
4kgのおもり
「どこかが痛いのがデフォルトになるからね。」
職場の先輩が,ある日そう言った。
きっかけは先輩の肩の話だった。
「最近,左肩が痛くて〜」と言うので,
自分も肩が痛くなることがある,と返した。
原因はサブモニターの位置で,
首が捩れたまま作業していたせいだった。
正面に持ってきたら,ずいぶん楽になった。
「ああ,それはあるかもね〜」
みたいな話をしていた最後に,
「まぁでも」という間があって,
先輩が言ったのがそのひと言だった。
特に深刻な相談ごとというわけでもなかったし,
年をとることの実感を
いつか自分も思い知る時がくるのかなぁ,
とその場では笑って聞き流した。
春が少し過ぎる頃,
左膝に違和感を感じるようになった。
階段を降りるときに,
正座をするときに,
鈍い痛みが走る。
ひどい痛みではないんだけど,
でも,確実に違和感がある。
整形外科に行って,レントゲンを撮って,
結果を聞いた。
「手術するほどでもないですね。」
「周辺の筋肉をトレーニングしてカバーしてください。」
「あなた若いんだから」という励ましなのか,
「こんな程度の痛みで」という突き放しなのか,
よくわからないトーンだった。
そうですか,
とうなずいて病院を出た。
筋トレね。うん,わかった。
スクワットでもしようかな。
それから1年半,
膝は劇的に悪化することもなく,
なんとなく毎日をやり過ごしていた。
私はお医者さんの言葉をきれいに忘れており,
特に罪悪感も感じていない。
悪いけど,
人間はそういうものだと思う。
それから1年半ほど経って,
第2子となる長男が生まれた。
出産直後はバタバタしていて,
2歳になる長女への対応をしながら,
妻の回復を気にかけながら,
家がなんとなく新しい状態に慣れていくのを待っていた。
ある夜,
長男を抱っこしてあやしていた。
落ち着いてきたあとも,
体が無意識に縦に揺れ続けるのはなぜだろう。
おかげさまで私の膝はまた痛みだした。
ふと,1年半前のお医者さんの言葉を思い出す。
そういえば,筋トレしていなかったな…。
お医者さんの声が,
また聞こえてくる気がした。
ごめんなさい,これからまた頑張ります。
最初の計画はあっさり失敗した。
保育園の迎えを終えて,
家に帰ってから,
スクワットをする時間をとろう。
そういう算段だった。
実際には,
帰宅した瞬間から私ひとりの時間はなかった。
妻が晩ごはんの支度をしている中で,
長女は保育園を頑張ったご褒美に
「お菓子ちょーだい」と騒ぎ立て,
長男はひとりでのベビーベッドが不安なのか
抱っこしてほしそうに泣いていた。
この騒動の中,ひとりスクワットをする勇気はない。
長女に4分割パッキンのヨーグルトを与え,
長男は結局ずっと抱っこしたままだった。
もう,こうするしかないか。
ごはん食べてお風呂入ったら,
子どもたちと一緒にそのまま寝よう。
最初の計画はそういうかたちで消えた。
それでもやはり罪悪感は感じていない。
家に赤ちゃんがいるうちは,
だいたいそういうものだと思う。
しばらくして転機が訪れたのは,
お風呂前の時間帯だった。
妻と長女がリビングでテレビを見ている。
長男はぐずっていて床に置くと泣く。
抱っこしていればとりあえず落ち着いている。
この状況が,
何度か繰り返されていた。
抱っこしながら突っ立っているのも,
なんとなくもったいない。
そう思って,
そのままスクワットを始めた。
意識が高いわけでは全然なかった。
することがなかっただけ。
長男を胸の前で抱えたまま,
ゆっくり腰を後ろに突き出して,
落とす,戻す。
落とす,戻す。
4kgの荷重が,
膝の周辺にじわっとかかる。
長男は別に嫌がらなかった。
むしろ,
揺れが気持ちいいのか,
薄めを開いて落ち着いている。
これは,
トレーニングなのか,
寝かしつけなのか。
自分でもよくわからなかった。
「置いたら泣く」から始まって,
「抱っこしなきゃいけない」になって,
「突っ立っているのももったいない」になって,
「じゃあスクワット」になった。
消去法の連鎖だった。
いや,
消去法と言う程のものではなかったかもしれない。
端から見ると自重でもできることを
子どもを抱えながらストイックにやっている。
自分でもおかしいと思う。
パンパンに張ってきた膝をゆっくりと伸ばしながら,
ラスト数回を乗り切る。
長男はそんな事も知らずぐっすりと寝ている。
この滑稽さと愛おしさに,
お医者さんの声がちらつく。
お守りが,重りになっていた。
長男を守るために抱っこしている。
その抱っこが4kgの重りになって,
膝を治している。
私は流れでやっているだけ。
習慣の入り口は,
意識の高い場所にあるより,
こういう消去法の末にあることのほうが多いのかもしれない。
膝の痛みは治ったわけではない。
ただ,
何もしなければ悪化していたものを
食い止めている気がする。
スクワットはまだ続いている。
長男は,少しずつ重くなっている。
いつの間にか長男は,
6kg程度にまで大きくなった。
いつかは抱っこできないくらいの重さになる。
そうなったら,スクワットの重りはなくなる。
膝が完治することはないだろうけど。
そのとき私はどうしているだろうか?
たぶん,またスクワットをしている。
今度は孫を抱っこしながら。