
直巻きおにぎり~進行性核上性麻痺と向き合う~
エッセイ
一人きりのダイニングテーブルで、直巻きおにぎりを食べる。具は何も無い。昨夜炊いた御飯を握って海苔を巻いただけのおにぎり、鼻の奥に海苔の香りが広がると涙が溢れそうになる。
母が施設に入ってしまえば、どんなに楽だろうと思った。でも今は、胸が痛い。
秋からはじまった在宅介護は、早々に限界になてしまった。母と二人暮らし、私が会社で働いているあいだ、自宅にいる母を一人にしておくなんて、もう無理だと思った。
母のことは不憫だけど、これで良かったんだ。私は精一杯やりました。そう自分に言い聞かせるけど、やっぱり胸の痛みは治まらない。
昔から、おにぎりは海苔が直巻きかれて、しっとり白飯に貼り付いている方が好きだ。海苔を後から巻くパリパリタイプも嫌ではないが、コンビニなどでよく見かけるせいか、商業的な雰囲気がある。直巻きタイプだって売っているから、あくまでも私のイメージに過ぎないのだが。
うどんと蕎麦どっちが好き、きのこの山とたけのこの里は、ポテチならカルビー派、湖池屋派。みたいに、おにぎりの海苔直巻き派とパリパリ派も個々の好みに分かれるものだ。
すっごくお腹が空いたとき、何が食べたいかって、頭に浮かぶのは、いつも直巻きのおにぎりなのだ。
幼稚園のお昼ご飯や遠足や運動会にも、我が家のお弁当には、母お手製の直巻きおにぎりが入っていた。
海苔が白飯の水分を含んで、張り付いている姿が融和しているようにも見える。冷めて美味しいものは、なかなか無いけど、おにぎりだけは特別だと思う。
母の体調が悪くなったのは、昨年の春のこと。原因がなかなか判ず、秋に診断が下りて、在宅介護がはじまったけど、年末には施設に入ってしまった。あっという間だった。それだけ、病気の進行が早いということだ。
その年の五月初旬頃から、母は体調不良で寝込む日が多くなった。いつもならば、私より早く起きて、仏壇のお茶と水を取り替え、そそっかしい人だから、ガシャンガシャンと調理器具やお皿の音をたてて朝食を作るのだけれど。
世間はゴールデンウィークでも、私には仕事があり、会社に行く時間になっても母はベッドで伏せっていることが多かった。三日に一度は、そんな状態だった。
近頃、身体がだるいと言い、日毎に呂律が回らないくなっていく。
もう73だし、歳のせいかな。母は、そんな風に言っていたが、半月経っても、ひと月過ぎても、様子は変わらなかった。
体調の良い日には、いつもどおり起床して、昼間は車を運転し、近所のスーパーまで買い物に行くことも出来のだが。
今日ね、スーパーで転んで尻もちついて、店員さんが凄く心配してくれたの。
そんな報告を度々聞くようになる。
洗濯物を干すときに、夕食の調理中に転倒する姿を見かけるようになった。決まって後ろ側に転んでいた。
母は、原因を見つけるため病院へ行くことにした。近所の外科や内科のクリニック、市立病院など。どの先生の見解も決めてになるものではなかった。病院を転々としていくうちに、自宅から車で一時間ほどの都市部にある脳神経外科で診断がおりた。
脳血腫を患っていた。
即入院して、翌日には手術をするというのだ。
脳外科では、この種の手術は、よくあるらしい。
急なことだったので驚いたが、でも原因が判って良かったと思った。あとは、この病気を治せば良いのだから、このときは胸の中で渦巻いていた靄が晴れていく気がしたのだが。
手術後、三週間のリハビリを経て、母が自宅に帰ってきた。もう身体は、もうすっかり治っていて、昔と同じような生活が待っているのだろうと思った。でも、事態は思わぬ方へ進んでいく。
退院後の母は、手術前よりも多少呂律は回るようになったものの、相変わらず、自宅でも外出先でも転倒している。更に判断力や記憶力が、以前よりも低下している気がした。
再び、私の胸の中に靄が渦巻いていく。それは真夏の雨雲ように、不気味な靄だ。
母は、もとより忘れものや落としものの多い人だか、脳血腫で入院したときの領収書を失くしてしまう。医療保険金の請求には絶対に必要なものなのに。母が何かを紛失するなど珍しくないが、私から領収書を受け取ったことすら覚えておらず、それどころか私が亡くしたと疑ってくるのだ。
母の異変は他にもあった。ある日の夕食のこと、おかずの鰻の盛り付け方でモメたことがあった。
母は、白飯の上にのせて、うな丼にして食べると言ったが、私は白飯と鰻は、別の皿に盛ってほしいと言った。二、三回伝えたはずなのに、案の定ご飯の上に盛り付けてしまった。
そそっかしい母がまたやらかしたと思った。私がそれを責めるたら、どうしてだろう、母は子供のように声を上て泣き出してしまった。いつもなら、じゃあ自分でやりなさいよと強気で言い返してくるはずなのに。
それからというもの母は度々ぐずるようになった。玄関先で靴が上手く履けない、食事中に瓶詰めの蓋が開かない、背中がかゆい。そんなことで、ぐずって私にどうにかしてと訴えてくるのだ。
それに加えて、足の具合もみるみるうちに衰えていく。廊下と和室の敷居など、僅かなの段差で躓いてしまうのは、足の弱い年寄りならばよくあるが、これだけではない。
ダイニングキッチンなど、油っけのある床をスリッパで歩くとねちょねちょと底が張り付くことがあるだろう。普通の人ならば難なく歩けるが、母はこれに足をとられて転んでしまう。足を上げる力がなくなっているのだ。歩幅も健康な人の半歩が母にとっての一歩なのである。
脳血腫は回復に向かっているのに、身体は衰える一方だった。
手術後の通院で母が杖を付いて診察室に現れたときは、主治医の先生も驚きを隠せなかったようだ。
あまりに転倒が多いので、私がホームセンターで買ってきたのだ。
脳血腫の手術後、最後の診察の日に主治医の先生から伝えられた。
母は進行性核性麻痺の疑いがあると。
聞いたこともない病名だ。翌週には検査をすると言う。
私は、病気の症状はさておき、うんざりしていた。
この頃になると、母の日常生活には、私の手がかかるようになっており、この日の通院も、私が車で一時間運転して病院に連れてきていた。まだこの生活が続くのだと思うと嫌気がした。
麻痺というぐらいだから、処方箋が出て薬でも飲んでいるうちに治るのかと思っていたのだが。
翌日、病名をネットで検索して愕然とした。
主な症状は次のとおりである。
後ろに転倒しやすい。病気の初期から転倒が目立つ。
歩幅が小さくなる。バランスが悪くなる。体が硬くなる。
眼球を上下に動かしにくくなる。特に下が見ずらい。
呂律がまわりにくい。
感情表現の変化。判断力の低下。
個人差はあるが、3年から5年で歩行に介助や車椅子が必要になる。
5年以上経つと日常生活のほとんどに介助が必要になる。
要するに身体の麻痺と認知症を伴う病気である。
似たような病気にパーキンソン病がある。個人差はあるが、パーキンソン病は、発症から十年以上経っても、自立した生活をする人もいて、更に病気を克服する人もいる。
進行性核上性麻痺方が、病気の進行が早いうえに、発症の原因や治療法も解明されていない。
核上とは、脳の一部のこと。ここに異常にタンパク質が蓄積し、神経細胞が減少していくのだ。
つまり母は、次第に身体が動かなくなり、やがて寝たきりになる。
この年の春から具合が悪いと言い出しから、その頃に発症したようだ。そうであるとすれば、まだ一年もたっていないのだ。特に早く病気が進行していると思った。
母は、脳血腫と進行性核上性麻痺を併発していたのだろう。
難病という、手強い敵が姿を現した。
ドラクエで例えるなら、バラモスを倒した後のゾーマのようなものか。
いや、この頃の私にそんな冗談を言う余裕はなかった。
とにかく、どうしていいか分からない。介護のことなんて何も知らない。
このときは、ケアマネジャーがどんな仕事かも知らなかったのだ。
もう母は、車を運転することもできなければ、ひとりで外を歩くことも出来ないだろう。いや、そんなことをしては危険だ。
二人暮らしなので、母を面倒みるのは、当然私である。
時を同じくして、私は歯の根尖の病気になり激痛に襲われてしまう。更に住んでいるマンションを取り壊すことが決まり、大家に転居をせまられる。
母の病気と歯の痛みと転居の三重苦になった。
この三つの出来事で頭が破裂しそうになる。
会社の昼休みに、ロッカールームで今後のことを考えていたらあっという間に時間が過ぎた。
休日には、母の通院に立ちあい、歯医者さんい通い。不動産のサイトをチェックしたものだ。
三つの中で、一番の心配は母の病気だった。
歯医者に通ったことも、引っ越しをしたこともあったけど、介護の経験はなっかた。
難病の検査をして、結果で出るまでに三週間ほど要す。そのあいだにも母の具合は徐々に悪くなっていく。マンションの二階に住んでいたため、通院で外出するときには、母は手すりにしがみつくようにして、一段一段慎重に降りていくのだ。
病院の相談室では、検査の結果次第では今後について話をすると言われた。でも私は不安で仕方ない。転倒する姿や些細なことで、ぐずる姿を見るにつけ不安になる。直感だけど、母は間違いなく進行性核上性麻痺を患っていると思った。結局、この感は当たっていたのだが。
インターネットで、難病相談にのってくれるコールセンターを見つけ、藁を掴む思いで電話したら、検査結果が出る前でも介護保険を申請することは出来ると言われた。
介護保険は、病気の種類ではなく、その人の身体の状態で利用の可否が決まるのだという。私は、そんなことすら知らなかったのだ。
市役所へ行き、介護保険の申請をして、後日に調査員の方が、自宅に来て、母の身体の状態を見る。そこから2週間ほどして結果が出た。
結果は、要介護1だった。でも、ここからさほど時を要さず、介護状態が悪化していくのだろうと思った。
介護保険の申請した日のこと。市役所の帰りに、夕飯の買い物をするためにショッピングモールに立ち寄った。慣れない申請の話に疲れてしまったのだろうか。しばらくベンチの腰かけて、ぼんやりとしていた。
進行性核上性麻痺を患う人は、十万人あたり十名から二十名ほど。発症は、年間で十万人に一人だいう。この数字のとおり発症者は稀である。
なぜ、うちの母が。どうして母に限って発症したのだろうと思ってしまう。
夕暮れどきというこもあって、買い物客が多かった。大勢の買い物客の中で、なぜか目につくのは、母親に手をひかれた幼い子どもである。
あなたが幼い頃、お母さんにたくさん面倒みてもらったでしょ。だから、今度はあなたが面倒みてあげてね。
ケアラーになった私を気遣って会社の上司がかけてくれた言葉だ。
通り過ぎる母と子をぼんやりみているうちに、子供の頃に母に握ってもらった、直巻きおにぎりが蘇ってくる。
幼稚園の頃、ミッキーマウスのお弁当箱に直巻きおにぎり詰めてもらった。
お昼ご飯にそれを食べる。白米の食感と共に広がる海苔の香りがたまらなく好きだった。
もうすぐ、小学生なんだから、箸が使えなかったら給食食べられないでしょ。そう幼稚園の先生に怒られたことがあった。
自宅では、箸を使って食事をしているのだから大きなお世話なのだが。
帰宅後、先生に怒られたことを母に話すと、だっておにぎりが好きなんだから、しょうがないよね。そう言って慰めてくれた。
小学生になってからも、遠足の日も運動会の日も直巻きおにぎりがお弁当に入っていた。目的地よりも競技よりも、おにぎりを食べることが楽しみだった。
社会人になってからも給料日前や仕事が忙しいときは、直巻きおにぎりを持って行き食べたものだ。
私は進行性核上性麻痺と闘っている。そう言えばカッコいいかもしれない。でも病気と闘っているのは母である。私に出来ることは、この病気としっかり向き合うことである。目を逸らしたり、適当にあしらっていたら、後で取り返しのつかなるかもしれない。私に出来ることを母親ファーストでやろうと思った。
◇
この年は九月下旬まで、真夏のような暑さが続いていたが、十月に入ると幾分涼しくなった。
この頃の母は、杖を突けば通院先の病院内を歩くことが出来た。カートにつかまれば、スーパーで買い物も出来る。母は、お寿司が好物なので、病院の帰りに回転寿司屋に寄って食事もした。
認知症が進んで、注文に使うタブレットの操作ができなくなり、手や腕も麻痺のせいで思うように動かず、何回もお茶こぼすので、その度に私が拭いたのだが。
介護保険が適用されると、介護業者とケアマネジャーが決まる。
ちなみにケアマネージャーとは、介護状態の人につくマネージャーである。この人が把握、管理することにより進められていく。
ここまで来ると、私の心は幾分軽くなる。自分の他に母を心配してくれる人が、身近にいるのは心強い。
十月中旬に、自宅で在宅介護開始に伴う会議がおこなわれた。我が家の六畳間に、私と母を含め大人が八名ほど入り、窮屈な状態で進められた。ただの顔合わせだけでなく、入浴介助や介護機器の担当者も含まれているため、自宅の間取りや浴室の様子を見る必要があるという。
数か月前から、シャワー浴のみだった母は、ようやく浴槽に入ることが出来た。足が悪く浴槽が跨げなかったのだ。以前、風呂場用の踏み台を購入し試してみたが、母の足の状態では不安定なため止めていた。
ケアマネジャーに入浴介助、介護機器にリハビリという様々な担当者が集まった。これだけ揃えば頼もしかった。母は介護機器のある家で生活し、数日に一度は入浴し、週に一度はリハビリに通う。私は母をスーパーに連れて行き、カートにつかまる母を気遣いながら買い物をして、通院に立ち会い、そのときの様子をケアマネジャーに伝える。
これからしばらくは、こんな日々が続くと思っていた。
でも、現実は、そんなに甘くなった。進行性核上性麻痺は私の想像を超えていく。
この頃の母の生活は、次のようなものだ。朝起きて、お仏壇のお茶と水を替える。朝食を食べ、その後にテレビを観る。朝食をしっかり食べる人ので、昼食は軽く済ませる。午後になり、洗濯物を取り込み畳む。身体の調子が比較的良いときは、夕食を作り、十時頃には消灯している。
洗濯物の取り込みは、危険だからやらなくてよいと言うのだが、母は運動になるから、やりたいというのだ。ちなみにこのときに何度も転倒しているのだが。
ただし、難病のせいで寝込んでしまう日も度々あった。
ちなみにこの頃の私の休日の楽しみは、母がテレビを観ている数時間のうちに食料品や日用品の買い物を済ませ、時間が余ればカフェでお茶を飲むか、ワーキングスペースでnoteを書くことを楽しみにしていた。
リハビリ初日のこと、母は迎えにきたスタッフに連れられて、リハビリ業者の店舗へ向かった。運動が好きな人なので、私は特に心配はしなかった。少しでも身体の状態が良くなればと思っていた。
母は、もともとは、スポーツや旅行が好きで、特にスキーが好きだったので、スキー場には、よく私を連れて行った。それもあって私の趣味はスノーボードだ。
その日、私が仕事を終えて自宅に帰ると、母は寝室で横になっていた。リハビリを終えて疲れているのだと思った。でも次の日もその次の日も寝込んだままなのだ。
母に事情を聞いてみた。リハビリの初日、業者の店舗へ行き、店内のフロアで運動をはじめたが、メニューを半分程を終えたところで、具合が悪くなり帰宅するとこになったという。
たかが、それだけで寝込んでしまったようだ。
結局、母の体調が戻ったのは五日後のことだ。数日間、ずっと船酔いしたときのような吐き気と眩暈に悩まされていたそうだ。
これには、私だけではなくケアマネジャーも驚いでいる様子だった。発症者が少ない病気なだけにスッタフたちも対応に苦慮しているのだろう。
難病がリハビリを嘲笑うように母に襲い掛かったようにも見えた。
数日後、ケアマネジャーより連絡があり、リハビリを取り止め、訪問看護に切り替えることになった。
母は七十三歳である。その上に難病の患者ともあれば、リハビリが緩やかな運動であることは容易に想像がつく。それに加えて本人は運動好きなのだ。その人が数日間寝込み、リハビリはもう無理と言い出すのだ。この難病の進行がいかに早いか思い知ることになった。
十一月の中旬になると、ようやく私の歯の痛みが治まる。右の奥歯から膿が出て、なかなか治まらず困っていたのだが、発症から二か月してやっと落ち着いた。大家からマンションの転出の要請も来ているが、期限はまだ先のため後回しにすることにした。
この時期になると母の足は一段と悪くなる。
ある朝、今日は一段と足が重いと言う。いつもよりも歩幅が小さい。健康な人の半歩が、母にとっての一歩だったが、四分の一歩になっている。日頃、介護用の手すりや家具に掴まりながら、家の中を歩いていたが、もはや掴まるというよりも、しがみついているように見えた。
すぐにケアマネジャーがやって来て、母の様子をみる。腰をかがめて、あるいはしゃがんで、足取りを見つめる。
ちょうど入浴介助の日と重なっていたので、母の入浴中に私は別室でケアマネジャーから報告を受けた。
お母様の様子を見させてもらいましたが、仕事柄、先の先のまで考えなければいけませんので。
ケアマネジャーが言い出す。私は、何を言おうといているのか察してはいたが。
同時期に、通院先の主治医の先生からも施設で暮らした方が良いと告げられた。
この頃になると、以前より歩幅が小さくなり、判断力も低下したせいか、椅子に座るときのタイミングが合わずに転倒することが、しばしばあった。病院の待合室にあるソファーに座れず手前で尻もちをついて転ぶ。そんな状態だった。
数日後、ケアマネジャーが介護施設のカタログを抱えて自宅にやってきた。母が具合が悪いといってから半年しかたっておらず、足が悪くなってからは、三か月ほどである。改めて、この難病の進行の早さに驚いた。
高齢化社会のため、介護施設を利用するお年寄りは相当数いる。どこも満員で空きが出るまで待たなければないらい。それまでは、在宅介護を延々と続ける。そんな話をよく聞く。もしや、私と母もその局面に遭遇するのでは。そんな風に思っていたのだけれど、運が良かった、運が味方してくれた。
ケアマネジャーが言うには、自宅から車で20分ほどの施設に空きがあるのだという。私は、紹介されたその施設を訪問することにした。相談員の方が出迎えてくれて、館内を見て回る。明るくて、清潔感もあり、スタッフの人たちも親切だ。ここに決めようと思った。
母の難病を知ったとき、ある残暑の日に、お墓の草むしりをして墓石に手をあわせた。困ったときの神頼みとは言うが、久しぶりに菩提寺も参拝した。その折に母を助けてくださいと願った。ご先祖様や仏様に気持ちが通じたのだろうか。
母に施設のことを伝えると、あらーそうなのと言い、ぼんやりしている。拍子抜けするような回答だったが、これも難病のせいなのだ。脳神経が麻痺し、ときに無関心な発言や振る舞いをするのだから。
施設への入所は、翌年一月である。発症以来、介護に必要な手続きやら通院やら、あれやこれやと奔走していたら、あっという間に十二月だ。あと一か月ほど一緒に過ごし、お正月明けからは、母は施設で、私は自宅で、別々に暮らせば良い。なんて考えていた。でも、ここで、また難病が悪さをする。
母の足が更に悪くなる。もう、自室とトイレの往復のみで精一杯だ。家は2LDKなのだから、大した距離でもないのに。母は、食卓や冷蔵庫にも掴まりながら歩く。家具や家電が所狭しとあるので幸いにも掴まって歩けるのだ。ずっと狭い家が不満だったが、このときばかりは狭くて良かったと思った。でも、ときどき掴まっていても、踏ん張りが効かずにその場に崩れてしまうこともあり心配でならない。
この時期になると、仕事中でも母のことが心配でならない。自宅で転んでいないだろうか。転ぶだけならともかく、一人で起き上がれるだろうか。頭を強く打ち脳血腫が再発したり、手をついた拍子に骨折などしては、また入院が必要になるかもしれない。そうなれば施設の入所に影響しないだろうか。
すでに母は、通院以外での外出はしていない。不要な外出は避けたほうが良いだろう。家庭生活に必要な買い物。お役所や病院での手続きもすべて私がおこなっている。もうすぐ、お正月休みがやってくる。緊急時以外は、病院も診てくれない。進行性核上性麻痺は、なんと進行が早いのだろう。正月明けまで、母の足は持つのだろうか。様々な不安が私の胸の中で渦巻いていた。
我が家はマンション暮らしだが、二階にあり、エレベーターは無い。建物の前は、駐車場になっていて、私の車も止まっている。足の悪い母は外出するたびに二十段ある階段を下らねばならない。日頃、何気なく使っていた階段が、私たち親子の障壁になるとは思わなかった。
十二月二十五日が最後の通院。翌二十六日が施設の入所日になった。入所予定日は正月明けにしていたが、母の足の状態を考慮し前倒ししてもらった。施設の相談員の方も前倒しには動揺していたが、受け入れてくださったのだ。
母と暮らす最後の二日間は、連日あの二十段の階段を下らねばならない。二十五日の朝。私は、まず母にヘルメットを被らせる。玄関を出て、抱えるようにして階段へ着くと、手すりにしがみつく母の後ろに私が付いて両手で母のわき腹を押さえながら、歩調を合わせて一段一段下っていく。
大丈夫、大丈夫、頑張って。私は声をかける。先月の通院時も同じようにして下りたが、そのときよりも下りるペースが落ちていた。
母が言うには、上りよりも下りの方が怖いのだという。
階段を踏み外さないように、二人で慎重に下りていく。母は小刻みに震えている。押さえる私の両手に伝わってきた。どうにか二人で階段を下って、車に乗り込む。
とにかく無事に通院を終えたい。私はそればかり考えていた。明日になれば、施設の職員に見守られながら母は暮らすことが出来るのだ。その日は雨が降っていた。車を走らせ、ごみごみとした都市部のオフィス街を抜けていく、こういうときに限って強引に道を渡る歩行者に出くわし、ハラハラしながら通院先に辿りついた。
病院に着いたら、車椅子を借りて慣れない手つきで乗せる。もう母は、杖をついて院内を歩き回ることなど出来なくなっていた。
診察を終え、自宅に着くと階段の上りが待っている。朝の下りで力を使っているため、私がおんぶして階段を上ることを母に提案したが、それを断り、自力で上ると言う。朝とおなじように、私が支えながら慎重に上る。下りのときのような震えはない。力を込めながら、階段を上る母の姿を見るにつけ、せめてこれぐらいは、私に頼らず自力でやりたいという思いでいたのだろう。
翌朝は、すっきり晴れていた。いつものように、母は、父の写真がある仏壇に手を合わせ、朝食を食べたら、朝のドラマを観ている。でも、その後ろ姿は、いつもより小さく寂しそうに見えた。
その後、昨日と同じように一緒に階段を下って車に乗り込んだ。連日の階段の上り下りを終えて、施設へ向かった。
師走の空気は澄んでいる。雲一つない青空の下、私は車を走らせ、助手席に母が座り、トランクには、これから施設で使う日用雑貨や着替えが積んである。私が幼い頃、幼稚園で使う道具に名前を書いてくれたように。私はそれらの一つ一つに母の名前を書いた。
その荷物の揺れる音を聞きながら、私はアクセルを踏み車を進めた。
◇
年末年始は仕事のため、慌しく働き、ようやく私にも休日が訪れた。いつもより遅く目覚めて、ダイニングキッチンへ行くと、卓上の皿に直巻きおにぎりが一つ置いてあった。昨夜、私が握ったものだ。炊飯器に余った白飯をまとめて、海苔を巻いただけのおにぎりである。
それを口へ運べば、海苔の風味が鼻の奥に広がる。
あらかじめ海苔の巻いておいた。直巻きのしっとりタイプのおにぎりだって、コンビニでもスーパーにも売っているけど、自分で握ったものとは、どこか違う。握り具合なのか、白飯や海苔の質感なのだろうか、確かなことは分からない。
この風味が広がった瞬間に、なぜだろう目頭が熱くなる。その熱さは気管を通り胸中で痛みに変わった。
部屋は静まり返っている。もうドシャンガシャンと転ぶ音は聞こえない。朝ドラを見ていたテレビは消えている。
来月、母は七十四歳になる。まだ、老後の生活を楽しむ同年代の人たちは大勢いるだろうに。
父と共に商店を営み、経営が傾くとパートに出て、子供たちを育てた。子育を終え、ようやく悠々自適な生活がやって来たのに、そんな時間は束の間で、今度は闘病の日々がやってきた。
これから私は、お金の心配をしなければならない。昨年は秋から、はじまった在宅介護は早々に終わった。あの頃は、とにかく母の身体が心配だった。でも今は、自宅より安全な場所に居る。
ただし在宅介護に比べて、施設は断然お金がかかってしまう。
どうすれば良いか。まずは、母の乗っていた軽自動車を買い取ってもらおう。そうすれなある程度の金額にはなるだろうか。
胸の痛みと込み上げて来る感情を抑えながら、直巻きおにぎりを頬張り、つとめて冷静にそんなことを考えていた。