
公務職場は認知で変わる― 未分解の不安をほどき、働き方を再設計する ―
#創作大賞2026 #ビジネス部門
1 はじめに
日本の公務員は、国家公務員が約59万人、地方公務員が約280万人いると言われています。
その一人ひとりが、日本に住む人々、そして各地域に住む住民の皆さんのために、毎日、「当たり前」を当たり前として支えています。
道路が使えること。
ごみが収集されること。
学校で子どもたちが学べること。
災害時に避難所が開設されること。
窓口に行けば、必要な手続ができること。
一つ一つは、普段あまり意識されないことかもしれません。
けれど、その当たり前の裏側には、多くの公務員の仕事があります。
私たち公務員は、憲法に定められているように、全体の奉仕者です。
だからこそ、住民の方々からすれば、「それは当たり前だ」と思われることもあるでしょう。
もちろん、それは間違っていません。
公務員の仕事は、住民の暮らしを支えるためにあります。
目の前の仕事を正確に行い、必要なサービスを安定して届けることは、当然求められる役割です。
けれど、長年、公務職場で働き続けていると、ふとした瞬間に、こんな思いがよぎることがあります。
自分は、誰の、何のために働いているのだろうか。
一生懸命やっているのに、なぜかうまくいかない。
それどころか、住民からクレームがくる。
任された仕事に向き合っているはずなのに、どこか不安が消えない。
それどころか、外部からは「公務員は安定していていいよね」と言われる。
仕事の重さと、外から見える印象との間に、静かなずれが生まれていく。
そのずれは、すぐに大きな不満になるわけではありません。
けれど、少しずつ積み重なると、自分の中に名前のつかない不安として残っていきます。
忙しい。
でも、何に追われているのかが分からない。
頑張っている。
でも、何に向かって頑張っているのかが分からない。
責任はある。
でも、自分がどこまで背負えばよいのかが分からない。
この「分からなさ」こそが、公務職場で働く人を静かに疲れさせているのではないか。
私は、そう考えるようになりました。
本稿で考えたいのは、公務職場の働きにくさを、単に人手不足や制度の問題としてだけ捉えるのではなく、「認知」という視点から見つめ直すことです。
認知というと、少し難しく聞こえるかもしれません。
けれど、ここでいう認知とは、物事の受け止め方や意味づけのことです。
同じ出来事でも、それをどう捉えるかによって、私たちの感情や行動は変わります。
住民からのクレームを、「自分が責められている」と受け止めるのか、「対応すべき課題が表面化した」と受け止めるのか。
部下から相談がないことを、「やる気がない」と受け止めるのか、「まだ相談するポイントを把握しきれていないのかもしれない」と受け止めるのか。
管理職になることを、「正体の分からない怪物に近づくこと」と受け止めるのか、「難しいけれど、物事を前に進めるために、課題を一つずつ引き受けていくこと」と受け止めるのか。
受け止め方が変われば、私たちの見える景色は変わります。
そして、見える景色が変われば、選べる行動も変わります。
だからこそ私は、「公務職場は認知で変わる」と思っています。
2 公務職場の不安は、なぜ見えにくいのか
公務職場で働く人の不安は、外からは見えにくいと感じます。
なぜなら、公務員の仕事は、うまくいっているときほど目立たないからです。
道路が問題なく使えているとき、そこにある管理や調整の仕事は意識されにくい。
家庭のごみが人知れず処理されているとき、収集から運搬、焼却やリサイクルに至るまでの仕事は想像されにくい。
窓口で手続が滞りなく終わったとき、その裏側にある制度理解や確認作業は見えにくい。
災害が起きていない平時には、避難所運営や備蓄管理、防災訓練の積み重ねは表に出にくい。
公務の仕事は、何かを華々しく生み出すことよりも、社会の土台を支え続ける仕事が多くあります。
そして、その土台は、安定して支えられているときほど、そこに人の手があることを意識されにくいのだと思います。
そのため、日々の仕事の成果は、「何も起きないこと」や「いつも通りに進むこと」として現れます。
しかし、この「いつも通り」は、決して自然に成り立っているわけではありません。
多くの人が確認し、調整し、説明し、時には謝罪しながら、なんとか維持しているものです。
それでも、住民の方からすれば、行政サービスが安定して提供されることは当然に感じられることがあります。
その当然を支えることが、公務員の仕事だからです。
ここに、公務職場の難しさがあります。
求められる水準は高い。
けれど、できて当たり前と思われやすい。
失敗すれば目立つ。
けれど、うまくいっているときには見えにくい。
そして、その中で働く職員の不安や葛藤は、なかなか言葉になりません。
「忙しい」と言えば、どの職場も忙しいと言われるかもしれない。
「大変だ」と言えば、公務員は安定していていいじゃないかと言われるかもしれない。
「不安だ」と言えば、もっと責任の重い仕事をしている人もいると言われるかもしれない。
そう考えるうちに、自分のしんどさを自分で小さく扱うようになります。
まだ大丈夫。
これくらいで弱音を吐いてはいけない。
みんなもやっている。
自分だけが大変なわけではない。
もちろん、そう考えることで踏ん張れる場面もあります。
けれど、その踏ん張りが長く続くと、自分が何に疲れているのか分からなくなることがあります。
本当は業務量が多いのかもしれない。
本当は責任の範囲が曖昧なのかもしれない。
本当は相談できる相手がいないのかもしれない。
本当は「ちゃんとやる」の基準が見えていないのかもしれない。
しかし、それらが分けられないまま一つの塊になると、「なんとなく不安」「なんとなく苦しい」という状態になります。
この状態が続くと、人は動きにくくなります。
なぜなら、相手が見えないからです。
何と向き合えばよいのか。
何を変えればよいのか。
誰に相談すればよいのか。
どこから手をつければよいのか。
それが分からないまま、目の前の仕事だけが積み重なっていく。
不安は、仕事そのものだけから生まれるのではありません。
仕事の意味が見えなくなること。
自分の役割が分からなくなること。
自分の感情に名前をつけられなくなること。
そこからも、不安は生まれるのだと思います。
3 未分解の不安が、人を動けなくする
私は、不安そのものが悪いとは思っていません。
不安があるからこそ、私たちは何度も確認をします。
不安があるからこそ、計画的に準備をします。
不安があるからこそ、メールだけでなく、相手に直接説明をします。
公務の仕事において、不安は決して不要なものではありません。
むしろ、住民の暮らしに関わる仕事だからこそ、「本当にこれでよいのか」と立ち止まる感覚は大切です。
問題は、不安が未分解のまま大きな塊になってしまうことです。
たとえば、管理職になることへの不安があります。
私自身、以前は管理職というものに対して、漠然とした怖さを感じていました。
もちろん、管理職という仕事が簡単ではないことは分かっています。
議会対応、組織運営、人事評価、危機管理、住民対応、報道対応、庁内調整。
担当者や係長とは異なる責任があることも理解しています。
けれど、以前の私にとって、その不安はもう少し違うものでした。
何が怖いのかが、はっきり分からなかったのです。
忙しくなることが怖いのか。
判断を誤ることが怖いのか。
家庭との両立が崩れることが怖いのか。
自分の能力が足りないと分かることが怖いのか。
部下の業務をマネジメントできないことが怖いのか。
部下を守れないことが怖いのか。
周囲からの期待に応えられないことが怖いのか。
それらが分けられないまま、「管理職は怖い」という一つの大きな塊になっていました。
まるで、正体の分からない怪物のようでした。
けれど、学び、経験し、言葉にしていく中で、その見え方は少しずつ変わっていきました。
議会対応は、確かに緊張する。
でも、準備の仕方はある。
組織運営は難しい。
でも、一人ですべてを抱えるものではない。
人事評価には責任が伴う。
でも、日頃の対話や観察を積み重ねることで、納得感を高めることはできる。
家庭との両立も簡単ではない。
でも、自分の働き方を見つめ直し、仕事の進め方を工夫する余地はある。
そうやって分けていくと、管理職への不安は、正体の分からない怪物ではなくなっていきました。
そしてそれは、難しいけれど、対処方法を考えられる課題になっていったのです。
不安のままだと、何をどう頑張ればよいのかが分かりません。
ただ大きな塊として目の前にあるだけで、どこから手をつければよいのかも見えない。
けれど、課題になれば、少しずつ対処の仕方が見えてきます。
何を学べばよいのか。
誰に相談すればよいのか。
どんな経験を積めばよいのか。
どこを補えばよいのか。
それが見えてくると、自分の頑張り方も見えてきます。
以前の私は、管理職への不安を前にして、踏み出す一歩目が見えていなかったのだと思います。
目の前が真っ暗で、そこに足を踏み出してよいのか分からない。
そんな感覚でした。
でも、不安を分けていくことで、足元が少しずつ見えてくる。
一歩目の置き場所が見えてくる。
そのとき、不安は自分を止めるものではなく、自分が向き合えるものへと変わっていくのだと思います。
これは、管理職に限った話ではありません。
職場で感じる多くの不安は、未分解のままだと必要以上に大きく見えます。
「部下が相談してくれない」という不安もそうです。
本当に部下が相談しようとしていないのか。
それとも、何を相談すればよいのかまだ見えていないのか。
相談してよいタイミングが分からないのか。
上司が忙しそうで声をかけにくいのか。
過去に相談したときの反応が、本人の中に残っているのか。
そう分けて考えるだけで、取るべき行動は変わっていきます。
「なんで相談してくれなかったの」と責めるのではなく、「どの段階で声をかければよかったのか」「相談しやすい入口をどう作るか」と考えることができます。
「ちゃんとやっておいて」という言葉もそうです。
上司にとっての「ちゃんと」は、過去の経験や暗黙知に支えられています。
しかし、相手にとっては、その基準が見えていないことがあります。
何を確認すればよいのか。
どこまで準備すればよいのか。
誰に共有すればよいのか。
どの程度の完成度を求められているのか。
それが見えないまま「ちゃんと」と言われると、相手は不安になります。
そして、上司は「なぜ分からないのか」と思ってしまう。
けれどそれは、上司の側には、その基準が見えているからでもあります。
そのため、ここにも、未分解の不安があります。
不安は、なくすものではなく、分けるものなのだと思います。
名前のない不安は、人を止めます。
けれど、分解された不安は、考えることのできる課題に変わります。
4 認知を変えるとは、前向きになることではない
ここで誤解したくないのは、「認知で変わる」とは、単に前向きに考えようという話ではないということです。
公務職場には、実際に大変なことがあります。
人手不足があります。
制度の複雑さがあります。
住民ニーズの多様化があります。
クレーム対応があります。
議会対応があります。
災害や感染症のように、突然発生する危機もあります。
それらを前にして、「考え方を変えれば大丈夫」と言うだけでは、現場の苦しさを軽く扱うことになります。
私は、そういう話をしたいわけではありません。
認知を変えるとは、現実から目をそらすことではありません。
無理に前向きになることでもありません。
我慢を美化することでもありません。
個人の受け止め方の問題にして、組織の課題を見えなくすることでもありません。
むしろ逆です。
認知を整えることは、現実を都合よく受け止めることではありません。
むしろ、現実をより正確に、そして多角的に見るための作業です。
何が起きているのか。
自分は何に反応しているのか。
どこまでが自分に扱える問題なのか。
どこから先は、組織として考えるべき課題なのか。
相手は本当にやる気がないのか。
それとも、必要な情報や経験が不足しているのか。
自分は本当に能力がないのか。
それとも、役割が変わったばかりで、まだ見える景色が追いついていないだけなのか。
そうやって、出来事と感情を少しずつ分けていく。
これが、私の考える認知の見直しです。
たとえば、住民から厳しい言葉を受けたとき、当然ながら心は揺れます。
公務員であっても、一人の人間です。
強い言葉を受ければ、傷つくこともあります。
理不尽だと感じることもあります。
けれど、その出来事を「自分自身が否定された」と受け止め続けると、心は消耗していきます。
一方で、「対応すべき不満や不安が、強い言葉として表れている」と捉え直すことができれば、すぐに自分の責任として抱え込むのではなく、少し距離を置いて考える余白が生まれます。
もちろん、それで傷つかなくなるわけではありません。
感情が消えるわけでもありません。
ただ、自分の人格と、仕事上対応すべき課題を分けることができます。
この「分ける」という感覚が、とても大切なのだと思います。
係長になってから、私はこの感覚の重要性を強く感じるようになりました。
担当者の頃は、自分の仕事を正確に処理することが大切でした。
しかし係長になると、自分が処理するだけでは足りません。
仕事の意味を伝えること。
部下が動きやすいように、基準を言葉にすること。
課題を個人の責任にせず、構造として捉えること。
そうした役割が求められます。
そのときに必要なのは、単なる処理能力だけではありません。
物事の見方を整えることです。
出来事を一方向から決めつけず、少し距離を置いて捉え直すこと。
その積み重ねこそが、私の考える認知を整える力です。
5 公務職場にある見えない前提
公務職場には、多くの見えない前提があります。
その一つに、「分からないことがあったら聞いてね」という言葉があります。
この言葉自体は、とても自然です。
相手を突き放しているわけではありません。
むしろ、困ったときに相談してほしいという思いから出る言葉です。
私自身も、何度も使ってきました。
けれど、最近は少し立ち止まって考えるようになりました。
本当に、この言葉は相手に届いているのだろうか。
分からないことが分かっている人は、聞くことができます。
しかし、経験の浅い人は、自分が何を分かっていないのかさえ分からないことがあります。
どの段階で相談すればよいのか。
何を整理してから聞けばよいのか。
こんなことを聞いてもよいのか。
相手は忙しそうではないか。
そうした迷いの中で、相談の入口に立てないことがあります。
そのとき、先輩や上司が「分からないことがあったら聞いてね」と言っているだけでは、相談は生まれないかもしれません。
必要なのは、相手が相談できる状態を作ることです。
「ここまで進んだら一度見せてください」
「この資料は、最初にこの三点を確認しましょう」
「迷ったら、完成してからではなく途中で声をかけてください」
このように、相談のタイミングや基準を具体的にすることで、相手は動きやすくなります。
見えない前提は、「ちゃんとやっておいて」という言葉にもあります。
この言葉も、職場ではよく使われます。
しかし、「ちゃんと」の中身は、人によって違います。
上司にとっての「ちゃんと」は、関係部署への確認まで含むかもしれません。
担当者にとっての「ちゃんと」は、資料を作るところまでかもしれません。
上司にとっての「早め」は、前日までかもしれません。
担当者にとっての「早め」は、当日の午前中かもしれません。
ここにずれが生まれると、相手の能力や意欲の問題として見えてしまいます。
「なぜそこまでやっていないのか」
「なぜ確認していないのか」
「普通は分かるはずだ」
そう思ってしまう。
けれど、本当に「ちゃんと」や「普通」は共有されていたのでしょうか。
本当に基準は言葉になっていたのでしょうか。
本当に相手は、同じ景色を見ていたのでしょうか。
ここを問い直すことが、公務職場ではとても大切だと思います。
公務職場は、異動を前提とした組織です。
数年ごとに担当が変わります。
上司も変わります。
扱う制度も変わります。
それにもかかわらず、仕事の多くは、過去の経験や暗黙知に支えられています。
知っている人にとっては簡単なことでも、知らない人にとっては何を知らないのかも分からない。
この差が、職場の中に静かな不安を生みます。
だからこそ、上司や先輩に必要なのは、「自分は分かっている」で終わらせないことです。
自分が当たり前に見えているものを、相手にも見える形にすること。
暗黙知を言葉にすること。
基準を共有すること。
そして、相手が動けない理由を、能力や意欲だけに求めないこと。
相手が見えていないものは何か。
自分が言葉にできていない前提は何か。
そこに目を向けることもまた、認知の転換なのだと思います。
6 係長として、働き方を再設計する
私は今、係長として働いています。
係長になって感じたのは、役割が変わると、見える景色が大きく変わるということです。
担当者の頃は、目の前の仕事を正確に進めることが中心でした。
もちろん、担当者にも工夫や調整は必要です。
けれど、担当者時代は、自分の仕事をどう仕上げるかという意識が強かったように思います。
一方で、係長になると、自分が処理するだけでは仕事は進みません。
部下の仕事を見る。
課の方針を受け止める。
関係部署と調整する。
上司に報告する。
仕事の優先順位をつける。
時には、やらないことを決める。
このように、仕事そのものだけでなく、仕事の流れを整える役割が増えていきます。
そこで問われるのは、どれだけ遅くまで職場に残れるかではありません。
どれだけ抱え込めるかでもありません。
何を見て、何を整え、何を手放すのか。
そこを考える力です。
私は、ほとんど残業をしません。
子どものお迎えがあり、家庭の事情もあります。
もちろん、必要なときには残業をすることもあります。
残業しないことだけを誇りたいわけでもありません。
ただ、長く職場に残ることで責任を果たしているように見せる働き方は、私にはできません。
だからこそ、考える必要がありました。
限られた時間の中で、何に力を使うのか。
自分がいなくても仕事が進むように、何を共有しておくのか。
部下が迷わず動けるように、どこまで基準を示すのか。
自分がすべてを処理するのではなく、組織として進むためには何が必要なのか。
そして、周囲に支えてもらっていることへの感謝を忘れず、その感謝を言葉にしながら、働きやすい職場づくりを進めていく。
これは、働き方の再設計です。
働き方の再設計とは、楽をすることではありません。
責任から逃げることでもありません。
むしろ、自分の役割を見つめ直し、限られた時間と力をどこに使うのかを選び直すことです。
公務職場では、ともすると「忙しい人」が評価されやすい空気があります。
遅くまで残っている人。
多くの案件を抱えている人。
いつも慌ただしく動いている人。
そういう人が、頑張っている人として見えやすい。
もちろん、実際に大きな負担を担っている人への敬意は必要です。
その努力を軽く見るつもりはありません。
けれど、忙しさそのものを価値にしてしまうと、職場は少しずつ苦しくなります。
忙しい人に仕事が集まる。
余裕のない人が、さらに余裕を失う。
相談しづらくなる。
育成が後回しになる。
そして、仕事の属人化が進む。
その結果、誰かがいないと回らない職場になっていきます。
私は、それを避けたいと思っています。
自分が成果を出すことは大切です。
けれど、今はそれだけでは足りないと感じています。
自分がいなくなっても、自分の考え方や仕事の進め方が組織の中に残ってくれたら嬉しい。
誰か一人の頑張りに依存するのではなく、考え方が共有され、仕事が続いていく。
その考え方が、誰かの不安を少し軽くしたり、次の一歩を踏み出す支えになったりしたら、なお嬉しい。
そういう組織に少しでも近づけたいと思っています。
そのために必要なのは、大きな改革だけではありません。
日々の言葉を少し変えること。
不安を分けて考えること。
見えない基準を言葉にすること。
部下の動けなさを、本人の問題だけにしないこと。
忙しさを美徳にしすぎないこと。
こうした小さな認知の転換が、働き方を少しずつ変えていくのだと思います。
7 おわりに
公務職場は、簡単には変わらないかもしれません。
制度があります。
法令があります。
予算があります。
前例があります。
住民への説明責任があります。
民間企業のように、すぐに方向転換できないこともあります。
だからこそ、公務職場で働いていると、「変えられないもの」に目が向きやすくなります。
制度が変わらないから。
人が足りないから。
前例があるから。
上司がそう言うから。
住民対応があるから。
もちろん、それらは現実です。
無視することはできません。
けれど、その一方で、変えられるものもあります。
出来事の見方。
言葉の使い方。
相談の入口。
仕事の基準の示し方。
不安の分け方。
部下との関わり方。
自分の役割の捉え方。
これらは、今日から少しずつ変えることができます。
認知が変われば、見える景色が変わります。
見える景色が変われば、選べる行動が変わります。
選べる行動が変われば、職場の関係性も少しずつ変わります。
私は、公務職場を理想論だけで語りたいわけではありません。
現場には、きれいごとだけでは済まない難しさがあります。
どれだけ丁寧に説明しても伝わらないことがあります。
どれだけ準備しても、うまくいかないことがあります。
どれだけ誠実に向き合っても、厳しい言葉を受けることがあります。
それでも、私は思います。
名前のない不安に飲み込まれたまま働き続けるよりも、その不安を少しずつ分けていくことはできる。
自分だけが抱えるのではなく、構造として捉え直すことはできる。
正体の分からない怪物に見えていたものを、難しいけれど対処方法を考えられる課題に変えていくことはできる。
公務職場は、認知で変わる。
それは、すべてが一気によくなるという意味ではありません。
誰か一人の意識だけで、組織全体が変わるという話でもありません。
けれど、一人の見方が変われば、その人の言葉が変わります。
言葉が変われば、周囲との関わり方が変わります。
関わり方が変われば、誰かが少し動きやすくなるかもしれません。
その小さな変化の積み重ねが、職場の空気を変えていくのだと思います。
公務員は、社会の当たり前を支える仕事です。
だからこそ、その仕事を支える私たち自身の働き方も、当たり前のまま放置してはいけないのだと思います。
私たちが提供する住民サービスは、住民にとっての当たり前かもしれません。
でも、私たちの働き方まで、これまでの当たり前に閉じ込めておく必要はないのではないでしょうか。
不安をなくすのではなく、分ける。
我慢するのではなく、構造を見る。
一人で抱えるのではなく、意味を共有する。
その先に、公務職場の新しい働き方があるのだと思います。
公務職場は、制度だけでできているわけではありません。
そこにいる一人ひとりの認知と行動によって、日々、形づくられているものです。
だからこそ、認知が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、職場が変わる。
そしてその先に、住民サービスの質の向上があるのだと思います。
これほどやりがいがあり、これほど誰かのために働ける仕事だからこそ、誇りを持って、自分の仕事に胸を張ってほしい。
私は、そう思います。
あなたのその一歩は、決して小さなものではありません。