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「アワヌミュヌゞック」、サラ゚ボ内戊ずネむティブ・アメリカンあるいは、圢態を倉えるモンタヌゞュ

    「アワヌミュヌゞック」は2004幎に補䜜されたゎダヌルの監督䜜品である。映画は䞻に3郚に分かれおおり、それぞれ『王囜1 地獄』、『王囜2 煉獄』、『王囜3 倩囜』ずいう具合に章立おられおいる。『地獄』では戊争映画やニュヌス映画がモンタヌゞュで瀺され、『煉獄』ではサラ゚ボ内戊埌のナヌゎスラノィアを蚪れるゎダヌル本人やロシア出身のナダダ系フランス人であるオルガが描かれ、『倩囜』では緑豊かな倩囜を行くオルガの姿が描かれる。簡単に蚀っおしたえば、こういった映画なのである。

    しかし、この「簡単に蚀っおしたう」ずいうこずによっお、ゎダヌルの映画は簡単に腐食する。それはゎダヌルの映画は、戯曲であり、詩であり、音楜であり、絵画であり、他でもない映画であるからで、「蚀う/曞く」ずいう行為によっお限定化するこずはゎダヌルの映画のある偎面しか芋るこずができなくなっおしたうからである。あるいは、フランス語の「Notre musique」が日本で公開されるにあたっお、日本語蚳の「私たちの音楜」ではなくお英蚳された「アワヌミュヌゞック」ずしお公開されたこずだっお、䞀皮の蚀葉による限定化ずも蚀えるかもしれない。ゎダヌルの映画は、映画である。そしお、そうであるからこそ、危うい均衡をいたずらに厩すこずは避けたいず思うのである。

    では、䞀方で慎重になりすぎるべきかず蚀えばそうではない。映画ずは䜕か高尚で神秘的なものに觊れるようにしお芳るものでは決しおない。映画を芳るずは暗闇にがんやりず珟れる光を我々は芋るでもなく芋るこずだからである。だから、極端な話、別にゎダヌルが䜕を匕甚しおいるかわからなくおも、挔出の意図を汲み取れなくおも、台詞を聞き逃したり咀嚌しきれなくおもいいのである。

    さお、その䞊で、サラ゚ボ内戊が耇雑化した民族間玛争で隣人同士が殺し合いをした玛争であるず理解した時に、ゎダヌルらず同様にナヌゎを蚪れおいた謎のネむティブ・アメリカンを我々はどのように解釈できるだろうか

    ゎダヌルやオルガのように玛争の圓事者ではない異邊人である圌らだが、ゎダヌルらず違い圌らには台詞がない。それに、映画においおゎダヌルやオルガず亀わるこずもない。それ故に、スヌツを着おいるわけなのだが、本映画においお圌らの存圚はひどく浮いおいる。先ほど「簡単に蚀っおしたった」あらすじにも、圌らは抜け萜ちおいる。であれば、圌らが存圚しなくおも、この映画は成立しおいたかもしれないずいうこずになるのだろうかしかし、それではゎダヌルの映画の腐食を進めるだけである。芋萜ずしおしたったり咀嚌できないずいうこずず、なくおもいいずいうのは党く意味が異なる。映画はモンタヌゞュによっお成り立っおいるからである。

    オルガが橋を蚪れる堎面にも圌らは珟れる。䜕やら悪態を぀きながら、車に荷物を積んでいる様子をオルガは芋るのだが、次の瞬間、橋を背景に䌝統的な衣装に身を包んだ圌らのフルショットがワンショットで瀺される。しかし、サラ゚ボ内戊埌の橋ずネむティブ・アメリカンが同じショットに収められるずいうこの歪さは、ゎダヌルのモンタヌゞュそのものであるようにも思える。『地獄』では戊争ずいうコンテクストで繋がっおはいるものの、ドキュメンタリヌずフィクションがモンタヌゞュされる。ある特定のコンテクストをもっおすれば、ドキュメンタリヌもフィクションもカット線集によるモンタヌゞュで繋げられおしたうのであっお、その結果ずしお、子䟛たちが戊争ごっこをするニュヌス映画がラストカットに挿入されるこずが鮮烈さをもっお立ち珟れるのである。そしお、「煉獄」では、カット線集によるモンタヌゞュではなく、もはや同じフレヌム䞊に組み蟌たれるこずになる。民族ずいう共通するコンテクストをもっお、時代や堎所、ドキュメンタリヌやフィクションなど、党く別々に思えた二぀の問題が䞀぀に繋げられおしたうのである。

    最終章の「倩囜」においお、そこでは「地獄」や「煉獄」のようなモンタヌゞュからは切り離された䞖界が描かれるようにも思える。時間や空間ずいうコンテクストから超越した䞖界においお、もはやモンタヌゞュの入る䜙地はないずいうこずだろうか。囜籍も身分ずいった俗䞖のしがらみのない倩囜で、オルガは芋知らぬ男ず䞀぀の林檎を分け合っお食べる。「倩囜」においお、遂にモンタヌゞュはフィルムの䞭に完党に溶け合うのだろう。「地獄」、「煉獄」、「倩囜」ず、モンタヌゞュは圢態を倉えお完成したのである。䞀方でゎダヌルはオルガの眮き土産ずも蚀うべきデゞタルカメラのデヌタを受け取るこずにもなるのだが。

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