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【特殊対策室のクリスタルアイズ】第57話 師走の因縁

     十二月に入ると、街の空気は急に慌ただしくなった。
     十一月の冷え込みは、いつの間にか冬そのものへ変わっている。
     駅前には電飾が吊るされ、ショーウィンドウには赤と緑と金色が溢れていた。どこからともなく、鈴の音じみた軽い音楽が聞こえてくる。
     人々は、皆どこか忙しそうだった。
     仕事納めへ向けて走る者。クリスマスの予定に浮き立つ者。年末の買い物袋を抱え、足早に家路を急ぐ者。
     街全体が少し浮つきながら、同時に息を切らしているような季節だった。
     そして、特殊対策室も例外ではない。
    「……これ、誰の領収書ですか?」
     シミズミサキが、机の上へ広げられた紙の山を見下ろしながら、低い声で言った。
     普段なら、どんな仕事でも手際よく片付ける彼女だ。
     だが今は、明らかに苛立っている。
     特殊対策室の事務所内は、年末の処理によって混沌としていた。
     年末調整。経費精算。請求処理。取引先への挨拶状。お歳暮の整理。
     普段から書類仕事は山ほどある。
     しかし十二月になると、それらはまるで一年分のツケをまとめて押しつけるように、一気に膨れ上がる。
     しかも、この事務所にいる人間たちは、基本的に現場型だった。
     能力犯罪への対応。暴走能力者の制圧。聞き込み。追跡。危険区域への踏み込み。
     そうした仕事には慣れていても、領収書の但し書きや請求書の締日を確認する作業を、心の底から得意としている者は少ない。
     本来、こうした事務作業の取りまとめを担当するのは、事務方のヤマナシアズミである。
     だが、現実は非情だった。
     ヤマナシ一人に任せると、まず間違いなく年を越す。下手をすると、春になっても終わらない。
     そのため、特殊対策室では、毎年この時期になると、全員で書類の山に向き合うことになる。
     もっとも、全員と言っても、正確には全員ではなかった。
    「ヨシエさん、このお菓子おいしー!」
    「でしょ。期間限定よ。もっと感謝して食べなさい」
     マチヤユミとカモイヨシエは、部屋の隅で菓子を食べていた。
     机の上には、処理を待つ書類の山。
     だが、二人の手元にあるのは領収書でも請求書でもなく、開封されたチョコ菓子の袋だった。
     マチヤは楽しそうに頬を膨らませ、カモイは次の袋を開けようとしている。
     ミサキのこめかみが、ぴくりと引きつった。
    「……カモイさん、マチヤさん、何をしているんですか?」
    「見りゃわかるでしょ。お菓子を食べてんのよ」
    「私もー」
    「そういうことを聞いてるんじゃありません」
     ミサキは笑顔だった。
     だが、その笑顔は非常に怖かった。
    「みんなで年末処理をしているんです。手伝ってください」
    「うるさいわね。そういう細かいの、苦手なのよ」
    「私もー。数字いっぱいあると眠くなるー」
    「眠くなるじゃないんですよ。仕事です」
     ミサキの声が、一段低くなる。
     マチヤは菓子をくわえたまま、きょとんと首を傾げた。
    「ミサキちゃん、怒ってる?」
    「怒っています」
    「怖ーい」
    「怒らせている自覚を持ってください」
     その時、トンダユウイチが書類から顔を上げた。
    「いいですよ、ミサキさん」
    「よくありません」
    「この二人は手伝うと、かえって邪魔です」
     トンダは、非常に冷静に言った。
     ミサキは一瞬、言葉に詰まる。
     確かに、反論しづらかった。
     カモイは書類を見るだけで苛立ち、数字が合わないと机を叩く。
     マチヤは計算途中で飽き、数字を一桁飛ばす。
     二人が手伝えば、処理が進むどころか、後始末と確認作業が増えるだけだった。
    「ほらね」
     カモイは得意げにチョコ菓子を口へ放り込んだ。
    「私たちは、戦力外通告を受けたのよ」
    「誇らしげに言うな」
     ミサキは深く息を吐いた。
     トンダは、マチヤを見た。
    「ユミ」
    「なにー?」
    「豚を散歩に連れてやってくれ」
    「ハーイ!」
    「ペットか、私は!」
     カモイが椅子から勢いよく立ち上がり、怒鳴る。
     だがマチヤはまったく気にした様子もなく、嬉しそうにカモイの腕を掴んだ。
    「ほら、ヨシエさん。行くよー」
    「ユミ!引っ張るな!」
    「歩きながら、お菓子食べよーよ」
    「あ、それはいいわね」
     カモイは、すぐに態度を変えた。
    「書類仕事からも逃げられるし。行くわよ!」
     結局、カモイは菓子袋を抱えたまま、マチヤに引っ張られて事務所を出ていった。
     事務所に、短い沈黙が落ちた。
     カマタリョウガが、領収書を束ねながら呟いた。
    「……なんか、あの二人がいないだけで、部屋の空気が軽くなったな」
    「言い方」
     マキバダイスケは苦笑しながら、取引先リストへ目を落とした。
     机の上には、贈答品の一覧表が広がっている。
     年末に付き合いのある企業や団体へ送る、お歳暮を整理するためのものだった。
     送り先。品目。予算。昨年の送付履歴。
     確認すべき項目は細かく、似たような会社名も多い。
     少しでも気を抜けば、同じ相手へ二重に送ったり、逆に重要な相手を漏らしたりしかねなかった。
     カマタは、ふと懐かしそうに言った。
    「去年の師走も、みんなで頑張ったよな」
    「ああ、去年も大変だったね」
    「でも今年は、だいぶ楽だな。ミサキさんとケンジがいるし」
     カマタの視線の先では、ケンジが淡々と数字を確認していた。
     ムシャノコウジとの一件で重傷を負ったはずだが、彼は何事もなかったように仕事をしている。
     身体には、まだ包帯が巻かれている。
     それでも、領収書の金額と申請内容を照合する手元は、異様なほど速かった。
     隣ではミサキも、不備のある領収書を一瞬で見つけては、仕訳を正している。
    「これ、日付と利用目的が一致していません」
    「こっちは但し書きが曖昧です。再発行を依頼してください」
     淡々と指示を飛ばす姿は、年末処理においては頼もしいというほかなかった。
    「ケンジくん、無理してない?」
     マキバが声をかけると、ケンジは顔を上げた。
    「問題ありません。傷は塞がっています」
    「それ、大丈夫って意味なのかな」
    「作業効率には影響していません」
    「いや、体の心配をしてるんだけど」
     ケンジは少しだけ不思議そうにした。
    「ありがとうございます。ですが、ジェシーも特保に戻ってから無事のようですし、僕だけ休むわけにはいきません」
     ジェシー。
     その名を聞いて、マキバはほんの少しだけ表情を緩めた。
     アユハラジェシー。
     ケンジの幼馴染であり、特保のデータサイエンティスト。
     今のところ、彼女に新たな危害は及んでいないらしい。
     それは、素直に救いだった。
    「無事ならよかった」
    「はい。ただ、先ほど『ムシャノコウジの行動パターンについて、八百ページの報告書を作成中』というメッセージが来ました」
    「……無事なのかな、それは」
    「少なくとも、生命活動は継続しています」
    「そうかい」
     マキバが苦笑する。
     その横で、ヤマナシアズミはスマホをいじっていた。
     周囲が書類の山に向き合う中、彼女の指だけが、画面の上を忙しなく滑っている。
     ナガヤマミナミが、それを見逃すはずがなかった。
    「ヤマナシさん」
    「何?」
    「スマホ、やめましょうよ」
    「ちょっと確認してただけだよ」
    「みんな頑張ってるんですよ」
     ナガヤマは、書類から目を上げずに続けた。
    「役立たずのヤマナシさんのために」
    「うるせえな!」
     ヤマナシは顔を赤くして怒鳴った。
    「そもそも、事務が一人しかいないのがおかしいんだよ!どんなに優秀でも、一人じゃ回らない!もっと人員を増やしてほしい!」
     ミサキが、すかさず口を挟む。
    「いやアンタ、普段は暇でしょうが」
    「ひ、暇じゃないよ……」
     反論する声が、急に弱くなる。
     実際、暇だった。
     ケンジが事務作業の大半をシステム化してから、ヤマナシの作業量は大きく減っている。
     さらに現場組も、空いた時間に領収書の整理やデータ入力、取引先への連絡を手伝うようになった。
     ヤマナシが一人で抱える業務は、以前よりずっと限定的になっていた。
     だが、それはヤマナシが優秀だからではない。
     むしろ、逆だった。
     ヤマナシに任せると遅い。確認漏れも多い。仕事を抱え込ませると、どこかで処理が止まり、最後には全体へしわ寄せが来る。
     だから皆が、彼女の仕事を分担し、あるいは黙って巻き取っている。
     ヤマナシ自身も、それをわかっていた。
     わかっているからこそ、何も言い返せなくなるたび、胸の奥がひどく苦しかった。
     ケンジが、淡々と言った。
    「普段、僕らが分担している事務作業を、すべてヤマナシさんへ引き渡せば、相当な量になります」
     手元の書類を揃えながら、続ける。
    「しかし、ヤマナシさんには、それらを滞りなく処理する能力が、残念ながら不足しています」
     モテギハナが、元気よく手を挙げた。
    「ヤマナシさんは使えないです!無能です!」
    「悪かったな!」
     ヤマナシが机を叩いた。
     書類の端が、びくりと跳ねる。
     ミサキは腕を組み、冷たく言った。
    「私たちが現場にリソースを割けるようにするには、優秀な事務担当が必要ってことね。この陰湿メガネじゃなくて」
    「いや、いらないよ!」
     ヤマナシは慌てて言った。
    「事務は私一人で十分だよ!」
    「結局、どっちなんですか?」
     ナガヤマが、呆れたように言う。
    「私一人で十分だけど、私一人じゃ無理なんだよ!」
    「矛盾を大声で言わないでください」
    「うるさい!」
     トンダは書類を揃えながら、軽く頷いた。
    「まあ確かに、もう一人くらい事務の人がいてもいいですかね」
     ヤマナシが凍りついた。
    「トンダさん!?」
    「すぐにどうこうという話ではありませんよ」
     トンダは、穏やかな声で続ける。
    「ただ、長期的には検討してもいいかもしれません」
    「け、検討……」
     ヤマナシの顔から、血の気が引く。
     自分の席が、少しずつ誰かに取られていくような気がした。
     マキバは思わず、フォローする。
    「ヤマナシさんには、ヤマナシさんの良さがあると思いますよ」
    「たとえば?」
     ミサキが即座に聞いた。
    「えーと……」
     マキバは詰まった。
     ヤマナシが睨む。
    「そこで詰まるなよ」
    「ヤマナシさんは……その、話しやすいですよ」
     マキバは、少し考えながら言った。
    「変に構えなくていいというか。安心して相談できる」
     ヤマナシの顔が、わずかに赤くなる。
    「そ、そういうの、仕事と関係ないだろ。バーカ」
    「少なくとも、僕は助かってるよ」
    「うるせえよ」
     口は悪い。
     けれど、ヤマナシはスマホを机の上へ伏せた。
     そして小さく息を吐くと、ヤマナシはようやく目の前の書類へ手を伸ばした。
     マキバは少しだけ安心して、再びお歳暮リストに目を戻す。
     送り先を、一つずつ確認していく。
     企業名。士業事務所。自治体関係。取引先。
     そして、ある一つの宛名で手が止まった。
    「児童養護施設……『あいのて』?」
     マキバは首を傾げた。
    「トンダさん、この施設にも送るんですか?」
     トンダの手が止まった。
     書類をめくる音が、途切れる。
     ほんの短い間だった。
     けれどマキバには、その沈黙が妙に長く感じられた。
     それからトンダは、唐突に言った。
    「……君も、花坂学園の出身でしたよね?」
    「え?あ、はい」
    「ヒラタ先生を知っていますか?」
     マキバは、わずかに顔をしかめた。
     ヒラタ。
     その名前には、覚えがあった。
     花坂学園の教師。
     一度だけ、授業で関わったことがある。
     代理で国語の授業へ来て、イズミナギサを侮辱した人間。
     そして、それに反論したマキバへ反省文を書かせた教師。
     マキバは、お歳暮リストから目を上げた。
    「……知っていますけど」
     自然と、声が硬くなっていた。
     トンダは、その表情を見て少し意外そうにする。
    「ん?嫌そうな顔ですね。あの人と何か因縁でもあるんですか?」
     キョウコが、ぬいぐるみの姿のまま机の上へ寝転がり、けらけらと笑った。
    「ヒラちゃん、敵を作りやすい性格だもんねー」
    「確かに、あの人は好きじゃないです」
     マキバは、はっきりと言った。
    「尊敬もできないです」
    「言うねー」
     キョウコが、ぬいぐるみの腕をぱたぱたさせる。
    「一応、私とダーリンがいた部の顧問だったんだよー」
    「部?」
    「特殊対策部!」
    「特殊対策部?」
     マキバは少し考え込んだ。
     聞き覚えはある。
     学校内で起きる特殊能力絡みの問題へ首を突っ込み、ときには教師より先に解決してしまう、妙に目立つ連中。
    「……ああ、なんかありましたね。そういうの」
     トンダが眉を寄せた。
    「僕らが、そこの部員だったんです」
    「へえ、そうなんですか」
    「……反応が薄いですね」
    「すみません。全然興味がなかったので」
     キョウコが、むくりと起き上がった。
    「えー!?私たち、超有名人だったんだよ?」
     星柄の眼鏡をきらりと光らせ、指を折るように続ける。
    「私も、ダーリンも、ヨドミちゃんも、ムシャノコウジくんもいたんだよ?私たちがいた頃、マキバくんも花坂にいたよね?」
    「いたと思います」
     トンダが、真顔になった。
    「お前……本当に花坂か?」
     マキバは苦笑した。
    「その頃は中等部でしたし。そもそも、人にあまり興味がなかったので」
    「それにしても、特殊対策部を知らないのはなかなかですね。自分で言うのも何ですが」
    「知ってはいました」
     マキバは、少しだけ視線を落とした。
    「ただ、良いイメージはなかったです」
     その言葉に、事務所内の空気が少し変わった。
     キョウコの笑い声が止まる。
     トンダも、手元の書類から目を上げた。
     マキバの声には、単なる無関心とは違うものが混じっていた。
     キョウコが、面白そうに目を細めた。
    「へえ。どんなイメージ?」
     マキバは少し迷った。
     だが、言葉を飲み込む理由もなかった。
    「強い力を、より強い力で押さえつけて……」
     マキバは、静かに言った。
    「自分たちは何でもできるんだぞって、誇示している感じです」
     ミサキやヤマナシが、ちらりとマキバを見る。
     マキバは続けた。
    「何もできずに立ち尽くしている人たちには、あまり目を向けない」
     声は落ち着いていた。
     けれど、その奥には、ずっと前から抱えていた冷たい違和感があった。
    「無知で傲慢な正義を振りかざしている。そんなふうに見えて、気持ち悪かったです」
     沈黙が落ちた。
     トンダは少しだけ目を伏せ、それから苦笑した。
    「……随分と辛辣だな」
     キョウコは肩をすくめる。
    「否定できないけどねー」
    「ヒラタ先生も、そんな感じの人でした」
     マキバは静かに言った。
    「だから、好きにはなれません」
     怒りというより、昔の記憶を思い出した時の、冷えた感情が混じった声だった。
     トンダはしばらく黙っていたが、やがて「あいのて」と書かれたリストを指差した。
    「そのヒラタ先生が運営しているのが、その施設ですよ」
    「え?」
     マキバは思わず顔を上げた。
    「強い能力者の養成でもしてるんですか?」
    「違う違う」
     トンダは苦笑した。
    「児童養護施設です。普通の」
    「普通の?」
    「少なくとも、表向きは」
    「表向きって言いました?」
    「言葉の綾です」
     全然、綾ではない気がした。
     トンダはリストと贈答品の箱を、マキバの方へ押しやる。
    「ちょうどいい。マキバくん、これをヒラタ先生のところへ届けてください」
    「ええ……?」
    「嫌そうですね」
    「正直、嫌です」
    「これは命令です」
    「横暴では?」
    「君にも、いい勉強になるでしょう」
    「僕は勉強より、事務処理を――」
    「いいから行け」
     キョウコが、にやりと笑った。
    「ヒラちゃんによろしくねー。あと、もしエネルギー弾を撃たれたら避けるんだよ」
    「……撃ってくるんですか?」
    「昔はよく撃ってきたよ」
    「児童養護施設の運営者ですよね?」
    「人は変わるものだからねー」
    「変わってなかったら、どうするんですか?」
     キョウコは、明るく言った。
    「諦めて」
     マキバは、深いため息を吐いた。

     一方、その頃。
     カモイとマチヤは、冬の街をぶらぶら歩いていた。
     クリスマス前の通りは、人で溢れている。
     ケーキ屋の前には予約受付のポスター。
     雑貨店の店先には、赤い帽子をかぶったサンタの置物。
     街路樹には細かな電飾が巻きつけられ、夕暮れが近づくにつれて、少しずつ光を増していた。
     マチヤは目を輝かせ、あちこちを忙しなく見回している。
    「ヨシエさん、あれ食べたい!」
    「さっき菓子食ったでしょ」
    「あれは別腹ー」
    「アンタの腹、ブラックホールなの?」
    「ヨシエさんの腹もすごいよねー。お肉がたっぷり」
    「やかましいわ」
     マチヤは、けらけらと笑った。
     だが少し歩くと、また腹を押さえた。
    「お腹すいたー」
    「あー……私もだわ」
     カモイも、空腹だった。
     事務所を出る時に持ち出した菓子は、歩き始めてすぐに二人で食べ尽くしてしまった。
     カモイは上着のポケットを探り、財布を取り出そうとする。
     右のポケット。左のポケット。内ポケット。
     何度探しても、出てこない。
    「……財布、事務所だわ」
    「えー?」
    「アンタは?」
    「持ってないよ」
    「でしょうね」
     カモイは、冷えた空を見上げた。
     寒い。腹が減った。そして金がない。
     こういう時、人は頼れる相手を思い浮かべる。
     カモイの場合、それは友人ではない。
     友人と呼べるほど素直な関係の相手など、ほとんどいない。
     だが、腐れ縁なら、いた。
    「……肉」
    「肉?」
    「牛肉」
    「牛肉?」
    「クズワね」
     カモイの目が、鋭くなった。
    「奴から、ステーキをいただくわ」
    「わーい!ステーキ大好き!」
     マチヤは無邪気に両手を上げた。
     カモイは、ふんと鼻を鳴らす。
    「牛に会いに行くなら、牛肉を食わなきゃ損でしょ」
     マチヤは意味がわかっていないまま、楽しそうに頷いた。
     カモイは、周囲を確認した。
     買い物客の流れから外れ、人通りの少ない路地へ入る。
     表通りの華やかな電飾も、ここまでは届かない。
     古いビルの壁に挟まれた細い道には、冷えた空気と、どこか湿った匂いが溜まっていた。
    「ここなら、いいか」
     カモイは右手を前へ出した。
     空気が、ゆっくりと歪む。
     重力が捩じれる。
     耳の奥が詰まるような圧迫感が生まれ、空間そのものが悲鳴を上げるように軋んだ。
     次の瞬間。
     人が一人通れるほどの、黒い穴が開く。
     ワームホール。
     クズワキクミの空間操作ほど、滑らかで美しいものではない。
     カモイのそれは、空間を無理矢理へし折り、こじ開けたような荒々しさがあった。
     穴の縁では景色が不自然に揺れ、向こう側の光も、ぼやけて見える。
    「ヨシエさんのそれ、すごいよね。キクミさんみたーい」
    「クズワより精度は低いし、神経も使うのよ、これ」
     カモイは、わずかに眉をひそめた。
    「長時間は無理。さっさと行きましょ」
    「はーい」
     マチヤは何のためらいもなく、黒い穴へ足を踏み入れた。
     カモイも、その後に続く。
     視界が一瞬、大きく歪んだ。
     冷たい路地の空気も、街のざわめきも、まるで水の底へ沈むように、遠ざかっていった。

     次の瞬間、二人は見慣れたガラクタの山の中に立っていた。
     アンティーク・デ・キクミ。
     クズワキクミが営む、アンティークショップである。
     名前だけ聞けば、洒落た品々が静かに並ぶ店を想像するかもしれない。
     だが実際に店内を埋め尽くしているのは、骨董品なのか、ただのゴミなのか、一見しただけでは判別しづらい物ばかりだった。
     ひびの入った花瓶。煤けた古いランプ。針の止まったままの時計。どこの国のものかもわからない、不気味な仮面。片脚の折れた椅子。何に使うのかすらわからない金属の部品。
     それらは狭い店内の棚や床や壁際へ無秩序に積み上げられ、客が一歩踏み入れれば、どこかで何かを倒しそうな圧を放っていた。
     店主本人だけが価値を信じている、愛すべきガラクタたち。
     その店の奥。
     使い込まれた机では、クズワキクミが領収書の山と格闘していた。
     艶のある黒髪。豊満な体つき。色っぽい顔立ち。
     普段なら、それだけで人の目を引く妖艶な女だった。
     だが今の彼女には、妖艶さよりも苛立ちが勝っている。
    「何よ、この数字……。合わないじゃない……」
     クズワは電卓を叩き、眉間へ深い皺を寄せた。
    「誰よ、こんな雑な帳簿つけたの……」
     少し間を置く。
    「……私か」
     机の上には、大量のレシート、領収書、請求書、電卓、ペン、飲みかけのワインボトルが散乱していた。
     書類の端には、いつ零れたのかわからない赤い染みまで残っている。
     そして、その机の周りにはクズワのほかに、二人の男女がいた。
     一人は、チャラチャラしたチンピラのような青年だった。
     顔立ちは整っている。
     だが、椅子を後ろへ傾け、ペンを指先でくるくる回しているせいで、真面目に作業しているようにはまったく見えない。
     時折、書類へ視線を落としてはいる。しかし、その目は数字を追うというより、面倒な敵でも眺めているようだった。
     もう一人は、パンキッシュな雰囲気の女性だった。
     黒いボブカットに、目立つ黄色のメッシュ。耳には大量のピアス。派手な服装。
     そして額を覆い隠すように巻かれたバンダナ。
     彼女は机へ片肘をつき、書類を見ているというより、紙束へ喧嘩を売っているような目つきで、ページをめくっていた。
     カモイとマチヤが現れたことに、三人はすぐには気づかなかった。
     帳簿と領収書の山に意識を奪われ、誰も入口の方を見ていなかった。
     しばらくして、椅子を傾けていた青年が、ようやく顔を上げる。
    「……あ?何や、この豚?」
     関西弁だった。
     カモイのこめかみが、ぴくりと跳ねた。
    「ああ!?」
     その声で、クズワがようやく顔を上げる。
    「は?アンタたち、何しに来たの?」
    「キクミちゃん、こんちはー!」
     マチヤが、にこにこと手を振った。
     パンキッシュな女が、目を細める。
    「キクミさん。この人たち、知り合い?」
     クズワはペンを置き、二人を見比べた。
    「あー、可愛い方が、マチヤユミちゃん」
    「ハーイ」
    「そうでない方は……」
     クズワは、わざとらしく少し考えてから言った。
    「豚よ」
    「しばくぞ、牛!」
     カモイが怒鳴る。
     青年は腹を抱え、声を上げて笑った。
    「何や、ホンマに豚なんか」
     楽しそうに椅子を戻し、カモイへ片手を上げる。
    「オレはトウドウランタって言うんや。よろしゅうな、豚ちゃん」
     その直後。
     クズワの手が、ランタの頭をはたいた。
    「お前も勝手に名乗るな」
    「イタッ!?」
     ランタが頭を押さえる。
    「何すんねん、キクミさん!」
     この場にいる誰も、まだ知らない。
     トウドウランタが、マキバダイスケの花坂学園時代の同級生であることを。
     そしてランタ自身もまた、カモイとマチヤが所属する特殊対策室に、かつての仲間であるダイスケがいることなど、夢にも思っていなかった。
     十二月の街は、どこも慌ただしい。
     特殊対策室では年末の雑務が積み上がり、マキバは児童養護施設へ向かおうとしている。
     その一方で、アンティークショップの片隅では、まだ誰も知らない因縁が、領収書の山に紛れ込むように、静かに転がっていた。
     過去と現在は、それぞれ別の場所で、少しずつ交わり始めていた。

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