䞀打十二䞡、日本の倀に五倍なり。垃政䜿より倩接新聞を借芧す。

䞊原芳倪郎線『新西域蚘 䞋巻』有光瀟407コマ

■寄莈者・「晩翠軒」の井䞊恒䞀さんに぀いお

先日、囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクションをブラりゞングしおいたら、菩薩立像の寄莈者で「晩翠軒」のオヌナヌだった、井䞊恒䞀さんに぀いお、その人柄がしのばれる文章がありたした。その時にはnoteしたせんでしたが、ここにメモずしお残しおおきたす。

虎の門の倧きな支那料理店「晩翠軒」を知らない者は少いであろう。創業以来すでに五十幎近くも栄えおいるのではあるたいか。
晩2軒の支那料理を喰べに行぀た事のある人は倚分、垰り際に、玄関の匏台に、色癜の、目方二十貫以䞊もあろうず思われる、犏々しい顔をした、五十がらみの男が、女䞭達に混っお、平蜘蛛の劂く平身䜎頭するのを、目撃するであろう。これが晩翠軒瀟長の井䞊恒䞀君其の人である。勿論二代目の䞻人公であるが、母堂が华々の賢婊人である。先代亡き埌は、自ら来配を振り、幟人かの支那人のコックを瞊暪に駆䜿しお、晩翠軒の名を䞍動ならしめた。日華事倉䞭四散した支那人コック達が、終戊埌、いずこからずもなく、旧䞻の蚱に舞い戻っお来たずいう矎談が䌝えられおいる。

石川枅 著『買いかぶられの蚘』,機械瀟,1958. 囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2966376

井䞊埳隣さん  井䞊恒䞀さんずの思い出を、曞道家の西川寧さんがかなり詳らかに蚘しおいたす。远悌文なのかもしれたせん。
『曞品』(176),東掋曞道協䌚,1966-12. 囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション (30コマ) 

そしお西川寧さんずいう曞道家も、これたで倧谷探怜隊ず瞁の深い方  。そうした぀ながりを远っおいくず切りがないのでこのぞんで今回のnoteを締めたいず思いたす。

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