
エッセイ「トムヤムクンと屋台飯」
「山下さん、トムヤムクンというものを知っていますか」
そう会社の部下にたずねられたのは、もう三十年ほど前だったか。その男はタイが好きなあまりに、長いこと彼の地で働いていたことがあってね、私に本場のペーストと手書きのレシピを渡してくれたんだよ。
その時代はね、タイ料理なんて流行る兆しがあったかどうかという頃ですよ。まあ、せっかくだからとこしらえてみたんだけど、これが存外と美味いんだ。
唐辛子特有のキレのよい辛さに、さっぱりとしたスパイスの妙。シンプルな具材ばかりで食べやすい。なにより、胃袋を刺激してくれるからね、疲れていても腹が減るんだよ。
おまけにちょうどその頃、会社の近くに本場の料理人が腕をふるうタイ料理屋が出来たものだから、すっかりタイ料理に魅入られてしまってね、足繁く通うことになったわけだ。なかでも、トムヤムクン、グリーンカレー、そして何よりガパオライスは昔からの偏愛でね、こればかりは今でも変わらない。
それにしても、今ではタイ料理というものが日本人にすんなりと受け入れられていて、クセのある料理も多いというのに驚くね。
まあ、一つには四川料理なんかのね、刺激的な辛さとか、ベトナム料理のハーブとか、そういった本格的なスパイスを使った料理を出す店が増えたからね、私たちの舌が知らず知らず刺激に慣れていったんでしょうよ。そしてもう一つは、あの「ナンプラー」が舌に馴染んできたんだ。小魚を塩漬けにして発酵させているから、日本の魚醤や醤油と同じ発酵の旨味を持っている。独特の強い匂いはあっても、加熱して料理に馴染むと深いコクに変わるんだ。根底で日本の食文化と通じ合うものがあったからこそ、私たちはすんなり惹き込まれたんですよ。
なかでも私が偏愛するガパオライスだけど、ちゃんとした専門店の仕事というのは実にいい。鶏のひき肉をね、ホーリーバジルと唐辛子、ナンプラーや調味料で手早く炒め合わせる。バジルの清涼感のある香りと甘辛い肉の旨味が立ち上り、それだけでも食欲をそそるんだけど、真骨頂はその上に乗る目玉焼きだね。
本場の店では、目玉焼きを「焼く」のではなく、たっぷりの油で「揚げる」んだよ。白身の縁はカリカリと香ばしく狐色に泡立ち、黄身は絶妙な半熟を保っている。このカリッとした白身の食感と、トロリと溢れ出す黄身をたっぷりの香ばしい肉とライスに混ぜ込んで頬張るのが、何とも言えない美味さなんだ。ナンプラーは主張しすぎないから、バジルの香りとも相性がいい。それにね、濃い味付けのひき肉が嬉しいじゃないか。異国のスパイスにまみれたどんぶり飯だというのに、どこか懐かしい。強めの塩っ気とコクの深さが、パラパラのジャスミンライスをこれでもかと進ませる。これをね、日本米で作る店もあるんだけど、そんなことしちゃあバチが当たりますよ。
タレを吸いにくいタイ米だから、最後の一口までサラッと食べられるんだからね。
このガパオライスの立ち位置なんてのもまたいいんだよね。タイではトムヤムクンのように、なにもかしこまった飯じゃなくてね、屋台でふらりと寄って小銭で食べられる日常の味なんだ。さしずめ、江戸の町人が屋台でサッとつまんだ寿司や天ぷらのようなものですよ。
異国の料理であってもね、こういう洒落っ気のない、生活の匂いがするものがよくよく好きなんだろうね、私という人間は。
了