
濱口竜介監督[映画]「急に具合が悪くなる」を観て思うこと
「人生を変える映画」というより、「人生を照らし直してくれる映画」
「急に具合が悪くなる」は、舞台演出家でステージ4のがん患者の真理と、「ユマニチュード」という新しい介護のあり方を取り入れようと模索する介護施設長マリー・ルーとの、人生においてはとても短い出会いと会話で構成されている。
トモキという、舞台俳優の吾郎の孫で自閉症の少年が、二人を引き合わせる。
カンヌ国際映画祭の最優秀女優賞をダブル主演の二人(ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒)が受賞したことで、日本でもかなり話題になった。
二人の長い対話の結果、自分の人生すらも定義されたような爽快感があった。
長い会話の上で成り立つ映画だし、映画自体も3時間16分と長いので、人によっては疲れたりするかもしれないけれど、私は食い入るように見てしまった。
元々濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」も大好きだった。
派手なことは起こらないけど強さがあるというか、そういうところが濱口作品のよさなのかな、と思う。
長い会話
会話の内容は多岐に渡り、「ユマニチュード」「構造」「資本主義」「民主主義」そして「人間と人間の関わり合い」について語られ、作品の厚みを作り出している。
「希望」
私は過去、何度も精神病院に入院している。
現在は薬を服用し寛解状態にあるが、
周りの人には言えないような治療を受けた結果である。
そういう過去を乗り越えて、
美味しいご飯が食べられる、人と笑い合える、といった
小さな幸せの「希望」がある限り生きていかなきゃいけないと思っている。
その「希望」が、この映画のキーワードの一つとして使われていて、ハッとした。
「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」
「当たり前」や「普通の人」に憧れていたが、
この映画にも出てくる通り、
「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」のだ。
一見「まとも」に見える人でも、
攻撃的な側面を持っていたり、
偏愛的にコレクター気質だったり、
二次元にどっぷり浸かり込んだりしている人はいる。
また逆に、自閉症や精神障害といった
「普通の人とは違う」と定義されてしまう人たちも、
優しくされれば笑い返してくれたり、
人間として当たり前の感情を持っている。
この映画で驚いたことの一つは、
「イタリアには精神病院がない」ということである。
患者を閉じ込める医療体制に疑問を感じたバザーリア
という人が尽力し、精神病院が撤廃されたそうだ。
私の経験として、精神障害を抱えながら社会に戻って、
働いたりするうちに、
差別的な態度を受けることもあった。
「閉鎖病棟にいた」なんておいそれと言えなかった。
その時は、ただただ、人として扱われたかった。
「ユマニチュード」
また、この映画に出てくる、「ユマニチュード」は、
介護の形の名称であり、
「人を人間として感じてもらうためのケア技法」である。
目線を合わせ、ゆっくり動き、触れる時は必ず予告する。
否定しない。「あなたは大切な人だ」と身体で伝える。
「ユマニチュード」は、主に老人介護で使われる技法の用語のようだが、
精神医療的ケアを受ける側の経験者としては、
精神病院の看護師さんたちは私に対して、
最大限の尊厳を尊重してくれたと思う。
日本では、「精神病院をなくす」ことは難しいのかもしれない。
閉鎖病棟をなくすことで、自殺や殺人といったことも起こりかねない。
それを介護に当てはめれば、要介護者が歩くことを推奨した結果、
転倒などの事故も起こりかねない。
「リスク」
それが次のキーワード、「リスク」です。
リスクと自由は常に緊張状態にあって、
そのバランスを見るべきだと思う。
広い視野で見れば、リスクのない人なんていない。
誰もが明日、介護や保護が必要になる可能性を持っている。
「精神異常者だから」と、一生閉じ込めることで、
彼らは「死を待つ」存在となる。
つまり「生が痩せ細る」のだ。
事故などのリスクを取りながら、
なんとか生を感じられる方法を模索する。
それが「ユマニチュード」とも重なる考え方だ。
「あわい」
真理とマリーの長い対話が夕方から夜、夜から朝の「あわい」の時間に行われたように、
映画の中の
・「介護者」/「要介護者」
・「自閉症の少年」/「保護者」
・「重病患者」/「それを精神的に支える存在」
その境目を超えて、時に入れ替わることもある。やがて混じり合う。
境界線が曖昧になる。
その象徴となるシーンが、
「足を揉み合うシーン」だ。
「足を揉み合うシーン」
マリー・ルーの運営する介護施設で、
介護士も、要介護者も、吾郎の孫トモキも、真理も、
皆で絡み合って足を揉み合うシーンは、
この映画のクライマックスである。
皆が一体化して、巨大な生物のように蠢いていて、
「生きてる、って感じ。しかも一緒に」
と素直に思えた。
「構造」の説明
また、この映画では「資本主義の限界」とも言えるような「構造」についても真理が説明するシーンがある。「今、ここ」だけが豊かになるために、自然やグローバルサウスといった外部を犠牲にしている、と。外部を食い尽くした「今、ここ」は、資本主義的構造を続けるために、「戦争」を始める、といった内容だったと記憶する。
このシーンが、この映画を単なる「心の機微の映画」にしていない、重要なポイントである。
「構造」の限界をきちんと説明している。
それは私の好きな山口周さんや、斎藤幸平さん、国分巧一郎さんの話とも通じるものがあり、社会的な映画としても、とても刺さったのだった。
死にゆく真理とそれを支えるマリー・ルーとの対話に心が打ち震えた。
歯痒さをあらわにする真理
物語の最後の方で、真理は、
「ちくしょう!」とか「悔しい」と、
命の灯火が消えていく自分の体に、歯痒さを顕にする。
その様子が、
ああ、生きているな、
と
生きたいんだな、
と感じさせられて涙が溢れた。
個人的な話
最後に私の話を少し。
二十歳ごろに入院したのは、
アジアいち、と言われる規模のとても大きな
(施設としては東京ドームよりも大きいと思う)
精神病院だった。
自然に溢れてはいたものの、回廊が迷路のように広がり、
その古さも相まって、
どんよりとした空気に満ちて、
まるで映画「アダムス・ファミリー」のような施設だった。
そのある種ホラー的な病院で、
入院している人たちもまたホラーだった。
叫び狂う女の人。
痩せこけているのにお腹がぽっこり出て、
髪の毛はチリチリの摂食障害(極度の栄養失調)に悩む女の子。
男性トイレには、安全面を考えてかドアがなく、
男性が「小」をしているのを見ないように目を逸らさねばならなかった。
当然ながら隔離病棟である。
それでも、看護師さんたちの優しい接し方に、
人間同士のぶつかり合いを感じることができた。
もちろん、ダメなことはダメというけれど、
長くいるとタメ口で、友達のような話をたくさんした。
なんだかんだご飯は美味しくて、
仲間とも笑い合える、人間らしい生活だった。
後年、過去最長の6ヶ月に及ぶ入院をした時の話。
退院する私を、10人以上の看護師さんたちがお見送りしてくれた。
みんな不思議なくらいボロ泣きしていた。
私の状態がかなり悪かったことを知っているし、
長い付き合いだったので寂しい思いもあったのかもしれない。
社会に出ていく私を見守る涙は、とても美しかった。
そうやって、
「起きているのか寝ているのかわからない。もう死ぬしかない!」と
極限状態だった私は、今、
「生きていればいいことあるさ」と
ある種楽観的に物事を捉えられている。
そしてこう思った。
「希望がある限り生きていかなきゃいけない」と。
その結果、その特殊な環境から出た私は、
28歳で今の夫と再会し、伴侶となった。
この映画を見て、その、自分では奇跡のように思える人生を、
照らし直してくれた、と感じた。
精神病院がなくなることは現実的ではないかもしれないけれど、
「精神病院」と「一般社会」を簡単に切り分けられない私のような存在もいるということを知ってもらいたい。
不完全な人間が集まって、社会はできている。
よく見れば、誰もまともな人なんていないんだ。
それでも、なんとか折り合いをつけて、生きていかなきゃなんない。
改めてそう感じた。