
労働力を資産に変える仕事論 ──#1「あの人がいないと回らない」はリスクである
はじめに
このマガジンでは、
「労働力は、本当に費用なのか。それとも資産に変えられるのか」
という問いを、八回にかけて一緒に考えていきます。
たとえば、あなたの職場にもありませんか。
誰も中身を説明できないのに、なぜか毎月使われているExcel。
その人がいないと、なぜか前に進まない業務。
退職したあとになって初めて「あの人、すごかったんだ」と気づく仕事。
第一回は、どの職場にもいる「あの人」の話から始めたいと思います。
「あの人がいないと回らない」
この言葉、聞いたことがありますよね。
一見すると、ほめ言葉です。
頼られている。
必要とされている。
会社に欠かせない人だと思われている。
でも、M&Aや企業価値評価の現場を長く見ていると、この言葉は、少し違って聞こえてきます。
「あの人がいないと回らない」
それは、ほめ言葉であると同時に、重大なリスクでもあるのです。
一 「山田さんのエクセルシート問題」

「あの、中期経営計画のデータは、どこにありますか」
経営企画部に配属されたばかりの社員が、そう尋ねます。
「中計データ? ああ、それは経理部の管理会計チームじゃない?」
「それ、山田さんのエクセルシートのことですね」
ようやく、名前にたどり着く。
経理部に行く。
「山田さんは、どちらに?」
先輩社員が、少しだけ目を伏せて言います。
「山田さん? ……もう、いないわよ」
会社の中期経営計画が、
もう社内にいない一人の人物が作ったエクセルファイルの上で、いまも回っている。
これは、笑い話ではありません。
私がM&Aの実務で、中小企業から上場企業まで、何度も見てきた、ごく普通の光景です。
二 属人化した中期経営計画は、見えない爆弾
山田さんは、優れたオペレーターだったのだと思います。
それは、間違いありません。
事業ごとの原価。
拠点ごとの収益配分ルール。
将来予測のロジック。
事業ごとの連結パッケージの癖。
海外拠点から上がってくる数字のズレ。
経理担当者ごとの為替予約の処理の癖。
過去の予算会議で決まった暗黙の前提。
役員が気にする数字。
現場が絶対に譲らない数字。
そうした経験知を、山田さんは長い年月をかけて、一枚のエクセルシートに作り込んでいった。たぶん、最初は小さな改善だったはずです。
この集計を早くしたい。
この転記ミスをなくしたい。
この配分ルールを自動化したい。
この資料を、毎月少しでも早く出したい。
目の前の仕事を、少しでも正確に、少しでも早く、少しでも現場に迷惑をかけないように。
そうやって積み上げた工夫が、いつの間にか会社全体の中期経営計画を支える仕組みになっていたのです。
山田さんは、自分が会社の無形資産を作っているとは、思っていなかったかもしれません。
ただ、目の前の仕事をちゃんとやろうとしていただけだった。
でも、その積み重ねは、会社にとって明らかに価値でした。
問題は、その価値が、山田さんの頭の中と、エクセルのマクロの中にしか残っていなかったことです。
引き継がれたのは、ファイルだけ。
引き継がれなかったのは、判断の理由です。
なぜ、その配分ルールなのか。
なぜ、その係数なのか。
なぜ、その事業部だけ例外処理があるのか。
なぜ、そのマクロは、その順番で実行しなければならないのか。
誰も、説明できない。
そして、それを知っていた唯一の人物、山田さんは、もういない。
ここに、三つのリスクが浮き彫りになります。
一つ:山田さんがいないと、マクロが複雑すぎて、誰も更新できないこと。
二つ:事業部と本社のパイプラインが属人化してしまうこと。
三つ:山田さんのエクセルシートを「持っている」というだけで、後継者が特権的な存在になること。つまり、既得権益化してしまうことです。
「だったら、新しいツールを入れればいい」
そう思うかもしれません。
実際、多くの会社が、そうします。
RPAを入れる。
BIツールを入れる。
クラウド会計を入れる。
新しいシステムを導入する。
でも、たいてい途中で気づきます。
ツールを入れても、現場の業務はそれほど改善されない。
むしろ、現場の負担が増える。
なぜなら、山田さんのエクセルマクロが、すでにRPAと同じ役割を果たしていたからです。
そして、既得権益者から反発が始まり、RPA導入計画はとん挫するパターンに陥ります。
問題は、ツール機能ではありません。
価値が、一人の人間に、属人的に貼りついていたこと、です。
属人化とは、「会社がまだ名前をつけていない資産」です。
名前をつけていないから、管理できない。
管理できないから、引き継げない。
引き継げないから、ある日突然、リスクになる。
山田さんのエクセルシートは、ただのファイルではありません。
それは、見えない爆弾です。
三 なぜ、山田さんの価値はどこにも記録されないのか
ここで、ひとつの問いを立てたいと思います。
山田さんは、会社にとって、これほど重要でした。
山田さんがいなくなったあとも、会社の中期経営計画は、山田さんの作ったエクセルシートの上で動いている。
では、山田さんの価値は、会社の帳簿のどこに記録されているのでしょうか。
答えは、残念ながら、どこにもありません。
あなたの会社のオフィスにある机やPCは、資産ですよね。
貸借対照表、つまりB/Sに、資産として計上されます。
そして、何年もかけて、少しずつ費用になっていきます。
これが減価償却の仕組みです。
一方、山田さんに支払われていた給与は、人件費です。
損益計算書、つまりPLの費用の行に載ります。
費用は、その期に使われ、消えます。
来期の帳簿には、残りません。
机やPCは、資産。
山田さんは、費用。

つまり、山田さんが十年かけてエクセルシートに積み上げてきた経験知は、会計上、一円も資産として記録されていないのです。
これは、誰かがミスをしたという話ではありません。
会計のしくみが、もともと、そうできているのです。
複式簿記の原型が整理されたのは、十五世紀のヴェネツィアだと言われています。
当時の経済の中心は、地中海貿易でした。
船、商品、倉庫、現金、債権、債務。
こうしたものは、帳簿に記録しやすい。
一方、雇われた船員の労働は、航海一回分の役務でした。
航海が終われば、関係も終わる。
その場限りの投入物として扱われる。
継続的に価値を生み続ける働き手を、資産として記録する。
その発想は、この会計の器には、最初から入っていませんでした。
今も、五百年前に設計された器で、山田さんを測っています。
だから、山田さんは見えない。
山田さんの努力も、判断も、改善も、引き継ぎ不能なマクロも。
それらは会社を支えているのに、会計上は、まるで存在しなかったかのように扱われる。
ここに、私は少し、悔しさを覚えます。
山田さんは、たぶん、会社を少しでもよく回そうとしていた。
現場の混乱を減らそうとしていた。
経営会議に間に合うように、毎月数字を整えていた。
その誠実な仕事が、仕組みとして残らなかった。
価値として記録されなかった。
そして、山田さんがいなくなったあと、会社はようやく気づくのです。
「あの人は、費用ではなかった」と。
四 ところが、M&Aの現場では、真逆のことが起きている
私は、M&Aの実務を長く見てきました。
会社を売買する現場です。
M&Aでは、買収前に対象会社の事業を詳しく調べます。
これをビジネスデューディリジェンス、略してBDDと言います。
BDDでは、マネージャーインタビューを行います。
そこで、事業現場の日々のオペレーション内容をヒアリングします。
通常は、一般的な事業概要を述べるに留まるのが通例です。
すると、意外なことが起きます。
マネージャーであっても、「誰が、どの仕事を、どの役割で、どのように」まで聞くと、すぐには答えられないことが少なくありません。
もちろん、マネージャーが怠けているという話ではありません。
それだけ、現場のオペレーションノウハウは、日々の業務の中に深く埋もれているのです。
私はそこに、M&Aで見落とされやすい価値の源泉があると感じてきました。
だから、私は、オペレーションノウハウや知識が「属人的か、マニュアル化されているか」を入念にヒアリングしました。
なぜなら、会社の中では費用として扱われていた人の知識やノウハウが、会社を売買する瞬間に、突然、価値として浮かび上がるからです。
買収価格と、帳簿上の純資産価格との差額。
その差額の名前を、のれん(Goodwill)と言います。
もちろん案件によって中身は違います。
しかし、私の実務感覚では、そののれんのかなり大きな部分は、結局のところ人的資本に帰着します。
ブランド、顧客基盤、技術、取引関係など、のれんを構成する要素は複数あります。ただ、それらを実際に動かし、維持し、更新しているのは、最終的には人の判断とオペレーションです。
経営者の判断力。
社員の技能。
チームの暗黙知。
顧客との関係。
現場の改善力。
属人的に蓄積されたオペレーションノウハウ。
これらは、全て財務諸表には現れません。
しかし、優れた買い手は、それを見ています。
帳簿上の純資産だけを買っているわけではありません。
その会社が、なぜ利益を出せているのか。
その利益は、誰の力で支えられているのか。
キーマンが辞めても、同じように回るのか。
顧客との信頼は、会社に残るのか。
ノウハウは、仕組みとして移転できるのか。
優れた買い手は、ここを見ています。
つまり、M&Aの現場では、山田さんのような人物こそが、最大の評価対象になることがあります。
「あの人がいないと回らない」は、買い手にとって、契約書で守るべき資産の名前なのです。
会社の中では、費用。
買収の現場では、資産。
同じ山田さんが!、です。
立っている場所が違うだけで、値段がゼロから数千万円、場合によっては数億円まで動く。
ここに、会計と価値評価の間にある大きな曖昧さがあります。

会計は、山田さんを費用として処理する。
でも、価値評価は、山田さんのノウハウを企業価値の一部として見に行く。
このズレを見つけること。
そして、そのズレをリスクではなく、交渉や価値評価の強みに変えること。
それが、私がM&Aの現場でずっと向き合ってきたテーマです。
五 「いないと回らない」を、リスクから資産に変える
では、どうすればいいのでしょうか。
答えは、山田さんをいますぐ高給で縛ることではありません。
もちろん、重要人材に正当な報酬を払うことは大切です。
でも、それだけでは問題は解決しません。
本当の第一歩は、もっと手前にあります。
山田さんのエクセルシートを、普段から開けることです。
ブラックボックスになったマクロを解読する。
配分ルールを言葉にする。
山田さんの頭の中にあった判断の理由を書き出す。
どの数字が、どの事業の実態を反映しているのかを整理する。
誰でも検証できる形にする。
次の人が使える形にする。
これは、地味です。
華やかなDXではありません。
新しいAIツールの導入でもありません。
プレスリリースに載るような改革でもありません。
でも、これこそが本質です。
山田さんのエクセルシートである限り、そのノウハウは山田さん個人に帰属しています。
それを解読し、言語化し、組織の仕組みとして作り直したとき、はじめてその価値は、会社に帰属する資産になります。
属人的なものを、組織のものへ。
見えないものを、見えるものへ。
消えていく費用を、積み上がる資産へ。
これが、労働力を資産に変えるということです。
システムを刷新するにも、予算がいります。
その予算を通すには、費用対効果を示さなければなりません。
そのときに必要になるのは、たったひとつの考え方です。
このオペレーションは、タダではない。
収益を生む資産だ、という考え方。
リスクと資産は、まったく別のものではありません。
見えているか、いないか。
属人的なままか、組織のものになっているか。
価値として説明できるか、できないか。
その違いだけです。
見えないままなら、リスクです。
見える形にすれば、資産になります。
六 あなたの職場の「山田さん」は、誰か
労働力という資産が、なぜ見えなくなるのか。
その原因を、会計、分類、市場、言葉、数字、交渉という角度から、一つずつ見ていきます。
そして最終回では、見えなくなった価値を、もう一度きちんと扱うための地図「15マス曖昧論点表」にたどり着きます。
まずは、第一歩です。
あなたの職場の「山田さん」を、思い浮かべてください。
中期経営計画のエクセルシートかもしれません。
特定の顧客とだけ話せる営業かもしれません。
トラブルのたびに呼ばれる技術者かもしれません。
昔からあるAccessのデータベースかもしれません。
誰も触れないマクロかもしれません。
退職した人しか知らない配分ルールかもしれません。
その人は、会社の宝でしょうか。
それとも、見えない爆弾でしょうか。
答えは、ひとつです。
その人の価値が、見えているか、いないか。
それだけで決まります。
そして、ここでもう一歩、問いを進めたいと思います。
あなた自身は、どうでしょうか。
あなたの日々の仕事は、ただの「労働」として流れて消えているでしょうか。
それとも、継続的に価値を生む「労働力」として、少しずつ積み上がっているでしょうか。
労働と、労働力は違います。
労働とは、その場で提供される作業や役務です。
資料を作る。
会議を調整する。
顧客に対応する。
トラブルを処理する。
数字を集計する。
それ自体は、とても大切な仕事です。
しかし、そのままでは、会計上も組織上も、費用として流れて消えやすい。
一方、労働力とは、継続的に価値を生む力です。
なぜ、その資料が経営判断に効いたのか。
なぜ、その会議で合意形成が進んだのか。
なぜ、その顧客対応で解約リスクを下げられたのか。
なぜ、そのトラブルを未然に防げたのか。
なぜ、その数字の違和感に気づけたのか。
この「なぜ」を棚卸しし、言語化し、見える化したとき、単なる労働は、労働力に変わり始めます。
最後に、あなた自身に質問です。
あなたの労働を、労働力に変えるために、次の棚卸しをしてみてください。
七 あなたの労働を、労働力に変えるチェックリスト
ここでは、難しい理論はいりません。
まずは、自分の仕事をひとつ選び、次の項目にチェックを入れてみてください。
□ いま自分が日々行っている作業を書き出しましたか。
□ その作業が、誰の意思決定を助けているか説明できますか。
□ その作業が、どのリスクを減らしているか説明できますか。
□ その作業が、どの売上・利益・信頼・時間短縮につながっているか説明できますか。
□ その作業の判断基準を、他の人に説明できますか。
□ 自分がいなくても再現できる手順に落とし込めていますか。
□ そのノウハウは、エクセル、メモ、マニュアル、テンプレートなどに残っていますか。
□ その価値は、上司・顧客・チームに伝わる言葉になっていますか。
□ その仕事は、単なる作業名ではなく、価値の言葉で言い換えられていますか。
□ その労働力は、あなた自身の資産としても積み上がっていますか。
たとえば、
「資料作成」ではなく、経営判断を早めるための論点整理。
「会議調整」ではなく、部門間の認識ズレを減らす合意形成設計。
「顧客対応」ではなく、解約リスクを下げる信頼維持活動。
「エクセル管理」ではなく、事業の収益構造を見える化する管理会計オペレーション。
言葉に書き換えた瞬間、あなたの仕事は、ただの労働ではなくなります。
労働が、労働力に変わる。
そして、労働力は、資産に変えられる。
あなたの職場の「山田さん」は、誰でしょうか。
あなた自身は、誰かにとっての「山田さん」になっていないでしょうか。
もしそうなら、その価値を、あなたの頭の中だけに閉じ込めてはいけません。
棚卸しする。
言語化する。
見える化する。
仕組み化する。
再現可能にする。
そこから、労働力の資産化は始まります。
労働力を、費用で終わらせない。
その第一歩は、あなた自身の労働を、労働力に変えることです。
山田さんのエクセルシートは、特別な話ではありません。
どの職場にも、まだ名前のついていない価値があります。
そして、あなた自身の仕事の中にも、まだ名前のついていない価値があるはずです。
あなたの仕事は、まだ費用のままでしょうか。
それとも、明日から資産に変えられるでしょうか。
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