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『ひとすじのノート』の背景について

    『ひとすじのノート』は、日々の断想を記していくための小さな場所です。

    このノートは、ある一冊の本から大きな影響を受けています。それが、藤木正三師の『灰色の断想』です。

    『灰色の断想』との出会い

    『灰色の断想』は、現在では絶版です。古書店で探すことも困難ですが、このページで全文を読むことができます。

    私がこの本と出会ったのは、およそ20年前のこと、確か、教会の本棚にあったものでした。

    初めてこの本に触れたとき、私は、その静かな語り口に打たれました。

    「断想」と題されていながら、その思索は決して気まぐれなものではありません。

    そこには、聖書とキリスト教の信仰に根ざした深い思索があります。けれど、宗教的な言葉で読者を威圧するようなことは決してありません。むしろ、そのような要素を可能な限り排しながら、問われる我が身としてひたすらに応答し続ける、静けさがありました。

    「無限の添削」

    藤木師の文章の魅力は、優しさと厳しさが共存しているところにあります。その優しさは、人間を追い詰めないことに表れています。けれどその一方で、甘やかしもしないという厳しさがあります。

    たとえば、「人間の構造」という題の文を読んでみます。

    生きているのがいやになるような筋の通らないことが多くあります。矛盾、混乱、何とはなしに明白ではないのです。明白を求めたい。矛盾の中に沈黙するよりは、納得できるまで明白を求めて問い続けたい。しかし、問い続ければいつかは必ず、何もかも明白になると思うのは幻想であります。問うばかりではなく、実は問われている面が、深く人間にはあるからです。問うても、告発しても、明白にはならない現実の中で、人は限界を嘆くよりは、人間の構造への無理解に気づくべきでありましょう。人は、問うよりも問われているものなのであります。

    藤木正三『灰色の断想』より、「人間の構造」

    私たちは「自分が問われる」とはよく言いますが、それでも「人は、問うよりも問われているもの」と言われてしまうと、反発したくなるのではないでしょうか。

    しかし、「問い続ければいつかは必ず、何もかも明白になると思うのは幻想」であることの気づきを、師は待っているのです。「問い続ければいつかは必ず、何もかも明白になると思うのは幻想」であると気づいてしまったとき、今度は、その反発を黙させるものを、感じはしないでしょうか。

    「出会ってしまった者」の責務

    昨日から書きはじめた「ひとすじのノート」には、藤木師の言葉から受け取った影響が色濃く反映されていると、自分では思います。

    世の「正しさ」を疑い、正しさを主張する資格のない者であることを弁える。
    極端な断言は避け、曖昧さを許しながらもそれに逃げることをしない。
    気づきを、彩色せずに差し出す。
    そして、自分自身に問われていることがらへ、淡々と応答しつづける。

    このノートが、誰かの役に立つかどうかはもちろんですが、自分の役に立つかどうかも、分かりません。そして、書き切ることができるかどうか、それも分かりません。おそらくは難しいでしょう。それこそ「問い続ければいつかは必ず、何もかも明白になると思うのは幻想」なのですから。

    それでも書くのはなぜなのか、正直に書くと、やはり、よく分かりませんが、おそらくは、「出会ってしまった者の責務」だと思うのです。

    『灰色の断想』の「青春」の書き出しを引用します。

    青春とは凝縮した人生なのです。だから、人生のすべてを見てしまったような経験を、若い日に誰しも持つはずなのです。

    藤木正三『灰色の断想』より、「青春」

    20年前といえば、青春時代ではありました。ですからこのとき「出会ってしまった」ということは、「人生のすべてを見てしまったような経験」をしたということなのでしょう。

    このノートを書きはじめるまでには、20年という時間が必要だったのですが、それも含めて、このノートを書いていくことが、人生なのかもしれません。

    「前提」を確認する

    このノートを書き続けてもおそらく、何も解決はしないでしょう。ですから、何かの解決を求める人にとっては、無益なノートに見えることでしょう。

    しかし、有益か無益かではない、別のものさしがあるというそのことを、私たちは実は否定できません。否定の言葉を紡ぐことは造作もないことですが、その言葉通りにすること——すなわち、有益か無益かだけですべてをはかり切るということは、きっと、できません。

    最後に、藤木師の「警告」ともいえる「祈り」を引用します。

    祈ったところで現実は少しも変らないではないか、それよりは具体的行動を起こすことこそ祈りではないか、とよく批判されます。しかし、これは祈りに対する誤解であります。祈りは問題解決の手段ではなく、問題の渦中で自分が失われないように自分を守ることなのです。具体的に効果があるか否かという観点だけで現実の諸問題に直線的に対応していると、人は平板に拡散してゆくものです。この拡散に抗して、人間として自分を守る凝縮作用が祈りであります。祈りは問題解決の手段ではなく、実はその前提であるのです。

    藤木正三『続 灰色の断想』より、「祈り」

    「有益な情報を提供する」ことは、このノートの意図ではありません。このノートは、私なりの祈りをあらわし、私の前提を確認するノートであり、自分を失わないようにと編んでいる糸であるのです。

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    『灰色の断想』は、いまも教会の本棚にあります。

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    1975年東京生まれ、武蔵野在住。セキュリティエンジニア。剣道三段。プロテスタントのクリスチャン。Mastodon.Tokyo管理人。本や仕事、AI、信仰について、考えたことを言葉にしています。流行よりも、自分が納得できる文章を書きたいと思っています。投稿はすべて個人の見解です。

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