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時のうつろい

       あらすじ
      第一部
    源頼房を祖と仰ぐ和辻政信は戦いたくなかった久日義光に攻められ、やむなく滅ぼす。
    それを奥方の百合殿に詫びる政信。
    また隣国である備後の笹賀瀬城主・村逗豊茂が攻めてくる気配を見せる。
      第二部
    和辻政信の子孫である花房龍之介は空穂無刀流免許皆伝の腕前。
    龍之介の子である清之介は空穂家の婿養子となり、空穂無刀流の師範を受け継ぐ。
    そして御前試合に臨み、柳生新陰流と対戦する。
    妻に先立たれていた龍之介は、ふとした縁で染子と出会う。
    身を持ち崩していた染子だが、彼女の実家である桂木家はお家断絶になっていた武家の家柄であった。


        はじめに

     平治の乱で源義朝を破った平清盛が義朝の側室、常盤御前を妾にするのをテレビドラマで見て、「清盛、それはないだろう。武士の情けはないのか・・・。」と思ったのが執筆の動機です。

     第一部

       一 戦(いくさ)

       二 縁(えにし)

       三 良きことも悪しきことも

       四 風雲急を告げる

       五 庵(いおり)

      第二部

       免許皆伝

      幼い恋心
    
      予期せぬ出来事

       時の流れ

      主君
    
      御前試合

       恋

      

      時のうつろい
                  藤本英明

      第一部

       一 戦(いくさ)

     「かかれーっ!」
    耐えに耐えた政信(まさのぶ)が、ついに号令を発した。
    兵たちは城門から傾(なだ)れる様に山を下りながら敵をなぎ倒してゆく。
    久日軍(ひさかぐん)は一気に浮き足立った。
    「押せーっ!押せーっ!」
    法螺貝を吹き鳴らす。
    形勢は、たちまち傾いた。
    逃げ惑う久日軍。
    和辻軍(わつじぐん)の勝利は、もはや動かなかった。
    軍勢のほとんどを失った義光(よしみつ)は、ほうほうの体(てい)で山を下る。
    「殿!追っ手が迫っております。
    ここは、それがしにまかせて。
    早く!」
    「忠常(ただつね)、すまぬ!」
    馬にまたがるや否や、田と山の間の道を一目散に高倉城へ取って返す。
    やがて国境(くにざかい)を越え、備中(びっちゅう)へ入った。
    そうして何刻(なんどき)が過ぎたであろうか。
    結局、城へ逃げ帰った者は、ほんの少数だけ、やがて高倉山は和辻軍に包囲されてしまった。
     ちょうど、その頃。
    城へ戻って一息ついていた義光は、鎧を着けたまま床へすわり込んで悲痛な面持ちをしつつ・・・・・・・・・・・・。
    「百合、ゆるせ!
    残る手勢もわずか。
    もはや、これまでじゃ。」
    と、力を落として吐くように言った。
    その心情を察してか・・・・・・・・。
    「覚悟はできております。」
    と、気丈に応える奥方。
    更に義光は続けた。
    「心残りは、そちと、幼い子供たちじゃ。
    なんとか助けたい。」
    「殿・・・・・・・・・・。」
    「女、子供たちだけでも、なんとかならぬものか。」
    ゆるがぬ形勢に義光は、無念さをあらわにするだけ・・・・・・・・・・・・。
    冷え込みが深まり、すすきに夜露が宿って、月は無情にこうこうと輝いている。
    城は異常な静けさに包まれていた。

     その月に照らされている麓の本陣では。
    「一気に攻めましょうぞ!」
    「・・・・・・・・・・・・・。」
    「一息に・・・・・・・。」
    「・・・・・・・・・・・・・。」
    「殿っ!」
    「重房(しげふさ)、ここは、わしにまかせてくれ。」
    「いかように、なされます。」
    「和議を結ぶ。」
    「和議・・・・・・・・・・。
    和議とは、これいかに!
    この期(ご)に及んで和議とは・・・。」
    「ここは、わしにまかせてくれ。」
    そう言いながら政信は静かに月を仰いだ。
    軍議の場を離れて久しかった・・・。
     それから一刻(いっとき)もした頃・・・・・。
    「殿ーっ!
    書状が届きました。」
    義光は、すぐにそれを受け取ると、わずかな望みを抱きつつ、それを見た。
    と、見る間に大粒の涙がしたたり落ちる。
    その涙を堪えながら・・・・・・・。
    「政信殿!
    恩に着る・・・・・・・。」
    声にならない声を漏らした。

     翌日は、雲一つなく晴れ渡った。
    高倉城は城門を開き、やがて白装束の義光が静かに出てくる。
    辺りは張り詰めたような空気に包まれ、静まり返っていて、時おり、鵯(ひよどり)の鋭い声が響いているだけであった。
    その鵯が、ひとたび騒いだ。
    そしてまた、静けさが戻ってくる。
    辺りは何事もなかったかのように、陽の光を受けていて、鮮烈だった紅葉が終わろうとしていた。

     「わしさえ自害すれば、後はお構いなし。
    所領も安堵(あんど)するとのこと。
    政信殿を信ずるしかない。
    百合、子らを頼むぞ・・・・・。」
    義光は、そう言い残して逝ったのだった。
     

    ひとたびは雲を呼べども天(あま)つ日の
     そそぐ光にただすがるのみ

    辞世の歌である。
    そうして、和辻軍は引いていった。

     それからは戦(いくさ)が、まるで嘘であったかのような穏やかな日々であったが、傷痕は容易には癒えず、高倉城では政信の恩情に感謝しつつも戦戦恐恐、なんとか立て直そうと画策が始まっていた。
     一方、政信の居城、備前は小菅山(こすがやま)の沢木城(さわきじょう)では、家臣たちの不満が、くすぶっていた。
    「敵に情けをかけていては、後々、大変な火種を残すことになる。」
    「そうじゃ。
    それが心配じゃ。」
    「おぬしも、そう思うであろう。」
    「男は根絶やしにするのが掟、情けは禁物じゃ。」
    こんな思いが渦巻いているのだった。

     そんな或日。
    政信が、わずかな手勢だけを従えて高倉城を訪れた。
    しかし、さすがに歯向かう者もなく、政信は百合殿と会見したのであった。
    「ゆるされよ、百合殿!
    この通りじゃ。」
    そう言って政信は手を着いた。
    驚いた百合は、あわてて・・・・・。
    「なにをなさいます。
    とんでもございません。
    どうぞ、お手をお上げくださいませ。」
    と、畏(かしこ)まる。
    政信は、尚も続けた。
    「義光殿が攻めてこようとは思わなんだ。
    旗印を見た時は、我が目を疑うた。
    戦(いくさ)が始まってからも、引いてくれ、たのむから引いてくれと何度願うたことか。
    いずれは瑠璃(るり)を竹丸殿の嫁にと思うておったに・・・・・・・・・・・・・・。
    わしの力が及ばなんだ。
    義光殿に攻めさせたは、わしの不徳の致すところじゃ。
    ゆるされよ、百合殿。」
    百合は、意外な事の成りゆきに戸惑いを隠せないでいる。
    「竹丸殿は八歳に成られたかな・・・。」
    「はい。
    菊丸は六歳。
    由(ゆう)は三歳でございます。」
    「これからじゃというに、お力落としじゃろう。
    何か困った事があれば、なんなりと申されよ。
    できるだけの事はする。
    遠慮のうな・・・・・・・・・・。」
    「ありがとうございます。
    命を助けていただいた上に所領まで安堵していただき、重ね重ねのご恩情、厚く感謝いたしております。」
    「いや、しかし、義光殿を助けられなんだ。
    それだけは、叶わなんだ。
    残念じゃったが、致し方なかった。
    ゆるされよ、百合殿。
    わしは出家する。
    仏門に入って戦(いくさ)の犠牲になった者たちの菩提(ぼだい)を弔う所存じゃ。
    わしを許せぬであろうが、これが、わしにできる精一杯のところかもしれぬ・・・。」
    そう言い残して政信は帰っていったのだった。
    後に一人残った百合は・・・・・・・・・。
    静かに庭を見遣りながら・・・・・。
    複雑な面持ちでいた。
    政信を許していいものか、確かに恩情はありがたい。
    しかし、だからといって、にっくき夫の仇である。
    果たして許せるものだろうか。
    しかし、生きてゆかねばならない。
    悲しい定めではあるが、子供たちの成長を楽しみに義光の分まで生きてゆこうと、心に誓う百合なのであった。

     和辻政信の家系は、源頼房を祖と仰ぐ源氏の庶流(しょりゅう)であり、のちに花房の姓を授かる。
    花房龍之介は空穂無刀流(うつぼむとうりゅう)、免許皆伝で長男、清之介(せいのすけ)は空穂家の養子となり、無刀流師範の跡を継ぐ。
     このお話は引き続き第二部でお楽しみ頂けます。

     時は、永正元年(一五〇四)。
    今より遡ること十六年。
    長享二年(一四八八)に政信と桔梗は結ばれた。
    十一年間にも及んだ応仁の乱(一四六七~一四七七)が、ようやく収まったものの、足利将軍家の権威も地に落ち、それでも京都の復興が町衆の手で行われ始めてから十余年の此の年、加賀の国で総勢二十万人といわれる本願寺門徒が一向一揆をおこし、守護の富樫政親を高雄城に攻略、ついで能登・越中両国を侵す。
    この頃、駿河の守護である今川義忠の側室、北川殿の兄、伊勢新九郎長氏は、その縁を頼って駿河の国に下り、やがて興国寺城主となった。
    室町幕府政所執事、伊勢氏の出身で、後に北条早雲と呼ばれる、その人である。
    入道して早雲庵宗瑞と名のった。
    延徳三年(一四九一)、伊勢宗瑞は伊豆の堀越公方、足利政知死後の混乱に乗じて伊豆の国を席巻し、伊豆の国の朝比奈知明より八丈島探査の報告を受ける。
    それから四年後の明応四年(一四九五)八月十五日、鎌倉に大地震発生、津波が大仏殿を破壊し、死者二百余人を数えた。
    その後、北条早雲は甲斐の国に入るが、武田信縄と和睦し、帰還。
    ついで九月、相模の国小田原城に大森実頼を破る。
    そして六年後の文亀九年(一五〇一)九月、早雲は、またまた甲斐の国に入るが、このたびも守護、武田信縄に阻まれる。
    その様な東国での出来事をよそにして、ここ西国では大内義興が細川氏に追われた前将軍、足利義植を神光寺に招くなど権勢を誇り、京の都に勝とも劣らぬ栄華を極めていた。
    そのような中、吉備の国として栄えていたことのある備前・備中・備後・美作をも巻き込んだ恋があった。
    今より十六年前・・・・・。

       二 縁(えにし)

     政信は、わずかな供のものだけを従えて、城を抜け出した。
    美作(みまさか)の秘湯を目指して・・・・・。
    城主である父、信綱(のぶつな)の目を盗み、見聞を広めるために身分を隠しての視察である。
    「若、くれぐれもお気を付けください。」
    重房が言う。
    「うむ・・・・・。」と、政信。
    やがて一行は備前と美作の国境を越え、美作へと入った。
    雪である。
    沢木城でも寒かったが、こちらは一段と冷える。
    一寸ほども積もっていようか。
    田畑も雪に覆われていた。
    湯治場へ着いた一行は、何食わぬ顔で湯につかる。
    「これがあるから美作は良いのう。」と、政信が言う。
    「まったくでございます。」と応える重房。
    身体の芯から温まる。
    しばし寛いだ。
    それから一行は食事をした。
    すると、「この鮎の塩焼きは旨いのう。」と政信が言う。
    「まことに絶品でございますなあ。」と、重房。
    郷土料理に舌鼓を打っていると、何やら、それらしい女性が、やはり供のものを従え、お忍びのご様子。
    「おたがいさまじゃが、やはり、分かるものじゃなあ。」と政信が感心したように言う。
    どうやら萩葉城(はぎばじょう)の姫らしい。
    政信は、茶目っ気を出して近づくと、「一献(いっこん)いかがかな。」と酒を勧める。
    「そなた、何者じゃ。」と、一同身構える。
    只ならぬ空気が走った。
    それぞれの手練(てだ)れが刀の柄(つか)に手をかける。
    これは身分を明かしたほうがいいかな、と、咄嗟(とっさ)に考えた政信。
    「いや、失礼いたした。
    お忍びのご様子で、差し出がましいとは思ったが、じつは、拙者(せっしゃ)も忍びでな。
    萩葉城の姫とお見受けいたすが、沢木城の政信と申す、以後お見知りおきを。」
    とのことで事なきを得たのであった。
    「さようでございましたか、お忍びで、お城を抜け出されて・・・おっほっほっほっ!」
    急速に仲が深まる。
    姫はお城の話をし、政信も城の話をした。
    「この季節、お城から見える城下は一面が雪で、それは美しゅうございますよ。」
    「そうであろうのう。
    我が城からの瀬戸内海の眺めも、なかなかのものじゃが。
    そうだ、一度、姫を我が城に連れてゆきたいものじゃ。」
    「わたくしも行きとうございます。」
    「姫の城にも行きたいのう。」
    「ぜひ、お越しくださいませ。」
    「そうそう、あまりゆっくりもしておられぬのであった。
    そろそろ帰らねば。」
    「どうぞ道中、お気を付けてお帰りくださいませ。」
    「姫も息災(そくさい)でな。
    では、また会おう。」
    互いに、すっかり意気投合して又の再会を約して別れた。
    それが政信と桔梗(ききょう)の馴(な)れ初(そ)めである。
    それからも二人は密会を重ねた。
    贈り物の交換もした。
    政信は姫に、かんざしを贈り、姫は政信に匂い袋を贈る。
    またの折には、政信は櫛(くし)を、姫は扇子を、それぞれ贈り合ったりしていた。
    初めこそ密かであったものの、次第に大っぴらになってゆく。
    ある時は、湯治と称して姫と示し合わせ、湯に浸かってのち、萩葉城へ赴き、御城主の井谷是近殿(いたにこれちかどの)の持て成しを受け、しばしの滞在を姫と仲睦まじく過ごしている。
    「政信さま、お城はいかがでございましょうか、お気に召して頂けましたでしょうか?」
    「うむ、姫の御城は良いのう、姫がおるから一段と良い。
    帰りたくなくなったぞ。」
    「まあ、御冗談ばっかり・・・・・。」
    「アハハハハハハッ!」
    「おほほほほほっ!」
    又ある時は、姫を沢木城へ招き、しばしご滞在頂き、瀬戸内海の舟遊びに仲睦まじく興じられたりもしている。
    「どうじゃ、姫。
    海は良いであろう。
    波は穏やかで、島が点在しておる。
    見てみい、水も綺麗であろう・・・・・。」
    「はい、宜しゅうございますねえ・・・・・。
    わたくしも帰りたくなくなりました。」
    「わははははっ!そうであろう、そうであろう・・・・・。」
    「おっほっほっほっほっ!」
    もうこの頃には、お二人の行く末は、双方の城中で知らぬ者の無きまでに噂されていた。

     ところが、そんな政信に備後(びんご)は笹賀瀬城(ささがせじょう)の百合姫との縁談が持ち上がった。
    しかし、その頃には、もう我が嫁には桔梗姫しかおらぬ、と心に決めていたものだから、父、信綱のたっての要望とのことなので政信はどうしたものかと思案に暮れた。
    「お前を見込まれてのことじゃ。
    笹賀瀬城主、頼重殿(よりしげどの)のたっての願いとのことじゃ。
    百合姫をもろうてほしいとのう。
    お断りできまい。
    お前に好きな姫がおることは、わしも重々承知しておる。
    じゃがのう。
    こればかりは・・・。」との、父の言葉が重くのしかかっていた。
    そして或る秘策を思いついたのだ。

     穏やかな日々が続いていた沢木城であったが、そんな信綱のもとへ知らせが届く。
    「殿。
    美作の萩葉城主、井谷是近が、我らが城に攻めてくる模様でございます。」
    「うむ・・・。
    面倒なことになったな。
    さっそく手を打たねばなるまい。」
    信綱は是近殿に会談を申し入れる。
    幸いなことに、会談は直ぐに実現した。
    あまりにも事が容易に運ぶものだと思いつつ信綱は会談に臨む。
    「よう来られたな。
    ささ、こちらへ、こちらへ。」と是近。
    やけに上機嫌である。
    事は昼食をはさんで行われた。
    もちろん酒も出る。
    とどのつまりが、和平を保つためには婚姻を結ぼうという事になった。
    こうして、めでたく政信と桔梗姫の縁談は整ったのであった。
    やむなく備後の笹賀瀬城主、村逗頼重殿の長女、百合姫との縁談は丁重にお断りをせざるを得なくなった。
    信綱は四苦八苦。
    またまた難題を抱え込んで東奔西走、頭を下げて回ったのであった。
    その後、百合姫は備中の高倉城主、久日義時殿の嫡子(ちゃくし)、義光殿のもとへ輿入れしたのであった。

    それから十六年。
    早いものである。
    (百合殿には申し訳ないことをしてしもうたが、許していただきたいものだ。)
    政信は常々そう思っていた。

     今、沢木城では政信の嫡男、月千代が、めでたく元服をして名を改め、正和(まさかず)と名乗っている。 
    奥方、桔梗の方との間に最初に授かった子宝であった。
    そして、その妹の藍姫(あいひめ)は隣国播磨(りんごくはりま)の渋坂城主(しぶさかじょうしゅ)、滝時盛殿(たきときもりどの)の嫡子、時綱殿の元へ嫁いでいる。
    ゆえに、時は乱世ではあるが、比較的穏やかな日々が続き、近隣諸国の百姓衆も野ら仕事に精を出して潤いのある生活をしていた。
    また、政和は武芸に勝れていて、弟の影千代は、どちらかというと文芸に素養があるので、家臣の間でも、兄君は母親ゆずり、弟君は父親ゆずりとの見解があり、共に将来を嘱望(しょくぼう)されているのである。
     桔梗の方は細面(ほそおもて)の、どこかしっかりしたところのある感じで、どちらかというと、おっとりしている政信には似合の奥方といえた。
    他方、百合の方は、ふっくらとした面立(おもだ)ちで優しい感じを与え、やはり義光殿には相応(ふさわ)しい奥方ではなかったろうか。
    いずれにしても御二方それぞれに、それなりの気品が備わっていた。
    遠雷が轟いている。
    いつの間にか、蝉しぐれが収まっていた。
    それに、辺りも暗くなってきている。
    しばらくすると雨になった。
    叩きつけるように降りだす。
    たちまち緑の葉が濡れそぼち、色鮮やかに甦ってゆく。
    恵みの雨だ。
    すべてが潤い、息を吹き返す。
    一段と雨が強くなってきた。
    その音に呼応(こおう)するかのように、琴の音が響いている。
    時に激しく。
    また。
    優しく。
    打ち寄せる波のように。
    寄せては返し。
    寄せては返し。
    その調べは、まるで乱世を思わせるかのようでもあった。

     政信は歌会を開いた。
    それは百合殿をお慰めするのが政信の心づもりなのだ。
    表向きはとにかく、百合殿をお招きした。
    滞りなく歌会は終わり、遅くなったので、その日はお泊まり頂くこととなった。
    夜更け、政信は床を抜け出し、百合殿にお泊まり頂いている離れの方へ、そおっと近づいてゆく。
    目当ての部屋まで行くと、そおっと障子を開ける。
    そおっと中へ入ると、百合殿の布団へ入り込む。
    ぴくっと動いた百合殿。
    そんなことも覚悟しておられる様子。
    「百合殿。
    わしじゃ。
    政信でござる。」
    「こんなことをなさって、よろしいのでございますか。」
    「いや、一度、詫びねばならぬと思うておったのじゃ。
    義光殿になりかわって、お慰めいたす。」
    政信は熱く愛撫をして差し上げる。
    百合殿は感激に打ち震える。
    二人の交わりは火のように燃える。
    政信は、ゆっくりと時間をかけて、お慰めして差し上げるのだった。

     時はまた十六年前に遡(さかのぼ)る。
    季節は丁度同じころで、山中が、すだく虫の音に包まれていた。
    あれほど盛んだった蝉の声も、いつしか途絶えていて、すっかり秋めいてきている。
    丘に目立ち始めた芒(すすき)が白い穂を靡(なび)かせ、秋を手招きしているようだった。
     美作の萩葉城主、井谷是近殿も、めでたい事は早い方がよい、とのことで、来春には祝言ということになり、ぱたぱたと事が運んだ。

     その冬は・・・・・・・・・・・。
    近年にない豪雪だった。
    もともと暖かい地方ではあるが、それでも美作では三尺五寸も積もったとか。
    萩葉城も雪に覆われて、身動きとれなくなってしまったそうだ。
    桔梗姫も、父、是近殿、母、茜(あかね)の方との最後の正月を琴の調べと共に、穏やかに迎えていた。
    「茜、この木もすっかり大きくなったな。」桔梗姫の誕生と共に植えた、樟である。
    「そうですね。
    速いものです。」
    「もう、輿入れの時を迎えようとわな。」
    廊下は寒いので、是近殿も茜の方も座敷へ入る。
    大きく育った樟が雪を被っていた。
    ときおり鹿威(ししおど)しの甲高(かんだか)い音が響く。
    「桔梗が男の子の様に木に登って落ちたことがありましたねえ。
    あのとき殿は一番に駆けつけられて、桔梗をそおっと抱いてやりましたねえ。
    おてんばな子でしたから。」
    「そうだな。
    桔梗には、はらはらさせられどうしであったなあ。
    遠くを見るからと言って塀に登ろうとした時には困ったぞ。
    木刀を持つことが好きで、よく剣術の稽古(けいこ)をしておった。
    和歌でも詠(よ)んでおれば良いものを、男には負けとうない、などと言いおって。」
    「それが、すっかり女らしくなって、見違える様です。」
    「そうじゃなあ。
    お前に似て、美しゅうなった。」
    音もなく雪は降り続く。
    ときおり、しずる音がしていた。
    桔梗姫は部屋に一人で、やはり、これまでの来し方を振り返っていた。
    父上と毬(まり)で遊んだこと。
    おてんばを母上に窘(たしな)められたこと。
    そんな時、いつも父上様が、かばって下さったこと。
    懐かしい想い出が走馬灯の様に駆け巡ってゆく。
    夜になって雪が少し収まってきた。
    北国の寒い日々は長い。
    春が待ち遠しいような、それでいて、いつまでも来ない方がいいような、そんな複雑な夜であった。

     婚礼の噂(うわさ)は、もう城下にも広まっていて、これを折に尚いっそう戦(いくさ)が起こらなければ、との期待もふくらんでいるようで・・・。
    「お城の姫様も春には沢木のお城へ、お輿入(こしい)れのようじゃなあ。」
    「そうなんじゃとうなあ。
    おめでたいことじゃなあ。
    殿さんは、どうじゃろう。
    やっぱり娘を手放すんは、寂しいんじゃろうか。」
    「そりゃそうじゃろう。
    お殿さんだって父親に変わりはないんじゃからなあ。
    変わらんのじゃないん。
    泣くかもしれんでえ。」
    「泣くかなあ。」
    「泣く、泣く。
    うちの亭主も、そうじゃった。」
    「そうかもしれんなあ。」
    「わははははは・・・・・・・。」
    「わはははは・・・・・。」
    長屋では洗濯をしながらの井戸端会議に、花が咲いているようだ。
    表の通りを大八車が、ガラガラと鈍い音を立てながら通り過ぎてゆく。
    魚屋は天秤棒を担いで乾いた売り声を上げ、その横を、子供たちが鼻をたらしながら、すり抜けてゆく。
    所々で軒からしずる雪が音を立てては、きらりと日差しを反すほどに、家並みは雪を置いている。
    まわりの山は、一面の銀世界。
    冬は未だ深かった。

     その頃。
    沢木城下では、麦畑に積もった雪も二~三日で、もうみんな溶けていた。
    城下は海に近く、海の幸にも山の幸にも恵まれ、古くから開けた所で、気候は温暖、災害も少なく、戦(いくさ)さえ無ければ申し分のない土地柄なのであった。
     政信は、物見櫓(ものみやぐら)から城下を眺めながら、その先に広がる海に思いを馳せている。
    備前の国では昔から、瀬戸水軍と手を結んできた。
    彼らの助けがなければ、この国は治められないのだ。
    対岸の讃岐(さぬき)の国との交易もある。
    大小の島々が彼らの根城で、海賊と恐れられてもいるのだが、味方につければ、これほど心強いものもない。
    瀬戸内海には多くの島々が点在して、じつに穏やかなのだが、潮の流れの早い所も多く、なかなかの難所なのだ。
    それらを知り尽くしている水軍は、やはり大切なのであった。

     頬を吹くこの春風の心地よさ
    物見櫓の窓に尊む

    婚礼を前にしての、政信の詠んだものであった。 

     その頃、桔梗姫は僅かな供の者を従えて、湯治場にいた。
    美作には秘湯があるのだ。
    着物を脱ぐ桔梗姫。
    姫君は隠す必要もないのであろう、美しい薄桃色の肌を、惜しげもなく晒す。
    そうして、お湯に浸かるのだ。
    お付きの女性たちも、一緒に入ることを許されているので、美しい女たちの裸ばかりである。
    立ち上る湯気の向こうに、綺麗な女たちの姿態が揺らめく。
    裸の、女、女、女。
    まさに楽園であった。

      三 良きことも、悪しきことも

     婚儀は滞りなく進んでゆく。
    政信は緊張していた。
    それに引き換え桔梗は、少し微笑みながら杯を三たび口へ運んでいる。
    桜は満開で、時折り鶯の声も聞こえ、やがて宴へと移ってゆく。
    城は喜びに包まれていた。
    「めでたいのう。
    めでたい。
    われら下侍(しもざむらい)にも御酒(ごしゅ)が賜れ、まことに、ありがたい。
    末長い、おしあわせを祈るばかりじゃ。
    のう!
    飲もうぞ!
    おむしも飲め!
    さ、さ!
    遠慮するな。
    無礼講じゃ!
    無礼講じゃ!」
    「分かっておる。
    さっきから飲んでおるではないか。
    おぬし、悪酔いしとるぞ。」
    「ばかやろう。
    遠慮なんかするな。
    飲め!
    飲め!」
    「わっはっはっ!
    しょうがない奴じゃなあ。」
    城は上も下もなく宴に酔うている。
    折からの春風に満開の桜の香りが漂い、城さえも火照っているかのようだ。
    そこへ鶯が趣を添える。
    この日は皆、時を忘れていた。

     それから月日は巡り、長雨が続いている。
    来る日も、来る日も、雨ばかり。
    おかげで田は潤い、稲は、すくすくと育ってゆく。
    「伍作(ごさく)っ。
    恵みの雨じゃのう。
    いつまで続くんかのう・・・。」
    「そうじゃなあ。
    じゃが、少し風が強うなってきよる。
    それが心配じゃあ。」
    「じゃのう。三年前のような事がなけりゃあ、ええがのう。」
    「ああ。
    あの時は、ひどかった。」
    「用心だけは、しとかにゃあ、おえんじゃろう。」
    「そうじゃ。
    川の水は、だいぶ増えとろう。」
    「行ってみるか。」
    「ああ。」
    二人は蓑(みの)をしょって菅笠(すげがさ)を被ると、ぬかる道を歩き始めた。
    隣同士の与助(よすけ)と伍作。
    稲は命だ。
    一抹の不安を胸に、巴川(ともえがわ)へと急いだ。
    その間にも風は、しだいに強まってくる。
    菅笠を飛ばされないよう手で押さえながら前のめりになって歩いた。
    「おお。
    増えとるのう。」
    土手へよじ登ってみると、川の水嵩(みずかさ)は増していて濁流と化している。
    「こりゃあ、あぶねえ。
    風もだいぶ強うなってきとる。
    はよう帰って家の備えをせにゃあ。」
    「そうじゃのう。
    急ごう。」
    二人は風雨の中を引き返した。

     その頃、沢木城でも慌てていた。
    「あの雲脚を見ろ。
    これは嵐になるぞ。
    備えを急がねばならん。
    急げ!」
    もう、すでに雨戸はピシャリと閉じられている。
    ますます雨風は激しさを増していて横なぐりに吹き荒れているため、木々は揉み合うように揺れに揺れ、耐えに耐えたあげく、枝が折れて吹き飛び、倒れるものさえでてきている。
    もう、外に人影は見られない。
    皆、家の中で外の様子を窺っていた。
    雨の打ちつける音、風の唸る音だけが続く。
    ときおり雨戸に、何か、ぶつかるものがあるようだ。
    ゴォーッ!という音と共に、雨戸がガタガタと鳴り続ける。
    とうとう一晩中、吹き荒れていた。

     それから何刻(なんどき)が過ぎたであろうか。
    さしもの嵐も峠を越えたようで、しだいに風も収まってきている様子。
    雨も止んでいるようだ。
    城の雨戸も開き始めている。
    そして目に入ってきた城下の有様に、皆一様に唖然(あぜん)とした。
    家々の屋根は吹き飛ばされ、一帯は水浸しになっていて、まるで海のようなのだ。
    それを見ながら「やられたーっ!」と地団駄を踏んで悔しがっている者がいた。
    小林清三郎である。
    彼は温厚な人柄であったが、この時ばかりは悔しがった。
    日頃から巴川に支流を作れば水害を防げるのではないかと思ってはいるのだが、優柔不断なせいか、人に話せないでいたのだ。
    家でも婿養子のせいか、言いたいことも言えないでいる。
    妻には頭が上がらない。
    そんな事だから、あなたは駄目なんですよ、
    と、いつも妻に言われてはいるのだが・・・とにかく、波風だけは立てたくない。
    だから自分の一生は、こんなものだと、半ば諦めている。
    当たり障りなく暮らせればいい。
    それが、彼の信条なのだった。
    しかし今度ばかりは一大決心をした。
     話は上司から上司へ、そして、信綱の耳にまで達する。
    信綱は、さっそく重臣たちを集め、評定(ひょうじょう)を開いた。
    そこへ政信も同席させ、何かと経験を積ませようとしている。
    「政信。
    この件は、そちに任せる。
    重房と、よく相談して事に当たるように。
    共に勉強せよ。
    わかったな。」
    「はい。
    ありがたきしあわせ。」
    凛々しく応える政信。
    そうして、この計画は動き始めた。
    まずは、村の復旧だ。
    さっそく必要な物資を集め、村人の援助を始めた。
    何とか川の水は引き始めたものの、一度水を被ったものは容易には元に戻らない。
    農家の屋根の修理も進んでゆくのだが、さすがに打撃はひどく、なかなか捗らない。
    復旧には殊の外、時間も、労力も、経費も、費やすことになるのだった。
    屋根の葺(ふ)き替えに多勢の職人たちがあたるのだが、とても人手が足りない。
    一日中働いて職人たちも、もう、くたくただ。
    それに稲がやられた。
    今年の刈り入れができるかどうか、思いやられる。
     
     「与助。
    今度の嵐は、ひどかったなあ。
    今までで一番ひどかったんじゃないんか。」
    「そうじゃ。
    こんな酷かったことは、なかった。
    田んぼは全滅じゃ・・・・・。
    あーあ!
    よー育っとったのになあ。」
    「家の中は、びしょびしょになるし。
    ほんま、ひどかったなあ。
    一時は、どうなるかと思うた・・・・・。」
    その時。
    伍作の上(かみ)さんの声がする。
    「あんたあ!
    御飯でえ!」
    「ほい!
    与助。
    ほんじゃあな。」
    「ああ!
    こっちも飯じゃ。」
    二人は、それぞれに家へ入っていった。
    粟(あわ)もあれば、稗(ひえ)もある。
    いざという時の為の蓄えが、物を言った。
    貧しいが、貧しいなりの知恵がある。
    貧乏なだけに災害には慣れていると言えば慣れている。
    踏まれても蹴られても、何度でも起き上がってゆくのが百姓というものだろう。
    ではあるが、やはり、悲惨でもあった。
    多くの餓死者も出た。
    子供と老人は真っ先に口減らしのために売られたり捨てられたりする。

    「おかーさーん!・・・おかーさーん!」

    女の子の泣き叫ぶ声。
    人買いに売られてゆくのだ。
    あってはならない事なのに、それが悲しい現実ではあった。

     いつしか季節も巡り、柿の実も熟す頃、沢木城でも虫の音に包まれながら、栗のいがが弾けていた。
    木々の葉も赤や黄色に色づき始めて、空の青さに一際映えている。
    「殿。」
    「おお、桔梗か。
    よう参った。
    これへ・・・・・。」
    政信の部屋を訪れた桔梗は、なにか恥じらいを見せている。
    「どうした・・・・・。」
    「じつは・・・・・・・。」
    更に、ちょっと目を伏せながら・・・。
    「懐妊(かいにん)をいたしました。」と、しあわせそうに告げる。
    「おう!
    そうか。」と、膝を立てた政信。
    「それは、でかした。
    祝着(しゅうちゃく)じゃ、祝着じゃ。
    体を、いとえよ。
    よき子を産んでくれ。
    たのむぞ。」と、桔梗のそばへ寄る。
    「はい。」
    顔をほころばせ、しあわせ一杯の桔梗である。
    白い雲は高く、空は、どこまでも青い。
    その高空を鳶(とんび)が長閑(のどか)な声を振り撒きながら舞っている。
    野には薄(すすき)の穂が群れて風に靡(なび)き、静かに時が流れてゆく。
    遠くには瀬戸内海の波が一面に輝いて、西に傾きかけた秋の陽を反している。
    城でも桜の葉が朱(あけ)に色づいて、一枚、また一枚と散り始めたようだ。
    西日が更に傾いて、山々の紅葉を一層鮮やかに染め上げる頃、向かいの山懐(やまふところ)の瑞願寺(ずいがんじ)の鐘が、余韻を残して「ゴーン~ン!」と響き渡る。
    人々は家路を急ぎ、家々の煙突からは白い煙が立ち上り、一日の疲れを癒す頃、穏やかな日は、ゆっくり、ゆっくりと暮れてゆくのであった。

     それから月日は瞬く間に流れ、もうすぐ一年を迎えようとしていた頃・・・・・。
    「おぎゃあ!おぎゃあ!・・・・・。」
    赤子の元気の良い声が聞こえてくる。
    政信は、気が気ではなかった。
    暑さも漸く終わりかけて、庭に桔梗が清楚な姿を見せていて、朝から降り続いている雨に一層鮮やかなのだが、それも目に入らぬかのように、気もそぞろなのだ。
    先ほどより、立ったり、すわったり。
    どうも落ち着いて座っては、いられぬらしい。
    「殿。」
    腰元頭(こしもとがしら)である。
    「おお!
    母子ともに大事ないか。」
    「御方様(おかたさま)も、御子様も、ともに、お健やかでございます。」
    「そうか。
    それは良かった。」
    「若君様でございます。」
    「そうか。
    そうか。
    良かった。
    良かった。」
    それだけ聞くと政信は、雨の中で小躍りしたい気持ちを抑えつつ部屋へ引き揚げてゆく。
    雨の音が急に、はっきりと聞こえだし、桔梗の青さが目に染みるようだ。
    と共に、心の底から幸福感が止めどなく湧いてくる。
    「うん・・・・・・・。
    名は月千代が良いかもしれぬ。
    そうじゃ、そうじゃ・・・・・・・。
    良いかもしれぬ、良いかもしれぬ・・・。」
    秋雨の降っている庭に面した縁側を進みながら一人呟く政信であった。

     畑土に白きを少し覗かせて
     幼大根育ちつつあり

    これは先頃、政信が城下を視察した折に詠んだ歌である。
    そうして、月日は流れてゆくのであった。

     一瞬、静まり返った。
    みんな固唾(かたず)を呑(の)んでいる。
    次の瞬間、どよめきが起こった。
    水門が開かれたのだ。
    「おおーっ!」という喚声を打ち消すかのように「ドドドドーッ!」と、勢いよく水が流れ込んでゆく。
    ついに巴川に支流が完成したのだ。
    思えば長い年月だった。
    長年に渡る苦労と、数え切れないほど多くの労力を注ぎ込んで事に当たり、とうとう此の日を迎えたのだ。
    これで巴川の氾濫(はんらん)は収まるかもしれない。
    人々の期待は高まっていた。

     時は移り、沢木城も暖かい季節を迎えていた。
    桜の木の陰で何かが動いている。
    咲き満ちている花に隠れて良く見えないが、どうやら信安様(のぶやすさま)のようだ。
    (何を、なさっておられるのだろう。)
    腰元がしらの妙は、少し気になった。
    政信の五つ年下の弟君(おとうとぎみ)である。
    柱の陰から、もうしばらく窺っていると、その先の庭に草取りをしている腰元の琴路(ことじ)がいるのに気が付いた。
    (もしや信安様は、そちらを見ておられるのではないのだろうか。)
    妙(たえ)が、そう思っていると、ふと、信安様は妙に気付いたらしく、何気ない素振りで、その場を離れていった。
    (やはり、あの噂は本当だったのか?)
    妙は先だっての事を思い起していた。
    「信安様が時々、琴路を見ておられる御姿を見掛けます。」
    「私も。」
    「私も。」と、腰元たちの間で噂になっているようなのだ。
    当の琴路は、それに気付いていないらしいのだが、信安様もお年頃、おかしいことではなかった。
    (琴路は、可愛いところはあるが、なかなかのしっかり者、間違いはないと思うが・・・それとなく見守ろう。)と、心しつつ、妙は先を急いだ。

     空は気持ち良く晴れ渡っていた。
    琴路は庭のつつじの花の殻(から)を摘んでいる。
    赤紫の花々に包まれていると、まるで吸い込まれるような心持ちになり、何もかも忘れてしまいそうだ。
    そんな時、ふいに話し掛けられた。
    「そちは琴路と申すか。」
    驚いて振り返ってみると、いつの間にか、そばには信安様がおられる。
    あわてて腰を低くする琴路。
    「よいよい。
    そのまま、そのまま。
    花を摘んでおるのか。」
    「いえ。
    咲き終わった花でございます。」
    「そうか。
    きれいな花だな。
    そちに似て美しい。」
    「とんでもございません。」
    ますます身を堅くする琴路。
    「ご両親は、お元気か。」
    「はい。
    おかげ様で父も母も息災(そくさい)でございます。」
    「そうか。
    それは何よりだ。
    そちのご両親には会ってみたいものだな。」
    「とんでもございません。
    父は商人でございます。」
    「ほう。
    何を商っているのだ。」
    「呉服商でございます。」
    「そうか。
    それは良いな。
    いや。
    邪魔をした。
    ささ!
    続けよ。
    続けよ。
    また話を聞かせてくれ。
    では又な。」
    そう言い残すと信安は、そそくさと行ってしまった。
    しかし、それでは収まらないのが城中。
    腰元たちの口に火が着いてしまった。
    さあ、もう大変。
    あちらでも、こちらでも、その話で持ちっきり。
    琴路が信安様と庭で仲良く話をしていたという言葉に尾鰭(おひれ)がついて、ある事、ない事、言いたい放題。
    しかし、そんな事、意に介さぬ、とばかりに振る舞う琴路。
    でも、明け透けに避けられるようになったのには、さすがに琴路も居づらくなったのであろう、とうとう、お宿下がりをしてしまった。
    これには信安も嘆いた。
    「わしは好きな女子がいてはいかんのか。」と、当たり散らす。
    (やっとわしの者にできていたのに。)と、嘆くこと頻りなのだった。
     「わしが城主であったなら、そちを側室に迎えるのだが。」
    「その様な事をおっしゃられては、なりません。
    勿体(もったい)のうございます。
    わたくしは信安様とこうしていられるだけで充分でございます。
    どうぞ、わたくしのことは、それ以上にお考え下さいませんよう、かさねてお願い申し上げます。」
    「琴路!」
    思わず抱き寄せる信安。
    「あっ!いけません。
    信安様。
    人目がございます。」
    「そんなこと、かまうものか!」
    そう言いながら、信安は、琴路の帯を解き始める。
    琴路も、もう身をゆだねている。
    そして激しくも豊かな時を共にした二人は、満ち足りたのであった。
     このような時を過ごしあっていたのに、信安は、つくづく自分の立場が恨めしかった。
    酒に溺れ、ご乱行が目立つようになったのも、この頃からだ。
    酒量は増える一方。
    しかし皆、触らぬ神に祟(たた)りなしと、見て見ぬ振りをしている。
    火種は、くすぶったままであった。

     蛙(かわず)が田んぼという田んぼで鳴いている。
    とにかく騒がしい。
    それは国じゅうの田んぼから湧き上がり、村はずれのお堂の中にまで響いてくる。
    「だいたい殿の目は節穴じゃ。
    巴川に支流を掘った折、われわれが、どんなに力仕事をしたか、ご存じない。
    それを清三郎ごときばかりを重用(ちょうよう)して、揚句(あげく)のはてに取り立ててやるとは何事だ。
    わしは納得できん。」
    「そうじゃ。
    まったくじゃ。
    これじゃあ、いつまで経っても、われわれは下働きばっかりじゃ。」
    そこには十人ばかりの下侍が集まっていて、不満を、ぶちまけているのだ。
    「そこでじゃ。
    このままでは報われん。
    ここは一つ思い切って信安様を担(かつ)ごうではないか。
    殿に不満をもっている連中に働きかけるんじゃ。
    だいたい殿は依怙贔屓(えこひいき)しすぎる。
    あれでは、この先が心配じゃ。
    同じ様な不満を抱いている者も多いはず。
    信安様なら、われわれの心情を酌(く)んでくださろう。
    改革を断行しようぞ。
    のう、みんな。
    われわれの未来は、われわれの手で掴み取ろう。」
    「そうじゃ。」
    「そうじゃ。
    やろう。」
    「おーっ!」
    一同、気炎を上げ、意見のまとまりを見た。
    そして早速、根回しが始まる。
    まず目を付けたのが、なかなか出世できないことを、ぼやいていたという噂のある槍組の組頭(くみがしら)、岩城権次郎殿(いわきごんじろうどの)で、これはとばかりに心情を吐露(とろ)した。
    「岩城殿。
    我々は信安様に御城主になって頂き、我々の心情をくみ取って頂く改革をなす者の集まりでござる。
    どうか我々の仲間に加わって頂きたい・・・・・。」
    「そんなことをして大丈夫か・・・・・?」
    「大丈夫でござる。
    きっとうまくいきます・・・・・。」
    「そうか、面白いな。
    よし、やってみよう。」と、賛同を得た。
    手ごたえを感じた一同は、これはとばかりに、次に話を持ち掛けたのが、城の警護をしている番衆(ばんしゅう)の長(おさ)である番頭(ばんがしら)の熊川甚右衛門殿(くまがわじんえもんどの)で、任務が大変な割に禄(ろく)が少ないと漏らしていたとの噂に、思いを託してみた。
    「熊川殿。
    我々は信安様に御城主になって頂き、取り立てて頂く為に集う者。
    ぜひ熊川殿にもご賛同頂きたい。」
    「よし、わしも乗った。
    しかし命あっての物種(ものだね)じゃ。
    慎重にやれよ。」と、またまた賛同を得た。
    これに意をよくした一同は次々に、これはと思う人物に話を持ち掛けてゆく。
    こうして謀反(むほん)は企(くわだ)てられていった。
    それが幸か不幸か、それだけに留まらず、ご家老の島村左兵衛殿(しまむらさひょうえどの)の耳にまで届いてしまったのだ。
     やがて一同は、ご家老に呼び出された。
    通された座敷で、ご家老を待っている一同。
    おもむろに、ご家老は現われた。
    まずは皆の言い分に耳を傾けられる。
    一同が言いたい事を言い尽したのち、ご家老は静かに口を開かれた。
    「お前たちの言い分は良く分かった。
    出世したいのも無理はない。
    殿にも行き届かないところは、お有りだろう。
    だからといって、日頃の勤めを台無しにして良いものかどうか・・・・・・・。
    日頃の勤めは、きっと報われるものだ。
    焦ったことによって、それらを全て台無しにしてしまうのはどうなのか・・・・・。
    もったいないと思うがな。
    よく考えてみることだ。
    このたびの事は、わしの胸にしまっておく。
    くれぐれも軽はずみな事は、せぬように。」
    そう言い残して、ご家老は退席された。
    だが一同は、まだ諦められなかった。
    ご家老にまで知られてしまっては万事休すと思いつつも、とうとう信安様に話を持ち掛けたのだ。
    「信安様が、その気になられれば多くの者が従うはず。
    われわれが補佐いたします。
    ご決断ください。」
    それは信安の痛いところを突いた。
    (もし城主になれれば・・・・・。)
    つぎつぎに色々な欲望が渦巻いてくる。
    それらは走馬灯のように駆け巡る。
    信安は酒を煽(あお)った。

     しかし話が殿の耳に達せぬ訳はなかった。
    陰謀(いんぼう)は発覚し、首謀者は切腹ということになってしまった。
    そして、責任を感じた信綱は家督を政信に譲って、隠居したのであった。
    そうしているうちにも信安の切腹の期日が迫って来る。
    座敷牢に入れられている信安も、己の死期を悟っていた。

    ”輝くを夢に見たるも日輪の光ることなく暮れ落ちるとは”

    辞世の歌である。

     そうして切腹の当日。
    信安をはじめ、謀反(むほん)を企てた、主だったものたちが白装束で広場へ出てくる。
    そのとき、一陣の風が立った。
    枯れ草が飛ぶ。
    一同、目をふさぐ。
    そして、それぞれの筵(むしろ)の後ろに立つ。
    おもむろに、それぞれが筵の上に座る。
    風が吹きすさぶ。
    腹を開き、小刀に懐紙をまく。
    さらに強い風が筵をあおる。
    砂塵が舞う。
    武士たる者の最期。
    潔く散る緊張が走る。
    介錯の剣が振りかざされる。
    一同、腹をかっさばこうと身構える。
    その時だった!
    「取りやめー!
    取りやめー!」
    切腹とりやめの声が通った。
    政信は父の沙汰に迷っていたのだ。
    父の沙汰を取り消すことはできない。
    (切腹!
    切腹!)
    やむを得ないと、心を鬼にしていた。
    しかし、これら一連のことに心を痛めていた政信は、切腹は取りやめ、これに関わった者たち全員を謹慎とした。

     そのような折り、隣国播磨の渋坂城が但馬の国から攻められているとの情報がもたらされた。
    城主、滝時綱殿の奥方、政信の妹、藍の方の身を案ずる政信は、援軍を差し送る準備を始める。
    戦いは熾烈(しれつ)を極めていた。
    隣り合う両国は以前よりお互いを、けん制し合っていたのだ。
    それがとうとう爆発してしまった。
    一進一退を繰り返す両軍。
    形勢は互角であった。
    そこへ和辻軍が到着する。
    それで均衡が破れる。
    押し返す滝軍。
    ようやく押し返し、事なきを得た。
    政信も、ひとまず胸をなでおろしたのであった。
    しかし、敵の軍勢は無謀の限りを尽くしたとか・・・・・城下の女たちが一番の被害を受ける。
    何時の戦の時も同じことで、野獣と化した男どもは一番に女を漁る。
    多くの女たちが犠牲になる。
    しかし女も、ある程度は覚悟の上なのだ。
    村では、若い女という女が狙われる。
    戦をするということは、女の犠牲が伴うのだ。
    致し方なかった。
    でも、女もしたたかで、期待をしている面も無きにしも非ず。
    それぐらいでなければ、戦国の世は生きてゆけないのだった。

     戦国の世とは、いろいろなことがあるものだ。
    そうして今に至っている。
    政信は頃合いをみて信安を招いた。
    「信安、よう参った。
    そちの事は案じておったが、公務に追われていて遅うなった。
    ゆるしてくれ。
    どうだ、元気にしておるか。」
    「私の事は、ほっといて頂きたい。
    兄上の世話にはなりませぬ。」
    「まあ、そう申すな。
    腰元のことは、かわいそうな事をした。
    どうだ、嫁を娶(めと)らぬか。
    実はな。
    高倉城の百合殿から、亡き義光殿の妹君である紗代姫(さよひめ)を、そちの嫁に迎えてほしいとの書状が届いてな、良い話じゃと思うが、身を固めぬか。」
    「私は兄上の決めた嫁などもらいとうはない。
    自分の嫁は自分で決める。
    口出しなど、ご無用に願いたい。」
    「そちの気持ちは分らぬではないが、兄と弟ではないか。
    そちにとっても、これほどの良い話が、又とあろうか。
    身を固めよ。
    信安。
    父上や母上を安心させてやってくれ。
    これで、おまえが紗代姫殿と結ばれてくれれば、久日の家とも縁続きになる。
    こんな、めでたいことはないと思うが。
    なにごとも御家大事だぞ、信安。」
    「兄上は、そうでしょうが、私には関係ありません。
    どうせ私は・・・・・。」
    「そんな勿体ない事を思うものではない、信安。
    子供の頃の事を覚えているか。
    よく柿の実をとって食べたものだ。
    うまかったな。
    父上と母上には叱られたが、面白かった。
    あの頃は、楽しかったな。
    お前が居てくれるからこそ、安心して政(まつりごと)にも精を出せる。
    これからも、よろしく頼むぞ。」
    信安も、子供のころを思い返していた。
    父上や母上に叱られたとき、いつも慰めてくれたのは兄上だった。
    兄上ばかりが、もてはやされるのを、同じようにしてやってくれと、気を使ってくれたのも兄上だった。
    (子供の頃は良かった・・・・・。
    あの頃は良かった・・・・・。
    本当に良かった・・・・・。)
    子供の頃の純真な、素直な心に帰った信安。
    思わず大粒の涙が込み上げてくる。
    それを必死にこらえる、が・・・・・。
    「わああああああっ!」
    号泣をする。
    今までの積もり積もった思いが、いっぺんに溢れだしてきたのだ。
    元々、そんなにひねくれた男ではない。
    純真な、いちずな男なのだ。
    「兄上、許してください。
    わたくしが間違っておりました。
    お許しください・・・・・。」
    (この兄を、困らせるような事があってはならない。)
    そう思い、ハッと我に返った信安。
    目から鱗が落ち、総てを察した。
    兄の愛情であった。
    謀反を咎めもせず、許してくれた。
    信安は、この話を快く承諾した。

     そうして紗代姫を娶ってみれば娶ったで、悪いはずもなく、琴路のことも忘れてしまうほどであったのだ。
    「紗代、こちらへ参れ。
    ささっ!こちらへ参れ。」
    そうして帯を解いてやる。
    優しく愛撫する信安。
    長い抱擁が続く。
    二人の間に火の鳥が舞い降りる。
    炎の中を求めあう二人。
    いつしか溶けあって一つになる。
    聞こえてくるのは華やいだ琴の調べ。
    その調べは何時までも続いていた。

      四 風雲急を告げる

     公務に追われている政信。
    子供たちも大きくなった。
    しかし、まだまだこれからと気を引き締めている政信なのでもあった。
     まだ宵(よい)の口ではあるが、良き香りが鼻をくすぐる。
    蹲(つくばい)へ流れ込む水の音。
    ときおり鹿威(ししおど)しの甲高かんだか)い音も聞こえてくる。
    何といっても、梅の香りが快い。
    「良き香じゃのう。
    赤も良いが、白が又、一段と良い。
    梅は良いのう。
    わしは白が好みじゃ。
    桔梗は赤の方が好みじゃったかのう。」
    「そうですねえ。
    赤も良いですが、白も宜しゅうございますねえ。
    どちらも、それぞれに趣があって、優劣は、
    つけがとうございますねえ。」
    「そうか。
    それも、そうじゃのう・・・・・。」
    「殿!」
    「おお!
    重房か。
    ちょっと待て・・・・・・・。」
    政信は梅の木を離れると、縁の方へ歩いた。
    「何用じゃ。」
    「備後の村逗豊茂(むらずとよしげ)が、われらが城を窺うておるようでございます。」
    「それで、戦の準備は、しておるのか。」
    「いえ。
    それは未だのようでございます。」
    「そうか、分かった。
    追って沙汰(さた)をする。」
    「かしこまりました。」
    重房は下がってゆく。
    政信は、ことのほか速く動いた。
    備後は笹賀瀬城主、村逗豊茂殿の元へ丁重に贈り物を届けると共に、会談を申し入れたのだ。
    しかし豊茂殿は、なかなか首を縦には振らない。
    そこで政信は更に贈り物を届けた。
    一度ならず二度までも、いや三度、そして四度。更には、とうとう五度までも。
    だが、それでも尚、会談を拒む豊茂殿。
    政信の家臣たちの間からも、そこまでしなくても、との声が上がり始めた、そんな矢先、ようやく会談を申し受けるとの書状が届いた。
    場所は、備後と備中の国境(くにざかい)に近い報徳寺(ほうとくじ)に定め、双方、万全の準備で臨んだ。

     「豊茂殿には、ご壮健のご様子、まずは重畳(ちょうじょう)。」
    「政信殿も頭を丸められたと聞き及んでおったが、よう似合うておられる。」
    「福禄寿(ふくろくじゅ)に、あやかろうと思うてな。」
    「ワッハッハッハッ!
    それは良い、それは良い。」
    「もうすぐ春を迎えるが、奥方やお子達に、お変わりはござらぬか。」と、政信。
    「息災でござる。」
    「それは喜ばしいことじゃ。」
    「貴殿の方も、いかがかな。」と、豊茂。
    「おかげをもって、みな元気でござる。」
    「そうか。
    それはなにより。」
    「ところで、どうかな、民(たみ)は潤(うるお)うているようかな。」
    「まずまずと思うがな。」
    「それは喜ばしいことじゃ。」
    「貴殿の方も、まずまずと御見受けできるがな。」
    「いやいや、まだまだでござる。
    もっと良い政(まつりごと)をせねばと何時も思うとる。」
    「ご謙遜(けんそん)でござろう。」
    「いや、なんとか戦(いくさ)をせんでも済むようになれんものかと思うてな。」
    「それは無理じゃろう。」
    「だが戦というもんは、たとい勝ったとしても、恨みをかう。
    所領が増えるのは、ありがたいが、かといって、恨みをこうてしもうたんではのう。
    民に喜ばれるのは、うれしいものじゃが、恨みをかうのは・・・どうも・・・・・。
    勝っても、負けても、戦というものは、割に合わぬものじゃ。
    のう。
    そうは思われぬか、豊茂殿。」
    「いや。
    勝てば良いのじゃ。
    勝てばな。
    恨みなんぞ気にしておっては戦はでけん。」
    「それは、そうじゃ。
    それは、そうじゃ。
    そこでじゃ。
    どうじゃろう。
    それなら、それで、少しでも戦をせんでも済むように、同盟を結ぼうではないか。
    所領が増えることはないじゃろうが、反対に、減ることもない。」
    「じゃが。
    所領というものは、美味なる酒のようなものじゃからな。
    いくらでも、ほしい。」
    「そうじゃ。
    まことに、そうじゃ。
    ところで、ご子息はお幾つになられたかな。」
    「豊春(とよはる)は十八、豊継(とよつぐ)は十五、秀法師(しゅうほうし)は四歳でござる。」
    「さようでござるか。
    これからが楽しみでござろう。」
    「お互いにな。」
    「どうであろう、わが姫を嫁にもろうてはもらえまいか。
    瑠璃は未だ六歳ではあるが、是非もろうてほしいのじゃが。」
    すると豊茂は、すこし嘲(あざけ)るような表情を浮かべながら言った。
    「よろしいのかな。
    そのようなことで・・・・・。
    姫を人質に、城の明け渡しを迫ったとしたら、どうなさるお積りかな。」
    「夫婦(めおと)を悲しませる様な事はできまい。」。
    「買いかぶられては困る。
    それがしは、それほど道義に厚いものではない。
    勝つためには手段は選ばぬ。
    戦をすれば勝つ自信はある。
    それが武士というものであろう。
    戦う前から四の五の言うておっては始まるまい。
    戦で雌雄(しゆう)を決しようぞ。
    どうだ!
    相手にとって不足はない。
    それとも、怖気(おじけ)づかれたかな、政信殿。
    問答無用じゃ!」
    政信の眼前に拳を突き出す。
    冷え込みが深まり、冷たい風が吹きすさぶ。
    「ヒューウ!ヒューウッ!」
    風の音がするばかり。
    「ヒュー!ヒューッ!」
    風が強まる。
    「豊茂殿がそのお積りなら致し方ない。
    多くの犠牲も覚悟の上じゃ。
    勝敗は時の運。
    是非もない。」
    寒さが身にしみた。
    「瑠璃は縁結びの神と思うとる。
    お互いに子供たちは大事じゃ。
    女、子供に、危害が及んではなるまい。
    大切な家臣たちも、そうじゃ。
    一族郎党(いちぞくろうとう)が路頭(ろとう)に迷う様な事があってはなるまい。
    縁(えにし)を結ぼうではないか。
    戦は無益じゃ。
    必ず失うものの方が多い。
    所領は増えずとも、もっと大切なものを得られるのではないかな。
    その為ならば、喜んで、瑠璃を差し上げよう。
    共に助け合うて国を守ろうではないか。
    のう、豊茂殿。」
    「女々(めめ)しいぞ、政信殿。
    この期(ご)に及んで尻込みするのか。」
    「わしも武士じゃ。
    戦(いくさ)となれば、存分に戦ってみせよう。
    わしとて、相手にとって不足はない。
    望むところでは、ある。
    じゃが、戦は無益じゃ。
    たとい勝ったとしても、多くの犠牲を伴う。
    その者たちの無念を思えば、勝ったからといって、手放しで喜べようか。
    戦はせぬが得策じゃ。
    それだけで、多くのものを得られようぞ。
    戦わずして勝つ。
    それが双方に恵みをもたらす。
    戦は無益じゃ。
    双方が恵まれる道は、友好しかない。
    共に繁栄しようぞ。
    のう、豊茂殿。」
    隙間風が冷たい。
    外には雪も舞ってきたようだ。
    長い沈黙が続く。
    「姫なんぞ人質にせんでも、戦い取ってみせる。
    それが武士というものだ。
    さあ!
    いさぎよく。
    戦おうぞ!」
    冷えしきる氷の様な風だ。
    足の先まで凍(こご)えてくる。
    長い沈黙が続いた
    「どうしても戦うか。
    好きになさるがよい。
    受けて立とう。
    どこからでも掛かって参られよ。」
    「望むところじゃ。」
    戸がガタガタと音を立てている。
    冷たい風が更に強まっている様だ。
    長い沈黙が更に続いた。
    「ヒュー!ヒュー!」
    風の音がするばかり。
    その時。
    あわただしく伝令が到着した。
    「殿ーっ!」
    豊茂に伝令が伝える。
    急に顔色を変えた豊茂殿。
    更に雪が舞ってきた。
    寺の枯れ山水に吸われるように消えてゆく。
    風の音に、じっと耳を傾けていた豊茂。
    長い沈黙を破る様に。
    「いや。
    分かり申した。
    さすがは政信殿。
    仏じゃのう。
    いや、茶化しているのではない。
    お気に障ったら許してくれ。
    そこまで戦(いくさ)を避けておられようとはな。
    感じ入った。
    じつはな・・・・・・・・。
    秀法師が急な熱を出したようでな・・・。
    危ないそうじゃ。
    仏の政信殿に逆ろうたから、神罰が下ったのやもしれぬ。
    怖いものじゃ。
    わしも心を入れ替えねばならぬのかもしれぬ。
    今、秀法師にしてやれる事は、それだけの様な気がしてのう・・・・・・・。
    政信殿を見習わねばならぬのかも知れぬ。
    先の戦の折には寛大な処置をされたようで、果たして、どうかなと思うておったが、確かに恨みは恐い。
    わしだって、できることなら恨まれるようなことは、したくもない。
    同盟。
    よかろう。
    縁を結ぼうではないか。
    のう、政信殿。」
    そう言いながら豊茂は手を差し出す。
    その手を政信は、しっかりと握り返した。
    「わしも、秀法師殿のご無事を祈らせて頂こう。
    豊茂殿の御心は、きっと神仏に通じているはずじゃ。
    必ずや、快復なさるであろう。」
    「かたじけない。」
    「固めの杯じゃ!
    酒(ささ)を持て!」
    外の寒い所に控えていた供の者たちにも一様に酒(さけ)は振る舞われ、皆、ともどもに喜びを分かち合うのであった。
     この日、政信と豊茂は旧知の友のように打ち解け合い、互いの脇差を交換して、不可侵を誓い合うまでにいたった。
    別れる頃には、また、日が差してきて、ちょうど見頃になってきた梅の花色が映えている。
    その梅の香に送られながら、双方、互いを背にして、名残を惜しみながら引き揚げてゆくのであった。
    途中の山々は、まだ枯れ色をしていて寒々しい。
    しかし、もう目白は飛び交っているようだ。
    時折り高い声が聞こえてくる。

     友好の美酒に酔いつつ帰るさの
        吉備路の風は未だ冷たかり

    政信が歌に詠んだ通り、世を吹く風は、まだ冷たかった。

      五 庵(いおり)

     それから幾年も年月は流れ、小菅山にも団栗(どんぐり)が転がり、栗の実が弾けて冬の訪れを誘う頃、栗鼠(りす)は駆けずり回って木の実を集め、冬の支度(したく)に余念がない。
    そこに、円(つぶ)らな瞳があった。
    どんぐりを拾って目を丸くしている。
    信安は子を三人授かった。
    だが、残念な子たちもいたのだ。
    今は一人を残すのみ・・・・・。
    月日の経つのは早いもので、日輪庵(にちりんあん)の日寛様(にっかんさま)も、そのことを悲しんでおられて、添柔尼(てんにゅうに)と共に祈りの日々を過ごし、香の香りの絶える事はなかった。
    それは出家した政信と桔梗の姿であった。

     季節は進み、日寛は今ちょうど椿の咲いている庭の掃除をしているところで、落ち葉などを掃き寄せておくのだ。
    そうすると又、肥やしとして活かせる。
    「日寛様。
    お茶が入りました。」
    座敷の方で添柔の声がする。
    日寛は手を休めると裾を払いながら静かに踏み石へ上がった。
    更に縁の上から丁寧に履物の向きを直すと座敷へ入って添柔のそばへ並ぶように座り、庭を眺めながら、お茶を啜る。
    まだ寒い折ではあるが、日当たりが良いので結構あたたかい。
    「梅が、ようございますね。
    また、目白が来ております。」
    「そうじゃな。
    かわいいやつじゃ。」
    「まったく、目を楽しませてくれます。
    いつ見ても飽きませんね。」
    「梅の香が良いからのう。
    目白も喜んでおろう。」
    静かな刻が流れてゆく・・・・・。
    日も、だいぶ高くなってきているようだ。 
    日寛は優しく添柔を抱き寄せる。
    そして唇を求めあい、熱い抱擁を交わす。
    梅の香りが鼻をくすぐる。
    目白のさえずり。
    鹿威しの音。
    静かに時は流れる。
    「いろいろな事があったなあ。
    今にして思えば、みんな夢のようであった。
    人の世とは、そういうものかもしれぬなあ。」
    日寛は、しみじみと呟く。
    庵は変わりなく穏やかであった。

     こうして政信の子孫は栄て、江戸時代の元禄十一年(一六九八)、第五代将軍徳川綱吉の治世における備前の国、岡山藩第二代藩主、池田綱政公の治める岡山城下の町道場、空穂無刀流の師範代、花房龍之介へと受け継がれます。

      第二部
      

      無刀(むとう)の構え

       免許皆伝

     「トオリャーッ!」
    「チェストーッ!」
    竹刀(しない)を打ち合う音と共に、威勢のいい気合が聞こえています。
    ここは空穂無刀流の町道場なのです。
    「トオーッ!」
    「オオーッ!」
    「トオリャーッ!」
    「チェストーッ!」
    「それまで!」
    これよりは八段以上の者が師範代、花房龍之介(はなぶさりゅうのすけ)に稽古(けいこ)をつけてもらうのです。
    双方、礼をして始めます。
    龍之介は、正眼に構えるとピタリと動かなくなりました。目も閉じています。
    その構えには一分の隙もありません。
    いや、というより隙だらけのようにも見えるのです。
    しかし、打ち込めば途端に打ち込まれるように思えて恐いのです。
    これを、誘いの隙というのでしょうか。
    「トオリャーッ!」
    満を持して打ち込みます。
    「オオーッ!」
    それよりも一瞬早く小手を決めます。
    「参りました。
    ありがとうございました。」
    他の者も次々に稽古をつけてもらいます。
    師範代は、無刀流免許皆伝なのでした。
    龍之介は五十二才。妻と四人の子に恵まれています。
    妻の名は美代(みよ)、四十八才です。
    長男、清之介(せいのすけ)、二十二才。
    次男、清二郎(せいじろう)、二十才。
    長女、美奈(みな)、十八才。
    三男、清三郎(せいざぶろう)、十六才でした。

     花房の家は、源頼房を祖とする庶流の家系で和辻の姓を名乗っていましたが、新たに花房の姓を賜ったのでした。
    のちに、花房あきらが生まれて探偵となるのですが、その活躍は、”琥珀のしたたり”へと続きますので宜しければ、そちらもお楽しみください。

     時は元禄十一年(一六九八)、江戸で大火のあったこの年、第五代将軍、徳川綱吉の治世における、備前の国、岡山藩、第二代藩主、池田綱政公の治める岡山城下の事なのです。
    無刀流師範は空穂清史郎(うつぼせいしろう)、五十八才。
    岡山藩の剣術指南役を務めているのでした。
    龍之介の長女、美奈は、空穂家へ行儀見習いに上がっています。
    もちろん、二人の息子たちも無刀流の道場で腕を磨いているのです。
    ただ、次男の清二郎だけは、どういう訳か和歌を好んで剣術には不向きなのでした。
    龍之介も、和歌は大切な教養だからと、それはそれで応援しているのです。
    空穂清史郎の奥方、小百合(さゆり)は五十一才で、長女の由利子(ゆりこ)は二十二才。
    その下の、長男である利光(としみつ)は清二郎と同い年の二十才で美奈の、いいなずけなのでした。
    その下に次女の、かな恵(え)がいて、十五才なのです。
    ですから龍之介の奥方、美代にとっては、小百合は良きお姉さまであり、日頃から何かと相談にのっていただいているのでした。
    龍之介の長男、清之介は、清史郎の長女、由利子と、近々祝言を挙げることになっていました。
    「由利子さん、どうですか、甘いものでも食べに行きませんか・・・・・。」
    清之介が誘います。
    「いいですね。
    参りましょう。」
    二人そろって城下の甘味処(かんみどころ)で、あんみつを頂くのです。
    「婚儀の折は、よろしくお願いしますよ。」
    清之介が言います。
    由利子も、「こちらこそ、よろしくお願いします。」と応えます。
    清之介は婿養子になるのです。
    じつは、由利子の弟、利光は、まるで清二郎と示し合わせたかのように武芸が嫌いで和歌を好むのでした。
    だから空穂家の家督を清之介に継がせようとしているのです。
    清史郎は、武芸などしなくてもいいという考えなので、べつに利光のことを責めてはいないのでした。
    無刀流は清史郎の父、清一郎(せいいちろう)が創始(そうし)したもので、一般には無刀流で通っていますが、正式には空穂無刀流といい、龍之介も清史郎と共に小さい頃から稽古に励み、息子たちに清の字を頂いてきているのです。
     甘いものを食べた帰り、清之介と由利子が川岸を連れだって歩いていると呼び止めるものがいます。
    「まて!
    懐(ふところ)のものと腰のものを置いてゆけ!」
    前方の柳の木の陰に浪人風の男が立っているのです。
    「何者だ!」
    「名乗るほどのものではない。
    おとなしく言うことを聞け!
    さもなくば命はないぞ!」
    男は刀を抜きました。
    とっさに身構える清之介と由利子。
    男は切りかかってきます。
    それを、さっと体をかわすと同時に、由利子が男の手首を手刀で打ち、刀を落とさせ、清之介が男を川へ放り込みました。
    清之介は六段、由利子も三段です。
    大抵(たいてい)の者には後れをとりません。
    少し息を整えて、また何事もなかったかのように帰路に就く二人でした。

       幼い恋心

     「かな恵さん、花見に行きませんか。」
    清三郎が誘います。
    「うれしいわ、参りましょう。」
    河川敷は桜の名所なのです。
    大勢の人出でした。
    「きれいですね。」
    「ほんと、とってもきれい。」
    枝々に、ぼんぼりがぶら下がっています。
    夜には提灯(ちょうちん)に灯がともって、それはそれで、また、奇麗なのです。
    二人が花に見とれていると、不意に、ドン!と、ぶつかってゆく女がいます。
    とっさに女の手を取った清三郎。
    「馬鹿なことはやめなさい。」と諭(さと)すと同時に財布を返させるのです。
    「イタタタタタッ!
    ごめんなさいね。
    やめとこうと思ったのだけれど、子供のくせに女連れなのが憎たらしくって、つい!
    おみそれしました。」
    謝ると女は、そそくさと、どこへともなく消えていったのでした。
    清三郎でさえ道場では二段の腕前なのです。
    少々の者には後れをとらないのでした。
     二人が家へ帰ったころを見計(みはか)らって、今度は清二郎が、かな恵のもとを訪ねます。
    和歌を持参して。
    かな恵は縁側へ座っていました。
    「歌ができましたので、見て頂けますか。」
    そう言いながら清二郎はかな恵のそばへ腰を下ろします。
    そして、歌をしたためた半紙を渡しました。

     並木なすいちょうの若葉萌え始め
      遠くの桜満開となる

       
     あいにくの曇りなれども道の上を
      覆う桜の満開となる

    昨日の雨にも散らず道の辺の
      なじみの桜満開のまま

    「どうでしょうか。」
    「素敵だわ。
    お上手ね。」
    「気に入っていただければ、何よりです。」
    清二郎は表現が下手なので、こうして和歌を詠むことで救われているのです。
    それは利光も同じなのでした。
    その兄の事を身近で感じているので、かな恵は、清二郎のことも分かるような気がしているのです。
    「お琴を弾いてみましょう。
    聴いてくださる。」
    「もちろんです。
    よろこんで聴かせていただきます。」
    かな恵は、いろいろとお稽古事をしているのですが、お琴もその一つなのです。
    座敷へ入って琴の準備をすませると、かな恵は息を整えます。
    そして、やおら弾き始めると、たちまち美しい調べに包まれてゆきます。
    流れるようであり、寄せては返す、寄せては返す波のようです。
    (なんて幸せなんだろう。)
    清二郎は心の底から、そう思っていました。
    (今、この時が一番しあわせかもしれない。
    できれば、いつまでも、こうしていたい。)
    清二郎の心は満たされたのでした。
    「なんだ!
    兄上ばかり、いい思いをして・・・。」
    いつの間にか、清三郎が尋ねてきていたのです。
    かな恵は手を止めて、「お茶にしましょう。さっ、お二人とも、こちらへいらして。」と、招き入れます。
    「私は、もう失礼します。
    清三郎と、どうぞごゆっくり。
    また聴かせてください。
    ありがとうございました。」
    そう言って、清二郎は帰ろうとします。
    「兄上、お待ちください。
    わたくしは、お邪魔をする気はなかったのです。
    ただ、先だってお借りした、手拭いを、お返しに上がっただけなのですから、兄上こそ、どうぞ、どうぞ、ごゆっくりなさってください。」
    そう言って、清三郎も気を利かせようとします。
    しかし結局、二人とも、お暇(いとま)することになったのでした。
    辺りは、だいぶ薄暗くなってきています。
    河川敷では提灯に灯がともるころで、夜桜見物の人たちで賑わっている事でしょう。
     そんなある頃。
    城下には不思議なうわさが流れていました。
    近郊のある村で、夜な夜な狐の嫁入りが見られるとのことなのです。
    「兄上、お聞きになりましたか・・・。
    近くの村で狐の嫁入りが見られるそうですよ。
    どうですか。
    かな恵さんを誘って、一緒に行ってみませんか・・・・・。」
    清三郎が清二郎に告げます。
    「お前も物好きだな。
    そんなの、見なくったっていいよ。」
    「まあ、そうおっしゃらずに・・・。
    何事も経験ですよ。
    一度は見ておいても損はないでしょう。
    ねえ、行きましょうよ。」
    清三郎は乗り気なのです。
    必要に誘います。
    そんなことで、三人は出かけることになりました。
    そう遠くない村です。
    ちょうど辺りも薄暗くなってきました。
    山の麓には八幡様(はちまんさま)のお社(やしろ)があります。
    三人はお賽銭(さいせん)を入れてお祈りをしました。
    ここから山の中腹にあるお稲荷(いなり)さんの祠(ほこら)までに狐火(きつねび)が連なるのだそうです。
    「なんだか薄気味悪いわね。
    もう帰りましょうよ。」
    かな恵が言います。
    「清三郎。
    もう帰るぞ。」
    今度は清二郎が言います。
    「待ってくださいよ。
    いま帰るのであれば、ここまで来た苦労が水の泡ではないですか。
    もう少し様子を見てみましょう。」
    「いやだわ。
    私、もう帰る。」
    そう言って、かな恵が歩きかけた時です。
    「あっ!
    あれ、見てごらんなさいよ!
    狐火が!
    ほら、見事に連なっているではありませんか。
    どうです、見事なものでしょう。」
    清三郎が叫びます。
    それは奇麗に連なって青白く輝く神秘的な狐火でした。
    三人は恐いのも忘れて見入ります。
    あまりの美しさに声も出ません。
    それは、まさに狐の嫁入り行列のようだったのです。
    (不思議なことがあるものだ。)
    三人は三様に、そう思っていたのでした。

       予期せぬ出来事

     空穂無刀流の道場には八幡様が祭られていました。
    神仏に深く帰依(きえ)しているのです。
    それが同派の根幹でした。
    稽古の始めと終わりには必ずお祈りを欠かしません。
    師範の留守は、師範代が守っています。
    そんな折、道場を訪ねてくるものがありました。
    門弟が御用の向きを伺って取り次ぎます。
    どうやら稽古をつけてほしいとのこと。
    道場へ通された男は、立ち居振る舞いのきちっとした武芸者でした。
    その隙のなさから、そうとうの使い手と思われます。
    これは、少々の者では歯が立つまいと思われましたので、龍之介は、六段の者から立ち合せてみたのです。
    もちろん、袋竹刀(ふくろしない)での立合いですが、まずは一礼をして。
    「トオリャー!」
    気合を入れますが、武芸者は動かず、これといって構えてもいないのです。
    「オーリャーッ!」
    「トオーッ!」
    いくら気合をかけても武芸者は動きません。
    これは、いつもとは様子が違うなと思いつつも満を持して・・・・・。
    「トオーッ!」
    打ち込みます。
    途端に、一瞬早く打ち込まれたのでした。
    武芸者の技量(ぎりょう)のほどが窺われます。
    そうとうの使い手でした。
    門弟は次々に敗れていきます。
    とうとう龍之介との勝負になりました。
    世の中に、この様な武芸者がいるものなのかと一同の者たちが感心していたところで試合が始まったのです。
    互いに、ピタリと正眼に構えると、ピクリとも動かなくなりました。
    しばらく動きません。
    時だけが過ぎてゆくのです。
    みんな固唾(かたず)をのんで見守っています。
    こんなときは、時が長く感じられます。
    まだ動きません。
    まだ動きません。
    そして一瞬ののち、双方同時に動きます。
    「トオーッ!」
    「オーリャーッ!」
    それを見て、みんな驚きました。
    同時に面を打っているのです。
    「まいりました。」
    それも同時でした。
    共に平伏(へいふく)しています。
    「もう一度、今度は真剣でお手合わせ願いたい。」
    武芸者は、そう言うのです。
    「それは、お受けできません。
    我が流派では、真剣勝負は禁じられております。
    それだけは、ご容赦ねがいたい。」
    いかにも残念そうな武芸者。
    龍之介は尋ねます。
    「まだ、お名前を伺っておりませんが。」
    「いや、名乗るほどのものではござらぬ。
    良い手合わせをさせてもらった。
    失礼いたす。」
    そう言って立ち去ろうとします。
    「お待ちください。
    失礼だが、これをお持ち願いたい。」
    そう言って龍之介は、金一封を渡すのです。
    「これは、かたじけない。
    路銀(ろぎん)にも困っていたので、助かる。
    遠慮なく頂戴いたす。」
    そう言って武芸者は立ち去って行ったのでした。
    門弟たちは騒がしくなります。
    「あのような武芸者が、おるものだなあ。」
    「いや、驚いた。」
    「強いのなんのって、師範代と互角だからな。
    いや、驚いた。」
    その日の稽古は、それで終わったのでした。
    さわやかな初夏の風が入ってきます。
    蝉の声も聞こえ始めているのです。
    みんなは井戸端に集まって汗を拭き始めました。
    近所を通ってゆく風車売(かざぐるまう)りの、売り歩く声も聞こえてきているのでした。
     それから暫くして、人ごみを龍之介が歩いていると、「まて!」と、浪人者に呼び止められます。
    「何ようかな。」と、問い返すと浪人は難癖(なんくせ)をつけてくるのです。
    「刀の鞘(さや)が触った。」
    「その様な覚えはないが。」
    「いや、触った。」
    「どうしろというのかな。」
    「問答無用だ!
    立ち合え!」
    そう言うと浪人は刀を抜きます。
    「ここでは周りの者が迷惑する。
    あちらへ参ろう。」
    そう言って広場へ移動します。
    そして龍之介は、右の手刀を前に出して、まるで拝むかのように構えたのです。
    これが、空穂無刀流無刀の構えでした。
    しばらく動きません。
    というより、浪人は上段に構えたまま、切り込めないのです。
    しだいに焦りが見えてきました。
    しばらく時が流れましたが、浪人は刀を降ろして言います。
    「おぼえてろよ!」
    そう捨て台詞(ぜりふ)を残して立ち去っってゆきました。
    「はははははっ!見事な構えだな。
    拙者(せっしゃ)と立ち合ってくれぬか。」
    そういうや否や武芸者は刀を抜くと、そばの女に切りつけた。
    その女の帯だけが見事に切られる。
    はらりと落ちた帯。
    たちまち女の着物の前がはだける。
    あわてて前を押さえる女。
    返す刀で女の着物だけを裂(さ)く。
    思わず前こごみになる女。
    はらりと着物が落ち、女は桃色の腰巻きだけになる。
    慌てて胸を手で隠す女。
    すかさず刀が振り下ろされる。
    すると見事に腰巻きが切り落とされ、女は一糸まとわぬ裸となり、手で前を隠しながら小走りに去ってゆく。
    「見事な腕前だな。
    立ち合うまでもあるまい。
    おぬしの勝ちだ。
    良い目の保養をさせてもらえたのだ、これ以上この場を騒がせるのはよそう。
    それにしても美しい女であった、それに感謝をしよう。」
    そう言って龍之介はその場を離れます。
    武芸者も、それ以上無理強いはしないのでした。
    龍之介は大事無かったことを神仏に感謝して、人ごみに戻っていったのです。
    日差しは、だいぶ暑くなってきています。
    でも風は、比較的さわやかなのでした。
     その足で城下の八幡宮へお詣りをした龍之介は、周りに繁っている樟の一本の太い幹に空蝉(うつせみ)を見つけました。
    まだ羽化したばかりのようなのです。
    瑞々しい命の輝きです。
    そこで羽化登仙(うかとうせん)ということを思い浮かべてみました。
    人間に羽が生え、仙人になって天に上るということらしいのです。
    周りの緑が鮮やかで、木洩れ日が眩しく輝いています。
    境内には蝉の鳴き声が満ちていました。

       時の流れ

     清之介と由利子の婚儀が行われています。
    二人は同じ酒を、まず清之介が三度。
    そして由利子も三度。
    そしてまた清之介が三度と酌み交わしているのです。
    花房家と空穂家にとって誠に目出度い日を迎えました。
    ここに新しく空穂清之介が誕生したのです。
    酒宴の席は質素に行われました。
    空穂無刀流は清之介が後を継ぐことになっています。
    清之介の責任は重いと言えるでしょう。
    その覚悟のほどが試されています。
    まだまだ修行は足りないのです。
    それは清之介も充分に承知していました。
    「未熟者ですが、今後ともよろしくお願いいたします。」
    そう挨拶をして、締めくくったのでした。
     その後の道場では若先生と呼ばれます。
    門弟たちの稽古をつけることも多くなってきているのです。
    「若先生、お願いします。」
    「ちょっと待ってくれ。
    こう矢継ぎ早では息が切れる。」
    一息ついて、また相手をします。
    「トオーッ!」」
    「オーッ!」
    まだまだ、打ち込まれることも、しばしばです。
    でも道場は、若返ったような活気に満ちていました。
     清史郎は剣術指南役の勤めが忙しく、留守にすることが多かったので、食事も清之介が主になることもあったのです。
    「母上、この漬物は、おいしゅうございますね。」
    「そうですか、それはよろしゅうございました。」
    糠漬(ぬかづ)けは小百合の自慢で、それだけは女中にも任せず、自分で手入れをしているのでした。
    庭の木立も薄く色づいてきていて、秋の訪れが感じられます。
    蝉の鳴き声が絶えて久しく、代わって、虫の音が聞こえてきているのです。
    吹き入る風も、心地よくなっていました。
     道場には、師範も師範代も不在で、清之介が留守を任されているのです。
    「たのもう!」
    誰か尋ねてくるものがいます。
    門弟が取り次ぐのですが、どうやら稽古をつけてほしいとのこと。
    事情を話してお断りしている様子なのです。
    「入門しようかどうか迷っているので、ちょっと稽古をつけてほしいと言っておりますが、若先生、どうしましょう。」と、告げられた清之介。
    まあ少し様子を見てみよう、ということになりました。
    通された男はオズオズとしながら、「自己流ですが、よろしくお願いします。」と、言っています。
    稽古が始まりますと、男は、そこそこに打ち合っているのです。
    まあ、それはそれでいいかと、みんな思っていました。
    でも、段々と調子を上げてきた男は、なかなか強いのです。
    下の者では歯が立たず、負け始めました。
    これは尋常ではないぞと思い始めたころには、清之介との対戦を迫ってきたのです。
    やむなく受けることにしました。
    清之介としても、いい稽古になると思ったからです。
    たとえ自分が敗れたとしても、まだ高段の者がいるので大丈夫と思ったのです。
    男は着流しです。
    一見したところでは強そうには見えません。
    (どうして、こんなに強いんだろう。)
    みんな不思議に思っていました。
    確かに、どこの流派にも属していないようなのです。
    やがて試合が始まりました。
    男の構えは構えとは言えず、(これを、無手勝流というのだろうか。)と、思わせられたほどです。
    (ならば我が流派とも相通ずるものがあるの
    ではないのか。)
    そう思ったときに、男に隙が見えたので、清之介は、すかさず打ち込みました。
    「まいった!」
    小手が決まったのでした。
    「いやー、合格、合格。
    驚かせてすまなかったが、兄貴に頼まれたのでな、許してくれ。」
    聞けば、清史郎の疎遠(そえん)となっている義理の弟さんとのこと。
    ようやく清之介をはじめとして、みんなは合点がいったのでした。
    あとは和気あいあいとした空気に包まれる道場だったのです。
     季節は移ろいゆきます。
    美代は日頃から病気がちでした。
    冬に入って風邪をこじらせ、寝込むことが多くなっていたのです。
    「あなた、ごめんなさいね。
    みんなも、許してね。」
    「いいから、ゆっくり休みなさい。」
    「母上、早く良くなってくださいね。」
    「母上。」
    「母上。」
    しかし病状は、なかなか快復しません。
    冬の寒さが募(つの)るとともに、病の方も悪化をたどります。
    もう駄目ではないかと、みんなが思いかけていたころ、一時的に快復の兆しが見えてきたのです。
    これは大丈夫かなと、みんな期待を持ちました。
    ところが・・・・・。
    その日の夜になって急に病状が悪化したのです。
    「美代、気をしっかり持つんだ!」
    「母上、良くなってください!」
    「母上・・・・・。」
    そうした、みんなの願いもむなしく、とうとう帰らぬ人となってしまったのです。
    雪のちらついている夜の事でした。
    みんな、覚悟はしていたのです。
    通夜は、なぜか長く感じました。
    そして、型通りの葬儀をすませ、鄭重(ていちょう)に送ったのでした。
    しばらくは美奈が母親代わりです。
    花房家も寂しくなりました。
    残念でしたが、仕方がなかったのです。
    みんな気を落としています。
    楽しかった家族だんらんが思い出されるのです。
    みんな美代の明るい笑顔が忘れられません。
    でもきっと、お盆には、また会いに来てくれるでしょう。
    お仏壇のお線香は絶やしませんでした。

     季節は更に移り、その年の蛍狩(ほたるが)りの時がやってまいりました。
    例年、一家そろっての恒例の行事になっているのです。
    今年も奇麗でした。
    幻想的な青白い光が、無数に飛び交っているのです。
    止まっているものもあれば、動いているものもあります。
    肩に止まるものさえあるのです。

     黄泉路より今も優しき母上が
       蛍となりて会いに来たるらし

    その時の感動を、清二郎が詠んだ歌でした。

     ある日の道場でのことです。
    久しぶりに師範がいます。
    稽古の前に訓示を述べているのです。

     「ご承知の通り、我が道場の者は、こしぬけ侍と呼ばれています。
    しかし、これは讃辞と捉えるべきでしょう。
    なぜならば、人を、あやめない侍だからです。
    武芸とは、人を、あやめるためのものではありません。
    あくまで、身を護るためのものなのです。
    腕を磨くのも、そのためです。
    さらには、刀を用いないで身を守るところまで行くのが、我らが無刀流なのです。
    だから真剣勝負はしないのです。
    するべきではないのです。」

     これは無刀流の処世訓(しょせいくん)なのでした。

     それから暫くののち とある茶店を清之介が訪れた時のことです。
    若い女性客に、遊び人風の男が、執拗に絡んでいます。
    遊びに行こうと誘っているようなのです。
    見かねた清之介。
    「嫌がっているようじゃないか、もうやめなさい。」
    やさしく諭します。
    「なにいっ!
    よけいなことだ。
    ほっといてくれ。」
    「そうはいかないだろう。
    かわいそうではないか。」
    「じょうとうじゃあねえか。
    表へ出ろ!」
    そして刀を抜きます。
    「この通りだ。
    勘弁してくれ。」
    清之介は土下座をして謝ります。
    「ハハハハハッ!
    無刀流の道場の奴か。
    口ほどにもない奴だ。
    今日のところは勘弁しておいてやる。
    おぼえてろ!」
    そう捨て台詞を残して、男は去ってゆきました。
    清之介は袴(はかま)の裾を払って茶店へ戻ります。
    「ありがとうございました。
    無刀流の道場の方は本当にお優しいですね。
    城下の者は、みんな助かっております。
    今後ともよろしくお願いいたします。」
    そのように礼を述べて、若い女性は帰ってゆくのでした。
    秋風が心地よく吹いています。
    道端には団栗が転がっているところもあるのです。
    リスは冬支度に大忙しでしょう。
    団栗で遊んだ子供の頃を思い出している清之介なのでした。

       主君

     あるひのこと。
    清史郎が城での勤めを終え、帰路についていると、数人の男たちが取り囲みます。
    「何者だ。
    何の用があるのだ。
    話せば分かる。
    聞かせてくれぬか。」
    「問答無用だ!」
    そう言って、男たちは刀を抜くのです。
    清史郎は身構えます。
    右の手刀を前に出して、まるで祈るかのように。
    空穂無刀流無刀の構えです。
    前から切り込んでくる刀を両手に挟んで止めると同時に男の鳩尾(みぞおち)を蹴り上げます。
    堪らず離した刀を地面に投げ捨てるのです。
    その動きの速いこと。
    切り込んでくる相手を交わしながら、刀を取っては捨て、取っては捨て、とうとう刀を取り切ってしまいました。
    すると、拍手がきこえてくるではありませんか。
    見れば石垣の上から綱政公が姿を現されます。
    「皆の者、見たか。
    あれが空穂無刀流無刀の構えじゃ。
    励めよ。
    清史郎。
    大儀であった。
    あっぱれ。
    あっぱれ。」
    清史郎は殿に一礼をします。
    そして息を整えて、また、帰路につくのでした。
    お城の楓も赤く染まっています。
    桜の葉も奇麗に色づいているのです。
    散り続く落ち葉も、また少し、数を増しているのでした。
     池田綱政公は、江戸時代前期の名君として名高い池田光政公のご長男です。
    母は、本多忠刻公と千姫の娘・勝子様です。
    父・光政が三十歳のとき、江戸藩邸でご誕生になられました。
    寛文十二年(一六七二)に光政の隠居に伴って家督を継ぎましたが、父が存命中の藩政は隠居した父によって行われましたので、天和二年(一六八二)、父の死によって自ら藩政に取り掛かりました。
    光政公の治世により、岡山藩は藩政が安定し発展しましたが、大藩になればなるほど何事においても支出が増大し、そのために光政の治世末期から綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は財政難に見舞われていました。
    このため、綱政は津田永忠や服部図書を登用して財政再建に取り掛かりました。
    綱政は、財政再建のためには農村再建による新田開発が必要であると考えていました。
    また、この頃、岡山藩は大洪水などの天災が発生して多難を極めていました。
    そのため、津田永忠を用いて児島湾に大掛かりな干拓を行い、洪水対策としては百間川や倉安川の治水工事を行いました。
    この農業政策は成功し、岡山藩は財政が再建されることとなったのです。
    また、綱政公は造営事業にも熱心で、元禄十一年(一六九八)には池田氏の菩提寺である曹源寺を創建しました。
    元禄十三年(一七〇〇)には、やはり津田永忠を責任者として後楽園も造営しました。
     そんなことですから、花房龍之介も隠居して、昔から好きであった野良仕事に精を出しているのです。
    そのころには刀も捨てていたのでした。
    そして清二郎は清二郎で、和歌が認められてお城に上がり、松姫のお相手を仕(つかまつ)っていました。

    姫君もかく心地よく御覧かも
      月見櫓のこれの眺めを

    階(きだはし)のこの欄(おばしま)の艶やかさ
      西手櫓で触るる姫君

    西の丸西手櫓は今は亡き
      光政公の隠居所なりし

    以下は後楽園で詠んだものです。

    曲水の底の豊かな水苔を
      ひた透き通す水の真澄みし

    一陣の風に吹かれて散る桜
      裾を曳きつつ流るる如し

    引き込まれ園を巡れる曲水の
       小さな水車さわさわ回る

    殿も和歌がお好みでした。
    後楽園は、やすらぎの場として、お客をもてなす場として、時には領民に開放したりもして、園内の舞台で藩主自ら能を舞われることもありました。
    綱政公は、備前吉備津宮も建立しました。
    また、曾祖父の輝政公が三河の国吉田城の城主であった時に信心しておられた縁で、三河国行基開基の岩屋観音にも多大な寄進をしています。
    そして宝永四年(一七〇七)、東海道白須賀宿に宿泊中に観音が夢に現れ、立ち退くようにお告げがあり、急ぎ二川宿へ向かったところ、地震が起こり、白須賀宿は大津波に飲み込まれましたが、綱政公の一行は無事だったのです。

       
    御前試合

     時は流れています。
    空穂無刀流の師範は清之介に代わっているのです。
    お城の剣術指南役も受け継ぎました。
    無刀流免許皆伝なのです。
    子供も三人授かっています。
    公私ともに多忙な日々を送っているのです。
    師範代は清三郎が受け継ぎました。
    道場も若返ったのです。
    清史郎も龍之介も趣味に生きる日々を送っています。
    和歌も嗜(たしな)んでいるのです。

     人生とは寂しきものか誰とても
      いずれはお別れなさねばならぬ

    ひと方を凝視せし猫翻(ねこひるがえ)り
      躍動しつつ藪へ駆け入る

    奇岩巨石突き出す峰の上空を
      とんび幾許(いくば)く己がじし舞う

    これらは龍之介の詠んだ歌でした。

     ままならぬ動乱の世の安寧を
       念ず写経の文字の見事さ
         尊氏願経

    隣接の足守藩の小さめな
      家老屋敷の御成門かな

    小藩の家老屋敷のそれなりの
      威厳を示す長屋門かも

    こちらは清史郎の詠んだ歌でした。

    ここに詠まれています足守藩木下家は、平氏の出身で杉原と称していましたが、家定のとき、妹(ねね)が豊臣秀吉の北政所であったので、木下氏を許され、豊臣の称号を与えられました。
    木下家定は、関ケ原合戦に際しては、北政所を守護して中立を守ったので、慶長六年(一六〇一)三月二十七日、姫路から備中国足守二万五千石に転封したのでした。
    時の移り変わりではあります。
    利光と美奈も結婚して子供を二人授かっていました。
    ここよりは利光の詠んだ歌です。

     かぐわしき煙の匂い漂いぬ
      どこかで誰か焚火するらし

    ささやかに煙の立ちて消えかけし
      焚火に残る赤き柿の葉

    さ走れる真澄みし水に細長き
      川藻の群れて流れにまかす

    細枝をふいに離れしひとひらの
      枯れ葉舞いつつ池へ落ちゆく

    国分寺の丘にはびこる荒草の
      中に芒の穂の出揃える

    国分寺の丘の道辺の荒草の
      中にほおけし芒穂の群れ

     この頃の国分寺は廃れていたのでした。

    この年、御前試合が行われました。
    綱政公の御前に柳生新陰流の武芸者を招いての事です。
    実は清之介の祖父に当たる空穂無刀流の創始者、空穂清一郎は、もともと柳生新陰流の門下でした。
    それを更に創意工夫して、独自の技を編み出されたのが、空穂無刀流なのです。
    空穂無刀流無刀の構えは、柳生新陰流の無刀取りから生まれたのでした。
     試合場には陣幕が張られています。
    そこには池田家の家紋である備前蝶が、はっきりと染め付けられているのです。
    各地から主だった武芸者が招かれており、見ごたえがあります。
    それに、試合は真剣で行われることになっていて、いちおう切り込む寸前で止めることになってはいるものの、迫力満点なのです。
    まずは宝蔵院流の槍(やり)の使い手と柳生新陰流の対戦で始まりました。
    宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)とは、奈良の興福寺の僧、宝蔵院覚禅が創始した十字槍を使った槍術です。
    柳生とも親交がありました。
     槍の使い手は法衣を身に着けた入道です。
    双方、殿へ一礼。
    そして、互いに一礼をしました。
    「はじめーっ!」
    審判の声で試合が始まります。
    柳生の武芸者も刀を抜きました。
    たがいに構えたまま動きません。
    しばらく時が流れます。
    と、入道が右へ回り始めました。
    どうやら太陽を背にするようです。
    すかさず柳生も左へ動きます。
    たちまち距離が縮まったかと思うや否や、槍が突かれました。
    柳生は刀で跳ね返します。
    ところが十字の槍です。
    反対に刀を跳ね飛ばされてしまいます。
    しかし、その期に乗じて入道の懐に入り込んだ柳生の小刀が抜かれ、入道の脇腹へ突き立てられます。
    「それまでっ!」
    審判の声と同時に入道も声を発しました。
    「まいった!」
    まさに一瞬の出来事でした。
    双方、元の場所へ戻ると殿へ一礼。
    そして、互いに一礼をします。
    そして退場です。
     さて、次の試合に移ります。
     
    方や、小野派一刀流の使い手。
    相対《あいたい 》するは、北辰夢想流(ほくしんむそうりゅう)の使い手です。
    北辰夢想流とは、相馬中村の藩士、吉之丞が藩主の御前で同門の藩士、山上角之進と剣法の技を競って敗れたので、相馬の妙見宮に参籠して熱心に武術の上達を祈願したところ、神霊に剣法の秘訣を授けられた夢を見て、急に技法が進み開けたので流派を称えたものです。

     方や、小野派一刀流の方ですが、伊藤一刀斎には善鬼と神子上典膳の二人の弟子がいて、一刀斎は二人に下総の国小金原で真剣勝負をさせて、勝った者に一刀流を相伝することにしました。
    そして勝負に勝ち残った典膳に一刀流を継承させたのです。
    その後、神子上典膳は小野忠明と名を改め、柳生新陰流の柳生宗矩と共に徳川将軍家剣術指南役として召し抱えられました。

     さて、試合が始まります。
    双方、殿に一礼。
    そして、互いに一礼をしました。
    「はじめーっ!」
    審判の声が掛かります。
    双方、刀を抜いて正眼に構えました。
    しばらく動きません。
    やおら、小野派一刀流が上段に構えます。
    まだ動きません。
    すると、今度は北辰夢想流の方が大上段に振りかざしました。
    「トオーッ!」
    「オーッ!」
    互いの気合が響きます。
    一瞬の後、小野派一刀流の方が切り込みました。
    北辰夢想流も振り下ろし、刀を交えます。
    そして、また退くのです。
    お互い距離を取って睨(にら)み合います。
    少し間をおいて、再び小野派一刀流が切り込みました。それを切り返す北辰夢想流。
    その刀を更に振り払って胴を決める小野派一刀流。
    「それまでっ!」
    審判の声と同時に北辰夢想流の声。
    「まいった!」
    双方もとの場所へ戻り、殿へ一礼。
    そして、互いに一礼をして退きます。
    日が大分強くなってきていました。
    しかし、風が爽やかなので、さほど暑くはないのです。
    一同、試合の行方を見守ります。
    先ほどの勝者同士、柳生新陰流と小野派一刀流との勝負です。
    両者が現れます。
    そして、殿に一礼、互いに一礼をしました。
     「はじめーっ!」
    審判の声と同時に、双方、刀を抜きます。
    両者、正眼の構えです。
    動きません。
    時が流れます。
    まだ動きません。
    柳生新陰流が下段に構えなおします。
    そのとき。
    小野派一刀流が突いてきました。
    「トオーッ!」
    「オーッ!」
    柳生新陰流が上へ跳ね返すと同時に、胴を決めます。
    「それまでっ!」」
    その審判の声と同時に、小野派一刀流。
    「まいりました。」
    勝負は、やはり一瞬でした。
    双方、元の場所へ戻ると、殿へ一礼します。
    そして互いに一礼して退いてゆくのでした。

     いよいよ最後の試合になります。
    しばしの休憩の後、柳生新陰流の武芸者と空穂無刀流の空穂清之介が現れました。
    柳生新陰流ですが、流祖、上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)に師事した柳生石舟斎宗厳(むねとし)は、無刀の位を開悟して第二世を継ぎ、その長男、厳勝の子、兵庫助利厳は祖父、石舟斎の薫陶を受け第三世を継承し、元和元年に尾張初代藩主、徳川義直公の兵法師範となりました。
    石舟斎の五男が柳生宗矩で、その子が柳生十兵衛三厳(みつよし)です。
    場内に緊張が走ります。
    双方共に、殿に一礼をしました。
    そして、互いに一礼をします。
    「はじめーっ!」
    審判の声が掛かります。
     おもむろに刀を抜く柳生の武芸者。
    ところが、清之介の腰には刀が差してありません。
    柳生は正眼に構えます。
    清之介は、右の手刀を前に出して、まるで祈るかのように構えます。
    ご存知、空穂無刀流、無刀の構えです。
    柳生の武芸者は、ジリ、ジリッと、間合いを詰めてゆきます。
    そして、上段に構えるのです。
    更に間合いを詰めて、にじり寄ります。
    「トオーッ!」
    気合と共に刀を振り下ろしました。
    それを両手で挟み、受け止めます。
    すると柳生は、すぐに刀を離し、間合いを取るのです。
    そして、すかさず小刀を抜いて、ふたたび切りかかります。
    それを、大刀を捨てた後、またもや両手で挟み、受け止めたのです。
    更に捻(ひね)りを加えて奪い取り、捨てました。
    双方、手刀で構えるのみです。
    ふたたび間合いを取ったまま動きません。
    時が流れます。
    柳生の武芸者も、これは想定していたようです。
    言わば、同門での試合ですから。
    どちらも、もともと攻める刀ではありません。
    あくまで身を護る為のものですから。
    そして双方、良しと見た時、同時に構えを解きました。
    そしてまた、同時に声を発するのです。
    「まいりました。」
    「まいりました。」
    「それまでっ!」
    審判も制止します。
    もとの場所へ戻った二人は殿に一礼。改めて五人そろって、もう一度、一礼をしました。
    綱政公も身を乗り出して皆を称えます。
    「皆の者、見事じゃ。
    大儀であった。
    あっぱれ。
    あっぱれ。」

     その頃・・・・・。
    龍之介は畑仕事に精を出していました。
    今では使用されなくなっていた休耕地を利用してのものです。
    大根に人参、それにサツマイモにブドウなど。
    植物を育てるのは人を育てるのと相通ずるところがあるようで性分に合っているのでしょう、やめられないのです。
    だから、鍬(くわ)を持つ手にも力が入ります。
    ひと汗かいた後は井戸水に手ぬぐいを浸し、
    絞って身体を拭きます。
    これがまた気持ちいいのです。
    思い立って龍之介は散歩に出かけることにしました。
    まずは、お茶で一息入れた後、出かけるのです。
    別に用事があるわけではないのですが、八幡様まで行ってみようかと思い、賑わっているところへ差し掛かります。
    人込みを歩いていると、懐かしい女性を見かけました。
    以前、剣豪に着物を切り払われ、裸になってしまった、あの美人です。
    あちらも気づいたらしく、近寄ってきます。
    「お久しぶりね、お侍さん。」
    「やあ!お久しぶり。」
    「ひどい人ね。
    私が裸にされているのに、黙ってみているんですもの。」
    「いやあ、失敬、失敬。
    あの侍が余りにも腕がいいので見惚(みほ)れていたのと、あなたが余りにも美しいので見惚れていたんだよ。
    いい目の保養をさせてもらった、ありがとう。」
    「まあ!お上手ね。
    いいわ、それなら許してあげる。
    今、お暇?
    よかったら、うちのお店に寄っていかない。」
    「そうだね、お詫びのしるしに寄ってみようか。」
    「決まりっ、ささ、行きましょう、行きましょう。」
    そうして連れ立ってゆく龍之介。
    そこは岡場所でした。
    座敷へあがって酒を飲んでいると、妻に先立たれた独り身。
    女が恋しくないといえば嘘になります。
    龍之介も、どことなく、この女のことが気に入っていたのです。
    なにか武家の女でもあるかのような育ちの良さが感じられます。
    意気投合した二人。
    その夜は二人して、しっぽりと濡れたのでした。
    どこか謎めいた女。
    (何かいわれがあるのかもしれない・・・・・。)
    龍之介も女のことが気になります。
    それからというもの、ちょくちょく女のもとへ足を運ぶようになった龍之介ですが、彼女には男がいたのです。
    彼女は別れたがっているようなのですが、男のほうが、しつこいのだとか・・・・・。
     そうしたある日・・・・・。
    急に彼女の姿が見えなくなりました。
    龍之介も心配していたのです。
    店のほうでも騒ぎになっていました。
    そのころ彼女は、男に強引に連れ去られていたのです。
    自分の女になれと、しつこく迫られて、拒否する彼女を強引に自分のものにするために、ありとあらゆる恥ずかしめを受けさせています。
    彼女も、その余りの執拗さに根負けして、やむなく男に従っていたのです。
     ある日・・・・・。
    彼女は逃げ出して龍之介に救いを求めてきました。
    「助けてください。
    男に追われています。」
    見れば裸です。
    あちこちに、あざもあるのです。
    急いで、かくまってやります。
    男が追ってきました。
    龍之介は立ちふさがります。
    男は合口を抜くのです。
    そして、突いてきます。
    その合口を手刀で叩き落とした龍之介。
    もちろん、龍之介にかなうはずはありません。
    取り押さえた龍之介。
    奉行所へ連れてゆこうかとも思ったのでしょうけれど、改心するように諭します。
    「わしは彼女を妻にしたいと思っているのだ。
    どうか彼女を開放してやってくれ。
    そして、おまえも真人間になるのだ。
    空穂無刀流の道場へ行け。
    お前の面倒を見てくれるように頼んでおくから」と。
    それでも嫌がる男を、半ば無理やり道場に住み込ませました。
     
    それから約一年・・・・・。
    男は目が覚めたのか、見違えるような門下生になりました。
    今迄の悪行を悔いています。
    聞けば、この男も、とある武家の三男坊であるとか・・・・・。
    やくざの仲間に入って悪行を繰り返していたのを咎められ、勘当されたというのです。
    道場で稽古をしているうちに、武家の血が甦ってきたのでしょう。
    「先生、ありがとうございました。
    御恩は一生忘れません。」
    そう、きっぱりと言う立派な青年に立ち直ったのです。
    龍之介は親御さんに話してやりました。
    空穂無刀流の道場で修行を積み、立派な青年に生まれ変わりました、どうぞ許してやってください、と。
    そして、勘当は解かれたのでした。

     そうして龍之介も、愛する染子を妻に迎えたのです。
    染子の実家、桂木家は下級武士の家柄でした。
    ところが汚職の片棒を担ぎ、お家は断絶。
    染子は、やむなく身を持ち崩していたのです。
    龍之介の妻となった花房染子。
    武家の血がよみがえります。
    「殿、お茶が入りました。」
    「ああ、ありがとう。」
    「梅の木に鶯が来ております。」
    「うむ、良い声だなあ。」
    染子も立派な武家の淑女に立ち直りました。
    今日も畑仕事に精を出す龍之介。
    それを暖かく支える染子。
    二人の愛は燦燦と日の光を受けて輝いています。
    子供達に対しても、もう立派な母親です。
    やがて染子にも子が宿ります。
     そして半年もたったころ・・・・・。
    「染子、喜べ!
    桂木家のお家再興が叶うことになったぞ!
    今しがた知らせが届いたのだ。
    父上も喜んでくださろう・・・・・。」
    「まあ、そうですか。
    夢のようですわ。
    殿のおかげです。
    ありがとうございます。」
    「いや、そなたが立派に立ち直ったのが認められたのだ。
    今宵は父上などもお呼びして祝宴と致そう。」
    父上たちは粗末な長屋暮らしを余儀なくされ、小間使いにまで身を落としておられたのです。
    みんな泣いて喜びました。
    これで当面の憂いは解消されたのです。
    めでたし、めでたし。
    空は日本晴れです。
    美代も、きっと喜んでくれていることでしょう。

     源頼房の血を受け継ぐ花房龍之介。
    その血筋の父方と、平氏の血を受け継ぐ北条早雲、その血を受け継ぐ母方。
    そこに生まれた花房あきら。
    ここに源氏と平氏の血が一体となったのです。
    平和が訪れました。
    探偵 花房あきらの活躍に、ご期待ください。

       おわりに

     お楽しみいただけましたでしょうか。

     平清盛が源義朝の側室、常盤御前を妾にしたのも温情だったのかもしれませんね・・・・・。

     史実に基づいている部分は、ウィキペディアなどを参考にさせて頂きました。
    ありがとうございました。

               著者 藤本英明
           えいめいワールド出版

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