メインコンテンツへスキップ

最後の米は、こめかみに銃を突きつけられる 創作大賞2026 エッセイ部門

    茶碗にご飯を盛る。

    おかずを食べながら、米を口に運ぶ。
    当然、米は徐々に減っていく。

    そして最後の一粒になる。

    この最後の一粒、かわいそうすぎる。

    なぜそう思ったのかを説明したい。

    まず、舞台を想像してほしい。

    周囲は壁に囲まれている。
    中央に向かうにつれて地面が低くなっている。

    茶碗だ。

    その中に、何万人もの人間がぎゅうぎゅう詰めになっている。

    これが米。

    そして上空には、ヘリコプターが飛んでいる。

    突然、そのヘリが機関銃を乱射する。

    大量の人間が死ぬ。

    悲鳴。絶望。混乱。

    「次は俺か?」

    生き残った者たちは恐怖する。

    しばらくして、またヘリが来る。

    撃つ。

    また死ぬ。

    これが何度も繰り返される。

    人数はどんどん減っていく。

    そして、最後には二人になる。

    一人は怯えている。

    もう一人は、自暴自棄になっている。

    「どうせ次は俺だろ」

    そんな顔をしている。

    ヘリが来た。

    そして、怯えていた方を、必要以上に撃ちまくった。

    もう一人は、自分の番だと思った。

    だが、ヘリは去っていく。

    なぜだ。

    そこで初めて、そいつは理解する。

    次は、確実に自分だ。

    それまでは違った。

    周りがたくさんいたから、「まだ自分じゃないかもしれない」と思えた。

    だが今は違う。

    次にヘリが来たら、自分が死ぬ。

    確定している。

    逃げ場もない。

    急に吐き気がしてくる。

    でも気絶はできない。

    遠くから、またヘリの音が聞こえる。

    近づいてくる。

    「ああ、ああああああ!!」

    叫び声が響く。

    そして撃たれる。

    私たちは、毎日こんなことをしている。

    最後の一粒にだけ、「確実に自分が死ぬ」という時間を与えている。

    途中で食べられる米たちは、まだ覚悟しなくて済む。

    でも最後だけは違う。

    自分が死ぬことを理解したまま、取り残される。

    だから、最後の一粒はかわいそうだ。

    多分、中国で少しだけご飯を残す文化があるのは、こういう理由なんだと思う。

    そう考えながら、今日も茶碗にご飯をよそった。

    あなたへのおすすめ