
「完璧に備える」という病
──双極症の僕が、主治医の一言で気づいたこと
朝、目が覚めて、天井を見る。
今日の自分は、どっちだろう。
これが僕の毎朝のルーティンだった。布団の中で自分の「状態」をスキャンして、心拍の速さ、思考の量、体の重さを確認する。まるでスマホの充電残量を見るみたいに。
30%なら今日は省エネモードで過ごそう。80%なら……いや、80%は逆に危ない。元気すぎるのは躁の兆候かもしれない。じゃあ60%くらいがちょうどいいのか。でも60%って、何を基準に60%なんだ。
そもそも、「ちょうどいい自分」ってなんだ。
こんなことを毎朝、布団の中でやっていた。目が覚めてから起き上がるまでの数分間が、一日の中で一番疲れる時間だった。まだ何もしていないのに。
双極症と診断されてから、僕の生活には「備え」が増えた。躁のときにやらかさないためのルール。鬱で動けなくなったときのためのセーフティネット。気分の波をいち早く察知するためのセルフモニタリング。
それ自体は悪いことじゃない。むしろ、必要なことだと思っていた。
でも、ある日の診察で、主治医にこう言われた。
「薬を飲んでいれば、実際そこまで悪化してないでしょ?」
その一言が、静かに、でも確実に刺さった。
対策ノートが厚くなっていく日々
僕はRIZAPで8年間、パーソナルトレーナーから事業責任者まで経験した人間だ。人の行動変容を設計するのが仕事だった。目標を決め、計画を立て、リスクを洗い出し、想定外に備える。PDCAを回し、数字で検証する。
その「仕事の癖」が、自分の病気にも全力で発動していた。
躁状態のサインリスト。鬱状態のときにやるべきことリスト。睡眠時間の記録。気分のスコアリング。SNSの投稿頻度から躁の兆候を読み取るチェックポイント。財布の紐を締めるためのルール。人間関係で暴走しないための行動指針。
ノートアプリの中には、「双極症対策」というフォルダがあって、そこにはびっしりとドキュメントが並んでいた。
完璧だった。少なくとも、そう見えた。
RIZAP時代、僕は店舗の売上が落ちたときに真っ先にやっていたのが「リスクの洗い出しと対策シートの作成」だった。考えうる原因を全部リストアップして、それぞれに対策を紐づけて、優先順位をつけて、期限を決めて、担当者を割り振る。このフレームワークのおかげで、何度もピンチを乗り越えてきた。
だから同じことを、自分の双極症にもやった。考えうるリスクを全部洗い出して、それぞれに対策を紐づけた。「躁転リスク→対策A、B、C」「鬱期リスク→対策D、E、F」。完璧なリスクマネジメントシートだった。
でも実際のところ、僕はこの「備え」に追われていた。対策を考えること自体が、日常のかなりのエネルギーを食っていた。まだ来ていない躁に怯え、まだ来ていない鬱に身構える。24時間、自分という不発弾の横に座って、起爆装置を見張っているような感覚。
仕事のリスク管理は、リスクが現実化したら対策を実行して、結果を検証すればいい。終わりがある。でも、自分の脳のリスク管理には終わりがない。何も起きていない日も、明日何か起きるかもしれないという不安は消えない。
これって、健康的なセルフケアなんだろうか。
主治医の「そこまで悪化してないでしょ?」
正直に言うと、最初はムッとした。
こっちはこんなに頑張って対策してるのに、「そこまで悪化してない」って、そりゃ対策してるからでしょ、と。
僕の対策がなかったら、もっとヤバいことになってたかもしれないじゃないですか。この努力があるから今の状態を維持できてるんです。
……と、言い返したい気持ちを飲み込んで、「そうですかね」とだけ答えた。
でも、帰りの電車の中で考えた。
本当にそうか?
薬を飲み始めてから、実際に「ヤバい」レベルの躁や鬱が来たことは……正直、ほとんどない。波はある。調子のいい日と悪い日はある。でも、入院するような事態にはなっていない。仕事ができなくなるほど落ちたこともない。
対策のおかげなのか。薬のおかげなのか。
冷静に考えると、薬を飲み始めてからの安定は、対策ノートを充実させる前から始まっていた。つまり、ノートが3ページだった頃も30ページの今も、実際の波の大きさはそんなに変わっていない。
じゃあ、僕のあの膨大な「対策ノート」は、何に備えていたんだろう。
答えは、シンプルだった。
「もしも」に備えていた。まだ起きていない最悪のシナリオに、完璧に備えようとしていた。
完璧主義の正体
僕は自分のことを「完璧主義」だと思っていなかった。
完璧主義って、仕事で100点を求めるとか、部屋を一点の曇りもなく掃除するとか、そういうイメージだったから。僕はどちらかというと「まあいいか」で進めるタイプだし、部屋も散らかっている。
でも、ここで言う完璧主義は、もう少し厄介なやつだ。
「悪いことが起きたとき、完璧に対応できなければならない」という完璧主義。
これは一見すると「ちゃんとしている人」に見える。備えている。準備している。責任感がある。周りからは「自分のことをよく理解している人だね」と言われることもある。
でも裏を返せば、「備えが不十分だったら自分のせい」「対策が甘かったから悪化した、と思いたくない」という恐怖で動いている。褒められれば褒められるほど、「もっとちゃんとやらなきゃ」になる。
RIZAPで学んだことの一つに、「恐怖ベースの行動は長続きしない」というのがある。
ダイエットでも同じだ。「太ったらどうしよう」「リバウンドしたらどうしよう」という恐怖で食事制限をしている人は、いずれ爆発する。それよりも、「こうなりたい」「この体で何をしたい」というビジョンで動いている人の方が、圧倒的に続く。
8年間、何百人ものお客様を見てきて、これは例外なく当てはまった。恐怖で動いている人は、目標を達成しても安心できない。「次はいつリバウンドするか」という新しい恐怖が待っている。ゴールしても、ゴールの先にまたゴールがある。永遠に走り続ける。
僕は、自分の双極症に対して、完全に「恐怖ベース」で動いていた。
CBTで見えた「思考の癖」
僕はAIのコンテンツクリエイターとして活動しながら、個人的にCBT(認知行動療法)の考え方を日常に取り入れている。Claudeと壁打ちしながら自分の思考パターンを分析するのが、ここ最近の習慣だ。
CBTの基本的な考え方はこうだ。出来事そのものがストレスを生むのではなく、出来事に対する「解釈」がストレスを生む。同じ雨の日でも、「最悪だ」と思う人と「読書日和だ」と思う人がいる。違いは天気じゃなくて、受け取り方にある。
僕の場合、双極症に関する思考パターンを分析してみたら、面白いことがわかった。
「少しでも調子の波を感じると、最悪のシナリオまで一気にスライドする」
これを僕は「ホールインワン」と呼んでいる。ゴルフのホールインワンは素晴らしいことだけど、僕のは逆だ。一打で、最悪の穴に落ちる。
たとえば、ちょっと夜更かししてしまった日。
普通なら「まあ明日早く寝よう」で済む話だ。でも僕の脳内では、こんな連鎖が起きる。
「夜更かしした」→「睡眠リズムが崩れる」→「リズムが崩れると躁転のリスク」→「躁になったらSNSで暴走するかも」→「信用を失うかも」→「全部台無しになる」
一瞬で。ほんの0.5秒くらいで、この連鎖が走る。
冷静に書き出すと「いやいや、一日夜更かししただけでしょ」と思えるんだけど、渦中にいるときは本気でそう感じている。しかもこの連鎖は「知識がある」からこそ起きる。双極症について調べれば調べるほど、睡眠とリズムの関係を知れば知るほど、「だからこうなる」という因果のチェーンが精密になっていく。
知識が武器にも、呪いにもなる。
だから「備え」を積み上げる。対策ノートを充実させる。ルールを増やす。チェックリストを追加する。
でもそれは、不安を解消しているんじゃなくて、不安に燃料を注いでいたんだ。
「備えすぎ」がもたらすもの
完璧な備えを目指すと、何が起きるか。
まず、日常のエネルギーが「監視」に持っていかれる。
僕は朝起きた瞬間から自分の状態をチェックしていた。心拍は?思考のスピードは?昨日より元気すぎないか?逆にだるくないか?
これ、毎日やっていると地味に疲れる。自分の体調に過敏になりすぎて、普通の「ちょっと元気な日」と「躁の入り口」の区別がつかなくなる。楽しいことがあって気分が上がっただけなのに、「これ、躁じゃないよな……?」と疑い始める。
次に、「普通に生きる」ことへの罪悪感が生まれる。
友達と飲みに行って楽しかった。でも帰り道で「テンション上がりすぎてなかったか?」と振り返る。衝動買いをした。1,000円のTシャツなのに「これ、躁の散財じゃないか?」と不安になる。新しいプロジェクトのアイデアが次々浮かぶ。普通なら「調子いいな」で済む話だけど、「この発想の多さ、躁っぽくないか?」と疑う。
楽しむことに、ブレーキがかかるようになる。ワクワクすることが、怖くなる。
そして最終的に、対策そのものがストレス源になる。
チェックリストを完璧にこなせなかった日に自己嫌悪する。セルフモニタリングをサボった日に罪悪感を覚える。対策のための対策が必要になり、備えるための備えが増えていく。
これは、もう症状じゃない。自分で作り出した二次的なしんどさだ。
RIZAPで学んだ「70点の哲学」
RIZAPのトレーナー時代、お客様にいつも言っていたことがある。
「100点を目指さなくていいです。70点を続けましょう。」
完璧な食事管理を1週間続けて爆発するよりも、70点の食事を3ヶ月続ける方が、結果は圧倒的に出る。ダイエットの敵は「甘いもの」じゃない。「完璧じゃなきゃ意味がない」という思考だ。
100点を目指すと、99点でも「失敗」になる。70点を目指せば、80点取れた日は「上出来」になる。この認知の違いが、行動の継続率を大きく変える。
これは数字にも出ていた。100点を目指すお客様の継続率と、70点でOKと思えるお客様の継続率には、明確な差があった。面白いことに、最終的な成果も後者の方が高いことが多かった。100点を維持できなくなった瞬間に「もういいや」と全部やめてしまう人と、70点をコツコツ積み上げる人の差は、3ヶ月で歴然とする。
僕はお客様にはそう言っていたのに、自分の双極症に対しては100点を求めていた。
対策は完璧に。モニタリングは毎日。ルールは厳守。例外は認めない。
……お客様に「それじゃ続かないですよ」って言ってた張本人が、これだ。
笑えない。でも、笑った方がいい。自分のことになると見えなくなるのは、トレーナーも同じだ。
「これは相手の話。ここから先は俺の脳の癖」
CBTの壁打ちの中で、僕はひとつの「お守りフレーズ」を見つけた。
「これは相手の話。ここから先は俺の脳の癖。」
これは元々、人間関係のモヤモヤに対して作ったフレーズだ。誰かに何か言われてグルグル考え始めたとき、「相手が言ったこと(事実)」と「自分の脳が勝手に膨らませたこと(解釈)」を切り分けるための言葉。
たとえば、仕事の打ち合わせで相手の反応が薄かった。事実はそれだけだ。でも僕の脳は「嫌われたかも」「提案がダメだったのかも」「もう声かけてもらえないかも」と、勝手に物語を書き始める。その物語がリアルに感じられて、夜寝る前にグルグル回る。
でも、「これは相手の話。ここから先は俺の脳の癖」と唱えると、事実と物語の間に線が引ける。線の向こう側は「脳が勝手に作ったフィクション」だとわかる。わかれば、巻き込まれずに済む。
これが、双極症の備えにもそのまま使える。
「夜更かしした」──これは事実。
「だから躁転して全部台無しになる」──これは脳の癖。
「ちょっとテンションが高い」──これは事実。
「もう躁が始まっている」──これは脳の癖。
事実と解釈を分けるだけで、不安の大きさが全然違う。事実だけを見れば、対処はシンプルだ。「今日は早めに寝よう」「明日も続くようなら主治医に相談しよう」。それでいい。
でも解釈まで混ぜてしまうと、「今すぐ完璧な対策を」「あらゆるリスクに備えないと」になってしまう。
薬は「備え」じゃなくて「土台」
主治医の言葉を反芻するうちに、薬に対する認識も変わった。
僕はどこかで、薬を「対策の一つ」として捉えていた。対策ノートの最上段に「服薬」と書いて、チェックリストの一行目に入れている。チェックを入れるたびに、「よし、今日も対策の第一項目クリア」という感覚だった。
でも本当は、薬は「対策」じゃなくて「土台」なんだと思う。
土台があるから、その上で普通に生活できる。土台があるから、多少の波が来ても崩れない。家の基礎工事みたいなもので、一度ちゃんと打ってしまえば、その上で好きに暮らしていい。
基礎工事をした家に住んでいる人は、毎朝「今日も基礎は大丈夫かな」とは思わない。地震が来たら多少揺れるけど、基礎がしっかりしていれば倒れない。それを信頼して、日常を送っている。
なのに僕は、基礎工事をした上に、さらに免震装置をつけて、耐火壁を張って、避雷針を立てて、地下シェルターまで掘っていた。
住めるけど、くつろげない家。
主治医が言いたかったのは、たぶんそういうことだ。「基礎工事はできてるんだから、もうちょっと楽に暮らしていいんだよ」と。
「備えない勇気」と「手放す練習」
じゃあ、対策を全部やめればいいのか。そうじゃない。
これもRIZAPの経験から学んだことだけど、「やめる」と「手放す」は違う。
ダイエット中の人に「食事制限やめましょう」と言ったら、大体の人は「じゃあ何食べてもいいんですか!?」となる。そうじゃなくて、「ガチガチのルールを手放して、自分の体の声を聞きながら食べましょう」ということだ。ルールがゼロになるわけじゃない。ただ、ルールの「握り方」が変わる。ギュッと握りしめていたものを、手のひらの上にそっと置く感じ。
双極症の備えも同じだ。
対策ノートを捨てるんじゃなくて、「これは本当に今の自分に必要か?」と見直す。毎日のセルフモニタリングをやめるんじゃなくて、「週に1回、ざっくり振り返る」くらいに緩める。
完璧に備えるんじゃなくて、「最低限のラインだけ守って、あとは薬と主治医を信頼する」。
これが、僕にとっての「70点の双極症マネジメント」だ。
具体的には、こんな感じに変えた。
やめたこと:
毎朝の「状態スキャン」を義務にすること
気分のスコアリングを毎日つけること
SNS投稿前の「これ躁じゃないかチェック」
対策ノートの定期アップデート
続けていること:
薬をちゃんと飲む
睡眠だけはなるべく守る
「あれ?」と思ったら主治医に早めに相談する
信頼できる人に、調子を正直に話す
たったこれだけ。でも、これだけでいいと思えるようになるまでに、けっこう時間がかかった。
「やめたこと」リストを書き出したとき、最初は不安だった。これを手放して大丈夫なのか、と。でもよく考えたら、これは「やめた」のではなくて「必要なときに自然とやる」に変わっただけだ。調子がおかしいと感じたら、そのとき初めてチェックすればいい。毎日義務的にやる必要はない。
AIと壁打ちするということ
ここで少し、僕の仕事の話をさせてほしい。
僕は今、生成AIと習慣化をかけ合わせたコンテンツを発信している。AIを「便利ツール」としてだけじゃなく、「思考の壁打ち相手」として使うことで、日常の習慣や思考パターンを変えていこう、というメッセージだ。
これは完全に、自分自身の体験がベースになっている。
CBTの考え方をClaudeと一緒に使って、自分の思考パターンを分析する。「あ、今また『ホールインワン』やってるな」と気づく。「これは事実?それとも脳の癖?」と自分に問いかける。
AIは否定しない。でも、迎合もしない(少なくとも、ちゃんと設定すれば)。「それは思考の癖かもしれませんね」と、フラットに返してくれる。深夜3時にグルグル思考が止まらないとき、人には連絡しにくいけど、AIになら打ち明けられる。
ここで大事なのは、AIはカウンセラーの代わりにはならないということだ。主治医の代わりにもならない。診断も処方もできない。でも、「自分の思考を外に出して、眺めてみる」という行為のハードルを、劇的に下げてくれる。
日記を書くのが苦手な人でも、チャットなら打てる。考えがまとまらなくても、AIが「つまりこういうことですか?」と整理してくれる。紙に書くと「こんなこと考えてる自分、ヤバいかも」と怖くなることでも、チャットの画面なら不思議と書ける。
僕がこのコンテンツを作り続けるのは、過去の自分みたいな人に届けたいからだ。
完璧に備えようとして疲弊している人。自分の状態を監視しすぎて、かえって不安になっている人。「ちゃんとしなきゃ」に追われている人。
AIとの壁打ちは、そんな人にとっての「70点のセルフケア」になり得ると、僕は本気で思っている。
「しなやかに生きる」ということ
最近、僕が意識しているのは「しなやかさ」という言葉だ。
強い木は折れる。しなやかな木は、風に揺れても折れない。
双極症の波は、なくならない。完全にコントロールすることもできない。でも、波が来たときに「あ、来たな」と思って、少ししなって、また戻る。それでいい。
完璧な防波堤を作るんじゃなくて、波と一緒に揺れる葦になる。
RIZAPでもお客様に「体重は毎日変動するものです。昨日より500g増えたからって慌てなくていい。大事なのは週単位、月単位のトレンドです」と伝えていた。体重計の数字に一喜一憂する人は、必ずどこかで折れる。でも「まあこの辺を漂っていればOK」と思える人は、長く続く。
双極症の波も、体重の変動と似ている。毎日の小さな上下に反応しすぎると消耗する。週単位、月単位で「まあ大丈夫だな」と思えれば、それでいい。
……なんて書くとカッコいいけど、実際にはまだ全然できていない。ちょっと調子が悪いとすぐ「対策しなきゃ」モードに入るし、夜更かしした日は相変わらず「ホールインワン」が発動する。
でも、前と違うのは、「あ、今また完璧主義出てるな」と気づけるようになったこと。
気づけるだけで、半分は解決している。なぜなら、気づいた瞬間、自分と思考の間に「距離」ができるから。その距離があれば、「ここから先は脳の癖だな」と判断できる。判断できれば、巻き込まれずに済む。
CBTの世界では、これを「メタ認知」と呼ぶ。自分の思考を、一歩引いて観察する力。
面白いことに、メタ認知は「鍛えられる」。筋トレと同じだ。最初は気づくのに3日かかっていたものが、繰り返すうちに3時間になり、30分になり、やがてリアルタイムで「あ、今脳の癖が走ってる」とわかるようになる。
僕にとってはこれが、どんな対策ノートよりも強力な「備え」になっている。
自分に優しくすることの難しさ
一つ、正直に書いておきたいことがある。
「備えすぎなくていい」「70点でいい」「しなやかに」──こういう言葉は、言うのは簡単だ。でも実行するのは、本当に難しい。
なぜなら、完璧に備えることは「自分を守るため」だったから。
対策ノートを作っている間、僕は自分を守っている実感があった。何か悪いことが起きても、「ここまで準備した」と自分に言い聞かせることができた。備えを手放すことは、その「お守り」を捨てることでもある。
裸で外に出るような怖さがある。
そして、「自分に優しくする」こと自体に、後ろめたさを感じる自分がいる。「甘えじゃないか」「サボってるだけじゃないか」という声が聞こえてくる。特に、RIZAP時代にストイックに働いてきた自分の残像が、「お前はもっとやれるだろう」と囁いてくる。
トレーナーとして何百人ものお客様に「自分を追い込みすぎないで」と言ってきた。でも、その言葉を自分に向けるのは、こんなにも難しい。
でも、主治医の言葉を思い出す。「そこまで悪化してないでしょ?」
そうだ。実際、そこまで悪化していない。薬がある。主治医がいる。信頼できる相談相手がいる。AIという壁打ち相手もいる。
完璧じゃなくても、僕は大丈夫だ。
……と、頭では思える。心がついてくるまでには、もう少し時間がかかるかもしれない。でも、それでいい。「すぐにできなくても、方向が合っていれば大丈夫」というのも、RIZAPで学んだことだから。
おわりに──「備える」から「暮らす」へ
この文章を書いている今日も、僕は薬を飲んだ。朝起きて、コーヒーを淹れて、パソコンを開いた。特別なセルフチェックはしていない。調子はまあまあ。それだけ確認して、仕事を始めた。
以前の僕なら、「まあまあ」が不安だった。もっと具体的に数値化しないと。スコアは何点?昨日と比べてどう?このくらいの「まあまあ」は過去のデータと照らし合わせると……
今は、「まあまあ」で十分だと思える。
「まあまあ」って、実はすごく贅沢な言葉なのかもしれない。「最高」でも「最悪」でもない、真ん中のあたり。双極症を生きていると、この「真ん中」がいかに貴重かがわかる。波の上でも下でもない、凪の時間。
以前はその凪すら信用できなかった。「この平穏はいつまで続くんだろう」「次の波はいつ来るんだろう」と。凪の日に凪を楽しむのではなく、次の嵐の準備をしていた。晴れの日に傘を何本も持ち歩いているようなものだ。重いし、手がふさがるし、肝心の晴れた空を見上げる余裕がなくなる。
でも今は、凪は凪として味わえばいい、と思えるようになってきた。明日のことは明日考える。今日が「まあまあ」なら、今日は「まあまあ」を味わう。それだけでいい。
双極症は、僕の一部だ。でも全部じゃない。
波はあるけど、波のない海なんてない。大事なのは、波をなくすことじゃなくて、波があっても舟を漕ぎ続けること。完璧な航海図を描くことじゃなくて、風を見ながら帆の角度を変えること。
僕はこれからも、70点の日々を続けていく。
完璧な自分にはなれない。波のない人生は手に入らない。でも、波があることを知っていて、波が来ても大丈夫な土台があって、波に巻き込まれそうになったら「これは脳の癖だ」と気づける。それだけで十分だと、今は思える。
もし同じように、完璧に備えることに疲れている人がいたら、伝えたい。あなたの「備え」は、あなたが自分を大切にしてきた証拠だ。でも、もしその備えがあなた自身を苦しめているなら、少しだけ手のひらを開いてみてもいいかもしれない。
対策ノートの代わりに、お守りフレーズを一つだけポケットに入れて。
「これは事実。ここから先は、脳の癖。」
それだけ持って、今日も普通に、暮らしていく。