
クリーンルーム
窓から子供の声が聞こえてくる。咲き掛けの桜の中を子供たちが登校していく。
美穂はベッドの中、まだ眠気で朦朧とする意識で窓の外を眺めていた。眠りが浅いのか、毎朝のように子供の声で起こされた。もう一度眠ろうかこのまま起きていようかと考えながら、隣でまだ眠っている達也の手に軽く触れた。美穂はこの時間が好きだった。もう一度眠ろうと思い、そのまま時間が経っていく。
いつも通りの時間の中、いつもと違う時刻に、達也のスマートフォンのアラームが鳴った。達也は目を覚ますと、美穂の手を払いのけるように体を起こした。達也は自分の中に留めていた言葉が零れてしまいそうに感じた。
美穂は嫌な予感がした。
沈黙。
窓の外から子供の声が部屋に入ってくる。朝から何がそんなに楽しいのだろう、と美穂は思う。
「前から言わないといけないと思ってたんだ」
達也の声は文章を読み上げる機械のようだった。起きたばかりだからではないことは美穂にはすぐに分かったが、その考えを打ち消そうとした。
「何?」
自分の声の振動で頭の中がゆらりと揺れた。何?という美穂の声が自身の頭の中で反響した。何かとても嫌なことが起きることを予感させる。
美穂は達也がこれ以上何も話さないでいてほしいと思った。
達也は美穂に隠していた気持ちを話すことができると思った。
「別れようと思う」
「何で?」
この部屋にずっと一緒にいようって約束したのに。
美穂は、物心ついた頃から約束を必ず守る人間だった。
美穂が五歳の頃、両親と外出した際に「おとなしくしているって約束してね」と言われ、「うん分かった」と答えると、それから一言も声を出さなかった。家に帰って食事中やテレビを見ながら両親が話しかけても目を逸らして何も言わなかった。翌日、保育園から一言も言葉を発しなくなったけれど何があったのかと両親に電話がかかってきた。両親が美穂に「どうして何も話さなくなったの、お願いだから何か声を出して」と言うと、「何で? 約束したのに」と美穂は不思議そうな顔をして声を出した。
そんなことが何回か続き、両親は美穂に対して「約束」という言葉を使わなくなっていった。
テレビから、天気を伝えるアナウンサーの声が録画放送のように無関係に美穂の体を通り過ぎて行った。
「今日の降水確率は十パーセント。全国的に晴れです」
部屋の片隅に置かれた、達也の部屋着を美穂は眺めていた。「もう決めたことだから、ごめん」とだけ言って、達也はスーツに着替えて部屋を出て行った。
美穂はテレビを消した。
窓の外から子供の声は聞こえなくなっていた。学校が始まったのだろう。遠くから車の走行音がかすかに聞こえる。
美穂は今日の予定を思い返してみた。午後から何かがあったような気がした。スケジュール帳を見てみると、明日の午後に面接の予定が入っていたが、今日の予定は空欄だった。
テレビをつけてみると、天気予報は終わりかけていた。
どこかの国同士が戦争を始めたり、東京で連続殺人が起きたり、そんなニュースが流れることを期待した。
天気予報が終わると、各地の桜の映像や、卒業式の映像が続いた。
スマートフォンでSNSを開いてみる。昨日も見たような友人の子供やペットの写真が表示された。
窓の外を見てみると、咲きかけの桜が鮮やかな色で道の両端を染めていた。ただそれだけだった。
美穂は何も手につかず、部屋の中で、ただ時間がゆっくりと過ぎて行った。
夕方頃、SNSを開いてみる。達也が今日のランチの写真をアップしていた。美穂はそれを見て一瞬鳥肌が立った。胃の奥に鉛を埋め込まれたかのような感覚が生まれた。
窓の外は段々と暗くなっていく。美穂は部屋の中から動けなかった。
もうすぐ達也が帰ってくるだろう。何かを話す用意をした方がいいのか、それとも部屋から逃げてどこかへ行った方がいいのか。けれど、どこへ行けばいいのだろう。神奈川の実家へ行けばいいと思ったが、そんなことはしたくなかった。ここに残らなければいけなかった。東京のこの部屋に。
やがて、玄関の扉が開いた。
達也はいつもと変わらぬ様子で部屋へと戻ってきた。
「ただいま」
美穂はうまく達也を見られなかった。
「お帰りなさい」
達也はバッグを置くと、テーブルの上に置かれていた美穂が食べたカップラーメンの容器をゴミ箱へと捨てた。蛍光灯で照らされた部屋の中に、夜の闇のような冷たい空気が満ちていた。
「シャワーを浴びるよ」
達也は独り言のように言うと、すぐにバスルームに向かった。
美穂は部屋の壁を見つめたまま、シャワーの音を聞いていた。
達也はシャワーを浴びながら、デパートで買ってきた冷製パスタと一緒にビールを飲もうか、それともワインを飲もうか考えていた。
美穂は胃の奥に巨大な鉛を埋め込まれた感覚が強くなり、それは全身へと広がっていった。
達也はシャワーを終えて美穂のいる部屋へ戻ると、冷製パスタと一緒にビールをテーブルに置いた。
沈黙の中、ビールを開ける音とパスタを食べる音が所在なさげに部屋に響く。達也も美穂も時折何か話すが、その言葉もすぐに沈黙に飲み込まれた。
「ここにいてもいい? ここにいたいの」
美穂は部屋の中を見渡してそう言った。
「うん、いいよ」
達也のその言葉もすぐに、沈黙に飲み込まれていった。
美穂と達也は今までと同じように二人で眠った。
美穂が今までと同じように目を覚ますと、達也は隣にいなかった。見慣れないスーツを着て部屋を出て行こうとする達也の後ろ姿があった。
どこに行くの? 行ってらっしゃい。
美穂がそう言う前に、もう玄関の扉は閉められていた。
部屋の中には美穂だけが残された。
美穂はテレビをつけようとして、やめた。何か食事をとろうかと思ったが、やめた。扉が閉められた部屋の中には空虚さが満ちていた。
そのまま時間がただ経っていった。美穂が何かをしようとすると、部屋の中の空気が体に重くのしかかった。
スマートフォンから、予定のあることを告げるための音が鳴った。その音は部屋の中に漂って、行き場なく消えてゆく。美穂が動こうとする気持ちも同じように溶けていってしまう。
夜になっても達也は戻ってこなかった。
二十四時近くなり、美穂が電気を消そうかと思う頃、扉が開いた。
「おかえり」
美穂は達也を見ていた。
「ただいま」
達也はスマートフォンの画面を見ていた。
「お酒飲んでたの?」
達也の体からはアルコールの匂いがした。
「会社で歓迎会があったんだ」
「何か食べる?」
「食べてきたから大丈夫だよ」
美穂は自分も何かアルコールでも飲もうかと考えていた。
達也は明日の予定のことを考えていた。
部屋の中にそれぞれの思いと声が漂った。それは二人が眠っても消えずにそこにあった。達也と美穂は同じベッドで体を触れ合わさずに眠った。
翌朝、達也は美穂よりも早く起きると、美穂を起こさないように準備を終えて扉を開けて外へと出た。
美穂は扉が閉まる音で目を覚ました。部屋の空虚な空気の中に、微かに自分たちの思いと声が存在していることに気付いた。
美穂はこの部屋での過去の出来事を思い出してみる。ひとつ思い出すことに身動きがとれなかった透明な空気は和らいでいき、部屋に色が少しずつ満ちていくかのようだった。立ち上がって着替えをし、外へ出る準備をした。踊るように体が動いた。
窓から子供の声が聞こえてくる。散りかけのほとんど緑の葉になってしまった桜の中を子供たちが下校していく。
美穂は窓の外を眺めながら、スマートフォンで達也と撮った写真を見ていた。
外が暗くなると、達也が帰ってきた。
「お帰り」
「ただいま」
達也はシャワーを浴びながら小さくため息をついた。
部屋に戻ると美穂の体に触れた。
美穂の皮膚は思わず強張った。久しぶりに触れる達也の体は異質なものへと変化していた。達也は欲望のままに美穂にキスをして抱き寄せた。
美穂は幸せだと感じていた。
達也は悲しいと感じていた。
当たり前のように繰り返されていた行為は、初めての経験であるかのようだった。
美穂はこのまま以前のように戻れるかもしれないと思っていた。
達也は美穂とこの部屋にいるならまたこういうことをしなければいけないのかと思っていた。
行為が終わった後、美穂は手をベッドの中で繋ごうとした。
「仕事は決まりそう?」
達也は伸ばされた美穂の手に気付かないふりをしてそう質問した。
「決まってないよ」
「大学を出て何もしていない期間があると印象悪くなるから何か仕事をした方が良いよ」
「達也は、上手くいってそうだね会社で」
「準備してたから。最初は他の準備していない奴らよりは上手くいくよ」
「何のためにそんなに頑張れるの」
「何のためって、仕事だからね。結局は何かをして働かなければならないなら、条件の良い方に行きたいって思うだけだよ」
「そうだよね、私もそう思うよ」
「だったら、頑張りなよ、応援してるから」
「ありがとう」
美穂は達也の言葉が部屋の中の空虚な空気のように体に重くまとわりついてくると感じた。
美穂は達也に抱かれた後にいつもかける言葉を思い出して、声に出した。
「この部屋にずっと一緒にいようね」
「え」
「約束」
達也は美穂から目を逸らした。
美穂は達也が次に言う言葉を聞きたくないと思った。
「僕達はもう別れたんだよ」
「どうして。約束したのに」
美穂が小学二年生のとき、授業中に教師が教壇から「約束は絶対に守ることを約束してください」と言った。
美穂はどうしてそんな当たり前のことを言うのか不思議に思ったので手を上げた。
「先生は約束しないと約束は守れないのですか?」
美穂がそう言うと、教室にいた生徒達が笑った。教員もそれに合わせるかのように笑っていた。美穂はどうして笑われているのか分からなかった。
美穂が高校一年生のとき、クラスの男子生徒から、話したいことがあると言われ、学校の近くの喫茶店で待っていてほしいと指定された。
「少し遅くなるかもしれないけれど必ず行くから、約束する」
「分かった、私も必ず行って待っているから、約束するね」
そうして、美穂は約束をした。
学校が終わり、美穂は一人で自転車に乗って喫茶店に向かった。坂道でスピードが早まると少し肌寒かった。コートを着てくればよかったと思った。喫茶店には五分も経たずに着いた。美穂はこの店に過去に一度、クラスメイトと来たことがあった。一軒家に喫茶店の看板を付け足したような外観と、初老の女性店員の家庭的な雰囲気に惹かれず、一度来たきり訪れていなかった。
美穂は店の駐車増の端に自転車を停め、木目調にデザインされた鉄製のドアを開けた。店内には四人掛けのテーブルが六つ置かれていて、一組だけ女性同士の客がいた。男子生徒はまだいなかった。美穂は入口から一番奥の席に座り、テーブルに置かれていたメニューを眺めた。しばらくすると、初老の女性定員が注文を聞きに来たので、コーヒーを頼んだ。
コーヒーを飲みながら、もう一組の女性同士の会話が耳に入ってきたが、子育ての話ばかりで内容は全く頭に入ってこなかった。バッグからスマートフォンを取り出して画面を見て時間を潰した。
コーヒーを飲み終えても、男子生徒は来なかった。
女性同士の客が帰り、入れ替わるように四人組の女性客が入ってきて、また同じように子育ての話題を始めた。さっきの客よりも声が大きかったが、相変わらず内容は頭に入ってこなかった。
美穂は追加でコーヒーを頼んだ。男子生徒に連絡を取りたかったが、連絡先が分からないことに気付いた。
二杯目のコーヒーを飲み終えてしまったので、水を飲んで待った。スマートフォンの電池が切れそうだった。バッグの中を見てみたが本は持って来ていなかったので、店内に置いてあった古い雑誌を繰り返し眺めた。
美穂は空腹に耐えられず、サンドイッチを頼んで食べた。
女性の四人組は帰り、店内には美穂だけになった。男子生徒は来なかった。厨房の奥から店員が美穂の席へとゆっくりと近づいて来た。
「今日はそろそろ閉店となりますので」
「私、友達とここで待ち合わせの約束をしているんです」
「いつも本当ならもう閉めてしまう時間だから、もしかしたらお店を間違っているとかはないでしょうか」
「この近くに喫茶店、他にありますか? 喫茶店で待ち合わせの約束をしたんです」
「ここの近くには喫茶店はうちだけですね。車に乗らないとないですよ、他には」
「そうですか」
「お店をもう少し開けていてあげたいのだけど、私は今日この後予定が入ってしまっているので、申し訳ないけれど閉めないといけないのです。よかったらまた来てください」
店員は申し訳なさそうにそう言い、美穂のテーブルの上の食器を片付けた。
美穂は男子生徒が来た際に気付けないといけないと思い、喫茶店の駐車場で待つことにした。車二台分のスペースがある駐車場には、美穂の自転車だけが停まっていた。
喫茶店の電気が消えると、あたりは闇に包まれた。街灯と、目の前の道路をたまを通る車のライトがアスファルトを照らした。スマートフォンは電池が切れてしまった。空気は急に冷たくなり、時間が経つにつれて美穂は体から体温が消えていくように感じた。コートを着てくれば良かったと思った。道端の自動販売機に行き、温かい紅茶を買って掌と首筋に押し当てるようにして美穂は寒さに耐えた。
道路を走り去る車の数は減っていった。美穂はずっと立っていたので足の裏が痛くなり、駐車場の車止めの上へと腰かけた。
時刻は何時になっただろうか。何時間経ったのだろう。美穂は寒さと眠気で意識が朦朧としていた。遠くから久しぶりに車の音とライトが近づいてきた。近づいてきた車は喫茶店の駐車場に入ってきて、美穂は正面からライトで照らされた。急な光に目を細めて見るとそれは警察車両で、中から警察官が二名降りてきて、美穂は車に乗せられた。
「友達とここで待ち合わせの約束をしているんです、降ろしてください」
美穂はそう言ってドアを開けようとしたが何故かドアは開かず、車は走り出した。家へと着くまで、美穂は何度も降ろしてほしいと伝えたが、警察官は相手にしてくれなかった。
「何をしていたの」
警察官の車に乗せられて家に帰ると両親がまだ起きていた。両親の口調は今にも怒り出すか泣き出すかしそうな、不安にさせる声だった。
「友達を待っていたの」
「こんな時間に?」
「私、戻らないといけない。まだ待っていないと」
「何を言っているの?」
両親はいつもと違う目で美穂を見た。美穂はこの両親の表情に見覚えがあった。数日前に窓から家の中に見たことがない鳥が入ってきてしまったことがあった。鳥はすぐにまた窓から外に出て行ったのだが、その鳥を見ていたときの表情にそっくりだった。それが今、美穂に向けられていた。
翌朝、美穂はいつもよりも早く家を出て、喫茶店へと向かった。店はまだ開いておらず、駐車場には車もなく人もいなかった。美穂は学校が始まる時間まで、駐車場で昨日と同じように男子生徒を待っていた。
学校へ行くと、男子生徒は席に座っていた。美穂は男子生徒の席へと行き、声をかけた。
「ごめんなさい。待っていたのだけれど、夜になって警察に家に連れていかれちゃって」
男子生徒は持っていたスマートフォンをテーブルの上へと置いた。
「連絡をしたかったんだけど、連絡先が分からなくて。ちょっと事情があって行けなかったんだ。今日改めて、同じ場所で会おうよ」
美穂は何も言わずに男子生徒を眺めた。沈黙が続いた。男子生徒は昨日までと違い、美穂と無関係に目の前に存在しているように思えた。
「何? どうしたの」
声も、姿も、色を失っていっているように美穂には感じられた。男子生徒の体だけでなく、彼のまわりの空気にまでそれは広がっていった。色のない空気は重みすら感じさせ、美穂はふいに恐ろしくなった。
「私は今日は行かない」
「どうして」
「君のことが人間に見えなくなった」
男子生徒とは、それ以来会話をしなかった。だけど、色を失ったまわりの空気は今もまだ広がり続けていて、消えない。
達也は朝に家を出る時間が早くなった。どうしたのかと美穂が聞くと、早朝の勉強会に出る、と言った。休みの日も以前は家にいることが多かったが、必ず外出するようになっていた。どこに行くのと美穂が聞いても教えてくれなくなっていった。
達也が予定をこなしに出て行ってしまった部屋の中で、美穂は気を紛らわすためにテレビをつけて見るでもなく見つめていると、スマートフォンが鳴った。大学で知り合った友人の香奈からメッセージが届いた。
“何してるの?”
“暇してる”
“今からそっち行くね”
“うん、いいよ”
美穂は二週間ぶりに達也以外の人間と会うことになった。
美穂と香奈は近くの店でランチを食べて、喫茶店で紅茶を飲んだ。
「何で連絡をくれなかったの」
「どういうこと」
「私、メッセージ送ってたのに」
紅茶を飲みながら香奈にそう言われ、美穂は香奈からのメッセージを返し忘れていたことを思い出した。
「ごめん」
達也と別れて余裕がなかったことを伝えた。香奈はそれを聞くと、憤りを含んだ表情で言い放つ。
「私が思うに、美穂が仕事もせずに家でウジウジしているのが問題だね。逆に言えば、美穂がしっかりすればまだ改善の余地はあるはずだよ」
紅茶を飲み終えた香奈は、テーブルの上の水を一息に飲み干す。
「私は、そんなことですぐ変わるなんて思いたくないけど」
「それは美穂の考えが甘い。環境によって価値観なんてすぐ変わるんだから。だってもし立場が逆だったらどう思うの。このままじゃ収入もない男を抱えて面倒見て行かないといけなくなるんじゃないかって心配でしょ」
「私は、それでもいいよ」
「呆れた」
香奈は、職業相談の窓口は卒業後も一定期間利用できることを美穂に教え、喫茶店を出て一緒に大学に行き面談などの予定を登録してくれた。
「とにかく頑張るんだよ、応援してるから」
別れ際に香奈はそう言い、美穂の肩をたたいた。