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値札を見る男|俺は納得して払いたい

    俺は、値札を見る。

    妻は、だいたい呆れている。

    「また。」

    また、である。

    レストランでは、メニューの右端。
    予約サイトでは、写真より先に価格と星の数。
    スーパーでは、19時の割引シール。
    服屋では、値札とタグ。
    家賃の値上げ通知には、対抗する。

    見ている。
    かなり見ている。

    安く済ませたいだけではない。

    高いものを選ぶ日もある。
    むしろ、高いものを選んでよかったと思う日もある。

    ただ、欲しいと思う前に、
    値札に感情を動かされるのが嫌いだ。

    食べたいと思う前に、値段が見える。
    泊まりたいと思う前に、料金が見える。
    欲しいと思う前に、割引が見える。

    半額だから買う。
    高いから良いものに見える。
    人気だから安心する。
    値上げされたから仕方ないと思う。

    自分で選んでいるようで、先に値札に動かされている。

    それが、どうもしっくりこない。

    値札は、欲しいより先に来る。

    だから俺は、見る。

    かなり見る。


    メニューの右端からの視線

    レストランに入る。

    土曜日の15時を少し過ぎた時間で、店内はそこそこ混んでいた。

    入口近くの席では、仕事中らしい人が一人でパスタを食べている。
    奥の席では、母娘らしき二人がデザートまで頼んでいる。
    俺たちは窓際の二人席に通された。

    席は悪くない。

    悪くない、と思った時点で、もう値段のことを少し考えている。

    妻はメニューを開く。

    「九条ねぎとしらすのペペロンチーノにしようかな」

    俺は右端を見る。

    1,800円。

    なるほど。

    「何がなるほどなの」

    妻が言う。

    分からない。

    ただ、ランチで1,800円のパスタには、一度なるほどと言いたくなる。

    「また右端みてる」

    たしかに、俺はメニューの右端と議論していた。

    「食べたいかどうかで選べば」

    それはそう。

    本当にそう。

    妻は、料理のメニュー。
    俺は、その横にいる数字を見ている。

    同じメニューを見ているのに、見ているものが違う。

    「今日、しらすの気分なんだよね」

    妻が言う。

    しらすの気分。

    いい言葉だ。

    俺にもそういう日がないわけではない。

    ただ、しらすが1,800円の顔をしているのかは、少し確認したい。

    九条ねぎとしらすなら、1,200円だと気軽。
    1,800円なら少し考える。
    2,400円なら、急に理由が欲しくなる。

    同じパスタなのに、値段が変わるだけで、こちらの気持ちが変わる。

    値段は、食べる前から味に入り込んでくる。

    だから見る。

    高いことが悪いんじゃない。

    高い理由が見えれば、気持ちよく払える。

    駅前。
    静かな席。
    隣との距離。
    急かされない時間。
    気を遣ってくれる店員さん。

    水が減ったら、ちゃんと気づいてくれる。
    皿を下げるタイミングが早すぎない。

    そういう店のパスタが少し高いのは、分かる。

    皿の上に、九条ねぎとしらす以外の価値も乗っている。

    でも、理由が見えないときもある。

    席は狭い。
    水は来ない。
    味は普通。
    でも値段は強気。

    そういうとき、俺は止まる。

    これは、何にお金を払っているのか。

    妻はメニューを閉じかけて、また開いた。

    「やっぱりトマトソースにしようかな」

    俺はまた右端に目がいく。

    「見なくていい」

    妻が言う。

    見てしまった。

    トマトソースは1,650円。

    なるほど。

    「また、なるほどって顔した」

    顔に出ていたらしい。

    値札を見る男は、たまに顔にも出る。

    よくない。

    「しらすがかわいそう」

    たしかに、しらすは悪くない。

    しらすは、ただ皿に乗る予定だっただけだ。

    でも、メニューの右端は黙っていない。

    食べたいものと、払いたいものは違う。

    俺は納得して食べたい。


    星1は、未来の自分からのメッセージ

    旅行の予約サイトでも同じだ。

    妻は写真を見る。

    沖縄の青い海。
    ハワイの白いベッド。
    全身大の一面の窓。
    海の見えるバルコニー。
    朝食のパンケーキ。

    パンケーキには、だいたい光が当たっている。

    俺も、できればパンケーキに光が当たっている世界にいたい。
    シロップの甘さも感じたい。

    「ここ、よくない?」

    妻はもうハワイにいる。

    スマホの画面には、
    白いベッド。ベッドサイドには、木目のサイドテーブル。
    なぜか読まれなさそうな洋書が一冊置かれている。

    ああいう洋書は、いつもいい仕事をしている。

    読まれなくても、部屋を少し上質に見せる。

    妻は写真を横にスワイプする。
    俺は画面の下の方へ行く。

    ベクトルが違う。

    妻は海へ。
    俺は客室の水回りへ向かっている。

    旅行の予約サイトを見ている時間は楽しい。
    行く前なのに、もう少し行った気になれる。

    写真はうまい。

    海は青く、ベッドは白く、部屋は実際より少し広く見える。
    プールには、いつも人が少ない。

    実際には人が多い日もあるだろうに、写真のプールはいつも静かだ。

    俺は一泊当たりの料金を見る。

    それから、星の数も。

    妻の顔が少し曇る。

    分かる。

    でも、星1には未来の自分がいる。

    「部屋はきれいだが、壁が薄い」
    「朝食はおいしいが、かなり並ぶ」
    「水回りが古い」
    「海は見えるが、思ったより遠い」

    これは悪口ではない。

    未来からの連絡だ。

    少し疲れた自分が、チェックアウト後にスマホを開き、親切にも書いてくれている。

    「早くない?」

    妻が言う。

    そうかもしれない。

    俺はまだ日本にいるのに、すでに壁の薄さを心配している。

    「海が見えるってよ」

    妻が言う。

    マップを開く。

    なるほど。
    この立地なら、海は見える。
    ただ、近くはない。

    海が見えることと、海に近いことは違う。

    予約サイトは、たまに日本語の隙間を攻めてくる。

    「徒歩圏内」は、誰の足の徒歩圏内なのか。
    「中心地から近い」は、何を中心とした中心地なのか。
    「一部客室から海が見えます」は、どのアングルからなのか。

    もちろん、星1ばかり見ていたら、どこにも行けない。
    完璧なホテルなんてほとんどない。

    どれだけ素晴らしいホテルにも、たぶん一人くらい怒っている人はいる。

    隣の部屋がうるさかった。
    エレベーターが遅かった。
    朝食の卵が思ったより固かった。

    卵の固さまで背負わされたホテルも大変だ。

    だから、星1を信じすぎるのも違う。

    でも、何を我慢するかは先に知っておきたい。

    空港から遠いのか。
    朝食で並ぶのか。
    壁の薄さを受け入れるのか。

    値札には、我慢も入っている。

    それを見ずに予約すると、現地で値札の続きを読むことになる。

    俺だって、ハワイの白いベッドで大の字で目を閉じたい。

    でも、その白いベッドにたどり着くまでに空港から1時間半かかるなら、意味は変わる。

    それはもう、移動も込みの白いベッドだ。

    星1は、ハワイの白いベッドに土足で入ってくる。

    でも、たまに助かる。

    泊まりたい部屋と、失敗したくない部屋は違う。

    楽しい気持ちを消したいわけじゃない。

    楽しい気持ちだけで決めたあとに、現実に少しずつ削られるのが嫌なのだ。

    妻はスマホを置いて言う。

    「じゃあ、どこならいいの」

    それが難しい。

    値札を見る男は、答えを持っているわけではない。
    ただ、問いを増やす。

    そこが、たぶん面倒なのだと思う。


    半額シールとしまあじ

    スーパーの割引シールは、もっと分かりやすい。

    半額シールは、なお強い。
    特にタイムセールには、少しだけ祭りの空気がある。

    店内の照明はいつも通りなのに、惣菜売り場だけ少しざわついて見える。
    誰かが寿司の前で止まる。
    誰かが弁当を一つ手に取り、戻し、また別の弁当を取る。
    店員さんが値引きシールの機械を持って出てくると、売り場全体が少しだけ静かになる。

    あの瞬間だけ、スーパーに緊張が走る。

    夜のスーパーで、しまあじに半額シールが貼られていた。

    目が合った。

    正確には、魚と目が合ったわけではない。
    値札と目が合った。

    妻が言う。

    「また見てるね」

    見ている。

    かなり見ている。

    しまあじも、こちらを見ている気がする。

    半額になると、魚にも表情が出る。

    「今日くらい、いいんじゃない」

    言っている。

    かなり言っている。

    少し高いローストビーフも「今日くらいどう?」と誘ってくる。

    さっきまでただの惣菜だったのに、半額シールが貼られた途端、みんな少し話しかけてくる。

    唐揚げも強い。

    定価でも強いのに、半額になると急に人格を持つ。

    「え、買わないの?」

    言っている。

    かなり言っている。

    俺も嫌いじゃない。

    半額シールを見つけた時の、あの小さな勝利感は嫌いになれない。

    誰かと戦ったわけでもないのに、少し勝った気がする。

    ただ、一度止まる。

    定価なら買わなかったしまあじを、半額なら買う。

    それは、本当に欲しかったのか。
    それとも、安くなったから欲しくなったのか。

    この二つは、全然違う。

    半額は、考える時間を無条件に奪ってくる。

    今買わないとなくなる。
    今なら得をする。
    今なら損をしない。

    そうやって、こちらの思考をかき乱してくる。

    だから俺は、一度考える。

    今日食べるのか。
    安いから欲しいのか。
    欲しいものがたまたま安くなっているのか。

    妻は半額の唐揚げを持ったまま言う。

    「今日は唐揚げでしょ」

    確かに。

    妻は、値札だけではなく、今日の疲れも見ている。

    半額シールには、そういう力がある。

    得した気分。
    選べた気分。
    うまく買い物できた気分。

    かごの中に半額の唐揚げが入ると、夕飯が少し明るくなる。

    予定になかったものが入ってくる。
    少しだけ食卓が増える。
    今日はこれもある、と思える。

    そういう楽しさもある。

    でも、半額はたまに増えすぎる。

    唐揚げ。
    しまあじ。
    ローストビーフ。
    ポテトサラダ。
    明日のパン。
    なぜかプリン。

    プリンはずるい。
    いつの間に忍び込んだ?

    プリンに説明はいらない。

    妻が言う。

    「プリンは別でしょ」

    何が別なのか分からない。

    でも、別のような気はする。

    こうして、かごは少しずつ重くなる。

    買い物かごは値札に動かされている。

    ただ、結局食べきれずに捨てるとなったとき、半額の喜びは少し違う顔をする。

    安く買ったはずなのに、なぜか負けた気がする。

    あれは、安く買ったのではない。

    値札に先に決められたのだと思う。

    半額は、欲しい理由に見える。

    そこが怖い。


    タグは、小さな履歴書だ

    休日、妻と駅ビルに行った。

    目的は、昼ごはんと、少しだけ洋服を見ることだった。

    少しだけ、で終わったことはあまりない。

    妻が店先のラックで足を止める。

    「これ、かわいくない?」

    ハンガーから、一枚のブラウスを取る。

    かわいい。

    色もいい。
    形もいい。
    妻にも似合いそうだ。

    妻がブラウスを当てる。

    似合っている。

    俺は値札を見る。

    安い。

    それから、タグを見る。

    ポリエステル。

    なるほど。

    「何がなるほどなの」

    妻が言う。

    分からない。

    ただ、ポリエステル100%には、なるほどと言わせる何かがある。

    環境のことも、少しは考える。

    次に洗濯表示を見る。

    手洗いは、買ったあとの自分に話しかけてくる。

    今の自分は、かわいいと思っている。
    未来の自分は、洗面台で少し俯いている。

    妻が言う。

    「デザインを見て」

    見ている。

    かなり見ている。

    ただ、俺は服の表だけではなく、裏も見ている。

    素材。
    縫製。
    原産国。
    洗濯表示。
    ブランドストーリー。
    よく分からない英語の一文。

    服は、買った日だけ着るものではない。

    洗う。
    干す。
    畳む。
    しまう。
    また着る。

    その時間も、値段に入っている。

    妻は言う。

    「服くらい、かわいいかで決めさせて」

    それはそう。

    服は、かわいいかで決めたい。

    ただ、タグは黙っていない。

    MADE IN どこか。
    素材は何か。
    洗濯はできるのか。
    ブランドは何を言っているのか。

    そういう話。

    タグは、小さな履歴書みたいなものだ。

    その服がどこから来て、何でできていて、どれくらい手がかかりそうか。

    たまに、ブランドストーリーも書いてある。

    「自由に生きる女性へ」
    「日常に少しの特別を」
    「上質な時間をまとう」
    「Be yourself」

    なるほど。

    「また?」

    またである。

    Be yourself と言われても、こっちはブラウスを買うか迷っているだけだ。

    ブラウスに自分らしさまで背負わせるのは、少し重い。

    妻が笑う。

    「ブラウスにそこまで求めないで」

    たしかに。

    ブラウスは、もう少し軽い気持ちで着られたいかもしれない。

    妻がブラウスを鏡の前で合わせる。

    たしかに似合っている。

    店の照明の下で、少し顔が明るく見える。
    本人も、たぶんそれに気づいている。

    妻の顔が少し明るくなる値段だ。

    だからこそ、少し止まる。

    生地が薄いから安いのか。
    大量に作れるから安いのか。
    型落ちだから安いのか。
    広告費をかけていないから安いのか。
    それとも、どこかに見えない無理があるのか。

    妻は言う。

    「買い物が会議みたい」

    そのつもりはない。

    買い物は、もう少し軽くていい。

    全部のタグを読んでいたら日が暮れる。
    全部の英語を訳していたら、駅ビルから出られない。

    だから、全部は見ない。

    「かわいいんだよね」

    かわいい。

    それは本当だ。

    でも、妻はタグをもう一度見た。

    「これ、洗うの大変そう」

    俺は少し黙った。

    見ている。

    かなり見ている。

    妻はブラウスを棚に戻した。

    「今日はやめる」

    安いから買うのではない。
    かわいいから必ず買うのでもない。

    着るところまで想像して、買う。

    それができると、服はちゃんと味方になる。


    家賃には、返事をする

    家賃の値上げ通知が来た。

    紙なのに、態度が大きい。

    妻がそれを見て、少し怪訝な顔をした。

    「1万円上がるって」

    そう言って、俺に紙を渡した。

    見る。

    家賃。
    更新料。
    支払期限。
    新しい条件。

    どの数字も、こちらがもう頷いた後みたいな顔をしている。

    まだ頷いていない。

    俺は紙に向かって、心の中でそう言った。

    1万円。

    たった1万円、ではない。

    毎月の1万円だ。
    1年で12万円。
    2年なら24万円。

    値札は、小さな顔で大きなことを言う。

    特に家賃はそうだ。

    家賃の通知は、いつも少し強い。

    こちらの暮らしに相談せず、先に数字だけが来る。

    これでお願いします。
    嫌なら出ていってください。

    そう言っているように見える。

    実際には、そんな乱暴なことは書いていない。

    でも、家賃の値札にはそういう圧がある。

    妻は言う。

    「こういうのって、払うしかないのかな」

    たぶん、多くの人がそう思う。

    引っ越しは大変だ。
    次の部屋が見つかるか分からない。
    管理会社とやり取りするのも疲れる。

    いまの部屋に大きな不満があるわけではない。

    駅までの距離も悪くない。
    日当たりも悪くない。
    近くのスーパーも使いやすい。
    ゴミ捨て場も、まあ許容範囲にある。

    でも、完璧ではない。

    エレベーターは少し遅い。
    共用部の清掃は日によって差がある。
    掲示板の張り紙は、いつも少し古い。
    ポストのあたりに、たまにチラシが落ちている。

    小さいことだ。

    でも、家賃を上げると言われると、小さいことが急に顔を出す。

    こちらも値札を見る目になる。

    家賃は、部屋代だけではない。

    動かない理由にも、値段がついている。

    俺は、相場が頭に入っている。

    今この条件で借り直したら、いくらになるか。

    駅距離。
    広さ。
    築年数。
    階数。
    管理状態。

    だいたい分かる。

    今の家賃は、たしかに相場より安い。

    でも、相場より安いことと、値上げをそのまま飲むことは別の話だ。

    ここを混ぜると、値札に押される。

    俺は、近隣の家賃と、これまでの管理状況と、こちらの支払い実績を並べて、返事をすることにした。

    妻が言う。

    「仕事?」

    違う。

    たしかに、家なのに仕事みたいな顔をしている。

    引っ越す予定もないのに、少し引っ越す人みたいになっている。

    妻が後ろから言う。

    「引っ越すの?」

    引っ越さない。

    たぶん。

    でも、引っ越さないために、少し引っ越す人みたいになる必要がある。

    住み続ける意思はある。
    ただし、安易に増額に合意はできない。いや、しない。

    まず、こちらの考えを伝える。

    今の家賃で更新する意思が、増額には合意していないこと。
    これまで滞りなく支払っていること。
    管理状況も含めて、現行条件が妥当だと考えていること。

    強く言いすぎる必要はない。

    でも、弱く言いすぎると、紙の態度に飲まれる。

    向こうの連絡を待ってみたが、1ヶ月経っても返事が来ない。

    もう契約期限だ。

    紙の態度は大きかったが、返事は遅かった。

    俺は現行条件を前提として、更新料と翌月分の家賃を支払った。

    払うものは払う。

    そこは曖昧にしない。

    住み続ける意思も示す。

    ただし、増額に合意したわけではない。

    そのうえで、再度メールを送る。

    現行条件を前提として更新料と家賃を支払ったこと。
    こちらの意向は変わっていないこと。
    現行条件を前提に更新手続きを進める認識でいること。

    強く書きすぎない。
    でも、曖昧にもしない。

    妻が横から画面をのぞく。

    「さすがやね」

    褒めているのか、呆れているのかは分からない。

    でも、そのくらいしないと、値札はそのまま通ってしまう。

    2年前もそうだった。

    そのときも、家賃は上がると言われた。
    俺は返事をした。
    結果、据置になった。

    今回も同じだった。

    相場が上がっていることは分かる。
    それでも、増額に合意するかどうかは別の話だ。

    結果として、今回も据置で決着した。

    勝った、という感じではない。

    ただ、返事をした分だけ、値札が少しこちらを向いた気がした。

    もちろん、相手にも事情はある。

    物価も上がる。
    管理費も上がる。
    修繕費も上がる。

    それは分かる。

    でも、管理状況はどうだったのか。
    価値を保つための運営はされていたのか。

    分かることと、同意することは違う。

    家賃の値上げ通知は、決定ではない。
    少なくとも、こちらが合意するまでは。

    妻は言った。

    「こういうの見ないふりしてた」

    分かる。

    家賃は大きい。

    食べ物や服と違って、気軽に戻せない。
    高いと思っても、棚に戻せない。
    今日はやめる、とは言いにくい。

    生活そのものに、値札が貼られている感じがする。

    でも、見ないふりをした値札ほど、生活に深く入ってくる。

    昔から、こんなふうに見ていたわけではない。

    ただ、何度か「まあいいか」で決めたものに、あとから少しずつ削られた記憶が強く残っている。

    高かったのに、落ち着かなかった店。
    安さに釣られて買ったのに、結局使わなかったもの。
    便利そうだったのに、どこか勝手が良くない部屋。

    どれも、大きな失敗ではない。

    でも、大きな失敗ではないからこそ、なかったことにしやすい。

    なかったことにした小さな違和感は、あとから生活の中で効いてくる。

    だから俺は、見るようになった。

    値段そのものではなく、そのあとに続く時間を見るようになった。

    だから、家賃には返事をする。

    生活に貼られた大きな値札ほど、ちゃんと納得した方がいい。


    最後の一歩は、自分で

    最近、妻も少し見るようになった。

    見ていない顔で見る。

    メニューの右端。
    星1。
    半額シール。
    服のタグ。
    家賃の値上げ通知。

    全部ではない。

    少しだけ。

    それくらいが、たぶんちょうどいい。

    妻は、値札を見るようになった。

    でも、俺みたいには見ない。

    欲しい気持ちを、ちゃんと残している。

    たぶん、その方が上手い。

    また別の夜、妻とスーパーに行った夜、半額のしまあじがあった。

    妻がそれを手に取って、少しだけ俺を見た。

    「今日はしまあじ食べたいから買う」

    俺はうなずいた。

    それならいいと思った。

    安いからではない。
    今日食べたいから。

    ただ、この前に目が合ったしまあじとは別のしまあじであることは、確認した。

    うまかった。

    半額だったからではない。

    たぶん、妻がちゃんと選んだからだ。

    妻も値札を見るようになった。

    でも、欲しいものを値札に渡しすぎない。

    俺は、そこが少しうらやましい。

    別の日、妻がメニューをこちらに見せた。

    「これはどう?」

    右端には、少し強気な値段がある。

    でも、その日は店の空気がよかった。
    席もゆったりしていた。
    妻は少し疲れていた。
    俺も、ちゃんと座って話したかった。

    その日は、何を食べるかより、少し長く座れることの方が大事だった。

    店内は夕方の手前で、少し静かだった。

    隣の席では、年配の夫婦がゆっくりコーヒーを飲んでいる。
    厨房の方から、皿の重なる音がする。
    窓の外では、駅へ向かう人たちが早足で歩いていた。

    急がなくていい席だった。

    そういう席には、ちゃんと値段がある。

    店員さんを呼ぶ。

    妻が注文する。

    俺はもう右端を見ないようにした。

    ほんとは少し見た。

    でも、もう決めていた。

    水の入ったグラスに、店の照明が揺れていた。

    最近、妻は俺より先にメニューの右端を見ることがある。

    見ていない顔で。

    俺はそれを見る。

    かなり見ている。

    「見ないで」

    見ている。

    値札は、欲しいより先に来る。

    だからせめて、最後の一歩くらいは、自分で決めたい。

     
     
    うまか話MC|競馬は、やっぱりおもしろい。 麺(メイン)のかたさで難易度★判定|毎週更新。 競馬歴11年、2021–25年は4年プラス。 渋谷在住、髪は福岡で切ってます。 うまか話、聞いていかんね?

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