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【長編小説】〈ダストシュート〉①

    あらすじ

     昭和六十三年。
     巨大プロジェクトが次々と完成し、日本中が活気と熱狂に包まれるその裏で、闇の遊戯〈ダストシュート〉が動く。
     それは、人間を〈ゴミ捨て場〉という闘技場へ投下し、生き残りを賭けて金が飛び交う禁断のデスゲームだった。

     父直伝の武術〈奪落刃だつらくじん〉を受け継ぐ高校生、佐藤さとう哲郎てつろうは、謎の放火で寺と住職の父を失う。
     残された手がかりは、父が持っていた〈ダストシュート〉の招待状。

     父はなぜ狙われたのか。
     寺を燃やしたのは誰なのか。

     真相を求め、哲郎は闇の闘技場へと足を踏み入れる。


    ⚠️注意書き⚠️

     本作には、暴力、流血、身体損壊、差別的表現、裏社会描写、時代性に基づく過激な言動などの刺激的内容が含まれます。苦手な方はご注意ください。


    〈ダストシュート〉本編


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    第一話 強い奴

     おれが通っている春早津しゅんさつ高校は江戸川区にある。
     葛西駅と西葛西駅のちょうど真ん中あたりだ。
     地図で見ればただの住宅地だが、ここ数年で景色はすっかり変わった。
     駅前には団地やマンションが次々と建ち、人口は急激に膨れ上がった。
     そのせいか、校内外では妙な揉め事が増えた。
     全校生徒は、たっぷり千六百人。人が多ければ面倒も増えるというもの。
     特に厄介なのが喧嘩だった。
     腕っぷしに自信のある連中が、校舎の中で、裏で、校庭で、殴り合っている。
     噂はすぐに広まり、いつの間にか他校の不良まで「強い奴がいるらしい」と押しかけてくるようになった。
     そして、面倒なことに……。その強い奴の中に、おれも入ってしまっていた。

     その日。おれはいつも通り学校に行って、放課後のチャイムが鳴ると同時に校門を抜けた。
     向かう先はゲーセンだ。
     帰りに『ストリートファイター』やろうって友達と約束していて、それで、対戦で勝つために指の準備運動しようと思って早めに着いたら……。
    「お前が佐藤さとう哲郎てつろうか」
     いきなり肩をどつかれた。
     おれより頭一つ背の高い、学生服の三人組だった。
     二人は小岩だが、もう一人はどこの高校だろう。
     ゲーセンの内部で、おれはそいつらに肩をどつかれ、そのまま外に押し出された。
     裏に駐車場があって、その隅っこまで歩かされた。

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    「おい佐藤。おれは菰野こもの高で番張ってる南野みなみのってもんだ。こっちは砂山さやま。こいつは町田まちだ」
     金髪の南野とその仲間たちに、どうも、とおれは会釈する。
     南野は、江東区の高校だ。
     わざわざ他校の知り合い二人を連れてきた、恥ずかしがり屋か。
    「はぁ、子・供・高・の番長さんらがおれになんの用っすか?」
    「菰野高だよ、クソハゲッ」
     砂山だか町田だか、どっちか忘れたけど片方がおれの坊主頭を手でぺチッと叩いた。
    「ちょっと、やめてくださいよ」
    「おいハゲ。軟弱者のフリすんじゃねえよ。お前の噂は菰野高校こっちにも入ってきてんだよ」
     南野がずいっと顔を近づけて、
    「お前、強いんだろ。やろうぜ」
     パキパキと拳を鳴らした。
    「はぁ。ゲームすか?」
    「南野さん。こいつ、おれらのことおちょくってますよ」
    「だって、ここゲーセンで、やるって言ったらゲームしかないじゃないですか。えーっと、砂・田・さん?」
    「砂山だ!」
     砂山がキレて殴りかかってきた。
     おれは拳がくるほうにヒョイと頭を向け、額で受けた。
    「いッ!?」
     呻いて、砂山は素早く手を引っ込めた。
     痛かっただろう。おれの頭蓋骨はハンマーで殴ってもヒビ一つ入らない一級品だ。
     ガキの頃から父さんに何度も割られて、再生に次ぐ再生で分厚くなっている。
     砂山は空手か何かで拳を鍛えていたのだろうが、鍛え方のレベルが違う。
    「おれがやる」
     砂山と町田を押し退け、南野がおれの正面に立った。
     両の拳を上げて、構えた。
     顔を守るようなアップライト。
     ボクシングかムエタイ。たぶん、ボクシングだろう。
     しかし、下半身は重く、どっしりしている。両足裏をべったりと地につけ、好きなだけ蹴ってこいといわんばかりだ。
    「当てるのではなく、倒すための構えですね。ボクシングは最近始めたんですか?」
    「……あ?」
    「極真の癖が抜けてないっすよ」
     シッ。
     小さく息を吐き、南野はおれの顔面に左のジャブを放った。
     それをおれはスウェーで軽くかわし、右手でチョンと、南野の左肩を軽く突いた。
    「がッ!?」
     南野は驚愕に目を見開き、後退りした。
    「な、なんすか?」
    「どうしたんすか、南野さん?」
     やられた本人だけでなく、砂山と町田にも、おれが何をしたのか見えていなかったみたいだ。
    「番長さん。技ってのは、誰かれかまわず使っていいものじゃあないですよ。相手を傷つけるために使うのは、それはただの暴力だ」
    「て、てめえッ! 何しやがった!?」
     左腕をだらんと垂らしたまま、南野が叫ぶ。
     その左手は、ブルブルと痙攣していた。
     指一本動かせないだろう。
     そうなるように、おれは刺した。
    「まだやる気なら、覚悟してくださいね。全身麻痺させて、病院のベッドで人生を終えることになるかもしれませんよ」
     おれが脅すような口調で言うと、三人の顔がサァと青くなった。
    「み、南野さん! こいつ気味悪いっす!」
    「や、やめましょう! 行きましょう!」
     南野はまだやりたそうに睨んでいたが、仲間の二人に引きずられて、そのままどこかに運ばれた。
     おれは軽く手を振って三人を見送り、ゲームセンターに戻った。
     ゲームも今みたいに素早く指が動けば、友達にボコボコにされずに済むのに。
     なんで実戦では上手くできて、ゲームは下手っぴなんだろうか。


    第二話 〈奪落刃〉

    「ただいま」
     玄関から入る。
     返事無し。
     母さんはスーパーへ買い物に行き、父さんは離れの寺にいると思う。
     靴を脱いで上がり、廊下を歩く。
     この家はおれの父さんのそのまた父さんの、さらにそのまた……。とにかく、かなり昔からある平屋建てで、二百坪ほどの土地の一画に建っている。
     四十坪ほどの寺が隣にあって、家と寺は廊下で繋がっていた。
     洗面所で手洗いとうがいを済ませ、渡り廊下を通ってガラス戸を開け、寺に入るといきなり、
    「お帰り」
     ときた。父さんだった。
     住職の格好で腕組みし、ひょいと顎を上げて、
    「離れで待つ」
     背を向けて行ってしまった。
     ……そう。この家にはもう一つ離れがある。
     場所でいったら寺の裏。そこに道場があるのだ。
     一般人は立ち入り禁止の裏道場だ。
     そこでおれは、毎日、父さんに稽古をつけてもらっていた。



    「始めるぞ。いつも通り、時間無制限でどちらかが疲れ果てるまでやる」
     道場の真ん中で向き合って、おれと父さんは構えた。
     構え、といっても、おれたちが使う武術に決まった構えはない。
     おれと父さんは互いに手を下げたまま、円を描くように時計回りに歩いた。
     視線はそらさない。
     自然体で、てくてく歩く。
     そうしているうちに徐々に円が小さくなっていく。
     おれの身長は百六十センチ、体重は七十キロあるが、父さんは身長が百九十センチもあり、体重は百キロを超えていた。
     父さんに比べたらおれは小さい。攻撃を当てようと近づいたら、手足の長い父さんの攻撃が先に当たってしまう。
     だから、おれはカウンターを狙った。
    「シャッ!」
     父さんが足を踏み出した、そのタイミングに合わせておれは仕掛けた。
     両手の、人差し指と中指を伸ばして、父さんの両腕を狙った。
     しかし、その手は、とんでもない速度で振り上げられた父さんの右足によって弾かれ、
    「シャイィイイイイッ!」
     続けて放たれた右手の指先の突きが、おれの左腕に命中した。
    「ぐッ!」
     左腕の感覚が消失した。
     おれが今日、ゲームセンターの駐車場で、南砂だか東陽だか、誰だか名前は忘れたが、絡んできた不良の一人にやったことと同じことをやられたのだ。
     初見の人は、パニックになる。
     だって、腕は確かにそこにあるのに、無いと錯覚してしまうほど、ピクリとも動かせなくなるのだから。
     これが、おれが習っている武術、〈奪落刃だつらくじん〉だ。
     鍛えた手や足の指で経絡経穴を突く、あるいは神経に圧をかけて肉体の各部位を一時的に麻痺させ、その者の戦う心、すなわち、戦意を落とすことに特化した武術だった。
     刃を奪い、暴から剛を落とし、恐怖に震える弱者の想いを相手に理解させる武術。
    「シャアァアッ!」
    「ぐっはあッ!?」
     ……の、はずなんだが、父さんは普通におれを蹴ったり殴ったりする。
     おれは父さんの教え通り〈奪落刃〉縛りでやってるのに、理不尽だ。
     父さんがそうする理由は、『修行だから』。
     実の息子が相手でも、父さんは稽古では一切手心を加えなかった。
     一時間たつかたたないかの間に、おれは何百回と殴られ、蹴られ、ぶん投げられ、叩きのめされた。
    「よし。今日はここまで」
     父さんが稽古の終了を告げた。
     おれはトカゲみたいに床を這って移動し、なんとか正座をし、父さんと向かい合って頭を下げた。


    第三話 寺炎上

     廊下を通って家に戻ると、母さんが炊事場のほうからパタパタ駆けてきて、
    「ねえ哲郎。悪いんだけど、カレーのルーを買いに行ってちょうだい」
    「ルー?」
    「夕食はカレーにしようと思ったんだけど、ルーとお肉を買い忘れちゃって」
    「じゃあ肉も必要じゃねえか」
     差し出された夏目漱石を一枚受け取り、それを学生ズボンのポケットにねじ込んで、おれは母さんに背を向けた。
    「あ、待って」
    「なんだよ」
    「裏から出てちょうだい」
    「は?」
    「表にお客さんを待たせているの」
    「あっそう」
     裏口へ回る。
     サンダルを履いて外に出る。
     母さんがよく行くスーパーまで、走って十五分ってところか。
    「行ってきます」
     一言いって、二メートルほどの塀をのり越え、裏道を走る。
     大通りに出て、歩道を走る。
     全身が重い。父さんにボコボコにされたダメージがまだ残っているせいだ。
     十五分くらいで着くと思ったが、二十分もかかってしまった。
     スーパーでカレー用の肉と、ルーと、余りで『ぬ~ぼ~チョコ』を買った。
     左手に肉のパックとカレールー、右手でチョコを噛みながら、また走る。
     学生ズボンのポケットから、チャリンチャリンと小銭の音がきこえる。
     通りを行き交う車の音に交じって人の声がきこえた。
     悲鳴、に似た甲高い音もきこえた。
     においがした。
     焦げたような、乾いた煙のにおいだ。
     無意識のうちに走る速度が上がった。
     なんだか胸騒ぎがする。
     家の、離れの寺の屋根が見えた瞬間、
    「おい、嘘だろ……」
     おれの手から肉のパックとカレールーが落ちた。
    「なんで、こんな……」
     寺が燃えていた。
     炎がゴウゴウと屋根から上がり、黒煙が夜空へとのぼっていく。
     消防車のサイレンはまだきこえない。
     門の前に人だかりができていた。
     おれは野次馬たちの間をすり抜け、境内へ駆け込んだ。
    「母さんッ! 父さんッ!」
     本堂の扉を蹴り開けると、煙が一気に流れ込んできた。
     視界が悪い。熱気が肌を刺して痛い。
    「て、哲郎……」
     母さんの声だ。
     倒れかけた柱のそばで、母さんが咳き込みながら座り込んでいる。
    「母さんッ!」
     駆け寄って、その身体を抱き起こす。
     母さんは虚ろな目で、
    「逃げて……。私のことはいいから……」
     おれはギリッと奥歯を噛んだ。
    「母さんを残して、逃げられるわけないだろ!」
     おれは母さんを両腕に抱き、炎の中を走った。
     息を吸うたび喉が焼け、咳き込んだ。
     屋根が崩れ、降り注ぐ火の粉を、おれは背で受けた。
     ……あぶねえ。母さんに当たったらマズい。
     だが、床板がミシミシと音をたて、思い切り走ったら踏み抜けそうだった。
     慎重に、だが素早く、おれは動く。
     境内に出ると、遠くのほうから消防車のサイレンがきこえた。
     おれは母さんを地面に下ろし、再び本堂へ向き直った。
    「待って、哲郎……。戻っちゃダメよ……」
    「父さんがいない。探しにいかないと」
    「でも、哲郎が……」
    「父さんがいないんだッ! いいから行かせてくれッ!」
     おれは叫び、再び炎の中へ飛び込んだ。
     左腕で口元を覆い、右腕で火の粉を払いながら本堂を突き進む。
     一番奥の畳の上で父さんを見つけた。
     仰向けで、ぐったりしている。
    「父さんッ!」
     駆け寄って、身体を揺する。
    「おい、起きろよッ!」
     父さんはうんともすんとも言わない。
     見開かれた両目には、光がなかった。
    「な、なんだよ、これ……」
     死んでいる。
     いや、ありえない。
     さっきまで元気だったじゃないか。
     元気におれを鍛えてくれたじゃないか。
     なのに、どうして……。
     おれは父さんの着ている衣を両手で強くつかんだ。
     そのときだった。おれは信じられないものを見た。
     はだけた衣の内、筋肉の鎧をまとう父さんの胴体に無数の打撃痕があったのだ。
     しかもそれは、どれも見覚えのある……。父さんが〈奪落刃〉で、本気で人間を攻撃したときについた痕。それにそっくりだったのだ。
    「誰かが、父さんに技をかけたのか……? 父さんの技を……?」
     はらり、と父さんの懐から一枚の紙が滑り落ちた。
     おれはそれを手に取った。
     焦げ跡のついた、長方形の紙切れだった。
     何か文章が書いてある。
     読もうとした刹那、音をたてて天井が落ちた。
     このままでは、マズい。
     おれは父さんを背負おうとしたが、力が入らない。
     煙を吸いすぎたせいか、喉が激しく痛み、視界が朦朧とする。
    「……ちくしょうッ」
     おれは紙切れを握り締め、父さんを残して逃げた。


    第四話 〈ダストシュート〉

     夜が明ける頃、寺はほぼ焼け落ちていた。
     母さんから連絡を受け、親戚や檀家が集まり始めていた。
     おれは自室で父さんが持っていた紙切れを見ていた。
     そこには、こんなことが書かれていた。

    佐藤さとう鉄心てっしん様

    拝啓 〇月〇日の折、いよいよ〈ダストシュート〉を催す運びとなりました。
    つきましては、御参加の儀、慎んで御案内申し上げます。

    もし御出場の御志ありましたならば、おそれながら〇月〇日までに本状を御持参の上、記載の住所までお越しくださいますよう、お願い申し上げます。

    なお、誠に勝手ながら、参加は先着三十名にて締め切らせていただきます。
    何卒お早めに御決断賜りますれば幸甚に存じます。

    末筆ながら、佐藤鉄心様の御参加を心よりお待ちしております。

    敬具
    〈ダストシュート〉主催者より



     佐藤鉄心は、父さんの名前だった。
     部屋の壁にかけてあるカレンダーを見る。
    「〇月〇日……。あと一週間か」
     最後に住所が載っていた。
     銀座の、どこか。
     行ったことはないが、行くことはできる。
    「〈ダストシュート〉……」
     知らない。
     だが、おれは行くと決めた。
     行って確かめなければならないのだ。
     父さんの死の真相が、そこにある気がするからだ。
    「哲郎、いる?」
     母さんの声だ。襖の方からきこえた。
    「入ってもいい?」
    「いいよ」
     からり、と襖を開けて、泣き腫らした顔の母さんがおれの部屋に入ってきた。
     そして、おれの手にある招待状を見て、
    「それは何?」
    「父さんが持ってた」
     おれは母さんの目を真っ直ぐ見つめて、言った。
    「〈ダストシュート〉って知ってる?」
     母さんは首を横に振った。
     知らないらしい。
     なら、質問を変えよう。
    「おれが買い物に行った後、何があったの?」
    「知らない男の人が、お父さんに用があるって……。お父さんは私と哲郎がいないところでその人と話したいって言ったから、寺の方へ行ったの。それで、しばらくしたら煙のにおいがして、見に行ったら寺が……」
     カレーと肉を買いに行かせたのは、おれをはけるためじゃない。
     母さんは演技上手な人じゃないから、あれは偶然の出来事だった。
     だが、父さんの死は、偶然という言葉だけで片付けるわけにはいかない。
    「その人、どんな人だった?」
    「黒い服の……。なんだか、普通じゃない……」
     堅気じゃない。
     たぶん、ヤクザだろう。
    「そいつが父さんを殺したのか?」
    「えっ!?」
    「父さんの死体を見た。父さんの身体には、誰かにやられた痕があったよ。父さんの使う技じゃないとああはならない傷痕が」
    「それって、じゃあ……」
    「父さんは戦って負けた。おそらくその、一緒に寺に入った黒服の男に殺されたんだ」
    「そ、そんな……!」
     母さんは両手で口元を覆った。目が潤んだ。
    「きっと、そいつは父さんを勧誘しにきたんだよ。で、父さんはそれを蹴った。そのことに怒った黒服が父さんに襲いかかり、殺したんだ。寺を放火したのは、技の痕跡を消すためだったと思う」
     自分が使う武術を隠したい武術家は多い。
     おそらく、黒服と父さんとの間には、武術に関係する因縁があったのだろう。
     黒服は父さんの知り合いの武術家か。
     あるいは、父さんの武術を奪った盗人か。
     おれは両の拳を強く握りしめた。
     いいさ。なんだっていい。
     父さんを、父さんの技で殺した。
     人を殺さないための武で人を殺したのだ。
     これは冒涜だ。
     許せない。許せるわけがない。
     報いは必ず受けさせる。おれの手で、父さんの仇を討つ。
     そして仇は、〈ダストシュート〉と繋がりのある人物だ。
     おれが父さんの代わりに参加して、そいつを見つけ出す。
     そして、二度と武を語れない身体に変えてやる。
     父さんの教えに反する行為だが、そうでもしないとおれは……。
     おれは、この怒りを抑えられない……!
    「哲郎」
     母さんに呼ばれて、おれは、ハッとなった。
    「な、何?」
    「あなたは、どこにも行かないよね……? あなたまで失ったら、私は……」
     母さんの身体が震えた。声までも震えていた。
     おれは唇を強く噛んだ。
    「……わかった。どこにも行かないよ」
     嘘を吐いた。
     ごめん、母さん。
     でも、無理なんだ。
     言うことをきかないおれを許してくれ。
    「今日は疲れた。ちょっと休ませてよ」
    「……うん」
     おれに背を向け、母さんは出て行った。


     その日。おれは学校に行く格好で家を出た。
     学生服の上着の胸ポケットには〈ダストシュート〉の招待状。
     ズボンのポケットには最低限の金。
     机には置手紙を残した。
     ただ一言、『必ず戻る』。
     朝日に照らされた道を、おれは振り返らずに走った。


    第五話 姉の頼み

     岩手県。
     とある港町の、とある木造住宅。
     朝日が射し込む八畳の部屋の中、蘭条らんじょう珠子たまこは畳の上に全裸で立っていた。
     身長、百七十五センチ。
     体重、六十五キロ。
     贅肉が一切無い、筋肉質の女だ。
     腰の辺りまで伸ばした長い黒髪は、ゴムで一つに束ね、背中へ流していた。
     珠子は深呼吸をして、両腕を左右に広げた。
     開いた手を、小指、薬指、中指、人差し指、親指、と一本ずつ握り込んで拳の形にした。
     首を左右に倒し、骨を鳴らす。
     両方の肩甲骨を回す。
     メキメキィ、と骨が鳴った。
     静かに構え、左右の拳を正面に、真っ直ぐ突き出す。
     最初は左。
     続いて右。
     左、右、と素早く突き出す。
     何度も、何度も、空気を殴る。
     殴るたびに、パン、と手と手を叩き合わせたような音が鳴った。
     右足を素早く振り上げる。
     左足も、右と交互に振り上げる。
     足が自分の額に当たるほど高く蹴る。
     何度も、何度も、空気を蹴った。
     蹴るたびに全身から滲み出た汗が畳の上に散った。
     黒電話が鳴った。
     重たいベルの音で、珠子の集中力がプツリと切れた。
    「チッ、うるせぇな」
     珠子は部屋を出て、玄関へ向かった。
     二階へ続く階段横の、木製棚の上にある黒電話の受話器を乱暴につかみ、耳に当てた。
    「はい」
    『……もしもし。タマちゃん?』
     優子ゆうこの声だった。
     十歳年上の、珠子の姉だ。
    「おう。姉ちゃんか」
     珠子は玄関の方へ右足を伸ばし、上がり框にあるキャスターの箱とライターを足指でつかんで手元に持ってきた。
     右手で一本くわえて左手で火をつける。
     フゥと紫煙を吐きながら、
    「大丈夫か?」
     珠子は昨夜、姉から夫の……。義兄の鉄心が亡くなったことをきかされていた。
     寺が火事になって、焼け死んだらしい。
     悲しい事故だった、と姉は言っていた。
     だから、電話の理由は言われなくても察していた。
     寂しさに耐えきれず、妹の声が欲しくなったのだろう。
    『ねえ、タマちゃん……』
    「ん?」
    『〈ダストシュート〉って知ってる?』
     珠子は眉をひそめた。
     二つ、頭に浮かんだ。
     一つは、ゴミ捨て装置ダストシュート。
     だが、そんなものを今、話題に出すなんておかしい。
     しんみりとした声で言うことじゃあない。
     珠子は、姉がもう一つの方を言っているのだと察した。
     そして、もう一つに関しては、知っているどころじゃない。
     過去に一度だけ参加したことがある、禁断のゲームだ。
     金持ちどもが〈ゴミ捨て場〉と呼ばれる闘技場へ人間を投下し、誰が最後まで生き残るかを賭けるデスゲーム。
     それが、もう一つの〈ダストシュート〉だった。
     裏の住人以外、知るはずのないあの遊戯を、どうして姉が知っているのだろうか。
    『タマちゃんは、知っているのね……』
    「……うん」
     珠子は灰を足元に落とし、答えた。
    「強い奴らが集まって殺し合いをする闘技場だよ」
    『そ、そんな……!』
     珠子は姉の泣き崩れる姿を想像した。
     実際に今、姉は受話器を握ったままそうなっているだろう。
    「〈ダストシュート〉のこと、どこで知ったの?」
    『息子が……。哲郎が言っていたの……』
    「哲郎はどこでそのことを?」
    『たぶん、お父さんが持っていた手紙か何かを読んで知ったんだと思う……』
     珠子は吸殻を土間に投げ捨て、新たに一本くわえて火をつけた。
     鉄心が持っていた手紙。
     おそらく、〈ダストシュート〉の招待状だろう。
    〈ダストシュート〉の参加者は主催者の推薦で決められる。
     そして、主催者が一人一人に招待状を書き、それを手下に配達してもらう。
     招待状を受け取った者は、参加の意思があれば招待状を手に指定された日時に、指定された場所へ行く。
     断ることも可能。招待状を見なかったことにすればいい。参加は強制ではないのだ。
     ちなみに、〈ダストシュート〉は招待状を持っていれば誰でも参加が可能だった。
     招待状を受け取った者でなくとも、それを貰った者や、奪った者でも参加が可能なのだ。
    「まさかとは思うけど、哲郎が鉄心さんを……」
    『あの子はそんなことしない! それに、寺が火事になったとき、哲郎は外出中だった!』
     珠子は床に落とした灰を足裏で玄関の方へ払った。
    「姉ちゃん。鉄心さんは本当に火事で死んだのか?」
    『違う……。哲郎が、お父さんは誰かに殺されたって言っていた……』
    「なんで本当のことを言わなかったんだよ」
    『哲郎が、お父さんの仇を討ちに行くなんて、思わなかったから……』
    「鉄心さんを殺した奴が〈ダストシュート〉に出るとは限らないだろ」
    『そうかもしれない……。でも、哲郎は確信している。それで、置手紙を残して、黙って出て行った……』
     珠子はフゥと深く紫煙を吐いた。
    「本気だな」
     鉄心は、珠子が知っている裏の武術家の中で三本の指に入る強者だった。
     その鉄心に鍛えられた哲郎は、強い。
     強いけれども……。甥っ子は、まだ十六歳のガキンチョだ。
     心はまだ子供。腕っぷしが強くても、あの世界のにおいを知らない。
    〈ダストシュート〉は、ただ殴り合う場所じゃない。
     生きて這い出るか、ゴミの山に沈むか。
     それだけの場所なのだ。
     珠子は吸殻を叩きつけるように玄関へ投げ捨てた。
    「わかった。わたしも参加してやるよ」
    『ほ、本当に?』
    「ああ。知り合いに招待状を用意できるかきいてみる」
     知り合い。東道とうどう組というヤクザの組長だ。
     数年前、珠子が〈ダストシュート〉に参加し、優勝したとき、珠子に金を張ってくれた男だった。
     そのときの成功体験をおぼえていれば、あの男はまた、珠子に賭けてくれるだろう。
     賭けるために、招待状を手に入れてくれるだろう。
    「心配すんなよ姉ちゃん」
     珠子は姉を安心させるため、少し明るい声で、
    「哲郎を見つけたら生きたまま姉ちゃんのもとへ送り届けるよ」
     受話器の向こうで、姉が深く頭を下げた気配がした。
    『ありがとう……。ありがとう、タマちゃん……。私、何もできなくて、本当にごめんね……』
    「いいよ。気にすんな」
     珠子は静かに言う。
     そしてすぐ、付け加える。
    「ただ、もしも哲郎がわたしに歯向かってきたら、そのときは遠慮なくぶちのめす。それでもいい?」
    『それでも、いい……。タマちゃんも、絶対に生きて戻ってね……?』
    「大丈夫。わたしは、強いからね」
     電話を切る。
     灰を足裏で払い、新しいのをくわえて火をつける。
     珠子は再び受話器を取り、東道組の事務所に電話をかけた。
    「うっす、珠子っす。久しぶりにア・レ・に出たいんで、招待状を用意できるか組長ボスにきいてもらえます?」


    第六話 助っ人

     珠子が住む町の、一つ隣の町に幼馴染が師範をやっている道場がある。
     極真空手道場〈熊爪会ゆうそうかい〉。
     門をくぐって奥の平屋に進み、珠子は戸を叩いた。
    「シンちゃんいる?」
     しばらくすると戸が開き、中から二メートル近い長身の、熊のような体躯の男がぬっと現れた。
     この大男が道場の主。五十嵐いがらし心寿郎しんじゅろうだった。
     珠子より三つ下の三十歳。
     野生の熊を素手で殴り倒す人間離れした強さの……。珠子が知っている表の武道家の中で、最強と認めている空手の達人だった。
    「タマちゃん」
     心寿郎は珠子がくわえている煙草を見て顔をしかめ、
    「ここ、禁煙だって何度も言ったはずなんだけど……」
    「外なら別にいいだろ。それより、ちょっとツラかせよ」
     煙草をスパスパ吸いながら、珠子は心寿郎を連れて門の外まで歩いた。
    「……で、どうしたの?」
    「〈ダストシュート〉」
     珠子はいきなり本題に入った。
    「知ってるだろ?」
    「知ってる。何度も招待状がきた。何度も無視しているうちにこなくなったけど……」
    「次に開かれるそれに、出ることにした」
    「そうなんだ」
     心寿郎は特に驚きはしなかった。
     珠子が裏の武術家であることを知っているし、一度、〈ダストシュート〉に参加して最後まで生き残ったことも知っている。
     だが、珠子が、
    「甥っ子も参加するから、守ってくれって姉ちゃんに頼まれた」
     出場の理由を口にした瞬間、心寿郎は目の色を変えた。
    「甥っ子って、哲郎君だよね? 鉄心さんの息子の」
    「鉄心さんを殺した奴が〈ダストシュート〉に出るらしい。哲郎はそいつをぶっ倒すために〈ダストシュート〉に出るんだとさ」
    「ちょっと待ってよ、タマちゃん。鉄心さんが殺されたって、本当に?」
    「ああ」
     鉄心は裏だけでなく、表にも知っている者がいる。
     心寿郎の場合は、直接面識はないが、珠子がよく話していたから知っている。
    「鉄心さんが一対一で負けるとは思えないが」
     珠子は紫煙を、心寿郎のいる方の逆側へ吐いた。
    「もしそうなら、相手は相当の手練れだ。哲郎一人じゃ荷が重すぎる」
     心寿郎は頷いた。
    「それで、手をかしてほしくてオレのところにきたんだね」
    「そうだよ。シンちゃんがいれば百人力だ」
    「いや、オレは弱いよ。オレの技が裏で通用するとは思えない」
     珠子は鼻で笑い、心寿郎の顔面に紫煙を吐きかけた。
    「〈熊殺ゆうさつ〉の心寿郎が弱いって? バカ言ってんじゃあないよ」
    「オレに煙を吹きかけないで……」
     珠子は吸殻を地面に落とし、右足裏ですり潰した。
    「優勝賞金目当てで参加するわけじゃない。わたしたちで哲郎を捕まえて、棄権すればいい。ただそれだけの話だ」
    「仇討ちが目的の哲郎君が大人しく棄権するとは思えないけど……」
    「そのときは殴り倒して連れ帰るんだよ」
    「じゃあ、仇討ちはしないってこと?」
     珠子はカチンときた。
     鉄心よりも強いそいつから逃げるのか、と言われた気がしたからだ。
    「裏の武術家として、鉄心さんはいつかぶっ倒したいと思っていた目標だった。その鉄心さんを倒した奴をわたしが倒せば、わたしが、鉄心さんより強いってことを証明できる」
     珠子はキャスターの箱とライターを穿いているジーパンのポケットから取り出し、一本くわえて火をつけた。
     ゆっくりと紫煙を吐き出し、
    「……けど、それは次だ。今回は違う。わたし一人じゃあ哲郎を守り切れないかもしれない。だから、シンちゃんみたいな強い助っ人が必要なんだよ」
     心寿郎は静かに目を閉じ、そして、頷いた。
    「わかったよ……。でも、オレは絶対に人を殺さない。相手が誰だろうと、その制約だけは守る」
    「それでいいよ」
     珠子は一息で残りを吸い上げ、灰を地面に落とし、大きな煙をモワッと吐き出した。
    「じゃあ、一緒に招待状を手に入れような」
     ひょいと手を振って珠子は吸殻をポイ捨てし、心寿郎に背を向けた。
     ……が、すぐ振り返って、
    「あっ、そうそう。ここにくる前に東道組の組長と話をして言われたんだけど、今回は職人も何人か参加するらしいよ」
    「職人?」
    「人殺しのプロ」
     殺し屋か、と心寿郎が言う前に、珠子は行ってしまった。
     心寿郎は視線を下へやり、
    「……ちゃんと片付けてよ」
     大きな身体を丸めて、地面に転がる煙草の吸殻を指でつまみ取った。


    第七話 〈葬儀屋〉

     東京都新宿区、歌舞伎町。
     ビル街の雑踏の中を、柔らかい笑みを浮かべた一人の中年男が歩いていた。
     身長は百八十と高いが、身体つきはひょろひょろで、まるでモヤシのよう。
     喪服のような黒いスーツに身を包み、軽い足取りで、まるで散歩でもしているかのようだった。
    「先生」
     と、声をかけられる前に男は立ち止まっていた。
     声をかけられることが初めからわかっていたかのように、「先生」と口にした男の方へ顔を向けていたのだ。
    「おう。あんたが中島なかじまはんか」
     中島という男は愛想笑いを浮かべてペコペコと頭を下げた。
    「どうぞ、こちらへ」
    「おう」
     中島に連れられて、男はすぐ傍のバーに入った。
     客は一人もいなかった。貸し切り状態だ。
     カウンター裏でバーテンダーが一人静かにグラスを拭いている。
     一番広い席に向かい、「どうぞ、先生」と中島は男を促した。
     男はドカッとソファーに大股で座り、湯船に沈むように両腕を広げて、
    「新宿一帯を仕切っとる川尻かわじり組の大幹部はんがわざわざワシに会いにきはるなんて、今回はだいぶ気ぃ入ってまんなぁ」
    「ええ、まぁ……」
     バーテンが酒とグラスを運んできて、男の前に置いた。
     一杯三十万はする高級酒と、透き通るような美しいグラスだった。
     テーブルの上にあるそれらの宝石に目もくれず、男は言った。
    「相手が一人でも二人でも、組織そのものでも……。まぁ、どちらさんでもかまいまへん。金さえ弾んでもろたら、きっちり片付けますさかい」
     中島は着ているスーツの内ポケットから一枚の紙を取り出し、テーブルに置いた。
     推薦者から高値で買い取った、〈ダストシュート〉の招待状だった。
    「今回は、先生にこちらに参加していただきたい」
    「ほう……」
    「〈ダストシュート〉。裏の世界で長く仕事をしている先生ならご存じのはずです」
     男は頷いた。
    「で、誰が標的でっか」
    「全員です。先生には、この〈ダストシュート〉で優勝を目指してもらいたい」
    「全員かいな。そら、ちぃと骨が折れる話やな」
     男は両の肩甲骨を回した。
     ゴキゴキッ!
     男の肩から本当に骨が折れたような異音が鳴った。
    「これぁ安い仕事やあらしまへんで。最低でも普段の倍はいただかんと、さすがのワシも動けまへんわ」
    「ごもっともです先生。ですので、前金として、こちらを受け取ってください」
     中島はバーテンに合図を出した。
     バーテンは店の奥から紙袋を抱えて持ってきて男に差し出した。
     男はそれを受け取り、中を覗いた。
     ずしりとした重みに合った、大量の札束がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
    「えらい大金やないかい。ちぃとだけやる気出てきましたわ」
    「優勝したら、それに加えて同じ額を先生にお渡しします。もちろん、優勝賞金も全部先生に取ってもらってかまいません」
    「そら嬉しい話やけど、ちょいと話ができすぎまへんか? なんぞ裏があるんとちゃいまっか」
     男の、昆虫のような、感情の一切が欠落した黒い目に見つめられて、中島はウッとたじろいだ。
    「あの、その……」
     中島は、喉に絡まった痰を少しずつ吐き出すように、
    「現在、川尻組は衰退の一途をたどっています……。西から北上してきた所沢ところざわ組の勢力に縄張りを侵食され、組としての影響力が急速に落ちているのです……。武力で劣る川尻組が力を示すには、日本中の組が参加し、賭けの対象にもなる〈ダストシュート〉という面子を賭けた舞台で経済力と武力を誇示する必要があります……。そのために、先生に依頼しました……」
     言い切った後、中島はゴクリと音をたてて唾を飲み込んだ。
    「ほぉう……。まぁ、ワシは金さえ払てもろたら、それで十分やけどな」
     男は大金の入った紙袋を左脇に抱え、〈ダストシュート〉の招待状を右手に持って立ち上がった。
    「受けた仕事はきっちり仕上げるさかい。あんたは安心して待っときなはれ」
    「感謝します、先生」
     中島は深々と頭を下げた。
     男がバーから出て行くまで、中島はそのポーズを崩さなかった。
    「中島さん」
     バーテンに声をかけられて、中島は頭を上げた。
    「なんだ?」
    「今の人が、本当に……」
    「ああ」
    「〈葬儀屋〉ですか? あの、見るからに……」
     中島は、バーテンの姿をした川尻組の組員をギロリと睨んだ。
    「なんだ。見るからに弱そうってか? そうやって見ていた奴が、何人あの人の手で棺桶に入れられたと思ってんだ」
    「す、すみません……」
     中島は高級酒をグラスに注ぎ、一息で飲み干し、熱い息を吐いた。
    「所沢組も俺らと同じようにプロを〈ダストシュート〉に投下する。だから俺らも大金使ってプロを雇ったんだ」
     グラスを叩きつけるようにしてテーブルに置き、高級酒を注ぎながら中島は言う。
    「所沢組あいつら、中国の武闘派マフィア〈拳華会けんかかい〉から、白バイ霜蓮シュアンリェンっつう殺し屋を輸入した」
     中島はグラスを右手であおり、まずそうな顔で、
    「他にもいろいろと耳に入ってる。川尻組ウチの情報網は他とは別格だからな。主催側が手下に持たせた手紙の多くは海外へ運ばれて行った。だが、配達人もなかなかすばしっこくて、川尻組ウチの者らが追跡できたのは今のところ三人だけだ。一人は〈アイアン・フィスト〉の異名を持つ元プロボクサー、ケビン・コナード。一人は、ジーンとかいうイカレた中年。一人は、モンゴルの喧嘩屋、ドルドレン・ジルゾルべ」
     中島は、パン、と手を叩いた。
    「……っと、そうだ。それから、南の那頭なとう組は、えーっと……」
    「東南アジアのマフィアと繋がりのある組ですね」
    「そうそう。連中は、〈壊し屋〉を投下するって噂だ」
    「〈壊し屋〉?」
    「俺も詳しくは知らない。だが、ゴミ捨て場に捨てるんだ。まともな奴じゃないことは確かだろう」


    第八話 〈壊し屋〉

     タイの首都、バンコク。
     街全体が赤く滲んだ夕暮れ時。一人の少女が石畳の上を駆けていた。
     歳は十六。
     長距離ランナーのような、しなやかで筋肉質の身体。
     男子のように短く切りそろえられた黒髪の、その前髪から覗く鋭い目は、十メートルほど先にある大きな鉄の門を真っ直ぐ見据えていた。
    「止まれ」
     少女が門前に立つ、その直前に、左右から二人の男が出てきた。
     門番だった。
     一人はドグ。少女よりも頭一つ背の高い、目つきの悪い男だ。
     ドグはガムをクチャクチャ噛みながら、目の前にいる少女を無言で見下ろした。
     もう一人はニャット。丸太のような太い腕と太い足。プロレスラーのような大柄の男だった。
    「ようタナ。どうしたんだ?」
     ニャットはニヤッと笑って、少女タナに話しかけた。
    「ボスに会わせて」
     タナは呼吸を整えながら、ニャットに言った。
    「悪いな、タナ。ボスは今、留守なんだ」
    「ニャットさん。こいつ誰ですか?」
     ドグがタナを指差してきいた。
    「ああ、お前は新入りだから知らねえのか。こいつはタナ。組織ウチのボスのお気に入りだよ」
    「お気に入り? ……ってことは、こいつが!?」
     ドグはガムを噛むのを止めて目を大きくした。
    「どう見てもガキじゃねえですか! こんなガキが、あそこでバチバチやりあっているってんですかい!?」
    「おうよ。見た目はガキだがこいつぁ大したガキでな。相手が誰だろうとバキバキにぶっ壊しちまう、とんでもねえ〈壊し屋〉だ」
    「で、その〈壊し屋〉がボスになんの用なんです?」
    「今それをきこうとしてたんだよ。いいから、お前は黙ってろ」
     ドグをドンと手で押して、ニャットはタナの正面に立った。
    「で、タナよ。要件はなんだ?」
    「ボスはいる」
     着ているジャージの袖で額の汗を拭って、タナは断言する。
    「わたし、ボスの車を追っかけてここにきたんだ。ボスがここに入って行くのをちゃんと見た」
    「汗かきながら走ってきてもらったのに悪いんだが、ボスは今、忙しいんだ。用があるなら俺がお前の代わりにボスに伝えておいてやるよ」
     笑みを崩さず、ニャットは言う。
    「嘘つき。さっき留守って言った」
    「留守って言わなくちゃいけないほど忙しいってことだ」
    「なんで忙しいのか知ってる。日本に貸し出す闘技者が決まらなくて、あっちこっちと連絡を取り合っていて忙しいんでしょ?」
    「わかってるじゃねえか。なら、今ボスに会いに行っちゃあダメってこともわかるよな?」
    「何回も言った! わたしが闘技者になるって、何回もボスに言った! なのにボスは、『お前はまだ若い』って、そればっかり!」
     拳を握って、タナは叫んだ。
    「その通りだ。お前はまだ若く、そして弱い」
     ニャットは溜息を吐いた。
    「賭け試合で連戦連勝で調子に乗る気持ちはわかるが、それはボスがお前のスタイルに合った対戦相手を選んでやっていたからだ。その気になれば、お前程度の小娘なんざ、簡単に壊せるんだよ」
    「わたしを、簡単に壊せる……?」
     タナは両拳を握り締めた。
     ギリリと音が鳴る。
     褐色の両腕に、太い血管が植物の根の如く浮き出た。
     そして、次の瞬間。
     何かがニャットの顔前を横切った。
     同時に鳴った風切音。
     それがなんの音なのか知る前に、ニャットは石畳の上に膝から崩れ落ちた。
    「なっ!?」
     傍で見ていたドグの目には、それが映っていた。
     常人では目で追うことすら不可能な速さで振りぬかれた右腕。
     いや、腕は腕だが、正確には違う。
     腕を持つ人間であれば、誰もが持つ人体の槍……。肘が、ニャットの顎を正確に打ち抜いたのだ。
    「お前ッ!」
     ドグはタナに飛びかかった。
     低い姿勢から、足のバネで一気にタナの懐へ……。タックルだが、ただの力任せのタックルではなかった。
     それは、相手を倒すことを目的とした技。レスリング経験者のドグが放つ、回避不可の組み技だった。
    「チェアッ!」
     タナが叫んだ後、ドグは腹部に衝撃を感じた。
     それはまるで刃物で貫かれたような……。これは、斬撃?
     しかし、タナの手はドグの上半身より上にある。
     武器を取り出して刺したようには見えなかった。
     肘を使われていたら、痛みは背中にくるはずだ。
     ならば足。足しかない。
     タナは蹴ったのだ。
     足を持つ人間であれば、誰もが持つ人体の剣……。膝で、ドグの腹部を貫いたのだ。
    「ガッハァ……!」
     身体を丸めたまま、ドグは石畳の上に額から落ちた。
     その腹部には、胸骨を壊して突き刺さったタナの膝の、丸みのある窪みがくっきりと残っていた。
    「わたしが弱い? なら、教えてあげるよ」
     タナは門に飛びつき、鉄柵をよじのぼり始めた。
     ガシャガシャと金属音を鳴らしながらてっぺんまで行き、三メートル上から落下して着地する。
     その瞬間、鳴り響く警報ベル。
     タナは走り出した。
     前傾姿勢で芝生の上を猛スピードで駆ける。
     目指すは、ボスの屋敷。
     サイドから数匹の番犬……。ボスのペットたちが飛び出してきた。
     みんなタナを記憶しているので、尻尾を振りながら楽しそうに追いかけてくる。
    「ごめん! 今日は遊んであげない!」
     タナは番犬を振り切って玄関まで走った。
     ドアが勢いよく開き、二人の男がタナに向かってハンドガンの銃口を向けた。
    「た、タナッ!?」
    「何やってんだお前ッ!」
     ボスのお気に入りを撃つわけにはいかない。
     男たちが銃口を下に向けた瞬間、タナは片方を飛び膝蹴りで吹っ飛ばし、もう片方のこめかみに右の肘をぶち当てた。
     苦痛に呻き、玄関を転げる二人の男をジャンプして、タナは正面ホールを突っ切り階段を駆け上がった。
    「待て!」
    「なんの真似だ!?」
     ボスの手下たちが四方八方から現れ、タナを追いかける。
     屋敷内での戦闘に慣れた手下たちの動きは速かった。
     ある者は手すりを渡って、ある者はシャンデリアを飛び越えて、ある者はタナと同じ脚力でもって接近する。
     それらを、タナは、射程距離に近づいた奴から肘で突き、膝で刺し倒した。
     銃で撃ち殺せないとはいえ、そのほとんどがボスが仕切る裏闘技場で鍛えられた武術の達人たち。一般人なら体術のみで楽々組み伏せられる手練れたちだった。
     そんな奴らが束になってタナに飛びかかっても、誰一人、その勢いを止めることができなかった。
     逆に、肘で顎を砕かれ、喉を潰され、膝で胸骨を壊され、手足をブチ折られた。
    「お邪魔しまぁすッ!」
     分厚い扉を蹴り飛ばして、タナは広い部屋に躍り出た。
     ソファーに座って葉巻をふかしていたボス……。バンコク裏社会の顔役、チャナットは、その姿を見て絶句していた。
    「あ、いた! ボスだ!」
     チャナットの人差し指と親指の間につままれていた葉巻が、ポロリと絨毯の上に落ちた。
    「ボスッ! 直談判にきましたッ!」
     タナはテーブルの上に飛び乗り、酒瓶とコップを蹴り落とし、固まっているチャナットを見下ろした。
    「無事ですか!?」
     手下たちが部屋になだれ込んできた。
     乱れたスーツを直しながら、ぜえぜえ喘ぐ部下たちに目をやって、チャナットは鼻で笑った。
    「おいおい。お前ら弱すぎだろ」
    「違いますッ! わたしが強すぎるんですッ!」
     テーブルの上で、タナは腰に手を当てて胸を張った。
     手下たちがコクコク頷いた。
     それを見て、チャナットはまた鼻で笑った。
    「タナ……。お前の親父のレイには何度も世話になった。俺が死にかけるたびにレイがすっ飛んできて、俺を助けてくれた。だからな、タナよ。レイが死んだ後、俺はお前をレイに代わって守るって決めたんだ。ゴミ捨て場で、ゴミのように、お前を死なせたくないんだよ」
    「死にません。わたし、父さんよりも強いから」
     チャナットはしばらく黙り、深く溜息を吐いた。
    「お前、どうしても〈ダストシュート〉に出たいのか?」
    「はい」
    「条件がある」
    「なんですか?」
    「生きて帰れ。優勝賞金を持たなくてもいいから、必ずここに戻ってこい」
    「必ず、優勝賞金を手に、ここに戻ってくると約束します」
     チャナットはフッと笑った。
    「お前は、レイよりもわからず屋だな」
    「はい。わたしは、父さんよりもわからず屋です」
     タナはチャナットに頭を下げた。
    「行ってきます。義父とうさん」


    第九話 劇場

     〇月〇日。
     おれは銀座にいた。
     浅草駅から銀座四丁目の駅前まで、数時間かけて走ってきた。
     歩道の脇に寄って、おれは招待状を確認した。
     汗が垂れる前に、袖で額をぐいっと拭った。
     鼻をすすると、道場の畳のにおいがした。
     一週間寝泊まりさせてもらった道場の畳のにおいが制服に残っていたのだ。


     その道場は、浅草の古寺の裏手に存在した。
     観光客が通る表の道からは見えない、苔むした石段をのぼった先にある。
     一般人は立ち入り禁止だが、おれは入ることができた。
     道場の主、白樺しらかば泰典やすのりさんが、父さんと交友があるからだ。
     父さんも白樺さんも裏の武術の使い手で、その二人が交わるということは、つまり、この場合の交友とは、手合わせの経験があるということだ。
     二人が最後に会ったのは十年ほど前だった。
     おれは二人の戦いを見学していただけで、白樺さんと直接、本気でやりあった経験はない。
     だけど、白樺さんはおれのことをしっかりおぼえてくれていた。
    「鉄心さんの息子の哲郎君か。大きくなったね。鉄心さんの訃報、ぼくにも届いているよ」
     おれは白樺さんに、父さんが何者かに殺されたことと、その仇討ちが目的で〈ダストシュート〉に参加することを話した。
    「〈ダストシュート〉か。怖い人たちの賭け試合だね。出るなら招待状が必要で、その招待状を鉄心さんに渡しにきた人が、鉄心さんを殺した。……ふむ。ぼくの想像だけど、鉄心さんを殺したのは別の人だよ。〈ダストシュート〉は奪った招待状でも参加できるから、きっと、鉄心さんは強い人と招待状を賭けて立ち合い、負けてしまったんだと思う」
    「だったら、招待状が残っていたのは何故ですか?」
    「寺が火事になったんだろう? 戦っている最中に火のついたロウソクが倒れて、火が燃え広がったんじゃないかな。それで、お相手は焼け死ぬのが嫌で、招待状を奪わずに逃げた」
    「おれはその人と戦いたいです」
    「……ああ。だからここにきた。ぼくに稽古をつけてほしいんだろう?」
     白樺さんは止めなかった。
    〈ダストシュート〉について知っていることを話してくれた上、闘技場そこで生き残れるよう、稽古してあげると言い出したのだ。
    「一週間、だっけ? ギリギリまでここに住むといい。君がベストの状態で戦いに臨めるよう、ぼくができる限り協力するよ」


     白樺さんと毎日、実戦に近い稽古をしたおかげですこぶる調子がいい。
     父さんを殺した何者かに対する怒りを失うことなく、ベストの状態まで持っていくことができた。
     今のおれなら、誰が相手だろうと負ける気がしない。
    「……ここで、合ってるよな?」
     おれは招待状に書かれた住所の建物を見上げた。
     古びた外壁に、ところどころ剥がれたポスター。
     入り口のガラス扉には、薄く指紋が残っている。
     ここは劇場だ。
     おれは扉を押した。
     ロビーは薄暗く、天井のシャンデリアだけが妙に豪華だった。
     客はおらず、受付にスーツの男が一人、静かに佇んでいた。
     おれは受付に近づいて、テーブルに招待状を置いた。
     受付の男はスーツの襟を指でいじりながらおれを見た。
     ゴミを見るような冷たい目だった。
     おれが差し出した招待状を受け取り、顎で奥を指した。
    「参加者は奥の部屋だ。進みな」
     おれは無言で頷き、足を踏み出した。
     劇場の奥へ続く細い廊下を進む。
     壁には古い舞台写真が並んでいて、どれも色が褪せていた。
     廊下の突き当たりに黒い扉があった。
     おれは、ゆっくりと扉を押し開けた。
     天井に豆電球が一つ吊るされた六畳ほどの狭い部屋に入った。
     豆電球は今にも切れそうで、チカッ、チカッ、と点滅を繰り返していた。
     床はコンクリートで、所々が割れていた。
     壁もコンクリートで、窓はなく、椅子やテーブルも無かった。
     正面に木製の扉があり、そこがギギィと開き、坊主頭の男が一人、中に入ってきた。
     黒いスーツ姿で、顔には黒いサングラス。
     身長は百八十センチ、体重は八十キロはありそうな肉体だ。
     強そうだ、とおれは直感した。
     黒スーツの男はおれに深々とお辞儀をし、
    「ルールを説明します」
     いきなり始まった。
    「まず、参加者は全員、目と耳を塞がれ、両手両足を拘束された状態でゴミ捨て場に捨てられます」
     ゴミ捨て場とは、戦う場所のことだ。
     白樺さんが言っていた。
    〈ダストシュート〉の参加者は〈ゴミ捨て場〉と呼ばれる闘技場に入れられて、そこで命懸けの戦いをする、と。
    「参加者全員がゴミ捨て場に捨てられたら、清掃員が目隠しと耳栓、それから両手両足を拘束している道具を回収します」
     清掃員とは、主催者が雇ったスタッフのことだろう。
     向こうから危害を加えることはないけれど、参加者の誰かがルール違反したら、その者の処理を務めるのも清掃員だと思う。
     あとは、おそらく、ゲーム中の死者の片付けも、清掃員が務めるのだと思われる。
    「拘束が解かれた瞬間から、ゲームスタートです。制限時間は十二時間。残り時間を知りたい場合は、ゴミ捨て場の各所に設けられた電話ボックスをご利用ください。また、棄権する場合は、電話ボックス内にある固定電話を使って、清掃員に棄権の意思を伝えてください」
     電話ボックス。休憩所みたいなものだろうか。
     安全地帯とは違う気がするが……。
    「ゴミ捨て場では」
     おれが質問する隙を与えず、男は喋り続ける。
    「こちらが武器と認めたものや、薬物の類は持ち込み不可ですが、ゴミ捨て場の中で拾った物は武器として使用できます」
     ゴミ捨て場がどのような場所なのかわからないが、たとえば、そこがその名の通りの大小さまざまなゴミが溜まった場所であったなら、それらのゴミを人と戦う武器として使う、あるいはゴミを使って製造した武器を戦いに用いてもかまわないということらしい。
    「参加者は、参加者同士で戦い、十二時間後、もっとも勝利数の多い者か、最後まで生き残っていた者を優勝者とし、ゲーム終了となります」
     ゴミ捨て場での戦いは、間違いなく、反則行為が定められていない殺し合いになるだろう。
     だが、いざとなったら逃げてもいい。
     死にたくなかったら棄権すればいいし、仮に電話ボックスとやらが見つけられなくても、ゲーム終了まで隠れていればいい。
     強制的に殺し合いをする必要がないということに、おれはホッとしていた。
     とはいえ、おれには目的がある。
     父さんを殺した者を見つけて倒すか、そいつに繋がる情報を得るまで、棄権する気はない。
    「ルールの説明は以上となります。では、こちらを付けさせてもらいます」
     男は懐からポリ袋を取り出した。
     ポリ袋の中には耳栓と目隠し用の黒いバンド、それから、太さ二十ミリほどの留め具付きワイヤーが入っていた。


    第十話 強奪

    〈ダストシュート〉に参加する者たちが集まる古い劇場。
     その入り口前で一人の男が、
    「場所、ここでいいんだよな……」
     低い声で呟き、ガラス扉を開いた。
     身長、百九十センチ。
     体重、百六十キロ。
     肩幅が広く筋肉が分厚い、巨岩のような男だった。
     上にはジージャン。
     下にはジーパン。
     長い黒髪は、一つに束ねて頭の後ろで団子みたいに固めていた。
     床をミシミシと軋ませながら男は歩く。
     ジージャンのポケットからぐしゃぐしゃになった招待状を取り出し、ゴミみたいに受付のテーブルの上に放ったら、
    「ちょっと待ってくれ」
     背後からそんな声がきこえた。
     男は振り返った。
    「やあ。ぼくは白樺泰典。よろしく」
     友人に話しかけるような口調で挨拶したのは、黒髪の中年男だった。
     紺色の浴衣。内には肌着を着ていない。
     裸足で、草履を履いていた。
     身長は、男よりも数センチ低い。
     体重は、男の半分より下だろう。
    「ぼくは名乗ったよ。次は君の番だ」
     泰典は静かに微笑んだ。
    「ドルドレン・ジルゾルべ」
     巨岩のような男、ドルドレンが名乗ると、泰典は一歩だけ近づいた。
     柔らかで軽い草履を履いているせいなのか、わからないが、足音がまったくしなかった。
    「ドルドレン君。悪いんだけど、その招待状、ぼくに譲ってくれないかい?」
     一瞬、耳を疑った。
     ……譲れ、だと?
     自分が何を言っているのかわかっているのか。
    「お前みたいな細っこいのが〈ダストシュート〉に出るつもりか。身の程を知れ」
     泰典は首を傾げた。
    「君のような肥満体が戦えるのかい? すぐ疲れて動けなくなるんでないかい」
    「あぁ!?」
     瞬間、ドルドレンの中で何かが切れた。
    「消し飛ばすぞ、この野郎ッ!」
     ドルドレンの肉の塊のような右の掌が、泰典の胸に直撃した。
     だが、次の瞬間、ドルドレンの右の掌は何もない空を打っていた。
     泰典の姿が、一瞬にして視界から消えてしまったのだ。
    「……は?」
     背後で、フッと風が揺れた。
     振り返るより早く、ドルドレンの肩に衝撃が走る。
     痛みではない。
     ただ、触れられた感覚。
     だが、その一撃でドルドレンの身体がぐらりと傾いた。
    「て、てめえッ!」
     後ろに向かって、ブンッと左腕を振る。
     同時に振り返る。
     いない。
    「こっちだよ」
     泰典の声が耳元できこえた。
     いつ移動した?
     どうやって背後に?
    「この野郎ッ!」
     ドルドレンは左右の腕を振り回した。
     一発も当たらない。
     掠りもしなかった。
    「素振りかい?」
     姿が見えず、声だけがきこえる。
     まるで、実体のない幽霊でも相手にしている気になり、ドルドレンはゾッとした。
    「クソッ!」
     ドルドレンは歯を食いしばり、ドスドスと足音をたてながら壁際まで移動した。
     壁を背にして、振り返る。
     ロビーの中央辺りで棒立ちする泰典が目に入った。
    「……はっ。ちゃんといるじゃねえか」
     ドルドレンは安堵する。
     相手は幽霊じゃなくて人間だ。
     かなり素早いが、泰典はちゃんとそこにいる。
     ……と、いうことはつまり、攻撃が当たりさえすれば倒せるということだ。
     ドルドレンは腰を落とし、全身の力を脚に集めた。
     両手を膝に当て、泰典を睨みつけた。
    「根を張る構えシャワー。君はブフの使い手だね」
     泰典が言う。
     ブフとは、モンゴルに古来から伝わる立ち技主体の格闘技で、〈モンゴル相撲〉とも呼ばれる。
     流派によって試合のルールは異なるが、基本的に、身体の一部が地に触れると負けだった。
     だが、ドルドレンのブフは実戦特化型。相手か自分、どちらかが再起不能になるまで勝負は終わらない。
     喧嘩相撲という名で、主に部族同士で行われた一対一の戦いにおいて、ドルドレンは無敗の強さを誇るファイターだった。
    「君が構えてくれたんだ。こちらも見・せ・る・のが、礼儀というものだろう」
     泰典も構えた。
     軽く肘を曲げ、開いた両手を正面に出す。
     左足を、膝が左肘の下あたりにくるよう前に出し、右足をやや後ろに引く。
    「〈打蝶だちょうの構え〉」
     見たことも、きいたこともない構えだった。
     だが、関係ない。
     つかんで、投げて、それで仕舞いだ。
    「行くぞッ!」
     ドルドレンは突進する。
     渾身のタックル。これを受け止められる奴は、そうはいない。
     泰典の身体がわずかに揺れた。
     避ける……。いや、また姿を消す気か、幽霊野郎が。
    「逃がさんッ!」
     強靭な足腰の力でもってドルドレンは踏みとどまり、方向を変えて再度突進。
     伸ばした右手で、逃げようとする泰典の帯をつかんだ。
     そして、一気に身体を丸めて前方へ転がすようにブン投げる。
    「タルバガン・フルグ(マーモット投げ)!」
     ドンッ、と重い音がロビーに響いた。
     ドルドレンは顔を上げた。
     こちらを見下ろす泰典と目が合った。
     泰典が構えを維持したまま立ち、ドルドレンが仰向けで床に倒れていたのだ。
     ……おい。なんでおれが投げられて、こいつが立っているんだよ?
     呆然とするドルドレンに、
    「手、大丈夫かい?」
     泰典が穏やかな声で言う。
     ドルドレンは自身の右腕に目をやった。
     右の掌が、手首からねじれて、反対側を向いていた。
    「なッ!?」
     いつの間に、こんなことに。
     痛みは大したことはない。耐えられる。
     だが、得体の知れない技をかけられたことに対する恐怖が、ドルドレンの心にヒビを入れた。
    「まだ続けるなら、次は君の首をねじってみようか」
    「ぐッ……!」
     ドルドレンは動けなかった。
     両の腕と肘、そして尻が床についている。右手は壊れて指一本動かせない。
     ブフで負けた。
     心のヒビが広がり、泰典こいつとこれ以上、戦いたくないと思ってしまった。
     心のヒビを瞬時に回復できない奴は、敗者だ。
     ドルドレンはブフだけでなく、勝負でも負けたのだ。
    「君の招待状、ぼくがもらうね」
     泰典は微笑み、ドルドレンに背を向けた。
     ドルドレンは「クソッ」と吐き捨て、目を伏せた。


    第十一話 観戦会場

     夜景を背に、天井に吊るされた特大のシャンデリアが神々しく輝いていた。
     だが、そこに漂う空気は神々しさとはまるで逆。
     地の獄の如く重苦しく、湿った緊張のにおいで満ちていた。
     裏のゲーム、〈ダストシュート〉の観戦会場。
     そこは都心の一等地に建つ高層ホテルの最上階を丸ごと貸し切ったものだった。
     集まっているのは政財界の裏側に名を連ねる富豪、企業の影に潜むフィクサー、そして、複数の暴力団組織の幹部たち。
     普段なら互いに牽制し合う立場の者たちが、今夜だけは肩書きを脱ぎ捨て、客としてここに集っていた。
     彼らがここにいる理由は一つ。
     三十人の人間が争う非合法のゲーム……。〈ダストシュート〉に、賭け主として参加するためだった。
     会場の壁には巨大なモニターが十数枚並んでいた。
     そこに映し出されているのは、世界中から集められた三十名の選ばれた者たちの姿。彼らはそれぞれ別々の場所で待機していた。
     映像の背景はどれも同じ。近々更地にされる予定の巨大な廃セメント工場だった。
     その敷地は約五十万平方メートル。
     東京ドーム、約十個分以上の広さのその場所が今宵のゴミ捨て場。すなわち、闘技場だった。
     錆びついた建屋、割れた窓ガラス、朽ちた鉄骨、むき出しの配管、そして、蔦に覆われた壁面が夜の闇に沈んでいた。
     風が吹くたびに、どこかで鉄板が軋む音が響いた。
    「素敵な夜だ」
     一人の影が静かに笑った。
     存在しているが、その姿は誰の目にも映らない。
     男なのか、女なのかもわからない。
     だが、確かにそこにいて、会場と、ゴミ捨て場を眺めている。
     この影が、闘技場として使うため、広大な廃工場を丸ごと買い取った〈ダストシュート〉の主催者、神城かみしろ政宗まさむねだった。
     名前は偽名。その他、素性は一切伏せられている。
     知らないし、調べない。
     知っていても知らないフリをする。
     それが賭場ここでの、暗黙の了解だった。
    「さて、どのゴミに賭けようか」
    「今回もなかなか強そうなのが揃っているじゃあないか」
     観戦会場内で、賭け主たちはスタッフから配られた参加者ゴミたちのプロフィールを手に、誰に賭けるか思案していた。
    「俺は一番の、〈妖精戦士〉アルフレッド・ウォーロードに賭ける。どう考えてもこいつ一択だろ」
    「三十番。〈幻死蛍げんしほたる〉白樺泰典。こいつは強い。オレの勘がそう言っている」
    「十七番。〈壊し屋〉タナ。初出場のゴミ、いいじゃないか。私はいつだって大穴を狙う」
    「二十八番。〈不死者アンデッド〉ジョナサン・ホールズ。……あれ? こいつの顔、どっかで見たことがあるような……」
    「おい、どうなっているんだ。十三番の〈葬儀屋〉権兵衛ごんべえ。こいつだけプロフィールがスカスカで、ほとんど何も書いてないじゃないか」
    「十一番。〈双龍そうりゅう〉ユン・ミンギョン。……これはないな。ストリートの喧嘩自慢程度が生き残れるわけがない」
    「二十九番。〈拳闘坊主けんとうぼうず〉佐藤哲郎。賭けるなら若い子がいいわ」
    「ほっほっほ。わたくしは六番の〈人斬り令嬢〉京堂院きょうどういん真貴子まきこに賭けますわ」
    「十五番。〈炎の虎〉蘭条珠子。彼女はバランスがいい。すごくイイ……!」
    「アルフレッドに一千万!」
    「十四番。〈熊殺〉五十嵐心寿郎。蘭条珠子とともに、推薦者からあっさり招待状を奪い取った猛者だってよ」
    「おれは四番の〈乱雪らんせつ〉白バイ霜蓮シュアンリェンを選ぶ」
    「アルフレッドだ。奴を倒せるゴミがいるとは思えない」
     参加者ゴミにとって〈ダストシュート〉は、勝利数が一番多い者か、最後まで生き残っていた者が優勝者となり、優勝賞金を手にするゲーム。
     賭け主にとって〈ダストシュート〉は、優勝者を予想し、当てるゲームだった。
     賭け金は一人につき一千万円。
     賭ける参加者ゴミは一人だけ。途中変更は不可。
     優勝者一人、賭け主が一人だけなら総取り。複数人なら山分け。
     自分が連れてきた参加者ゴミに賭けてもよい。
     ただし、三十名の枠は〈招待状〉を持つ者のみ。推薦か、あるいは推薦者から奪い取った者だけが、ゴミ捨て場に捨てられる。
     会場はざわつき、煙草と香水のにおいがまじり合う。
     モニターに映る参加者ゴミたちの姿に、誰もが目を細め、笑い、唸り、賭け金の束を握り締めていた。
     やがて、進行役の男がステージに上がった。
     五十前後、黒いスーツに身を包んだ、どこにでもいそうで、しかし妙に場慣れした雰囲気を持つ男。
     進行役、三枝さえぐさ早残倶ざんく。
     三枝はマイクを握り、軽く咳払いをして、
    「本日はお忙しい中、〈ダストシュート〉へご参加いただき、誠にありがとうございます。ただいま映っております映像は、ゴミ捨て場に設置された百二十台のカメラからの生中継でございます。この後、三十名の参加者ゴミが一斉に解き放たれ、戦いが始まります。賭けはすでに締め切り間近。お決めになっていない方は、お早めにお願いいたします」
     会場のざわめきが一段と大きくなる。
     あちこちで札束が動き、名前が飛び交い、緊張と興奮がまじった熱が立ちのぼる。
     そして、賭けが確定した瞬間、三枝が再びマイクを掲げた。
    「それでは、〈ダストシュート〉、開始いたします」
     その声と同時に、モニターの中で、三十人の参加者ゴミたちが一斉に動き出した。


    第十二話 開始

     劇場で、おれは何人かに運ばれ、車とおぼしき乗り物にのせられた。
     一時間。
     二時間。
     もっとだろうか。
     車が止まり、外へ出されてまた運ばれた。
     突然、おれはどこかにおろされた。
     何人かの足音が遠ざかっていく。
     黒い作業服つなぎを着た一人の男が、おれの両手両足からワイヤーを外し、両耳を塞いでいた耳栓と、両目を覆っていた黒いバンドを取った。
     黒いバンドは分厚く、何も見えなかった。
     だから、外された後になって、おれは、そこにいるのが作業服の男だと知った。
     作業服の男はおれから取り外した物をズボンのポケットにねじ込んで背を向けた。
    「あ、あの……。もう始まってます?」
     おれの声を作業服の男は無視して、ドアの無い出入口から出て行った。
     今の男が、清掃員だと思う。
     おれは今、〈ダストシュート〉のゴミ捨て場にいるのだ。
     学校の教室くらいの広さがある部屋だった。
     天井の蛍光灯が部屋全体を照らしていた。
     窓のガラスは全部割れていた。
     今が何時かわからないが、日が沈んでいて、外は真っ暗だった。
     窓枠をずらし、外に顔を出す。
     ここは二階だった。
     蔦に覆われた壁面を目で辿る。
     壁から突き出した無数のパイプが、曲がりくねって隣の建屋のほうへと伸びている。
     丸みのある筒型の塔が見えた。
     あれは、煙突だろうか。だとしたらかなり大きい。高さが百メートル以上はあるだろう。
     建物のところどころから明かりが漏れている。
     参加者が戦いやすいよう、〈ダストシュート〉の主催者が電気を通してくれたのだろうか。
     下を見る。
     天井のところどころに穴が開いた建屋と、草木と絡み合うように捨て置かれた鉄骨がある。
     周囲は森だった。
     月光の下で木々が風で静かに揺れている。
     顔を引っ込め、おれは息を吐いた。
     やることは決まっている。
     父さんの仇討ち。
     できなかったら、父さんを殺した者に関係する情報を手に入れる。
     手ぶらでは帰りたくない。
     じゃあ、どうする?
     おれと同じように、〈ダストシュート〉に参加した人たちと話をする。
     決まりだ。
     おれは動いた。
     ドアの無い出入口が一つ。そこから出る。
     一定間隔で天井に取り付けられた蛍光灯が廊下を照らしていた。
     少し歩くと、すぐ傍の階段の方から物音がきこえた。
     一階に誰かいるのかもしれない。
     おれは足音を立てずに階段を下りた。
     踊り場でいったん立ち止まって、一階の廊下を覗き込んだ。
     カタ、カタ、と何かが揺れるような音がきこえた。
     人だったら話しかける。
     だがもし、相手が話の通じない人だった場合、そのときはやるしかない。
     とはいえ、鳥などの小動物の可能性もある。
     隣は森だから、人のいない廃墟を巣にしていても不思議ではない。
     おれは一階に下り、音のする部屋に入った。
     中は暗かった。
     それに、狭い。
     窓がなく、大型のロッカーが三台、壁を背に並んでいる。
     掃除用具の類が乱雑に立てかけられている、五畳ほどの物置のような部屋だ。
     蛍光灯がなく、代わりに豆電球が一つぶら下がっているが、割れていて、埃で汚れていた。
     入口横の壁にあったスイッチを押しても、豆電球は光らなかった。
     正面にあるロッカーの中から物音がきこえた。
     おれはそろりと近づいて、取っ手の窪みに右手を入れ、つかんで引っ張った。
     中に、男が一人、入っていた。
     両腕で膝を抱え、ガタガタと震えていた。


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    第十三話 イカレた中年

     アメリカ中西部の片隅。
     薄汚れたモーテルの一室で、ひとりの男が毛布にくるまってベッドの上で震えていた。
     男の耳元では、絶えず銃声が鳴り響いていた。
     仲間の悲鳴もきこえる。
     それから、爆音も。
     回転翼の大鳥が空を飛んでいる音もきこえる。
     大地が揺れていた。
     男は走った。
     ねばついた雨のにおいがする。
     髪からは悪臭がした。
     狐のように、男は草木に覆われたジャングルを進んだ。
     獲物を見つけて飛びかかった。
     木の枝を頸動脈に突き刺し、傷口に指をねじ込んで引き千切った。
     動かなくなった獲物を放置し、また走った。
     銃声がして、肩に激痛が走った。
    「あッ、あぁあああああああああああッ!」
     叫び、男は暴れた。
     何かが身体にまとわりついている。
     軽い。
     柔らかい。
     これは、毛布か?
     毛布だ。
     毛布だった。
     男は安堵し、大きく息を吐いた。
     ここはモーテルの一室。
     地獄ではない。
     地獄のような夢を見ていただけだ。
     男は枕元にあった酒瓶を手に取り、残りを一気に飲み干した。
     心臓がまだ激しく動いている。
     枕の下から潰れた煙草の紙パックを引っ張り出し、一本くわえて火をつける。
     一本灰にして、立て続けに二本、三本と灰にする。
     灰皿から溢れた吸殻が床に落ちた。
     テーブルの上にある錠剤瓶をつかみ、中に入っている錠剤をジャラジャラと掌にぶちまける。
     それを全部、口に放り込み、床上に転がる無数の酒瓶から中身がまだ残っているものを探して蓋を開け、口に流し込む。
     薬とアルコールの最悪の組み合わせ。最低な味が口いっぱいに広がった。
     吐き気がして、酒瓶を蹴飛ばしながらトイレへ駆け込み、胃の中のものを便器に盛大にぶちまけた。
    「ゲホッ、ゴホッ……!」
     男はゆっくりと顔を上げた。
     鏡に映る中年と目が合った。
     ボサボサの黒髪に、血色の悪い顔。
     クマがくっきりついた、くぼんだ両目。
     顎と頬には砂粒みたいな無精髭。
     全身、いたるところに残る、弾痕と切り傷。
     コンコン、と誰かがドアをノックした。
    「だ、誰だッ!?」
     男は玄関に向かって叫んだ。
    「朝早くからすみません。私、コースケ・サイトーという者です」
     ききなれない名前。
     いや、名前などどうでもいい。
     ドアの向こう側にいる奴が誰であろうと、返事は決まっている。
    「うるさかったのなら、謝る……。悪いが、俺のことは放っておいてくれ……」
     ガチャ。
     ドアが開いた。
     コースケが勝手に部屋に入ってきたのだ。
    「……放っておいてくれ、と言ったはずだが?」
    「どうしても、あなたと話がしたくてつい」
     男は振り返ってコースケと向き合った。
     スーツを着た小太りの中年だった。
    「俺に、なんの用だ……?」
    「近々、日本で特別なゲームが行われるのですが、あなたに是非、そのゲームに出場してもらいたい」
    「どうして俺なんだ?」
    「元アメリカ陸軍特殊部隊、グリーンベレーとして東南アジアの密林を駆け抜けた、あなたのような強い男でなければ生き残れないゲームだからです」
    「……もう違う」
     男は俯き、頭を振った。
    「俺はもう、戦えない……」
    「いいえ。戦えます」
    「お前に俺の何がわかる……?」
    「あなたに足りないのは刺激です。酒と薬でかろうじて自分を保つ、廃人のような生活はあなたには似合わない。過去から逃げ続けた男が、再び戦いの渦へと足を踏み入れる。それが地獄の入口だと知りながらも、あなたは突き進む。それが本当のあなたです」
    「……いや。ここにいるのは、ただの、廃人だ……」
    「しかし、それを続けるために必要なものがあるでしょう?」
     男の目が、コースケに向いた。
    「お金です。ゲームに勝てば、人生を一からやり直せるほどの大金が手に入りますよ」
    「人生を、一から……?」
     男の手が、小刻みに揺れた。
    「悪夢も、消えるのか……? ゲームで勝てば、俺は変われるのか……?」
     コースケはベロリと舌を出し、唇を舐めた。
    「あなたは生まれ変わる。そのために、あなたは再び戦場に立つ。〈ゲリラの尖兵〉と呼ばれたあなたの、最後の戦いです」
     男は、静かに答えた。
    「……悪夢を終わらせる。俺自身の手で……」


     今、男は〈ダストシュート〉スタート地点の個室の、ロッカーの中で震えていた。
     ここには煙草が無い。開始数分で吸い尽くしてしまった。
     薬も、代わりの酒も無い。参加前に、全部、飲んでしまったからだ。
     そして、最悪なことに、また発・作・がきた。
     仲間の悲鳴がきこえる。
     次は俺の番だ。
     俺が殺される番だ。
     ロッカーという名のシェルターから出られず、男はただ震えていた。
     ギギ、と金属が軋む音がした。
     顔を上げて、男はギョッとした。
     こちらを見下ろす一人の少年と、目が合ったからだ。


    第十四話 獲物

     おれは無意識のうちに数歩下がっていた。
     ロッカーの中で体育座りをしている男が一瞬だけ向けた目。その目が怖かったからだ。
     これまで、父さんの立ち合いを何度も見てきた。
     命の奪い合いを制した猛者たちの目を何度も見た。
     戦いに命を懸ける者たちは、生き生きとした表情で、父さんと対峙していた。
     狂喜と狂気がまざりあった、恐ろしい目をしていた。
     だが、この男の目は、それとはまったくの別物だった。
     命懸けで戦って、勝って、また戦って……。
     呼吸をするように何度も何度も人を殺し、殺して殺して殺しまくって、殺すことに疲れてしまった人間の目に見えた。
     ……妄想だ。勝手に、そう見えただけ。
     生まれて初めて見た目に怯え、過剰妄想してしまっただけかもしれない。
     改めて見ると、この人の目はとても悲しげだ。
     父さんを失った日の、泣いている母さんと同じ目をしている。
    「あ、あの……。大丈夫ですか?」
     男は何も答えない。
     外国の人だと思う。日本語が通じていないのだろうか。
    「えーっと……。テツロー・サトーです」
     片言の英語で挨拶してみる。
     男の目が、また、おれの方に向いた。
    「……ジーンだ。ジーン・マンボー……」
     ジーン。確かにそうきこえた。
     それがこの男の名前なのだろうか。
    「ジーン、さん? えっと、その……」
     具合が悪そうですが大丈夫ですか。
     そう伝えたいが、うまく喋れない。
     英語って難しい。
    「あんた」
     口ごもるおれに、ジーンさんは吐きそうな声で、
    「参加者、なのか……? いや、なんだっていい。すまないが、俺に酒か煙草をくれないか……?」
    「えっ?」
     何を言っているのか全然わからない。
    「く、苦しいんですか?」
     ジーンさんはゆっくりと立ち上がった。
     ロッカーがガタガタと揺れた。
     ジーンさんの身体が左右に揺れていて、ぶつかって音が鳴っているのだ。
     今にも倒れそうだった。
     おれはジーンさんの身体を両手でささえた。
    「だ、大丈夫ですか!?」
    「うぅ……。す、すまない……」
     呼吸が荒く、身体がふにゃふにゃとしていて力がない。
     ジーンさんは、きっと、何かの手違いで〈ダストシュート〉に参加してしまったのだ。
     このままここに放置したら、血の気の多い参加者の餌食となってしまう。
    「そのまま、つかまっていてください!」
     おれはジーンさんをささえながら、物置のような部屋から出た。
     なんとかして、ジーンさんを棄権させたい。
     棄権する場合は、電話ボックス内にある固定電話を使って、清掃員に棄権の意思を伝える必要がある。
    「どこかに電話ボックスはないか……」
     引きずるようにジーンさんを運びながら、おれは建物内を進んだ。
     開いている部屋を片っ端から覗いていく。
     ギギギ、と錆びた鉄のドアを開く。電話ボックスとおぼしき物は無い。
     ガラリ、と引き戸を開ける。ここにも無い。
    「!?」
     無いけど、人がいた。
     四トンダンプが丸々収まる広さの部屋に、たった一人で。
     鉄屑や錆びた歯車、工具、配管などが床のあちこちに捨て置かれている、ゴミ捨て場のような部屋の奥。窓の前に立っている。
     黒いジャケットを着て、下には薄緑色の荒い生地のズボン。
     黒くて厚みのある、ミリタリーブーツを穿いている。
     肩まで伸ばした黒髪を、ゴムで一つに束ねている。
     身長はおれと同じくらい。
     きゅっと引き締まった尻を突き出し、窓枠に両腕をのせて外を眺めている。
     こちらに背を向けているが、身体の特徴から女だとわかった。
    「ん?」
     女が振り返った。
     そして、おれと目が合った瞬間、
    「おー! 獲物が二人、見つけたよ!」
     おれとジーンさんを指差し、ニッと笑った。
     若い女だった。
     といっても、おれよりは年上だ。
     二十代後半か、そのくらい。
     日に焼けたような肌色の、気の強そうな女だった。

    画像


     そして今、女はこう言った。
     獲物が二人。
     確かに、そう言った。
     その言葉だけでおれは確信した。
     この女は、自らの意志で〈ダストシュート〉に参加したプレイヤーだ。
    「ジーンさん。逃げてください」
     耳元で囁き、おれはジーンさんの身体から手を離した。
     ペタン、と尻もちをついたジーンさんを背に隠すように前へ出て、おれは女と向かい合った。
    「おー、あなた逃がさないオッサン逃がさない。ワタシ優勝するダカラ、あなたたち二人ここでブチ殺す」
     女は片言の日本語で物騒なことを口にした。
    「やるってことでいいんですね?」
     念のため、おれは確認する。
     本気だったら、こっちも本気で相手をする。
    「やる? そう!」
     女は嬉しそうに言った。
    「これからあなた殺やるから、あなたそこで大人しくする。いい?」
    「……わかりました」
     本気だ。
     おれは心のスイッチを切り替えた。
     ここからは、武術家としてこの女の相手をする。
    「佐藤哲郎です」
     名乗った。
     戦国時代の武将のように。
     あなたと一対一で戦う、という意思表示だ。
    「サワタリ・アリア」
     相手も名乗ってくれた。
     意外と礼儀正しい人なのかもしれない。
    「……で? あなた名前言うなんの意味ある?」
     やっぱり違うかも。
     名乗りは、ただおれの真似をしただけだったみたいだ。
    「あなたわけわからないこと言ってワタシ困らせ隙作る気か?」
     アリアさんはおれを睨みながらゆっくりと腰を落とし、床に落ちていた工具を拾った。
     右手に三十センチほどの長さのモンキーレンチ。
     左手にモンキーレンチと同じ長さのメガネレンチ。
     右手をやや前に、モンキーレンチのアゴをおれに向け、メガネレンチをやや引き気味に胸前に固定し、構えた。
     ……二刀流か?
     刃物が無いから、代わりに工具を使うことにしたのだろうか。
     おれの方は、何もしない。
     自然体こそが〈奪落刃〉の構え。
     いつも通りだ。
     相手が誰であれ、父さんとの稽古で身につけた技を、実戦で使うだけだ。
    「おいガキ」
     アリアさんは構えを維持したまま、
    「何も言わない。無視する頭にくるよ」
     おれはアリアさんの出方を窺っていた。
     アリアさんの格闘スタイルを見極めるために……。ちょっと汚い手だが、おれはアリアさんを挑発することにした。
    「自分から喧嘩を吹っかけてきたくせに、そっちからは手を出さないんですね」
    「あ?」
    「口ばっかり動かしていないで、手や足も動かしてくださいよ」
    「……ああ、そう。お前、生意気よ」
     アリアさんが動いた。


    第十五話 殺戮者

     海から甘いにおいがする。
     焦げたような、砂糖のにおい。
     そのにおいを上書きするように、山の方から火薬のにおいが流れ込む。
     ここはフィリピン中部ビサヤ地方、タッカー村。
     その村の外れで、一人の老人がヤシの葉を束ねながら呟いた。
    「昨夜も山のほうで銃声がしたな……」
     老人……。村長の声に、傍でヤシの葉を編んでいた村人たちは頷いた。
     この村に、銃声の出所を確かめようとする者はいない。
     だが、遅かれ早かれ、現物を見る日がくるだろう。
     民間人を巻き込んだ新人民軍と政府軍の戦争は、数年前から終わることなく続いている。
     戦地は日に日に拡大していた。
     数十キロ先の村は、政府軍の拠点と化していた。
    「この村だけはやめてくれ……」
     いつ戦場になるかわからない。
     村人たちは怯え、中には移住を考える者もいる。
     パァン!
     山の向こうから乾いた破裂音がきこえた。
     村人たちは、みんな揃って顔をしかめていた。
     だが、ただ一人、村長の隣でヤシの葉を編んでいた二十歳の女……。アリアだけは違っていた。
    「毎日毎日パンパンパンパン……。うるさいから黙らせてくる」
     それだけ言うと、アリアはヤシの葉を捨て、立ち上がって歩き出した。
     誰もが慌てて呼び止めたが、アリアは振り返らなかった。
     村人たちはアリアの帰りを震えて待った。
     そして、翌日の朝。
     アリアは血のにおいを纏って戻ってきた。
     服は破れ、頭から爪先まで血でぐっしょりと濡れ、腕にはたくさんの擦り傷がついていた。
    「静かになったよ」
     村人たちは誰も口を開けなかった。
     アリアが何をしたのか。
     本人の口からではなく、流れてきた噂で知った。
     政府軍の拠点にいた二十人の兵士全員が、ふらりと現れた殺戮者によって、皆殺しにされたらしい。


     政府軍の軍人だったアリアの父親は、娘に生き残るための技を教え込んだ。
     銃声のきこえる村で育つには、それが必要だと信じていたからだ。
     アリアが十五歳のとき、父親が戦場で死んだ。
     涙を流しながら伝えた村長に、アリアはこう言った。
    「そうなんだ」
     それだけだった。
     悲しみも怒りもない。
     まるで、雨が降ったかどうかをきいたときのような、軽い声だった。
    「……あの子には、アリアには心が無い」
     村長は震える手で煙草に火をつけた。
     アリアがやったことは政府軍への反逆行為。
     知られたら命はない。
     だから守る。
     村の大事な仲間を守るため。自分にそう言いきかせながら、村長は古い知り合いに連絡を取った。
    「日本へ送る。しばらく、ここから離しておく」
     アリアのため。
     だが、本心は違った。
     村長はアリアを恐れたのだ。
     彼女の内に潜む、底無しの狂気を恐れたのだ。
     日本へ向かう船に乗る前、アリアは村長に言った。
    「退屈になったら戻ってきてもいい?」
     村長は笑顔を作・っ・た・。
    「もちろんだとも。おまえは村の子だ」
     アリアは小さく頷いた。
     その目には、何の感情も浮かんでいなかった。
     まるで、自分が二十人を殺したという事実すら、記憶の片隅に置いていないかのように……。


    第十六話 〈奪落刃〉VS〈殺戮刃〉その①

     アリアさんはジリジリと前に出る。
     右手のモンキーレンチと左手のメガネレンチが、上下に、左右に、威嚇するように揺れていた。
     ……どっちで、何をする気だ?
     殴るか。
     投げるか。
     おれが得物に気を取られている隙に、いきなり蹴ってくるかもしれない。
     目を逸らさずに、全体を見る。
     重心は少し前。
     両足は両手よりも若干後ろ。
     右手がわずかに高く、左手よりも力が入っている。
     何かするなら、右が先か。
    「……っ!」
     モンキーレンチが上がった。
     アリアさんが右手を振り上げたのだ。
     予想通り、右が先だ。
     角度から察するに、モンキーレンチを縦に振り下ろしておれの頭部を殴る気だろう。
     頭蓋骨の硬さには自信がある。モンキーレンチで殴られても割れはしない。
     だが、皮膚が裂けて出血するのはマズい。
     流れ出た血が目に入って、一瞬でも目を閉じた隙に攻撃を受けてしまうからだ。
     ここは回避が正解。
     おれは頭部を引き、モンキーレンチの振り落としを鼻先ギリギリで避けようとした。
    「がッ!?」
     いきなり、ガツンと衝撃がきた。
     アリアさんの拳が、おれの左頬にぶつかったのだ。
     モンキーレンチを握ったまま、右の拳で殴ってきたのだ。
     おれの頭部目がけて振り下ろす、と見せかけて、アリアさんはおれが避けようとするタイミングに合わせて一気に接近し、殴った。
     変わっている。
     ハッキリ言って変だ。
     モンキーレンチを当てる方が確実にダメージが大きいのに、あえて拳で殴る。
     鉄の重みがある分、素手のみで殴るより威力は高いが、その行為自体が変。
     次がきた。
     今度はさっきよりも高くモンキーレンチを振り上げている。
     そのまま殴るか、また拳で殴るか。
     わからない。
     だったら、その前に止めてやる。
    「シャイッ!」
     おれは左手の人差し指と中指を伸ばし、アリアさんの右手首を狙った。
     だが、指先が右手首に当たる前に、おれの左手首にバチィとメガネレンチが叩きつけられた。
     手首が痺れ、左手から感覚が消えた。
     こっちがやりたかったことを先にやられてしまった。
     クソッ、と吐き、左手から視線を逸らす。
     右目の数ミリ前に、モンキーレンチのアゴがあった。
    「うおッ!?」
     咄嗟に頭を左に倒す。
     モンキーレンチのアゴがおれの右頬を掠めた。
     高く振り上げていたから、そのまま頭部を狙うのかと思いきや、おれが左手に気を取られている隙に目潰しに変更した。
     アリアさんが左手を反した。
     そして、振った。
     メガネレンチの横殴りだ。
     狙いはどこだ?
     角度的に首か?
     なら、左に避けて……。
     ダメだ。
     アリアさんがタイミングをずらしてモンキーレンチを縦に振り上げた。
     右に移動した瞬間に、丁度モンキーレンチのアゴがおれの身体のどこかに命中する。
     じゃあ、受けるか?
     右か左の腕で受けて、反撃するか?
     さっきみたいに、直前で狙いを変えるかもしれないぞ。
     首だと思ったら脇。それで肋骨を砕かれるかもしれない。
     脇だと思ったら首。頸動脈や椎骨動脈を損傷し、最悪、一撃死もありえる。
     受けずに、避けた方がいい。
     バックステップ。
     おれの両足が同時に浮いた。
     その瞬間、アリアさんはメガネレンチで、おれの右足の脛をバチンッと叩いた。
    「痛いッ!?」
     喰らった。
     全然、避けられない。
     どうなっているんだ、この人の攻撃は。
     首を狙って振るわれたメガネレンチが、いきなり角度を変えて脛に当たるなんて……。
     しかも、丁度おれが下がろうとしたタイミングに合わせて、しっかり当ててくるなんて……。
     この人の反応速度、尋常じゃない。
     おれは着地してすぐ、よろけた。
     右足の脛が痺れて、まともに力が入らない。
     左足でふんばって、体勢を立て直そうとしたら……。
     ゴッ、と鈍い音が鳴った。
     視界がぐにゃりと歪んだ。
     モンキーレンチが、頭部ではなく、おれの顎にぶつかったからだ。
     それで脳が激しく揺れたのだ。
    「がッ……!」
     なんだよ、これは。
     いつの間に、角度が変わった?
     縦に振り下ろしたモンキーレンチが、いつの間にか横から飛んできたぞ。
    「終わりよ。死ね」
     ゴシャッ!
     モンキーレンチが、今度はしっかりと、おれの脳天に直撃した。


    第十七話 〈奪落刃〉VS〈殺戮刃〉その②

     頭が痛い。
     脳が揺れてくらくらする。
     このまま倒れて、終わりか。
     何もできずにあっさりと……。
     父さんを殺した奴をぶっ飛ばす前に?
     もう終わるのか?
     ……ダメだろ。
     なんのためにここにきた?
     なんのために白樺さんに稽古をつけてもらった?
     勝つためだろ。
     誰にも負けないためだろうが。
     やることやって、家に帰って、母さんに笑顔で「ただいま」って言うためだろうが。
     そうだろ?
     お前に言ってるんだぞ、佐藤哲郎。
     わかったなら、さっさと反撃しろ。
     ドンッ、と。
     おれは左足だけで床を強く蹴った。
     アリアさんの懐に飛び込み、
    「フンッ!」
     アリアさんの右の膝蹴りをモロに、顔面に喰らった。
     痛い。
     いや、痛くない。
     全然きかない。
     元気いっぱいだ、コノヤロー。
     アリアさんに向かって倒れながら、おれは両手を伸ばし、
    「〈奪落刃〉、血落地蔵けつらくじぞうッ!」
     指先で、アリアさんの両足を素早く、強く突いた。
     アリアさんの両足が膝からガクンと曲がった。
     崩れ落ち、尻もちをついた。
    「な、なななッ!?」
     アリアさんは目を見開き、覆いかぶさるようにして倒れたおれを両腕で押し退けた。
     両拳で床を殴るようにして、尻を床に擦りつけながら慌てた様子でおれから離れた。
    「こ、このガキッ! 何をした!?」
     血落地蔵。
     相手の足の大腿前面(陽明胃経ようめいいけい)と内腿(太陰脾経たいんひけい)の経路に強い衝撃を与えて麻痺させ、一時的に立ち上がれなくする技だ。
     アリアさんに、教えてやる気はない。
     おれはゆっくりと立ち上がって、アリアさんを見下ろした。
    「その足ではさっきみたいな機敏な動きはできま」
    「うるさいよッ!」
     ガンッ!
     アリアさんが投げたモンキーレンチがおれの額に命中した。
    「いてッ」
     軽く頭を振る。
     垂れてきた鼻血を手の甲で拭って、
    「機敏な動きはできません。あなたはもう終わ」
     スコーン!
     アリアさんが投げたメガネレンチがおれの額に命中した。
     おれは右手で額をさすり、
    「喋らせてくださいよ!」
    「うるさい黙れッ!」
     アリアさんはその辺にあるものを片っ端から手でつかんでおれに投げた。
     錆びたネジだのボルトだのが石礫の如く飛んでくる。
     それらを手で払いながら、おれはアリアさんに近づいた。
    「くるなッ、変態ッ!」
    「変態じゃないですよ……」
     ほふく前進で逃げるアリアさんを、おれは壁際まで追い詰めた。
     壁を背にして、アリアさんはおれを見上げた。
     そして、キョトンとする。
    「……どうして、トドメを刺さない?」
     おれはドキリとした。
     殺す気がない、ということをアリアさんに知られてしまったかもしれない。
    「もしかして、できない? お前、殺せないのか?」
     アリアさんの口元がクニャッと曲がった。
     嫌な笑みだ。
     完全に、わかってしまった顔だ。
    「は、あはは……! あなた腰抜けダカラ、ワタシに勝つの無理よ!」
    「…………」
     どうしようか。
    〈ダストシュート〉における敗北とは、死ぬことなのか。
     相手を殺さないと、勝ったことにならないのか。
     だとしたらおれは、一勝もできない。
     相手が殺し屋だろうが殺人鬼だろうが、おれは殺さない。
     父さんを殺した奴を、二度と立ち上がれないほど叩き潰してやりたいと思うが、命まで奪う気はない。
    「アリアさん。一つ、教えてください」
    「あ?」
    「あなたは、佐藤鉄心を殺しましたか?」
    「……誰のこと言ってる?」
     アリアさんはおれの仇じゃない。
     なら、もういいじゃないか。
     アリアさんはしばらく立ち上がれない。
     今のうちにここを離れよう。


    第十八話 〈奪落刃〉VS〈殺戮刃〉その③

     おれはアリアさんに背を向けた。
     ジーンさんは、いない。
     いつの間に?
     おれが、逃げろと言った後すぐ、出て行ったのだろうか。
     近くにいればいいが、いなかったら、探した方がいい。
     あの人、具合悪そうだったし、助けてあげないと……。
    「敵に背を向けるバカよッ!」
     アリアさんが叫んだ、と同時に、おれの背中がズシリと重くなった。
     アリアさんが音をたてずに這っておれに接近し、背中を這いのぼったのだ。
     そして、おれの首に何かを巻きつけた。
     両手で触れる。
     隙間がないほどミッチリと首に食い込んでいる。
     細くて手触りのいい……。これは、ゴムだ。
     アリアさんは髪をまとめるのに使っていたヘアゴムを切って一本にし、それをおれの首に巻きつけて両手で引っ張っているのだ。 
    「ぐ、ぐぐッ……!」
     最悪だ。
     完全に油断した。
     苦しい。
     息ができない。
     おれは身をよじって、アリアさんを振り落とそうとした。
     アリアさんの身体が激しく揺れて、締まりが強くなった。
     逆効果だ。このままでは……。
    「落ちろ、クソガキッ!」
    「ぐうッ……」
     落とされて、たまるかよ。
     おれは右手を後ろに振り、アリアさんの腹部の右上部分を強くつかみ、グリグリと指をねじ込ませた。
     ……〈奪落刃〉、蛇牙裏口じゃがりこう!
     ガハァ、とアリアさんが激しく咳き込んだ。
     ヘアゴムを握る両手から力が抜け、身体をくの字に曲げて床に倒れた。
     蛇牙裏口。
     肋骨の下にある期門きもん(経穴)に、蛇のように指を潜り込ませて肝臓に激痛を与える技だ。
     この技の怖いところは、指が離れた後もしばらく痛みが続くこと。
     人によっては、あまりの苦しさに、呼吸困難に陥ることもある。
     首に巻きついたヘアゴムを払い、おれは深呼吸した。
     アリアさんを見る。
     両手で腹部を押さえ、苦しそうに喘いでいる。
    「まだ、やりますか……?」
     蛇牙裏口は、力加減を誤れば相手を激痛でショック死させてしまう恐れがある技だ。
     加減したとはいえ、アリアさんが受けているのは、おれでものたうち回るほどの痛みだ。
     戦意を喪失したなら、今度こそ終わりだ。
     負けを認めて棄権するか、おれの前からいなくなってほしい。
    「こ、このガキィ……!」
     口から涎を垂らしながら、アリアさんは鬼のような形相を向けてきた。
     ……おい。嘘だろ。
     この人はまだ、折れないのか。
     本当に、死ぬまで戦う気なのか。
    「お前、絶対に、許さない……!」
     アリアさんは立ち上がった。
     おれがもたもたしていたせいで、アリアさんの両足から痺れが消えてしまったのだ。
     アリアさんはおれを睨みながら部屋の端に寄り、そこに山積みになっていた鉄屑の中から両手で何かを引っ張り出した。
     左手に持っているのは、長さ約五十センチの、錆びて先端が尖った鉄パイプだった。
     右手に持っているのは……。あれは、鎖か? 先端に鉄のフックがついている。尻から先端までの長さは、一・五メートルはありそうだ。
     アリアさんは鉄パイプを左脇下に挟んで、左手で先端より数センチ下を握って固定した。
     右手で、ブン、ブン、と鎖を回す。
     縦に、円を描くように、鉄のフックが回転していた。
    「くたばれクソガキッ!」
     アリアさんは右腕を大きく振った。
     鉄のフックがおれの顔に向かって伸びてきた。
     右に跳んで避ける。
     鉄のフックが壁に当たって、ガシャンと床に落ちた。
     アリアさんは右手から鎖を捨てた。
     両手で鉄パイプを握って、おれに尖った先端を向け、竹槍兵の如く突っ込んできた。
     先端が腹部に当たる寸前に、
    「シャイッ!」
     おれは右の掌底で鉄パイプの先端を払い、左の指先に力を込めた。
    「〈奪落刃〉……」
     技を繰り出す。……前に、アリアさんが逃げた。
     鉄パイプを捨て、離れた。
     そしてすぐ、素早いフットワークでおれの右サイドに回り込んだ。
     その両手には、いつの間にか、錆びたペンチとニッパーが握り込まれていた。
     右手にペンチ。
     左手にニッパー。
     移動中に床から拾い上げたのだろう。
     メリケンサックみたいに、それらを握り込んだ拳で殴りかかってきた。
    「シャイシャイッ!」
     右のフック、左のストレートパンチを左右の掌底でもって払う。
     アリアさんは追撃せず、両手からペンチとニッパーを捨てた。
     おれの目線の高さ、宙にペンチとニッパーが浮いている。
     無意識のうちに、おれはそれらを目で追ってしまった。
     瞬間、アリアさんの右足のサイドキックがおれの右脇腹に直撃した。
    「ゴハッ!」
     肝臓レバーに入った。
     痛いぞ、クソッ。
     右腕で右脇をかばいながら距離を取ろうとするおれを、アリアさんはねちっこく追ってくる。
     ジャラリ、と鎖が鳴った。
     アリアさんがおれを追いながら、左手でさっき捨てた鎖を拾ったのだ。
     今度はそれを右手に巻いて、殴りかかってきた。
     大ぶりの鉄槌。
     頭を引いて避ける。
     直後、遅れて飛んできた鎖の先についている鉄のフックがおれの頭部にぶつかった。
     ハンマーで殴られたような衝撃だったが、おれは耐えた。
     耐えて、両手の指先を伸ばし、尖らせた。
    「〈奪落刃〉……!」
     反撃する。
     その前に、アリアさんが逃げた。
     また逃げた。
     技を当てる隙が無い。
     見切られたのか?
     おれの行動パターンを学習されてしまったのか?
     きっとそう。
     だから攻め方が変わった。
     アリアさんはおれの技を警戒し、一撃離脱戦法ヒットアンドアウェイに切り替えたのだ。
    「ガキ、おかしな技を使うね……」
     おれから三メートルほど離れたところで、アリアさんは苦し気に呟いた。
     右手で鎖を、縦に、円を描くように回転させながら呼吸を整えている。
     ……この人、強い。
     肝臓の痛みで立っているのもやっとのはずなのに、集中力が途切れない。
     精神が強い。
     おれを殺すまで止まらない、殺人マシンだ。
     本当に、恐ろしい人だ。
     そして、もう一つ。
     アリアさんの恐ろしいところは、手にしたものをなんでも武器として使えてしまうことだ。
     何を持って、構えても、不思議なことにぎこちなさを感じない。
     何年、何十年と使い込んで、手に馴染んだ武器を持っているかのように、綺麗なフォームで扱っている。
     同じことをしろと言われても、おれには無理だ。
     即興武器術の天才でなければ、不可能な芸当だ。


    第十九話 〈奪落刃〉VS〈殺戮刃〉その④

     エスクリマ。
     それは、フィリピン中部で発展した武器主体の実戦武術。
     特筆すべきは、実戦に特化した武術体系だ。
     たまたま持っていた傘や杖、身につけていたアクセサリー類、その辺に落ちている石ころなど、手にしたものをなんでも即興で武器とし、攻撃、防御が可能。
     また、武器(となる物)を手にした徒手格闘の技もあり、たとえば、武器を持ったまま殴る、打つ、捌く、など選択肢が多い。
     だからこそ、使う者には相当の腕前と、その場その場で得物を使い分ける選択力センスが必要だった。
     そして、彼女は、全・部・持っていた。
     エスクリマを実戦で使い、技を繰り出し、躊躇いなく人を殺す。
    〈殺戮刃さつりくじん〉沢渡さわたりアリアは、間違いなく、天才の部類に入る武術家だろう。


     頭部から額をつたって流れてきた血を、おれは右手の甲でぐいっと拭った。
     アリアさんの呼吸が静かになった。
     おれの蛇牙裏口の、継続ダメージが終わったのだ。
     目は据わっており、冷静に、おれの動きを観察している。
     血が止まらない。
     おれは何度も腕を額に擦りつけ、頭部から垂れてくる血を拭った。
     戦いが長引けば長引くほど身体から血液が減り、そのうち、貧血でフラフラになる。
     アリアさんはもう、無理に攻める必要がないのだ。
     攻撃を当てられるときだけ当てて、すぐ距離を取る。
     おれが弱るまで、ずっとそうする気だ。
     ……やるしかない、のか?
     このままだと、おれはアリアさんになぶり殺しにされてしまうかもしれない。
     だから、その前にやる。
     殺やる。
     手加減せず、アリアさんに〈奪落刃〉の技を当てて殺す。
     そうすればもう、おれは、二度とアリアさんに命を狙われることはない。
    「…………」
     ダメだ。
     ダメに決まっている。
     武……。武道だ。
     絶対に、武の道を見失うな。
     刃を奪い、暴から剛を落とし、恐怖に震える弱者の想いを相手に理解させる武術。
     それが、父さんの武だろうが。
     おれは、ハッとなった。
     アリアさんが振り回した鎖が、おれの両足に飛んできていたのだ。
     絡め取って、転ばせる気だ。
     おれは跳んだ。
     アリアさんが走る。
     走りながら、鎖を巻いた右拳を振り上げた。
     そのままおれの顔面に叩きつけ……。いや、真の狙いは左だ!
     右拳を振り上げると同時に、左手でポケットから取り出したマイナスドライバー。
     そいつでおれの目や喉など、柔らかい部分を貫くのが狙いだ。
    「シャイッ!」
     おれは前に出て、アリアさんの左手を右手の指先で突き、神経に圧をかけて麻痺させた。
     アリアさんの左手が痺れ、マイナスドライバーが床にカランと落ちた。
     ゴォン、と重たい一撃が降ってきた。
     右拳の一撃を額に喰らったのだ。
     鎖がおれの皮膚を削り、血飛沫が舞った。
     これでいい。
     マイナスドライバーだったら、もっとひどいダメージを受けていた。
     右拳の打ち下ろしは、初めから喰らう気だった。
     おれは目をしっかりと開き、後ろへ跳んだアリアさんを追った。
    「お、お前ッ!?」
     まだ動けるのか、と言いたげに口を開けたアリアさんの、
    「シャイシャイシャイッ!」
     喉に、胸に、肩に、連続で両手の指を突き刺した。
     そして、まだだ。
     まだ終わらない。
     突き切るまで絶対に止めない。
     この技で、決めるんだ。
    「シャイシャイシャイシャイシャイシャイシャイシャイシャイシャイッ!」
     顔、腹、腕、脚……。アリアさんの全身を突きまくる。
    「シャイィイイイイッ!」
     最後の一突きを額に当てる。
     アリアさんは口を半開きにして、目を大きく開けて、カクーンと膝から崩れ落ちた。
    「〈奪落刃〉、奪力斬波だつりきざんぱッ!」
     奪力斬波。
     相手を高速で突き、全身を麻痺させ、身体の自由を完全に奪う技だ。
     力加減が難しく、加減を誤ると神経系を完全に破壊してしまう危険な技だった。
    「シャアァアアアアアッ!」
     膝立ちのまま動けないアリアさんの顔面に、おれは右の正拳突きを放った。
     それは鼻先ギリギリで、ピタリと止まった。
     おれの拳を凝視するアリアさんの両目が、ぐりんと裏返って白目になった。
     寸止め。
     だが、アリアさんはその瞬間、死を覚悟したのだろう。
     強烈な死の恐怖によって迷走神経が過剰に働き、結果、脳の保護反応によって失神したのだ。
    「これが、父さんの武だ」
     アリアさんの身体がゆらりと傾く。
     頭から落ちないよう、おれはアリアさんの肩を両手でささえ、ゆっくりと床に寝かせた。


    第二十話 お婆さん

     パチパチパチ、と拍手がきこえた。
     その音に驚き、おれは振り返った。
     部屋の隅に、いつの間にか一人のお婆さんが立っていた。
     雪のように白い肌。
     水気の無い、縮れた白い長髪。眉毛も白い。
     シワだらけの頬を緩ませ、シワだらけの手でパチパチ拍手している。
     身長はおれよりも小さい。百五十センチあるかないかだ。
     体重は四十キロくらい。片腕で持ち上げられそうなくらい細い。
     黒い功夫カンフー服を着ていた。
     襟をピンと立て、白い盤扣ばんこは一番上まできっちり留めている。

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    「精彩ジンツァイ精彩ジンツァイ!」
     お婆さんは愉快そうに言った。
    「この勝負、坊やの勝ちだ」
    「え?」
    「使いなさい」
     いきなり、お婆さんがおれに白いハンカチを投げた。
     おれはそれを右手でキャッチし、
    「あの、これ……」
    「ほれ、早く使いなさい。頭おつむから血が出ているだろ」
    「あ、ありがとうございます……」
     おれはハンカチを頭に当て、血を拭った。
     お婆さんは腕を組んで、
    「坊や。なかなかいい武器を持っているけど、簡単に背後を取られるようじゃあ、まだまだ青いね。今の戦いを忘れず、次も頑張りな」
    「……はい?」
     日本語で喋ったので、内容は理解できた。
     けど、なんでこの人が、いきなりこんなことを言うのか、そこまではわからない。
    「あの、あなたは……」
    「白バイ霜蓮シュアンリェン。坊やと同じ、〈ダストシュート〉の参加者だよ」
    「えっ、お婆さんが?」
     お婆さんはクスクス笑った。
    「あたしみたいなババアが参加するのはおかしいかい?」
    「い、いえ……」
    「大意不得ダイイーブーデー。油断は命取りだ。見た目で判断するのはよくないね。見た目が弱そうなババアでも、もしかしたら坊やよりも、坊やが倒した女よりも、何倍も強い化け物かもしれないよ」
    「そ、そんな……」
     冗談だろ。
     七十歳を超えていそうな、このお婆さんが化け物だって?
     危険なゲームに参加するくらいだから、弱いということはないのだろうけれども……。
     正直、このお婆さんより、アリアさんの方が強いと思う。
     アリアさんには、よく研がれたナイフみたいな鋭さがあった。
     このお婆さんには、それが無い。
     強者が纏うオーラのようなものが、一切、感じられないのだ。
     ガタ、と物音がした。
     おれたちがいる部屋に三人の作業服の男……。清掃員が、窓を飛び越えて入ってきた。
     二十代前半くらいの若い男たちだった。
     三人の清掃員は、ぐったりして動かないアリアさんを担ぎ上げ、無言で出て行った。
    「見なさい。負けた奴は、ああやって運ばれるんだ」
     お婆さんが言う。
    「主催者がもう戦えないと判断したら、そいつは闘技場の外へ運ばれ、二度と中に入ることができなくなる」
    「そうなんですか?」
    「ああ。どうしても入りたかったら、次の遊戯開催を待つしかないね」
     意識を失ったら負け扱い、か。
     ということは、おれの戦い方でも、優勝を狙える可能性があるってことか。
     そんな気はないけど、〈ダストシュート〉の勝ち負けの基準がはっきりしたのはいいことだ。
    「坊や。情報収集は大事だよ。戦う前にも、後にもね」
    「え?」
    「知己知彼ジージィジービー、百戰不殆バイジャンブーダイ。己を知り、敵を知れば、百戦危うからず。おぼえておきなさい」
    「は、はぁ……」
     なんだか子供扱いされている気がするけど、不思議と嫌な気はしない。
     穏やかで人当たりのいい、優しいお婆さんと話しているような気分だ。
    「ところで、坊やは人を探しているんだろう?」
    「人?」
     ジーンさんのことか。
     そういえばあの人、どこに行ってしまったのだろう。
    「その人なら、煙突の方へ向かったよ」
    「煙突?」
     それは、二階から見えた、丸みのある筒型の塔のことを言っているのだろうか。
    「あの男が気になるんだろう? 他の誰かに取られる前に急ぎな」
    「わ、わかりました……」
     おれは窓を開けて外に飛び出した。
    「坊や。気をつけるんだよ」
     部屋の中から、お婆さんがおれに手を振った。
    「次会ったときは、ババアの遊び相手になってくれると嬉しいね」
    「は、はぁ……。お婆さんも、気をつけてくださいね。あと、ハンカチありがとうございます。洗って返します」
     お婆さんに軽く手を振り、おれは走った。
     ジーンさんは大丈夫だろうか。
     どこかで倒れていないだろうか。
     運よく電話ボックスを見つけて、棄権できていればいいが……。


    第二十一話 〈アイアン・フィスト〉

     佐藤哲郎と沢渡アリアの戦闘が始まる、数分前……。
     スタート地点の廃油置き場で、一人の男が動いた。
     身長、百八十六センチ。
     体重、九十九キロ。
    〈アイアン・フィスト〉の異名を持つ元プロボクサー、ケビン・コナード。
     廃油置き場を出て、蔦が絡まったフェンスに沿ってケビンは歩いた。
     月明かりに照らされた道を、雑草を踏み潰しながら歩く。
     獲物を探していた。
    〈ダストシュート〉の、記念すべき一匹目の獲物を。
     見つけた後は、いつも通りだ。
     拳を当てる。
     顔でも腹でも、どこでもいい。
     ただ当てるだけで相手は倒れる。
     ヘヴィー級のパンチを喰らって、喰らい続けて、立っていた奴はこれまで一人もいなかった。
     ニューヨークの裏でやっていたことと同じことを、ここでやればいいだけだ。


     アメリカ。ニューヨークの裏路地には、光の届かないリングがあった。
     そこでは、表の世界からはじき出された男たちが、ただ勝つためだけに拳を振るっていた。
    「やれッ!」
    「ぶっ殺せッ!」
     ヤジが飛び交う金網のリング。
     その中央で拳を振るう二人の男。
     一人は、なんとかケンポーとかいうマニアックな武術を使う男。
     低身長で猿みたいに動き回る小男だ。
     そいつが動くたびに頭部からウィンナーみたいにぶらさがった黒いおさげがピョンピョン跳ねた。
    「ヒョオォオオオオオオオオオオオッ!」
     おさげの猿が跳んだ。
     対戦相手の男の顔面に鋭い足刀蹴りを放ったのだ。
     それは男の頬を掠めた。
     直後、すれ違うように放たれた拳が、猿の顔面を打ち抜いた。
     クロスカウンター。
     本来は拳と拳が交差する一撃。
     だが、ここはスタイルもウェイトも、細かいことは気にしない異種格闘技のリング。
     蹴りに対して拳を決めても、最後に立っていれば何も問題はない。
     コンクリートの床に後頭部から落ち、ピクピクしている猿の横で、男は右の拳を突き上げた。
    「勝者、ケビン・コナードッ!」
     レフェリーが勝者の名を叫ぶ。
     試合終了を告げるゴングが鳴り響いた。
    「お疲れ」
     レフェリーが差し出した札束をケビンは左手でむしり取った。
     リングから出て、ヤジどもを押しのけて薄暗い通路へと入った。
     徐々に、人の声が遠ざかっていく。
     ケビンは、ここでは負け知らずだった。
     勝って、金を貰ったら帰る。
     相手を金網の中で殴り倒して、給料を貰って帰る。
     この仕事を、ケビンは一年続けた。
     かつては将来を期待されたプロボクサーも、たった一年ですっかり裏に染まってしまった。
    「ケビン・コナード」
     誰かに名前を呼ばれて、ケビンは足を止めた。
     通路の壁に寄りかかっていた一人の男が、ゆっくりと壁から背を離し、ケビンを見た。
     中国人? 日本人?
     そのあたりの顔の男だった。
     歳はケビンよりも二十は上に見えた。
     黒いスーツ姿で、両手をズボンのポケットに突っ込み、微笑んでいた。
    「オレになんか用か?」
     ケビンは身構えた。
     前にも似たようなことがあったのだ。
     金網リングで殴り倒した奴の友達だか兄だか弟だかが待ち伏せして、ケビンに襲いかかってきたのだ。
     そのときは拳一発でのしてやったが、きっと今回も、そうなるだろう。
     男は軽く殴っただけで粉々になってしまいそうな細身なので、左のジャブ一発で終わるはず。
    「警戒しなくていい。私は君と戦う気はない」
     しゃがれた声で男は言う。
    「私の名はユースケ。君の試合を見させてもらったよ。闇に落ちても、君は弱るどころかむしろ、表で活躍していた頃より強くなっている」
     コツ、コツ、と靴音を響かせながらユースケはケビンに近づく。
    「なんの用だってきいてんだよ」
     もう一歩踏み込んできたら、その顔面を打ち抜く。
     ケビンは左の拳をわずかに上げた。
    「ケビン・コナード」
     ユースケはジャブのとどかないギリギリのところで立ち止まった。
    「ある夜、ゲームセンターで絡んできた若者たちを一瞬でねじ伏せた事件を境に、表舞台から姿を消した悲しきボクサー。今の君は、金のために戦うだけの影の格闘家だ」
     ケビンはパチパチと瞬きした。
     ユースケの言っていることが理解できないのだ。
     片言だからではなく、本質がわからないのだ。
    「ケビン。近々、日本で特別なゲームが行われる。君の得意な、相手を壊すゲームだ。そしてもし、君がそのゲームで優勝したら……」
     ユースケは一枚の封筒をポケットから取り出し、ケビンに投げた。
     ケビンはそれを取り、破って中に入っている一枚の紙切れを取り出した。
    「よく見たまえ。そこにはいくつの0ゼロがある?」
     紙切れに書いてあるのは優勝賞金の額、らしい。
     0ゼロの数をかぞえるケビンの目が、わずかに揺れた。
    「おい、これって……」
     ケビンはユースケの目を見つめた。
    「本気なのか? これだけの金を、あんたは本当に、用意できるのか?」
     ユースケは頷いた。
    「今の日本はバブル絶頂期。経済も文化も勢いに満ち、大金が湯水の如く流れている。スラムでジャンキーたちと小銭を奪い合うより、金持ちの投げた金をゴミ箱から拾うほうが利口だとは思わんかね?」
    「ゴミ箱?」
    「そう、ゴミ箱だ。君が望むなら、私が君をそこに投げ込もう。そして君は、そこに落ちている金を好きなだけ拾っていいんだ。邪魔者はすべて殴り倒し、金を全部かっさらってしまえばいい」
     ケビンの口に、うっすらと笑みが浮かんだ。
    「やるよ」
     ケビンはユースケの手のとどく距離へ近づいた。
    「連れて行ってくれ。オレを、ゴミ箱の中へ」


    第二十二話 最初の獲物

     煙草のにおいがした。
     ケビンは、においを辿った。
     ドアの無い、古びた建屋があった。
     においはその建屋の中、割れた窓ガラスから外に流れてきていた。
     建屋の中に一歩踏み込んで、ケビンは止まった。
     ……見つけた。最初の獲物だ。
     アジア系の女だった。
     歳は三十そこら。
     身長は、百七十五センチくらい。
     女の中では高い方だろうか。
     体重は、ウェルター級寄りだ。
     六十四から六十六キロの間くらい。
     それなりに筋肉のついた女だった。
     長い黒髪をゴムで一つに結って、背中に垂らしている。
     白いタンクトップを着て、下には所々が破けたジーパンを穿いている。
     両手首には、黒いリストバンドをつけている。
     その両手は、ジーパンのポケットの中に入っていた。
     女は亀裂の入ったコンクリートの壁に寄りかかって、煙草を吸っていた。
     ケビンに気づいて、女は背を壁から離した。
     ケビンはゆっくりと女に近づいた。
     女もケビンに合わせて歩いた。
     ケビンは左の拳が相手の顔面に当てられる距離で立ち止まった。
     女も止まる。
     両手はまだ、ジーパンのポケットの中に入ったままだった。

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    「ケビンだ。ケビン・コナード」
     名乗る。
    「タマコ・ランジョー」
     女は右手をポケットから出し、指で煙草をつまみ、紫煙を吐きながら名乗った。
    「あんた、〈ダストシュート〉の参加者だろ?」
    「だったらなんだよ」
    「あんたに恨みはないが、金のためにぶっ倒させてもらうぜ」
     タマコは煙草を口にくわえ、はぁと紫煙を吐いた。
     ケビンは左の拳を、シッと前へ放った。
     狙いはタマコの顎。
     ケビンが左のジャブを放ってから、その拳が相手の顔に到達するまでにかかる時間は約0.15秒。
     それは、相手が視認して反応する前に刺さる速度。
     すなわち、不可避の速攻だった。
    「アタァ!」
    「ぶッ!?」
     ケビンの顔が、ガクンと揺れた。
     喰らった。
     ……おいおい、スゲーな。この女、今……。
     ケビンの目は、タマコの初動を捉えていた。
     捉えていたのに、避けられなかった。
     とんでもないスピードで、右の拳で殴られた。
     しかも、この女、ただ殴るだけじゃない。
     右の肘でケビンの左腕を、内から外へと押しながら殴った。
     逸らすことと、当てることをほぼ同時にやってのけたのだ。
     その結果、ケビンの左拳はタマコの右頬数ミリ横を空振りし、タマコの右拳がケビンの鼻っ柱に命中した。
     ケビンは鼻をすすった。
     ダメージは大したことない。
     鼻血も出ていない。
     ほんのちょっと、驚かされただけだ。
    「くっくっく……!」
     ケビンは笑った。
     面白い。
     拳を顔に喰らったのは久々だ。
     このオレに拳を当てられるほど強い奴がいるなんて……。
    「参加して正解だったぜ」
     ケビンは構えた。
     左の拳が前。
     右の拳が後。
     右利きのボクサーが基本的に取る構え、オーソドックス・スタンス。
     重心が読み難い、軽快なフットワークを踏む。
    「いいねえ、タマコ。さっきのやつ、もう一回やってくれよ」
    「……フン」
     タマコは口に煙草をくわえたまま、構えた。
     右手を握って前に出す。
     左の拳は顎の傍へ。
     やや半身で……。これは、なんの構えだ?
     ボクシングだったら、左利きのボクサーが基本的に取る構え、サウスポー・スタンスだ。
     さっき打ったのも右からだったので、タマコは左利きの可能性が高い。
    「シッ!」
     ケビンは一呼吸で六発の左ジャブを放った。
     ショットガン・ジャブ。
     これなら、どうだ。
     全部の拳を逸らして殴れるか?
     避けられるか?
     無理だろ。くたばりな。
    「ホァチャアッ!」
     ケビンが最初に喰らったのは、踏み込むために前に出した左足への蹴りだった。
     左足の膝に、タマコの右足の踵がメキィとめり込んだ。
     次に喰らったのは目潰しだった。
     左膝に受けた蹴りの痛みで顔をしかめた、その、両目に、タマコの右手の人差し指と中指が当たった。
     悲鳴を上げる間もなく、タマコの左の拳……。親指が上、拳が縦のまま突き出された縦拳たてけんがケビンの顎を正確に打ち抜いた。
     関節蹴り。
     目潰し。
     縦拳。
     すべての技がヒットするまでにかかった時間は、約一秒。
     二秒後には、ケビンはうつ伏せで床に倒れていた。
    〈炎の虎〉蘭条珠子。
     格闘スタイル、截拳道ジークンドー。
     それは、型に縛られず、状況に応じてもっとも合理的な動きを選ぶことを核とした実戦武術。
     目潰し、金的攻撃など、多くの格闘技の中で反則とされる技のすべてを解禁し、最短、最速、最小動作で相手を制する技術。
     すなわち、暴力を極限まで洗練した戦闘術である。
     ピクリとも動かないケビンを見下ろし、珠子は吸い終わった煙草をペッと吐き捨てた。
    「出直してこい。てめえじゃあ準備運動にもなりゃしねえ」


    第二十三話 煙草

     珠子は穿いているジーパンの尻ポケットからキャスターの箱とライターを取り出し、一本くわえて火をつけた。
     紙パックの中を確かめる。
     残り十七本。
     一箱しか持ってきていないし、ゴミ捨て場に煙草屋は無いので、吸い尽くしたら終わり。
     その前に、終わらせたかった。
     甥っ子の哲郎を見つけて、棄権させる。
     それが今回のミッション。
     優勝を狙うよりは簡単だった。
     とはいえ、それは煙草が切れる前に見つけられたら、の話だ。
     今回のゴミ捨て場は、とんでもなく広い。
     二足歩行するネズミがいる夢の国くらいの広さがあるのではないだろうか。
     下手したら、哲郎を探しているうちに全部吸い尽くしてしまうかもしれない。
     そうなったら、マズいのだ。
     煙草が無いと、キレやすくなってしまうからだ。
     紙パックの中がすっからかんのときに甥っ子に会って、嫌だ帰りたくない、などと駄々をこねられたらプッツンきて、殴り殺してしまうかもしれない。
     だから、そうなる前に見つけたい。
     迷子の子供を探すみたいに大声で名前を呼んでみようか。
     ……いや、さすがにそれは馬鹿だ。馬鹿の極みだ。
     名前を呼んだところで、寄ってくるのは頭のおかしな参加者ゴミどもだけだろう。
     一人だったらいいが、複数人だったら相手をするのが大変だ。
     効率は悪いが、地道に歩いて探すしか、哲郎を見つける方法はなさそうだった。
     珠子は口に煙草をくわえたまま歩いた。
     建屋から出た瞬間、においがした。
     流れる風に、微かに血のにおいがまじっていたのだ。
     あちこちで参加者ゴミどもが戦っているのだろう。
     哲郎も、もしかしたら、誰かと出会って、戦闘になってしまった可能性が高い。
     哲郎は、誰にでも気さくに話しかけてしまう、いい奴なのだ。
     表ではそれでいいが、裏ではそういう奴のことを馬鹿と呼ぶ。
     毎年、正月になると姉が哲郎を連れて実家にくる。
     そのとき、暇潰しにスパーリングの相手を哲郎にやってもらうのだが、こっちのフェイントに引っかかりまくって笑いそうになる。
     哲郎の、素直で騙されやすい性格が、ここでは間違いなくマイナスに働く。
     はぁ、と珠子は紫煙を吐いた。
    「あいつ、大丈夫かよ……」
     コツン、と。
     何かで地面を叩いたような音がきこえた。
     近い。
     珠子がさっきまでいた建屋の横。
     月明かりに照らされた、見通しのよい広場。
     駐車場だ。
     そこに誰かいる。
     清掃員だったらいいが、参加者ゴミだったら……。
    「そこに誰かいるのか」
     男の声がした。
     ききとりやすい、綺麗な発音の英語だった。
     煙草のにおいでこちらの居場所がバレたのだろう。
     吸わなければいいのだが、それは無理だ。
     ある意味では、珠子も馬鹿の一人かもしれない。
     戦場で、そこら中に敵がいるというのに、スパスパと常に煙草を吸い続けたら、それは、敵に自分の居場所を教えているようなものだ。
    「ここだよ」
     珠子は逃げも隠れもしなかった。
     一度、存在を察知されたら、相手は警戒してしつこく追ってくる。
     逆に相手から追われるリスクを考慮して、ストーカー行為を始めるのだ。
     慎重な奴はしばらくストーカーを続けるし、賢い奴は闇討ちを狙ってくる。
     どれも面倒くさい。
     だったら、さっさと姿を見せて、その場でちゃっちゃと片付けてしまうのが一番いい。
     駐車場に捨て置かれていた、錆びついてボロボロの軽トラックの横から、一人の男が出てきた。
     月明かりが、男を照らした。

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     黒い上下のスーツを着て、黒い革靴を履いている。
     首には黒いネクタイ。
     両手に黒い革の手袋をつけている。
     右手に、長さが一メートルはある鉄パイプを握っていた。
     裏手で先を握り、もう片方の先は、床にコツコツ当たっている。
     さっき、きこえた音はこれだ。
     鉄パイプが地面に当たっていた音だ。
     珠子には、男が杖を突いているように見えた。
     物干し竿みたいな太さの、鉄の杖を。
     年寄りではなかった。
     珠子より若い。二十代後半くらいか。
     誰かに似ている。
     目の前にいる鉄パイプを持った男が、前に〈ダストシュート〉に出たとき戦った、誰かと似ている気がした。
    「女性一人……」
     珠子を見て、男が意外そうに呟いた。
     周囲を見渡している。
     女一人でここにいるのはおかしい。仲間がいるかもしれない。
     そんなことを考えているのだろう。


    第二十四話 紳士

    「誰もいねーよ」
     珠子は紫煙を吐きながら言った。
    「さっさとやるぞ」
    「なに?」
    「わたしは忙しいんだ」
    「……私は、女性とは戦わない」
     珠子は走った。
     跳び、男の腹部目がけて右足の前蹴りを放った。
     間髪入れずに、左右の縦拳。
     右の膝蹴り。
    「……あ?」
     珠子は、攻撃を止めて離れた。
     驚いた。
     連撃を全部、紙一重でかわされたこともそうだが、こちらが手を出したのにもかかわらず、一切反撃してこなかったのだ。
    「てめえ、なめてんのか?」
    「違う」
    「じゃあ、なんでやり返さない?」
    「女性を相手に拳を振るうのは、私の流儀に反する」
    「……へぇ」
     珠子は前歯で煙草の吸い口部分を強く噛んだ。
     気に入らない。
     女だから殴らない。
     女だから手加減する。
     こういう奴が一番嫌いだ。
    「あなたを侮っているわけではない。私は……」
    「うるせえボケ」
     珠子は一瞬で射程距離に入った。
     同時に、男の股間に右足の金的蹴りを放った。
     男は腰を屈めて珠子の蹴りを左手で受け、足首をつかみ、引っ張りながら腰を左にひねった。
     珠子の体勢が右側に傾く。
     つかんで崩す。
     柔術の技だった。
     珠子は、プッと煙草を吹いた。
     吹き矢から放たれた矢のように、煙草が男の左目に飛ぶ。
     男は頭を下げた。
     煙草は男の額に弾かれ、地面に落ちた。
    「アタァ!」
     肘を曲げて左拳を突き上げる。
     ショートアッパー。
     狙いは男の顎。
     それも止められた。
     鉄パイプを捨て、右の掌で包み込むようにして止められた。
     カラン、と鉄パイプが地面を転げた。
     珠子は右手で男の胸倉をつかみ、引っ張って、
    「アチャアッ!」
     額を顔面に叩きつけた。
     頭突き。
     入った。
     珠子の右足首から、男の左手が離れた。
     しかしすぐ、男は両手で珠子の右手首をつかみ、
    「フンッ」
     さらに、右足の踵を珠子の右足に引っかけた。
     足払いヒール・フックだ。
     絶妙な力加減でもって男が重心を移動させた。
     珠子の右足裏がズルッと地を滑り、身体が傾く。
     珠子は胸倉をつかんだまま、右腕に力を込め、男を引き寄せ、
    「ホアチャアッ!」
     左足の膝を、男の下っ腹にヒットさせた。
     互いの手と足が、互いの身体から離れた。
     珠子と男は、同時に、地面に転倒した。
     そして、ほぼ同時に、素早く立ち上がった。
    「強したたかな女性だ……」
     男が呟く。
     その右手には、再び鉄パイプが握られていた。
     杖のように先っぽを裏手で握り、もう片方の先を地面につけている。
    「てめえ……」
     珠子は目を細めた。
    「やっぱり、前に見てる。その戦い方、知ってるぞ」
     男も目を細めた。
    「どこでバーティツを見た?」
    「前に〈ダストシュート〉に出たとき、バーティツ使いの男と戦った。あんたに似た顔の、礼儀正しいオッサンだったよ」
    「……そうか」
     男は鉄パイプをくるりと回し、両手で握って、槍兵のように構えた。
    「女性を相手に拳を振るうのは、私の流儀に反する」
    「さっきもきいたよ」
    「だが、父を倒した者を前にして、その流儀を守ることはできない」
    「……あ?」
     なんだ、こいつは。
     一瞬で空気が変わった。
     自分を守るためだけに身体を動かしていたこの男が、珠子に向けて鋭い殺気を放っている。
    「やる気になったみたいだな、色男」
     珠子は構えた。
     右手(利き手)を握って前に出し、左の拳を顎の傍へ。
     やや半身で、顎を引いて男を睨む。
    「色男ではない。私は、ジョナサン・ホールズ」
     ジョナサンは両手でギリリと鉄パイプを握り締めた。
    「蘭条珠子だ。ぶっ倒してやるから覚悟しろ」
    「覚悟するのはお前だ、蘭条珠子。父、シャムロック・ホールズの仇を討たせてもらう」


    第二十五話 〈炎の虎〉VS〈不死者〉その①

     十九世紀末のイギリス、ロンドン。
     産業革命の影で犯罪が増え、日々、弱き者の命が悪人の手によって奪われていた暗黒時代。
     日本で柔術を学んだ一人のイギリス人武術家が、帰国後、街に潜む暴漢と無法者に対抗するため、日本柔術をベースにさまざまな格闘技術を練り上げ……。総合護身術、バーティツを創り上げた。
     バーティツは日常的に危険に身を置く探偵や調査員、新聞記者などに好まれ、彼らはこぞって門下生となり、技を習得した。
     その後、時代が進み、バーティツは武術家から武術家へと、脈々と引き継がれていった。


    「私は、バーティツを父から学んだ」
     ジョナサンは言う。
    「父は、日本で命を落とした。〈ダストシュート〉の闘技場で戦い、敗北した」
    「あんたの父親をぶっ殺したのはわたしだよ」
     珠子は平然と言う。
     ジョナサンからくる殺気が、より一層、濃くなった。
    「先に謝っておく。私は、お前を殺す……」
    「やってみろ」
     二人は同時に動いた。
     珠子の、ボクサーのジャブを超える、神速の縦拳がジョナサンの顔に、腹に、二発入った。
     ジョナサンは怯まない。
     遅れてジョナサンの右手が珠子の肩に伸びた。
     珠子はその手を左拳で払い、即二発、ジョナサンの顔面に左右の縦拳をぶち込んだ。
     ジョナサンはまったく怯まない。
     引き戻そうとした珠子の右手首を瞬時に左手でつかみ、引き戻す力に自らの体重を乗せるようにして懐へ飛び込み、右手で握っている鉄パイプの先で珠子の右脇下を突いた。
     珠子は当たった瞬間に身体を半身にし、突きの衝撃を散らしつつ、
    「ホアタァ!」
     左の拳でジョナサンの右肩を殴りつけた。
     ジョナサンの身体がぐらりと揺れ、右手から鉄パイプが離れた。
     珠子は鉄パイプが地面に落ちる前に、それを右足の爪先で蹴り飛ばした。
     鉄パイプは錆びついた軽トラックのサイドミラーにぶつかり、落ち、カラン、カラン、と地面を跳ねた。
    「棒術は前に見ている。バーティツの動きは知ってんだよ」
     ジョナサンは両手を広げたまま、腰を落とした。
    「アタァ!」
     珠子は両足で、二段蹴りを放った。
     ジョナサンは一歩下がり、左の一段目を回避。
     右の二段目の蹴りは、両手で受け止めた。
     珠子の右足首を両手で握ったまま、ぐるりと身体を回転させ、
    「ムンッ!」
     珠子をブン投げた。
     珠子の身体が、空中でぐるりと回る。
    「ホアチャアッ!」
     回転の勢いを利用し、珠子は右足をジョナサンの頭部に上から叩きつけた。
     完全に入った、と思われたが、右足はジョナサンが振り上げた左腕にぶつかり、止まっていた。
     ジョナサンは左手を珠子の右足の下腿三頭筋腱(アキレス腱)に当て、右手で珠子の腹を押し、お辞儀するように上半身を前に倒して、
    「ハアッ!」
     珠子を背中から地面に叩きつけた。
     天地投げ。
     合気道の技だった。
    「ホォウァタアッ!」
     珠子は倒れたまま、ジョナサンの右足の脛に、右足の蹴りを放った。
     ジョナサンはヒョイと跳んで蹴りを避け、そのまま両足裏で、珠子の頭部を踏みつけようとした。
     珠子は左にゴロゴロと二転して、素早く立ち上がった。
     ダンッ!
     ジョナサンの両足裏が、さっきまで珠子の頭部があった場所に叩きつけられた。
     珠子は、チッと舌打ちした。
     ……ジョナサンこいつ、ガードが堅い。
     それもそのはず。
     バーティツの本質は護身。
     すなわち、自分の身を守るために相手を制する武術である。
     受けに回られたら、崩すのは至難の業だ。
     ……それなら、こ・れ・だな。
     珠子は右の掌をジョナサンに向けた。


    第二十六話 〈炎の虎〉VS〈不死者〉その②

    「待てッ! ちょっと待てッ!」
     ジョナサンの動きが、ピタ、と止まった。
    「……なんだ?」
    「一服させろ」
    「なに?」
     珠子は穿いているジーパンの尻ポケットからキャスターの箱とライターを取り出し、一本くわえて火をつけた。
     フゥゥゥゥゥ、と優雅に紫煙を吐き出し、キャスターとライターを尻ポケットに戻した。
    「なめているのか?」
     ジョナサンの眉間にシワが寄った。
    「なめてねえよ。こうしないとダメなんだ」
    「何がダメなんだ?」
    「煙草が切れるとキレやすくなっちまう。それで、あんたを殺しちまうかもしれない」
     ビッ!
     ジョナサンは右の拳で珠子の左頬を打った。
     軽い。腰が入っていない。
     咄嗟に出た、ビンタみたいなものだった。
    「……痛いてぇな」
     珠子は口に煙草をくわえたまま、ニヤリと笑った。
     ジョナサンは、ギリ、と奥歯を噛んだ。
    「この私を、侮辱する気かッ!」
     怒った顔で、ジョナサンが突っ込んできた。
     左、右、のワンツー・パンチ。
     ボクシングの技だ。
    「ホアタァ!」
     ジョナサンの左のパンチを、右の肘で逸らしながら縦拳を顔面にブチ込む。
     右のパンチを、左の肘で逸らしながら縦拳を唇にブチ当てる。
    「ガァアアアッ!」
     ジョナサンは叫び、右足で前蹴りを放った。
     今度は空手の蹴り。
     相手を押し倒すような、力の入った蹴りだ。
    「チャアッ!」
     珠子はジョナサンの右の太腿を、左足で内から外へと押しつつ、爪先を股間に突き刺した。
     金的蹴り。
     男だったら、尋常じゃない痛みだろう。
     だが、ジョナサンは止まらなかった。
     拳で、足で、連続で珠子に攻撃してくる。
     怒りが痛みを凌駕しているのか、なりふり構わず突っ込んでくる。
    「アァタタタタタタタタッ! ホァタッ!」
     殴り、蹴り、殴って蹴る。
     全部、相手ジョナサンの攻撃に合わせる。
     攻撃を逸らし、カウンターを当てる。
     逸らすことと当てることをほぼ同時にやってのける。
     最短、最速、最小動作で、カウンターを全弾ヒットさせ、真っ向からぶちのめす。
     これが珠子の、截拳迎撃術インターセプションだ。
    「……がッ」
     ジョナサンの手が止まった。
     繰り出した技が一つも当たらず、逆に殴られ、蹴られ続けたことで、肉体が限界を迎えたらしい。
     ジョナサンの両膝が、ガクッと地に当たった。
     前のめりに、倒れた。
     土下座をするような体勢で、ジョナサンは動かなくなった。
     珠子は右手の指先で煙草をつまみ、紫煙を吹いた。
    「悪いな、ジョナサン。挑発して攻めさせるのが、あんたをぶっ倒すのに一番効率がよかったんだ」
     煙草を口にくわえる。
     足音がきこえた。
     珠子は振り返る。
     駐車場から少し離れた道を、誰かが走っている。
     坊主頭に、学生服。
     顔にまだ幼さの残る、低身長チビのガキ。
     右手に握り締めた白いハンカチが、ひらひらと揺れている。
    「……あいつ、哲郎か?」


    第二十七話 〈炎の虎〉VS〈不死者〉その③

    「おい、哲……」
     名前を呼ぼうとした珠子の声は、途中で切れた。
     誰かが後ろから珠子の首に腕を回し、絞めつけていたからだ。
    「油断したな、蘭条珠子」
     ジョナサン。
     まだ動けたのか。
    「終わったと思ったか?」
     珠子の首を絞めるジョナサンの腕に、さらに力が入る。
    「卑怯とは言わせないぞ」
     そんなことはない。
     相手に『倒した』、『殺した』、『勝った』と安堵させ、離れた後に動く。
     死んだフリ。
     れっきとした、護身術である。
     そうでなくても、不意打ちは裏の、当たり前の術。
     使って当たり前の奇襲術だ。
     珠子は右肘を上げ、右手の指を伸ばし、手探りでジョナサンの顔に触れた。
     そして、指をジョナサンの右目にねじ込み、ブチッ、と眼球をほじくり出した。
     それでも、ジョナサンは怯まない。
     珠子の首を絞める力が、全然、弱まらない。
     どうなっているんだ、こいつの身体は。
    「蘭条珠子。私は、父が持っていなかった武器を持っている……」


     ジョナサンは痛みを感じない。
     生まれつき痛覚の伝導路である視床下部に異常があり、痛覚が存在しないのだ。
     どのような怪我を負っても自力で帰還することから、ついた異名が〈不死者アンデッド〉。
     珠子から死ぬほど殴られても、蹴られても、ジョナサンは止まらない。
     殺さなければ、止まらないのだ。


    「ぐ、うぅ……!」
     珠子は歯を食いしばった。
     噛み千切れた煙草が地面に落ちた。
     このままでは、マズい。絞め落とされる。
     珠子は両手で、自身の首を絞めつけるジョナサンの右腕をつかみ、全力で引っ張った。
     ほんの少しだが、首と腕との間に隙ができた。
     珠子はその隙間に素早く左手を入れ、ぶはッ、と息を吐いた。
     呼吸する。
     だが、息ができたところで、首絞めをどうにかしない限り、形勢は変わらない。
     珠子は右手でジョナサンの右腕をつかんで強く引き、同時に、左手も引く方向へ押し出し、首と腕の隙間を無理矢理広げた。
     素早く身体を回転させる。
     背伸びして、ジョナサンの右肩に顎をのせ、左手を背に当てる。
     恋人と抱き合うような体勢になった。
     珠子はジョナサンの右耳に唇を寄せ、
    「くたばれ……」
     囁いた。
     そして、右の拳を、ジョナサンの胸の前に添・え・た・。
     直後、凄まじい衝撃がジョナサンの身体を襲った。
     至近距離から放たれた珠子の寸勁ワンインチパンチが、ジョナサンの胸に炸裂したのだ。
    「ゴッハァアアアアアッ!」
     血反吐を口からぶちまけ、ジョナサンは吹っ飛んだ。
     目を見開いたまま、地面に大の字に倒れた。
     横に行って、珠子はジョナサンを見下ろした。
     息をしていなかった。
     一撃で心臓が潰れ、即死したみたいだ。
     珠子は穿いているジーパンの尻ポケットからキャスターの箱とライターを取り出し、一本くわえて火をつけた。
     溜息を吐くように、紫煙を吐いた。
    「……馬鹿野郎が。死に急ぎやがって」
     ジョナサンの死体を放置し、珠子は駐車場を後にした。


    『〈ダストシュート〉①/完 〈ダストシュート〉②に続く』



    ~敗退者プロフィールとその後(ネタバレあり)~


    ドルドレン・ジルゾルべ


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    名前:ドルドレン・ジルゾルべ
    性別:男
    年齢:25歳
    身長:190cm
    体重:160kg
    異名:〈モンゴルの喧嘩屋〉
    格闘スタイル:ブフ

    ~人物~

    地元モンゴルでは負けなしの相撲ファイター。
    退屈を感じていた頃、ふらりと現れた一人の日本人男性から〈ダストシュート〉の招待状を受け取り、「面白そう」という単純な理由で参加を決意する。

    ~その後~

    白樺泰典に敗北後、「まぁ、こういうこともある」と開き直り、ちゃんこ鍋を食って帰国。
    1989年。ダルハン市でちゃんこ鍋屋を開業。力士体型の店主が作る本格的な鍋は評判を呼び、地元の人気店となる。
    1990年。店の常連だった同い年の女性と結婚。
    1992年。双子(男女)が誕生。
    以降は武の道から完全に離れ、家族と店を守りながら、客に鍋を振る舞う穏やかな日々を送る。


    沢渡アリア


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    名前:沢渡さわたりアリア
    性別:女
    年齢:28歳
    身長:160cm
    体重:49kg
    異名:〈殺戮刃さつりくじん〉
    格闘スタイル:エスクリマ
     

    ~人物~

    フィリピン中部ビサヤ地方のタッカー村で生まれ育ったアリアは、ある事情で日本へ移住する。
    違法滞在という閉鎖的な生活に馴染めず、極度の退屈から無差別殺人を起こす。
    犠牲者の中には罵藤ばとう組というヤクザの構成員が含まれており、事件後、組に捕らえられる。
    だが、アリアは怯えるどころか、自らの戦闘能力を売り込み、その異常な才能を見抜いた罵藤組は、彼女に偽名(沢渡)を与え、始末屋(殺し屋)兼掃除屋(死体処理係)として雇うことを決める。
    ある任務の最中、標的の日本人が持っていた〈ダストシュート〉の招待状を手にしたアリアは、優勝賞金を欲し、参加を決める。

    ~その後~

    佐藤哲郎に敗北後、彼への憎悪を晴らすため、翌年開催された〈ダストシュート〉に参加。
    古武術、狂刃滅殺流きょうじんめっさつりゅうの達人、鬼千垣きちがき胆助きもすけとの戦いに敗れ、死亡した。


    ケビン・コナード


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    名前:ケビン・コナード
    性別:男
    年齢:23歳
    身長:186cm
    体重:99kg
    異名:〈アイアン・フィスト〉
    格闘スタイル:ボクシング

    ~人物~

    若くしてプロボクサーとして注目されるが、ゲームセンターで絡んできた不良グループを一掃した事件をきっかけに表舞台から姿を消す。
    その後、ニューヨークの裏で行われる非合法の賭け試合に身を落とし、日銭を稼ぐ生活へ。
    ある日、謎の日本人から〈ダストシュート〉の招待状を受け取り、優勝賞金に釣られて参加を決意する。

    ~その後~

    蘭条珠子に敗北後、完全に自信を失ったケビンは、帰国後、酒に沈む日々を送る。
    だが、ニューヨークの裏路地でチンピラ三人に絡まれていた、映画監督のティン・バレンタインを救ったことで人生が動き出す。
    ティンに見いだされ、ケビンは演技レッスンと小さな役を重ねながら、長い下積みを続けた。
    1994年。アクション映画『エッグ・ノッグ』で悪役を演じ、その冷酷な存在感が業界で高く評価される。
    1996年にはSFアクション映画『土星人襲来』で主役に抜擢され、一気にスター俳優の仲間入りを果たす。
    以後、ケビンは多忙な撮影に追われる日々を送り、かつて裏の賭け試合で日銭を稼いでいた男とは別人のように表の舞台で輝き始めた。


    ジョナサン・ホールズ


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    名前:ジョナサン・ホールズ
    性別:男
    年齢:27歳
    身長:182cm
    体重:79kg
    異名:〈不死者アンデッド〉
    格闘スタイル:バーティツ

    ~人物~

    イングランドでその名を知らないものはいないといわれる有名な探偵、父のシャムロック・ホールズの跡継ぎ。
    幼い頃から父に鍛えられ、バーティツを習得。
    あるとき、父は招待状を持って〈ダストシュート〉に参加。蘭条珠子との戦いに敗れ、死亡した。
    数年後、ジョナサンのもとに〈ダストシュート〉の招待状が届く。
    父の無念を晴らすため、ジョナサンは参加を決意する。
    父の仇である蘭条珠子との戦いに敗れ、死亡した。


     
     
    アカヤモリと申します。 映画、小説、ゲームが好きなのでその三つに関係する記事をメインで書きます。 よろしくお願いします。

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