
しぶとい花ランキングを作るとして
しぶとい花というのがある。どんな環境でもへこたれず、そう簡単には枯れず、折れず、凛と咲き続ける。そう言われてパッと思い浮かぶ花の名前といえば、道ゆく100人のうち99人はたんぽぽと答えるであろう。要するにしぶとい花ナンバーワンはたんぽぽであることは言い切ってもいい。
そんななかで、道ゆく100人のなかにいた1人のわたしは、紫陽花と答えた。
梅雨入りしそうなのに東京であまり雨が降らず不思議に思っていた、そんなときにふと目に入った紫陽花を見て、紫陽花はしぶとくて好きだな、と思った。
それがなにがきっかけだったかというのは思い出せないのだけれど、ゆっくりと考えるとその「しぶとさ」というのが案外納得がいくものに感じられた。
桜のように季節の代表とも言われるような植物は、誰かが「よーし植えるぞー」という意思を持った結果そこにあることが殆どだ。つまりきちんと手入れがされていたり、世話がされていたりすることが殆どということになる。
紫陽花はどうであろうか。
これがわたしの思い違いでなければだが、紫陽花は誰かが世話をすると言う意思を持ったとは思えない場所にも咲いていて、それでいて雨が降ってくれない暑い梅雨にもしっかりと咲いている。
でもそうなると、向日葵も似たようなしぶとさを持つ花のように思える。しかし、わたしが考える紫陽花が頭ひとつ抜けている向日葵との違いは、その美しさやかわいらしさのレベルがほぼ一定に保たれていることだ。
向日葵畑の向日葵は当然美しい(というか、輝き、溌剌としている)。だけれども、そこらへんに咲いている野良か一般人の向日葵は、そっぽを向いていたり、「お前は本当に向日葵か」と言いたくなるほど元気がなかったりする。
その点紫陽花は、どこで出会ってもこちらが想像した紫陽花のまま、そこにいる。しぶとさのレベルが数段上なのだ。(そもそも人だけでなく向日葵に対してだって「勝手に期待して落胆する」行為はすべきでない、というお言葉は先回りして受け止めておく)
ある和食屋さんで食事をしながら窓の外に目を向けたら、目の前の老人ホームの前に咲く紫陽花をおじさんが写真に撮っていた。
5月に入院していたわたしは、退院したその日、病院の敷地に咲きかけていた紫陽花が嬉しくて、かわいらしくて、思わず写真に収めた。
原宿の大通りに面したビル前に咲く紫陽花が驚くほど綺麗だったこともある。梅雨の時期に鎌倉の明月院や長谷寺に行って綺麗な紫陽花に出会っても、流石だなあとしかならないが、あの原宿だ。車通りも人通りも多く、空気が寺のように綺麗なわけがなく、手入れが頻繁にされているとは思えない。
そしてある日の帰り道、フェンスの網目からはみ出すように咲く紫陽花を見た。そこはもう誰も手入れなどできないような場所で、それでも色は鮮やかで、花びら(正確には装飾花であるらしいが)は大きく綺麗だった。あんな場所ですら、鎌倉にお出しできるくらいの紫陽花が咲いていた。
花というのは枯れるか散るものだから、枯れるときの話もしておかなければフェアではないだろう。なんと、紫陽花は枯れるときだってしぶとい。
桜のようにしなびて落ちるのでも、風に吹かれて散るのでもなく、花びらが枯れてきても形を保ったまま、今度は儚さを纏うことができる。
その隣にはまだ咲き途中の仲間がいることもある。その対比で、より一層儚さをゲットする。しぶとさというのはこういうところにも存在している。
今までの人生で、紫陽花に対しては「綺麗だな」以外の感情を持ったことはなかったが、これからは「紫陽花はしぶといから好きだ」と声高々に言っていこうと思う。もちろん、しぶとい花ナンバーワンはたんぽぽだけれど。
