
【十五の曖昧】Ep.01 退職勧奨(前編)|78億円の退職勧奨日
あらすじ:その日、佐藤愛は、自分の会社が七十八億円で売られることを、まだ知らなかった。そして、九十五億で売れるはずだった会社が、十七億削られて七十八億に落ちたことも。
二〇二六年四月十四日、火曜日、午前八時五十七分。
『十五の曖昧――労働力を資産に変える女・佐藤愛』、開幕。
一 会社の値段
この日、佐藤愛はまだ知らなかった。
自分の会社が七十八億円で売られることを。
そして、その数字の背後で、本来そこにあったはずの十七億円が、誰にも気づかれずに消えていくことを。
二〇二六年四月十四日、火曜日。午前八時五十七分。
東京都港区虎ノ門、虎ノ門ヒルズ森タワー三十四階。株式会社アイリス・ネットワークス本社、執行役員会議室。佐藤愛(さとう・あい)は、会議卓の末席で、プロジェクターの投影を見ていた。
白いスクリーンに映っていたのは、会社の未来ではなかった。
会社の値段だった。
白いスクリーンに、一枚のスライド。
当社の株式譲渡契約締結について
譲渡先:合同会社グリーンスフィア・キャピタル
譲渡価額:七十八億円
クロージング予定:二〇二六年六月三十日
佐藤は、右手に握っていたボールペンをそっと下ろした。A4のコピー用紙の上で、インクの先が点になって止まっている。
二十六歳。経営企画部員。入社四年目。昨年度から執行役員会議の議事録担当を兼務している。その役割で、この場にいる。
先月末に依頼された「中期経営計画レビュー案」はまだ作り終えていない。今朝までに最新ドラフトを部長に提出するつもりで、昨夜は終電で帰った。資料には、二〇二七年度の売上目標として百二十八億円という数字が書かれていた。
それが、今、無意味になった。
社長の三宅が壇上で、マイクを持たずに話している。肉声が、カーペットに吸われて、やけに小さく聞こえる。
「グリーンスフィア・キャピタルさんは、弊社の技術とブランドを高く評価してくださり……」
その先の言葉を、佐藤はうまく聞き取れなかった。音としては入ってくる。しかし、意味が繋がらない。
七十八億円。
それは、会社についた値段だった。
けれど佐藤には、その数字が何を測っているのか、わからなかった。
顧客との十五年の関係なのか。
深夜に障害対応を続けてきた技術者の手なのか。
それとも、来月には席を失うかもしれない自分たちの残り時間なのか。
そのうちのどれだけが、誰に、いつ、どう渡るのか。
そして、自分たちはどうなるのか。
その二つの問いに、社長の言葉は一つも答えていなかった。
二 削られた十七億円
同日、午前十一時十五分。経営企画部、九人用の島型デスク。
「佐藤さん、ちょっと」
呼ばれて顔を上げると、直属の上司である経営企画部長の佐伯が立っていた。白い長袖シャツの袖口が、少しだけ皺になっている。
会議室ではなく、パーテーションで仕切られた打ち合わせスペースに連れていかれた。壁の向こうから、開発部の若手が笑い合う声が漏れてくる。普段は気にならないその声が、今日は妙に遠かった。
「七十八億の件、もう聞いたよね」
「はい」
「あれ、実は去年の暮れから動いてたんだ」
佐藤は黙っていた。
「で、買い手のデューデリ──社内ではDDって言うんだけどね、それが三月半ばから入ってた。財務、法務、人事。あと、技術資産の精査。うちから対応したのは私と、役員と、経理の二名。あとは、外部の弁護士とFA」
「FA、というのは」
「ファイナンシャル・アドバイザー。売り手側についてくれた、M&Aの専門家。大手町のブティック系の会社で、担当者は四十代の女性だった」
佐伯は、そこで一度、言葉を切った。
「それで、今日呼んだのはね」
「はい」
「佐藤さん、議事録担当ってこともあって、この半年の経営資料、全部見てたよね。中計も、KPIも、顧客別の粗利も」
「……はい」
「そこ、買い手のDDで、いちばんもめた部分なんだ」
佐藤は、佐伯の顔を見た。眼鏡の奥で、佐伯は自分の手元のメモに視線を落としている。
「君の中計ドラフトね、あれ、売り手FAがそのまま買い手に提出したんだよ。交渉の材料として」
佐伯は、そこで一度、声を落とした。
「売上百二十八億円、営業利益十二億円。君が組んだその数字を見て、買い手は最初、九十五億を提示してきた」
「九十五億」
佐藤は、その数字を小さく繰り返した。
自分の書いた表が、いつの間にか、会社の値段になっていた。
「でも、DDが進むにつれて、数字は削られていった。最終的には、七十八億」
十七億円。
佐藤の中で、その数字が、重たい硬貨のように落ちていった。
九十五億円の会社が、七十八億円の会社になった。
その差額の中に、自分の名前が入っている気がした。
「削られた十七億は、主に三つだ」
佐伯は、指を三本立てた。
「一つ目は、社長の別荘管理費。福利厚生費に入っていた。これは収益力の水増しとして引かれた」
「二つ目は、設備投資計画。将来FCFの前提が甘かった。これも引かれた」
「三つ目は、大口顧客三社の契約更新リスク。更新される保証が取れていなかった」
「──ADD-BACK、ですか」
「言葉は知っている。でも、実務ではそれが、人の会社の値段を落とす」
「はい」
佐伯は、メモを閉じた。そして、顔を上げた。
「佐藤さん、君、技術部の派遣契約にカウントされてる二人、知ってる?」
「……石田さんと、藤岡さんですか」
その二人の名前は、すぐに出た。
石田は、夜中の障害対応で何度も開発部に泊まり込んでいた。藤岡は、顧客別粗利の数字が合わない時、佐藤にログの見方を教えてくれた人だった。
「そう。あの二人、今年度中に契約終了になる予定だった。それを買い手のDDで『雇用安定性リスク』として指摘されて、さらに一億五千万、買値が下がった」
一億五千万。
石田と藤岡の名前が、リスクという言葉に変わった。
佐藤は、口の中で何かを言いかけて、呑み込んだ。
「つまりね、佐藤さん」
佐伯は、声を少しだけ落とした。
「うちの会社は、七十八億で売れたんじゃない。九十五億で売れたはずの会社が、十七億削られて、七十八億に落ちた。その十七億は、君が一度も呼ばれなかった会議で、君が知らないロジックで、削られた」
「……」
「そして、削られた十七億のうち、何割かは、君の書いた中計の前提が甘かったせいでもある」
佐藤は、答えなかった。答えられなかった。
佐伯は、微笑むように、しかし目は笑わずに、こう言った。
「今日の午後、人事から呼び出しがあると思う。六月末のクロージング後、経営企画部の半分は、買い手の本社に統合される。残り半分は──まあ、希望退職の対象になる」
「私は、どちらですか」
「後者」
佐藤は、うなずいた。うなずいたこと自体が、自分の意思だったのかどうか、わからなかった。
三 白い面談室
同日、午後二時四十分。人事部面談室。
白い壁、白い机、白い椅子。蛍光灯の下、コピー機の音が隣の部屋から漏れてくる。
人事部長の久米が、一枚の書類を差し出した。
退職勧奨合意書(案)
退職日:二〇二六年六月三十日
退職加算金:月給六ヶ月分
佐藤は、その書類を両手で受け取った。紙が、思ったよりも冷たかった。
「あと、ですね」
久米が、別の一枚を差し出した。
「これは、買い手側のFAさんからのご紹介でして」
「FA、と言いますと」
「買収側のファイナンシャル・アドバイザーです。クロージング前の離職者向けに、再就職支援──というか、業界特化型のコンサルティングを提供するサービスがあるそうで」
佐藤はその紙を見た。
退職面談のご案内
面談者:松原謙吾(まつばら・けんご)
所属:松原総合経営研究所 代表
日時:二〇二六年四月十六日(木)十五時〜
場所:千代田区大手町一丁目 大手町タワー二十八階
「来週の木曜です。強制ではありません。ただ、買い手側がご厚意で案内してくださっているので、時間が合えば」
佐藤は、その紙をファイルに挟んだ。挟みながら、自分でも意外なほど素早く、「行きます」と答えていた。
面談室を出たとき、廊下の時計は午後三時五分を指していた。
▶ 後編へつづく
二日後、佐藤愛は、買い手側のファイナンシャル・アドバイザー・松原謙吾と面談する。なぜ、自分の書いた数字が削られたのか。なぜ、十七億円は、誰にも泣かれないまま消えたのか。答えは、一枚のA4にあった
──五行三列の、十五マス表。
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