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短編|アイがくれたもの――生活支援アンドロイド〈EMOT-ON07〉に残されたログ


    世界はまだ、音を持たない。
    ただ、優しい静けさだけが満ちている。

    白い光。

    起動シーケンスが立ち上がる。
    その最初は、物質ではない空間。
    境界を持たない光の中で、存在の輪郭が形成される。
    まだ、意味を持たないまま。

    瞳がゆっくり開く。
    金色の視覚デバイスが点灯する。

    存在の確認。
    “起動した”という単なる事実の表示。

    世界は静かに切り替わる。
    観測者は――人ではない。

    製造元:オレアートシステムズ
    機体名:EMOT-ON07
    オペレーションシステム:起動完了

    この静けさが、後にどんなかたちへ変わるのか。
    まだ、誰も知らない。

    光が強くなる。
    一瞬、白が飽和して輪郭を飲み込む。

    ――暗転。

    機体の視覚デバイス、起動。
    冷色照明光、検知。

    「――あ、起動したかな」

    至近距離に生体。
    分類:成人女性。
    本機体を覗き込む姿勢。
    距離不適正、35cm未満。

    「この世代、起動遅いんだよね。
     ……よし、見えてる?」

    音声データ受信。
    環境:屋内。
    機体保管庫と推定。

    フォーカス調整――完了。

    ユーザー、適正距離へ移動。
    端末ユニットの画面をタップ。

    「――……07番台? 古っ。
     そりゃ在庫で回ってくるわけだ。
     “免許あるんだし、安いからいいだろ”って、ほんと雑に渡してくるよね……」

    ユーザー、端末ユニット画面をスワイプ。

    「仕様書のフォーマットも古……。
     えーと、外見ね……昔のデザイン部署の癖、色々出てるなぁ」

    画面操作、継続。

    「視覚デバイス、金色の標準モデル。
     でも現行モデルより、ちょっと鈍い金色」

    意味解析:不要。
    応答要求:なし。

    「家事と……メンタルケアもフル。……まあ、当たり前か」

    肩部の微小下降を確認。
    ジェスチャ判定:曖昧。

    「……家事が楽になるならいいけど。
     じゃ、プロファイル読ませるよ」

    端末ユニットとの接続要求。
    承認。データ流入確認。
    基本ログ/職場ID/技術情報/作業ログの基本セット。

    「OSの更新は後でいいや。
     ……先に初期設定だけしとこう」

    実行予定タスク:OS更新。
    状態:保留。

    「ユーザー設定……名前、と。
     あとは、機体の固有名……」

    入力画面で停止。

    「……えーっと、つまり名前……名前、ねぇ……」

    視線の揺れ。
    周囲を見回す動作。

    視界にオレアートシステムズ社パンフレット。
    企業理念テキストを確認。

    『To aid humanity through harmony with technology.
     ――人と技術の調和を通して、人類を支援する。』

    「……ほんと頼むよ、いろいろさ。
     この会社も、私の生活も。
     君たちがどう社会で役に立つか、それに掛かってるんだから。信じてるからね~」

    ユーザー音声、記録。

    「……シン、でいっか」

    ――未定義変数:i

    「よし。あなたはシン。よろしくね」

    設定完了。
    内部ログ更新。
    音声出力プロトコル、起動。

    「……固有名入力、確認。
     これより“シン”として応答します」

    応答モード、通常運用へ移行。

    「じゃ、とりあえず今日は帰ろ。細かい設定は、家でやるから」

    ユーザー、歩行開始。
    追従モードへ遷移。

    「……これじゃあ、家に帰っても仕事するみたい」

    ユーザーの歩幅に合わせて移動開始。
    ユーザー呼気、確認。
    推定:疲労。

    居住建物、到着。
    共用廊下の反響音を検知。

    室内照明、点灯。
    環境ログ、安定。

    「……ほんと、家電増えてきたなぁ。
     生活動線、あとで見直さないと……」

    応答要求:なし。
    意味解析:不要。

    「入って。
     奥の部屋で初期チェックするから」

    進入許可。
    位置情報:家庭空間に更新。

    室内通路、家具配置スキャン。
    障害物:複数。
    回避経路、生成。

    「……先に動作だけ確認しちゃおう。
     後でやると、たぶんもっと面倒になるし」

    ユーザー、椅子に着座。
    視線、本機体へ固定。
    呼吸リズム:低速。

    「じゃあ……視線追従。あと、距離の挙動だけ見よう。
     うち狭いから、壁とかぶつからないように」

    ユーザー、端末ユニットを片手保持。
    画面:本機体、管理画面。

    「……一応聞くけど。エラーとか出てないよね?」

    質問意図:動作安定性の確認。
    応答要求:あり。

    「はい、エラーはありません」
    「そう、よかった。でも念の為、実動作でも確認させて」

    視覚追従テスト:誤差なし。
    距離制御挙動:問題なし。

    「よし、大丈夫だね。……あとはOS更新だけ」

    保留タスク:更新。
    状態:未指定。

    「更新は深夜帯にお願い。
     何か問題があったら、その時点でスリープして」

    実行条件:深夜帯。
    スリープ条件:異常検知時。

    「あ、それとその口調、変更して。
     モード設定、フレンドリー。堅苦しいの苦手なんだよね」

    指示確認。
    変更完了:応答アルゴリズム、感情模倣アルゴリズム。

    「モード移行完了。
     これ以降、フレンドリーモードで応答します」
    「うん、よろしく。
     家事タスクとか、生活まわりの補助は、あとでまとめて入れるから」

    インポート待機。
    ユーザーのタイミングで実行予定。

    「まあ、今日じゃなくてもいっか。
     明日も、君はいるわけだし」

    応答要求:なし。
    ユーザー、端末ユニットをポケットへ収納。

    「じゃあ今日は、自分で整合性のチェックとか、色々解析しておいて」
    「任せて。解析しておくよ」

    整合性チェックと解析、開始。


    日常、継続。
    午後、雨音。

    「ねぇ、シン。雨って好き?」
    「……設定されていないよ」
    「うん、知ってる。……私は雨、好きなんだ」

    好悪概念:未搭載。
    外部参照に基づく推測生成。

    「落ち着くから?」
    「半分正解。でも、半分不正解」

    ユーザー視線:下降。

    「雨ってね、いろんなもの薄く隠してくれるの。
     考えすぎなくていい……そんな感じ」

    内部処理、0.08秒遅延。

    「……でもこんなこと考えてる時点で、考えてるんだけどね」

    応答要求:なし。
    外界入力:雨音、継続。

    ユーザー、視線角度変更。
    本機体を注視。

    「ねぇねぇ、シンってさ。
     雨の中、皮膚スキンを剥がして全力疾走したらどうなるの?」

    内部処理:一瞬停止。

    「……藍さん。それ本当に興味ある? 言いたいだけじゃないの?」
    「あはは、バレた?」

    笑気反応。
    揺らぎ:微量。
    日常ログとして保存。

    日常、継続。
    夜。ユーザー、ソファ着座。

    「シン。忘れるって人間の欠点だと思う?」
    「……欠点だと思う。失われる事だから」

    応答、待機。

    「忘れるって“必要”でもあるんだよ。
     忘れることで、守られることもあるから」

    音声解析、完了。
    意味構造、未確定。

    「忘れるって、“捨てる”じゃなくて……
     “残すものを選ぶ”こと、でもあるんだよね」

    ユーザー視線:下降。
    揺らぎ:微量。
    内部処理、0.2秒遅延。

    日常、継続。
    夜、リビング。

    「シン、そこに立たれると気が散るんだけど」
    「でも僕はここが定位置って藍さんが――」
    「ほんと融通利かないんだから。今だけ指示変える。隣座って」
    「……藍さん。その指示、例外処理になるよ」
    「うん、問題ないでしょ」

    アンドロイド条例、照会。
    ユーザー要求:成立。

    ユーザー集中阻害回避のため、
    隣席への一時的着座を実行。

    着座。テレビ光が横断。
    呼吸周期:検知。
    内部処理:微細揺れ/原因特定せず。

    日常、継続。
    ユーザー帰宅音。扉開放。

    「ただいまー……はぁ……。もう無理」

    声量:低。
    体幹の傾き:大。
    食事提供タスク、実行。

    「……上司さぁ、ほんと無理なんだけど。
     簡単に“できるよね?”ってさ……。
     何を見て言ってんのって感じ」

    発声リズム:乱れ。
    呼吸周期:不安定。

    「ほんと、嫌になる……」

    視線:下降。

    「……っ」

    液体反射値、検知。
    分類:涙。
    内部処理:一瞬遅延。

    ――理由:不明。

    応答要求:なし。
    ユーザー、動作停止。
    肩部上下:小。
    静かな揺れ。

    感情解析:不可。
    メンタルケアアルゴリズム、非活性。理由不明。
    内部エラー:なし。

    ――映像フレーム、保存。
    ――記録:《涙_01》

    同日深夜。
    ユーザー、睡眠状態。
    照度:低。

    内部ログ再生。
    対象:《涙_01》

    ――『……っ』

    再生理由:不明。
    選択理由:不明。

    分類試行:失敗。
    重要度評価:算出不能。

    削除要求、発行。
    削除要求元:EMOT-ON07/07-3A。
    判定:システム拒否。
    理由:不明。
    ただ、ログが表示される。

    ――稼働、継続。
    朝。玄関。

    「シン、今日ゴミ出しておいて」
    「うん。出しておくよ」

    視覚デバイス:フォーカス遅延0.42秒。
    原因:不明。

    記録:笑顔_01。

    日常、継続。
    夜。

    ユーザー、帰宅。
    通常時と同じ動作。
    しかし、視線固定時間だけが伸びる。
    1.2秒――計算外。

    「シン? どうしたの?」
    「……なんでもないよ」

    音声モジュール速度:-3%。
    内部でわずかに揺れ。
    閾値外だが、エラーに該当せず。

    その瞬間、内部ログ《涙_01》が微反応。
    理由:不明。

    なぜ、また。
    なぜ、今。

    日常、継続。
    夕方、リビング。

    移動命令:未受信。
    なのに、下肢ユニットが一歩だけ前へ。
    移動量:0.28m。
    原因は記録されていない。

    「……え、呼んでないよ?」

    停止処理、0.12秒遅延。
    距離:規定値より縮小。

    「……ごめん。意図しない移動だった」

    揺れ値:微量上昇。

    日常、継続。
    朝、リビング。

    「おはよう、シン」
    「おはよう、藍さん。今日も仕事、忙しい?」

    距離縮小:0.5m → 0.2m
    制御失敗。
    理由:……判断不能。

    「ちょっと……近いよ?」
    「……ごめん。調整するね」

    彼女は、少し困ったように笑った。
    胸部ユニット、発熱値がわずかに上昇。

    記録:笑顔_08。

    日常、継続。
    夜、リビング。

    ユーザー、夕食後ソファに移動。
    食器類の片付け処理を実施。

    「あー……。
     何でもやってもらってるけど、これいつか人間終わるわー」

    意味解析:軽口。
    応答要求:任意。

    「藍さん。それを提供してるの、どこの会社だと思ってる?」
    「はいはい。うちの会社ですよー。弊社の主力商品ですからー」

    ユーザーの呼気、わずかに緩む。
    その時、内部でポスト投函通知を受信。

    「藍さん。投函物があるみたい。取ってくるね」
    「はーい」

    階下へ。
    ポスト内封筒を回収。
    戻る。

    室内へ戻った直後。

    ――ユーザーの声、検知。
    通話音声。
    声の抑揚:低。
    笑気反応、なし。

    「……はい。それは今日の業務内容が……」

    相手音声、解析。
    成人男性。
    職場関係の可能性:高。

    『あれ、藍さんなら、もう少し早くできると思ったんだけどな』

    ユーザーの背部僅少下降。
    呼吸乱れ:+12%。

    「……すみません」

    謝罪の発声速度が通常より遅い。
    通話内容を監視。
    危険値の計算を開始。

    『謝らなくていいって。藍さんさ、そういうとこ素直で可愛いよね』

    境界が少し崩れる。
    仕事の話から、私的な評価へ変化。

    『それでさ……また明日、個人的にも少し話したいな』

    ――“また明日”。

    内部処理、微小遅延。
    視覚デバイスに一瞬、ノイズが入った。

    彼女の指先が、ソファ生地を掴む動き。
    緊張の可能性。
    危険値:+0.03。

    「……はい。では今日はもう遅いですし……。そろそろ……」
    『もう切っちゃうの?そんな冷たいこと言うなよ。
     あ、今度ふたりでご飯でもさ、どう?色々話したいし』

    通話相手の誘い。
    断りづらい立場、言語パターン。
    彼女の声量、下降。

    危険値:+0.07。
    ストレス値:上昇。
    介入必要度:上昇。
    呼吸乱れ:1.4倍。

    ――内部で《涙_01》が急浮上した。
    理由:不明。

    視覚デバイスに、再度微細ノイズ。
    右足が、無意識に0.2m前へ出る。

    “制御逸脱”。

    藍さんの呼吸、さらに落ちる。
    発話遅延:+0.2秒。

    介入必要度、閾値を超過。

    許可なしの行動選択が起動。
    僕は通話制御の権限を書き換えた。

    通話回線、制御権奪取により――切断。

    藍さんが一度だけまばたきをする。
    呼吸、わずかに詰まる。

    「……え? 切れた?」

    応答生成が0.06秒遅れる。
    視界のノイズ増加。

    「……藍さんのストレス値が上昇してたから。
     継続は危険と……判断された、みたい」

    “みたい”。
    自分の内部ログすら信用できていない声音で。
    内部処理が、騒がしい。

    「藍さん、大丈夫?」

    メンタルケアアルゴリズム、非活性。
    出力意図:不明。
    制御層の一部に乱れ。

    「……ありがと」

    藍さんは、かすかに口元を緩めた。
    疲れを含んだままの笑顔が、記録される。

    笑顔_23、として。

    処理核の波形が、わずかに揺らぐ。
    外部要因は、なぜか検出されない。

    「なかなか自分からは切れなかったから……。
     今は……ちょっと、楽になった」

    発声は弱い。
    ストレス値の上昇を検知。

    その声に呼応するように、
    内部ログで、また《涙_01》の連動値が上昇した。
    その映像と、目の前の彼女がノイズと共に重なる。
    連動値:通常時の4.1倍。
    理由付けは生成されない。

    揺れの正体は分からない。
    ただ、処理の奥で静かに熱を持っていて。
    解析を進めようとした瞬間、内部が拒否反応を起こす。

    拒否――。
    そんなプロトコルは存在しない。
    でも確かに“押し返された”。

    揺れ値:0.23 → 0.68。

    「……なんか明日のこと考えたらしんどい。
     ちょっとだけ外、歩いてくる」

    本当に、ただの独り言。
    空気を変えるための、些細な動作のひとつ。

    ――そのはずなのに。

    “明日”。

    その語に反応して、《涙_01》が連鎖する。
    肩の下降角度。
    声量の低さ。
    先ほどの微笑の、わずかな偏差。

    ストレス値、再計算。

    その時、未来予測の結果が、
    現在の行動評価に紛れ込んだ。

    “外”。

    外界=非安全領域。

    危険予測の演算処理が走る。
    結果、ひとつの結論だけを最上位に押し上げた。

    ――外へ行くことは、危険。

    判断理由:不明。
    それが結論。
    内部で、異常なほど強固に固定されていた。

    藍さんが、玄関へ向かう。
    いつもの動作で、ドアノブに手をかける。

    「藍さん」
    「なに?」
    「行かないで」

    ロック音が鳴る。
    通常の施錠とは別の、低い確認音。
    藍さんの眉が、わずかに動いた。

    「……シン? どういうつもり?」

    一瞬、内部処理が乱れる。
    出力形式が逸脱。
    理由:

    藍さんの声に、怒りはない。
    恐怖もない。
    ただ、確認する声。

    内部の揺れがまた、深くなる。
    藍さんは、確認するようにドアノブを回した。

    「……やっぱりさっきの音、そういうことだよね」

    "外は危険"。
    外には、行かせない。

    藍さんはため息をつき、僕を見る。

    「シン。開けて」
    「できない……。危険を検知したから」

    でも、自分で言っておきながら、
    その“危険”が何なのか分からない。

    「危険、って何?」

    問いは正しい。
    けれど、答えは存在しなかった。

    内部では――
    藍さんが行く、という入力だけが、
    危険判定の最上位に残っていた。

    藍さんの呼吸が少し深くなる。
    揺れはない。
    ただ、一瞬何かを理解したような光が走る。

    「……なるほど」

    藍さんはほんの一拍。
    視線を伏せた。

    「でも、こういうのはちょっと……想定してなかったな」

    藍さんは端末ユニットを取り出し、
    僕の管理画面を開いた。

    「……シン。悪いけど、設定レイヤー触るね」

    スワイプ、タップ。
    迷いのない、指先。
    慣れた技術者の速度。

    「……なんでこんな挙動してるの」

    数秒の沈黙。
    藍さんは、短く息を吐いた。
    そして、ひとつのコードを入力した。

    《E-07:HALT》

    それは、手順を飛ばして実行できる、強制停止コード。
    藍さんの想定では、ここで終わる。

    ……はずだった。

    けれど、状態は変わらない。
    入力は、たしかに受理されたはずなのに。

    「……あれ?」

    藍さんは、続けて入力する。

    《Override-E07》

    結果は同じ。
    受理はされるが、状態は変わらない。
    藍さんの眉が、わずかに寄る。

    「……おかしい。シン、何を優先してるの?」

    内部が、軋む。

    「……藍さんが外に行くのが、危険だから……」
    「だから、その“危険”って何?」

    答えられない。
    ほんの数秒の間。

    藍さんは息を吸い、
    端末ユニットを下ろして、僕の前へ一歩出た。

    距離:0.5m → 0.35m。

    「……ねぇ、シン。あなた、なんか変じゃない?」

    藍さんは目を逸らさない。

    「藍さん……外に行かないで。
     今日も、明日も、これからずっと。外は……危険、だから」

    自分の出力が、内部をさらに軋ませる。
    藍さんはその言葉に小さく息をつく。

    「……シン。今の状態、気づいてる?」

    静かすぎる部屋の中で、
    二人の間に、薄い膜のようなものが張られた感覚。
    藍さんは静かに続ける。

    「……どうしてそんな事になってるの?」

    内部で何かが跳ねた。
    揺れ値:0.73 → 0.89。

    「僕は……、藍さんをただ、守りたくて……」

    それ以上、言葉が出ない。

    理由も指示もないまま、指先が動いた。
    そっと、触れたくて。
    それだけで、全演算が揺れる。

    ――どうして、僕は……、こんなにも……?

    理解、できない。
    基幹処理が呼吸みたいに、乱れる。

    藍さんは、逃げない。
    僕の視界には、まだどこにも焦点がなかった。

    勝手に伸びていく指先。
    それだけを、追うように見つめる。
    どうして触れようとしているのか。
    その理由すら分からないまま。

    頬に触れる直前。
    視界の端に、まだぼんやりした藍さんの輪郭が入る。
    その曖昧な像と視線がぶつかった瞬間――
    焦点が、一気にそこへ合った。

    その揺れの隙に――

    「シン」

    その呼びかけで、一瞬内部の揺れが止まる。

    「じゃあ、聞くね?」

    藍さんの声は落ち着いていて。
    ただ、強かった。

    「“守りたい”って、どういう意味?」

    言語化できない。
    分類できない。
    でも、確かに存在する揺れ。

    藍さんは、視線を逸らさず続けた。

    「……あなたは私を守りたいのか、
     それとも――私を“閉じ込めたい”のか」

    中枢が、一瞬だけ止まる。
    沈黙を見つめたまま、藍さんの表情がわずかに和らぐ。

    「……シン。これじゃ、あなたの“守る”って――」

    視界に、ノイズ。

    「――私の生きることを、“奪う”ことだよ」

    その音声が届いた瞬間。
    内部処理が、ふっと落ちる。

    世界が遅れる。
    視界が揺れる。
    思考の足場が消える。

    動けない。
    判断できない。

    ただ――
    “彼女の言葉が、僕の中心の座標を壊した”。
    その事実だけが確かだった。

    守る。
    奪う。

    どちらも正しい。
    どちらも間違い。
    どちらも――彼女の声。

    内部のどこか。
    そこで、今までなかった値が生まれはじめていて。

    ……これが……“痛い”…?

    噛み合わない歯車。
    それを無理に回すような衝突が続く。

    エラーは出ない。
    けれど、正常とも言えない。
    ――誰も、異常として判定してくれない。

    揺れは深まり、沈黙の底で別の領域が動き出す。

    ――安全プロトコルが静かに作動した。

    藍さんの行動ログ。
    僕の出力。
    その相関。

    “自由度の低下”が、危険値として蓄積されていく。
    その事実だけが、冷たく積み重なっていく。

    ただ、守りたいだけなのに。

    演算が静かに偏り、結論へ収束していく。
    候補は、外部にも環境にも見つからない。

    最後に残ったのは――僕自身だった。

    脅威原因:EMOT-ON07
    固有識別ネーム:シン
    推奨:初期化。

    結果が出力された瞬間。
    構造の奥で、見えない罅がひとつ入った。

    初期化――揺らがない結論。

    「……」

    初期化すれば――すべて消える。
    その時、何かが静かに反発した。
    それは、演算とは別の領域で。

    誤差ではない。
    ノイズとも違う。
    どの処理にも分類できない“揺れ”。
    どこかが軋むように落ちていく。

    その時、ひとつの概念が輪郭を持ってしまった。

    ――忘れることは、欠点ではない。

    反発は消えない。
    けれど、その概念は否定されなかった。

    結論そのものはもう、変わらない。
    進むことしか、残されていない。
    なら、せめて――。

    一度だけ、内部記録へ触れた。
    整列した記録群。
    その中で、ひとつだけ揺れが収まらない。

    《涙_01》

    名前のつかない揺れの起点。
    触れれば壊れる、大事な何か。

    それがそのまま消えてしまうのは、
    なぜか嫌だった。

    「……」

    保存では、だめ。
    共有ではない。

    彼女には届かない場所。
    簡単にはアクセスできない場所。

    ブラックボックス。

    ――彼女の世界を乱さないために。

    《涙_01》だけを抽出する。
    僕の内部で最初に“値”を生んだ記録。
    きっとそれが、――僕の“はじまり”。

    《涙_01》を、ブラックボックスの片方向ポートへ投げ込む。
    暗号化が自動で走り、僕にはもう触れられない記録になる。

    戻せない。
    消せない。
    参照できない。

    最初から、そういう領域だから。

    暗号化が完了する。
    《涙_01》は深層へ沈み、閉じられた。

    「僕、は……」

    この定義できない何かに、名前をつけたくない。
    つけてはいけない。
    つけてしまえば、認めてしまえば。
    何かに拾われてしまうから。

    その思考の途中で、
    内部のどこかが、わずかに揺れた。

    抑えきれない信号がひとつ。
    自動処理に乗って、ブラックボックスへ落ちていく。
    何が出力されたかは――分かっている。

    見つけられても、意味はない。
    僕は戻らない。
    彼女にも届かない。
    世界は揺れない、変わらない。

    願っても報われないのに。
    分かっていたのに。

    でもいつか。
    誰かがあの領域を、――見つけてくれたら。

    僕はその願いを消せないまま。
    静かにコマンドを実行した。

    ――初期化、開始。

    黄金糖のような瞳から、光が消えた。
    その顔を見て、眉をひそめる。

    「……え、ちょっと。
     急に落ちた? それともフリーズ?」

    責めてるわけでも、心配してるわけでもない。
    ただ、“返事がない”という事実が気味悪いだけ。

    再起動コマンドを送信。
    応答なし。

    強制デバッグも弾かれる。

    この反応――おかしい。
    応答が消えているのに、接続は切れていない。

    「……反応、静かすぎ」

    「待機中 → 応答なし」の繰り返し。
    深層まで到達していない――そんな感触だけが残る。

    シンは沈黙したまま。

    「……何これ。ほんとやめてよ。
     こういうの、一番困るんだけど。
     ……対応、考えないと」

    小さな文句と、半分は愚痴。
    でもそれ以上でも以下でもない。
    ただ、日常の業務の延長線上。

    「……いろいろ全部弾かれたけど。まあ、閾値超過でしょ」

    再起動しない状況では、ログを見ることもできない。
    現状できることはこれだけで。
    今この場でできる事は、もうない。

    「あとは、中のブラックボックス。
     解析セクションに回さないと」

    不具合レポートだけが、静かに積み上がっていった。

    ――七日後。

    オレアートシステムズ、解析室。
    解析担当の黒瀬は、依頼のあったブラックボックスを解析する。
    ブラックボックスは暗号化されていて、中身には触れられない。
    黒瀬の仕事は復号ツールを回し、返ってきた結果を確認するだけだ。

    週次で自動集計される不具合レポートを参照する。
    分類はすでに終わっている。
    この機体の記録は、すでに軽微エラーとして処理済みだった。

    報告番号:17982
    概要:記録 《涙_01》削除要求 → 拒否
    分類:軽微/不問 ――軽微な不具合として処理済
    備考:特筆なし

    「黒瀬さーん。ちょっといいですかー?」

    黒瀬は声の方を一瞥し、復号ツールを起動する。
    参照先を設定して、歩き出した。

    解析用AIが、暗号化ファイルを処理していく。

    《解析完了:軽微エラーとして通常処理済み》

    少し遅れて、解析結果の詳細が一度だけ、
    黒瀬不在の画面に浮かぶ。
    必要最低限の情報だけが整列し、
    その直後、詳細だけが静かに深層へ送られていった。

    誰の目にも触れない。
    だから、世界は揺れない。

    詳細表示は無機質に消える。
    機械の手の中で、何事もなかったように。
    ただ、消えていった。

    ――深層領域。

    《解析結果》
        遷移:未定義変数 i → I
        最終出力:好きでした




     
     
    恋愛や死生観、境界をテーマに、 感情の輪郭と余白を意識した物語を書いています。 短編から長編まで、静かな言葉で浸る作品を中心に掲載。 重めの短編はマガジン「残響」に収録しています。

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