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湯屋番人生69 猟怪異聞⑤ 根津黎明

    湯屋番人生69 猟怪異聞⑤ 根津黎明
    【猟怪異聞 夜叉王丸傳奇-終の恋 果ての愛⑤
    根津黎明】
    創作大賞2026 ファンタジー小説部門応募作品

    十三

     姫夜叉が西木戸の館を飛びたつより二刻は前に、鎌倉方の軍勢三万余は、北谷の入り口にまでたどり着いた。その他の谷や金山を手勢が全て抑えたが、目指す荒武の軍勢は愚か、猫の仔一匹、見当たらない。裏を掻かれたと悟った和田義盛は、七谷に火を掛けるよう下知を下した。松明を持った寄せ手の一段が北谷の北詰、北の峰の上り口にまでやって来ると、捨丸がその行く手を阻んだ。狩装束にありったけの矢を背に負って、自慢の強弓に山刀という、常と変わらぬ姿であった。

    「そこにおわすは荒武兵衛輔資正殿とお見受け申す」

    和田義盛が進み出て怒鳴った。

    「如何にも、かつてはその様にも呼ばれておったが、この辺りでは荒武の捨丸で通っておりまする。御大将は和田義盛殿か」
    「左様。資正殿。此度は九郎判官義経殿追捕の宣旨を以って、主、頼朝に成り代わり、遥遥、奥州平泉まで参ったが、あろうことか藤原泰衡は、兄国衡らと語らい、幕府の再三の詮議にもかかわらず判官殿を差し出すことなく、此度は錦旗を頂く我らに弓引く戦仕掛けるなど、以ての外の狼藉の数々。よって已む無く討ち果たすに至ったが、平泉配下のこの荒武の荘にあっては、この期に及び、如何なる存念を以って当たられるおつもりか。
    只管、恭順して荒武七谷を明け渡すか。弓馬を以って合戦に望むか。二つに一つである。返答如何に」
    「もとより戦は本意に在らず。荒武七谷の痩せこけた田畑も、今は見る影なく衰えた金山も、ことによっては我が命さえも、差し上げましょうぞ」
    「神妙なることかな」
    「但し、一つだけお願いの儀がござる」
    「何なりと」
    「荒武の良民三千余の命ばかりはお助け願いたい」
    「既に何処方へか落ち延びさせた後と見たが。我との合議を経ずしてそのような振る舞いを成すとは、密かに逆心ある証と見ゆるが,如何」

    義盛の言い様に捨丸はからからと大笑いして

    「端からそのつもりでもなかろうに。よう言われたもの」
    「無礼な」
    「物見の言うには義盛殿軍勢は総勢3万。然るに今、荒武七谷に攻め込まれし人数は2万五千ほどか。五千がところ足りませぬ。これらの手勢を間道から先回りして良民の行く手に伏せ置けば、そこな御家来衆と山道にて挟み撃ちに討ち取るも、赤子の手を捻るが如く容易きこと。我切腹の上からは、約束も反故にされて、忽ち山を追い登られる算段とお見受けいたしました」

    捨丸の言葉が終わらぬうち、早くも義盛の側近くに控えていた騎馬武者が十騎ほど、名乗りを上げて捨丸目がけて突進した。捨丸は強弓に矢を番えて目にも留まらぬ早業にて射掛ければ、瞬く間もなく矢は騎馬武者どもを貫いて、遥か後ろに突っ立つ兵どもの命さえも奪い取った。義盛、弓を右手に合図を送れば、左右の手勢数百人が一斉に尾根を登り始め、捨丸をやり過ごして山道に進まんとした。捨丸が雨の如く矢を繰り出して、兵どもを射殺す中、鎌倉方から弓隊、百人ばかりが進み出て、山なりに矢を射掛けんとするところ、者どもの頭の上で火の玉が弾け、数多の兵が炎に呑みこまれた。

    「何と」

    義盛が谷の北詰め、山肌の中ほどを見ると、曲輪の屋根の上に女が一人、煌びやかな打掛を羽織り、月琴を手にして立っている。朧の前である。

    「笑止なり。時の帝の宣旨を戴き、朝敵、謀反人を討たんとする三万の軍勢が、たった一人の武者に腹切らせたいがため、総がかりで攻め立てて来ようとは。余りの情けなさに涙も出ぬわ」
    「女、邪魔立て致せば容赦はせぬ」
    「望むところ。我は荒武七谷の頭領、荒武兵衛輔資正、またの名を夜叉王丸が女房、朧と申すもの。思い人の助成なし、お手向かい申し候ほどに、この上、女御にまで手玉に取られし軍勢とて、せいぜい天下に恥を晒すが良いわえ」

    叫ぶなり朧の前、背にした月琴の裏より矢を掴み取り、番えて東の尾根を登りきろうとする兵ども目がけて射通せば、尾根の頂が砕け散って、悉くが谷底まで転がり落ちる有様。朧の前は二の矢を番えて、西の尾根に取り付いた軍勢をも、打ち砕いた。

    「引っ立てよ」

    とても適わぬと見定めてか、義盛、荒武資意を縄目のままに引っ立て来て、太刀を引き抜いて叫んだ。

    「夜叉王丸よ。荒武資意は我が手中にあり。親父殿の命を惜しむなら、早、降れ。さもなくばこの場にて一刀両断にしてくれん」
    「御随意に」
    「何と。かくも不忠、不孝なる者かな。人の道に外れ、人外魔性の者どもと組みしてまで、生を貪らんとするか」
    「成る程に我が傍らには人外の輩多く棲み暮らすものなるが、そこな男の如く、人にありながらにして人外の魔性にも等しき振る舞いをなすようなものは見当たらず。もとより荒武七谷は天地の始まりより荒武良民の領地であったるが、その男一人、将に人外の振る舞いにて永らく良民、田畑を欲しいままに踏みにじったるものなり。こなた様方にて切り捨てんとするならば、是非もなし。如何様にもなされるが宜しかろう」
    「ほざいたな」
    「捨丸。俺はここに居る。助けよ。姫夜叉と朧の妖力を以って、鎌倉方の軍勢を打ち滅ぼせ」

    喚き散らす資意の頭を義盛が馬上から蹴りつけた。

    「往生際の悪い奴ばらよ。夜叉王丸。姫夜叉なる人外の者は阿津賀志山の麓にて、国衡ともども我らが討ち取ったぞ」

    義盛の声が終わらぬうちに、空から厩ほどの大きさの岩が降ってきた。南の沢の蘆原にある大岩であった。岩は一丁ほども転がり続け、鎌倉方の数多の者どもを押しつぶし、漸くに止まった。高みより姫夜叉が大岩目がけて突っ込んできて、大岩は砕け、さらに多くの者どもを傷つけた。

    「どうじゃ。思い知ったか。この戦、我等が勝ちぞ。捨丸、でかした」

    濛々たる土煙の中で資意が大笑して叫んでいた。

    「おのれ」

    義盛が太刀を振るって、資意はその場に絶命した。血振るいをする間もなく義盛の鼻先に姫夜叉の顔があった。姫夜叉は義盛の襟首を締め上げ、棘鞭を喉下に突きつけながら、声にあらざる声で問いかけた。

    (我が養い親の国衡と我を晒し者にした挙句に辱めた、大串何某とやらに用がある。寄せ手の中には見当たらぬが、何処に居るのか。応えよ)

    その場にいた万を越す者ども全ての耳に、姫夜叉の声は耐え難い痛みとなって響き渡ったのである。

    「朧」

    捨丸の声を背に聞いて、姫夜叉は振り返った。曲輪の屋根を見れば、朧の前が力なくその場に膝をついて、将に転げ落ちていくところであった。義盛を放り出して、姫夜叉は曲輪に飛んで、朧の前を受け止めると、板戸を打ち破り、曲輪の一間に導いた。

    (朧よ)

    姫夜叉の問いかけに、朧の前は目を覚ました。

    「姫夜叉、声をやられたのか」

    (大事無い。声などいずれ取り戻せる。鎌倉勢の大串とかいう奴ばらに舌を切取られたのだ。国衡の首を晒したのもそ奴故、いずれこの借りは返してくれようぞ)

    「無事でいてくれて、良かった」

    朧の前はすっかり痩せ細った指で姫夜叉の頬を撫でた。弓を持つ左腕は折れているのか、腫れ上がっていた。

    (この体であの弓を射たのか)
    「久方ぶりに万を数える軍勢を前にして、血が騒いだ」
    (赤子は、どうしたのだ)

    姫夜叉は曲輪の中を見回した。囲炉裏の傍らに割れた卵の殻が散らばっていた。

    「案ずるな。無事に生まれた。女の子ぞ。体つきはわらわに似て、男勝りじゃ。顔立ちは姫夜叉に生き写しと、資正様も大喜びであった。賢い子でな。卵の内から我らの声を聞き分けて、生まれたその日から、もう人語を操る」
    (誠か)
    「生まれ出るより人界に在って、我らの力を受け継いだとなれば、あれは我らよりも遥かに大きな力を得るやも知れぬ」
    (して、今は何処に)
    「荒武館の女房どもに託して、一足先に秋田に向かわせた。思えば短慮であった。すぐ後に押し寄せてきた寄せ手の数が、物見の見積もった人数よりも五千がところ少なかったのじゃ。間道を縫って先回りし、秋田に落ち延びようとする良民を襲うつもりであろう」

    恐らく、伏勢の大将は大串次郎であろう、と姫夜叉は思った。

    「資正様は後詰の2万五千が北の峰を越えて良民を挟み撃ちにするのだけは何としての避けたいとて、一人にて迎え撃つおつもりで、打って出られた。わらわも及ばずながらと出張っては見たものの、この有様。笑うてたもれ」
    (朧よ。ここいてくれ。捨丸に加勢して、今度こそ、和田義盛が首を食いちぎってやる)
    「それはならぬ。そなたは今すぐ、赤子の後を追うてたもれ。先ほどの戦いで、僅かながら討ちもらした者どももあるやに見うけられる故、そなたは、少しも早く、良民と赤子の後を追うて、伏勢から守ってくれ」
    (ならば朧を抱いて、宙を飛んで行こう)
    「それは叶わぬ。今のわらわでは、いざという折に、足手まといになるばかり故、このまま、ここにおいてゆけ。構わぬ。もう、良いのだ。わらわも十分に長い年月を生きた。今はただ、あの子の行く末の安寧を願うばかり。宜しく頼み参らせる」

    朧の前はそう言って姫夜叉を拝むようにした。

    谷中に獣の雄叫びが響き渡った。

    (捨丸)
    「変じられたか」

    谷を見下ろせば、変化した捨丸の姿が望まれた。体中が黒い剛毛に覆われた身の丈一丈八尺ほどの熊に似た獣であった。頭は狼に似るが、口元から覗く白い牙に加えて、頭上には牛の如き白い二本の角が伸び、背中には蝙蝠の如き翼が生えていた。魔性のものと化した捨丸は打ち倒した徒歩立ちの小物が遣う大薙刀を諸手に持って、大群を切り裂いていた。

    捨丸が寄せ手を蹴散らす間に、千を越す者どもが火矢を番え、曲輪に狙いを定めて、一斉に射掛けてきた。矢は捨丸を飛び越えて、雨の如くに曲輪に降り注いだ。魔物と化した捨丸が低く唸った。近づいてくる火矢を見据えて、朧の前は覚悟を決めていた。最後のあらん限りの力をこめて、朧の前は姫夜叉の腰骨あたりに諸手をあてがい、曲輪の外、空高く、姫夜叉の体を放り出した。遠ざかって行く朧の前に向かい、姫夜叉は心の中で永らく思い出すことのできないでいた朧の前本来の名を叫んだ。金の盆に瑠璃をこすり付ける折に聞こえることのあるような、甲高い声であった。朧の前は、その名を心のうちに感じ取って、ほんの少しの間、姫夜叉に微笑んだかのように見えたが、その笑みも千を超える火矢に包まれ、見失われてしまった。

    彼方で、捨丸が鎌倉方の軍勢を追い散らしていた。姫夜叉は涙を飲んで、尾根伝いに生まれたばかりのわが子の後を追った。途中の山道に良民たちを追いすがる、百余りの軍勢を見出すと、これらを全て我が物として吸い尽くした。

    山道に具足を身につけていない亡骸が目立ちはじめていた。荒武の荘の良民たちであった。伏勢に襲われたものであろう。やがて谷に掛かるつり橋の辺りまで来ると、千人ばかりになった良民たちが、将に大串次郎率いる手勢に推し包まれんとしていた。荒武の男たちが身に付けただけの心もとない得物を振るって、命がけの抗いを見せていた。姫夜叉は良民たちと伏勢の間に降り立って、雑兵どもを追い散らした。

    「姫夜叉様」

    小頭たちが走りよってくる。その人数もかなり少なくなっていた。

    (皆を連れて、つり橋を渡れ。早うせよ)
    「我らもここに踏みとどまり、お供仕りまする」
    (ならん。良民を守ってお化粧領まで行って待つようにとは、捨丸が下知じゃ。従え。何より、我らが赤子の行方を知るものはないか。荒武館の女房どもに託されたと聞き及んでおるのだが)
    「面目次第もござりませぬ。かの女房方とは、戦の最中、これより三丁ばかり手前で離れ離れになり申した。伏勢に追いやられて木立の中に逃げ込むのを見たのが最後にござります」
    (見落としていたか)

    姫夜叉は棘鞭を目にも留まらぬほどの勢いで振り回し、飛び来る矢を打ち払い、攻め込む敵を刺し貫いた。つり橋の入口に踏みとどまって、良民が渉るのを庇った。皆々、つり橋を渡りきったころを見計らって、蔦蔓を切り払い、つり橋を谷底深く落とし込んだ。

    「我らを守らんがため、一人にて向こう岸に残られたのか」

    崖の淵に立って、良民たちは姫夜叉を伏し拝んでいた。

     荒武館の女房らと思しき者たちの亡骸が、木立の中に折り重なるようにして横たわっていた。

    (遅かったか)

    皆、懐剣を手にして事切れており、最後まで抗ったものであるらしい。姫夜叉はわが子を求めて、更に森の奥深く分け入った。

    (聞こえるぞ。あれがそうか)

    鈴を鳴らすような微かな音が、森の奥から聞こえてきた。人の耳には聞こえない泣き声が、赤樫の木の洞の中から響いてきているようであった。二十人ほどの雑兵が、洞の中から小袖を着た館の女房と思しき若い女の亡骸を引きずり出しているところであった。次いで洞から這い出した男は、泣き叫ぶ赤子を抱いていた。

    「赤子じゃぞ」
    「かの夜叉王丸と朧の前の子であろう」
    「有難や、有難や。これで褒美に居りつけるぞ」

    語り合う男たちの真上から姫夜叉は棘鞭を振るった。肌着の上から小さな小袖を着せかけ、裾の辺りを折りたたんで、肌蹴ぬようにと深紅の打ち帯で纏められていた。小袖は峰の婆から姫夜叉へ贈られたものであった。姫夜叉は赤子を胸に抱いて祠に潜り込んだ。生まれたその日から人語を操るとうわりには、その鳴き声は常の赤子と同じであった。夕闇の迫る洞の中で、姫夜叉は赤子の肌着の下を改めてみることにした。何時までも泣き止まぬことを不審に思ってのことであった。追いすがる雑兵の刃に傷つけられたものであろうか。驚いたことに赤子の右腕が肩口から失われていた。

    「よいか。泣いたりせずに、私が戻るまでここで待っているのだぞ。決して動いてはならぬぞ。泣き声もいかぬ。よいな。よい子じゃ」

    姫夜叉は小袖を脱いで洞の入り口に吊り下げた。少しでも寒さを防ぐためであった。わが身を本性である蛇身に変じ、後ろ帯に手挟んでいた横笛は、娘の傍らに添え置いた。一人、洞の外に出て、地を這うようにして赤子のもう片方の腕を捜し始めたのである。

     右腕は五十間がところはなれた草地に落ちていた。姫夜叉は右手を軽く口に咥えたまま、諸手で念入りに草むらの中を這い回っていた。その草地に魔性の身と化した捨丸が降り立った。総身に深手を負い、戦いに我を忘れ、心まで獣のままであった。足元で見上げる姫夜叉の口に赤子の右腕があった。捨丸は逆上し、右手にした大薙刀を振るった。姫夜叉は声にならざる声を以って、捨丸に呼びかけたが、その声は届かなかった。首の付け根から斜め右下に、右のわき腹の少し手前まで、姫夜叉の胴を切り下ろしたところで、捨丸は我に返った。倒れ行く姫夜叉を抱き起こしてはみたが、もう手の施しようのないことは明らかであった。

    「捨丸」

    漸くに人語を取り戻すことを得た姫夜叉は、捨丸の胸にすがり付いて喘いだ。

    「朧の本当の名を思い出した。もう、決して忘れぬ。捨丸のことも、決して」

    それ以上は言葉にできなかった。

     木立の中から子どもの声が聞こえた。

    「姫母様。どこなの」

    闇の中に赤子の顔だけが浮かびあがった。草地に出てきたその姿は、体の長さ三尺余り、群青の鱗に覆われた蛇の形をしており、鎌首のあたりは未だに赤子の顔のままで、常の蛇よりも胴は太く、八つか九つの堅い節でできているようで、各々の節の下から蜘蛛か虫の様な細長い八対の脚が伸びていた。尾は海老の如く先が広がって、鎌首のすぐ下にある足は、右だけが欠けていた。首筋には金色の鬣。眼の色は右が瑠璃、左は赤かった。

    蛇身の赤子は呆然とする二人に歩み寄り、傍らに落ちていた腕を一番前の左足で起用に拾い挙げた。

    「なんだ、こんなところにあった」

    腕を欠けている右足の辺りに継ぐと

    「変なの」

    と呟いて、右手に息を吹きかけると、腕は細長い虫のそれに、赤子の顔は蛇に変じた。

    「父様、姫母様。母様を探してくるね」

    言うなり蛇身の赤子は宙を飛んで、北の曲輪目指して飛び去った。それを目で追っていた姫夜叉の首が力なく垂れ下がった。捨丸が叫びつつ抱き留めれば、姫夜叉の体が五色の光か砂の粒のようになって、少しづつ闇に解けていった。この時、頭蓋に近い背骨が金色の小さな蛇になって捨丸の腕の間から地面に滑り落ちたが、それは泣き叫ぶ捨丸には知る由もないことであった。そして捨丸も、また、低く長く遠吠えのように叫んで、雪が降り始めた暗い空高く、舞い上がっていった。

     その夜、北谷では、焼け落ちた曲輪の警固に当たっていた雑兵が、蛇身に八対の虫の脚、海老の如き尾を持った魔物に襲われた。魔物は人語を操って、母親を呼びつつ、燃え盛る炎の中に飛び込んだかと思うと、群青の鱗から炎を吸い尽くし、二十尺ほどの大きさになった。口から粘り気のある毒を吐き、これに犯されたものは、人といわずものといわず、焼けただれ、あるいは鎌首よりも高く掲げた尾の先は、海老のそれ如くに広がりを見せ、この尾を小刻みに振ることで、毒針を発し、毒針に当たったものを、同じく焼き尽くした。警固の雑兵は皆、毒にやられたが、麓にいる小頭に今後の下知を伺いに赴いていた使番のみが、只一人、難を逃れた。

    魔物が姿を消して、全てが焼き尽くされた曲輪の跡に佇む使い番の耳に、不可思議な声が響いたのはこのときであった。それは涼やかな女の声で、己の足元を掘れと呼びかけていた。まだ熱を帯びた土を一尺ほど掘ると、燃え残っていた床の下敷きになって、長さが一尺ばかりの不思議な塊が手に入った。それは、黒光りする隕鉄の如き鉄の塊で、見ようによって、女御の細腕にも、はたまた、男子の男根陽物にも見えるというものであった。

    (具足を脱ぎ捨て、この場を離れ、遥か遠き人里に我を誘え。さすれば汝に末代までの富貴を与えん)

    隕鉄は使い番の心にこう囁いた。使い番は不思議な陽物の導くままに北谷を離れたのであった。

     母親である朧の前を探し当てることができずに、赤子は蛇身の形で森の奥の赤樫の洞まで帰っていた。北の峰に母様はおらず、森の草原にも父様や姫母様の姿はなかった。姫母様の言いつけ通りに赤樫の洞の中で帰りを静かに待っては見たものの、何日たっても、迎えに来てくれるものはなかった。心細くなって泣いているところへ、入り口に掛けた小袖を手繰って、一人の男が入ってきた。

    「誰」

    赤子が驚いて尋ねた。

    「誰というほどの者ではないのだが。矢で目をやられての。山の中で真っ暗闇に、幼い女童の泣き声がするほどに、耳を頼りにここまできたのだ。驚いたな。こんなところに、お前のような年端も行かぬ女童が、しかも一人でな。そなた、名は何と申すのか。俺は九郎判官というものだ」
    「名前というものが、何であるか、よく知らない」
    「さても、不可思議な女童なり。おや、お前は外が雪だと言うに、何も身に付けてはおらぬではないか」

    辺りを手探りした九郎の指先に、小袖が触れた。

    「おお、良いものがあった。お前が身に付けていた小袖ではないのか。ほれ、これをこのように、両の袖に腕を通して」

    変化に際して脱ぎ散らかした小袖の類を身に付ける術さえわきまえていない赤子であった。見えぬ目で何くれと世話を焼いてくれる九郎に寄り添って、赤子は暫しの間、眠りについた。九郎もともにまどろみ、気がつくとせいぜい三尺程度であった赤子の身の丈が、五尺ほどになっていた。

    「やや、幾ばかり寝入っておったかは知らねど、僅かの間にもう二尺がところ背が育ったとな。奇怪なる女童なり」

    九郎は驚き慌てた。不審に重い、洞の中を今一度、手探りすると、錦らしい袋に納められた一尺ほどの長さの包みを手にすることを得た。九郎には憶えのある品であった。

    「これは。おお、先だって姫夜叉への餞にと国衡に俺が託した、雄竹の笛でないか。これよ。お前、この品に覚えがあるのか」

    「姫母様が、私にくれた。荒武の女房に抱かれて山道を逃げていた折に、行く手に伏勢があって、小競り合いの最中に私の右の腕が切り落とされて、この洞に匿われていると姫母様が見つけて下されて、構えてこの場を動くでないとて、笛と小袖を置いていかれた」
    「何、姫母様とな。されば、お前は、あの姫夜叉の娘か。父上は荒武の捨丸。母上の名は朧の前」
    「父様と母様の種を姫母様が胎内で育てられ、卵で私を生んで、母様が暖めて下された」
    「姫夜叉が西木戸の館から北谷に帰ったのは、四月ばかり前のことであったが、そなたは何時の間に生まれたのか」
    「一昨日の夜。九郎は父様や母様とお友達」
    「何とまあ。これは驚いた。如何にも、姫夜叉と資正とは、西木戸の館を介して幾度となく遭うておる。姫夜叉とはな、月を愛でながらともに酒を酌み交わした仲よ。父様母様たちは如何されたか」
    「判らない。何日か前の晩にこの先の草地で父様と姫母様にお会いした折には、お二人とも手傷を負われていて。私が北谷まで母様を探しに行ったれども、曲輪は焼け落ちていて、母様には会えなんだ。仕方なくこの洞に戻って何日も待っても、誰も迎えに来てくれなんだ」

    女童は涙を流した。

    「生れ落ちてよりその有様とは、つくづく不憫な。案ずるな。俺も手伝って皆を探そうほどに」
    「本当」
    「ああ、本当だとも。尤も、俺も寄る辺のない、一人法師の身の上だがの。まあ、一人よりは二人の方が、幾らかは心強いというものよ」
    「九郎は何故、一人法師」
    「うむ。俺もお前の如く、生れ落ちてすぐに父上とは死に別れ、母上とは生き別れになってな。以来、初陣するまでの間は、ほぼ、一人きり。鞍馬のお山に篭って修行の日々であった。長じて兄、頼朝に再会し、諸国を戦して経巡り歩いたものだが、大方の戦が止むと兄からは疎まれはじめてな。追われる身となり、戦の明け暮れのうちに付き従ってくれた、親しい同胞とも思える家来の者どもとも、ついに死に別れをして、またぞろ、一人になってしもうた」
    「寂しくはないの」
    「堪らなく寂しいな。昔の賑やな頃のことを思うと、やり切れぬよ。俺のために進んで命を捨てていった同胞を思えば、俺も良い加減で討ち死にするのも止む得ぬことなのではあろうが、ここで易々と死んであの世とやらに参ったのなら、先に死んだ同胞に、なあんだ、命を捨てて守ってやったのに、もう、命を粗末にしてきたのか。などと攻められるのではと、案じられてな。今に至るまで生き恥を晒す始末じゃ」
    「二人でいれば、寂しくない」
    「幾らかは寂しさは紛れるであろうかの。この様故、お前のためにさしたる働きもできるわけではないが」

    九郎は済まなさそうに目の傷を手で摩った。

    「大丈夫。私が九郎の目になってあげる」
    「ほお、嬉しいことを言ってくれるな」

     その夜の更けるのを待って、九郎は女童に手を引かれ、赤樫の洞を出て、北へと向かった。討手の目を眩ますため、九郎は姫夜叉が残していった小袖を纏い、深紅の打ち帯を顔に被って、道中、拾い上げた破れ笠を被った。巧みに所作を使い分けて、孫娘に手を引かれて北へと旅する盲いた老婆を装って、行く先々の辻に立って、携えた笛を吹けば、不思議とその日の暮らしの糧に恵まれたり、一夜の宿りを得たりすることも難しくはなかった。二人は人目を避けてゆるりと旅を続け、遂には海を渡って蝦夷地に入り、更に長い年月を経て、蝦夷地の北の果て、冬には凍りに閉ざされる大海を望む浜辺にまで辿り付いた。

    「大きな河。向こう岸が見えぬ」

    女童が驚きの声を上げるのを、九郎判官は微笑みながら聞いていた。

    「河に在らす。これを海という」
    「海」
    「水には塩が含まれておる。蝦夷地に渡るときに船に乗ったであろう。あれも海」
    「あの時のものより随分と広くて大きい」
    「さもあろう。冬にはこの大海の北の果てより氷が押し寄せ、海の上を陸の如く歩けるようになるのだというぞ」
    「冬に。これほどに寒いというのに、今は未だ、冬ではないの」
    「ははは。お前は殊の他の寒がり故にな。なれど、この大海の遥か北のはずれには万年氷の海が広がるが、その中にただ一つ、火を噴く山を戴く小島があるという。島には出湯が湧き出て、緑も豊かだと聞いた。昨夜、一夜の宿りを許してくれたこの土地のものが教えてくれた」
    「万年氷の海の中に、暖かい緑の島が」
    「左様。これなら俺に討手も掛かり難かろうし、お前も過ごしやすいであろうと思うが。如何じゃ。冬を迎えて海が凍りついたなら、二人してその島を目指そうではないか」
    「寒いのは嫌」
    「それはそうだが」
    「今、行けばよい」
    「今すぐにか。いくらお前でもこの海原を泳ぎきるのは至難の技というものであろう」
    「出来ぬこともなかろうと思う」
    「何故ぞ」
    「今朝方、九郎より早起きして波打ち際で遊びおるに、毛に覆われて細長く、手足が鰭になっている川獺に似た毛蟲が、数多、冷たい水の中に暮らすのを見た」
    「応よ。気がついたか。陸の獣にも似た海の獣で、海驢とか鯔とかいうものらしい」
    「それらの毛蟲の子を喰らわんとて、大きな大きな勇魚が波打ち際まで攻め込んでくるのじゃ。我もそれらの子と見間違うたのか、喰われそうになったるに、三匹ほど腹の足しにしてしもうた。それが不思議や、胸鰭も尾鰭も、高々しい背鰭まであって、確かに魚の形をしておるのに、その味は毛蟲と少しも変わらなんだ」
    「おお、それは海驢や鯔と同じく海に暮らす獣の類にて鯱とか申すものであろう。若い頃に書物に読んだ憶えがある。育つとすれば五十尺からの大きさになると言うが、お前、それを三匹も喰うたのか」
    「鮫の如くに鱗のない魚かと思うたが、やはり、毛蟲であったるか。兎にも角にも、喰らい甲斐ある獲物であったるが故、今はこの身を裸蟲の形に留め置くことも儘ならぬほどに、力に溢れている。この分なら冬を待たずしても、その島とやらに泳ぎ着くことも難しくはなかろうと思うのだが」
    「やってくれるか」
    「うん」

    応えるなり、女童は裸になって海に飛び込んだ。磯に群れていた海驢や鯔が恐れて海に次々と飛び込む中、蛇身の本性を露に、浮かび上がった。群青の鱗に覆われ、太い胴は八つほどの硬い節を成し、首から上は金の鬣を靡かせた蛇。尾の咲きは海老のようで、眼は右が瑠璃、左は赤く輝いていた。

    「九郎。早う」
    八対の脚を器用に動かして、魔物は三十尺ほどの巨体を浜辺に乗り上げ、鎌首を砂地に付けて九郎を招いた。九郎が金の鬣に取り付くと、魔物は一散に踵を返して沖に向かい、北の海に向かって泳ぎ出で、間もなく見えなくなってしまった。

    十四

     これより先、九郎と名のない女童の噂話は、蝦夷の地は愚か本朝の島々でさえも、絶えて聴かなくなった。ましてや、夜叉王丸や姫夜叉、朧の前などの噂も聞こえなくなり、これらの魔物は陸奥の人里離れた山間の地に、魔物や神の類として祀られるほどのものでしかなくなっていった。

     唯一、姫夜叉の仕業を思わせる出来事が、奥州合戦の幾年か後に、京の都で起こった。国衡と姫夜叉を辱めた大串次郎は、合戦の折の勲によって官位を賜り、京にあって帝の御所警固の任に当たっていた。破格の出世ではあったが、主家に当たる畠山重忠が頼朝によって鎌倉に滅ぼされると、大串にも討手が掛かった。夜半に館に夜討ちを受け、大串は都で娶った妻と生まれたばかりの娘を伴い、一先ず叡山を頼って、深い山の中をさ迷い歩いていた折のことである。

     真っ暗な山道を落ち延びて行く大串親子の後ろから、五歳ほどの女童が、泣きながらついてきた。討ち果たされた同胞に縁のものでもあろうかと、憐れに思って大串が自ら女童の手を引いて先を急ごうとするところ、妻が疲れのためでもあろうか、歩くことが思うにまかせぬ有様とはなった。道の少し開けたところにでたので、妻を休ませる為、娘を女童の傍らに置いて、守を成させ、大串は妻の介抱に当たらんとした。雲間から月が現われ、辺りが少しは明るくなったかと思われた矢先、妻が叫びながら大串の背後を指差していた。何ごとかと振り返れば、女童が幼い娘を頭からむしゃむしゃと喰らっていた。妻が大串を跳ね除て娘にすがりつくようにして、娘の体を女童から引き離さんとしたが、その手には小さな右の手が残るのみであった。昏倒する妻をそのままに、大串は太刀を抜き、女童に斬りつけたが、あまりの身の軽さに討ち取ることができない。女童は耳まで避けた口を開いて大笑し、遂には大串の妻を捉えて宙を舞い、闇の彼方に消えうせてしまった。

    「如何に大串次郎。阿津賀志山の恨み、今こそ晴らしたぞ」

    闇の中に聞き覚えのある声が響いて、後には何も残らなかった。

     大串次郎は長いこと山中を彷徨い歩き、とある峰の頂にある大岩の上で、娘の右手を口に咥えさせられた妻の生首を見つけた。余りのことに世の無常を感じた大串は、一人、叡山に上り、出家したと伝えられている。

     さて、同じ頃、北詰の曲輪で不思議な陽物にも似た隕鉄を得た使い番は、この男の名を嘉介といったが、得物を捨て具足を脱いで、裸足のままに、戦を逃れた百姓のようなつもりで、田舎道を選んで通り抜け、遂には十三湊にまで辿り着いていた。ここにいたるまでに、焼け跡で聞いたのと同じ声に導かれて、幾度か不思議なめに遭い、少なからぬ財物さえを得ていた。

    即ち、とある長者の屋敷の前を通りかかると、呼び止められ、請われて主の前に連れていかれた。聞けばこの屋の跡取りである幼子が俄かの瘧病に見舞われて、医者も匙を投げる始末であった。内々に忌の算段までなさんとしていた矢先、祖母にあたる老婆が夢に右目が血の色をした山女あらわれて、明け方近くに門前を通る百姓姿の旅の男あれば、この者に跡取りを抱かせれば、病はたちどころに平癒すべし、とのお告げがあったとのこと。藁をも掴む心持でその通りに成したところ、熱が下がった。その日からは屋敷中で下にも置かぬもてなし振りとなって、お仕着せの一重から足袋、草鞋にいたるまで全て調えさせ、路用の支度まで尽くして、送り出してくれたのである。

     十三湊に至り、その日の宿を訪ねるうち、またしても陽物の声に、遊里に進み、最も栄えたる廓に上るようにと勧める。嘉介は路用の銀子の心細くなるのを憂い、遊里に宿をとるを嫌がったが、陽物の言葉に従い、女郎たちの中でもさして目立たぬ女を願い、同衾したところ、夢の中に背は高く、甚だ長い髪の毛にて白い肌を覆い隠したる、右目だけ血のように赤い女が現われ、持ち金を叩いてでもこの女を身請けして、早々に立ち去るよう言われた。嘉介が目を覚ますと、女も跳ね起きて、枕辺に隠し置いた陽物の包みを、中も改めずにしきりに拝み伏している。二人して同じ夢を見るのも何かの験と、朝のうちに銀子の多くを払い、女を身請けして、早々に町を後にしたのであるが、この後、敦賀辺りで風の便りに聞くところでは、十三湊で大火事があり、港の大半と遊里を焼き尽くしたという。日付を探れば女を連れて旅に出た日から、僅かに二日後の出来事であった。

     それから二人して琵琶湖を渡り、京を経て、難波津に落ち着いて女を妻とし、遊里に株を買い求め、女を何人か置いて廓を営んだ。戦乱や天変地異など、危急の折には、不思議と陽物のお告げがもたらされることもあって、富貴に満ちた暮らしにも慣れて、嘉介から数えて七代の後には、堺に店構えを移して、屋号も難波津のままに、楼閣を連ね、名立たる傾城を抱える、遊里随一の廓と称されるようになっていた。

     振り返れば奥州合戦のその後も、鎌倉殿の幕裡にあっては、平氏追討のための挙兵から幕府開幕にいたるまでに功績のあった諸将が、次々と誅され、源家の頭領たる将軍の血筋さえも僅かに三代で虚しくなった。幕府の実権は北条氏に移ってその後も十代にちかい将軍職が生まれたが、この系譜もやがては滅び、再び、京、室町に新たな幕府が起こったが、やがて朝廷を南北に二分する戦の世となり、応仁の乱を経て、戦国の巷に諸大名が鎬を削る乱世となった頃に、堺の遊里、難波津に坂崎佐衛門なる男が食客として棲み暮らすようになっていた。

     この男、その前身は尾張川浪衆の頭目のひとり蜂須賀小六のもとで、百人からの足軽を束ねる小頭を務めていたが、小六が近頃の戦上手と評判の羽柴筑前配下の武将となったのを機に、勝手気ままなかつての暮らしを捨てきれずに出奔し、水利の諸芸に秀でたるを幸いに、難波津にて荷船、客船の差配から廓での刃傷沙汰やら揉め事の取締りなどして、過ごす者であった。

     さて、難波津には代々、一風変わった習わしがあって、毎朝、決まった刻限になると、主人夫婦以下、傾城、遊女、女郎、下働きのものの別なく、この見世で働く全ての者たちが一間に集まり、帳場の神棚に祭ってある重代の重宝を礼拝した。主夫婦の他には、何人なりともその重宝の何たるかを見ることは決して許されず、はたまた、遠国より堺に旅してきた者や諸国を回る商人、武芸者などで、何やら奇怪な話や噂話を知るものは、廓の主にそのことを告げ、神棚の陽物の前でその話しを物語れば、それなりの歓待を受けることができた。心安くしている傾城の噂話によると、望みに叶う不可思議なる物語を語る客は、夢中に陽物からのお告げを授かり、思いのままの富貴を手にしたものも少なくないとか。然るに近頃では、商人、武芸者、果ては大名に至るまで、神棚の重宝に向かって怪異を語り、しきりにその託宣を得んとするものが少なくないのだという。

    「妖しげな重宝に祈念してまで、近頃は己の利を追い求める輩が増えしものかは」

    佐衛門は内心、飽きれもしていたが、この月の十五夜の晩になって、他ならぬ佐衛門の夢枕に、山女と思しき女が現われた。六尺を有に超える上背に白磁のような肌。脛の辺りまで伸びた長い髪で体の要所を包んでいて、高く鼻筋の通った整った顔立ちながら、右の眼のみが血のように赤々としているのが怪しげであった。

    「これは、永らくこの家の重代の重宝とて、恐れ多くも神棚にも祀られしものにござりまする。この界隈にて並ぶものなき剛の者と音に聞こえし、坂崎佐衛門殿に御座候や」

    如何にもと応えれば、

    「速やかに神棚より重宝を抜き取り、堺の町を離れるがよい」と女は鈴を鳴らしたような美しい声音で囁いた。

    「傾城の棲み暮らす卑しき家とは言いながら、恩義のある主故に、そのような真似はでき申さぬ」

    夢の中で、佐衛門が応えれば、女は更に続けて、

    「この屋の主には代々、富貴の運を授けてまいりましたが、近頃は、我が験の有る無しに係らず託宣と称して、験を求める客筋から徒に金品を掠め取るに至りました。こと此処に至っては、我が験を表すに値しませぬ。堺は上方随一の商いの都。人と物と報せが諸々、相集う町なれば、思うところあって、我が求める報せをもたらした者には、僅かながらの吉凶を占い、心がけ良き者は僅かばかりの富貴を得るに至りましが、知りうる限り、求める報せにも目処が着きましたる故に、今は、早、この地を離れんと存じます」
    「我が身には係りなきことのように思えるが」

    佐衛門が言うと、夢の中の女は続けて

    「僅かな吉凶と申すなら、あなた様にも占って差し上げることができまする。先の尾張国主、今は岐阜にて城を構える織田上総介様。愈々、近々、堺にも攻め参らされるご所存とかや」
    「何。信長様が。すると、根来や堺の鉄砲鍛冶を根絶やしにせんとの目論見を、遂に」
    「仔細は存じあげねども、早くも京、大阪筋の守りを固められ、特に、鉄砲、鉛、火縄、煙硝等、戦の支度に係る品々、羽柴筑前様が悉く、買い調えられ、他の者どもには、構えて売り候らわぬようにと」
    「いかん。羽柴様がそのように動かれておられるのであれば、それは本物であろう。信長様のなさることじゃ。この町におったなら生きてはおれぬ」

     佐衛門は夢で見た女の言に従って、その夜の更けたころ、無人の帳場に忍び込み、神棚の中の重宝を奪って、堺の町を離れた。数日を経ずして堺は織田信長の軍勢に屠られ、往時の賑わいを取り戻すことはなかったのである。さて、佐衛門はと言えば、奈良から吉野、伊賀と人目を避けて山道を抜け、伊勢へと至り、討手の来ないのをよくよく、確かめた上で、宿の主を通じて、大刀や手持ちの財物を金に替え、町屋の商人然とした風体を調え、持ち去った陽物は商いの荷物の中に深く隠した。これだけのことをしてのけて、さてこれから如何せん、と思いつつ床に就くと、再び夢に同じ女が現われて、陽物を携えて駿府に行けという。

    「また、遠いところに、目指す相手がいるものよ」
    「駿府の御城下に、枡形屋伝衛門と申す生糸を商いする問屋がありまする。今川義元公、桶狭間の合戦にて織田上総介様に敗れ、成り代わりて国主となられた松平信康様、上総介様の楽市楽座、関所無用の政を取り入れられてより、人馬商物の往来も盛んに、かの伝兵衛。これに組して、東海道でも指よりの長者とは成りたるとか。その枡形屋の一人娘にて、当年十六にならんとするものに、近頃、異変あり、と聞き及びまする。お手数ながら、わらわをその娘のもとへとお遣わし候え」

     厄介な申し様ではあったが、取り立てて成すべきことのある身でもなし、佐衛門は夢の女の願いを聞き入れて、名護屋から東海道を下って駿府へと旅立った。人の行き来が意のままになせるような時勢ではなかったが、陽物の力の成せる技か、道中、諸方の関所で咎められることもなければ、見せ掛けに持ち運んていた商いの品々が不思議と高く買い求められたりして、左程の難なく駿府まで旅を続けることができたのである。

     枡形屋の店構えは、駿府城下の町屋の目抜き通りに面した、間口八間という大きなもので、店の裏手に数え切れぬほどの蔵と、武家の屋敷にも劣ら豪奢は造りの屋敷を構えていた。商人宿に荷物を解いて、佐衛門、難波津から儲け話を当て込んでやってきた商人、佐平と偽って、親しくなった商人たちから枡形屋の娘御の噂をそれとなく聞きこんだところ、とんでもないことが判った。

    「蛇淫の精とな」

    佐衛門が驚いて聞き返した。戦乱の巷に生を受け、斬りあい刺し合いの渡世を送ってきた身にとって、今更、妖怪、物の怪の類に恐れをなす柄ではないか、かの陽物を手にして以来、世の不思議にもそれなりの理あり、と割り切れるようになってきた佐衛門であった。

    「それが、なあ。枡形屋さんの後取り娘、小夜様。へい。伝衛門様に他にお子はおられませぬで、大事な大事な跡取り娘の小夜様が、御歳は十六、将に番茶も何とやら、駿府はおろか京、大坂にまで聞こえた美しいお嬢様であらしゃりましたが。お気の毒なことに、恐ろしい魔物に魅入られてしもうて」
    「それが蛇淫の」
    「へい。かれこれ一年も前のことでしょうか。十五の春の花芽時に花見遊山に出かけての折、魔に見入られ、程なく桝形屋見世うちでも物堅い番頭一人を婿に取りましたが、その男が新床の夜のうちに狂い死にまして」
    「狂い死に、とな」
    「そうとしか思われませぬ」

    婿は娘と褥を伴にして、夜も明けやらぬうちに寝間を飛び出し、あらぬことを口走りながら倒れこんで、屋敷のものがあれこれと手を尽くして介抱したが、それ切りであったという。その後、枡形屋でも外聞を憚り、娘を広い屋敷奥に住まわせ、外との交わりを絶たせては見たものの、跡取りもなく身代を立ち消えにさせることも儘ならぬ故に、伝を頼って何度か婿を迎えたが、行く着く先は皆、同じであった。この上は、一夜なりとも娘と仲睦まじく添い遂げることのできる男であれば、迷わず枡形家の身代をそっくりくれてやろうということになって、噂を聞きつけて、欲と色との道行きで、数多の男が名乗り出ましたが、

    「夜明けまで、生きながらえたものは、未だに一人もおりませぬ」

    そう言って商人たちは噂話を終えた。

     その夜、夢にまた赤眼の山女が現れて、枡形屋の娘に憑いているものこそが、目指す相手であるという。

    「仇を探す手助けまでは請け負うたが、諸共に娘の命を奪うというのであれば気が進まぬ」

    佐兵衛が躊躇うと、娘も憑きものの命も伴に助けたくご助成賜りたいと、山女が懇願するので、明くる日、言われたとおりの身支度を整え、宿の主を介して枡形屋に意を伝え、夕刻になって人目を避けつつ、屋敷奥の門を潜った。

     座敷に通され、屋枡形伝衛門に引き合わされた。かつては今川方で弓馬の道を生業としていたといわれるだけあって、老いたりと言えども矍鑠とした面構えで、佐兵衛と二言三言、言葉を交したきりで、

    「命が惜しくば、この場より早々にお立ち退きを。運に任せて、手前、娘をと思し召すのであれば、ご随意に。さりながら、万に一つ、娘と睦まじくお過ごしなされましならば、憑き物の落ちたる女などと粗略には扱われず、何卒、この先も末永く、大事にお護り下さいますよう。さすれば、枡形屋の身代は悉くあなた様のものにござりまする」

    最後に、そう言い置いて、行ってしまった。

     佐兵衛、手代から蔵の鍵を手渡され、この座敷より、内庭に出たなら、これこれ、このように進むと行き着く大きな蔵の中に、お嬢様はお住まいです、と教えられ、案内もなしに一人、夜の屋敷内を進むと、目指す蔵はすぐに知れた。屋敷内にあるどの蔵よりも大きなもので、入り口の両脇に篝火まで灯されている。その明かりを頼りに三つある錠前を開けて蔵の中に入ると、蔵と見えたのは壁のみで屋根はなく、代わりに手入れの行き届いた庭木や池、石の類が多くあって、さながらどこぞの寺社の境内のようである。砂利の敷き詰められた小道に沿って歩いてくと、小さいが瀟洒な造りの平屋やあって、濡縁の柱にもたれるようにして若い女が月を見ていた。

    「今宵はどこぞの殿方がお相手をしてくださいますのやら」

    女がか細い声で囁いた。背は低からず、華奢な体つきに肌浅黒く、それでいて胸と腰の辺りの肉付きも豊かな、類稀なる美形である。今更、嘘偽りを申し立てるも如何なものかと、本名を名乗るが、お武家も商人も同じ男にかわりはない、と女は空言のようい言う。

    「まずは、こうお出でなされませ」

    赤い湯文字を肌に掛けただけの身なりで、女は佐兵衛を招じ入れ、奥の一間に引いたままの褥の上に横座りして、

    「既にお聞き及びのこととは存まするが、私こと、数え歳十五の春の日の砌。麗らな日差しに物見遊山などして、山間の桜の林にて散る花など眺めおりましたるところ、枝先に小さな細い蛇が降りてまいりました。美しげな黄金色の鱗に、背の辺りに斜めに赤い一筋。女御の小指ほどの太さで、寸は一尺あまり。丸い瑠璃の色の眼に紫の舌をちろちろと出したり入れたりと、私を誘うようで。右手の指先が蛇の頭に触れたと感じました途端、袖口から着物の中に這いこみ、首筋やら脇の下、背、脇腹、腰の辺りを這い回って。生まれてはじめて味わう得も言われぬ心地の良さに、立っていることすらも儘ならず、そのまま屋敷に立ち返り、思わず寝付いて、日毎、夜毎、蛇の悪戯に身を任せておりますうちに、蛇は陰門より胎内に這い入り我が胎内に棲み憑くにいたりましたのでござりまする。それからというもの、殿方の精を貪ること、生血を求めるが如く、今まで数多の殿方がこの家にて、私と一夜同褥の夢を追い求めましたことか。中には陰間あがりとか、殿方にしか色欲を催さぬ者、父の身代を目当てに偽りごとを言い立て、この身に触れることなく夜を明かそうと試みましたが、堪えきれず殿方の本性を露にして、夜も明けやらぬ前に、この身の上で、干からびたようにしてなくなりました。坂崎様は、何とされます。命を惜しんでお逃げなされまするか。それとも、この身を一夜、思いのままに組み敷いて、朝を迎え、枡形の身代を手に入れんとなされまするか」

    女はそう言って、湯文字の裾を剥いで、褥の上に両膝を立て大きく広げて見せた。佐兵衛、夢で山女に言われたと通り、装束を脱ぎ捨て下帯一枚で褥に入り、抱きしめると、女は深くため息をついて佐兵衛を導いた。唇の形は微笑んでいるように見えたが、改めて間近にみれば小刻みに震えている。

    「やはりとり憑かれておるのか」

    憐れにも思ったが、佐兵衛、下帯の後腰に密かに手挟んであったかの陽物を右手に取り、女の足の間に滑らせ、力をこめて陰門に押し通せば中ほどまで深々と入り込み、女は目を見開いて仰け反り、褥の上で弾けるように暴れまわる。そうするうちに陽物を持つ手に大きな手ごたえがあり、夢で遭うている山女の短いうめき声がして、陽物が女の胎内に引きずり込まれそうになった。女の腹が大きく波打ち、このままに捨て置けばやがては裂けてしまうやもと思って、佐兵衛が渾身の力以って、陽物を引き抜こうとすれば、眩い五色の光が一間に満ち満ちて、胎内から陽物の先に喰らいついたままの蛇が這い出て来た。女の言の如くに黄金色の鱗に覆われているが、その長さは七尺余り、太さは胴中で女の太股ほどもあり、瑠璃の色の丸い眼に怒りの光を帯て、背には斜めに三尺ほどの朱の筋があった。

     蛇は一間のうちで暴れ狂い、尾を振るって佐兵衛を一打ちにせんとしたが、佐兵衛もさせてはならじと陽物をもつ腕に力を籠めれば、陽物に深々と突き刺さったままの右の牙が激しい音と伴に根元から折れ、痛みに耐えかねたものか、蛇は身を捩って宙を舞うように飛び上がり、轟音とともに天井を突き破って、月夜の彼方へと逃げ去ったのである。佐兵衛は牙が食い込んだままの陽物を己が装束で覆い隠し、裸のまま息も絶え絶えとなっている娘を抱き起こした。

    「これ、娘御。小夜殿。気を確かに」

    小夜は総身に汗を滲ませ、体中の力という力が抜けてしまったのようであった、薄っすらと眼を開けて佐兵衛を見た。

    「あなた様は」
    「先ほど名乗りもうしたが、覚えがござらぬか。無理もない。我は尾州浪人坂崎佐兵衛なるものにて」
    「佐兵衛様」

    それだけ言うと、小夜は心休まったのか、眼を閉じて、ぐったりと佐兵衛の腕の中に倒れこんだ。

     
    十五

     屋敷内のものたちは、夜半の物音に眼を覚ましてはいたが、難を恐れて夜明けまでは息を潜めていた。明るくなってから蔵内の離れの屋根が吹き飛んでいるのが知れて、さらに大騒ぎとなったが、恐る恐る中を覗いて、小夜と佐兵衛が二人して離れの濡縁に腰を掛け、楽しげに話しをしている姿を見るに及んで、伝衛門以下、主従喜ばぬものとてなく、佐兵衛は枡形屋に婿として迎えられた。

    小夜は誠に憑きものが落ちたようにかつての元気を取り戻し、佐兵衛と祝言を上げ、二十歳を迎える春に目出度く女の子を産んで、隠居となった先代伝衛門を喜ばせた。

    程なく先代も亡くなって、二代目枡形屋伝衛門となった佐兵衛は、織田上総介亡き後に関白太閤にまで栄進した羽柴筑前の命にて、江戸に領地を切り開いた徳川内府の動きに乗じて、日増しに栄える江戸への人馬商物の遣り繰りに組して、枡形屋の身代をさらに増やした。

     一方で、かの陽物を難波津の主の如く重宝と崇め、屋根の破れた離れを蔵に作り直して、大切に崇めたので、関が原から大阪の陣にいたる豊臣と徳川の天下分け目の大戦の最中にあっても、今は陽物の精と知れた朱眼の山女の夢の御告げに従い、身代を損ねることはなかったのである。もっとも、小夜が娘を産んで幾歳かの後、夢に山女の久方ぶりに現れて、蛇淫の精、衰えたりと雖も、未だに何故かは詳らかではなけれども、小夜や生まれたる娘に害を成さざるとも覚えず。我をして熱して溶かし、打ち鍛えて一振りの太刀と成して、然るべく備えよ、と夢にしきりに勧めるので、相州鎌倉から当時、音に聞こえた刀鍛冶を招いて、離れ家の蔵に仮の踏鞴など組ませて、一振りの太刀を作らせた。

    打ち込まれた牙諸共に陽物は解かされ、鍛えられたが、双方の妖気邪気のなせる業か、鉄の槌で鍛えられる間、ある者には女の苦しみ悶える声がかすかに聞こえるなどと、怪異が多く生じて、蔵内の鍛冶小屋に近づくものも少なかった。

    十月ほどで、刃渡り三尺あまりの見事な太刀となったが、荒研ぎに掛ける前から、鋼を斬ること紙の如き切れ味で、研ぎ終えた刃には、鍔元四寸辺りに不思議な刃紋が文様になって顕れた。よく見ると、長い髪をなびかせた女が弓に矢を番えて将に射んとするようにも見えた。また、他の者には、女が背に月琴を背負っているようにも見え、甚だしきは、女の腰から下は八本脚の蜘蛛に見えるという。

    「このような刃紋の細工をした憶えは一向にごさらぬ」

    刀鍛冶も、二人の弟子も口を揃えて言うが、さらに恐ろしいことに太刀の拵えが全て調うころとなって、刀鍛冶とその弟子のひとり、研ぎ師、鞘師、鍔や目釘、鯉口など、太刀に必要な諸々の細工を施した職人に至るまで、太刀に係るものの多くが、様々な病になって命を落としてしまった。

    剛毅な伝衛門もこれには頭を抱えていると、夢に再び山女が現れ、蛇の邪気が太刀の中に取り払いきれずに残っている。人界の長く留めておけば障りも多かろう、と言うので、千金をつけて身延山に奉納することにした。これに先立ち、山女はまた夢にあって、この後、蛇淫の精、もし、再び枡形屋に塁を及ぼすことあらば、我をして身延山から借り受け、その邪気を払うべし、と告げるので、伝衛門をこの由を起請文に書付て、代々、枡形屋を受け継ぐものに家訓として残す算段をしたのである。

     時は過ぎ、伝衛門と小夜との間に生まれた娘が二八の歳に目出度く婿を向かえ、十八でこれも玉のような女の子を産んだ。四十にならんとする将に女房盛りとなった小夜が、生まれたばかりの孫娘を嬉しげに湯あみさせている折のこと、

    「あれ」
    「母様。何事で」

    大人しい小夜が珍しく声を上げたのに驚いて、娘が聞き返すところへ、伝衛門もやってきて、小夜が孫の胸の辺りに、

    「何やら小さな光るものが見えたと思うたのですが、湯の光具合でしょうか」

    と言った。伝衛門も不思議に思ったが、暫くは何事もなく過ぎ、このことも忘れてしまっていた。

     孫娘が七つを迎えた歳に小夜が亡くなり、常の余の齢に沿うた幸せなる一生と人々に伝衛門も慰めの言葉を貰い、無聊のうちにまた七年がたったころには、当時、上方から東海道を経て遠く江戸にまで及んだ流行病の為、娘夫婦が相次いで亡くなり、伝衛門は老いの身で隠居から再び商いに手を染めることになって、たった一人の身内となった孫娘、美代の行く末を案じつつ、残り少ない余生を生きる定めとなったのである。

     孫娘が数え十五となった歳に、枡形屋では大いに異変が生じるに至った。日頃、忠義に奉公していた奉公人たちが次々と暇を願い出て、去っていったのである。商いもますます盛んで実入りも多く、奉公人に辛い思いをさせたこともない。辞めていくのは、男も女も同じで、若く、生真面目で、物堅いものたちばかりで、年季明けには必ず相応に身の立つように取り図ろうと、伝衛門自身が楽しみにしてた矢先のことであった。

     心を痛めている最中、さらに大きな事が起きた。美代が出奔したのである。夜のうちに身ひとつで、それこそ夜着のまま、裸足同然の格好で寝間から居なくなったらしい。途方にくれる伝衛門を前にして、古手の番頭たちが語らい、お話ししたき儀が、と名乗り出た。

    「お前たちは、打ち続く奉公人の暇乞いと孫の出奔には関わりがあると、いうのか」

    申し上げ難いことながらと、最古参の番頭が口を開いて言うには、事の起こりは美代の病、それも色狂いの病であるという。驚いて問いただすと、数え十五になる時分から、孫は男と言わず、身近にあって身の回りの世話をする、奥向きの女中らをも、夜毎、寝間に引き込んで、淫ら事に耽っていたようだ、と言うのである。

    「旦那様の御歳を考え、お体に障りとなるも厄介と、密かにお医者様やお寺の和尚様にもご相談申し上げておりましたが、かえってそれが仇となりました。お嬢様の御伽を勤めた奉公人どもは、大恩ある旦那様に申し訳なく、顔向けもできぬと、男も女もお暇を乞うた次第」
    「まさか、そのようなことが」

    ある訳もない、と言い切ることができない心当たりが、伝衛門にも思い当たった。

     半月ほども前のことか。伝衛門は共も連れず、歳の習いとなっている身延参りに出かけていた。泉州堺で不思議に手にしたかの陽物を以って鍛えた太刀を、引き続き守らせ給え、と更なる寄進を申し出る旅である。

    奉公人や孫娘には、良い加減になされませ、と言われないでもないが、六十を越しての一人旅に疲れも見せぬ。参拝の帰り道、あと少しで東海道と言う道で、時ならぬ雨に降られ、慌てて近くの小屋に雨宿りを乞うた。厩の他に囲炉裏を切った板の間に土間のあるだけの粗末な小屋があるきりの、それでも馬だけは自前の見事な雌馬を飼う、馬子の住処であった。雨脚も衰えず、親切に一晩泊まっていかれよという言葉に甘え、路銀の少しを飯代にと差し出しても受け取らないような男であった。

     馬子の身には珍しい米の握り飯に、その家にあった味噌をつけて焼いて伝衛門が振舞えば、米の飯や餅は、正月に親方の帳場で振舞われるのみと、馬子も喜んで濁り酒などだしてもてなし、四方山話をするうちに、伝衛門、馬子の股間の陽物が甚だしく大きく、下帯からはみ出して、膝に届きそうなのを見て、言葉を失った。

     馬子もこれに気づいて、お見苦しいものをと恥じ入るので、伝衛門も非礼を詫びると、馬子は機嫌を直して、そもそも父祖は飛騨や甲斐の国の深山で炭焼きだが、狩人だかを生業としていたようで、と己が陽物に纏わる言い伝えを披露してくれた。

    遥か昔のこと。一族の祖に当たるものが、深山の谷川で、天から降ってきた夜叉に出会った。追われる身で討手がすぐそこまで迫っているが故に、我を見なかったことにと頼み込むと夜叉は川原の岩に化けた。そこへ今度は空から、天武の女武者が金の鎧を着て降り立って、夜叉の行方を見破って、弓矢で傷を負わせたが、夜叉はこれを男の仕業と思い、呪いを掛けて、谷川に放り込んだ。男は川下まで何里も流され、その辺りの在所のものにやっと救われたが、何日も熱にうなされ、漸く命を取り留めたものの、陽物が甚だしく大きくなって、皆の物笑いとなり、嫁を娶って子を成すのに大変は苦労をした。男の十代も後の末孫が馬子当人だというのであった。

     不思議な物語もあるのもと、その夜は感じ入って、互いに酒を酌み交わしつつ、何時しか寝入ってしまったが、明け方近く、馬の低い嘶きに眼を覚ますと、一つしかない夜具に寝かされており、馬子の姿はなかった。

    耳を澄ますと雨は既に止んでいるらしく、一つ庭を挟んで厩の方から、最前と同じく、馬の押し殺したような嘶きが聞こえる。不思議に思って伝衛門が板戸の破れから外を覗くと、厩の柵に男が上り、横木に腰を下ろして雌馬の腰の辺りに己が腰を押し付け、激しく動かしていた。雌馬の長い尾が激しく揺れ動いて、将に人でありながら馬子が雌馬と一義に及んでいるものと見てとれた。あの陽物の大きさでは、定めし並みの女御には相手にされず、その無聊を慰めるために、雌馬と交わるにいたったものかと得心した。暫くして馬子が戻り、朝餉の支度を済ませて揺り起こしてくれるまでは、夜具にもぐって寝たまねをし続けたのであった。そして、夜具を畳む折に、懐紙に包んだ幾ばかりかの銭を隠しおいて、馬子に一夜の宿の礼を述べて、早々に帰路についたのであった。

     伝衛門は、ことの次第を旅の徒然とて、番頭たちに世間話として話した覚えがあった。美代が出奔する二日ほど前のこと、今度は番頭の一人がこのことを若い手代たちに語ったのを、美代がどこかで立ち聞きでもしていたのか、同じ夜に手代に向かって、美代がその話に出てくる馬子は、どの在所の何と言う名前かをとくと教えよ、と強い口調で問い詰めたのだという。

    「その夜に、お嬢様は」
    「家を出たというのか」
    「左様で」

     一刻の猶予もならぬ、と伝衛門は感じた。
    早速に旅支度を調えさせ、留守中の商いの段取りなど番頭たちに言い含めると、籠を頼んで駿府を発った。身延山にかの太刀を借り受けにいくためである。別当に予ての手はずに従い、太刀を借り受けると、一路、山を下ってかの馬子の住処へと急いだ。後、一里というところで、またしても激しい雨に行く手を阻まれ、仕方なく間道を引き返して一つの古い社に雨を避けようとした。

    「三城の社であったか」

    薄気味悪いところに入ってしまったと思ったが、後の祭りと言うもの。

    「禍禍しい本尊だが、一体何かな」

    不意に暗闇から声がして、伝衛門は覚えず太刀を納めた錦の袋を右手に身構えた。

    「ほう、歳の割にはよくした身のこなしだ。お主、元々は侍か」

    三間四方ほどの社の中ほどに、男が寝転んでいた。薄墨色の一重を着て、色褪せた朱の帯を締めただけの、旅姿にしては袴もつけず、裸足は判るが草鞋ではなく草履を履いて、双髪を無造作に後ろで束ね、しかも無刀であった。

    「滅相もございません。身延のお山より、大切な、分不相応な品をお預かりして参ったもの故。お気に障りましたならば、何卒、ご容赦を」

    相手は、風変わりな風体をしてはいるものの、一応は武士らしい。大事を前にして在らぬ悶着も迷惑であろうと、伝衛門は腰を低くして詫びた

    「いや、いきなりの雨では、お主より少し前に、ここに厄介になったのだが。この三体の木像がな」
    「ああ、これは三城のお社で」
    「三城とは、どのような字を書くのかな」
    「表の扁額には三つの城の字が読めますが、本来は、鬼という字を当てるのだそうで」
    「なるほど、道理で」

    男は面白そうに、本尊を振り返った。

    「真ん中の黒い大きなご本尊が夜叉王丸。身の丈は一丈三尺。熊の体に狼の頭。頭に牛の角をいただき、眼は金。背には翼があります」
    「諸手には大薙刀のようだな」
    「はい。左の像は天武戦女とも則天戦女とも呼ばれ、右の目だけが赤く、弓矢を構え、背には月琴。腰からは下は蜘蛛」
    「蜘蛛とは、虫の」
    「左様で。右の少し小さい木像が飛天夜叉。瑠璃の眼をした人身蛇頭で背中の棘で人を刺します。側天戦女と飛天夜叉はもとは天の帝をお守りする天武の出でありましたが、罪を得て人界に至り、二人して夜叉王丸の妻となりました。夜叉王丸の前進は荒武兵部輔資正、又の名を捨丸と称し、遠く文治年間、奥州藤原合戦の砌、藤原氏の金山のあった荒武の荘七谷三十数か村、三千余の良民を鎌倉方の和田義盛率いる二万五千の軍勢から守るべく、単身、奮戦し、その意気が凝って、戦いのうちにこの魔物の姿に転じたと伝えられます」
    「ほう、物知りなことよ。さても珍しき社であったか」
    「いいえ、手前の奉公人の一人にこの社近くの在所から来ているものがおりまして、その者から聞き覚えました」
    「何だ。受け売りなのか」
    「恐れ入ります。これら三体の魔物と言うか、その人外の者たちは、戦の最中に散りじりにとなって互いに行方がわからなくなったとかで、助けられた良民が、これらを憐れに思い、神として祀ったのが社の縁起なのだそうで。天正の頃とか、陸奥よりこの地に移り住んだ者たちが、絶えることなく今も守り続けているのだとか」
    「ほう、不思議な話しもあるものだ。時に、お主の手にした包み。刀と見たが、何か、この社に縁の品なのか」
    「いいえ。そのような代物ではござりませぬ」

    これから成さねばならぬことを思って、伝衛門は覚えず声を詰まらせた。
    見ず知らずの怪しい浪人にこれ以上、込み入った訳を語っても詮無いことである。かつて夢に見た山女の言に従うならば、孫娘にとり憑いたであろう蛇淫の精を滅ぼすためには、この太刀が入用であり、事と次第によっては美代の命さえもこの手に掛けねばならないのである。

    「御免下されましょう」

    伝衛門が社を飛び出していこうとしたその刹那、手にした風呂敷包みが手を離れた。驚いて見入るうちに、包みが解けて太刀の柄が露になり、次いで鍔鳴りがして太刀が抜け落ちると、社の床に伏している男のすぐ側に、突き刺さった。

    「そうか。やはりお前であったか」

    男が太刀を覗き込み微笑んでいるところで、伝衛門の目が覚めた。慌しく日を送ったためか、雨を避けるうちに寝入ってしまったものらしい。社の外を見ると雨は既に上がっていた。手探りで太刀を納めた包みを探し当てたが、鞘しか入っていなかった。慌ててあたりを見渡すと、三体の本尊御前の板敷き抜き身のまま落ちている。板戸の隙間から差し込む光が刀身に跳ね返って、左に鎮座する則天戦女の顔を照らした。木造の右眼の赤い象嵌が妖しい光を放っているのを見て、伝衛門ははたと膝を打った。堺で陽物を得て以来、度々、夢に出てくる山女の左眼も血のような色であった。それでは最前、夢にあった男は、美代にとり憑く魔性とは、逐一、合点のいくことばかりではないか。

    「そうか、そうであったか」

    伝衛門は太刀を拾い上げて刃紋を透かし見た。刀鍛冶が覚えがないと言い切った、半人半蟲の魔物の隣に、薄っすらと翼を広げた魔神の像が見えてとれた。伝衛門は太刀を鞘に納め、覚悟を決めたように三体の本尊を礼拝し、社を飛び出していった。間道を抜ける際に、在所の古老とすれ違ったが気づかぬほどであった。月番で三城の社の手入れをしている近くに暮らす老爺であったが、風を入れようと社の板戸を開け放って、腰を抜かさんばかりに驚いた。三体の本尊のうち、夜叉王丸の木造だけが、消えていたのである。

     打ち寄せる愉悦の波の中で、馬子は抗うことができずにいた。一昨日の夜更けに、夜着ひとつを身に着けただけで小屋に飛び込んできた娘は、今朝も馬子の顔の上にまたがって、唇と舌とで陽物を舐りつづけ、男の力を再び取り戻させようと蠢いていた。

    「末永くお情けを頂戴致したく、人目を避けて、夜通し駆けて参りました」

    娘はそう言うなり夜着をかなぐり捨て、褥に飛び込んできた。有無を言わさず、馬子の下帯までをも剥ぎ取って、己の二の腕ほどもあろうかと思われるそれを深々と迎え入れ、激しく身を捩った。男の精が脈打つのに併せ、肩を震わせて呻き、やがて褥の上に仰向けに倒れるのをみると、腕も脚も泥だらけ、傷だらけであった。馬子は竈に火を起こして湯を沸かし、娘の体を拭き清めた。体中の泥と汗と血を拭い、股の間に暖かい手ぬぐいをあてがうと、娘は目を開いて、陽物を握り締めた。馬子は再び娘に挑みかかり、朝を迎え、辺りがすっかり明るくなってからも、馬の世話をすることの他には、碌に飲み食いもせずに互いの体を求め合っていたのである。

     厩で雌馬が嘶いていた。

    「水を替えてやらねば」

    馬子が起き上がろうとするのをすがりついて娘が引き止める。

    「昨夜も申し上げました。私は駿府の枡形屋に縁の者。あなた様も商物の荷を扱われるならば、その名を知らぬ訳もありますまい。私とある限り、この後、暮らしに困ることとてないですから、今更、雌馬の世話などご無用にござりまする。早う、こちらへ」

    そうは申されても命あるもののこと故、と馬子が出て行こうとすれば、娘は目を剥き、

    「最前より、こうるさく嘶いて、雌馬の憎たらしいことよ」

    と喚いて馬子の止めるのも聞かず、夜着の前を叩けたまま、竈の傍らの鉈を手に外に飛び出していった。

    これより少し前、馬子と絡み合う娘の唸り声にも似た叫びを耳にして、畜生ながら悋気の情が沸いて、心乱れていた馬の背に、厩の屋根の破れから、黄金色をした細長い蛇か降りかかった。蛇は背を這い回り、尾の付け根から陰門を通って胎内に至り、怯えて雌馬がさらに嘶いたのであった。裾の乱れも構わず娘は鉈をかざして雌馬と向き合い、

    「畜生の分際で悋気を起こし、喚く馬の醜さよ」

    振りかぶって馬目掛けて切りつけた。この有様を、厩から少し離れた草むらに潜んで、枡形屋伝衛門もうかがっていたが、肌も露にたけり狂うその姿に、孫娘美代は憑き物に取られて、最早、人にあらずと覚悟を決めていた。

    馬子が下帯一枚で飛び出して、どうか馬を虐めてくれるな、と後ろから抱きすくめたが、娘は構わす鉈を振るった。雌馬の上顎が鼻のあたりで斜めに切り裂かれ、血潮が噴出すかと思いきや、雌馬の眼が金色に輝き出し、上顎は鼻の穴を境に三つ、下顎は真ん中辺りから二つに裂けて、海に住む人手か五弁の花びらに似た大口の化け物に変じた。口の中は尖った白い牙で満たされており、四肢の蹄には鎌の如き鉤爪が飛び出して、化け物は厩の柵を粉々に切り裂いて、娘に踊りかかると頭から腰の辺りまでをひと呑みに、次いで、五弁の唇を高々と跳ね上げ、まだ、苦しげに動いている娘の白い脚も、あっという間に喰らい尽くしてしまう。

    伝衛門が太刀の鞘を払って雌馬の化け物に斬りつけた。化け物は前足を振り上げて棒立ちになり、太刀をかわすと伝衛門に体当たりを食らわせた。伝衛門、二間がところ跳ね飛ばされて、太刀はさらに遠くの藪の中に飛んでいった。走りよって伝衛門を我が身を以って庇わんとした馬子を雌馬が前足で蹴り、蹄から生えた鋭い鉤爪に馬子の陽物がきり飛ばされる。痛みに耐えかねのた打ち回る馬子を抱えて、逃げ惑う伝衛門に化け物が追いすがるところ、藪の名から、男が太刀を手に現れて、すれ違いざまに化け物の首を切り落とした。三城の社で夢に出てきた男であった。

     馬の首は地に落ちる前に五色の霧か塵のようなものに変じて、やがて消え去った。不思議にも首を失ったままに馬の胴体は未だに倒れもせずにあって、その切り口も五色の光に輝いていた。

    ややあって甲高い女の笑い声が聞こえて、五色の光の中から、金色の鱗に覆われた細長い腕が這い出して、頭、肩、腕、胸、腹と次々に噴出して形を成し、ついには人身蛇頭の魔物になった。三城の社の本尊のひとつ、飛天夜叉に似ていたが、腰から下は雌馬のままであった。

    「嬉しや。娘の胎内の鱗を得て、半身とは言え、とうとう鱗蟲の体を取り戻したぞ。この上はお前たちを喰らい尽くして、残りの体を手に入れようぞ」

    瑠璃の眼を輝かせ、左手の指で顎の下の鱗を押さえながら、飛天夜叉と思しき魔物は微笑んだ。口元から覗く鋭い牙は、左の一本だけで、左の首の付け根から右の脇腹に掛けて、袈裟懸けに切りつけたような傷が、一筋赤く走っている。傷跡は背中に届くほどの深手ようでもあり、遥か昔、伝衛門が小夜の胎内から引きずり出した蛇の背に見えた傷と同じであった。

    「姫夜叉よ。久しいな」

    男が太刀を肩に担いだまま魔物を姫夜叉と呼んだ。

    「久しぶりに聞く名かな。何奴」
    「見忘れたのも無理ないこと。文治の頃からは数えて百歳を三巡りと半は過ぎている。我は荒武の捨丸」
    「黙れ」

    男の声を遮って姫夜叉が喚いた。

    「己の如き女々しき裸蟲が軽々しく荒武の捨丸が名を騙るな。捨丸は裸蟲であっても、我が力を得て魔性のものとなっても、逞しく雄雄しい男であった。私と彼の者が、彼の者が。ああ、駄目だ。思い出せぬ。まだ、思い出せぬ」

    姫夜叉は顔を手で被い泣き叫んだ。

    「捨丸に会う遥かに昔より、久遠の歳月を伴にしてきたはずであるのに、彼の者の名も、顔も、声さえも思い出すことができない。私はどうすればよい。ああ、恋しい。父上。母上。赤子は、私の赤子は何処じゃ」

    「憐れなるかな。姫夜叉。俺たちに再び合見えんとて、蛇淫の精と化して数多の人を屠り続けたとな」
    「裸蟲の精を吸い尽くすのみにては、蛇の形を留めるに足る力しか得られぬ。裸蟲の血肉を喰らわば。きっと、きっと思い出せるはず。彼の者のことも、何もかも」

    姫夜叉は馬の体を操り、捨丸と名乗る男を蹴り殺そうと身構えた。捨丸は地を蹴って宙を舞うようにして姫夜叉の背後に降り立ち、太刀、振りかぶって一刀のもとに馬の胴を両断した。後ろ足が横様に崩れ落ち、前足だけでぎこちなく身構える姫夜叉に捨丸が優しく声を掛けた。

    「会わせてやるぞ。お前が望むものは皆、この中にあるのだ」

    姫夜叉の眼前に捨丸は太刀をかざした。刀身から眩い光があふれ出て姫夜叉を覆いつくすと、光に当たった体の鱗が剥がれ落ちて、若い女の姿になった。光の中から大きな影が近づいてきた。体中が黒い熊の如き毛に覆われ、狼の顔に牛の角、背に蝙蝠の羽根を持つ夜叉王丸の姿そのままであった。

    「捨丸」

    姫夜叉は夜叉王丸の腰に取りすがり涙した。夜叉王丸は地に左膝をについて姫夜叉をその腕に抱きしめ、右手で光の中から近づいてくる今一人の人影を招いた。膝よりも長く伸びた黒髪を身に巻きつけた背の高い女が現われた。陽物を手にしてより、伝衛門の夢に現れた山女その人であった。

    「朧か」

    姫夜叉の問いかけに応える代わりに、朧の前は姫夜叉の左の肩に手を置いた。その右眼は血の色ではなかった。姫夜叉は右の掌で朧の前の頬を撫でた。朧の前はその手をとり、左の脇腹に触れさせた。

    「傷がない。私が傷つけた眼も、脇腹にも」
    「姫夜叉。全て終わったのです」

    朧の前が姫夜叉の胴を斜めに走っていた袈裟懸けの傷跡に手を触れると、それも見る間に消えてなくなっていた。夜叉王丸が二人の背を押して、光の中へと促した。朧の前は姫夜叉の手を取り、先に立って歩き出す。振り返りつつ姫夜叉が夜叉王丸を待つ仕草を見せた。

    「捨丸は。何故に参らぬ」
    「夜叉王丸様には、まだ、人界にて成すべきことがおありなのです」
    「成すべきこと」
    「案ずるには及びませぬ。これより我ら三人、常に伴にありまする。わらわとそなたで夜叉王丸様をお助けするのです」

    二人は光の彼方に消え去って、光そのものも刃紋の中に封じ込められるようして虚しくなった。

    「二人とも、漸くに治まるべき場に治まったということか」

    気がつけば人の形のまま、捨丸が太刀の刃紋に見入っていた。伝衛門が見ると刃紋は様変わりしていて、抱き合っている二人の若い女の如くで、二人とも腰から下は蛇であった。捨丸が太刀を鞘に収めると、鯉口が合わさらんとする刹那、五色の光が二筋漏れて、馬子と馬の胴に振りかかった。馬子の傷の痛みが嘘のようになくなり、血も止まっていた。後ろ足だけになった馬の胴は、地に横たわったままで五色の塵の山に変じ、そよと吹く風に塵が飛び散ると、裸の若い娘がうずくまっていた。

    「美代」

    伝衛門は駆け寄り孫娘の名を呼んだ。

     二月あまりも後になって、枡形屋伝衛門は孫娘の美代を伴い、城下の外れにある川端を歩いていた。美代は災難に見舞われる前の心と体を取り戻したものの、物覚えはあらかた失われて、歩き始めたばかりの赤子のような有様であったが、伝衛門や奉公人たちの親身の介抱の甲斐あって、砂が水を吸い込むが如く、知恵を授かっている最中であった。今も、楽しげに歌い、笑いながら、土手に生える薄を狩って、辺りを走り回っていた。

    「爺様。これ、あげる」

    美代が伝衛門に薄の束を手渡すと、笑いながら走り去った。伝衛門と並んで歩いている捨丸と托鉢姿の法師にも、美代は薄を手渡すことを忘れない。

    「これは捨丸に、こっちは法師様」
    「これ、美代。あまり遠くに行くでない。爺の側にな。よいか」
    「無邪気なものだな」

    捨丸が美代の姿を見て笑った。伴に暮らし始めた頃の姫夜叉に仕草や物言いが何処となく似ていて、思わず笑みがこぼれたのである。

    「まるで生まれたままでして」
    「子どものようだが、中身は立派な大人故、遠からず元のようになるであろうよ」
    「はい。それまでは何としても、一家を挙げてあの子を守り、育てて参りたいと」
    「それが良かろう」

     姫夜叉が朧の前に導かれ太刀の中に戻っていった、あの日。伝衛門は捨丸を助けて、瀕死の馬子を近くの寺へと担ぎこんだ。寺から駿府へ使いを頼み、店から人手を繰り出して、怪我人を城下の枡形屋に運びいれ、あれこれと介抱するうち、当初、赤い柘榴か切り株の如くだった傷口も次第に癒えて、真ん中に瘤か疣と見紛う膨らみが顕れ、それが徐々に育って、並みの大きさの陽物とは変じた。馬子は傷の癒えたのを喜んだが、先祖からの宿縁を強く感じて、発心し助けてくれた寺の和尚に願い出て出家となった。

    その間、 捨丸は、人の姿のままに二月を枡形屋の食客を過ごし、まどろむたびに、夢で姫夜叉や朧の前とともに時を重ねることが多くなった。朧の前は難波津の重宝として遊客より聞き知った諸国の不思議を語り、これを手がかりにして捨丸は、ある謀を密かにめぐらしていたのであるが、不思議と姫夜叉のみはただただ捨丸の左側に寄り添うのみで、一言たりとも語りかけてくることがなかった。

    斬りあった挙句に人語を発する力を失ったのかと捨丸は案じたが、朧の前は事成就の上からは語りかけるべくもなく、今は只管、寄り添うのみ、と代わりに答えたとか。

     そうこうするうち、昨日のこと、傷も癒えて寺で小坊主として働いていたはずの馬子が、雲水の姿で枡形屋を尋ねてきた。聞けば、和尚の添え状を持って、京の本山に上り、さらなる修行に励みたいという。殊勝な心がけとて、その夜は枡形屋に留め置いて供応をなし、今朝方見送りを兼ねて、城下はずれまで来たところであった。

    「俺は北に行こうと思う」

    捨丸も馬子の上洛を祝う宴の席で、一座のものにこう告げていた。慌てて支度を整えようとする伝衛門を諭して、太刀の他には道ずれも心遣いも何もいらぬ、と言い切った。

    「何くれとお世話になり、誠に忝うござりました。旦那様も、お嬢様も、どうかご息災で。夜叉王丸様には大願が成就なさいますよう、御仏に祈念申し上げまする」

    すっかり法師の所作が板についてきた、かつての馬子は、物言いもすっかり寺僧のそれになっていた。網代の笠を目深に被り、法師は西へと歩み去った。美代が無邪気に笑っている。

    「法師様。また、明日」

    捨丸も太刀を収めた錦の包みを肩掛けにして、その下げ緒の結び目をきつく締めなおすと、

    「されば、俺も出立いたそう」
    「北と申されましても、どちらまで」

    伝衛門は心細げに捨丸の顔を見た。出自からして、最早、人外のものであることは間違いないが、この二月の間、ひとつう屋根の下に寝起きを伴にしてみて、常の者と変わるところがあるわけでもなし、人となりも申し分ない。このまま店に留まって、出来ることなら美代の婿にもなってくれれば、と密かに思わないではなかった。

    「陸奥を通り過ぎて、海を渡って蝦夷地へ参る。蝦夷地の北の果てからは、海を渡る算段をせねばならぬだろう」
    「そんなに遠くまで、何故にでござりまするか」
    「娘を探しに行く」
    「娘御を」
    「話せば長いことながら。朧と姫夜叉と俺の三人で作った子での。生れ落ちてすぐ、戦の最中に生き別れになった。まだ、名をつけてやっておらぬ。朧がのお、お主も良く知る遊里で、諸国の不可思議なる物語を様々に聞き集めてくれたお陰で、どうやら、それらしき娘が遥か北の島にいるようなのだ」
    「捨丸も、行くの」

    美代が二人の傍らに走りより真顔で聞いた。親しいものとの別れに情が沸いてきたものか、泣いている。

    「おう、今日でお別れじゃ」
    「明日、また、遊んでくれる」
    「明日はどうかな」
    「次の明日は」
    「判らぬ。なれど、お美代。俺はお前のことを決して忘れぬ。爺様もお前も、何時も俺の此処にあるのだ。そのことをよく憶えておいてくれ」

    捨丸は大きな拳で己が胸を押さえて見せた。

    「この中に」

    美代は掌を胸に当て大きく頷いた。

    「忘れない。ずっと、忘れない」
    「それで良い。さらばだ」

    一陣の風が吹いて、伝衛門と美代が顔を伏せた。再び眼を開ければ、捨丸の姿は既になかった。

    「さよなら。捨丸。元気でね。また、明日」

    ひとり、美代だけが北の空に向かって千切れんばかりに手を振っているのみであった。

     十歳あまりを経て、夜叉王丸と名乗る男が蝦夷地に至り、北辺の浜にたどり着いた。村人は浜を見下ろす丘の上から北の方を指差して、ひとつの言い伝えを語った。

     遥か彼方の万年氷の海の中に、火を噴く山を頂く島がある。島のいたるところから出湯が沸き、この島のみ緑に覆われていて、島の住人は皆、裸で暮らしている。島の長は若い娘に見えるが、大変な長生きで、本性は恐ろしい魔物だという。娘は遠い昔、一人の盲いた婆に伴われて島にやって来て村を築いた。婆が亡くなると娘は魔物に変じて、島の崖を穿ち、大きな塚を作って婆の墓とした。今もその塚を見ることができるが、常の山と見間違うばかりの大きさであるという。

    実はかなり前のころになるが、南の大きな島から女の形をした盲の九郎という男が、幼い女童に手を引かれてこの浜にやってきた。二人は、島の噂を聞きつけると、女童が蛇の体に八対の脚、海老に似た尾を持つ魔物に変じ、九郎を乗せて北の海を目指して旅立っていったと伝えられおり、この辺りのものは皆、島の長とはその折の魔物であると信じている。

    「その娘、何という名であろうか。そもそも島には名があるのか」

    習い憶えたばかりの拙い言葉で、夜叉王丸が問うた。村人は島と長の名は同じで、無名とか不知というと応えた。

    「そうか。無名、というのか」

    夜叉王丸は言うなり丘を駆け下りて、狼頭牛角熊体有翼の魔物に変じ、北の空へと飛んでいった。

     それから、また、さらに百歳ほどの時が過ぎ、北辺の浜に押し寄せてきた氷の中から一振りの太刀が見つかった。土地の古老はそれを、九郎判官と無名の後を追って、魔物に変じて北の空を目指して飛び立った、夜叉王丸という男が携えていたものに違いないと言った。稀代の名刀と伝えられたが、手にしたものに祟り成す妖刀とも噂され、永らく松前藩の重臣の家に家宝として大切にされていた。しばらくの後、函館での戦の最中、太刀の行方がわからなくなった。それ故に、この太刀の刃紋が如何なる文様に変じているかを知るものはない。

    (了)

    【最後までお読みいただき、ありがとうございました。お楽しみいただけましたなら幸いです】

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    2025年の八月から投稿をはじめました。 ミステリーや時代小説などの創作にはまっております。 妄想癖の高齢者の湯屋番人生です。 歌の文句等も手掛けます。 お楽しみ頂けましたら幸いです。