
江戸の泥『神を斬る牙』第二話
『神を斬る牙』
第二話 江戸の泥
江戸に着いたのは、村を出てから四十日後だった。
両国橋を渡った瞬間、豊次郎は立ち止まった。人の数が、違った。声が、匂いが、地面を踏む音の総量が、仏生寺村とは桁が違った。川の向こうには見世物小屋の幟(のぼり)が林立し、物売りの怒鳴り声と三味線の音が混ざり合って、空気そのものが騒がしかった。
(でけえ)
それだけ思った。怖くはなかった。腹が減っていた。
江戸に来て最初の三日間で、豊次郎は二度、絡まれた。
一度目は深川の路地で、酔った中間(ちゅうげん)三人組に因縁をつけられた。二度目は浅草の盛り場で、博打打ちの用心棒崩れに小銭を要求された。どちらも、豊次郎が動き出す前に終わった。中間どもは鼻を折られ、用心棒崩れは石畳に頭を打ちつけて動かなくなった。
喧嘩というより、作業だった。
(江戸の奴らも、たいしたことねえな)
四日目の夜、豊次郎は神田にある町道場の前に立っていた。「誠心館」という、古びた看板が掲げられた、間口の狭い道場だった。壁の染みが古く、木の匂いがした。強そうな匂いは、しなかった。
豊次郎は引き戸を開け、土足のまま上がり框(かまち)を踏んだ。
「道場破りに来た。一番強い奴を出せ」
稽古中だった門弟たちが、一斉に動きを止めた。竹刀を持ったまま、みな同じ顔をした。田舎訛りの、泥臭いガキが、土足で上がり込んでいる。
奥から出てきたのは、五十がらみの男だった。頭に白いものが混じり、体つきは細く見えた。着物の裾が擦り切れていた。道場師範というより、どこかの職人のような風貌だった。
「儂が師範代の徳蔵だ」
声は静かだった。怒ってもいないし、笑ってもいなかった。豊次郎を、ただ真っ直ぐに見ていた。
「おめえか。やろうぜ」
豊次郎は竹刀を一本取り、正眼に構えた。構え方は我流だった。両足の幅が広く、重心が低い。型とは程遠いが、獣の臨戦態勢に近かった。
徳蔵は木刀を手に取ると、何も言わずに中段に構えた。
豊次郎は迷わず踏み込んだ。
初太刀は速かった。村を出てから四十日、歩き続けた脚で踏み込んだ一撃は、これまで絡んできたどの男よりも鋭かった。竹刀が空気を割る音がした。
しかし、徳蔵の体は、そこにいなかった。
(あ?)
外れた。それだけは分かった。次の瞬間、豊次郎の右手首に、鈍い衝撃が走った。力を入れようとした瞬間に柔らかく押され、竹刀が泳いだ。体が前のめりになる。
豊次郎は立て直そうとした。しかし、踏み込んだ左足の根元を、徳蔵の足が静かに払っていた。
視界が横に倒れた。
板張りの床に、肩から叩きつけられた。
(何が、起きた)
息が詰まった。天井が見えた。門弟たちの顔が、遠くにあった。誰も笑っていなかった。
豊次郎はすぐに起き上がった。また踏み込んだ。また外れた。また床に転がった。
五度目に立ち上がったとき、息が上がっていた。力は出ている。速さも出ている。しかし、何かが届かない。叩いているつもりが、叩けていない。押さえているつもりが、逃げられている。
徳蔵は一度も大きく動いていなかった。汗もかいていなかった。
「やめい」
徳蔵が静かに言った。豊次郎は荒い息のまま、竹刀を下げた。負けを認めたわけではなかった。ただ、何かが分からなくて、止まった。
徳蔵は木刀を脇に置き、豊次郎の前に立った。
「お前の力は本物だ」
褒めてもいなかった。ただ、事実を言っていた。
「だが今のお前は、嵐みたいなものだ。嵐は強い。誰も止められん。だが嵐は、的を狙えない」
豊次郎は何も言えなかった。反論が出てこなかった。悔しいというより、「分からない」という感覚が、胸の真ん中に居座っていた。これは初めての感覚だった。藩士を睨みつけたときも、路地の中間を叩いたときも、「分からない」はなかった。
徳蔵はそれ以上、何も言わなかった。くるりと背を向けて、門弟たちのところへ戻っていった。
豊次郎は竹刀を床に置き、道場を出た。
夜の神田の路地は、冷えていた。豊次郎は立ったまま、自分の両手を見た。
(的を、狙えない)
手は同じ手だった。仏生寺村で泥を握りしめた、あの手だ。しかしこの手は今夜、何かに届かなかった。
空腹だった。それよりも、「分からない」が腹の底に重く沈んでいた。
豊次郎はしばらく、路地の暗がりに立っていた。
――了――