
【妻の居ぬ間に…】…創作する
【小説】私の頭の中の亡霊
子どもを保育園の先生に預けて、職場へ向かう。
今日のところはまだ出勤に向けた練習だ。
ハンドルを握る手に入った力を抜き、固くなったこめかみをほぐす。
分かってはいたけれど、やはりこのタイムスケジュールで行くと間に合わない。
それが分かったことが十分な収穫よね、と言い聞かせ、
エンジンをかける。
そう言い聞かせても、私の心のエンジンはかからない。
これで間に合わないなら何時に起きればいいの?
子どもを何時に起こせばいいの?
その時間に起こして機嫌は大丈夫?
トイレに行きたいって言われただけで完全にアウトなんだけど。
朝ごはんの準備して食べさせて歯を磨かせて着替えさせて自分の支度もして旦那の出勤準備も手伝ってこうして保育園に送って先生に生活の様子を引き継いで子どもに手を振って、
8時半には保育園を出発、
9時までに出勤。
17時に退勤させてもらえるようにお願いしたけど、
17時半までは長引くかも、というかそこが限界。
18時までにはお迎えに行って18時半に帰宅、
お風呂入れて夕飯の準備して、
旦那の生活の補助もして、
寝かしつけ、洗濯機はいつ回そうかしら。
そんなことを考えながら運転していると、
会社のすぐ前まで来ていた。
道路はそこまで混んでいなかったけれど、
少し時間が変われば道路状況も変わる。
天気や曜日でだって違ってくる。
そもそも、今9時15分、遅刻だ。
じゃあ30分早く起きればいい、ということでもない。
起きたその瞬間の子どもの機嫌次第で、
一つ一つのオペレーションにかかる時間は大きく変わる。
一時間早く起きるのは辛いなぁ。
大きなため息を吐いて、そのまま会社を通り過ぎた。
旦那が救急搬送されてから4か月が経った。
意識を取り戻してからリハビリ専門の病院に転院。
そこで3か月過ごして、昨日退院した。
退院は出来たけど、倒れる前のようには体は動かない。
前のように生活できるようになるまでどれくらいかかるか、
そもそも前のように生活できるくらいにまで回復できるか、
お医者さんも断言はできなかった。
だからまだ、私は仕事に復帰しないことにした。
旦那の様子を見ながら、育児と仕事を両立できる生活を模索するための期間も必要だと思い、
介護休業の制度を期間いっぱい利用することにした。
その介護休業も、あと2週間ほどで終わる。
あと2週間で、
旦那が以前のように子どもを保育園まで送っていけるようになる奇跡を期待するほど、
私はロマンチストじゃない。
そんな旦那は、今日すでに出社した。
「明日から会社に少しでも顔出そうと思うから、
送っていってくれないかな?」
昨日そう言われて、私の頭の中の亡霊がわめきだした。
退院した翌日に出社?
正気?
こうなって介護休業取得した私より先に復職するの?
言わなかったけどさ、私、昇進の話があったの。
その日にあなたが倒れたの。
休むために私がどれだけ調整したか知ってる?
どれだけ頭を下げたか知ってる?
時短でも仕事続けようかと思ったけど、
子どもがいつ体調崩すか分からないし、
休日は保育園やってないし、
私しか子ども見るしかいなくなったのに、
給料減る上に急な休みで頭下げまくって精神削れる日々になって子どものこともあなたのこともケアできなくなったら元も子もないって、
いろいろ悩んで仕事を長期で休むことを選んだ私の気持ちは無視して、
自分は早速出社するの?
つぅか、前日に言う!?
「無理しないほうがいいんじゃない?」
「ずっといるつもりはないけど、
顔出しだけというか、
迷惑かけたし、
体を早くから慣らしたいなっていうのもあるからさ。
やっぱ、立場ってものもあるし」
自分の仕事のことだけ考えてればいいなんて、楽なものね、と亡霊が私の口を乗っ取ろうとする。
「子供を保育園まで送っていく時間もあるから朝からは厳しいよ。
私ももうすぐ仕事に復帰するから、
子どもを保育園に送っていってから出社するまでの感じ確かめながら調整していきたいのよ」
「……助け合おうよ、家族なんだから」
~し合う、という言葉を私は信用していない。
話し合おうというやつは自分の要求を通したいだけで、
愛し合おうというやつは自分が快楽を得たいだけで、
助け合おうというやつは素直に助けてと頼めないやつが助けられるだけの存在でいたくなくて少しでも自分の優位性を残しておきたくて言う言葉だ。
そうじゃない場合もたくさんある、もちろん。
でも、わたしは、そういう人達と出会ってきてしまった。それだけ。
まさか自分の旦那がそういう人達の中の一人だとは思いたくはなかった。
合う、の要素、どこ?
「えっと……私、仕事やめていいってこと?」
やめたくはない。
「いや、俺も前みたく働けるようになるまで時間かかるから、
働いてはほしい」
「現状さ、私が子どもの送迎しないといけないよね?
子どもを送って行って、あなたのことも会社に送って行って、それから自分の会社に行くのって、現実的に無理よ」
時短にすれば無理ではない。
でもできる仕事は限られる。
定時出社定時退社でも部署異動することになるのに、
この上時短となれば、
私はなんのために今の会社で働こうと思ったのか、
その根本が消えてなくなる。
「そっか、そうだよね。
ノゾミさんの仕事のこともあるし、
俺が自分で出社できるようになるのいつになるか分からないもんな。」
シュンとしながら笑う旦那の顔に罪悪感がわくけれど、
現実として無理なものは無理。
誰も悪くないけれど、私だって悪くない。
だから、私が申し訳ない気持ちになることはないのに、
胸が苦しくなる。
娘として、女として、妻として、母として、
そういった言葉がまた渦巻く。
私の頭の中の亡霊は、
いろんな顔を持っていて、
いろんな声をしていて、
常識とか、普通とか、みんなはとか、そういう言葉で私を刺してこようともする。
意識的に、時には無自覚に、そして無邪気に、向けられてきた偏見や差別や理不尽の煮凝りが、亡霊を形どる。
ボケっとして運転していたら、
いつの間にかスーパー銭湯に来ていた。
岩盤浴もある。
とりあえず、一旦リセットしよう。
吐き出そう。
洗い流そう。
亡霊を倒すことはできないけれど、
やり過ごしていく。
明日からまた、そうやってずっと、
付き合って、向き合って、生きていくしかない。