短編『海と月』
駅を降りると旅館の送迎バスが駅のロータリーに群がっていた。駅を出た人の半分ほどがそれに飲み込まれ、もう半分は賑やかな商店街に消えてゆく。住宅街の路地を下っていくのは私しかいない。そんな状態だからもし駅の名前が同じじゃなかったら、ここがかつて訪れたあの場所だとはとても思えなかっただろう。
今から十五年くらい前、この町は宿泊施設の廃墟で溢れていて、商店街のシャッターは死者の瞼のようにことごとく下りていた。駅も今より幾分小さく降りる人がほとんどいなかったので、タクシー運転手が外で談笑する声以外はほとんど何の音もしなかった。
そんな街にどうして行こうと思ったのかは正直よく覚えていない。ただ当時、様々な賞やサイトに文章を投稿するも特段の成果が出ず、虚しさと焦燥感に追い詰められていたことだけはよく覚えている。
前に来たときから閉店していた鮨屋——錆びた看板がなければ店かどうかも分からない——を曲がり、さらに坂を下りていくとやがて砂浜に出る。メインの通りと違い、たまに犬を散歩させる住人が来るくらいで観光客は全くと言っていいほど来ない。
私は砂に足を取られて少しよろめきながら海へ近づき、ゆっくりと腰を下ろした。小さな山を越えた先では観光客がひしめき合っているのに、この浜にはそういうものが一切流れ着かない。
地元の海とは毛色が違うものの、私はここを愛していた。だからまたこうして訪れてしまったのだろう。それはある意味で、寄生された虫が鳥に食べられるために茎を昇っていくのに似ている。私はたぶんあのとき、この海に寄生されたのだ。
ゆっくりとしみこんでくる潮騒は心の底に押し込んだ感情を揺らし、月によって引かれた海がそれらを表出させる。
ここに来ると涙にも潮汐があるような、そんな気がしてしまう。私は流れ出る海を拭いもせず、ただ水平線を眺めていた。
以前ここに来たとき、私が海へ近づいていくとそこには一人の少女がいた。最初はその真っ白い髪の毛に目がいったものの、近づけば近づくほど彼女の足から目を離せなくなった。
膝の少し下、ちょうど衣服から出ている部分の足が透き通っていたのだ。彼女の足ごしにシーグラスが日光を跳ね返して、私は思わずまばたきを繰り返した。
「珍しいわね、こんなところに人が来るなんて。ごめんなさい、驚かせて」
「ああ、いや。水の中みたいできれいだなと思ってしまって。急にすみません」
あまりに正直な感想を述べたので、彼女は笑った。よく見ると右手の小指と薬指も同じくらい透けていて、その先に映る流木が揺れて見える。
「隣に座っても良い?」
「ええもちろん、どうぞ」
隣に腰を下ろすと彼女は足を横に崩した。私は黒いデニムが砂まみれになることも気にせず、足を伸ばす。
「どうしてこんなところに来たの?誰も知らないと思っていたのに」
「それは、お邪魔しちゃってごめんなさい。なんていうか、迷い込んじゃったんだ。適当に歩いていたらいつの間にかここにいてね」
「ごめんなさい、別に責めてるわけじゃないのよ。でもそっか、じゃああなたもきっと海に呼ばれたのね」
「あなたもってことは君も?」
私の問いかけに彼女の首がわずかに傾く。そしてずっと海を見ていた視線がわずかな時間、私へと向いた。その瞳は空のような青色で球状の水に浮いているみたいに、時々ゆらゆらと揺らめいた。
「私は呼ばれたんじゃなくて、ここで迎えを待ってるのよ。もうすぐ海に帰るから」
「帰る?」
「そう、帰るの」
冗談を言っているようには見えなかったので、私は一度納得することにした。「海へ帰る」とこっそり復唱してみるもそれが意味するところはよく分からない。
「海に誘われたってことは、あなたもいつかは海へ帰るのかもしれないわね」
「そういうものなの?」
「だってあなた海を愛していそうだもの」
そんなことを誰かに言われるのは初めてだった。確かに地元でも海は身近で、子供の頃よく遊びに行ったし中学生になると楽器の練習をしに行った。ある意味で常に傍にあったものではあるが、この子がいうところの愛がそういうことを指しているのかは分からない。
「海はすべてを包んでくれるのよ。だからそんな顔しないで」
「え、私って、今どんな顔をしてる?」
再び彼女の視線が私へ注がれる。透明で揺らめく視線。思考すらも見透かしてしまいそうなその目が、私は不思議と嫌いじゃなかった。ただ初めて会った人にじっと見つめられるのは、言うまでもなくひどく面はゆい。思わず視線を逸らせてしまう。
「楽しそうな顔ではないね。ちょっとだけ雲がかかってるみたい」
「よくわかるね」
「ふふ、得意なのよ、そういうのが」
言い当てられたのがちょっと悔しいと同時に、嬉しかった。私はあまり上手に弱音を吐けるタイプではなかったので、ときおりそれが一定の水位を超えるとどうして良いかわからなくなってしまう。ほとんどの場合放っておけばそれはこぼれて水位も元通りになるのだが、このときは正直それがうまくいっていなかった。一向に減らない水面に落ちた雫は、そのまま器の外へ溢れ、辺りは水浸しになっていた。
「小説がね、売れないんだ。さっぱりね」
「小説?ということは、あなたは文章を書くのね」
「そんなに大げさに言うほどのことじゃないんだ。大勢の読者が待っているわけでもない」
「でも好きで文章を書いているんでしょう?」
「好きではあるけれど、私の場合はそれしかできないんだよ」
「ふうん、そういうものなのね」
彼女は少し考えるような仕草をするとゆっくりと私を見つめ、何度か話を始めようとした。しかし表現がなかなか決まらなかったのか、実際話を始めたのは五回目に彼女が口を開いたときだった。
「書くのが嫌いにはならないの?」
「……たぶんなれない。嫌いになれたらどんなに楽だろうと思うよ。他人の作品を見て『私の方が良いものを書いているはずなのに』なんて思いたくないだろう、誰だって。それにこんな悩みなんてのは誰もが持っているものなんだ。創作においてはあまりに平凡な苦痛で、そんなことで落ち込みたくないんだ、本当は」
「でもそれによってあなたが辛いと感じる事実はないがしろにするべきではないんじゃない?」
「それはそうかもしれないけれど……こんなことで辛いと感じるようなら、私は創作に向いていないのかもしれない」
どうしてこんなことを話してしまっているのだろうと、私は思った。そんなことを言われたところで私だったら何と言えば良いのか分からない。きっと彼女のことも困らせてしまっていることだろう。
それなのに一度崩れた堰からは弱音が止めどなく流れていってしまう。
「でも創作を失ったら、私に存在価値がなくなってしまう」
「そもそも、あなたの存在価値って何?」
そんなこと考えたこともなかった。だって考えれば考えるほど、答えは底に沈んでいくのだから。どれだけ手を伸ばしても決してそれを拾い上げることはできない。それにもし拾い上げたとき何も入っていなかったらと考えたら、あまりにも怖い。
「そう聞かれたら、そんなものは初めからなかったのかも」
生きていると叫ぶために文章を書いているわけでもないのに、どうして筆をおいた途端、自分が消えてしまうような感覚がするのだろう。
私がこの世からいなくなっても私の残した言葉が誰かの中で生き続けてほしいと、どこかでそう願っているのかもしれない。誰にだってそういう側面があるのだろうが、私は絵も描けなければ歌も歌えない。子供の頃から褒められたのが文章くらいだったから、それにひどく縋ってしまうのだろう。これで何者にもなれなければ、私は誰の記憶にも残らない。
「少なくとも海はあなたを求めているよ。聞こえない?あなたを慰めようとしているのかも」
「海が?」
「もちろんそうよ。あなたは海に好かれているんだもの」
私はふと彼女の左手を見た。さっきは右手だけが透明になり始めていたのに、今はそれが左手にも及んでいる。
「あなたの故郷に海はないの?」
「あるよ。よく防波堤で海を眺めていた、一日中ね」
「だから海はあなたのことが好きなのかも。海だって誰のことでも好きになるわけじゃないのよ」
「でも防波堤は大災害でなくなった。津波にすべて飲み込まれたんだ。私が楽器を練習した場所もおびただしい数の虫を見て泣いた場所も、今はどこにもない」
幼き私の慟哭を隠してくれた潮騒はもうそこにはない。防風林があった場所も更地になっていて、少し高いところにあったぼろぼろの鳥居だけが今も同じ場所にある。
「ごめん、急に変な話をして」
「どうして謝るの?」
「だってこんな話、つまらないことだ」
「そんなことないわ。あなたは言葉を発すとき、とてもよく考えているように見える。つまりこういう話を誰にでも同じ濃度で話したりしないってこと、私にはそれが分かるわ。だからあなたが私のことを一定以上大切に扱ってくれていることもよく分かる」彼女の透明な指が私の指に絡む。思ったよりもそれは物質的な感触があって、温かかった。
「ねえ、一つお願いを聞いてくれる?」
「もちろん」
「頑張って隠していたけれど、そろそろ身体が動かなくなってきちゃったから水際まで運んでほしいわ」
よく見るとさっきよりも身体の透明化が進んでいる。もう遠くから見たら服だけが浮いているように見えているかもしれない。私は少し怖くなって彼女の眼を見つめたけれど、彼女はさっきと変わらない綺麗な瞳でこちらをただ見つめ返した。このときの寂しさや無力感は今でも火傷の痕のように、はっきりと残っている。
彼女の背中と透明な膝裏に腕を入れると彼女は嬉しそうに笑った。でもその身体は打ち捨てられた流木くらいの重さしかなくて、あまりにあっさり持ち上がったから驚いて落としそうになった。私はそれを彼女に気づかれないよう、持ち直すフリをしてから一度深く呼吸をする。
一歩ずつ海へ近づくにつれて彼女が明確に冷たくなってゆく。密着した身体を通し伝わってくるそれは、私をひどく追い詰めた。とっくに分かっていたことなのに。
海に帰るというのは、たぶん二度と会えなくなることを意味している。
「ありがとう。これで大丈夫」
目を閉じただけなのに、彼女はもうほとんど海と見わけがつかなくなっていた。こんなに穏やかな表情の彼女を前にして、私は怖くてたまらなくなる。
「またここに来てくれる?」
思いがけない問いだった。
「そうしたら会えるの?」
「そうとは限らないよ、海は広いからね」
「……」
「でもこの海に私がいることを知っているのはあなただけだから、あなたなら会えるんじゃないかなって思うのよ」
「……そう願ってる」
「ねえ、まだ手を握れるかしら?」
海中に手を入れて探ると、彼女の指がかすかに触れるのがわかった。私は先ほどよりも幾分冷たくなったそれを手繰り寄せてそっと握る。
「見つけた。わかる?」
「ええ、もちろん」
しばらくの間、私たちは手を握ったまま波に揺られていた。これを離したらたぶん、彼女は帰ってしまう。「痛がるかな」などと考えることも忘れ、私は縋るように握る力を強めた。もちろんこれが何の意味もないと分かりながら。
「あなたがもし私のことを物語にしてくれたら、とっても嬉しいわ」
「私が?」
彼女がここにいたことを書き残す。そんな大役をできるだろうかと自問した。それが手を通して伝わったのか、彼女の手に力が入るのを感じる。
「大丈夫、私はあなたに書いてほしいの。他の人ではだめ。分かるでしょう?天使を見たあなたなら天使を書けるはずよ」
私はギュスターヴ・クールベの描いた海を思い出していた。雄大で今にもこちらを飲み込んできそうな海。彼女が帰る場所はもう少し穏やかであれば良いなと、私は思う。
「ああ、分かった。君のことをうまく書けるくらい自信が戻ってきたら書こう、約束する」
そう答えるとかろうじて見えていた彼女の顔に満足そうな笑みが浮かんだ。
そしてそれからすぐ、私の手はただ繰り返し海を掴むだけのものとなった。
私は鞄から一冊の本を取り出した。表紙には箔押しのタイトルと、この砂浜の写真が載っている。もちろん担当編集にはもっと分かりやすい写真を薦められたが、私は頑なにこの砂浜の写真を提案した。「表紙で売り上げは大きく変わるんですからね」と文句を言いながらも彼が折れてくれたのは、十五年という時間が少しは私の文章に存在価値を与えてくれたからだろう。
「書いたよ、約束どおり。タイトルは『海と月』にしたんだ。君の身体が海月のようで綺麗だったのと、君が今もどこかの海で優雅に漂ってくれていたら嬉しいと思って、だからこのタイトルにした」
返ってくることのない返事の代わりに、ほんの少しだけ強くなった波が私の靴底を濡らす。それがなんだか彼女からの返事のようで、私の頬をまた一筋の海が流れた。
「じゃあ行くよ。また来る」
私は相変わらず創作の苦しみに見舞われながらも、それを止めることなどできるはずもなく、血と言葉を吐きながら今日もこうして文章を書いている。
今でも心が壊れそうになると、私はあの砂浜を思い浮かべてしまう。そこではいつも、彼女の身体越しに少し淡くなった海が心地よい潮騒を奏でている。