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うつ病患者の周囲に知ってもらいたいこと

    「大丈夫?」

     悪意のない言葉のナイフが、胸に突き刺さる。
     

        風邪くらいなら「大丈夫だよ」と作り笑いで返せる。だが、鬱で気分が落ちていると、「大丈夫?」という一言ですら(追い込まれている)と感じてしまう。かといって、本当は大丈夫ではないから、返事をすること自体に最後の力を振り絞るほどの労力がいる。

     そのナイフは、脳内で激しい騒音が反響し続けるようなものだ。「黙れ!」と言いたくても、それすら口にする気力がない。

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     うつ病への理解は、「理解できないということを理解すること」から始まるのである。

     
    ※ここに記す内容は、あくまで私個人の経験に基づくものであり、医学的根拠や正規の医療的見解を示すものではありません。治療や判断にあたっては、必ず専門の医療機関の指示を優先してください。 

    双極性障害という現実

     私は約二〇年前に双極性障害(躁うつ病)と診断された。鬱の時期は、鬱病の人と変わらない生活を余儀なくされる。それでも十年は会社員としてフルタイムで働いていた。

     今は症状も落ち着いている。だが、あのどん底の絶望感がどのようなものかを、正確に健常者に伝える言葉はいまだに見つからない。いや、見つからないままでいいのかもしれない。どん底など、知らないほうがいいと心から思うからだ。


    「心の風邪」という誤解

     「鬱は心の風邪」という言葉がある。これを考えた人物は、よほどの楽観主義者か、あるいは想像力の欠けた病人だったのかもしれない。

     風邪で、自ら命を絶つ者がいるだろうか。

     世の中にある、健常者が考えた鬱への理解の言葉は、精神科医の著書も含めて「鬱病の真実」を伝えきれていない。だが、それを責めることもできない。

     たとえば、あなたが健康体だとして、がん患者の苦しさを本当に理解できるだろうか。私にも無理だ。病気とは、患ってみなければ分からない。だからこそ、理解しようとするよりも、可能な限り患者の状態に合わせて応える。それが最良の寄り添い方である。辛さや考え方を「分かろう」としすぎてはいけないんです。


    どん底の感覚

     それでも、少しでも伝わればと思って書こう。

     例えるなら、うつ病のどん底はインフルエンザで四〇℃近い熱を出して寝込んでいる状態に近い。何も考えられないほど辛く、眠っているときだけが唯一、その苦しさから逃げられる。

     それでも身体中が痛くて寝返りも打てない。眠ることもできない。トイレに行きたくても、ベッドから起き上がるだけで精一杯だ。食欲もないし、汗を流したくても風呂に入る余裕などない。


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     そこへ家族が来て、「大丈夫? 熱はどう? 食べたいものはある?」と声をかけてきたら、黙って放っておいてくれと思うだろう。

     軽く言っても、鬱のどん底はこの十倍は辛いんだよ。

     風邪なら回復すれば好きなことでストレスを発散できる。だが、鬱は趣味やレジャーを楽しむ気力そのものが消える。週末を楽しみに働いていた人が、無期限の無休、しかも無給で働けと言われたらどう感じるだろうか。

     そんな絶望を、何ヶ月も味わい続けるのが鬱である。

    自傷行為の意味

     鬱と切っても切り離せないものに、自傷行為がある。主に手首などを傷つけるカットと、薬を一度に大量に飲むOD(過量服薬)のことだ。

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        はっきり言えば、これらは余程のことがない限り命を落とす行為ではない。慣れていない人からすれば「とんでもないこと」には映るんだろうね。

     だが、エスカレートしないのであれば、むしろ無理に止めないほうがいい。見守ってほしい。気づいていないふりをしてほしい。

     なぜなら、これらは「生きるための行為」だからだよ。

     自ら痛みや苦しみを与えることで、より耐え難い鬱の痛みを緩和している。私の腕には浅い傷跡が何十本と残っている。その多くは、会社で耐えきれなくなったときに人目を避けてつけたものだ。

     心地いい痛みを感じることで現実に戻れる。流れ出る赤を見ていると、体内の淀みが外へ流れ出ていくような感覚があり、安心と、ある種の恍惚すらあった。

     ODは、意識を飛ばしてでもこの苦しみから逃れたいという一心で行った。

     もちろん、カットは痕は残るし、ODも後遺症の可能性がゼロではない。それでも当時は「必要な行為」だったから後悔はしていないね。

    接し方という距離感

     では、どん底にいる患者とどう向き合えばいいのか。

     結論から言えば、極力干渉しないことだ。

     心配する気持ちは当然ある。だが、眠っていなくてもベッドから動かないときは、声をかけないほうがいい。患者にとって、一人だけの世界が唯一の避難場所だからだ。

     たとえば、外出先で急に激しい便意に襲われ、必死にトイレを探しているときに「大丈夫? 我慢できる?」と繰り返し聞かれたらどう感じるか。相手が家族でも、返事どころか苛立ちを覚えるはずだ。

     「鬱に頑張っては禁句」とよく言われる。少なくとも、ベッドにいる段階では、どんな言葉も禁句だと思っておけばいい。

     ただし、一つだけ重要な注意もある。

     見守りに切り替える前に、「辛そうだから声かけは控える」「何か必要なときはいつでも言ってほしい」と伝えておくことだ。見捨てたわけではない、距離を置いているだけだと理解してもらう必要がある。

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     これを怠ると、患者は自分の存在そのものを否定されたと感じ、心を閉ざしてしまう。

    「頑張って」は本当に禁句か

     「頑張って」は禁句だと書いたが、正確には少し違う。

     回復段階にある患者に対して、漠然とした「頑張って」が禁句なのである。

     本人からすれば、「自分の苦しさも知らないくせに何を頑張れと言うのか」と、怒りや諦めに変わることがある。鬱は、相手の共感の浅さを見抜くという意味でも厄介な病気だ。

     一方で、回復が進み、社会復帰など具体的な目標が見えてきた段階では、「頑張って」が前向きに働くこともある。たとえば、「今日は運動する日なんでしょう? 無理しない程度に頑張って」といった言葉は有効だ。

    要は「本人が自主的に頑張ろうとしているのか」「何を頑張ろうとしているのか」が分かっているときです。


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     ただし、この回復過程には別の注意も必要だ。

     特に、ベッドから起きられるようになり、行動範囲が広がり始めた時期。身体は動くが、心はまだ不安定である。この段階では、衝動的にふらりと姿を消すことがある。絶対無事に帰ってくるという保証もないからね。

      急に明るくなったように見えても、どこか作られた笑顔に感じる――そんな違和感があれば、静かに注意して見守ってほしいんです。

    最後に

     色々と書いたが、ここにあるのは必要最小限の話にすぎない。

     精神科医の著書には「うつ病は三〜六ヶ月で治る人もいる」と書かれていることがある。だが、少なくとも私はそのようなケースをほとんど見たことがない。

        鬱は、経験した者にしか分からないことばかりだし、私自身もすべてを知っているわけではない。辛さの感じ方も人によりけりなんだよ。

     それでも、もしこの文章に少しでも共感や理解のきっかけを感じてもらえたなら、続きを書こうと思う。


    了




     
     
    50代前半。 素人だから気づいた経済の面白さから、自ら双極性障害歴20年でもある経験をいかした精神医学や日々の気づきまで、思ったことを徒然に書いています。過去の記事はマガジンにあります。 Amazonのアソシエイトとして、適正販売により収入を得ています。

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