
射幸心の火種を手に入れた
療養生活のストレス限界。大きな取材の機会をいくつか逃しました。
腐りきってネット徘徊中にたどり着いた古物商のECサイト。「昭和40年代のマッチ30個セット」という商品を発見。いくつかパチンコ店のマッチが混ざっているようです。ここまではよくある出品形式なのですが、型破りなのは商品写真がないこと。
普段ならサイト運営者に写真の有無、パチンコ店のマッチの個数を確認するところですが、気がつくと購入ボタンを押していました。療養生活で蓄積した焦燥感で平静を失い、写真がないことでかえって山師気質のようなものを煽られてしまったのです。商品そのものより「お宝を掘り当てられるかも」という夢やロマンを買った気になりたかったのですね。
結果、30個中にパチンコ店のマッチ箱は2個。価格には触れませんが、医療費で圧迫されている家計を思うと分不相応な出費だったかもしれません。
いや、この期に及んでそんな反省をするのはおかしいですね。せっかくお迎えしたのですから「買ってよかった」という気持ちを盛り上げるべきです。手に入れたマッチ(今回は1個だけ)について調べることで愛着を深めようと思います。
「蒲田オリンピアセンター」

私が集めているのは主に昭和20年代後半~30年代のマッチ(箱が経木製のもの)で、40年代のマッチ(箱が紙製)は少なめです。さらにブックマッチ(マッチの棒の部分も紙製で、本のように綴じられている)となると、コレクションの中に数個しかありません。

蒲田オリンピア
センター
今でいうパチスロ店だったようです。ただし、昭和40年代には「パチスロ」「回胴式遊技機」という名称はまだありませんでした。この写真のマシン「オリンピア・スター」は昭和39年に誕生したばかりの風俗営業認可第1号機で、当時のスロット型遊技機は「オリンピアマシン」と呼ばれました。アメリカ製のスロットマシンを日本の法律に合わせて改良したので「アメリカンゲーム」と呼ばれることもありました。

映画街の一角という香ばしい立地。蒲田五丁目と言えば、昭和11年まで松竹キネマ蒲田撮影所があった地域です。その名残で昭和40年代前半ごろまで多くの映画館が立ち並び、飲食店や娯楽施設などで賑わう繁華街だったようです。
しかしパチンコ店の全国名簿『全国遊技場名鑑』に「蒲田オリンピアセンター」の名前を見つけることはできませんでした。私が閲覧可能な昭和46年版から平成12年版(2000年)までをチェックしましたが、同じ住所に遊技場があった形跡すらありません。理由はふたつ浮かびます。
○昭和46年までに閉店した
○パチンコホールの組合に加入していなかったので遊技場名鑑に記載がなかった
昭和40年代前半当時、オリンピアマシン設置店に関する情報は、ホール業界誌で言及されることが少なく、現役最古の業界誌『遊技通信』は、昭和42年8月の記事で「都内に約50店舗」と「推定」しています。実情は把握しきれなかったようで、まとまった店舗リストの類を見つけるのはかなり難しそうです。
「マッチが、そのホールが存在したことを後世に語り継ぐ唯一の物的証拠になりうる」
これは私がマッチを集める理由のひとつです。黎明期のオリンピアマシンは、設置店の記録が残りにくかったことを思うと、とても貴重なものを手に入れたのかもしれません。
今後の調査として、現地を訪ねてみたいと考えています。「蒲田オリンピアセンター」の住所には現在も商業ビルが建っており、登記情報を確認したところ、新築年月日は昭和39年5月31日でした。
年代的に見て、蒲田オリンピアセンターはこのビル内で営業していた可能性が高いと思われます。さすがに名残を見つけるのは難しいでしょうが、建物のどこで営業していたのか推理するのは面白そうです。飲食店やコンビニなども入居している大きなビルなので探訪しがいがあります。あわせて、図書館で古い商業地図を参照できれば営業時期がかなり絞られますね。