
【連載小説】Another Life 17
第3章 『潮風の街で』
⒎
翌日のこと。
「ノリちゃん、支度済んだ?」
鏡に向かって色付きリップを引いていた私に祖母が声をかけた。
「うん、もう出れるよ。」
今日は祖母が隣町のふれあいセンターにボランティアに出かける日だ。この家に来てからひと月半。今までは留守番してスルーしていたのが、付いて行ってみようと思った心境の変化は、朝、隆さんの話を聞いたからだろうか…。
「ピアノ、誰も弾いてないの?」
センター行きのバスに揺られながら、後ろの席の祖母に話しかけた。
「そうよ。寄贈されたものらしいけど、だいぶ古いわね。」
「じゃあ調律もしてないね、多分。」
家のピアノはきちんと調律されていてそれはそれで良かったけれど、わたしはピッチが少しズレかかったピアノの音色も好きだ。どこかノスタルジーを感じるというかほっとした気持ちにさせられる。
そうこうしているうちに、バスはセンター前に到着した。ぶどう園の脇を曲がって左手に見える煉瓦色の建物がそうだ。
出入り口から一番近い娯楽室に入ると、20人くらいのお年寄りたちが集まっていた。囲碁台を囲んでる人、切り絵や折り紙を作ってる人、談笑しているグループ…皆思い思いの時間を過ごしている。
「こんにちは〜。お元気そう。あら可愛いコレ!」
祖母は私の肩にそっと手を置いただけで特に何も言わず、慣れた調子で席を回り始めた。私は所在なく展示物の置いてあるテーブルをしばらく眺めていた。
ふと視線を部屋の奥に移すと、濃紺のビロードカバーを被ったアップライトピアノが目に入った。その瞬間、心臓が一瞬ドクンと音を立てた気がした。すーっと深呼吸をする。わたしはゆっくりと歩き出した。
ピアノの前に立つ。カバーを左右にそっと開く。出てきたのは飴色のアップライト。蓋を開けると鍵盤が顔を出した。立ったまま表面だけそっとなぞってみる。少し冷んやりした感触が指に沁み渡る…。
ーーポーン
Aの音を押す。
ーーポーン、ーーポーン
調律はかなり緩い。でもその緩さが今の私には心地よいものに思える。
……座ってみる?
心の中で自分に問いかける。椅子を引いて腰掛けるとギシッと音がした。
再びすーっと深呼吸。目を閉じる。ゆっくり開いてから、ノクターンOp27-2を自然と弾き始めた。
出だしはぎこちなく響いていた音色が徐々に色味を帯びる、感情の蕾が花開くように…そんなイマジネーションに私は身を任せていた。
終盤にきて、音が一段と高く駆け上がるフレーズにさしかかった時、私は自分の頬を流れるものに気がついた。それは温かく静かな流れだった。そして体の中から込み上げてくる大きなものも感じていた。
曲を弾き終えて、私はしばらくそのままでいた。何かが満ちてくるのを待っているかのように。
--パチパチパチパチ
背後から控えめな拍手が聞こえた。振り返ると、祖母の穏やかな笑顔がそこにあった。私もごく自然に笑みを浮かべていた。
〜次回へつづく〜
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