メインコンテンツへスキップ
見出し画像

眠れない夜の、あなたへ

    林田 詩織

    眠れない、と気づいた瞬間から、夜はもう手のひらをすり抜けていく。

    午前二時十四分。天井の染みを、もう何度数えただろう。隣の部屋では、妻の寝息が規則正しく聞こえてくる。その静けさが、かえって耳に刺さった。

    田中修(たなかおさむ)三十八歳。中堅の広告代理店に勤める、どこにでもいる男だ。今日

    ——————————— 正確には昨日 ————————————

    上司に呼ばれて個室に通された。

    「来月から、プロジェクトを外れてもらう」

    それだけだった。理由は教えてもらえなかった。

    スマートフォンを手に取る。画面が眩しくて、目を細める。SNSを開くと、知らない誰かの幸せな写真が流れてくる。子どもの誕生日、旅先の夕焼け、友人との食事。修は画面を伏せて、布団の上に置いた。


    キッチンへ行き、コップに水を汲んだ。冷蔵庫の前に立ったまま、一口飲む。外は雨だった。窓ガラスを伝う水滴が、街灯の光を細長く歪めていた。

    ふと、小学生のころを思い出した。遠足の前の夜、どうしても眠れなかった。あの頃の眠れなさは、胸の奥に何かが燃えているようで、痛くなかった。今夜の眠れなさは違う。

    何かが ——————— 確かにそこにあったはずの何かが———————静かに消えていくような感覚だった。

    妻には、まだ話していない。言葉をさがしているうちに夕食が終わり、テレビが終わり、電気が消えた。

    「何かあった?」
    と妻は一度だけ聞いた。

    「疲れているだけ」
    と修は答えた。嘘ではなかった。けれど、本当でもなかった。


    ソファに腰を下ろし、暗いリビングで膝を抱えた。どこかで猫が鳴いた。雨音と混ざってすぐに消えた。

    このまま朝になったら、どうなるんだろう。会社に行って、いつも通りの顔をして席に着く。誰も何も聞かないだろう。修も何も言わないだろう。そうやって、また一日が過ぎていく。

    ———————でも、と修は思った。

    朝になれば、コーヒーを淹れる。
    妻が「行ってきます」と言う。ドアが閉まる音がする。その音が、なぜかひどく懐かしいもののように感じられた。まだ、消えていないのだ。あの音は。


    修はそっと立ち上がり、寝室へ戻った。布団の中で、妻の背中に手を伸ばす。触れるか触れないかの距離で止めた。それだけで少し、息ができた。

    眠れない夜というのは、何かを失う夜ではないのかもしれない。眠れないまま、それでも夜明けを待ち続けるたもの時間なのかもしれない。

    窓の外で雨がやんでいた。修は目を閉じた。まだ眠れなかった。でも、それでいいと思った。


     
     
     
    週2日・4時間のパート勤務をしながら、夫、母、2人の子どもとの暮らしを大切にしています。限られた時間の中で、AIを執筆パートナーとして現代ファンタジーや恋愛小説を書いています。AIとともに、新しい創作のかたちを模索しながら物語を紡いでいます。

    あなたへのおすすめ