
私は食を語れない
「知らないと損」
私が最も嫌いな言葉のひとつだ。誰かがこれまで積み重ねてきた生活や価値観に踏み込む、その無遠慮さが理由ではない。
自分の人生に満足していると、胸を張って言いたい。それなのに、その言葉は私が人生で取りこぼしているものを否応なしに意識させる。だから、嫌なのだ。
洋服、映画、旅先、食事。世の中にある素敵なものを、すべて知り尽くすことはできない。人生は、そんなに長くない。だから、どこかで諦めて生きていくしかない。それなのに、なぜ私は、知らないことにこれほど引け目を感じるのだろう。
なかでも私は、「語れる食」に疎い。
いつかの私は、大人になるだけで、やれペアリングだのアペタイザーだのといった横文字が勝手に自分の引き出しに収まるのだと思っていた。そして、日本酒やスパイス、珈琲なんかにも凝って、食の奥深くまで身を沈ませることが、大人の嗜みであり、教養なのだと信じていた。
私もそんな大人になる日がくるのだと、いつかやってくる別れを思いながら、大好きな駄菓子のひとつ、ヤンヤンつけボーを楽しんでいた。チョコとトッピングをいかにして同時に食べ切るかに神経を尖らせながら、大人の嗜みについては将来の自分に託した。
私は、今年で31歳になった。
それなのに、未だにカッコいい横文字は私の懐にはない。そういう言葉を使うときは、その言葉と私の仲が浅いことを、相手に気づかれていないか緊張する。
知らないことは、恥ずかしい。私だって、知る人ぞ知る銘菓を手土産にして、「センスがいいね」とか一目置かれてみたいのだ。
このままではいけない、と焦燥感に駆られた。日本酒やクラフトビール、ワインの本を読んだ。全国の美食、珍味についても知識をかき集めた。食通が太鼓判を押したというジャムや醤油、間違いないというお取り寄せのお菓子を注文した。回らない寿司屋にも、フレンチレストランにも、高級ステーキ店にも行った。
安くはないお金を払い、わざわざ生活圏の外まで出かけた。だからなのか、それは「美味しい」と感動するより、「確かに美味しい」と確認する作業になっていた。口にした瞬間に頭に浮かんだ言葉は「なるほど」だった。その感覚には、覚えがあった。
地元を離れて一年。仕事を頑張ったご褒美に、少し背伸びをしてブランドバッグを買ったときのことだ。夜な夜なホームページを眺め、あれほど楽しみにしていた。それなのに、カードを切った瞬間に感じたのは、仕事をひとつ終えたときの安堵と、次の仕事を思う気怠さだった。あのヴィトンのバッグは、いまクローゼットで埃をかぶっている。
その世界に全く足を踏み入れなければ、「興味がない人」の顔で生きられる。一歩足を踏み込めば、次へ、また次へと走らなければいけない。途中で足を止めれば、負けたような気がした。
昔から私は、人の目をよく気にした。何を持っているか。何を知っているか。どこへ行ったことがあるか。けれど、見栄を張ることにも体力が必要だった。育児や仕事に追われる日々の中で、まず底をついたのは見栄を張るための体力だった。
食についても、同じだった。私は、「誰かに語るための食」に向いていない。
美味しいものに興味がないわけではない。
朝、目が覚めたら美味しい食事で身体を目覚めさせたい。嫌なことがあった日は、自分を労うご褒美を一口食べたい。けれど、自分の身近なところで完結する食でちょうど良いのだ。思い立ったら、すぐに再現できるような、気安いものがいい。
私が楽しいと思う食事は、これだ。黒糖ロールパンを窪ませ、よつ葉乳業の発酵バターを挟んで電子レンジで10秒温める。アイスコーヒーに、生クリームをドボドボ注ぎ、アメリカ土産の大きなマグカップで飲む。トマトにフライドオニオンを好きなだけかけて、そこに青じそドレッシングを垂らす。
誰にも見られず、黒目は半分だけ出して、少し猫背で、部屋着のままぼんやり食べる。
華やかに化粧をして、シルエットが綺麗な服を選び、ブランドバッグを取り出して、生活圏ではない駅に向かう。高級レストランでの食事も、もちろん素晴らしい。ただ、その空間にいると「ちゃんとした大人かどうか」確認されているような気分になってしまうのだ。
私は、思い立ったときにジャージ姿のまま家を出て「遊ぼう」と言いに行ける、幼馴染みのような食事が、どうしようもなく好きだ。
私は、どうやらこの先も食を語れる大人にはなれない。知らないまま取りこぼしていることも、きっとある。
けれど最近、それでもいいか、と思える。子どもとマシュマロを取り合いながら、薄めに作ったインスタント珈琲を流し込む。そんな自分の姿に、前ほどがっかりしない。
今日は、スーパーカップのバニラ味にきな粉をかけて、コメダの餡を乗せよう。半分食べたら、アジシオをふるのだ。
スマホと財布だけポケットに入れて、突っ掛けを雑に履く。ドアノブを回し、三百メートルほど先のスーパーに向かった。