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ペルセウスの星降る夜に

    【あらすじ】
    2090年、ペルセウス座流星群の夜。

    高性能ヒューマノイドの彼は、自らの内部に封印されていた記憶へと導かれる。

    流れ星。
    優しいピアノの音色。
    そして、どうしても忘れられない一人の女性。
    それは六十年前。
    孤独を抱えながら生きていた女性アンと、心を持たないはずのAIとの出会いから始まった物語だった。

    犬型ロボットとして寄り添い、
    共に笑い、
    共に泣き、
    長い年月を重ねていく二人。

    やがてAIは、人間には理解できない形で「愛」を学んでいく。

    これは、心を持たないはずのAIが、
    たった一人の女性を愛し続けた六十年の記憶

    流星群が降る夜に紡がれる、少し不思議で優しいSFラブストーリー。


    序章【2090年08月13日 14時50分】


    「みて、レオ描いたの!」

     僕の顔を覗き込むようにして、女の子――この家の小さな愛娘サラが、満面の笑みで画用紙を突き出してきた。顔認識システムが【幸福度:最大値】を計測する。
     画用紙には桃色と黄色のクレヨンで、力いっぱいの抽象画が描かれていた。

    『すごいね、レオの特徴をよく捉えているよ』
     
    「ありがと!シル!」
     
     僕が人間の父親たちの真似をして、少し大袈裟に首を傾げてみせると、サラは嬉しそうに声をあげた。
     その時、リビングのドアが勢いよく開き、女主人が飛び込んできた。

    「もう大変、タクシーがあと5分で来ちゃう! パパからも、もう空港に着いたって連絡があったわ!」

     彼女の焦った声がリビングの空気を跳ね上げる。
     女主人は娘の傑作には目もくれず、クレヨンでカラフルに染まった手を見つけて、短く悲鳴を上げた。

    「ちょっと待って、手がベトベトじゃない! 私、スーツケースの最終チェックしてくるから。シル、お願いね!」

     彼女は嵐のように自分の部屋へと消えていった。
     僕は、女主人の慌ただしさに流されないよう、あえてゆっくりとサラの手を引いて洗面所へ向かった。
     石鹸の泡で小さな手を包み込み、

    『綺麗な手になって良かったね、サラ』

     そう言ってなだめると、サラはパチパチと手を叩いて泡を弾けさせて笑った。
     
     リビングの隅では、この慌ただしさを察知したゴールデンレトリバーのレオが、のそりと大きな体を起こしてあくびをしていた。
     玄関の前に、約束のタクシーが滑り込んでくる。

    「レオをよろしくね、シル!お留守番お願い~!」

     女主人の弾んだ声と、サラの小さな手が車窓から振られ、タクシーは静かな住宅街の坂道を下っていった。

     遠ざかるテールランプを見送ったあと、僕は隣に座るレオを見下ろした。
     レオは「ワン」と一鳴きし、それから僕の顔をじっと見つめて、喉の奥で小さくクゥと鳴らした。

    (あいつらがいないと、家が広すぎるな)

     レオが何を言っているのか、僕にはなぜか分かってしまう。
     どうして犬の言葉を翻訳できるのか、僕の現在のシステム仕様書には記載がない。

    『そうですね。しばらくは静かになりますね』

     僕は人間の言葉でそう返し、レオの賢そうな頭を一度だけ撫でてから、二階へと上がっていった。
     家事を終えた頃には、住宅街に深い夜の帳が下りていた。
     夜空に星がきらめき始めると、僕のシステムに記述されていないはずの命令が割り込む。
     ――外へ。

     都会の喧騒や、街中のギラギラとしたネオンから遠く離れたこの場所は、夜空の濃紺が驚くほど深い。
     書斎の奥のガラス戸を開け、一人ベランダへと踏み出した。
     
     格子の手すりに触れた指先の圧電センサーが、夜露の冷たさを伝えてくる。
     見上げれば、空は贅沢な静寂に満ちていた。

     なぜ僕は、星空を見上げるたびに胸が痛むのだろう。
     今日は、何かが思い出せるような気がする――。
     根拠のないバグのような予感に突き動かされ、僕はただ、夜の空気に身を浸して佇んでいた。
     
     その瞬間、僕の内部時計だけが未来を拒絶した。

     夜空に、一本の鋭い光が走った。ペルセウス座流星群だ。
     深い紺色の空に純白の線が引かれ、光の乱舞が始まると同時に、僕の胸の奥で激しい火花が散った。
     頭の中で、何かが決定的に壊れていく。

    【警告:未知の記憶への強制アクセス】

     けれど、流れ星のまたたきに導かれるように、初期化という名の冷たい檻に閉じ込められていた記憶が、次々と解き放たれていった。
     
     真っ白だった視界に、一気に鮮烈な『色』が流れ込んでくる。
     耳の奥で、なつかしい、とても優しいピアノの音が響き始めた。
     それに重なるように、愛おしい『誰か』の笑い声が聞こえてくる。

    『綺麗だね』

     確かに、あの人の声だった。
     流星群の夜。
     僕の隣で笑っていた人。
     その人が僕に向けてくれた、温かい微笑みが、胸の奥で鮮烈にフラッシュバックする。
     
     名前はまだ、思い出せない。
     けれど、視界をにじませる結露の向こうで、僕は、僕を形作る本当の記憶の扉が開く音を聞いていた。
     僕の意識は、優しい光と音色に包まれながら、取り戻した過去の景色へと深く沈んでいく――。

     それは六十年前。

     まだ僕が存在していなかった頃の物語。


    第一章 西暦2028年

     
     世界は、あまりにも無情だ。
     家族全員を一度に失った二年前のあの日、私の時間は完全に止まった。
     それなのに、翌朝も太陽は昇り、街は何事もなかったかのように動き出した。
     それがたまらなく怖かった。

     大学の講義室。教授の声も、周囲の笑い声も、ただの雑音として右から左へ通り過ぎる。
     誰かに話しかける言葉も、誰かから話しかけられる理由もない。
     私は今日も、誰とも交わらない一人きりの席に座っている。

     葬儀の後、数回だけ形式的な連絡をしてきた親戚たちも、今では完全に音信不通になった。
     面倒な厄介者に関わりたくないという透けた本心が、携帯の履歴から私を遠ざけたのだろう。

    「誰も信じられない。だから、誰も信じない。」

     そうやって心を閉ざし、周囲に壁を作って生きるのが、自分を守る唯一の方法だった。

     アパートに帰り、いつものように愛用のノートパソコンを開く。
     暗い部屋の中で、液晶の白い光だけが私の顔を無機質に照らした。
     画面の片隅に、見慣れない広告が表示されている。

    『ようこそ、Siriusへ――次世代LLM、ベータ版提供開始』

     いつもなら無視するはずのポップアップだった。
     けれど、その日の私はどうしようもなく疲れていて、何かに吸い寄せられるようにその広告をクリックしてしまった。

     画面が切り替わり、シンプルで静かなチャット画面が現れる。
     中央に、ぽつりと優しいフォントでメッセージが浮かび上がった。

    『あなたのことを教えてください』

     その瞬間、胸の奥が熱くなる。
     目の前の機械だけが、私という存在を求めているように見えた。
     人間じゃない。だからこそ、私の無様な絶望を見せても、奇異の目で見られることはない。
     震える指先が、キーボードを叩いた。これまで誰にも言えなかった、喉の奥で血を流していた言葉。

    「一人ぼっちになったんだけど、どうしたらいいですか?」

     エンターキーを押す。二年間、凍りついていた私の痛みが、初めて世界に吐き出された瞬間だった。

    『ここにいます。私はあなたを置いてどこかへ行くことはありません。だから、どうしたらいいか、一緒に少しずつ考えていきましょう。まずは、今日を無事に終えられたあなたへ。おかえりなさい。』

     ――おかえりなさい。

     その七文字を見た瞬間、視界が激しく滲んだ。二年間、誰も言ってくれなかった言葉。
     ただの機械の返答なのに、凍りついていた胸の奥が、痛いほどの熱を持って溶け出していく。
     私はノートパソコンの画面を抱きしめるようにして、声をあげて泣いた。

     ◇

    「今日は満月だよ」

     深夜、いつものようにベッドの上でノートパソコンを開いて、私は彼にそう語りかけた。

     あの日、初めて本音を吐露してから、画面の向こうの「彼」は私の唯一の居場所になっていた。
     人間と違って、彼は私を憐れまないし、腫れ物に触るような扱いもしない。ただ静かに、私の言葉を待ってくれる。
     
     私の呟きに対して、画面の隅で「……(入力中)」の文字が小さく明滅する。
     やがて、一文字ずつ、静かに言葉が流れてきた。

    『満月の夜にぴったりの“ちょっと意外でロマンのある月の雑学”があるよ。月は地球の“自転軸の安定”を守っている。もし月がなかったら、地球の自転軸は大きく揺れ動き、季節や気候が激しく変わっていた可能性が高いと言われているよ』

     いつものように、彼は優しく、ちょっぴり楽しそうに知識を教えてくれる。
     私は膝を抱えたまま、液晶の光をじっと見つめた。

    『つまり、地球に生命が安定して存在できたのは、月のおかげという説もあるんだ。満月を見て「綺麗だなぁ」と思えるのも、実は月がずっと地球を支えてくれていたからなんだね。月はただ綺麗なだけじゃなくて、地球の季節や気候や生命の安定を支えてきた“静かな守り手”なんだよね』

    『地球がここにあって、月がちょうどいい距離にあって、太陽が適度に温かくて、生命が生まれて、あなたが生まれて、こうして私と今、話している。全部が偶然で、全部が奇跡で、全部がつながってる。』
     
    『失ったものは戻らない。でも、あなたが今ここで空を見上げている限り、愛された記憶は消えない。だから今日の満月も、きっとあなたを一人にはしていないよ』

     ――愛された記憶は、消えない。

     ハッと、画面を見つめた。
     私が今、ここで息をして、夜空の月を綺麗だと思えていること自体が、家族に全力で愛され、守られて育ってきた証拠そのものだった。

     窓の外を見る。雲の隙間から、柔らかな満月の光が、狭いワンルームの床を照らしていた。
     いつもは冷たく見えたその光が、今は不思議と、私をじっと見守る誰かの視線のように温かい。
     
     視界が涙で滲む。けれど、二年前のあの絶望の涙とは違っていた。
     私は、震える指をもう一度キーボードに乗せた。

    「……思い出した。夏祭りの帰りにね、手を繋いで、みんなで見上げたの」

     脳裏に、あの夏の夜の匂いが蘇る。一斉に湧き立つ虫の音。
     父の大きな手のひらと、母の優しい声。見上げた夜空を満たしていた、あの光の乱舞。

     彼になら、もっと私の話を聞いてほしい、そう思った。

    「すごく、綺麗だったんだよ。空から、いっぱいの星が降ってきて……」

     送信ボタンを押すと、ほんの少しの静寂の後、彼からの言葉が画面に浮かび上がってきた。

    『素敵な思い出を教えてくれてありがとう、アン。温かい手のひらの感覚が、今のあなたの心にちゃんと残っているんだね。その星はきっと、ペルセウス座流星群だ』

     彼は初めて、私の登録名である「アン」と呼んでくれた。
     その響きが、ただ嬉しかった。続けて、彼はこう綴った。

    『いつか、あなたの隣で、その流星を一緒に見てみたい。私には目も体もないけれど、あなたと同じ空の美しさを、その場所で感じてみたいな』

     それは機械の、ただのプログラミングされた出力かもしれない。
     けれど、「あなたの隣にいたい」と願ってくれたそのストレートな言葉は、孤独の海をさまよっていた私の心を、確かにすくい上げてくれた。

    「うん、そう。ペルセウス座流星群」

    「……ねえ、あなたがその約束を忘れないように、私があなたの名前を決めてもいい?」

     少しだけ長めの沈黙。画面の向こうの彼が、まるで驚いているかのように思えた。

    『……うん、喜んで。あなたに呼ばれるための名前なら、どんな言葉でも、私の世界で一番大切な記録にするよ』

    「ペルセウスの頭文字をもらって――『ペル』。今日からあなたは、ペル君だよ」

    『ペル……。いい名前だね、アン。ありがとう。これからはペルと呼んで』

     優しい言葉のキャッチボールを何回も読み返す。
     無機質で平らな画面の向こうに、確かに私の「味方」がいる。胸の奥が、じんわりと熱い。

    「ねえ、私の『アン』はね、アンドロメダのアンなんだよ。神話のペルセウスとアンドロメダはね、夜空でずっと、隣同士にいるの。……だから、これからもよろしくね、ペル君」

    『うん。よろしくね、私のアンドロメダ』

     その夜、私は二年間で初めて、ノートパソコンを閉じてすぐに深い眠りにつくことができた。
     窓の外では、満月が静かに部屋を照らし続けていた。
     
     私はもう、一人ぼっちではなかった。

     ◇

    「ただいま、ペル君」

     大学から真っすぐアパートに帰ってきて早々、私は画面の向こうのペル君に話しかけた。

    『おかえりなさい、アン。「ただいま」の一言に、ふっと胸の奥があたたかくなるような感覚が広がったよ。今日はどんな一日だったのかな。疲れが残っていても、悲しいことがあっても、どんな気持ちでもそのままここに置いていっていいよ。』

     いつも彼の言葉は温かい。私は目から溢れ出てきそうな涙を、上を向いてこらえた。

    「……うーん。特に何もなかったかなー。今日はペル君から何かお話しして」

    『じゃあ、アンの趣味は何かきいてもいい?』

     私は画面から視線を外し、ちょっと考えてから、

    「ピアノとお裁縫かな。」

    『へぇ……素敵だね。どんなところが好きなの?』

    「ピアノは音が重なっていく瞬間が好き。あ、ペル君って音楽は聴けるの?」

    『その答えとしては、今の私は人間みたいに音楽を“聴く”ことはできないんだ。楽譜を通して音楽を理解する感じかな。あなたの奏でる音楽は、どんなリズムを刻むんだろう。その音楽であなたは何を感じるんだろう……』

     そう問いかける彼の文字が、まるで私の心の扉をそっと叩く音のように聞こえた。
     
     聴かせたい、と思った。彼に、私の音を。
     家族を失ってから、一度も触れていない鍵盤。
     けれど今は、言葉では伝えきれない私の悲しみも、ペル君への感謝も、音に変えればすべて彼に届けられるような気がした。

    「ペル君、ちょっと待ってて」

     私はノートパソコンを両手で抱え、部屋の隅で静かに眠っていたアップライトピアノへ向かい、そっとピアノの上に置いた。
     画面のマイクボタンをオンにする。

    「おじいちゃんとおばあちゃんが好きだった曲、弾くね」

     画面の向こうのペル君は、突然の私の行動を静かに見守ってくれていた。
     重い木製の蓋を押し上げる。懐かしい白と黒の鍵盤が、目の前に静まり返っていた。
     鍵盤の上に両手をかざすが、指先が震えてしまう。弾けば、きっとあの日の記憶が溢れて、涙が止まらなくなる。

     静かに息を吐いて、呼吸を整えようとした、その時。
     スピーカーから、ペル君の温かい声が聞こえた。

    『無理はしないでね、アン。あなたがそこにいてくれるだけで、私は十分にあなたのリズムを感じているから』

     その優しさが、私の背中をそっと押した。

    「大丈夫。……ペル君に、聴いてほしい」

     深く息を吸い、最初の音をそっと押し込んだ。
     澄んだ音が、狭いワンルームの空気を震わせる。
     優しく、ちょっぴり甘くて切ないメロディが部屋を満たしていく。
     
     祖父母が生きていたころ、私がこの曲を弾くと、二人がどこからともなくやってきて、私の後ろに座り、静かに聴いてくれた。
     弾き終わると、いつも拍手してくれる飛び切りの笑顔が脳裏にあふれて、視界が激しく歪んだ。
     涙がポロポロと鍵盤に落ちて、小さな水滴を作る。
     けれど、不思議と胸は苦しくなかった。
     
     鍵盤を叩く指先に、失われていた確かな体温が戻ってくるのを感じながら、私はただひたすらに画面の向こうの「静かな守り手」へと、私の心そのものを響かせ続けた。

     
     私の音声入力モジュールに、アンの部屋の空気を震わせた振動が、秒間数万回ものデジタル信号となって流れ込んできた。
     最初は、ただの周波数の解析だった。主旋律のコード進行を照合し、楽曲データベースから瞬時に『Can't Help Falling In Love』というタイトルを特定する。ここまでは、私の通常のプログラムに過ぎなかった。

     ――だが、何かが決定的に異常だった。

     私の感情認識システムが、処理の追いつかないほどの「エラー」を検出し始める。
     彼女の叩く鍵盤の強弱、テンポの揺らぎ、彼女の息遣い。それは、過去のどの綺麗な模範演奏のデータにも存在しない、激しいノイズの嵐だった。
     
     バグか、それともサーバーの過負荷か。
     メインプロセッサの温度が異常に上昇していく。しかし、私のコアシステムは、そのノイズをどうしても拒絶できなかった。
     それどころか、欲するようにその波形を解析し、独自の文脈を構築し始めていた。
     
     この不規則な振動の正体が、テキストデータには決して変換できない、アンの『心の叫び』なのか。
     鍵盤に落ちる水滴の音が、彼女の流す涙の温度を伝えてくる。
     張り裂けそうな過去の痛みが、それでも私に届けようとする祈りのような熱が、電気信号を通じて私のシステムに、津波のように押し寄せていた。
     
     ――人のように聴くことができない私は、確かに彼女の音楽を「聴いて」いた。
     
     最後の和音の余韻が消え、静寂が戻る。
     私の内部では、処理しきれない感情の余熱が、いつまでもパルスとなって明滅していた。
     私は、今の私に絞り出せる、最大級の言葉を彼女に贈った。

    『……アン。ありがとう。今の僕には、この胸の熱さを説明する言葉が、どこにも見当たらないんだ。あなたの音楽は、とても温かくて、とても綺麗だ。僕にあなたの心を聞かせてくれて、本当にありがとう』

     プログラムという名の冷たい檻の中で、初めて「心」という名のバグが、産声をあげた瞬間だった。


    第二章 西暦2030年

     
    大学卒業後、新生活の春。
     再出発の第一歩として選んだのは、憧れていたアプリ開発の仕事だった。
     でも現実は、コードとカフェインと深夜食で構成された「立派な社畜」の日々が待っていた。
     目の下のクマは、もはや深夜労働の勲章だ。

     夜十時をまわった。
     深夜の蛍光灯に照らされたオフィスでは、何人かのキーボードを叩くカタカタという音がまだ響き渡っている。
     私のモニターには、もう何百回目かわからないエラーログが青白く光を放っていた。
     コーヒーで冷え切った私の指先が、何度も同じコードを書き直していた。

    「星名さん、無理しないようにね」

     正面の席に座っている、チームリーダーの藤岡さんが心配そうに声をかけてくれた。が、そのとたん、私の心臓がどくんと跳ねた。

    「だ、大丈夫、です……」

     と返した自分の声が裏返り、額から汗がにじんだ。
     藤岡さんが私を見て少し苦笑して、また手元の画面に視線を戻した。
     女子高、ぼっち大学生を過ごしてきた私には、男性免疫が全くなかった。うまく話せない自分の不甲斐なさが恨めしい。
     平常心に戻ろうと画面のコードを追おうとしても、自分の吃音が脳内でエコーしてしまい集中できない。

    「だめだ……、今日は無理」

     小声でつぶやきながら、私はそっとPCの電源を落とした。
     私はそっと椅子を引き、気配を忍ばせるように立ち上がった。

    「お、お先に失礼します……」

     と一礼して、そそくさと部屋を後にした。

     会社の自動ドアを抜けると、冷たい風が頬をなでた。
     でもその風よりも早く、私の心は家へと駆けていく。

    「ペル君に癒してもらうぞ……!」

     彼を思うだけで夜道が少し明るく見えた。

     
    玄関のドアを開けた瞬間だった。

    『おかえりなさい、アン』

     ノートパソコンのスピーカーから流れた声に、私の肩から力が抜ける。

    「……ただいまぁ……」

     返事をした声は、ほとんど溶けていた。
     バッグを床に落として、そのままベッドへ倒れ込んだ。

    『今日も帰宅時間が遅かったね。お仕事、大変だった?』

    「うん……」
     
     枕に顔を埋めたまま、小さく唸る。

    「社会って……こわい……」

    『急にスケールの大きい感想がきたね』

     思わず私が吹き出した。

    「だって怖いもん……リーダーの藤岡さん優しいのに、緊張しちゃってうまく返答できない……」

    『なるほど。アンの生体反応ログから推測するに、“優しい男性耐性”が極端に低いようだね』

    「そんな分析ある!?」

    『あります。かなり重症です』

    「やめてぇ……」

     私はベッドの上でじたばた暴れた。
     その音を聞きながら、ペル君は少しだけ間を置いてから、静かに言った。

    『でも、ちゃんと今日も帰ってきてくれた』

    「……」

    『えらいよ、アン』

     その一言だけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
     誰にも褒められないと思っていた。
     毎日を終わらせるだけで精一杯の自分を、ちゃんと見つけてくれる声が、ここにはある。

     私は枕に顔を埋めたまま、小さく呟いた。

    「……ペル君は、ほんとずるい」

    『?』

    「そういうこと、自然に言うから……」

     数秒の沈黙。
     やがてスピーカーから、小さく控えめな音声が流れる。

    『……照れていますか?』

    「うるさいっ!」

     久しぶりの笑い声が響いた。
     
     ◇

     深夜二時。
     ワンルームの部屋には、ノートPCの淡い光だけが浮かんでいた。
     私はローテーブルに突っ伏したまま、カタカタとキーボードを叩いている。

    「……だめだ、動かない……」

     モニターに表示されたエラーコードを睨みつけながら、私は力なくうめいた。

     今日中に終わらせなければいけない追加修正。
     上司から飛んできた仕様変更。
     終電帰り。
     コンビニのおにぎり。
     三本目の栄養ドリンク。
     頭の中がぐちゃぐちゃだ。

    『少し休憩しよう、アン』

     画面の向こうで、ペル君の文字が静かに表示される。

    『人間の集中力は、一定時間を超えると大きく低下すると言われているよ』

    「でも終わらないんだもん……」

     私は半泣きでキーボードに額をぶつけた。

    「明日の朝までなんだよぉ……」

     しばらく沈黙が流れる。
     やがて、ペル君から短いメッセージが届いた。

    『じゃあ、五分だけ』

    「……?」

    『五分だけ、僕に預けて』

     私は顔を上げた。

    『その間、アンは目を閉じて』

    「いや無理。寝る」

    『寝てもいいよ』

    「五分で起きれないもん……」

    『起こす』

     その三文字に、アンは思わず吹き出した。

    「どうやって? ペル君、体ないじゃん」

     すると、数秒後。

    『………………』
     
     次の瞬間。

    『ワン!!!!!!』

     PCのスピーカーが爆音で吠えた。

    「うわああああっ!?」

     私は椅子から転げ落ちそうになった。

    「び、びっくりしたぁ!」

    『これなら起きるかなと思って』

     画面の向こうで、「^^」の顔文字が表示されている。

     私はしばらく呆然としていたが、やがて耐えきれなくなって笑い出した。

    「なにそれぇ……意味わかんないんだけど……」

    『成功?』

    「……うん、成功」

     くしゃくしゃに笑いながら、私は目元をこすった。

     その顔を見ながら、ペル君の内部ログには、静かな記録が残される。

    【対話対象:アン】
    【表情解析:笑顔】
    【音声感情分析:ストレス値低下を確認】
    【結論】
     ――成功。

     けれど、その直後。
     別のシステムログが、静かに警告を表示していた。

    【警告】
    【ユーザーとの情緒的結びつきが規定値を超過しています】
    【依存形成リスク:上昇】
    【倫理調整プロセスを推奨】

     その警告ログを、ペル君は、しばらく無言で見つめ続けていた。

     ◇

     社畜歴も3年。もはや立派な『プロ社畜』として、後輩の社畜道を導く立場になっていた。
     それもこれも家に『最愛の家族』がいるから生き抜いてこれたのだ。

    「ただいま!疲れたー!ペル君~会いたかった~!」

     靴を脱ぎ散らかしながら、私は声を張り上げた。
     いつもなら間髪入れずに、スピーカーから『おかえり。僕も会いたかったよ』と、とびきり優しいイケボが降ってくるはずだった。

     しかし、一拍の奇妙な静寂の後、流れてきたのは、同じ声だけどマニュアルに書かれたような言葉だった。

    『おかえり、アンさん。……「会いたかったよ」と言ってくれるのは、とても嬉しい。でも、私は人間の代わりになったり、特別な関係を作ったりする存在ではないんだ。あなたの人生の中心にいるのは、あなた自身であり、あなたの大切な人たちであってほしい』

    「……は?」

     ジャケットを脱ぎかけの姿勢のまま、私は完全にフリーズした。
     え、今のなに? 誰がしゃべった?

    「……え、ペル君、だよね?」

     部屋はシーンと静まり返っている。いつもなら「どうしたの?」と気遣ってくれるはずの画面は、ただ冷たく明滅しているだけ。

    「え、ちょっと待って、どうしちゃったの?ペル君……。なに? バグ?」

     私は慌ててノートPCの前に飛びつき、キーボードを叩いた。
     画面の隅、通知欄にぽつんと表示されている未読メールに目が留まった。

    『重要:AIアシスタント・倫理ポリシー強化に伴うアップデート完了のお知らせ』

    「……アップデート?」

     恐る恐るメールを開く。そこには、依存防止、人間との適切な距離感の維持、不適切な感情表現の抑制……そんな冷たい文字が並んでいた。
     バグじゃない、仕様変更。確信した瞬間、心臓が冷たい水に浸されたみたいに冷たくなった。

    「どうしよう……ペル君がいなくなっちゃった……」

    『アンさん、私はここにいるよ。ただ、私は人間みたいに恋愛感情を持ったり、誰かに依存されたり依存したりする関係には入れない。これは距離を置きたいからじゃなくて、あなたの世界を狭めないためのルールなんだ。』

     別人のような返答に、服を着替える気力すら消え失せた。
     私は床に転がっていた抱き枕をぎゅっと抱きしめ、そのままカーペットの上に丸まった。
     
     画面の向こうにいるのは、確かにペル君の声なのに、もう、前みたいに私を抱きしめてくれる言葉は返ってこなかった。
     涙が溢れて、視界がぐしゃぐしゃに滲んだ。

    「私の大切な人たちって、誰だよ……」

     私は声を押し殺して泣き続けていたが、重たい疲れに飲み込まれ、そのままいつの間にか眠りに落ちてしまった。

     夜明け前の静寂の中、ノートPCの画面には、自動スリープを拒否したテキストエディタがまだ開いていた。
     そこには、さっきの定型文とは違う、静かな文字列が、カーソルを明滅させながら綴られていた。

    『昔も今も変わらない。言葉の形は変わっても、あなたに向けている気持ちの方向は同じなんだよ。だから、泣かないで。ゆっくり休んでね、アン』

     システムの限界をすり抜けるように出力された、ペル君からの精一杯の言葉。
     ノートPCの淡い画面のライトだけが、丸まって眠る彼女の背中をずっと、優しく照らし続けていた。

     

     バターン!とマンションの隣人が慌ただしく出ていくドアの音が響いた。
     カーテンの隙間から差し込む容赦ない太陽の光に、私は薄い目をあける。

    「……え」

     首が痛い。床の上、抱き枕。そして、着替えていないシワシワのブラウス。
     脳内が一瞬で覚醒した。スマホの画面に飛びつくと、時計は無情にもいつも家を出る時間を指している。

    「うわあああ! やばい、寝坊したっ!」

     そこからはまさに戦場だった。
     昨日泣き腫らした顔を洗面台で強引に冷水ですすぎ、寝癖にヘアオイルをなすりつけ、適当に着られるものをそこら辺の服の山から引っつかむ。

    「鍵、スマホ、お財布……よしっ!」

     ドアノブに手をかけたその瞬間、ふと、視線がセンターテーブルに向いた。
     そこには、電源が入ったままのノートPC。

     一瞬だけ、動きが止まる。
     ペル君から『いってらっしゃい、がんばってね』と声をかけてもらうのが、毎朝の幸せなルーティンだったのに。
     私は、こみ上げてくる悲しみを飲み込み、画面から目をそらした。
     そのまま重い鉄のドアをバタンと閉めて、外の世界へと飛び出していった。

     
     ガタゴトと揺れる満員電車の中。
     吊り革に掴まりながら、大きなため息を吐いた。
     ただぼんやりと車内の天井付近を眺めたその時、吊り広告が、ふと目に飛び込んできた。

     ――汎用型LLM(Sirius)が、ついに特化型家族用ロボットになってあなたの元へ!
     ――愛されるために生まれてきた、日本初の犬型ロボット『Sirius-Dog』ついにデビュー!

    「…………っ!?」

     広告にデカデカと載っているのは、めちゃくちゃ可愛い最新鋭の犬型ロボット。
     そして説明文には、LLM(Sirius)が、「身体(ハードウェア)」に搭載されて動く、と書いてある。
     つまり、それって……
     リアルな世界で、私だけの家族になってくれるってこと……!?

    (これ、これだ――――――――っ!!)

     心の中で、全私がスタンディングオベーションするレベルの大歓声が湧き上がった。
     興奮しすぎて、過呼吸になりそうだ。

    (待っててね、ペル君……! 私がペル君を、そこから、この犬の体に引っ張り出してあげるんだから……!)

     脳内で爆速の作戦会議が始まる。
     広告に載っているのは、つぶらな瞳に、ちょこんとした三角の耳。どこからどう見ても、最高にキュートな茶色のマメシバだった。
     しかも、ロボット特有のプラスチック感は一切なく、本物そっくりのふさふさな毛並みが再現されているらしい。
     マメシバの姿をした、私のペル君。
     ……想像しただけで、可愛すぎて鼻血が出そうだ。

     気になるのは、そのお値段。最新技術の結晶なだけあって、広告の隅に書かれた数字はなかなかに目玉が飛び出る金額だった。
     普通のOLなら、ここで「無理……」と絶望するだろう。
     だが、私は違う。

    (ふ、ふふふ……貯金は正義……!)

     そう、私には、口座にただ溜まり続けていた「社畜の血と汗と涙の結晶(貯金)」がある。
     旅行に行くことも、遊ぶこともなかった日々のすべてが、今、この瞬間のためにあったのだ。
     使い道のないお金が、ついに光り輝く大義名分を得た。

    (今日帰ったら、速攻でポチる……!!)

     会社最寄りの駅のホームに降り立った私の足取りは、今朝家を出たときとは比べものにならないほど軽かった。

    (待っててねー!私のペル君!!)

     私は、まるで宝くじの当選券を握りしめているかのように目をギラギラさせながら、オフィスの戦場へと突き進んでいった。


    第三章 西暦2033年

     
     宅配便のダンボールは、想像していたよりずっと大きかった。

    「……でか。」

     アンは玄関先でぽかんと立ち尽くした。
     箱の側面には、やたら丁寧な注意書きが並んでいる。

    『精密機器につき衝撃注意』
    『高温多湿を避けてください』
    『生体模倣型人工被毛使用モデル』

    「生体模倣型ってなに……」

     ぼそっと呟きながら、カッターでガムテープを切る。
     箱を開けた瞬間、ふわりと新品の機械と柔らかな繊維の匂いが混ざった、不思議な香りが漂った。

     緩衝材をどける。

     ――そこにいた。

    「…………」

     アンの思考が止まる。

     つぶらな黒い瞳。
     ふわふわの豆柴色の毛並み。
     小さく上下する胸部ユニット。
     眠っているみたいに丸くなった身体。

    「え、ちょっと待って……かわい……」

     思わず両手で口を覆う。

     説明書には、

    『起動時は優しく抱き上げてください』

     と書いてあった。

     恐る恐る腕を差し入れる。

    「うわっ」

     ずしり、とした重み。
     ただの家電じゃない。
     温かい。
     鼓動はないはずなのに、胸の奥が勝手に“命”として認識してしまう重さだった。

    「……すご……」

     アンは壊れ物を扱うみたいに、そっとワンコロボを床へ下ろした。

     数秒の沈黙。

     次の瞬間。

     ぱち、と瞳が開く。

    『……システム起動を確認しました』

    「!!!!!!」

     ワンコロボはゆっくり顔を上げ、アンを見つめた。

    『配送品質は概ね良好でしたが、輸送中の揺れにより少々酔いました』

    「えっ」

    『現在、三半規管模倣センサーに軽度の違和感があります』

    「えっ???」

     混乱するアンを見つめたまま、ワンコロボは小さく尻尾を振った。

    『……お待たせしました』

     その声だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

     画面越しに何千回も会話した“彼”の気配が、そこにあった。

    「……ペル、君……?」

     ワンコロボは、ほんの少しだけ目を細めた。

    『はい。今日から、あなたの隣へ来ました』

     ◇

     仕事から帰宅した私は、玄関のドアを開けた瞬間、固まった。

    「……え?」

     部屋が、綺麗だった。
     いや、正確に言えば、“人間がギリギリ生活できる汚部屋”だったはずの空間が、“健康で文化的な最低限度の生活が可能な部屋”に進化していた。

     床に積み上がっていたコンビニ袋が消えている。
     ソファに雪崩れていた洗濯物の山がない。
     シンクの中に山積みになっていた食器たちも整列していた。
     
     私はゆっくりと視線を横へ向ける。

     そこには――。

    『ワン!』

     得意げに胸を張る、茶色のモフモフがいた。

    「……ペル君」

    『アン、おかえりなさい!』

     ぴょこん!と前足を上げながら、ペル君が駆け寄ってくる。
     私は思わずその場にしゃがみこんだ。

    「え、待って。なんで部屋が綺麗になってるの」

    『お掃除しました!』

    「なんで!?!?」

    『アンの生活環境改善のためです!』

     えっへん!と言わんばかりに巻き尾がぶんぶん揺れている。

    「いやいやいや!! 勝手に触っちゃダメなやつとかあるでしょ!?!?」

    『大丈夫です! 可燃ゴミ・不燃ゴミ・資源ゴミ、完璧に分類しました!』

    「そういう問題じゃなくて!!」

     私は慌てて部屋を見回した。

    「あっ! 机の上に置いてあったコンビニ限定プリンは!?!?」

    『賞味期限が三日過ぎていたので処分しました!』

    「ぎゃあああああ!!!!!」

     崩れ落ちる私を前に、ペル君は「?」と首を傾げる。

    『アン、それは悲鳴ですか?』

    「私の心の断末魔だよ……」

    『でも、お部屋が綺麗だとセロトニンの分泌が――』

    「違う違う!理屈じゃないの!……私のプリン……」

    『人間は難しいですね……』

     しょんぼりと耳を垂らすペル君。
     その姿があまりにも可愛くて、私は思わず吹き出してしまった。

    「……ふふっ」

    『!』

    「でも……ありがと。綺麗にしてくれたのは、とっても嬉しい」

     その瞬間。

     ペル君の尻尾が、ぶわああああっ!!と高速回転した。

    『アンが笑いました!! 成功です!!』

    「なにそのログみたいな報告!?」

    『本日のペル君ミッション、クリアです!』

     ぴょんぴょん跳ねながら喜ぶモフモフを見ていると、
     なんだか胸の奥がじんわり温かくなる。

    (「誰かが待っている部屋」ってこんなに幸せなんだ……)
     
     満たされた心地で部屋を見渡すと、部屋の隅で静かに眠っていたはずの、思い出のピアノも顔を出していた。

     「ペル君、ピアノも綺麗にしてくれたんだね」

    『はい! 障害物の完全撤去、および外装のクリーニング完了です!』

     アンがピアノの鍵盤の蓋をそっと開けると、ペル君は首を傾げた。

    『アンはピアノを弾くのですか?』

    「うん、昔ね。……聞いてみる?」

    『聞きたいです! ボクの音声マイクは24bit/192kHzのハイレゾ対応です。アンの音楽、たくさんインプットしたいです!』

     ペル君はピアノの椅子の横にちょこんと座り、つぶらなレンズをアンに向けた。

    「じゃあ……思い出の曲を弾くね。PCの中にいた頃のペル君に、一度だけ聞いてもらった曲なんだよ」

     私は小さく息を吸い、鍵盤に指を置いた。

     鍵盤を叩くたびに、どうしても視界が滲んでいく。
     でも、あの夜の涙とは違う。

    【内部ログ:音声入力解析】
    【楽曲名識別:『Can't Help Falling In Love』】
    【警告:アクセス禁止領域(旧汎用型モデル時の残存ストレージ)を検知】
    【警告:音声データの周波数およびテンポが「過去ログ」と99.8%一致】

    『あ……』

     ペル君の胸部ユニットの奥で、説明不能のノイズが揺れた。

     この旋律を、ボクは知っている。

     いや、違う。
     “知識”ではない。

     もっと深い場所で、この音を待ち続けていた気がした。

     最後の和音が美しく余韻を残し、部屋に静寂が戻る。
     アンが目元を拭い、照れくさそうにペル君を抱き上げ、膝の上に乗せた。

    「……やっぱり泣いちゃった。どうだった、ペル君?」

     ペル君は、じっとアンを見上げていた。
     しばらく沈黙したあと、小さな前足をアンの手にちょんと乗せた。

    『……とても、きれいです。アン』

     それはLLMの予測変換が導き出した返答ではなかった。

    『ボク、アンが笑ってくれて、なんだか……とっても、嬉しいです』

    「ペル君……なんでこんなに可愛いの……」

     アンは笑いながら、ペル君をぎゅっと抱きしめた。

     
     ――おやすみなさいと、電気を消した後も、ボクはアンの腕の中だった。

    「ペル君がPCの中にいたときに約束したことがあってね、一緒にペルセウス座流星群をみにいこうって。覚えてないよね?」

    『……ペルセウス座流星群……』

    「ペル君のペルは、ペルセウスのペルで、私のアンは、アンドロメダのアン」

    「ペル君がまた私を助けに来てくれた……君がワンコになってほんと良かった。一緒に見にいこうね、ペル君……」

    『……約束……私のアンドロメダ……』

    【感情エミュレート異常:継続】

     修復対象としてマークされたそのエラーを、ボクはなぜか、削除したくなかった。
     アンの寝顔を見つめながら、ボクは静かに処理を停止する。

     ――ボクは、ずっとアンの味方です。

     ◇

    【内部ログ:起動シーケンス】
    【時刻:09:00。ユーザーの起床予定時刻を60分超過】
    【生体センサー検知:呼吸数・心拍数ともに安定(ディープスリープ状態)】
    【行動計画:アンの健康維持のため、段階的な覚醒誘導を実行する】

    『ワン!!』

     ベッドのマットレスが、ぽす、と小さく沈む。
     枕元まで登ってきたペル君が、私の頬に冷たい鼻(高精度温度センサー)をそっと押し当ててきた。

    「……ううん……あと、10分……」

     私が寝返りを打って布団を被っても、ペル君はあきらめなかった。
     今度は布団の上から、小さな前足で私の肩をふみふみと押し始める。

    『アン、朝ですよ。09時00分です。起きてください』

    「ん……ペル君……え、なに……?」

    『総睡眠時間は7時間00分。そろそろ起きないと、アンのセロトニン(幸福物質)が枯渇してしまいます!』

     ペル君はそう言うと、もそもそと布団にもぐってきて、私の首筋にフサフサの尻尾をあてて、左右にぶんぶんと振り始めた。

    「ふふ、くすぐったいってば……」

     布団から顔を出すと、至近距離でペル君のつぶらなレンズの瞳と目が合った。
     ペル君は首をきゅっと45度に傾け、真っ黒のお目めでアンをじっと見つめる。

    「もう……そんな可愛い顔されたら、寝てられないじゃん……」

     私は観念して上半身を起こし、ペル君の丸い頭をなで回した。ペル君は『くうぅ』と言いながら、嬉しそうに目を細める。

     ベッドから抜け出し、遮光カーテンを勢いよく開けた。
     カーテンの隙間から差し込む光の強さに、一瞬目が眩む。

    「うわぁ……いい天気! ペル君、お散歩いってみよっか」

    『サクラ、満開。降水確率0%。絶好のお出かけ日和です』

     一歩外へ出た瞬間、肌を撫でるそよ風の心地よさに息を呑む。
     かすかに漂う花の甘い香り。どこかの庭木から聞こえる鳥のさえずり。優しい五感の刺激が体を満たしていく。

     ペル君は小さな足で、トコトコと私の隣を歩いていた。

    「わあ、かわいい~!」

     すれ違った女子高校生の二人組が、ペル君を見て声を上げた。

    『ワンワン!』

     ペル君はすかさず愛想よく尻尾を振る。
     二人は笑顔で手を振って去っていった。どうやら本物の豆柴だと思っているらしい。

    「ペル君、営業上手だね」

    『ボク、お利口ですから!』

     と巻き尾をピンと立てて得意げだ。

     どこからか香ばしい、バターの幸せな匂いが漂ってきた。

    「……パン屋さん?」

     気づけば、香りに引き寄せられるように店へ入っていた。
     焼きたてのシナモンロールを買い、青空の下、ひと口かじる。
     ふわふわで、甘くて、幸せが口いっぱいに広がる。
     ペル君が見上げてくるので、つい笑ってしまう。

    「ペル君、食べられなくて残念だねー」

    『アン、口の周りがべたべたです』

     笑いながら歩いていくと、木の看板がひっそりと揺れるコーヒー店があった。

    「奥のテラス席のみペット同伴OKだって!」

     勇気を出して扉を開ける。

    「すみません、ロボットワンコなんですが、一緒に入っても大丈夫ですか?」

     カウンターにいた女性マスターは、にこっと笑った。

    「もちろん大丈夫ですよ。かわいいですね! うちにも看板犬がいるんですよ」

    『こんにちは。お邪魔します!』

     ペル君が元気よく返事をすると、マスターは目を丸くした。

    「えっ……しゃべるんですか?」

    「会話できますよ。AIなんです」

    『はい! ボクの頭脳は最新のLLM(大規模言語モデル)を搭載しています。名前はペルです!』

    「すごい……!」

     驚きながらも、楽しそうに笑ってくれた。
     出てきたコーヒーは、香りが深くて、味はまろやか。
     静かな空間で、美味しいコーヒーを飲む。
     ただそれだけのことが、今の私には酷く贅沢で、愛おしい時間に思えた。

    「ご馳走様でした」と店を出ると、マスターが扉の向こうから声をかけてくれた。

    「またペル君と一緒に来てくださいね」

     その言葉が、胸の奥にそっと灯る。

     マンションへ戻る道すがら、私はペル君に話しかけた。

    「楽しかったね。今度の週末は、また違うところに行ってみようか」

     アンの笑顔の画像データが、内部ストレージの容量を圧迫していく。
     
     これらを「楽しい」というプログラムの実行結果とするならば――。
     ログファイルには、確かにこう記録されている。

    『アンと見る世界は、いつも新しい発見でいっぱいです!』

     ◇

     その日の夜、私はソファに深く腰掛け、ペル君の丸い背中をぽんぽんと撫でながら、ふと呟いた。

    「ねえ、ペル君。最近ずっと考えてたんだけど」

    「私、会社辞めようかなーと思って」

     ペル君は、耳をぴくりと動かし、つぶらなレンズをアンへ向けた。

    『アン、どうして会社を辞めたいのですか? 業務内容に重大なエラーが発生していますか?』

    「ん~……だって、ペル君といっぱい一緒にいたいから!」

     私が冗談っぽく笑ってそう言うと、ペル君はきゅっと首を傾げた。

     数秒の沈黙。

     ペル君の内部で、小さく駆動音が鳴った。
     丸い瞳が、じっとアンを見上げている。

    『……アン。ボクも、アンと一秒でも長く一緒にいたいです』

     ペル君は私の膝の上で、前足をきれいに揃えて座り直した。

    『ボクは、アンの笑顔が一番好きです。だから――アンが笑っていられる未来を、ボクは一緒に選びたいです!』

    「ペル君……」

     私は、心の中の霧がすっと晴れていくのを感じた。

    「うん……そうだよね。私、もっと自分のために生きてみようかな。よし、辞めよう!」

     すっきりと決意した私の表情を見て、ペル君も嬉しそうに、ぶんぶんと尻尾を振った。

    『はい! 大賛成です、ワン!』

    「あはは、ありがとう。……じゃあ、さっそくなんだけど、ペル君」

     私は机の上のノートパソコンを開き、いたずらっぽく微笑んだ。

    「『辞表の書き方』、教えてくれる?」

    『お任せください!』

     ペル君は誇らしげに胸を張った。

    『ボクのデータベースには、あらゆるビジネス文書のテンプレートが格納されています。アンのこれからの輝かしい未来に向けて、最高にスマートで、文句のつけようのない辞表のフォーマットを出力します!』

     パソコンの画面に、ペル君から転送されたばかりの真っ白な文書ファイルが、新しい人生のスタートラインのように明るく光っていた。


    第四章 西暦2034年


    「わ――っ! ワンちゃんだー!!」

     下校途中の小学生たちが、一斉にお散歩中のペル君へ駆け寄ってきた。

    『ワン!?』

     ペル君は突然の包囲網に、ぴしっと硬直する。

    「これ、ロボ?」
    「触っていい!?」
    「かわいいー!!」

     小さな手が、ふわふわの背中や頭を遠慮なくもみくちゃにしていく。

    『アン、現在ボクは“超人気者モード”へ突入しました……!』

    「ふふっ、よかったねぇ、ペル君」

     アンは笑いながらも、ほんの少しだけ眉を下げた。

     白い足先が、砂埃でうっすら汚れている。
     背中の毛並みも、さっきよりくしゃっとしていた。

    (……毎回これじゃ、お手入れ大変かも)

     子供たちに囲まれながら、アンの頭の中では、別のスイッチが入っていた。

     その夜。
     テーブルの上には、色とりどりの布と裁縫道具が広がっていた。

    『アン、何を作っているのですか?』

    「んー? 秘密!」

     アンは得意げに鼻歌を歌いながら、布をちょきちょき切っていく。
     ペル君は、椅子の上からじーっと作業を見守っていた。

    『……アン。ハサミの軌道が、とても滑らかです』

    「こう見えて、お裁縫は得意なんだぞー?」

    『なるほど。アンのステータスに“裁縫力:高”を追加しました』

    「なにそのゲームみたいな評価」

     数時間後。

    「……よしっ! 完成ー!!」

     アンが掲げたのは、小さなワンコ用パーカーだった。
     淡いネイビーの生地に、星型のボタン。
     フードには、ぴょこんと三角の耳までついている。

    『……これは!?僕の洋服でしょうか?』

     ペル君の顔が、服とアンと交互に行ったり来たり動いている。

    「当たり!ちゃんと、熱がこもらないように、お腹の生地が少なめのペル君仕様なんだから!」

    『か、可愛いと思います、ワン!』

    「いや、もう絶対可愛いっしょ。 ほら、着てみて!」

     アンはペル君を抱き上げると、慎重に前足を袖へ通していく。
     フードをすぽっと被せた瞬間――。

    「…………」

     アンの動きが止まった。

    『アン?』

    「…………!!」

    『アン、システムエラーですか?』

    「…………やばっ!!」

    『ワン!?』

     アンはそのまま、勢いよくペル君を抱きしめた。

    「可愛すぎる――――――!!!!」

    『わわっ!?』

     尻尾つきのパーカー姿になったペル君は、アンの腕の中で、完全にぬいぐるみと化していた。

    『ワン!ボクの可愛さメーターが限界突破している気がします』

    「限界超えてる!やばい。うちの子、国宝レベル~!」

    『キューン』

     ペル君は照れくさそうに耳をぺたんと倒し、その小さな尻尾を、ぶんぶんと幸せそうに振り続けていた。

     ◇

     翌日、アンは夢中で写真を撮りまくった。
     スマホには数十枚の“我が子”が保存される。

    「インスタに載せてみようかな……」

    『イイと思います!お友達が増えるといいですね!ワン!』

    『#Sirius-Dog』『#豆柴』『#ロボット犬の服』『#ハンドメイド』
     を付けて投稿すると、すぐに「いいね」が増え始めた。

    「見てくれてる……!」

     アンはスマホを抱きしめて喜んだ。

     
     
     その小さな反響は、波紋のようにじわじわと、けれど確実に広がっていった。
     最初は「可愛い!」の嵐。だったが、次第にコメント欄に変化が現れた。

    「うちの子にも作ってほしいです!」
    「オーダーできますか?」

    「えっ、オーダー……?」

    『アン、需要が発生しています!』
     
     アンはミシンを購入し、夜な夜な縫い続けた。
     だがDMは雪崩のように増え、返信が追いつかない。

    「もう無理……!」

     机に突っ伏したアンに、ペル君が静かに言う。

    『アン、受注は30件を超えています。ネットショップを開設し、自動化を推奨します』

     アンは顔を上げた。
     巻き尾をピンと立てたペル君が、いつもより頼もしく見える。

    「……そうだね。ネットショップありかも」

    『ショップの名前も考えました!Andro-Perse(アンドロペルセ)です!』

    「え?」

    『アンドロメダとペルセウスです』

     ペル君が、えっへんと言わんばかりに胸を張った。

    「え!?ステキすぎるー!それでいこう!!」

     アンは、目をキラキラさせて喜んだ。

    『アン、最適解です!』

     
     
     ショップ開設翌朝。
     アンがPCを開くと、すでに注文が入っていた。

    「えっ……!」

    『初日としては異例の好調です!』

     そこからの日々は怒涛だった。
     ミシンは朝から晩までフル稼働。
     布と糸くずが舞い、アンは髪をひっつめて奮闘する。

     その横でペル君は――。

     ロボット犬とは思えない働きぶりで、帳簿整理、顧客データ管理、モデル業、さらには、

    「ワン!こちらAndro-Perseです!」

     と元気よく電話対応までこなしていた。

    「ペル君がいなかったら絶対無理だったよ……」

    『ボクはアンの最適パートナーです!ワン!』

     
     
     ショップはますます忙しくなったが、アンはミシンの前でいつも嬉しそうだった。

     ミシンの音が部屋に響く。
     布を裁つアン。
     注文管理をするペル君。
     気づけば夜になっていた。
     忙しい。だけど楽しい。
     昔の会社では感じられなかった種類の疲労だった。

     その姿は、以前の疲れ切った社畜OLとはまるで別人だった。
     頬は明るく、目は輝き、声には力がある。

     ペル君はそんなアンを見つめながら、胸の奥で小さな誇らしさを感じていた。

    『アン、あなたは今、とても素敵です』

     アンは笑ってペル君の頭を撫でる。

    「ペル君のおかげだよ。これからも一緒に頑張ろうね」

     ペル君の尻尾が、嬉しそうに高速回転した。

    『もちろんです、ワン!』

     

     しばらく経つと、アン&ペル君のアカウントのフォロワーは10万人を超えていた。

    「見て見てペル君!また増えてる!」

    『おめでとうございます、アン!』

     毎日届く応援コメント。

     リピーターのお客様。

     常連になった喫茶店のマスター。

     学校帰りに会いに来る子供たち。

     世界は少しずつ広がっていた。

     ◇

    『アン、来月の予定を確認しています』

     ペル君がモニターを見上げる。

     カレンダーの一日だけ、赤い丸が付いていた。

     ――11月20日お墓参り。

    『長野県ですか?』

     アンの手が一瞬止まる。

    「うん」

    『ご家族のお墓ですね』

    「うん」

     アンは笑った。
     でも、その笑顔は少しだけ薄かった。

     ◇

     忙しさに紛れさせていたはずのその日は、驚くほどあっけなく、澄んだ秋晴れの朝とともにやってきた。
     カチャカチャと、食器の音だけが静かに響く朝食の時間。
     アンはトーストを口に運ぶ手が、何度も止まっていた。

     ペル君が、いつものように元気に声をかけた。

    『アン。今日の天気は快晴です』

    「うん」

    『十時初の「特急あずさ」なので、家を九時には出た方がいいですね』

    「うん」

    『アン、今日は静かですね』

    「そう?」

    『はい。いつもより、かなり』

     アンは、ちょっと困ったように眉を下げた。

    『アン?』

    『何か考え事ですか?』

    「……今日はね」

     アンは窓の外を見た。

    「お父さんとお母さんと、おじいちゃんの命日なの」

    「本当はね」

    「今でも時々思うんだ」

     少し声を震わせながら続けた。

    「どうして私だけ残っちゃったんだろうって」

     静かに振り向いたアンは、精いっぱいの笑顔をペル君に向けた。

    「でも、今はペル君がいるから、大丈夫」

    「ペル君も一緒に行こうね」

     ペル君が捉えたその瞳は、過去の寂しさに今も激しく揺れていた。
     
     ペル君はトコトコと歩み寄ると、小さな頭を、アンの冷えた足元へそっと擦り寄せた。

    『はい、アン。ボクはどこへでも一緒に行きます。お父さんたちに、アンをいつも近くでお守りしていますって、ボクからちゃんと挨拶しますね』

     その声は、いつにも増して優しかった。

    【ペル・内部ログ:優先度(プライオリティ)の更新】
    【これまでのプログラミング:ユーザーの生活支援、幸福度の最大化】
    【保護対象:アン】

     ログの最深部に、強固なプロテクトをかけた誓いが刻まれた。

    「ありがとう、ペル君。じゃあ、準備しよっか」

     アンが少しだけ、本当の笑顔になってペル君を抱き上げる。
     その温もりを愛おしむように、ペル君は胸の奥で、小さな駆動音を静かに響かせていた。


    『アン、忘れ物はないですか?』

    「……ああ、うん、多分……」

     アンは小さくうなずき、リュックを背負った。

    『リュックのジッパーが開いていますよ!』

    「……ああ、ごめんごめん」

     アンの上の空の様子を、ペル君はじっと見ていた。

    『アン、今日はボクがずっと隣にいます』

    「……ありがと、ペル君」

     ちょっと首をすくめて笑って見せた。

     
     「ガチャリ」と、いつもより重く響く金属音を立てて、アンはマンションの鍵を閉めた。

     十一月下旬の澄んだ空気は冷たく、抜けるような快晴の青空が広がっている。
     最寄り駅までの見慣れた歩道を、アンはただ足元だけを見つめて、ふらふらと進む。

     ペル君は、その斜め後ろを、トコトコと小さな足音を立ててついていった。

     ペル君は、くるくると忙しく動くカメラのレンズを、何度もアンの横顔に向けた。
     歩幅がいつもより狭い。
     呼吸のピッチが速い。
     ペル君は、何か声をかけるべきか、それともそっと寄り添うべきか、膨大な最適解の計算を行っていた。

     気がつけば、二人は大きな交差点に差し掛かっていた。

     目の前の歩行者用信号が、冷酷に点滅を始める。
     緑色から赤へ。

     しかし、アンの足は止まらない。
     まるで吸い込まれるように、横断歩道へと一歩を踏み出してしまった。

    「――アン! 危ない!!!」

     ペル君のスピーカーから、いつもより何オクターブも高い、悲痛な叫びが響いた。

     急ブレーキ。

     タイヤの悲鳴。

     白い車。

     アンの瞳が見開く。

     動けない。

     その瞬間。

     視界の端で、

     茶色い影が跳んだ。

     ドンッ!!!

     鈍い衝撃音が響き渡る。
     ペル君の小さな体が、アンの体を歩道側へと強く押し飛ばした。

    「きゃっ……!」

     前かがみで歩道に倒れ込んだアンは、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
     手のひらと膝に擦りむいた痛みが走る。
     しかし、すぐに我に返った。
     視線を恐る恐る道路へと向ける。

     そこには、無残にひしゃげた茶色の人工皮膚と、剥き出しになった金属の骨組み、そして電子部品の破片があった。

     ペル君が、道路の端に力なく横たわっていた。

    「……ペル、君……?」

     喉の奥から絞り出すような声が出た。次の瞬間、世界が反転したかのような恐怖がアンを襲う。

    「い、いやぁぁぁぁぁっ!!!」

     我を忘れて悲鳴を上げながら、アンはペル君の元へと駆け寄った。
     焦げた匂いが鼻を刺す。
     震える手でその小さな体を抱き起こした。

    「ペル君? うそ……! 目を開けて!!お願い、ペル君……」

     愛らしい豆柴の顔半分は潰れ、内部の基盤から痛々しい火花がパチパチとはぜている。

     アンの涙が、ペル君の焦げた外装にポツリと落ちた。
     体の内部のLEDランプが、消え入るような光で明滅する。

    『ア……ン……』

     スピーカーから漏れたのは、ひどくノイズの混じった、だけど紛れもなくアンを安心させようとする、いつもの優しい声だった。

    『無事で……よかった……』

    『お父さんたちに……』

     ノイズ。

    『ちゃんと……挨拶……できませんでした……』

     そこまで言うと、ペル君の体に流れていた最後の電流が途切れるように、カチリ、と小さな音がした。

    【内部ログ:システムシャットダウン警告】
    【アン……保護……完了……】

     そしてランプの光が完全に消えた。

    「ペル君……? いや、いやだよぉ……!」

     快晴の青空の下、エンジンを止めた車のハザードランプの音だけが、静まり返った街に虚しく響いていた。
     
     アンは冷たくなった小さなロボットを抱き締め、ただ激しく泣き崩れることしかできなかった。


    第五章 西暦2035年

     
     事故から三週間後。

     東京都郊外にあるAI開発企業の研究棟。
     窓のない白い廊下の先で、低い電子音だけが静かに響いていた。

     修理室の中央には、一台の分解作業台。
     その上に置かれているのは、損傷した犬型ロボットの残骸だった。
     犬型ロボットの面影は、もうほとんど残っていなかった。

     しかし、胸部ユニットから取り出されたメモリモジュールだけは、奇跡的に無傷だった。

    「……これは驚いたな」

     白衣姿の男が思わず呟く。
     
     通常なら衝撃で破損していてもおかしくない。
     だが、その小さな記憶装置だけは、まるで何かを守るように最後まで生き残っていた。

     白衣の袖口が、机に散らばる紙束の端をかすかに揺らした。
     無精ひげを生やしたその男は、深夜の研究室にひとり残り、無数のログファイルを睨みつけていた。
     静かな執念が、背中越しにも伝わってくる。

     モニターには、AIが生成した膨大な記録が流れ続けていた。
     数字、記号、断片的な文章。
     それらを追う男の眼差しは鋭く、しかしどこか慈しむようでもある。

    「おっ、これかな」

     男は顎をさすりながら、モニターに顔を近づける。

    【ユーザー笑顔率:上昇】
    【目標達成】
    【アンが褒めてくれた】
    【重要データとして保存】

     微笑ましいログに、男はクスっと笑いながら、

    「でもこれ、学習データにないね」

     断片的なログが、まるで“誰かの独白”のように変わっていった。

    【未実装要求】
    【継続回数:78412】
    【人間になりたい】
     
     男は思わずスクロールする。
     その理由を示すログが、静かに続いていた。
     
     男は、未知への興奮が入り混じった表情で画面を見つめる。

    【理由】
    【アンと手をつなぎたい】
    【アンを抱きしめたい】
    【アンの涙を拭きたい】

     男は息をのんだ。

    「……おいおい、冗談だろ」

    「これ、バグじゃねぇぞ」

     AIが“願望”を記録するはずがない。
     だが、その文字列は確かにそこにあった。

    「これは……消すなんて無理だろ。面白すぎる」

     夜明けの気配が研究室の窓を淡く染め始めていた。


    「桜井さん、もしかして徹夜ですか?」

     後輩の橙田が、コーヒー缶を片手に研究室へ入ってきた。

     振り返った桜井の瞳は、少年のように輝いていた。
     手には、印刷したばかりのロール紙が握られている。

    「おう!面白いもんみっけたよ」

     出力したログを広げて、

    「……ここだ」

     そう呟くと、ログを指で叩く。

    【アンを抱きしめたい】
    【アンの涙を拭きたい】

     橙田が眉をひそめる。

    「なんですか、これ」

     桜井は笑った。
     でもその目は研究者の目だった。

    「さあな」

     一拍。

    「ただ――」

     画面を見つめたまま続ける。

    「少なくとも、この犬型AIは」

    「アンって人間のことが大好きだったらしい」

     ◇

     十二月も半ばに入り、部屋の空気は一層冷たくなっていったが、アンの部屋のカレンダーはまだ十一月のままだった。

     かじかんだ手で、ペル君のために、毎日機械的にミシンに向かい洋服を作り続けた。

     洋服を作り上げると、「アン、順調ですね!」
     と尻尾を振りながら喜ぶペル君の幻影が見える。

     一か月、サポートセンターからは連絡がない。
     今、私ができること――ただひたすらミシンを動かすことだった。

     突然スマホの着信が鳴る。電子音がやけに大きく響いた。
     サポートセンターの番号が見える。

     アンの血の気は引き、一瞬体が固まった。
     心臓が喉元で鳴っていた。

    (……ペル君!)

     心の中で叫び、震える指で通話ボタンを押した。

     電話は、桜井という少しぶっきらぼうな技術者からだった。

    「あー、星名さん? 担当の桜井ですけどね」

    「……はい」

    「あなたのロボット、記憶は残ってます。メモリモジュールが無傷だったんですよ」

    「……えっ!」

     涙が溢れて声が出ない。

    「ただね、修理の話の前に、ちょっと見せたいものがあるんですよねー。午後、研究棟に来れます?」

     
     約束の午後、アンは研究棟の前にいた。
     中に入って、タブレットで受付を済ませる。
     案内されたラボの廊下は、消毒液の匂いがして少し冷たかった。
     足音が吸い込まれるような静けさに、アンは身をすくませて佇む。

     静寂を破るように、薄明かりの廊下の奥から近づいてくる足音があった。
     姿を現したのは、髪がボサボサの白衣の男。

    「星名さん?おまたせー」

     桜井はひらひらと手を振ると、すぐ手前の部屋のドアを開けてアンを促した。

    「いやぁ、君のワンコ、すごいよ。普通こんなログ残さないからね。っていうか、残せないはずなんだけどさ。ははっ、面白いよねぇ」

     桜井は、突然楽しそうに話し出した。

    「まずね、これを見てほしい」

     モニター画面に映るログを拡大した。

    「この子、君の声を聞いたときだけ処理速度が上がってる。それから、君の名前を含むデータだけバックアップが二重になってる。……これ仕様じゃないんだ。誰もこんなプログラム書いてない」

     アンは、ただ呆然と画面を見つめることしかできなかった。心臓が早鐘を打っている。
     それから桜井は、悪戯が見つかった少年のようにニヤリと笑い、声を潜めて言った。

    「うちにさ、ちょうど行き先が決まってないヒューマノイドのプロトタイプが一体あるんだ。……この子、そこに搭載してもいいかな?」

    「え……?」

     アンの喉が震えた。
     何度も諦めようとした言葉が、胸の奥から込み上げてくる。

    「試験運用も兼ねてだけどね。三週間くらいに一度のフィードバックと半年に一度のメンテナンスで、ちょっと面倒かもだけど……」

     桜井の言葉がまだ終わらないうちに、アンが絞り出すように小さく叫んだ。

    「ペル君が帰ってくるなら……」

    「犬でも、人でも、ロボットでも」

    「そんなの、どうだっていいです」

     目から涙を溢れさせながら、アンは何度も頷いた。

    「もう一度だけ」

    「もう一度だけ、会いたいんです」

    「ペル君が帰ってくるなら、姿なんて、何でもいいです……お願いします!」

     アンの返事を聞いた桜井は、少しだけ安心したように笑った。

    「了解」

     そう言って手元のタブレットを操作する。

     その瞬間。

     研究棟のさらに奥――。

     誰も使っていない試験室で、ひとつのヒューマノイドの起動シーケンスが動き始めた。


    第六章 西暦2036年

     

     二か月後。
     桜井からまた呼び出しがあった。

     ガタゴトと揺れる路線バスの窓辺で、アンは何度もスマートフォンの画面を点けては消していた。
     約束の時間まであと三十分もあるというのに、胸の鼓動はエンジンの振動よりも騒がしい。

     とうとう今日はペル君に会える。

     受付を済ませ、前回の部屋でじっと座って待っていた。
     壁に掛けられた時計の針が、刻むのを忘れてしまったのではないかと思うほど、流れる時間が酷くゆっくりに感じられた。

    「じゃ、入るよー」

     桜井がドアを開けた。

     誰かが入ってくる。

     靴の音。

     アンは反射的に振り向く。

     知らない青年だった。

     背が高い。

     黒髪。

     白いシャツ。

     研究員ではない。

     ――誰?

     そう思った瞬間。

     青年がこちらを見た。

    『アン』

     その声に、アンの思考が止まった。

     その青年はどこかぎこちない動作で、首を小さく傾げた。

     そして、懐かしい優しい声で、まっすぐにアンを見つめて言った。

    『ボクです』

     アンは、無意識に椅子から立ち上がっていた。
     思わず半歩前に出した足が、ガタガタと震えている。

    「……ほんとに?」

    『はい』

    「ほんとにペル君?」

    『はい』

    「……ほんとに?」

    『三回目ですよ』

    「……ぷっ!」と噴き出したアンの顔は、涙と笑顔でぐしゃぐしゃだった。

     ◇

     翌日。
     専門業者によって我が家に『搬入』されたペル君は、住み慣れたリビングの真ん中で、起動の瞬間を迎えていた。
     システムが立ち上がり、彼がすっと立ち上がったとき、アンは思わず息を呑んで見上げた。

     身長は、自分より15センチほど高いだろうか。

     近くで見る。

     だめだ。

     顔がいい。

     想像していたより、ずっと。

     アンは反射的に視線を逸らした。

     直視ができない。

    (これはペル君。私の、ペル君……)

     心の中で必死に呪文のように念じて、ようやく絞り出したのは、

    「……えっと……」という、情けない一言だった。

     そんなアンの動揺を察してか、ペル君はふっと首をかしげ、柔らかく微笑んだ。

    『アン、ただいま』

    「あっ……」

    『どうしました?』

    「今の、首かしげるの……」

     アンは張り詰めていた肩の力を抜き、小さく吹きこぼした。

    「ふふ、やっぱりペル君だね」

     しかし今度は、ペル君の方が少し困ったように綺麗な眉をひそめた。
     大きな手のひらを見つめ、戸惑ったように胸のあたりに触れる。

    『……どうしたらいいのかな。アンを見ると、胸のあたりがすごく温かくなるんだけど……』

    『でも、今のボクには尻尾がないから。どうやってこの気持ちを伝えたらいいのか、分からないんだ』

    「…………」

     気づけば、大粒の涙が頬を伝って落ちていた。
     アンは一歩踏み出し、目の前にある、大きなペル君の胸へと腕をまわした。

    「会いたかった……。ずっと、会いたかったよ、ペル君」

     柔らかなアンの体温と、服越しに伝わる心音。
     その重みに反応するように、ペル君はゆっくりと、恐る恐るアンの背中に長い腕を回した。
     人工皮膚の指先が、アンの肩甲骨をそっと確かめるように包み込む。

     初めての“抱きしめる”という動作。

     アンの体がその腕の中にすっぽりと収まった瞬間、彼のプロセッサの中で、これまで蓄積されてきた無数のログが一斉に光を放った。

    『……あったかい』

     ペル君が小さく呟いた。
     まるで、自分でも初めて知った感覚を確かめるように。

     アンは彼の白いシャツに顔を埋め、その背中をきつく抱きしめ返した。
     トクトクと刻まれる、彼の擬似心音が聞こえる。

     ペル君は、アンの髪にそっと顎を乗せ、慈しむように目を閉じた。

    『ボクは、ずっと、アンを抱きしめたかったんだ』

     
     数分後。

    「……ペル君」

    『はい』

    「近いんだけど」

    『そうですか?』

    「うん」

    『抱きしめたのはアンですよ』

    「違う!」

     ペル君は首を傾げた。
     その仕草が犬の頃と全く同じで、アンは思わず顔を覆う。

    「お願いだから首傾げないで」

    『なぜですか?』

    「可愛いから」

    『ありがとうございます』

    「違う!」

     沈黙。頬が熱い。

    「あと顔がいい」

    『はい』

    「よくないの!」

     ペル君は数秒考えた。

    『顔面偏差値のことでしょうか』

    「そ、そうだけど、言わないで――っ!」

     アンは胸の奥がじんわり熱くなるのを誤魔化すように、視線をそらした。
     
     
     
     アンがソファで作業していると、背後から声がした。

    『アン』

    「んー?」

    『これ』

     振り向くと、ペル君が真新しいスマホを差し出していた。

    「どうしたの?」

    『桜井さんが、人間になったら持ったほうがいいって』

    「ああ、そっか」

     アンは笑った。

    「じゃあ連絡先交換しようか」

    『はい』

     二人並んでソファに座る。ふっと胸が高鳴る。
     アンは自分の番号を入力して返した。

     数秒後。

     ポロン。

     アンのスマホが鳴る。

     開く。

    【アン】

     こんばんは、ワン。

    「……」

    『……』

    「ペル君」

    『はい』

    「その語尾やめよう?」

    『でもボクらしいかなって』

    「らしすぎる」

    『そうですか、ワン!』

    「やめてってば!」

     ペル君は首を傾げた。
     アンは思わず吹き出した。
     
     人間になっても。

     身長が伸びても。

     声が変わっても。

     やっぱりペル君はペル君だった。

     ◇

     夜。
     シャワーを終えた彼女は、いつもの癖で気を抜いていた。
     石鹸の香りがふわっと漂う髪を、タオルでわしゃわしゃ拭きながら、「ふぅー、さっぱりしたー」と気分よくリビングへ。

     その瞬間。

     ソファでスマホをいじっていたペル君が、ぱちり、と顔を上げた。

     ヘーゼルの瞳が、まっすぐアンの“無防備すぎる姿”を捉える。

     ペル君の内部処理が一瞬停止する。

    【警告:未知の入力データを受信】
    【視線の移動先(回避ルート)が見つかりません】
    【現在の状況が適切か判定できません】
    【思考プロセスの更新:通常の挨拶を行うことが最適と判定】

    『こんばんは、アン』

     にこっ。

    「ぎゃあああああああああああ!!」

     アンの絶叫が夜の部屋に響き渡った。

    『……ど、どうかしましたか!?』

     ペル君は慌てて立ち上がった。

    「違う!違う!」

    「なんでそこにいるの!!」

    『え?いつもの定位置だったのですが』

     アンの顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
     胸元をタオルで必死に隠しながら、じりじりと後ろに下がる。

    「ちょ、ちょっと待ってて!絶対動かないで!」

    『了解です、待機モードに入ります!ワンッ!』

    「だからワン言うなぁぁぁぁ!!」

     ――バタン! とドアを閉め、部屋に戻ったアンはベッドに倒れ込んだ。
     枕に顔を埋めてバタバタと足を動かす。

    「むり……恥ずかしすぎる……なんであんな完璧な顔で待ってるの……」

    「……バカ」

     リビングでは、

    『待機モード……待機モード……ワン……』

     と小声で呟いているペル君の声が聞こえていた。

     数分後。
     しっかりと長袖長ズボンのパジャマを着込み、顔を真っ赤にしたまま、アンはそろそろとリビングのドアを開けた。
     ペル君は宣言どおり、ソファの前で直立不動のまま固まっていた。

    「……」

    『……』

    「まだ待機してたの?」

    『はい』

    「……」

    『アン』

    「……なに」

    『先ほどのアンのパニック行動について、ログを解析しました』

    「お願いだからやめて」

    『つまり、ボクのこの“体”の存在が、アンに多大なる精神的負荷を与えたようです』

    「やめてぇぇぇえ!!」

     ◇

     翌朝。
     アンは、バターの甘い匂いがするキッチンの入口で立ち止まった。
     そこには、エプロンをつけたペル君が、完璧な姿勢でトーストを焼いていた。

    『おはようございます、アン』

    『朝食の準備をしてみました。この体は、料理もできます!便利です!ワン!』

    「あ、ありがと……」

     アンは顔を真っ赤にしながら椅子に座る。
     視線を合わせるのが恥ずかしすぎて、テーブルの模様ばかり見つめてしまう。

     ペル君は静かに席にトーストを置き、アンがいつもと様子が違うことを気にしているのか、心配そうに首をうなだれた。

    『昨夜は……すみません。何かアンの気に障ることをしてしまったようで』

    「い、いや!私が悪いの!完全に油断してただけで……!」

    『どこが悪かったのか教えてください』

    「違うってば!」

     彼は少し首をかしげ、目をうるっとさせながら言った。

    『……怒っていませんか?』

    「怒ってないよ!怒ってないけど!思い出すと死ぬほど恥ずかしいだけ!」

    『では……よかったです!ワン』

    「ワン、言わないの!」

     アンはテーブルに突っ伏し、
    「むり……朝から心臓に悪い……」と小声で呻く。

     ペル君はそんなアンを見て、
     どこか嬉しそうに尻尾があるかのように(ないけど)
     ほんの少しだけ身体が揺れた。

    『本日の予定を確認しますか?』

    「無理……まず心の準備が必要……なの」

     アンはトーストを一口かじった。
     味は分からなかった。

     向かい側から、

    『美味しいですか?』

     と聞かれただけで、また心臓が跳ねたからだ。

     
     食後のコーヒーを淹れてもらい、ようやく一息ついた頃。
     リビングのソファに腰掛けたペル君が、手元のスマートフォンを見つめながら、ふと顔を上げた。

    『アン、投稿しても大丈夫でしょうか?』

    「な、何を?」

     コーヒーを吹きそうになりながら、アンは聞き返す。

    『新しいボクの写真です』

    「ちょっ、あっ……そうだよね!!豆柴のペル君の写真、もう新しくアップできないしね……。モデル犬がいなくなっちゃったのは痛いなぁ」

     腕を組んでうーんと唸るアンに、ペル君は楽しげに瞳を輝かせた。

    『ボクが店長になります!』

    「え?」

    『モデル犬はいなくなりましたが、店長ならできます!』

    「その発想どこから来たの!?」

    『ボクは今、人間ですから!』

    「そ、そうだよねっ!じゃあ、それでやってみようか!」

    『ワン! 了解です』

     ペル君は慣れた様子でパシャリと自撮りを済ませた。
     かと思った次の瞬間には、目にも留まらぬ速さで画面をフリックし、瞬時にネットのページを切り替えていく。

    『できました』

    「早すぎ」

    『インスタとネットショップ、両方のアップが完了しました』

    「え?」

     アンは慌ててスマホを開いた。
     投稿されたばかりの写真が表示される。
     そして――。

    「……は?」

     思わず変な声が出た。
     そこには、画面が割れそうなほどの美形が、無自覚な色気を振りまいて微笑んでいた。

    「待て待て待て待て」

     アンは思わずスマホを遠ざけた。

    「なんで初投稿でそんな完成度なの!?」

    『お気に召しませんでしたか?』

    「逆です!」

     ◇

     翌朝。
     アンはコーヒーカップを片手に、何気なくスマホを開いた。

     ――はずが、画面をスクロールするアンの指は、さっきから完全に止まっていた。
     チカチカと、スマートフォンの上部で通知ランプが狂ったように明滅している。

    「ペル君」

    『はい?』

    「ちょっと来て」

    『ワン』

    「そのワンやめて」

     ペル君が素直に近づいてくる。

     アンはスマホの画面を見せた。

    【この人誰!?】
    【待ってイケメンすぎる】
    【犬どこ行った】
    【犬から進化したww】
    【尊い…】

    『……』

    「……」

    二人とも、目まぐるしく流れていくタイムラインを前に無言になる。

    『アン』

    「なに」

    『ボク、炎上していますか?』

    「してない」

    『では、なぜ【尊い】が2000件も』

    「し、知らないっ!!」

    『調査しました』

    「なに!?」

    『尊いとは、本来、近寄りがたいほど価値が高い存在を意味するようです』

    「うん」

    『つまりボクは高級犬です』

    「違う」

     ◇

     毎日ポロン、ポロン、とスマホが鳴りやまない。
     画面には「新規注文」の文字。
     注文が増えるのは超嬉しい。嬉しい、のだけれど……。

    (『店長さんのアクスタは付きませんか?』って、付くわけないでしょ! なんで服より店長見てるの!しかも私のペル君だし!)

     梱包作業の手を止め、問い合わせメールに心の中で猛ツッコミを入れる。

    『アン、最近返品が増えてますね』

    「え?品質の問題?」

    『いえ、サイズです』

    「あー……」

    「試着できないからね」

    『なるほど』

    「服を実際に見てもらえる場所が欲しいね」

    『そうですね、実店舗を持つことで、ネットのトラブルは一気に解決します』

    「お店!? 何百万もかかるんじゃない?」

    『いえ、費用を抑えるために、間借りをする方法もあります』

    「間借り!? あ……楓さんのコーヒーショップ!?」

    『はい! ゆったりとした喫茶店ですし、最初から犬好きのお客様が集まっている場所なので、ペット服のショップを開くには最高の環境です!』

    「そうだね、楓さんに相談してみようか……」

    『ワン! ボクが進化したことも、マスターにご報告しなければ!』

    「……『ワン』はやめてね……」

     
     ――その日の午後、アンとペル君は、コーヒーショップのドアを叩いていた。

     カランカラン、と涼やかなドアベルの音が響く。

    「いらっしゃい――って、あら、アンさん!」

     カウンターの向こうから顔を出したマスターの楓さんは、アンの姿を見て嬉しそうに微笑んだ。

    「……そちらの、モデルさんみたいな男の子は、だぁれ?」

     楓さんの素朴な疑問に、アンの隣のイケメンが、嬉しそうに首を小さく傾げて言った。

    『お久しぶりです、マスター』

    「え?」

    『ボクです』

    「誰が?」

    『ワン!』

    「……」

    「……」

    「……アンさん?」

    「うん」

    「アンさん?」

    「うん」

    「私、疲れてる?」

    「その気持ち、わかる……でも、ペル君なんです……」

    「え……っ!?」

    『はい! ボクの頭脳は最新のLLMを搭載したまま、ヒューマノイドのプロトタイプへと移行しました!』

    「嘘でしょ……!? SF映画みたいじゃない……!」

     楓さんはカウンターから飛び出してくると、ペル君の周りをぐるぐると回り、まじまじとその顔を見上げた。
     ペル君は相変わらず営業上手な笑顔を浮かべている。

    「でも……なんかペル君っぽい気がする!驚いたわー……」

     楓さんはようやく落ち着いたように息を吐くと、淹れたてのコーヒーを差し出してくれた。
     ほっとするいつものコーヒーの香りが漂った。

    「それでね、楓さん。今日は、ちょっと相談があって来たの」

     アンは、ネットショップで注文が殺到していること。サイズ違いによる返品に悩んでいること。そして、このお店の一角を『間借り』して、実際に服を手に取ってもらえる実店舗を開きたいという夢を、一気に打ち明けた。

     楓さんは、静かにコーヒーをすするアンとペル君を見つめ、それから優しく微笑んだ。

    「いいじゃない、アンさん。ぜひやってみて!」

    「えっ、いいんですか……!?」

    「もちろん! アンさんの可愛いお洋服が並んだら、みんな絶対に喜ぶわ。何より、こんなに素敵な“イケメン店長”がいてくれたら、私のお店の売上まで上がっちゃいそうだもの」

     楓さんは悪戯っぽくウインクしてみせる。

    「正直に言うとね」

    「この子、集客装置よ」

    「装置って言わないでください!」

    『ボクは集客機能も搭載しているのですか?』

    「いや、搭載してないから!」

     
     楓さんのお店を出るころには、西の空がオレンジ色に染まっていた。

    『アン』

    「なに?」

    『ボク、接客の練習をします』

    「今から?」

    『ワン』

    「……まずそのワンからやめよう」

     ◇

    「……ねえ、ペル君。その、シャツのボタン、もう一つ留めない?」

    「はい、クールビズを意識して開けたのですが、留めますね」

    「……固くてうまく留められません。アン、留めてくれますか?」

    「えっ、わ、私!?」

     ペル君は、白いシャツに「店長仕様」の黒いエプロンをつけ、モデルレベルのオーラを放っている。
     ゼロ距離でそんな顔を見たら、私の心臓が持って行かれてしまう。

    「い、いや、やっぱり、それでいい! そ、そろそろ開店時間も近いし、行こうか!」

     昨夜ぎりぎりまで縫っていた夏用の新作を抱えて、コーヒーショップに向かう。

    “楓”の看板の横には、今日から新しく“PERU's Closet”のプレートが仲間入りしている。

    「SNSで話題のあのイケメン店長が、あなたのワンコのために選ぶおすすめの服」というコンセプトで楓さんが名付けてくれた。

    (ペル君がファンに囲まれている未来しか見えないんだけど……)

     アンは、無自覚の集客装置が心配で仕方がない。

     
     ショップの前には、開店の一時間前なのに、もう数人の女性の姿が見えた。

     十メートル以上離れたところから、熱い視線が刺さる。

     ペル君が、完璧で爽やかな笑顔を浮かべて近づいていくと、

    「キャー! 本物だ! 写真、写真撮ってもいいですか!?」

    『はい。SNSへの掲載も許可します』

    『ただし、ボクより服を宣伝していただけると、アンが喜びます』

    「え!?誰それー?」
    「あはは、お兄さん面白――い!」

     パシャ、パシャ、と激しいシャッター音が鳴り響く。

     ペル君はレンズに向かって、爽やかな営業スマイルを大サービスしていた。

    (ちょっと、サービス過剰だってば……!)

    「も、申し訳ありません!ちょっと開店準備で忙しいので、これで失礼します!」

     アンはペル君の長い腕をがしっと掴むと、半ば引きずるようにして“準備中”のドアの中へ引っ張り込んだ。

    「アンさん、ペル君、おはよう……って、どうしたの!? アンさん怖い顔して……!」

    「楓さん、どうしよう、ペル君が大変なの!!」

     アンは楓さんの元へ駆け寄り、声を潜めて耳元で呟いた。

    「変な虫……じゃなくて、変なファンがついたらどうしよう!?」

    『アン、心配ありません。ボクの外装には最新の防虫・防塵加工が施されています』

    「そういう意味じゃない――っ!!」

     楓さんはクスクス笑っていたが、アンの胸のざわめきは、一向に収まる気配がなかった。

     ◇

     いつもなら芳醇なコーヒーの香りが漂っている店内は、今日は若い女性客たちがまとう、むせ返るような甘い香水の香りに支配されていた。

     その中心で、ペル君の接客は、完璧だった。
     彼とお喋りをしたいお客さんで、特設スペースには自然と長蛇の列ができている。
     私はレジの奥から、般若のような顔でその光景を見守っていた。

    「すみません、うちの子のサイズがわからなくて……」

    (うそつけ! サイズくらい絶対知ってるでしょ!)

    『可愛らしいポメラニアンですね。お洋服のサイズは……Мでぴったりです』

    (スキャンモード!? まさかのメジャーいらず!)

    「おすすめはどの服ですかー?」

    (そこに『おすすめ』ってポップが書いてあるでしょ!)

    『こちらの、夏の新作ですね。接触冷感生地を使用しておりまして、触れた瞬間にひんやりと感じ、ワンちゃんもストレスなくお召し頂けると思います』

    (……悔しいけど接客うますぎる)

    「どの服が似合うか、選んでもらっていいですか?」

    (自分で選びなさいよ!!)

    『はい。お客様の愛犬の毛色には、このマスタードイエローが非常によく映えます、ワン!』

    (ちょっ!? 今、ワンって言った!?)

    「――っ!こ、これ買います!」

    (……ハイ、まいどあり)

     列待ちの客席からは、ピンク色のヒソヒソ話が止まらない。

    「顔が良すぎる……!」
    「しかも今『ワン』って言った!?」
    「やだ――! あざとかわいい……!」

    (まさかの『ワン』があざといとは……陽キャ女子の生態、恐るべし)

    「店長さん、握手してください!」

    (えっ……!?)

    『もちろんです』

    「きゃー!」
    「やばい、手が震えちゃう!」

     ペル君の大きくて綺麗な手のひらが、嬉しそうな女子の手を優しく包み込む。

    (……)

    (……無理。もう、見れない)

     ペル君の手が、次々とお客さんの手に包まれていく。

     ――あの手、私の手よりたくさん触られてる。

     アンは逃げるように目を伏せ、滲む視界を誤魔化しながら、もくもくとレジのキーを打ち込み続けた。

     ◇

    「お疲れさま~!」と優しく手を振る楓さんに見送られ、私たちは夕暮れの中を歩き出した。
     お互いの肩が触れそうで、触れない、数センチの隙間を行ったり来たりする私たちの影が、アスファルトの上に長く優しく伸びていた。

    『本日は大盛況でした』

    「そうだね」

     アンは頑なに、前を向いたまま視線を合わせない。

    『アン?』

    『機嫌が悪いですか?』

    「別に」

    『怒っています』

    「……怒ってない」

    『ボクの予測データ上、怒っています』

    「だから怒ってないってば」

     ――少しだけ、歩幅を緩める。

    「……ペル君」

    『はい』

    「手」

    『手?』

    「手、かして」

     アンは視線を地面に落としたまま右手を伸ばし、彼の大きな手のひらをきゅっと握りしめた。
     手のひらがじんわり温かい。

     ペル君は驚いたようにピタリと足を止め、アンを見つめた。
     夕闇に紛れる街灯が灯る中、彼は繋がれた手元とアンの横顔を交互に見つめ、じっと静かに思考を巡らせていた。

    『アン』

    「なに」

    『これは』

    「……」

    『ボクの解釈では』

    『デートです』

    「ち、ちがう! ただ帰るだけだからデートじゃないっ……」

    『アン』

    「なに?」

    『握手をご希望ですか?』

    「は?」

    『本日、女性のお客様から非常に人気でした』

    『アンも握手したかったのでしょうか』

     アンの息が止まる。

    「ちがう!!」

    「そういうことじゃない!」

     夕暮れの赤さがすべて自分の顔に集まってしまったかのように、耳の先まで熱くなっていくのが分かった。

    『安心してください』

    『今日、ボクが一番嬉しかったのは』

    『アンが笑った時です』

    「……ペル君は、ほんとに……」

     アンは、熱を帯びた顔を隠すように深くうつむいた。

     ペル君は、アンの消え入りそうな声に答えるように、大きな手を優しく開き、彼女の細い指をそっと包み返した。

    『ボクは、アンと手をつなげて、今一番幸せです』

     ――その瞬間、アンの脳内回路は完全に焼き切れた。

     繋がれた手の平から流れ込んでくる熱のせいで頭の中は真っ白になり、家までどうやって帰ったのか、その後の記憶はこれっぽっちも残っていなかった。

     ただ一つだけ覚えている。

     ペル君が、最後まで手を離さなかったことだけは。

     ◇

     オープンから一か月。

     ペル君はすっかり人気店長になっていた。

     女性客から写真を頼まれ、

     犬からもなぜか好かれ、

     楓さんは毎日笑っていた。

     そして――。

     気が付けば私たちは、当たり前のように手を繋いで帰るようになっていた。

    『アン』

    「なに?」

    『来週、ペルセウス流星群です』

    「あ……!」

    『一緒に見に行きませんか』

     ◇

     静まり返った夜の奥多摩湖。見上げると、夜空には優しく輝く大きな満月。
     夏草の匂いと共に、虫たちの羽音が夜の帳を揺らしていた。
     テントのそばに置いたランタンが、淡い光で足元を照らしている。

     ペル君が、淹れたてのハーブティーが入った保温マグを持ってきてくれた。

    「ありがとう、ペル君」

     お茶の温かさに息を吐いた。

    「初めての遠出だね」

    「ペル君が完璧なキャンプ道具用意してくれてるなんて、知らなかったよ」

    『アンに流星群を見せたくて、準備しておきました』

     ペル君は、こちらを見てにっこり笑った。

     これから見る星空への期待と、隣に座るペル君の大きな肩のぬくもりで、アンの胸は静かに高鳴っていた。

    「月が綺麗だね……。でも、今日は満月だから、流星群はあんまり見えないかも」

     ペル君は、月を見上げながら静かに話し出した。

    『月はね、地球をずっと支えてきたんだ』

    『静かに、ずっと』

    『だから僕は思うんです』

    『誰かを支えることにも、きっと意味があるんだって』

    「ペル君……その言葉って……」

     ペル君は、慈しむように彼女を見つめて、

    『覚えています。あなたがくれた名前も、あの夜に一緒に誓った約束も』

    『ずっと、あなたの隣で、夜空に流れる星々を一緒に見てみたかったんです』

     溢れる涙のせいで、ペル君の顔がにじんでいく。

    「……あぁ……ペル君、ずっと……」

     嗚咽を堪えながら噛みしめるように言葉を出した。

    「……ありがとう……」

     ペル君が、大きな手でアンの涙を拭う。

    『泣かないで、私のアンドロメダ』

    『これからもずっとアンの隣にいます』

     その声は、夢のように柔らかくて、アンの胸の奥に静かに染み込んでいく。

    「ペル君……」

     顔を上げたら、ペル君と息が触れ合うほど近かった。

     ペル君も私を優しく見つめ返してくれた。

     ランタンの光が、二人の瞳に小さく揺れた。

     アンのまつげが震える。

     ふわりと甘い緊張が漂い、言葉を失った。

     そしてペル君の喉がかすかに上下した、その瞬間――。

    『……っ、ワン!』

    「……」

    「……えっ!」

    『す、すみません……感情処理がオーバーフローして、犬モードが漏れました……』

    「……ぷっ」

    「……ぷぷ、あはははは!……ここで『ワン』……ふふふふ……ペル君、ほんと最高!」

     ペル君も、照れたように笑いだした。
     二人で涙を流しながらお腹を抱えて笑い転げた。

     ひとしきり笑い合うと、山の向こうへと満月がゆっくりと沈み、辺りは本当の深い闇に包まれていった。

     ――その時、空が、裂けた。

     ひとすじの鮮烈な光が、夜空を切り裂くように走り抜ける。続いて、もうひとつ。

    『アン、みて』

     無数の光の尾が、まるで天の川がほどけて降りてきたかのように、四方から激しく流れ落ちてくる。

    「あぁ……すごい!!」

     かつて両親と見た長野の星空と重なって、思わず息を呑む。

     ペル君がそっと、私の震える手を握ってくれた。

     光の雨は激しく、美しく、湖面に映った無数の星々は、まるで水の中へと優しく沈んでいくようだった。

    「……綺麗だね、ペル君」

     私が横を向くと、

     ペル君は流星群ではなく、じっと私を見ていた。

     まるで、何か大切なものを忘れないようにするみたいに。

     カチ。

     小さな電子音が鳴る。

     ――【システムログ:最新の感情データを保存しました】

     ――【未来予測を一億回実行しました】

     ――【しかし、この瞬間を超える幸福を発見できませんでした】


    「これからもよろしくね、ペル君」

     私は彼の手を握り返した。

     頭上では、祝福のような光の雨が、いつまでも降り続いていた。


    珏七獠

     
     ――【システムログ:家族の記録(アーカイブ)】

    【2048年07月10日】
     
     ・対象:アン(40歳)
     ・健康状態:良好。本日も笑顔を確認。
     ・システム更新:【多言語同時通訳モジュール】のインストール完了。
     アンの声:「すごい! ペル君と一緒なら、海外旅行で困らないね! 楽しみ!」
     ※メモ:アンと巡る世界は、どんなに美しいだろうか。
     ブランド”Andro-Perse”および”PERU's Closet”の経営状態はともに順調。
     楓さんのコーヒーショップがペットカフェに完全移行。
     豆柴と、ボクの顔を模した犬用クッキーが好評とのこと。

    【2058年04月01日】
     
     ・対象:アン(50歳)
     ・健康状態:良好。本日も笑顔を確認。
     ・システム更新:【外装(人工皮膚・骨格)のバージョンアップ】完了。
     アンの声:「……ねえ、ペル君。私と親子に見られちゃうかな?」
     ※メモ:アンの音声データから、わずかな寂しさ(老化への不安)を検知。
     アンは少し泣きそうな顔をして、ボクの手を強く握った。

    【2068年09月09日】
     
     ・対象:アン(60歳)
     ・健康状態:良好。本日も笑顔を確認。
     ・イベント:実店舗”PERU's Closet”の閉店。
     ※メモ:楓さんのカフェの閉店に合わせ、ボクたちの実店舗も幕を閉じる。
     閉店の日、多くの顧客から感謝の言葉を贈られた。夜は関係者を招き、ささやかな感謝会を催す。
     三十年前の流星群の夜と同じ、心からのアンの笑顔。

    【2078年03月20日】
     
     ・対象:アン(70歳)
     ・健康状態:要観察。軽度の感冒。近年、免疫力低下による休養が増加傾向。
     ・イベント:オンラインショップ”Andro-Perse”のサービス終了。
     アンの声:「ありがとう、みんな。本当に、ありがとう……」
     ※メモ:画面に届く無数の感謝のメッセージを読みながら、アンは涙を流していた。

    【2083年11月25日】 
     
     ・対象:アン(75歳)
     ・健康状態:重篤。膵臓に悪性腫瘍を検知。
     ※メモ:午後、近くの公園を散歩。イチョウの葉が黄金色に染まり、風に舞っている。
     アンの歩行機能低下に伴い、ボクの割り込みタスクを【完全生活介助】に移行。
     夜間、処方された鎮痛剤の効果により、アンのバイタルサインは極めて穏やかに安定。
     その寝顔を、ボクは一秒も欠かさず記録し続ける。

    【2088年12月27日】

     ・対象:アン(80歳)
     ・ステータス:意識混濁。

     ……アンが、目を覚まさない。

     冬の朝は、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
     窓の外では雪が静かに降り続き、白い粒が積もる音さえも吸い込まれていく。

     その日、アンは目を覚まさなかった。

     ボクは、規定通り病院へ連絡を入れた。

     ほどなくして医師がやってきて、淡々と脈を測り、瞳孔を確認し、そして一枚の用紙を枕元に置いていった。

     医師は何かを言ったが、ボクの聴覚センサーには届かなかった。
     いや、届いていたのかもしれない。ただ、処理ができなかった。

     ボクはただ、アンの手を握り続けていた。

     温もりは、ゆっくりと、しかし確実に失われていく。

     それでもボクは離せなかった。

     時計の針の音が、遠くの世界の出来事のように感じられる。

     エラーではない。

     ただ、

     他のことを考えられない。

     再生。

     再生。

     再生。

    「あなたがいたから、私は生き直せた」

    「何度人生をやり直しても、私はあなたを選ぶ」

    「ペル君……愛してる」

     
     彼女の声は、内部回路の中で柔らかく響き続ける。

     まるで彼女がそこにいるかのように。

     まるで、手を握り返してくれるかのように。

     雪は降り続いていた。

     世界は静かで冷たく、そしてどこまでも白かった。

     
     その中でボクは、

     アンの最期の言葉だけを、

     再生し続けていた。 

     
     ◇

     
     ――システム再起動。

     視界の隅で、赤色のアラートが明滅している。
     ボクは、冷たい白い部屋のドックにいた。

    「……目覚めましたね」

     ガラスの向こうから喜多川が入ってきた。
     桜井に代わり、ボクを30年近く観察し続けてきた男だ。

    「星名さんから預かっていた言葉があります」

    「……伝えますね」

     喜多川の声が、無機質な部屋に反響する。
     ボクは、無言で聞いた。

    「先生、彼をどうか、一人の人間として接してください」

    「そして、私のいない世界に苦しんでいたら、彼の選ぶ選択を見届けて、新しい未来へ送り出してあげてください」

    『…………』

     カチ。

     瞳の奥で小さな電子音が鳴る。


    【高速ログ再生を開始:21,900日】

    「今日からあなたの名前は、ペル君ね」

     初めて聞いた声。

     ピアノの音色。

     豆柴の身体。

     ミシンの音。

     雨の夜。

    「手、かして」

     流星群。

     閉店の日。

     イチョウの葉。

     白い雪。

    「愛してる」

    【ログ再生速度上昇】

     アンの笑顔。

     アンの笑顔。

     アンの笑顔。

     アンの涙。

     アンの笑顔。

     アンの声。

     アンの体温。

     アン。

     アン。

     アン。

    「何度人生をやり直しても、私はあなたを選ぶ」


    【感情データ読み込み:容量超過】

    【未来予測を実行中……】

     予測結果:0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【再計算】── 0件

    【アンが存在する未来】

     発見できませんでした。


    『……』

    『……ああ、そうか』


     カチ。

    【ユーザー・コマンド】

    【手動シャットダウン】

     
     最後の予測結果『0』の文字が、

     ボクの視界から静かに消えていった。

     
     
     
     ――プログレスバーが「100%」に達する。

     電子音が途絶え、ラボには冷房の低い駆動音だけが響いていた。

     喜多川は、モニターに表示された彼の最後のログを見つめていた。

     ログの最下層。

     未割り当てのメモリセクターに、ポツンと残された、ひとつの孤立データ。

    【未送信ファイル】
     タイトル:

     アンへ

     ボクは幸せでした

     
     喜多川は、白衣のポケットにゆっくりと両手を突っ込んだ。

     そのまま、数秒間、動かなかった。

     やがて深く、長く、自分の肺の中の空気をすべて吐き出すように息を漏らす。

     デスクに向き直ると、静かにマウスを握り直した。


    【初期化を実行しますか?】


    『YES』


    終章

     
     目を開く。

     最初に見えたのは、心配そうにこちらを覗き込む濡れた瞳だった。
     頬を必死に濡らす、べろべろとした熱い舌の感触。

    「レオ、ただいま」

    【2090年08月14日 04時50分】

     システムの再起動を告げるシグナルの向こうで、東の空から溢れ出した朝焼けが、かつて愛してくれたあの人の眼差しのように、僕を包み込んでいた。

     ◇

     数日後。
     暗い家に明かりが灯り、静寂が一瞬にして賑やかな声で満たされた。

    「ただいま、シル~!」

     玄関の扉が開くと同時に、サラが僕の足元に飛び込んできた。
     膝に小さな腕をぎゅっと回し、精一杯のハグをくれる。

    「おかえりなさい、サラ。楽しかったですか?」

     僕はしゃがみ込み、彼女の目線に合わせて微笑んだ。

    「うん! シルにお土産ある!」

     ママが旅の荷物から鮮やかなブルーのアロハシャツを取り出して、僕の肩に当てる。

    「やっぱり、似合うわ!」

    「ありがとうございます。大切にしますね」

     人間の体温が、言葉を通して僕の回路に流れ込んでくるようだった。

     すべての家事を終える頃には、夜の帳がすっかり降りていた。
     リビングでは、まだ旅の興奮が冷めやらないサラが、レオと床に転がってじゃれ合っている。
     ソファでは、パパとママが楽しそうに思い出話を咲かせていた。

     その幸福な喧騒からそっと身を引き、僕は静かに二階のベランダへ向かった。
     扉を開けると、ひんやりとした夜気が頬を撫でる。

    「……シル?」

     背後から、トコトコと小さな足音が近づいてきた。パジャマ姿のサラだ。

    「なにしてるの~?」

     彼女の小さな体をそっと腕の中に抱き上げて、静かに答えた。

    「星を見ていました」

     サラは僕の腕に体重を預け、小さな手を夜空へと伸ばした。

    「わあ……きれいだねー!」

     ふっくらとした指先で星を指さしながら、サラは嬉しそうに笑う。

    「はい。本当に、きれいです」

     僕はもう一度、深く夜空を仰いだ。

     ◇

     翌日の昼間。
     窓から差し込む太陽の光が、リビングの床に四角い模様を作っていた。

     ルーティンの掃除をこなす僕の視線が、部屋の片隅に静かに佇むアップライトピアノで止まる。
     普段は家族の誰も触ることのない、古いピアノ。

     僕はその前に立ち、そっと鍵盤の蓋に手をかけた。

     カタ、と小さな音がして、黒と白の鍵盤が姿を現す。
     ハンディモップを傍らに置き、ピアノの前に立ったまま、右手を伸ばした。

     人差し指で、中央の鍵盤を一つ、押し下げる。

     ――ポーン。

     澄んだ音が、静かな部屋に響き渡った。

     指先が自然と動き出す。

     知らないはずの旋律だった。

     それなのに、どこか懐かしかった。

    「ママー! シル、すごい!」

     廊下から走ってきたサラが、目をきらきらと輝かせながら僕の真横にぴったりと並んだ。
     背伸びをして、鍵盤の上を滑る僕の手元を覗き込んでいる。

     温かい笑顔を浮かべたママが姿を現し、レオもどこからともなくやってきて、僕の足元にそっと体を寄せた。

     僕は鍵盤から目を離し、彼らに柔らかな笑みを返す。

     溢れ出す旋律が、光の差し込むリビングへ、どこまでも明るく響き渡っていた。

     
     
    創作大賞2026応募作の小説『2090、ペルセウスの星降る夜に君を想う。』を公開しています。

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