
【短編小説】大手町22時の影(シャドウ)~最終章 泥舟の終わり、それぞれの海~
「今さら逃げられると思うなよ」
失踪直前、乾社長から葉月のスマホに届いた最後の一文。
社内調査では「計画的な夜逃げ」と結論づけられたが、真相はもっと惨めなものだった。
乾社長は、膨らんだ水増し請求の穴埋めをすべて葉月さんに押し付け、一発逆転の金を回収しようと脅してきたのだ。
だが、元サッカー部の華やかなイケメンもそこまでだった。すでに彼には会社を維持する勢いも余力もなく、その脅迫を最後に、本当に夜の街へと惨めに消えていった。
残されたオフィスで、葉月さんと専務・統馬の関係は泥沼のように続いていた。
専務はデブでドスケベな男だったが、創業者一族のボンボンであると同時に、叩き上げの優秀な営業マンという一面を持っていた。
「葉月くん、海外と渡り合うなら、語学だけじゃダメだ。一流のマナーと、このワインの歴史を知っておきなさい」
お酒が大好きな二人は、夜な夜な高級なシャンパンに酔いしれながら、次の輸入仕入れの企画に花を咲かせていた。
統馬は本気で葉月を愛し、彼女を「一流の女」に育て上げようと、自分の持つ知識を熱心に注ぎ込んでいた。不倫という歪んだ形ではあったが、二人で過ごすその時間だけは、確かに本物で、楽しかったのだ。
だが、代償はすぐに回ってきた。
「最近、外食が多すぎるんじゃないか? 会社の付き合いって、本当に断れないのかよ。」
大企業に勤めるお堅い婚約者。
葉月への厳しい追及が始まっていた。
結婚を目前に控え、不自然に遅い帰宅と、隠しきれない高級シャンパンの匂い。男の影。婚約者の冷ややかな視線に、葉月は焦りを募らせていく。
正式な処分が下ったのは、そのすぐ後だった。
会社の絶対権力者である「会長」に未回収騒動が届き、統馬は激しく責め立てられた。
別れたくない、でも自分の立場は守りたい。
頭の中が真っ白になったボンクラ専務が導き出したのは、あまりにも身勝手な決断だった。
「葉月くん、これを……受け取ってくれ。君をこの会社に置いておくことは、もうできない。でも、君への気持ちは・・・。」
差し出された封筒を前に、葉月のプライドは粉々に砕け散った。
「私、結婚するんです。婚約者がいるんです」
初めて明かされた真実に、統馬の顔が絶望に歪む。
しかし、時すでに遅し、だった。
葉月の度重なる不審な行動を突き止めていた婚約者から、非情な宣告が下る。
「君みたいなだらしない女を、海外赴任に連れて行けるわけがない。結婚は白紙だ。……それから、その指輪も返してもらうよ。」
婚約者の冷徹な声とともに、左手薬指からプラチナの重みが奪い去られた。それは葉月にとって、単なる貴金属ではない。
大手企業の駐在員夫人という「選ばれし女」の証であり、泥沼のようなこの会社から自分を救い出してくれる唯一の救命ボートだった。
「待って、お願い……!」
縋り付く彼女の指先に残ったのは、指輪の跡の白く虚しい窪みだけだった。人生の絶頂へ続くはずだったレッドカーペットは、足元から無残に引き剥がされた。 激しい修羅場の末、葉月は本命の男から、無惨に捨てられた。
仕事も、地位も、二人の男も、すべてを失ったのだ。
その後、私はこの会社に蔓延する黒い霧と、大人たちのドロドロした欲望に完全に嫌気がさし、新しい会社へ転職を決めた。
あの泥舟から、自分の意志で「強制ログアウト」したのだ。
新しいオフィスで平穏な日々を送る私に、ある日、風の噂が届いた。
大手町を追われた葉月さんは、ブランド品の支払いに追われ、かつて溺れた夜の世界へと流れていったらしい。
最初は華やかな繁華街のスナックで、かつての美貌を武器にカウンターに立っていた。
だがある夜、そのスナックに、肥満体型でドスケベな顔をした「統馬にそっくりな男」が現れた。
一瞬、心臓が跳ね上がった葉月だったが、よく見れば全くの別人。
それどころか、高級外車はおろか、安酒のホッピーしか頼まない、
うだつの上がらない一文無しの男だった。
それなのに、かつて自分を甘やかしてくれた統馬の面影をどこかで追いかけてしまう。
葉月は、こっそりとその男にホッピーを「ツケ」で何杯も飲ませた。
男と金にだらしない彼女の悪癖は、場所を変えても治らなかったのだ。
当然、店に大穴を開けた彼女は、そのスナックさえも早々にクビになり、夜の街から完全に姿を消した。
さらに年月が流れ、最後に届いた噂は、東京から遥か遠く離れた、場末のひなびた海岸沿いのスナックだった。
年を重ねた体に、夜の立ち仕事は容赦なくこたえる。 かつて黒いノースリーブを美しく着こなしていた二の腕は、今や潮風と西日にじりじりと焼かれて真っ黒に変色している。
ヒールを履く気力すら残っていない足元は、すり減った安物のビーチサンダル。 冷房の効きの悪い生温いカウンターの中で、彼女はその黒い二の腕を動かし、地元の漁師たちが飲む安いハイボールをだらしなく注ぎ続けているという。
かつて胸元で輝いていたゴールドのネックレスは、とっくにない。
今日も私は、新天地のクリーンなオフィスで、冷徹に、そして健気にキーボードを叩き続けている。数字の歪まない、美しい世界で。