
愛しているから、苦しかった。
2022年、今から三年前のこの時期に、わたしは最愛の母を自宅で見送った。
母は81歳で、がんと持病の腰の痛みを抱えながら、
最後の約二年間を家で過ごした。
母とわたしは、元々とても仲がよかった。
仕事も一緒、週末は一緒に飲みに行くような、親友みたいな関係だった。
だから、わたしが自宅で看ることは自然な流れだったし、
施設に預けるという選択肢は、最初からなかった。
でも、介護はきれいごとではなかった。
いちばん大変だったのは、自分の時間がなくなることだったと思う。
自分ひとり生きるだけでも精一杯なのに、
さらにもうひとりの生活を支える。
それは、確実に心の余裕を削っていった。
そんな中で、わたしは自分の中にある、見たくない気持ちと何度も向き合うことになる。
母のことが大好きなのに、
「いなかったらいいのに」と思ってしまう。
思ってはいけないことを、思ってしまう自分。
その自分を見てしまったことが、何より苦しかった。
おむつを替えることも、身体を支えることも、嫌ではなかった。
むしろ、自分にできることがあることに、喜びさえ感じていた。
つらかったのは、
愛しているはずの相手に対して、
残酷な感情を抱いてしまう自分と向き合うことだった。
なんてひどい人間なんだろう、と
本当に何度も、自分がイヤになった。
でも今ならわかる。
あれは、愛がなかったから生まれた感情ではなく、
愛があったから、抱いてしまった苦しさだったのだと思う。
あの時のわたしは、
母を大切にしたい自分と、苦しさから逃げたい自分の間で、必死に揺れていた。
心に余裕がなくなると、人は苦しさから逃げたくなる。
そんな自分が、目をそらしたくなるほど、醜く思えていた。
でも、今思えば、それは特別なことではなく、とても人間らしいことなのだと思う。
愛で生きるとは、聖人になることではない。
自分の中にある弱さを否定せず、
それでも、大切にしたいものを選び直していくこと。
その繰り返しなのかもしれない。
わたしはあの時間の中で、
何度も葛藤しながら、
それでも母と一緒にいることを選び続けた。
だから今、
「あの時間を、ほんとうに生きた」と思える。
母はいま、何を思っているのだろう。
きっと、心から喜んで、
やさしく微笑んでいるのかな。
愛は、いつもやさしい顔をしているわけじゃない。
それでも、選び続けること。
それもまた、ひとつの愛のかたちなのだと思う。