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香りのペアルック

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あらすじ

夜勤専門で働く45歳の新間恋斗は、
11年間女性のいない物流センターで、
ある日一人の女と出会う。

藤澤香織、入社1年ちょっとの新米社員。
彼女が自分の名前入りの作業日報を
恋斗の席にわざと置いていったその日から、
不器用な恋が始まる。

香水を贈り、連絡先を渡し、
二度の手紙を書いても、
彼女は受け取るだけで何も返してこない。

「気になっている人がいる」
という彼女の言葉の裏には、
誰にも言えない事情が隠されていた。

連絡先も知らないまま、
月に数回しか顔を合わせられないまま、
1年という時間が静かに過ぎていく。

香水を贈った日の高揚も、
手紙を渡した夜の緊張も、
すべてが積み重なって、
やがて恋斗の中で何かが静かに終わっていく。

これは、連絡先も知らないまま
誰かを本気で好きになった男の、
不器用すぎる1年間の記録である。

プロローグ

新間恋斗、45歳。独身。
11年間、夜勤を続けている。

肩書きだけ聞けば寂しい話だが、
本人はそう思っていなかった。

恋斗の一日は、世間とは逆向きに動いている。

夜が明けると家に帰り、
シャワーを浴びてパソコンを開く。
インフルエンサーとしての活動と投資、
それが昼間の仕事だった。

もともとはホームページを作る
サラリーマンだった。
安い単価でコーポレートサイトを
制作して、完成したらメールで
納品して終わり、という毎日だった。

苦労して作ったものが
他人の手に渡っておしまい、
というやり方がたまらなく嫌だった。

ならばいっそ自分でコンテンツを
作って運営する側になればいい。

そう考えて、
サラリーマンクリエイターを辞めた。
夜間に物流センターで働きながら、
昼間はネットビジネスに全力を注いだ。

最初は鳴かず飛ばずだった。
しかし、ある時期を境に、
マインドがガラリと変わった。
物流センターの安定した収入
という武器を手に入れたのだ。
ならばいっそ売れなくたっていいから、
面白いものだけを作ろうと考えた。

数年後、
恋斗のコンテンツは空前のヒットを飛ばした。

インフルエンサーとしての活動で
一定の成果を上げ、投資も軌道に乗り、
気づけば半分FIREを実現していた。
生活に困っているわけではない。
それでも夜勤を続けているのは、
この生活が好きだったからだ。

フォークリフトの音と
蛍光灯の白い光の中で、
ただ体を動かす夜の時間。
昼間の顔を全部脱ぎ捨てられる、
その感覚が好きだった。

物流センターで働く人間の多くは、
好きでその仕事をしているわけではなかった。
それぞれに事情を抱えて、
仕方なく夜の作業場に集まっていた。
恋斗はそういう人間とは、
住む世界が少し違った。

人生を謳歌している、と自分では思っていた。

恋斗は占いやスピリチュアルも好きだった。
なぜ好きかと聞かれても困る。
何となく当たるような気がするからだ。
不思議なことに、当たるタイミングには
いつも2〜3年後というタイムラグがあった。

コンテンツが売れる何年か前の占いに、
「今年は趣味で作ったものに、
思わぬ高値がつくでしょう」とあった。

さらに、2年前の占いにこう書いてあった。

「今年は職場で女性との出会いが
連発するでしょう」

「幸せすぎて笑いが止まらない
1年になるでしょう」


コンビニで立ち読みしていて、
思わず吹き出した。
そんなわけあるかい、と
頭の中で何度も突っ込んだ。

ところがその2年後、
長らく男ばかりだった
物流センターの方針が代わり、
女性を積極的に採用するようになったのだ。

占いというのは、やはり当たるものだ。
ただし、2〜3年後に。

恋愛については、とっくに諦めていた。
いや、諦めたというより、
そういうものだと思っていた。

若い頃は違った。
それなりに恋をして、それなりに傷ついた。
でも気づけば11年が過ぎていた。
11年。我ながら笑えるような年月だ。

谷村新司が書き、山口百恵が歌った
「ラストソング」という曲をある夜ふと聴いた。

なぜか涙が出た。
歌手の話でも、失恋の歌でもなく、
これは自分の話だと恋斗は思った。

恋をすることさえも許されないで、
働き続けてきた僕。

センチメンタルすぎると
笑われるかもしれない。
でも本当にそう思ったのだから仕方がない。

そんな夜が、何年も続いた。

彼女が現れるまでは。

第1章 夜の物流センター

第1章 夜の物流センター#1

物流センターというのは、不思議な場所だ。

毎日同じ作業をして、毎日同じ顔と顔を
合わせて、毎日同じ時間に帰る。
変化のない日常が積み重なって、
気づけば11年が過ぎていた。

そこにいる男たちはみんなそんな感じだった。
世間話はするけど深い話はしない。
お互いの事情には踏み込まない。
それが心地よかった。

広い作業場に蛍光灯の白い光が
降り注ぎ、フォークリフトの
エンジン音が遠くから響いてくる。
ベルトコンベアの低い唸りと、
段ボールが積み重なる音。

昼間のざわめきが消えた分、
機械の音と自分の息遣いだけが耳に残る。
恋斗にとって、それが11年間の日常だった。

女性がいたことは、11年間で一度もなかった。

変化が訪れたのは、2年前に
物流センターのトップが代わってからだった。
日勤に女性が入り、残業で夜遅くまで
残ることも増えた。
11年いて見たことのない光景だった。

そして去年の6月、藤澤香織が入ってきた。

廊下ですれ違ったのは、ほんの一瞬だった。
でも恋斗の時間は、そこで止まった。
0.1秒で、全てが変わった。

帽子からピョコっとはみ出した、
たった一本のポニーテール。


ただそれだけのことで、殺風景で
大嫌いだった薄暗い廊下一面に、
花が咲いた気がした。
後にも先にも、あんな感覚は
経験したことがない。

20代の独身女性だと思った。

第1章 夜の物流センター#2

恋斗がずっと大切にしてきたのは、
自分で立ち上げたネットビジネスだった。

画面の向こうの少数の熱心な
読者たちに向けて発信して、
稼いで、また発信する。
そのサイクルだけが恋斗の生きがいだった。
感情ではなく成果。
そこに嘘はないし、裏切られることもない。

夜になると物流センターに向かう。
昼の顔を全部脱ぎ捨てて、
ただ体を動かす時間。
孤独だと思ったことはなかった。
というより、孤独に慣れすぎていた。

恋愛は成果にならない。
だから自分には向いていない。
そう決めていた。

だから香織が現れた時、
最初は何が起きているのかわからなかった。

胸が痛い。でも病気じゃない。
飯がうまくない。でも体調は悪くない。
仕事中に関係ない顔が浮かぶ。

11年かけて完璧に整えたはずの日常は、
ある日突然、たった一本の
ポニーテールによって壊された。

恋斗は恋愛の仕方を忘れていた。
いや、正確には、最初から
得意ではなかったのかもしれない。
若い頃は勢いだけで乗り越えられた。
でも年を重ねるほど、人を好きに
なることの怖さがわかってきた。

好きになれば傷つく。傷つくなら
最初から好きにならない方がいい。
そうやって少しずつ、心に蓋をしてきた。

11年間、その蓋は一度も開かなかった。

ところが香織と出会ったあの日、
自分でも驚くほど簡単に、その蓋が開いた。

帽子からピョコっとはみ出した、
たった一本のポニーテール。
それだけのことで。

恋というのは理屈じゃないと頭では
わかっていた。でもまさか自分が
そうなるとは思っていなかった。

コンテンツを作るとき、
恋斗は常に論理的に考える。
ターゲットは誰か、何を伝えるか、
どう届けるか。全部計算の上だ。

でも香織への気持ちに、計算は一切なかった。

0.1秒で、全部決まっていた。

第1章 夜の物流センター#3

廊下ですれ違ったとき、
恋斗は思わず「お疲れ様です」と声をかけた。

振り返ったら、香織はいなかった。

恋斗は幻を見たのかと思った。
あの鮮やかなポニーテールは、
本当に存在したのだろうか。
男だらけの職場で
11年間過ごしてきた自分の脳が、
ついに幻覚を見せ始めたのだろうか。

でも、翌日も香織はそこにいた。

やっぱり幻じゃなかった。

その日から、恋斗の日常は狂い始めた。

「ラストソング」が頭の中に流れなくなった。

異変に気づいたのは、ある朝のことだった。
いつも通り夜勤を終えて、
いつも通り帰り道を歩いていた。
すると、いつものあの悲しい曲が
流れてこなかった。

おかしい、と思った。

準備も覚悟もなく、
気づいたら0.1秒でそうなっていた。

代わりに流れてきたのは、
広瀬香美の「ドラマティックに恋して」だった。今度はあのフレーズが頭の中で
エンドレスに流れるようになった。

恋斗が香織に惚れていることは
まだ誰にも知られていない。
でも少しだけ、香織にはバレてもいいと思った。

物流センターに向かう道が、少し明るく見えた。夜勤なのに。蛍光灯の白い光が、
前よりも温かく見えた。
段ボールの匂いも、フォークリフトの音も、
いつもと同じはずなのに、どこか違う。

恋とはこういうものか、と思った。
世界の見え方が変わる。
そんなことが本当に起きるとは、
恋斗はこの年になるまで信じていなかった。

だが、11年のブランクというのは、
思っていたより深刻だった。
若い頃の自分なら、もっとスマートに
動けたはずだ。でも今の恋斗には、
話しかける勇気すら出てこない。
廊下ですれ違うたびに
「お疲れ様です」と言うのが精一杯だった。

しかも、香織は見るからに若かった。
恋斗より、ひと回り以上は違うだろう。
そんな相手に話しかけるなど、
どう考えても無謀だった。

でも目が離せなかった。

それが恋斗の、
情けないほど不器用な恋の始まりだった。

第2章 作業日報事件

第2章 作業日報事件#1

香織のことが気になり始めてから、
恋斗は少しずつ変わっていった。

まず、廊下をうろうろするようになった。

香織とすれ違えるかもしれない。
ただそれだけの理由で、
わざと遠回りをして廊下を歩いた。
傍から見れば完全に不審者だった。
でも当時の恋斗にはそれしかできなかった。

次に、香織が休憩スペースに
来る時間を把握するようになった。
いつ来て、いつ帰るのか。
自分でも呆れるほど正確に覚えていた。
11年間、誰の動向も気にしたことが
なかった男が、気づけば香織の
スケジュールを完璧に頭に入れていた。
11年のブランクを埋める方法が、
他に思いつかなかったのだ。

そして、早く香織に好きバレしたくて、
挨拶を大袈裟にする作戦に出た。

廊下ですれ違うとき、
普通の「お疲れ様です」ではなく、
少し大きめの声で、少し長めに目を合わせる。

たったそれだけのことだが、
11年間無表情で働いてきた自分が
いきなりそれをやるのだから、
恋斗は猛烈に恥ずかしかった。

でも効果はあった。

香織が、こちらを向いた。

香織はいつも体を恋斗の真正面に向けて、
目をじっと見つめて挨拶してきた。

それだけのことが、たまらなかった。

男だらけの職場で11年間、
誰かにそんな目で見られたことはなかった。
香織の目は真っ直ぐで、
どこか遠くを見ているようでもあった。
恋斗はその目に、完全にやられた。
挨拶を大袈裟にする作戦は、
気づけば恋斗自身が
一番緊張する儀式になっていた。

休憩スペースというのは、物流センターの
男たちが交代で集まる場所だ。
長いテーブルにベンチが置いてあって、
みんなそこで待機したり、飯を食ったりする。

香織と出会った当初、恋斗はいつも
入り口に背を向けて座っていた。
だから香織が入ってきても、
すぐには気づかない。でも気配でわかった。

香織はいつも他の男社員たちの
方を向いて、楽しそうに話していた。
恋斗には背中を向けたまま。

恋斗にはそれが耐えられなかった。

昔モテていた恋斗にとって、
惚れた女に背中を向けて
座られるのは屈辱だった。
どうしても香織を
こちらに振り向かせたくなった。

でも方法がわからない。
11年のブランクは残酷だった。
最初は、挨拶するのが精一杯だった。
廊下ですれ違うとき、
少し大きめの声でお疲れ様ですと言う。
それだけで心臓が跳ね上がった。

それでも、他の男社員たちと
楽しそうに話している香織の後ろ姿に、
恋斗はたまらなく嫉妬した。

第2章 作業日報事件#2

長年に渡り女っ気が全くなかった
物流センターの空気が、
香織が入ったことで一変した。

こんな職場で恋をすることなんて
想定していなかったから、
以前の恋斗は寝ぐせがついた頭と無精ヒゲ
なんて当たり前だったし、服装も近所の
コンビニに出掛けるような感じだった。

しかし、殺風景な職場で異質な
美しさを放つ香織がいる空間は、
もはや華やかな場所に変わっていた。

恋斗は若い頃はイケメンだと
言われたこともあった。
だがそれは過去の栄光そのもので、
気づけばすっかり"男の子"をサボっていた。

このままではいけない、と思った。
香織に振り向いてもらうためには、
まず自分を磨かなければ。
そう決意した恋斗は、
久しぶりに鏡をまともに見た。
悪くはない。でも、もっと良くなれる。
そこから恋斗の、密かな自分磨きが始まった。

恋斗が恋をしなくなったのには
色々と理由があるが、
一番は自分のことが嫌になるからだった。
恋斗は普段は冷血男といったイメージだが、
誰かを好きになると嫉妬の鬼と化してしまう。
付き合うとさらにその症状は悪化し、
パートナーの女友達にさえも
嫉妬してしまうから絶望的だ。

香織にはどういうわけか
初めて会ったときから、この感覚を覚えた。
付き合っているどころか
話をしたこともないのに、
香織が目の前で誰かと話しているのを
見ると嫉妬してしまう自分がいた。

香織の同期に、彼女より少し年上の
西川里美という女性がいた。

香織は里美と話すときはリラックスしていて、
二人の仲が良いことはすぐにわかった。
恋斗は里美に激しく嫉妬すると同時に、
この人は香織と仲良くなるための
キーパーソンになるのでは、と考えた。

休憩スペースのテーブルに、新人研修用の
マニュアルが置きっぱなしになっていた。

香織のものだろうか。
これはチャンスだと思った。
挨拶以外で話しかける口実ができた。

「このマニュアル、違いますか?」

緊張しながら声をかけた瞬間、
横から突然声が割り込んできた。

「それ私のー!」

タメ口だった。香織と一緒に
研修を受けていた同期の里美が、
あっけらかんと持っていってしまった。

恋斗の作戦は、出鼻をくじかれた。

でもこれが、全ての始まりだった。

二人は同じ時期に研修を受けていて、
いつも一緒にいた。
里美と先に仲良くなれば、香織への近道に
なるかもしれないと恋斗は考えた。
回りくどいとわかっていた。
でも11年のブランクを抱えた男には、
それしか思いつかなかった。

マニュアルの一件がきっかけで、
里美と恋斗との距離が急速に縮まった。

香織より少し年上で、
シンプルな話し方をする人だった。
タメ口で話しかけてきたくせに、
なぜか憎めなかった。
休憩スペースで自然と隣に座るようになって、
他愛もない話をするようになった。

でも恋斗の本音は違った。
里美を経由して、香織に近づきたかった。
それなのに、気づけば里美も
自分の前で女になっていた。

恋斗はその変化に気づいて、
少し罪悪感を覚えた。香織への近道の
つもりが、思わぬ副作用を生んでいた。

第2章 作業日報事件#3

出会って1ヶ月が経っても、
恋斗は香織と挨拶以外の言葉を
交わしたことがなかった。

そんなある日、事件が起きた。

物流センターには作業日報というものがある。
その日の作業内容や気づいたことを
手書きで記録して提出するものだ。
表紙には名前を書く決まりになっている。

恋斗が作業で席を外している間のことだった。

作業から戻ると、廊下で香織と男社員数名が
香織の作業日報がないと騒いでいた。
でも本気で探している様子ではなかった。
男社員たちも、どこか楽しそうだった。

香織が作業日報がないないと廊下で
騒いでいるのを見た瞬間、
なぜか恋斗には直感ですぐにわかった。
あれは自分の席にあると。

休憩スペースに戻ると、案の定だった。

恋斗のお尻の跡がくっきりついていそうな
椅子の上に、不自然に香織の名前入りの
作業日報が置かれていた。
恋斗はそれを見た瞬間、笑いそうになった。

これは置き忘れじゃない。
誰がどう見ても、置き忘れじゃない。
そして1階の廊下からは、
ないないと騒ぐ声がまだ聞こえていた。
でも、誰も作業日報が一番置いてありそうな
2階の休憩スペースに探しに来なかった。
周りの男社員たちも気づいていたはずだ。
でも誰も何も言わなかった。
みんなわかっていたのだ。

これは香織が仕掛けたフラッシュモブだった。
恋斗以外の全員が知っていて、
知らないふりをしていた。

恋斗の直感が働いたのには、理由があった。
同期の里美とは仲良くなっていたのに、
香織とは1ヶ月経っても目を見つめ合って
挨拶するだけだったからだ。
それがずっと気になっていた。

挨拶のたびに、香織は体を恋斗の
真正面に向けて、目をじっと見つめてくる。
でもそれ以上には踏み込んでこない。
里美とは自然に話せるのに、
香織とは挨拶だけで止まっている。

その違いが、ずっと恋斗の頭の中にあった。
だから廊下でないないと騒ぐ声を聞いた瞬間、
恋斗には全部わかったのだろう。

香織が動いた。
しかも複数の男社員たちを巻き込んで。

これは嫉妬だ、と恋斗は思った。
里美と仲良くなっていく自分を見て、
香織は焦りを感じていたのだろう。
でもそれを素直に言葉にするのではなく、
自分の名前が入った持ち物を
恋斗の椅子の上に置くという形で表現する。

恋斗はこのとき、香織のことを
見た目は可愛いらしいのに
どこか影のある人だな、と思った。

第2章 作業日報事件#4

1ヶ月前に初めて廊下ですれ違った
あの日、恋斗は香織に一目惚れをした。
以来、恋斗の生活は香織中心になっていた。
それとは裏腹に、挨拶するのが精一杯
という煮え切らない日々が続いていた。

それでも、恋斗は好きな人がいる毎日が
幸せすぎて笑いが止まらなかった。


香織は恋斗と挨拶するとき、
いつだってつま先を恋斗の方に向けて、
目をじっと見つめてくれていた。
普通、職場の人間との挨拶で
立ち止まって相手の目なんか見ない。
ましてや男と女である。

香織とは言葉を交わしたことが
なかったのに、挨拶するたびにお互いの
気持ちがぶつかり合うような感覚があった。
いわば無言の会話である。

こんな不思議な女性は初めてだった。
人よりたくさん恋愛を経験してきた
恋斗の記憶の中にも、
香織のような魔性の女的な魅力を
持った人は見当たらなかった。

恋斗は作業日報を手に取って、
香織を探しに行った。
廊下でまだないないと言いながら
歩いている香織を見つけた。
でも本気で探している様子ではなかった。

「これ、あなたのですか?」

声をかけると香織はこちらを向いた。
すると香織は、仕事中には不釣り合いなほど
キラキラしたアイシャドウをつけていた。
待機中に盛ったのがバレバレだった。

「あ、ありがとうございます」

丁寧な言葉だった。でも目が笑っていた。

数時間後、香織の帰り際に
香織の車の前で偶然二人は出くわした。


すると香織は満面の笑みを浮かべてこう言った。

「作業日報ありがとうございました」

また丁寧な言葉だった。
恋斗は心の中で思わず言ってしまった。

「何がありがとうございましただよ。
わざとやったくせに!」


でもそんな軽口が叩けるような
状況ではなかった。
それが初めて香織から恋斗に
話しかけてきた瞬間だったからだ。

恋斗は緊張のあまり、うまく話ができなかった。

久しぶりの恋、本気の遊び…。
香織への気持ちをひと言であらわすなら
そんな感じだった。11年も恋愛から
遠ざかっていた恋斗にとって、
好きな人がいる毎日は非日常の連続だった。

恋ってこんなに尊いものなのか!
香織と出会ってからの恋斗は
生まれ変わったようだった。

ひとつだけ確かなことがあった。

それは、香織のことは香織以外から
知りたくないという感覚だった。
香織と仲良さそうな周りの連中に聞けば、
香織の素性は簡単に知ることができた。
でも、恋斗はそれをしなかった。

正確に言うと、もったいなくてできなかった。
もちろん周りの連中に対する嫉妬もあった。

二人にしかわからない磁場のようなものを、
どうして他の奴に話せるというのだろう。
いつしか香織とのことは、恋斗の中で
自分だけの秘め事になっていた。

ネットビジネスを生業としている
恋斗にとって、疑問に思ったことを
すぐに検索するのは常識だった。

恋愛というのはその対極に
位置するようなカテゴリーだった。
検索しても答えは出てこないし、
ましてや恋斗は香織のことを
香織以外から知ることができなかった。

香織から車の前で話しかけられたとき、
恋斗は香織が車で通勤していることを
初めて知った。正直驚いた。


恋斗の中で香織の設定は、
実家暮らしの20代の女の子だった。
送迎バスで駅まで行き、
電車でお家に帰るものだと
勝手に思い込んでいた。

初めて香織のパーソナルな情報を
知った恋斗は、少し嬉しくなった。

だが、あのとき

「家、近いんですか?」

「〇〇です」

という野暮ったいことしか
話せなかったことを
恋斗は激しく後悔することになった。

あのとき、一歩踏み込んで
食事にでも誘っていれば、
違う展開になっていたかもしれない。


絶好のタイミングを逃したかもしれない、
というこのときの嫌な予感は、
数ヶ月後に現実のものになった。

アクションをかけてきたのは、
一目惚れした恋斗ではなく、香織の方だった。

作業日報作戦、キラキラのアイシャドウ、
男社員たちを巻き込んだフラッシュモブ。
全部香織が仕掛けてきた。

恋斗はただ、それに気づいただけだった。

この人は本当に、素人が演じる
女優さんみたいだ、とこのとき思った。
演技はヘタクソなのに、目が離せない。
むしろそのヘタクソなところが、
たまらなく可愛いかった。

恋斗は心の中でこっそり香織に
「女優さん」というあだ名をつけた。

香織にコンタクトするチャンスを
ずっと待っていたのは、
一目惚れした恋斗の方だった。

でも、動いてきたのは香織だった。

それだけで、全部報われた気がした。

第2章 作業日報事件#5

香織がアクションをかけてきたのはわかった。
でも、恋斗には次の手が思いつかなかった。
すると翌日、休憩スペースで香織は
恋斗の正面の席に座ってきた。

恋斗は驚いた。休憩スペースには大勢いて、
席もたくさんあるのに、香織がわざわざ
自分の正面の席を選んだからだ。
恋斗だけ入り口に背を向けて座っているから、
周りの全員の視線が突き刺さった。

恋斗は無我夢中だった。
恥ずかしさよりも、目の前に座ってくれた
香織と話したいという気持ちの方が、
圧倒的に勝ってしまった。

周りの男社員たちは全員あぜんとしていた。
11年近く男しかいなかった職場の
象徴のような恋斗が、新入りの女の子の
向かいで必死に話しているのだ。

恋斗は向かいに座ってくれた香織を
退屈させまい、とテンションを無理やり
上げて必死に間をつないだ。
すると、さっきよりさらに多くの
熱い視線が恋斗の額あたりに突き刺さった。

そんなことはお構いなしに、恋斗は
作業日報のことで香織をいじって
一気に距離を縮めようとした。

「こんな俺のお尻の跡がくっきり
ついていそうなところに、
わざわざ作業日報を置くなんて、
君って天然だよね」


作業日報をわざと恋斗の椅子の上に
置いておいて、ないないと騒ぐ。
キラキラのアイシャドウをつけて待機している。どう見ても計算した行動をしておきながら、
見つけてくれてありがとうございました、
と真剣な顔でお礼を言ってくる。
天然以外の何者でもなかった。

普通の女の子なら、ここで完全に落ちる。
このゲームのような恋は、
あっさり恋斗の勝ち、となるところだった。

ところが、香織のこの後の返しに
恋斗は完全にノックアウトされた。


香織は少し間を置いてから、
「君って天然だよね」という
恋斗のいじりに、真顔で答えた。


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