
タイムリープ・インベスター 〜未来の記憶と10億円のノルマ〜 第10話【完】
前回のお話
最終話 黄金の檻に降る雨
そして、運命の年がやってきた。2026年5月。
四度目の半減期を完全に消化したビットコインは1枚1,200万円。NVIDIAは、人類のテクノロジーの頂点として、時価総額4兆ドルに迫る絶対的な覇権企業となっていた。
2026年5月15日。実家の窓から見上げる千葉の空は、一回目の人生の最期、あの東京のアパートで見た時と同じ、重く湿った灰色に閉ざされていた。
俺はノートPCを開き、最後の資産計算を行った。
【2026年5月最終時点の資産状況】
NVIDIA :103億4,441万円
ビットコイン: 51億2,400万円
現金 : 587万円
合計評価額 :154億7,428万円
154億円。ノルマに対し、15倍以上の超過達成。NVIDIAの株式譲渡益税(約20%)と、ビットコインの総合課税(最大約55%)という絶望的な税率を差し引いたとしても、手元には優に80億円以上の純現金が残る。
俺は勝った。運命を、金という名の暴力でねじ伏せたのだ。
その時、実家の引きこもり部屋に、一通の通知が届いた。それはメールでも、SNSでもなかった。21年前、あの冷え切った四畳半のアパートで聞いた、あの声が脳内に直接響いたのだ。
『……決済の準備は、できているか?』
心臓が、ひび割れた肋骨を突き破るかのように激しく跳ね上がった。俺は震える手でキーボードを叩き、全資産の売却注文を開始した。103億円のNVIDIA株、51億円のビットコイン。市場を壊さないようアルゴリズムを走らせ、成行で捌いていく。画面上で、数億、数十億という単位の数字が、次々と利益確定されていく。
【取引履歴】

すべての作業が終わった時、俺の銀行口座には150億円を超える天文学的な残高が刻まれていた。
その瞬間だった。
21年間、俺の首筋にずっと突きつけられていた、あの冷たい氷のような「死の気配」が、ふっと霧散した。
ノートPCの画面が、一瞬だけノイズに覆われた。 そして、コマンドプロンプトのような黒い背景に、たった一文だけ、白い文字が浮かび上がった。
『ノルマ達成。契約完了』
次の瞬間に画面は元のブラウザに戻り、それきり何も起きなかった。 神の気まぐれだったのか、悪魔の遊戯だったのか、それとも宇宙のプログラムのバグだったのか。あの「天の声」の正体は、結局、最後まで分からなかった。
だが、確かなことが一つだけある。 今日、俺は死なない。あの雨の夜の運命を、金という暴力で完全にねじ伏せ、生存を勝ち取ったのだ。
「……終わった」
絞り出した声はひどく掠れていた。 これで自由だ。明日からはチャートを見なくていい。生きる恐怖に怯えなくていい。 俺は安堵の息を深く吐き出し、立ち上がろうとした。
しかし、長年座り続けた足は思うように動かず、無様にカーペットの上へ倒れ込んだ。
顔を埋めた床からは、カビと、何年も掃除されていない埃の匂いがした。 這いつくばった視線の先、部屋の隅にある曇った姿見に、一人の男が映っていた。 伸び放題の白髪混じりの髪。濁った肌。落ち窪んだ眼窩。瞳の奥には何の光も宿っていない。それは、到底30代後半には見えない、初老の廃人のような姿だった。
俺は、人生をやり直した。 未来の知識を使い、莫大な富を築いた。 だが、その代わりに失ったものもある。
友人と終電までバカ話をして笑い転げる夜。 好きな女性の冷たい手を握ろうとしたがためらい、結局自分のポケットに手をしまった冬の帰り道。 家族と食卓を囲み、どうでもいいテレビ番組を見て笑う日常。
一回目の、あの惨めで貧しかった人生にすら確かに存在していた「温度」を、俺はすべてノイズとして切り捨ててきた。 150億円という数字は、俺が21年間かけて徹底的に殺してきた「俺の人生そのもの」の質量だったのだ。
口座には、一生かかっても使いきれない金がある。 だが、一緒にその金を使って笑い合ってくれる人間は、この世界にもう一人もいない。 美味いものを食べたいという欲求も、美しい景色を見たいという感動も、最適化された脳からはとうの昔に消え去っていた。
「……ああ」
乾いた声が漏れた。 人生をやり直すという、誰もが渇望する奇跡の切符を手に入れたのに。 歴史のカンニングペーパーを持ち、あらゆる暴落を乗り越え、完璧な勝利を手にしたというのに。
俺は、ちっとも幸せになっていなかった。
むしろ、あの貧しい四畳半で「金さえあれば」と呪っていた一回目の人生の方が、まだ血が通っていたのではないか。
遠くの部屋で、老いた母が小さく咳き込む音がした。俺は、震える声で「母さん」と呼ぼうとした。だが、もう何年も使わなかったその言葉は、砂のように喉で崩れ、ついに音にならなかった。
窓の外では、21年前のあの日と同じ、冷たい雨が降り始めていた。
俺は、150億の残高が光るモニターを背にして、薄暗い部屋の床に寝転がった。 もう、死ぬことはない。永遠に、安全で、孤独な時間が続いていくだけだ。
雨の音だけが、空っぽになった黄金の檻の中に、いつまでも虚しく響いていた。
(完)
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