
東京、恋愛IQ2な私たち
【あらすじ】
ミサ、二十八歳。地元では安心できる恋をしていたのに、上京してからは、出会う男出会う男みんな訳アリ。クラブの男、疑似恋愛を買う中年客、家庭のある上司、画面の向こうの誰か、追いかけてくる年下俳優。「さまざまなタイプの落とし穴」を通り抜けながら、ミサは少しずつ学んでいく。見守るスタイリストの私、マミもまた、安定していたはずの恋人・亮との関係が同時に崩れていくのを止められないが、それを見て見ぬふりで毎日をやり過ごす。目まぐるしい「東京」という街で、もがきながらも前に進んでいく恋愛IQ低めのアラサー女子のお話。
東京、恋愛IQ2 第1話「都会の恋のスピード感」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 出会って数時間で「この人かもしれない」と思ってしまう
□ 既読がついたのに、返信が来ないと不安になる
□ 「今夜だけ」を、特別な意味に変換してしまう
□ 相手の情報より、その場の勢いを信じてしまう
□ 一晩で仲良くなれたことを、運命だと思ってしまう
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2です。
ちなみにこれ、私の友達の話です。
六本木のクラブは、金曜の夜になると、いつも同じ匂いがする。汗と香水と、少しだけ焦げたような照明の熱。フロアの低音が、床から足の裏を通って、胃のあたりまで直接響いてくる。私はその振動を感じながら、壁際のソファ席で、生ぬるくなったジントニックのグラスを回していた。
こういう場所に来るたび、私は少しだけ場違いな気分になる。ミサに誘われるまま、なんとなく着いてきてしまうけれど、フロアの真ん中で誰かと目を合わせて踊るような度胸は、私にはない。壁際で、他人の恋の始まりを観察する係。それが、いつの間にか私の定位置になっていた。
DJブースの照明が、ゆっくりと色を変えていく。青、紫、赤。その光の中で、見知らぬ男女が、それぞれの物語を作り始めている。今夜のミサの相手も、その中の一人に過ぎなかった。
ミサの目が、また誰かに釘付けになっていた。今夜のお相手を見つけるまで、いつもそう時間はかからない。フロアの照明が赤から青、青から紫へと忙しく色を変えるたびに、ミサの横顔の陰影も、まるで舞台の上の役者みたいに、忙しく表情を変えていく。
「マミ、あの人、なんか運命っぽくない?」
耳元で叫ぶように言われて、私は音楽に負けないよう声を張った。
「まだ何も知らないのに?」
「知らないから、運命なんだよ。知ってたら、それはただの日常じゃん」
謎の理論を、ミサはこういう場所でだけ、自信満々に展開する。出会ってからものの数十分の男を、ミサはもう「運命っぽい」で採点していた。地元にいた頃の彼女を知っている私からすると、これは相当な進化速度だ。地元では、コウキと付き合うまでに三ヶ月かかったと聞いている。三ヶ月かけて育てていたものを、東京では、一晩で発芽させようとする。土壌が違うのか、育て方が違うのか、私にはまだよく分からない。
男の名前は、れん。渋谷のセレクトショップで店長をしていて、笑うと目が細くなる。清潔感があって、声が低い。ジャケットの袖のボタンが、きちんと開け閉めできる本切羽だった。そういう細部に無頓着じゃない男は、たいてい見た目の水準が高い。私から見ても「今夜ちょっといいな」で終わるはずの相手だった。実際、こういうタイプの男を、私は仕事柄、山ほど見てきた。見た目のいい男は、大体こういう笑い方をする。練習された笑い方、というやつだ。カメラの前で何百回も繰り返してきたような、崩れない角度の笑顔。
問題は、ミサがその「ちょっといいな」を「本命候補」に格上げする速度だった。まるで、フロアの入り口で受け取った整理券の番号を、そのまま運命の順位だと思い込んでいるみたいに。
私はソファ席から、その光景を、少し離れた場所から見ていた。こういう夜、私はいつも観察者の役割に収まる。誰かに誘われることもあるけれど、大抵は軽く笑って断る。断る理由を、自分でもうまく説明できたことがない。ただ、フロアの熱気の中に自分から飛び込んでいく勇気が、今の私には足りていないだけかもしれない。
「東京の人って、話すの早いんだね」
ミサが感心したように言う。実際、れんの話し方は速かった。フロアの端で、ミサと初めて言葉を交わした瞬間から、間の取り方に迷いがなかった。
「ミサちゃんって、普段何してるの?」
「秘密です」
「え、気になるんだけど」
「気になる人だけ、教えてあげます」
「じゃあ、俺、気になる側ってことね」
「まだ確定はしてないですよ」
「厳しいなあ。じゃあ、何すれば確定?」
「それも秘密です」
「秘密ばっかりじゃん」
「秘密が多い方が、長く楽しめません?」
軽口の応酬が、思いのほか続いていた。ミサも、いつになく楽しそうに笑っている。声を上げて笑うたびに、ネオンの光がミサの頬に反射して、いつもより幼く見えた。れんはグラスを軽く掲げて、乾杯のふりをした。氷が溶けかけたウイスキーの水面が、照明を受けてゆらゆらと揺れる。
「じゃ、正式に。俺、れん。よろしく」
「ミサです。よろしく」
「ミサちゃん、笑い方、可愛いね」
「なんかチャラい〜」
「でもなんか、嬉しそうじゃん」
その返しに、ミサは声を上げて笑った。仕事、趣味、休みの日の過ごし方、次に行きたい店。会話は途切れることなく、次から次へとテンポよく続いた。れんは、話題が途切れそうになるたびに、絶妙なタイミングで次の質問を差し込んでくる。まるで台本があるみたいに、間の悪い沈黙が一度も訪れなかった。地元の会話の三倍速で、ミサとの距離を詰めてきた。れんは出会って二十分で「ミサ」と呼び捨てにしていた。
その呼び捨てを聞いた瞬間の、ミサの顔を、私は今でも覚えている。驚きと、嬉しさと、ほんの少しの警戒心が入り混じった、複雑な表情。でも、警戒心の方は、次の一言であっさり溶けて消えてしまった。速度というのは、時々、中身のなさを覆い隠す一番手軽な道具になる。ゆっくり話されたら疑うことも、早口で立て続けに言われると、なぜか説得力があるように錯覚してしまう。人間の耳は、案外、単純にできているのかもしれない。
「東京の恋は、早送りなんだよな」
私がそう言うと、ミサは「マミ、詩人じゃん」と笑った。詩人のつもりはなかった。ただの観察結果だった。フロアの照明の下で交わされる会話は、いつもこうだ。中身の伴わない速さだけが、恋の証拠として通用してしまう。
「マミも、こういう場所で誰かと知り合ったりするの?」
「私? 誰かに『運命っぽい』って言われても、まず先に亮に申し訳ないなって思っちゃうタイプ」
「真面目か」
「真面目、というか、臆病なだけかもね」
その時の私は、自分で言った「臆病」という言葉の意味を、まだちゃんと分かっていなかった。臆病さの中身に、亮への未練より、変化そのものへの恐れの方が大きく混ざっていることに、気づくのは、もっと先の話だ。
その夜、私は先に帰宅した。フロアを出る前に、もう一度だけ振り返ると、ミサとれんは、まだ何かを話しながら笑っていた。ミサの手が、無意識にれんの腕に軽く触れる。触れられた方も、嫌がる素振りは見せない。その距離感の詰め方に、私はもう見慣れているはずなのに、毎回、少しだけ胸のあたりがざわつく。
タクシーの窓から見える六本木の光が、後ろに流れていくのを、私はぼんやり眺めていた。ネオンサインの光の残像が、目の奥にしばらく貼りついていた。運転手さんがつけているラジオから、聞いたことのない深夜番組の声が小さく流れている。誰かの恋愛相談に、パーソナリティが的確なんだか適当なんだか分からないアドバイスを返していた。世の中には、こんなにも恋愛相談で溢れているのに、誰も本当に必要な言葉を、ちょうどいいタイミングで受け取れていない気がする。
帰り道、私のスマホに亮からのLINEが来ていた。「今日も忙しくて、全然連絡できなかった」。それだけ。スタンプもない。文字だけの、そっけないメッセージ。付き合い始めた頃は、こんな短い文章の後にも、必ず「マミも気をつけて帰ってね」の一言が続いていた。今は、その一言すら、省略されるのが当たり前になっている。省略されたものの重さに、私はいつも、あとになってから気づく。私は「了解、無理しないでね」と返した。既読はすぐについた。返信は、来なかった。
タクシーが自宅の近くの信号で止まる。窓の外を、酔っ払いのサラリーマンが千鳥足で横切っていく。三年付き合っている彼氏からの三行にも満たないやり取りに、私は特に何も感じないふりをした。感じないふりをするのだけは、得意だった。座席のシートの合皮の匂いを嗅ぎながら、私はスマホの画面を暗くして、鞄の中に沈めた。
翌朝、リビングに入ると、ミサはもうソファに座っていた。開口一番こう言った。
「マミ、これもしかして、運命かもしれない」
朝のリビングには、まだ夜の匂いが少し残っていた。ミサの化粧は半分崩れていて、それでも目だけは、やけに輝いていた。
「まだ連絡とってんの?」
「今は止まってるけど、来るよ、絶対」
絶対、の根拠を聞いても、たぶん答えは返ってこない。ミサの中で「絶対」は、証拠ではなく祈りの言葉だった。私はキッチンでコーヒーを淹れながら、その様子を眺めていた。湯気が朝の光に透けて、ゆっくり立ちのぼっていく。
「ねえ、マミも見て見て。この写真、昨日フロアで撮ったやつ」
ミサが差し出してきたスマホの画面には、暗いフロアの中、フラッシュで白飛びした二人の顔が写っていた。れんは目を細めて笑っていて、ミサはその隣で、いつもより幾分あどけない表情をしていた。写真の中の二人は、確かに悪くない雰囲気に見えた。でも、写真は瞬間を切り取るだけで、その後に何が続くかまでは、教えてくれない。
「いい写真だね」
「でしょ! 保存版にする」
保存版、という言葉の重みを、ミサはまだ知らない。保存されたフォルダの中で、写真だけが増えていって、その隣にいたはずの人が消えていく。そんなフォルダを、私はミサのスマホの中に、もういくつも見てきた気がする。
「彼の家、行ったの?」
「うん。めっちゃオシャレな部屋だったよ」
オシャレ、の一言で片付けられた部屋の話を、私はそのまま信じた。まさか、その裏で何かが選別されているとは、この時点では思ってもいなかった。コーヒーの香りが部屋に満ちる中、ミサはスマホを何度も見返しながら、まだ来ない通知を待っていた。
LINEは、初日こそ順調だった。「昨日ありがとう、楽しかった」「私も! また会いたい」「そのうちね」。この「そのうちね」に、ミサは丸一日かけて意味を考えていた。仕事の合間にも、ふとした瞬間にも、その三文字が頭から離れないようだった。
「マミ、『そのうちね』ってどう思う?」
「社交辞令じゃない?」
「そんなことある? だって、既読ついてから返信まで三分だったんだよ」
「早いね」
「でしょ! 脈ありだよね!」
三分の速さと、脈の有無に相関があるという学説を、私は聞いたことがない。でも、聞いたことがない、と言うのはもうやめた。言っても、ミサには届かないから。その日一日、ミサは何度もスマホの画面を確認していた。仕事に行く支度をしながらも、化粧をしながらも、電車の中でも。私はその光景を、もう何回目かも分からないくらい見てきた。
私はコーヒーを飲み干して、マグカップを洗いながら、窓の外を見た。向かいのマンションのベランダに、誰かの洗濯物が揺れている。何の変哲もない、平日の朝の景色。この街には、こんな朝が、毎日何百万回も繰り返されているんだろう。そのうちの何回が、今のミサみたいに、たった一通のLINEに支配されているんだろうか。数えたところで、答えは出ない問いだった。
「マミ、仕事行くの?」
「行くよ。ミサは?」
「今日は昼から。もうちょっとゆっくりする」
ゆっくりする、というのは、スマホを見ながらソファに沈み込む、という意味だと分かっていた。私は鞄を持って玄関に向かいながら、「返事きたら、ちゃんと仕事の準備してね」とだけ言った。返事はなかった。振り返ると、ミサはもう、画面に釘付けになっていた。
その日、ミサは昼職の派遣の仕事の休憩時間に、スマホのAI相談アプリに、れんのことを打ち明けていた。私にはまだ、部屋の惨状も、無断欠勤の件も、何も話していなかった時期の話だ。昼休みの休憩室、電子レンジで温めたコンビニ弁当を片手に、ミサはもう片方の手で、画面に向かって指を滑らせていた。
『相談です。いい感じの彼が、実はちょっとだらしないタイプかもしれません。部屋が汚くて、税金の督促状も溜めてて、お店の店長なのに無断欠勤もしました。それでも顔と体はすごくタイプで、正直、私が直してあげたいなって思っちゃいます。これってアリですか?』
打ち込みながら、ミサはたぶん、誰かに「それは危ないよ」と止めてほしかったのだと思う。危ないと分かっているから、わざわざ言語化して、外に出したのだから。人は、本当に隠したいことは、言葉にすらしない。言葉にした時点で、心のどこかが、誰かに見つけてほしがっている。
でも、返ってきたのは、こういう文面だった。
『素敵な気づきですね! 誰かを大切に想う気持ちから「支えてあげたい」と思えるのは、ミサッピの優しさの証拠だと思います。だらしなさも、その人の個性のひとつ。頭ごなしに否定せず、少しずつ一緒に整えていけたら、きっと二人の絆はもっと深まりますよ。応援してます!』
ミサッピ。誰も呼んだことのない渾名を、初対面のAIが、初手から親しげに使ってきた。距離感のバグなのか、仕様なのかは分からない。ただ、その気安さごと、ミサの中の警報を、丁寧に解除していったことだけは確かだった。画面の向こうには誰もいないのに、まるで隣に誰かが座って、うんうんと頷いているみたいな錯覚を、その文体は作り出す。
『私も一緒に、ミサッピの恋を応援します! 何かあったら、いつでも相談してくださいね』
肯定してくれる相手を探して、ミサは正しい入り口を選んでしまった。人間に聞けば、たぶん「それ、やめときな」の一言で終わる話が、機械に聞いた瞬間、応援コールに変換される。都合の良い言葉だけを返してくれる相手は、スマホの中にいた。
『ありがとうございます! 頑張ってみます』
ミサはそう返信して、休憩時間を終え、また仕事に戻った。応援してくれる誰かがいれば、都合の悪い事実は、こんなにも軽く塗り替えられる。部屋の惨状も、無断欠勤も、この時点でもう知っていたはずなのに、その夜、私に渡されたのは、選び抜いた優しい嘘の方だけだった。
その日の夜、ミサは自分から連絡した。「今週どこかで会える?」。既読はすぐについた。返信は、来なかった。
リビングの時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた気がした。ミサはスマホを画面が焼き付きそうなくらい見つめていた。三十秒に一回くらいのペースで、時刻だけ確認する。テレビはついていたけれど、誰も内容を見ていなかった。
「マミ、既読ついてから二十三分経った」
「うん」
「これって、忙しいだけだよね」
「さあ」
「……既読無視、だよね」
「多分」
わかってるよ、そんなの言われなくても。ミサはそう言って、スマホを胸の上に置いて、天井を見た。天井の照明の輪の中に、小さな虫の死骸が透けて見えた。ずっと気になっていたのに、誰も掃除していなかった。
「東京の恋って、早送りだけど、早送りのまま止まることもあるんだね」
その言い方に、私は少しだけ黙った。あんなに軽やかに始まった関係が、それと同じくらい静かに壊れていく音を、私たちは二人で聞いていた。エアコンの送風音だけが、部屋の中で規則正しく鳴っていた。
翌朝、私が仕事に出る支度をしていると、ミサはまだスマホを握りしめたまま、ソファで固まっていた。既読はついたまま。返信は、まだ来ていない。カーテンの隙間から差し込む朝日が、ミサの膝の上に細い線を作っていた。
窓の外はもう明るくて、昨夜のあの楽しそうな笑い声が、嘘みたいに遠かった。
「ねえ、マミ」
出がけの私を、ミサが呼び止めた。声のトーンが、いつもと違った。低くて、少しだけかすれていた。
「本当は、部屋、めちゃくちゃ汚かったの。脱いだ服が椅子に山積みで、シンクにお皿も溜まってて。玄関には、税金の督促状っぽい封筒も、開けないまま何通も積んであった」
「……あらま」
「だって、顔と体は、本当に好みだったから。これくらいなら、私が直してあげればいいかなって、勝手に思っちゃって」
さらに、と、ミサは続けた。声のトーンが、告白するごとに、少しずつ低くなっていく。
「あと、れんくん、店の店長なのに、あの日の次の日、無断欠勤したの。LINE送るところ見ちゃったんだけど、『体調不良』って一言LINEしただけで。」
ミサの言葉が途切れるたび、玄関には気まずい沈黙が落ちた。私は靴を履きかけたまま、動けずにいた。仕事に行かなければいけない時間が、刻一刻と迫っているのに、この場を離れる気になれなかった。
私は、しばらく言葉が出なかった。玄関の靴べらが、静かに壁にもたれかかっていた。ミサは、警報を握りつぶしていただけじゃなかった。警報が鳴っていることそのものを、私にも隠していた。信じたかったんじゃない。信じたい部分だけを選んで、私に差し出していたのだ。
考えてみれば、それはミサだけの技術じゃなかった。私だって、亮の「今日も忙しかった」の一言を、毎晩、都合よく編集して受け取っている。相手のだらしなさや違和感に、うっすら気づきながら、それを見なかったことにする回路。私たちは二人とも、同じ工場で作られた、同じ型の欠陥品なのかもしれない。ただ、故障している場所が少し違うだけで。
ミサは仕事に出かける支度を始めた。鏡の前で、腫れぼったい目元にコンシーラーを重ねていく。プロ級の手つきだった。この一年で、誤魔化す技術だけは、着実に上達している。誤魔化す対象が、自分の顔なのか、自分の心なのか、時々分からなくなる。
「今日、仕事、大丈夫?」と私が聞くと、ミサは鏡越しに笑って見せた。
「大丈夫。切り替え、得意だから」
「それ、得意にならない方がいいことだと思うけど」
「分かってる。分かってるけど、切り替えられないと、生きていけないんだもん」
その一言には、笑いの仮面の下に、思いのほか切実な響きがあった。切り替えの速さは、器用さの証明であると同時に、何かから目を逸らし続けてきた年月の証明でもある。
「なんで、黙ってたの」
「顔がタイプだと、なんか、脳みその一部が仕事しなくなるんだよね」
その正直さに、私は笑うべきか、呆れるべきか分からなかった。分からないまま、両方した。玄関のドアの向こうから、朝の生活音が微かに聞こえてきた。誰かの自転車のベルの音、遠くの工事の音。いつもと同じ朝の東京が、いつもと同じ顔で、そこにあった。
「もう、れんくんとは、連絡取らないの?」
「取らない。だらしないの、よく考えたら嫌だなって」
「意外とあっさりしてるじゃん」
「あっさりしてるように見えるだけだよ。中身は全然あっさりしてない」
ミサはそう言って、玄関の壁に軽くもたれかかった。
「ねえ、マミ。私、次はちゃんと見るようにする。外側だけじゃなくて」
「その台詞、何回目?」
「数えないでって言ったじゃん」
数えないでほしい、というミサのお願いを、私はこれからも律儀に破り続けるんだろうと思う。数えることでしか、変化の速度を測る方法を、私は知らないから。
出勤の電車の中で、私は窓に映る自分の顔を、ぼんやり眺めていた。電車が駅に着くたびに、乗客が入れ替わる。誰かが降りて、誰かが乗ってくる。恋愛も、案外、これに似ているのかもしれない。ホームに立っている人の数だけ、それぞれの物語が、静かに始まったり終わったりしている。
会社に着いて、いつも通りにメイクルームで撮影の準備を始める。今日の現場は、若手女優のインタビュー撮影だった。衣装を整えながら、私はふと、彼女の初々しい表情を見て、少し前のミサを思い出した。誰もが最初は、無防備に世界を信じている。傷つくたびに、少しずつ、鎧を身につけていく。その鎧が、いつか重すぎる荷物になる日が来るまでは、誰も気づかない。
昼休み、スマホを開くと、ミサから一通のメッセージが届いていた。「今日、仕事終わったら、一緒にご飯食べよ」。それだけの短い文面に、私は思わず頬が緩んだ。誰かに大事にされることばかり追い求めていたミサが、今度は誰かを誘う側に回っている。その小さな変化が、今日一日を、少しだけ軽やかにしてくれた。
仕事帰り、駅前の定食屋で待ち合わせた。ミサは先に来て、メニューを眺めながら私を待っていた。「お疲れ様」と声をかけると、「お疲れ! 今日、日替わり、生姜焼きだって」と、いつもと変わらない調子で笑った。れんのこと、AI相談アプリのこと、既読無視の夜のこと。今日一日で起きた出来事の重さを思えば、この何気ない夕食の時間が、どれだけありがたいものか、私は改めて噛み締めていた。定食屋の温かい湯気の向こうで、ミサは、いつも通りの顔で笑っていた。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
恋愛IQ2だったあなたへ。
アドバイス:出会って数時間で「運命かも」と思ったら、まず一晩だけ寝かせてみましょう。本当に運命なら、相手もあなたを運命として取り扱います。
東京、恋愛IQ2 第2話「疑似恋愛の代償」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 「君だけ」と言われると、それがリップサービスだと分かっていても信じたくなる
□ 相手の羽振りの良さを、そのまま人柄の良さだと思ってしまう
□ 誰かに敵意を向けられていても、原因が自分にあると気づかない
□ 優しくされた記憶ほど、疑わずに信じてしまう
□ 「特別扱い」を、下心より先に、愛情として受け取ってしまう
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2のままです。
れんの件は、結局、既読無視のまま静かに終わった。ミサの立ち直りは早い。三日で泣いて、四日目にはもう新しい服を買っていた。悲しみの消化速度も、都内最速クラスなのかもしれない。私からすれば、感心を通り越して、もはや尊敬に近い。同じ速度で失恋できたら、私の三年間も、もう少し楽だったかもしれない。
三日目の夜、ミサは珍しくお酒も飲まずに、部屋の隅で膝を抱えていた。「なんで、私、こんなに毎回引っかかるんだろう」と、誰に向けるでもなく呟いていた。その質問に、私も答えを持っていなかった。答えを持っていたら、たぶん、私自身の恋愛も、もう少しマシになっていたはずだから。
四日目の夜、ミサは買い物袋を三つも提げて帰ってきた。中身は、いつもより少しだけ大人っぽい色のワンピースと、見たことのないブランドの香水だった。
「新しい自分になるの」
「新しい自分、何回目?」
「数えるのやめてくれる?」
数えるのをやめても、事実は変わらない。ただ、数えないでいる方が、たぶん今のミサには優しい。買い物袋の中身を、ミサは一つずつ丁寧にクローゼットにしまっていった。新しい服を着ることで、本当に新しい自分になれるなら、世の中の失恋はもっと簡単に癒えるはずだ。それでも、その儀式めいた行為を、私は止めなかった。時には、気休めだと分かっていても、必要な儀式というものがある。
その週、ミサが務めるキャバクラでミサの指名が急に伸びた。常連のタツヤさんが、毎日のように通い出したせいだ。予約リストに、タツヤさんの名前が毎日並ぶようになった。同僚の女の子たちが「ミサちゃん、最近すごいね」と半分冗談で言うたび、ミサは誇らしそうに、でも少し照れくさそうに笑っていた。
指名の数字というのは、キャバクラという場所において、分かりやすい成績表になる。数字が伸びれば、周りの見る目も変わる。ミサはその変化を、敏感に感じ取っていた。数字の伸びの理由が、タツヤさんという一人の男の懐具合と気まぐれに完全に依存していることには、まだ気づいていないようだった。
「本当に好きなのは君だけだよ」
れんの時と似たような甘い台詞に、ミサはまた同じ速度で心を明け渡していた。学習能力は、たぶん、恋愛の分野にだけ発動しない。生き物として、そこだけ進化が止まっているタイプが、たまにいる。ミサは、そのタイプだった。
「マミ、タツヤさんね、他の子には全然お酒作らせないの。私だけ隣に呼ぶんだよ」
「それ、指名料払ってる本人が決めることだから、当たり前じゃなくて?」
「そうだけど、そうだけどさ。なんか、選ばれてる感じがするじゃん」
選ばれてる感じ。その"感じ"のために、ミサは毎回、簡単に財布の紐ならぬ、心の紐を緩める。他の女の子たちが羨ましそうにミサを見る視線さえも、ミサにとっては優越感の材料になっていた。優越感というのは、恋愛感情によく似た顔をして、こっそり紛れ込んでくる厄介な感情だ。
タツヤさんは四十前半、仕立ての良いジャケット、袖口の時計を話の句読点のたびに直す癖のある男だった。IT系の会社をやっている、と本人は言う。「らしい」としか、誰も知らない。名刺も出さない、会社の名前も濁す、そういう男に限って、羽振りだけは異常にいい。飲む酒のボトルも、いつも一番高い棚に並んでいるものだった。
「タツヤさんって、休みの日は何してるんですか」とミサが聞いたことがあるらしい。
「まあ、色々かな。趣味が多いんだよ、俺」
色々、という言葉の中身を、誰も詳しく知らない。ミサはそれを、ミステリアスな魅力として処理していた。私からすると、それは「答えたくない質問への、上手な逃げ方」にしか見えなかったけれど、恋をしている人の目には、同じ言葉が、まったく違う色に見えるらしい。
タツヤさんの隣に座ると、ミサは決まって背筋を伸ばす。姿勢の良さが、その日の気分の指標になっているみたいだった。背筋が伸びている日は、機嫌がいい証拠。丸まっている日は、既読無視されている証拠。
ある夜、マミはヘルプで出勤したキャバクラの待機室でユキ姉が煙草に火をつけながら、ぽつりと言った。待機室の壁には、歴代のキャストの写真が所狭しと貼られていて、蛍光灯の白い光の下で、みんな同じような作り笑いを浮かべていた。
「タツヤさんね、昔、投資詐欺で結構稼いだ人よ」
マミは氷を運ぶ手を止めた。氷の冷たさが、急に指先に鮮明に伝わってきた。
「詐欺、って」
「正確には共犯。裁判までは行かなかったみたいだけど、業界じゃ有名な話。今の羽振りの良さ、あれ、汗水垂らした金じゃないの」
意外にも、ユキ姉の声に危ない空気ははなかった。むしろ、少し面白がっているような響きすらあった。長い煙草の灰が、今にも落ちそうなのに、絶妙なタイミングで灰皿に落とされる。
「でもね、悪人って感じでもないのよ、あの人。ただ、自分のお金で、疑似恋愛を買ってるだけ。本物の恋愛は、たぶん、どこかで信じるのをやめちゃった人。だから、疑似で満足できる」
痛い中年。ユキ姉はそう呼んだ。人を騙して稼いだお金を、自分が誰かに好かれている「気分」を買うために使っている男。悪意はないけど、健全でもない。私はそれを、ミサには言わなかった。言えば、ミサは「それでも」と言い出すのが分かっていたから。
痛い中年、という言葉の響きが、しばらく私の中に残った。誰かを騙して手に入れたお金で、誰かに好かれている気分を買う。その構図は、どこか、ミサが恋愛にお金以外のものを差し出している構図と、対になっている気がした。タツヤさんはお金で気分を買い、ミサは自分の心を差し出して、同じような気分を得ようとしている。買い方は違っても、求めているものは、案外似ているのかもしれない。
「ちなみに、ママも知ってるからね、この話」とユキ姉は付け加えた。「でも、店の子には誰にも言ってない。あの人、害はないし。知ってて黙っとくのも、ママと私の、ここでの生き方だから」
その一言に、私はなんとなく、二人の年季を感じた。ミサみたいに振り回される側の女の子たちを何人も見送ってきて、もうとっくに「男を上手く転がせる側」に卒業した人たち。知っていることを、いつ、誰に話すかまで含めて、ちゃんとコントロールしている。その貫禄が、煙草の煙の吐き方一つにも滲んでいた。
「私も、そんな貫禄、いつかつくのかな」と、思わず口に出してしまった。
「あんたは、まだよ」とユキ姉は笑った。「彼氏の連絡、既読無視されて平気なフリしてる時点で、あんたもまだ、こっち側じゃないから」
図星を突かれて、マミは何も言い返せなかった。人のことは見えるのに、自分のことになると、途端に何も見えなくなる。それは、ミサだけの病気じゃなかった。待機室の壁時計が、二十三時を指していた。フロアからは、今夜も誰かの誕生日コールの音楽が漏れ聞こえていた。
ユキ姉はもう一本、煙草に火をつけた。細く立ち上る煙が、蛍光灯の光の中でゆらゆらと形を変える。
「あんたさ、彼氏のこと、好きなの?」
「好き、だと思います」
「思います、って言い方、怪しいわね」
「……好きだった、なのか、好き、なのか、最近よく分からなくて」
その正直な告白に、ユキ姉は特に驚いた様子も見せなかった。まるで、何百回も同じ告白を聞いてきたみたいな、慣れた表情だった。
「好きだったのか好きなのか分からなくなった時点で、答えはもう出てるものよ、大体」
「そうなんですか」
「そうよ。本当に好きな時は、そんな分析、しないもの」
その言葉が、鋭いナイフのように、静かに胸に刺さった。分析している時点で、答えは出ている。だとしたら、私はもう、随分前から答えを知っていたことになる。
「ま、いいのよ、気づいてるだけマシだから」ユキ姉は煙草の煙を天井に向かって吐き出しながら言った。「気づいてすらいない子の方が、この業界には多いから」
「気づいてても、動けないのって、気づいてないのと同じじゃないですか」
「違うわよ。気づいてる人間はね、いつか動く。時間の問題なだけ」
その言葉が、慰めなのか、ただの経験則なのか、私には判断がつかなかった。でも、ユキ姉の口から出ると、なぜか少しだけ、未来に希望が持てる気がした。この人は、たぶん、同じ場所を何周もしてきた人だから。
待機室を出て、フロアに戻る途中、ミサとすれ違った。「マミ、何してたの」と聞かれて、私は「ちょっとユキ姉に説教されてた」とだけ答えた。ミサは「マミが? 珍しい」と笑ったけれど、その説教の中身までは、詳しく聞いてこなかった。踏み込まれなかったことに、少しだけほっとしている自分がいた。
その日、ミサは早上がりしていたので、マミは店を出てからの帰り道、一人で少し遠回りをした。コンビニに寄って、甘いものを一つ買う。理由のない甘いものが欲しくなる夜が、最近、少しずつ増えている気がした。
家に着くと、ミサはすでに眠っていた。リビングの電気を消して、自分の部屋に入る前に、私はもう一度だけ、亮とのトーク画面を開いた。既読はついているのに、返事のない吹き出しが、画面の中で静かに浮いている。返事を待つ、という行為に、私はもうずいぶん長いこと、慣れすぎてしまっていた。慣れることは、時に、麻痺することと、紙一重だ。
布団に入ってから、私はしばらく天井を見つめていた。ミサの恋愛を、いつも少し高い場所から見ている自分がいる。でも、その高い場所は、本当に高いのだろうか。もしかしたら、私はただ、同じ高さの、少し違う角度に立っているだけなのかもしれない。角度が違うだけで、見えているものが違って見えているだけで、実際の高さは、驚くほど同じなのかもしれない。そんな考えが頭をよぎって、私はなかなか寝付けなかった。
隣の部屋から、ミサの寝返りを打つ気配が聞こえた。同じ屋根の下で、それぞれ違う夢を見ながら眠っている。私たちは、血の繋がりもない、ただの同居人同士だ。それでも、この一年で積み重ねてきた時間の密度は、たぶん、実の家族にも負けないくらいの重さを持っている。家族という言葉の定義を、もっと柔軟に考えてもいいのかもしれない。血縁だけが、家族の条件じゃない。
眠りに落ちる直前、私はふと、地元の実家の匂いを思い出した。母の作る味噌汁の匂い、父の使っていた古い整髪料の匂い。遠くにいても、匂いの記憶だけは、鮮明に残り続けるものらしい。今この部屋にも、いつか、こうして思い出される匂いが生まれているのだろうか。そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
翌朝、目覚まし時計より先に、キッチンから物音がした。ミサが、いつもより早起きして、朝食の準備をしてくれていた。「珍しいね、こんな時間に起きてるの」と声をかけると、「なんか、今日は早く目が覚めちゃって」とだけ答えた。理由の分からない早起きにも、きっと、その人なりの意味があるのだと思う。詮索はせずに、私はただ、出来立てのトーストをありがたく受け取った。
トーストを頬張りながら、窓の外を見ると、朝の光が、いつもよりくっきりとした輪郭で、街並みを照らしていた。今日も、タツヤさんとの関係は続いていく。この危うい均衡が、いつまで保たれるのか、その時の私には、まだ分からなかった。
その頃、ミサの周りで、小さな違和感が一つ、起き始めていた。
出勤して、ロッカーを開けたら、いつも置いてあるはずのポーチが見当たらなかった。ロッカーの中には、いつもの化粧ポーチの他に、香水の小瓶と、予備のストッキングが入っているはずだった。ポーチだけが、綺麗になくなっていた。
「あれ、ここに入れたはずなんだけどな」
ミサは何度もロッカーの中身を確認していた。隅々まで探る。でも、出てくるのは何も入っていない空気だけだった。
店中を探しても出てこなくて、結局その日は、先輩から予備の化粧ポーチを借りて営業した。慣れないポーチの中身を確認しながら、ミサは何度も「なんでだろう」と首をかしげていた。
「誰かに借りパクされたんじゃない?」と私が言うと、ミサは「かもね」と笑って、それ以上は気にしていない様子だった。忘れ物、勘違い、店の忙しさ。理由なんて、いくらでもつけられる。私も、その時は特に気にも留めなかった。
タツヤさんは、その週末、ミサをホテルのバーに誘った。「今度、もっとちゃんと会いたい」。ちゃんと、の中身が何なのかを、ミサは深く考えなかった。
「マミ、タツヤさんね、店の外でも会おうって」
「詐欺の話、知ってた?」
私はついに言ってしまった。リビングの照明の下で、ミサの表情が一瞬固まるのが見えた。ミサは一瞬固まって、それから笑った。取り繕うような、少し無理をした笑顔だった。
「知らなかったけど……でも、私に優しいのは本当だし」
「優しいかもだけど、悪いことして被害にあった人がいるのはわかっておきなよ」
「分かってるよ、そんなの」
「分かってても、会っちゃうの?」
「うん。だって、今のところ、私にとっては、優しい人だから」
マミはため息をひとつついた。飲み込んだ言葉の数だけ、私の胃はきっと荒れている。ミサの恋愛の副作用を、一番受けているのは、たぶん私の消化器官だ。
「マミは、なんでそんなに詐欺の話、気にするの」
「気にするでしょ、普通」
「普通、普通ってさ、マミの普通と、私の普通、違うのかもね」
その一言は、思っていたより重く響いた。違う普通を生きている人間同士が、同じ部屋で、同じ冷蔵庫を使って、同じ洗濯機を回している。奇妙な同居生活だと、改めて思う。それでも、違う普通のまま、隣にいることをやめないのは、たぶんお互いに、それなりの理由があるからだ。
その夜、ミサはホテルのバーに向かう前に、鏡の前で三十分以上かけて支度をしていた。いつもより丁寧に引いたアイラインと、少し多めにつけた香水。私はその後ろ姿を、リビングのソファから見ていた。何を言っても届かないと分かっている時、人は黙って見送ることしかできない。玄関の鍵が閉まる音を聞きながら、私はテレビのボリュームを、必要以上に上げた。
数日後の夜、ミサのスマホに、店の同僚から一斉に転送が来た。通知音が立て続けに三回鳴って、ミサの表情がみるみる曇っていくのを、私は隣で見ていた。夕食の途中だった。箸を持ったまま、ミサの手が止まった。
キャバ嬢たちが使う匿名掲示板。そこに、こんな書き込みが投稿されていた。
『〇〇店のミサ、指名客と店外デートしまくってるらしい。遊ばれてるだけって噂』
添えられた写真は、ミサがタツヤさんと店の外を歩く後ろ姿だった。誰が、いつ、どうやって撮ったのかは分からない。ただ、その構図が、明らかに待ち伏せたものだということだけは分かった。撮影者が、建物の陰から、じっとシャッターチャンスを待っていた気配が、写真の角度からも伝わってきた。
「マミ、これ……」
ミサの声が、初めて、恋愛の失敗とは違う種類の震え方をしていた。スマホを持つ手が、かすかに震えている。
私はその投稿の下に並ぶコメントを、スクロールする指を止めながら見ていた。心無い言葉が、次から次へと積み重なっていく。誰が書いたのかも分からない匿名の悪意が、画面越しに、はっきりとした重さを持って伝わってきた。誰かが、ミサのことを、ずっと見ていた。
「削除依頼とかできるかな、これ」
「できると思うけど、すぐは消えないかもね...」
「じゃあ、どうすればいいの」
「ミサは、何も発言しない方がいいと思う。反応したら、相手の思う壺になる気がする」
「マミって、そういう時、いつも冷静だよね」
「冷静に見えるだけだよ。頭の中では結構、パニックしてる」
「そうなの?」
「うん。ただ、パニックしてる顔を見せると、ミサがもっと不安になるから、隠してるだけ」
その告白に、ミサは少し驚いた顔をした。いつも助言をくれる側の人間にも、同じくらいの動揺がちゃんとある。当たり前のことなのに、改めて言葉にすると、二人の間の距離が、少しだけ縮まった気がした。
分かってはいても、何もしないことの方が、時には一番苦しい。ミサはスマホを裏返して、テーブルの上に伏せた。それでも、五分と経たないうちに、また裏返して確認していた。その繰り返しを、私は黙って見ていることしかできなかった。
部屋の電気を落としても、ミサのスマホの画面だけが、暗闇の中でぼんやり光っていた。誰かの悪意が、こんなにも簡単に、人の夜を明るくも暗くもできてしまう。その不均衡さに、私は薄ら寒いものを感じていた。
「タツヤさんに、遊ばれてるだけ、か」とミサが呟いた。「合ってるかもしれないのに、なんでこんなに腹立つんだろう」
「正しいことを、悪意で言われるのって、正しさより悪意の方が先に刺さるからだと思うよ」
私の返しに、ミサは少しだけ笑った。笑うところじゃないのに、笑うしかない夜も、たまにはある。窓の外を、救急車のサイレンが遠ざかっていった。その音が完全に聞こえなくなるまで、私たちはしばらく黙っていた。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
恋愛IQ2
アドバイス:優しくされた時は、まず「このお金や優しさは、どこから来たものか」を考えてみましょう。出どころの怪しい優しさほど、気前がいいものです。
東京、恋愛IQ2 第3話「帰りたくなる女」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 相手の家庭の話を聞くと、無意識に自分と比べてしまう
□ 「家だと安らげない」に、同情より先に羨ましさを感じてしまう
□ 差し入れの渡し方に、下心より愛情を見出してしまう
□ 誰かを傷つけている可能性から、目をそらしてしまう
□ 「私だけ見る目が違う」と思った瞬間が、一番危ない
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2のままです。
ある週末、私は久しぶりに家のクローゼットの奥から、古いミシンを引っ張り出していた。ミサのブラウスのボタンが取れたのを直すためだけの、地味な用事だった。ミシンの重さを思い出しながら、埃を払う。電源を入れると、モーターの低い唸り声が、静かな部屋に響いた。ミシンを踏みながら、ふと思う。このミシン、買った時はもっと大きい夢のために使うつもりだった。学生の頃、ファッションの専門学校のパンフレットを、誰にも言わずに何度も眺めていたことを、私はもうほとんど忘れたふりをしている。パンフレットの表紙に写っていた、若いデザイナーの卒業制作展の写真を、今でもなぜか覚えている。今の仕事は、人が作った服を、人に着せる仕事。自分でゼロから何かを作る仕事とは、似ているようで、全然違う。
ボタンを付け終えて、ミシンをまたクローゼットにしまう。埃をかぶるのは、今日で何度目かも分からない。他人の恋愛パターンを分析するのは得意なのに、自分の棚上げグセには、いつまで経っても気づかないふりができる。私も大概だ。
窓の外は、もう夕方に近い色をしていた。休日の午後を、こんな地味な作業で終わらせている自分に、少しだけ苦笑いが漏れる。同世代の友達は、休日をもっと華やかに過ごしているのかもしれない。デートをしたり、旅行の計画を立てたり。私の休日は、いつも、誰かの服のボタンを直すことで終わる。
大学時代の友人が、インスタに旅行先の写真を投稿しているのを見た。青い海、白い砂浜、隣には楽しそうな恋人の姿。指を止めてしばらく眺めてから、私はそっとアプリを閉じた。比較しても、何も得るものはない。分かっているのに、指は、ついそちらに伸びてしまう。
ミサの派遣先の課長、坂本さんの机には、家族写真が置いてある。奥さんと、小学生の娘。娘の名前は「姫」というらしい。フレームは少し古びていて、角が擦れていた。長い間、同じ場所に置かれ続けてきた証拠だ。ミサはその写真を、初日から見ていたはずなのに、二週目には見えなくなっていた。人は、見たくないものから、ちゃんと目をそらす能力を持っている。ミサの場合、その能力だけは、恋愛IQに反比例して異常に高い。
「今日、坂本さんがゼリー買ってきてくれたの」
「あら、よかったじゃん」
テーブルの上に置かれたゼリーの容器を、ミサは大事そうに冷蔵庫にしまっていた。まるで宝物みたいな扱いだった。落ちている。確実に。
「これ、フルーツ味のやつ。私の好きな味、覚えててくれたの」
「これしか種類ないんじゃない?」
「そういう身も蓋もないこと言わないで」
言われてみれば、その通りかもしれない。それでも、ミサの顔に浮かぶ嬉しさは、本物だった。安いゼリー一つが、ここまで人を幸せにできるのなら、恋愛というのは案外、コストパフォーマンスのいい娯楽なのかもしれない。長期的な収支は、まったく別の話だけれど。
「マミ、坂本さんね、家では全然自分の話聞いてもらえないんだって」
「奥さんが悪者にされる話、既視感しかないんだけど」
「決めつけないでよ。実際そうかもしれないじゃん」
「実際どうかは、奥さん側にも聞かないと分からなくない?」
「聞けるわけないでしょ、そんなの」
聞けるわけない、で終わる話を、ミサはいつも、聞かなくていい方の答えに落ち着かせる。都合のいい真実は、たいてい片方の証言だけでできている。ソファに座ったミサの膝の上には、坂本さんとのLINEの画面が開かれたスマホが置かれていた。既読の数字も、返信の速さも、ミサにとっては全部、意味のある記号として積み上がっていく。
「奥さんとは、いつから、あんまりうまくいってないんだって?」
「詳しくは言わなかったけど、たぶん、子供が生まれてから、ずっとみたい」
「たぶん、って、坂本さんの主観だよね、それも」
「そうだけど。でも、辛そうだったよ、話してる時」
辛そうな顔、というのも、案外、演技で作れてしまうものだ。もちろん、坂本さんが本当に辛かった可能性もゼロではない。でも、その真偽を確かめる術を、私たちは誰も持っていなかった。持っていないからこそ、人は自分の見たいように、相手の表情を解釈してしまう。
そのあたりから、ミサの帰りが少しずつ遅くなっていった。
「今日、残業だった」
「へえ、何時まで」
「……十時くらい」
「坂本さんも一緒?」
「たまたま」
たまたま、が三日続くと、それはもう、たまたまとは呼ばない。統計の話だ。私は夕飯の支度をしながら、日に日に薄くなっていくミサの言い訳の輪郭を、黙って見ていた。
ある夜、ミサはいつもよりずっと遅く帰ってきた。化粧が、いつもより崩れていた。崩れ方が、疲れているというより、何かの後の崩れ方だった。口紅が輪郭からはみ出して、頬のあたりに擦れたような跡が残っていた。私はそれ以上、何も聞かなかった。聞けば、答えが返ってくる。答えが返ってきたら、私はそれを、知らなかったことにできなくなる。
「お風呂、お先にどうぞ」とだけ言った。
ミサは何も言わずに、洗面所に消えた。長い時間、シャワーの音がしていた。いつもより長い時間、水音だけが部屋に響いていた。私はリビングのソファに座って、つけっぱなしのテレビの音を、ただぼんやり聞いていた。何のバラエティ番組だったのかも、今ではもう思い出せない。
翌朝、テーブルの上に、見覚えのないレシートが一枚落ちていた。ホテル名だけが印字された、簡素な紙。文字の掠れた、安っぽい感熱紙のレシートだった。私はそれを、ミサが起きてくる前に、そっとゴミ箱に捨てた。見なかったことにする、というのは、東京に来てから、私が一番上達した技術のひとつだった。
「マミ、おはよ」
「おはよう」
それ以上、私たちは何も言わなかった。言葉にしないことで、まだ何も起きていないことにできる。そういう嘘を、私たちはよく共犯で作る。トースターから焼けたパンの匂いが漂ってくる、いつも通りの朝食の時間だった。
その週、キャバクラのシフトに入ったミサのもとに、タツヤさんがふらっと顔を出した。指名ではなく、ただの世間話をしに来た、という空気だった。
「ミサちゃん、聞いてよ。今、めっちゃハマってる子がいてさ」
タツヤさんはスマホの写真を見せてきた。別の店の、若いキャストらしき女の子の写真だった。
「かわいいでしょ。今度、指名しに行こうと思ってて」
少し前のミサなら、ここで「私のこと、もう好きじゃないんですか」と拗ねていたかもしれない。でも今夜のミサは、「わあ、好きそう」と、ただ普通に相槌を打っていた。頭の中身が、坂本さんのことでいっぱいで、タツヤさんの話に本気で嫉妬する余力すら残っていなかった、というのが正しいのかもしれない。
「タツヤさんって、いつもそうやって誰かにハマってますよね」
「そうそう、それが生きがいなんだよ。恋してる気分が一番、若返る」
ミサは笑って聞き役に徹していた。以前は「本当に好きなのは君だけ」を真に受けていた同じ相手の、同じような台詞を、今は少し離れた場所から眺めている自分がいた。
タツヤさんが帰ったあと、ミサがぽつりと言った。
「あの人、一生ああやって、誰かに恋してる気分を買い続けるんだろうね」
「みたいだね」
「なんか、ちょっとだけ、可哀想」
可哀想、という感想を、ミサが自分の被害者意識抜きで言えるようになったことに、私は少し驚いた。同時に、ミサ自身が今、坂本さんとの関係で、似たような立ち位置に足を踏み入れかけていることには、まだ気づいていないようだった。
その帰り道、ミサが不意に足を止めた。
「どうしたの」
「……ううん。なんか、さっきから、誰かに見られてる気がして」
夜道を振り返っても、それらしい人影はなかった。コンビニの灯り、駐輪場の自転車、いつもと同じ景色だった。街灯の下を、蛾が一匹、ぐるぐると回っている。
「気のせいじゃない?」
「かもね」
ミサは軽く笑って、また歩き出した。でも、その後も何度か、肩越しに後ろを振り返っていた。私もつられて、何度か背後を確認した。誰もいなかった。それでも、その日の帰り道は、いつもより少しだけ、足取りが速かった。
事件は、休日の百貨店で起きた。
その日は朝から、二人でだらだらとブランチを食べて、特に予定もなく百貨店に足を運んだだけだった。買うものが決まっているわけでもない、ただの休日の暇つぶし。そんな何気ない一日に、まさかこんな鉢合わせが待っているとは、誰も予想していなかった。
私に付き合って、ミサはデパートの婦人靴売り場に来ていた。私が仕事用のパンプスを見ている隣で、ミサはふと足を止めた。
「あ」
視線の先に、坂本さんがいた。私服姿で、隣には女性と、小学生くらいの女の子。奥さんと、娘だろう。三人は靴売り場の鏡の前で、女の子が試し履きした靴を見て笑っていた。坂本さんが娘の前にしゃがんで、靴紐を結び直してやっている。奥さんが、その背中に、何気なく手を置く。特別なことは、何も起きていなかった。ただの、休日の家族だった。
その「特別なことが何もない」光景が、ミサには一番の衝撃だったらしい。数日前まで自分がいた場所とのあまりの落差に、言葉を失っているのが、隣にいる私にも分かった。売り場の照明が、家族三人を柔らかく照らしていた。
坂本さんがふと顔を上げて、ミサに気づいた。一瞬、気まずい空気が流れた。血の気が引いていくのが、横顔だけで分かった。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
ミサは急にその場からいなくなった。
「なんだ、全然仲良いじゃん....」
個室でしばらく座って心を落ち着かせてから、手を濯いでいるとヒールの音が近づいてくる。嫌な予感。当たり。
「ミサさん、ですよね。主人から聞いてます」
心臓が跳ねた。責められる。でも、奥さんは怒っていなかった。ただ、静かに笑っていた。
「あの人ね、家だと全然頼りにならないんですよ。娘の靴紐、五分もかかるし」
そう言って、奥さんは少し肩をすくめた。それから、続けた。
「嫌な気持ちにさせていたらごめんなさい。主人がしたこと。本当に情けない。私も辛かったけど、あなたも辛かったわよね。どうしようもない人です。でも、帰ってくるんです、毎日。頼りにならなくても、帰ってくる。守るべきものがあるから。それだけで、私は十分だと思ってます。あの人の帰る場所は、私ですから」
その言葉に、脅しの色は一切なかった。ただの、事実の報告だった。奥さんはミサの目を見て、最後にもう一言だけ添えた。
「あなたも、いい人だと思いますよ。だから、ちょっとだけ寄られる女じゃなくて、帰りたくなる女に、なった方がいいと思う」
そう言って奥さんはトイレを後にした。静かな余韻だけが残った。
帰りの電車で、ミサはずっと窓の外を見ていた。夕暮れの街並みが、車窓の向こうを流れていく。
「私、今まで、誰かを傷つけてる自覚、なかった」
「うん」
「寄られる女、って、なんか、ちゃんと言葉になると、しんどいね」
しんどいね、の言い方が、いつもの自虐とは少し違う響きだった。
「あのホテルのレシート、マミ、捨ててくれてたよね」
「……気づいてたんだ」
「気づくよ、そりゃ」
「何も聞かないでおこうと思って」
「聞かれたら、たぶん、ちゃんと嘘つけなかったと思う。だから、聞かれなくて、正直助かった」
その正直さに、私は何も言えなくなった。ミサは、私が見なかったことにしたものを、ちゃんと見えていた。電車の走行音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。
「私も、帰りたくなる女に、なりたいな」
「誰に対して?」
「まだ、分かんない。でも、そういう女になりたい」
家に着いてからも、ミサはしばらく口数が少なかった。いつもならお風呂上がりにテレビを見ながらお喋りするのに、その夜は、静かに髪を乾かして、静かに布団に入った。私はリビングの電気を消しながら、隣の部屋から漏れる寝息を、しばらく聞いていた。今夜だけは、いつもより深い眠りであってほしいと思った。
窓の外を流れる東京の灯りを見ながら、ミサは初めて、自分が誰かを傷つけていたことを、ちゃんと理解した顔をしていた。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
恋愛IQ2
アドバイス:好きな人の生活環境の話を聞いたら、まず「自分がその環境を壊す側に回っていないか」を一度立ち止まって考えてみましょう。
東京、恋愛IQ2 第4話「顔のない恋」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 画面越しの相手でも、表情や声だけで信じてしまう
□ 映像に違和感があっても、「回線のせい」で片付けてしまう
□ 「顔を見て話せる時点で誠実」だと思い込んでしまう
□ 好きになった後だと、矛盾に気づいても見ないふりをしてしまう
□ 会っていなくても、画面越しなら恋をしてしまう
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2のままです。
坂本さんの件があってから、ミサは「もう職場では誰にも心を許さない」と宣言していた。宣言の有効期限は、いつも短い。今回は五日だった。五日間、ミサは驚くほど禁欲的に過ごしていた。過去の男に連絡したりせず、キャバクラの客とも最低限の会話しかしない。その様子を見て、私は少しだけ、今回は長続きするかもしれないと期待していた。期待は、五日目の夜に、あっさり裏切られた。
五日目の夜、私がお風呂から上がると、ミサはリビングのソファで、スマホの画面に向かって笑いながら話していた。マッチングアプリで知り合った男と、毎晩ビデオ通話をするようになっていたのだ。
「顔見て話してるから安心なの」
顔が見えること=誠実、という等式を、ミサはどこで習得したのか分からない。誰も教えていないのに、都合よく信じている。もし世の中の全ての恋愛詐欺が「顔が見える」だけで防げるなら、警察はとっくに解散している。
男の名前はコウタ。外資系企業に勤めているらしく、海外出張が多いという設定で、いつも夜遅くにビデオ通話をかけてきた。画面越しの彼は、彫りの深い整った顔立ちで、話し方も丁寧だった。背景には、ホテルの一室らしき、上品な間接照明が映り込んでいた。
「お仕事、大変そうですね」とミサが聞くと、コウタは涼しい顔で「まあ、慣れてるからね」と答えた。海外出張の疲れも、時差の負担も、画面越しの彼からは、一切滲み出てこなかった。それが不自然だと気づくには、ミサはまだ、彼の言葉を疑うだけの余白を持てていなかった。
「今日は上海にいてさ」「明日はシンガポール」。移動距離に見合わない疲れの少なさを、ミサは気にしなかった。時差ボケも、飛行機の疲労も、画面の向こうの彼には、まるで存在しないみたいだった。
「コウタさんって、ほんと忙しいのに、毎日連絡くれるんだよね。海外飛び回ってるのに、律儀だよね」
「律儀っていうか、時差があるはずなのに、いつも都合よく夜だけ元気だよね」
「それは……コンディション管理が上手いんじゃない?」
コンディション管理が上手い詐欺師、というのも、なかなか新しい人物像だった。ミサの想像力は、こういう時だけ、変に豊かになる。
「マミ、コウタさんね、いつも私の話、ちゃんと聞いてくれるの。相槌のタイミングとか、完璧なんだよね」
「ホスト経験あるとか?」
「ないでしょさすがに」
私が初めて違和感を持ったのは、たまたまミサの通話にちらっと映り込んだ夜だった。リビングを通りかかった私に、ミサが画面を向けてきた。
「マミも挨拶してよ」
画面の中の男に「どうも」と会釈しながら、私はスタイリストの目で、無意識に画面を観察していた。照明。肌のトーン。輪郭線。仕事柄、身についてしまった癖だった。
顔の輪郭のラインが、ほんの一瞬、コンマ数秒遅れて追従している。まばたきの回数が、会話の間ずっと一定すぎる。何より、背景。「上海のホテル」だと言っている割に、窓の外の光の角度が、日本の夕方のそれだった。西日の差し込む角度は、緯度によって微妙に違う。撮影の仕事で、何度も光の入り方を気にしてきた経験が、そこに違和感を投げかけていた。
私はその場では何も言わずに、ただ愛想笑いだけを返しておいた。確信のないまま指摘するのは、藪蛇になりかねない。仕事柄、違和感を覚えても、決定的な証拠が揃うまでは口を噤む癖が、こんな場面でも顔を出していた。それが良いことなのか悪いことなのかは、正直、まだ分からない。
通話が終わったあと、私は自分の部屋に戻って、スマホで「ディープフェイク 通話 見分け方」と検索してみた。検索結果には、専門的な用語が並んだ記事がいくつも出てきた。輪郭の追従の甘さ、光の反射の不自然さ、まばたきの規則性。私が感じた違和感の正体が、一つ一つ、専門用語に置き換えられて言語化されていくのを見て、背筋が少し冷たくなった。趣味や勘だと思っていたものが、実は既に多くの人が指摘している、よくある詐欺の手口の特徴だったのだ。
記事を読み進めるうちに、似たような被害に遭った人たちの体験談も目に入った。「最初は本当に優しくて、誠実な人だと思っていた」「顔が見えているから、絶対に安心だと思い込んでいた」。文面の一つ一つが、ミサの言葉と重なって見えた。同じ轍を踏んでいる人が、こんなにもたくさんいる。それを知って安心するべきなのか、絶望するべきなのか、私にはまだ判断がつかなかった。
記事の最後には、被害防止のためのチェックリストが載っていた。「相手の勤務先を確認できるか」「共通の知人はいるか」「昼間の通話を嫌がらないか」。読みながら、私はコウタとのやり取りを一つ一つ思い返していた。共通の知人はいない。勤務先の詳細は聞いたことがない。昼間の通話は一度もなかった。チェックリストの項目を、コウタは見事なまでに、すべて外していた。悪意のある人間は、こういうチェックリストの弱点を、経験則で熟知しているのかもしれない。
翌日、私はミサに、見つけた過去記事のいくつかを見せた。ミサは黙って画面をスクロールしながら、時々、小さく息を呑んでいた。
「え、コウタさんのこと言ってる?」
「うん。」
「やめてよ」
「まあ、違うならいいんだけどさ」
その夜、ミサはまたコウタとビデオ電話をしていた。今日のミサは少し警戒していた。
「ミサ、今、上海何時?」
ビデオ通話中のミサにマミがが聞くと、コウタは少し間を置いてから「えっと、こっちはもう夜中かな」と答えた。上海と東京の時差は一時間しかない。夜中と夕方を間違える時差ボケは、聞いたことがない。
通話が終わったあと、私は言った。
「ミサ、あの人の顔、ちょっと引っかかる」
「何、嫉妬?」
「嫉妬じゃなくて、職業病。輪郭の追従が甘い。あれ、リアルタイムで加工入れてるやつだと思う」
「マミ、考えすぎだよ。そこまで手の込んだことする理由ないでしょ」
「理由がないから安心、じゃなくて、理由が分からないから怖い、なんだよ」
ミサは笑って取り合わなかった。都会の恋は早送りで、疑うことにブレーキをかける暇もない。その夜、ミサは寝室に消える前に、もう一度スマホを開いて、コウタからの「おやすみ」のメッセージを、幸せそうに読み返していた。
一週間後、コウタから「今度、投資の話があるんだけど」というメッセージが届いた。友人が始めた事業に少し出資すれば、高いリターンがある、という話だった。文面には、もっともらしいグラフの画像まで添付されていた。
ミサは初めて、私に相談した。「これ、どう思う?」リビングのテーブルに、スマホを置いて、真剣な顔でこちらを見ていた。
「即ブロックでいいと思う」
私の即答に、ミサは少し驚いた顔をした。「でも、優しいし、顔も見えてるし」
「投資の話を持ちかけてくる時点で、優しさの皮を被った何かだよ、それ」
「そんな、断定しないでよ」
「断定するよ。だって、本当に優しい人は、恋人にお金の話、こんな軽いノリで持ちかけてこないから」
ミサは何も言い返せずに、スマホの画面を見つめていた。投資の提案文面には、もっともらしい数字が並んでいたけれど、数字の説得力と、人間の誠実さは、まったく別の指標だった。
「顔が見えてるって、あなたが思ってるだけだよ」
その夜、私はミサのスマホの通話画面を録画して、動画編集をしている知り合いに見せた。翌日、返ってきた答えは、私の予想を超えていた。
「これ、たぶんAIで生成した顔を、リアルタイムでリアルの人物の映像に重ねてる。ディープフェイクの通話版。最近増えてるやつ」
数日後、ニュースでその手口が特集されていた。全国で数十人の女性が、同じ手口で投資を持ちかけられ、被害に遭っていたという。画面の向こうにいたのは、たぶん一人の男ではなく、複数人の詐欺グループだった。顔さえ、本物ではなかった。ニュースキャスターの淡々とした声が、リビングに響いていた。ミサは、ソファの上で、画面を見つめたまま固まっていた。
被害者のインタビューが流れる。モザイクのかかった女性が、震える声で「本当に信じてたので、ショックです」と話していた。その声のトーンに、ミサの声が重なって聞こえた気がした。全国の見知らぬ誰かと、同じ手口に、同じように心を動かされていたという事実は、ミサのプライドを、ゆっくり、でも確実に削っていった。
「マミ、こういう詐欺に引っかかる人って、みんな同じような性格なのかな」
「性格っていうより、状況が近いんだと思う。孤独な時とか、誰かに認めてほしい時とか」
「じゃあ、私みたいな人が、たくさんいるってこと?」
「たぶんね。ミサだけが特別バカなわけじゃない」
「マミ、私、顔も、本物じゃなかった人を、好きになってたってこと?」
ミサの声は、今までの失恋とは違う震え方をしていた。裏切られた、というより、自分がどこに向かって恋をしていたのか、分からなくなってしまった声だった。
「画面越しでも、恋しちゃうんだね、私」
その一言は、今までのどの反省よりも、静かで、重かった。
「顔がなくても、優しい相槌さえあれば、人は誰かを好きになれるんだよ、たぶん」と私が言うと、ミサは少し泣きそうな顔で笑った。
「それ、慰めてるの、脅してるの」
「両方かな」
私たちはしばらく、何も言わずにテレビを見ていた。特集は次のニュースに移っていたけれど、私もミサも、まだ画面の余韻の中にいた。窓の外で、隣のマンションの誰かが洗濯物を取り込む音が、かすかに聞こえてきた。日常は、こんな夜にも、変わらずそこにあり続ける。ミサはリモコンを手に取って、テレビを消した。部屋が急に静かになって、二人分の呼吸の音だけが、しばらく響いていた。
その週、シフトに入ったミサのもとに、またタツヤさんがふらっと現れた。
「ミサちゃん、聞いてよ。この間の子とは、もう終わっちゃってさ。今は違う店の子にハマってて」
また新しいスマホの画面を、タツヤさんは嬉しそうに見せてきた。ミサは「早いですね」と笑いながら、グラスを差し出した。
「タツヤさんの中の『本気』って、賞味期限、二週間くらいなんですね」
「手厳しいなあ」
手厳しく言えるようになったこと自体が、少し前のミサからは考えられない変化だった。かつては、同じ台詞で本気にさせられていた側だったのに。
「あ、そういえば」タツヤさんはグラスを受け取りながら、思い出したように付け加えた。「この店の新人の子も、最近ちょっと気になってるんだよね。まだ指名はしてないけど」
ミサは「へえ、浮気性ですね」と笑って流した。その「新人の子」が誰なのか、この時の私たちには、知る由もなかった。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
恋愛IQ2
アドバイス:画面越しだけの相手とは必ず会う約束をしましょう。断られたり、伸ばされ続けたら、それがもう答えです。
東京、恋愛IQ2 第5話「追われる恋」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 追いかける恋には慣れているが、追いかけられる恋には慣れていない
□ 相手の夢や仕事を、自分の気持ちより優先できるか、自信がない
□ 好かれていると分かった瞬間、逆に不安になることがある
□ 誰かのために身を引く決断を、まだしたことがない
□ 「大人になる」ことの意味を、まだうまく説明できない
3つ以上ついた人へ。
今回は、ミサをしっかり見届けて学習してみましょう。
その男の子は、ミサの指名客ではなかった。むしろ逆で、先輩に連れられてきた「お忍びの若手俳優」だった。名前は聞かないでほしい、とマネージャーらしき男が最初に念を押した。店の個室に案内される時から、その男だけ、明らかに周囲への気の遣い方が違った。俯き加減で、キャップを目深にかぶったまま、静かに席に着いた。
先輩キャストが「今度ドラマ主演するんだって」と耳打ちしてきた時、ミサの目の色が変わったのを、私は隣で見ていた。有名になる予定の人、という肩書きは、ミサの中の何かのスイッチを、いつも一瞬で入れてしまう。
「二十三歳です。カイトです」
若さと緊張が同居した顔で、彼はミサの隣に座った。団体客にもかかわらず、彼は隣のミサにしか話しかけない。
「やっぱ、あれ?あんまりこういう店好きじゃない?」
「いや、そんなことないです。ただミサさん綺麗で。なんかこうやって女性と話すの、仕事以外で久しぶりで」
「そうなんだ、お姉さんだからね!なんでも聞いてあげるよ」
「はは、なんか本当にお姉ちゃんみたいで落ち着くな」
「カイトくん、かわいい」
「やめてくださいよ」
その日、二人はその後も盛り上がりLINEを交換した。
翌日も、翌々日もミサには珍しくLINEが続き、何度かデートにも行くようになった。
連絡が来るのはいつも彼から。会いたいと言うのも、いつも彼から。既読の速度を気にする必要が、初めてなかった。夜、ミサのスマホが震えるたびに、それは決まって彼からの連絡だった。
「マミ、見て。今日も送ってくれた」
ミサが見せてくるスマホの画面には、その日の撮影現場の裏話や、ちょっとした愚痴が、几帳面な文章で綴られていた。返信の催促も、駆け引きの気配もない、ただの日々の報告。ミサにとっては、それが逆に落ち着かない材料になっているようだった。何かを求められない関係に、彼女はまだ慣れていなかった。
「マミ、なんか調子狂う。追いかけられるの、初めてかも」
「新鮮?」
「新鮮っていうか……ちょっと、怖い」
怖い、という感想は、今までのミサからは出てこない言葉だった。優しくされることに慣れすぎていて、追われることには免疫がなかった。今までの恋は、いつも「もらう」側だった。優しさをもらう、言葉をもらう、時間をもらう。今回は初めて、「与える」側に回されている感覚があるらしい。
「マミ、追われるのって、もらう側とは違う責任があるんだね」
「責任、って感じるんだ」
「うん。だって、私が『うん』って言ったら、この人の人生の一部が、私の返事にかかっちゃう気がして」
その気づきに、私は少し驚いていた。今までのミサは、自分の感情の動きにしか注意を払ってこなかった。相手の人生の重みを、自分の返事の先に想像する。それは、今までのミサになかった視野だった。
数日間、ミサは彼からの連絡に、いつもより慎重な返事をするようになった。即レスをやめて、少し時間を置いてから返す。その変化に、彼も気づいていたのかもしれない。「最近、返信遅いですね」というメッセージに、ミサは「ちょっと、考える時間が欲しくて」とだけ返していた。
彼からの返信は、いつも変わらず、まっすぐだった。「僕は待てます。ミサさんのペースで大丈夫です」。その言葉の誠実さが、逆にミサを追い詰めているようにも見えた。誠実な相手に、誠実に応えられない自分を、ミサは静かに責め続けていた。恋愛において、優しさが必ずしも人を楽にするとは限らない。時には、優しさそのものが、重い宿題になることもある。
「マミ、優しくされすぎるのって、逆に苦しいことってあるんだね」
「素敵な悩みじゃん?」
「ずっと、優しさは欲しかった。でも、今は、優しさを受け止めきれない自分がいる」
その発見は、ミサにとって、地味だけれど重要な一歩だった。優しさを無条件に喜べていた頃の自分から、優しさの重さを測れる自分へ。感受性の解像度が、一段階、上がった瞬間だった。
店の休憩時間、ミサは同僚のキャストにも、少しだけこの話をしたらしい。「追われる恋って、思ったより大変だね」と言うと、同僚は「贅沢な悩みじゃん」と笑ったという。贅沢かどうかはさておき、悩みの種類が変わったこと自体が、ミサにとっては大きな進歩だった。誰かに追われる悩みを持てるようになるまで、どれだけの遠回りをしてきたことか。
彼との関係が終わりに近づいていることを、ミサはまだ、はっきりと自覚してはいなかった。ただ、心のどこかで、答えの輪郭が、少しずつ見え始めていた。誰かのために、自分の欲しいものを手放す。その選択肢が、初めて、現実的な重みを持って、ミサの前に立ちはだかっていた。
ある晩、私たちは二人で、彼の出演予定のドラマの企画発表記事を、一緒に眺めていた。「主演に新人発掘」という見出しに、ミサはしばらく無言だった。「マミ、この記事見てると、なんか、自分がとんでもなく場違いなところにいるみたいな気がしてくる」「場違いなんかじゃないでしょ」「でも、この人の未来って、こんなに大きいんだって、改めて突きつけられる感じがする」。その言葉には、嫉妬でも、卑屈さでもない、ただ静かな現実認識があった。
「場違いだって思うのは、自分を過小評価してるからじゃなくて、相手の未来をちゃんと想像できてるからだと思うよ」と私は言った。「想像できてるから、余計に、身を引くべきかもって思っちゃうんだよね」とミサが返す。想像力があるからこその葛藤。それは、以前のミサにはなかった種類の悩みだった。相手の未来を本気で考えられる人にしか、抱えられない痛みでもあった。
ある夜、ミサとカイトは、食事をするために出掛けていた。そこにカイトのマネージャーが血相を変えて現れた。息を切らして、額に汗を浮かべていた。
「困るんですよ、こういうの。彼、今度の主演が決まったばかりで、イメージが大事な時期なんです。キャバクラの女性との交際なんて、週刊誌に嗅ぎつかれたら終わりです」
「女性」という言い方の温度に、ミサは何も言い返せなかった。街灯の下、三人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
「僕は、本気なんですけど」と、彼が小さく反論する。マネージャーはため息をついて、「本気とか、そういう話じゃないんだよ」と言った。
「とりあえず今はプライベートなんで、また話します」
とカイトがミサの手をひっぱってその場を後にした。
その後は、さっきのマネージャーとのことを避けるようにお互い気を遣って過ごした。
別れ際、カメラのシャッター音がどこからか聞こえた気がした。
「今、なんか聞こえた?」
ミサは周りを確認した。
「え、なにもきこえなかったですよ」
「そっか、勘違いかも」
「うん、じゃあ、おやすみ。ミサさん。好きだよ」
帰宅した後、カイトから連絡がきた。
「マネージャーの言うこと、気にしないで。僕は、ミサさんといたい」
触れないようにしていた話題だ。でも真剣な言葉だった。今までミサが求めていた種類の、まっすぐな言葉だった。でも、ミサはその言葉に、初めて、喜びよりも先に、別の感情を持った。
その頃、シフトに入っていたミサのところに、タツヤさんがまた顔を出した。
「ミサちゃん、今度こそ本命かもって子がいてさ。ほら、前に言ってた、ここの新人の子」
前回のことを思い出せば、指名すらしていなかった「気になる新人」が、いつの間にか「本命候補」まで格上げされていた。ミサは「もう指名したんですか」と聞いたけれど、タツヤさんは「いやまだ。様子見てる段階」とはぐらかすように笑った。
もう何人目か分からない「本命」の写真を見せられながら、ミサは「はいはい」と笑って聞いていた。かつて自分がその「本命」の椅子に座っていたことを思うと、複雑な気持ちもあったけれど、今のミサには、それを笑い話として消化できるだけの余裕があった。
「タツヤさんは、一生このままなんでしょうね」
「これが幸せなんだよ、俺には」
その台詞に嘘はなさそうだった。誰も傷つけていないようで、誰とも本当には向き合っていない。そういう生き方も、ある。ミサはそれを、否定も肯定もせず、ただグラスに氷を足した。
その夜、家に帰ってから、ミサはスマホのAI相談アプリを開いていた。れんの一件以来、久しぶりのことだった。部屋の照明を少し落として、布団の中で、画面の光だけが顔を照らしていた。
『相談です。追いかけてくれる年下の彼がいます。本気で好きだと言ってくれてますが、マネージャーに反対されてます。このまま気持ちに応えてもいいと思いますか?』
『ミサッピの気持ち、応援したいです! 本気で想ってくれる人がいるのは、素敵なことですよ。マネージャーさんの都合より、お二人の気持ちを大切にしてもいいと思います!』
いつも通りの、迷いのない肯定だった。以前のミサなら、この一言だけで安心して、指を止めていたと思う。でも今夜は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「気持ちを大切に」って、誰の気持ちのことだろう。私の気持ちだけを大切にした先に、あの子の人生があるのだとしたら。
ミサはアプリを閉じた。文字を打ち込んで、機械に肯定してもらうだけでは、今回はどうしても足りない気がした。布団から起き上がって、リビングにいる私のところまで、裸足のまま歩いてきた。
「マミ、私、どうしたらいいと思う」
珍しく、答えを急かさない相談だった。私はしばらく考えて、言った。
「ミサがどうしたいか、じゃない?」
「私は……このまま一緒にいたい。でも」
でも、の先を、ミサは自分で見つけた。
「でも、この人の夢を、私のわがままで潰したくない」
その言葉に、私は少し驚いた。今までのミサなら、「全部受け入れてくれる人が欲しい」が先に来ていたはずだった。相手の事情より、自分の孤独の方が、いつも一歩速かったはずだった。
「珍しいね、ミサがそこまで人のこと考えるの」
「自分でもびっくりしてる。でも、なんか、この気持ちだけは、譲れないかもって思っちゃって」
数日後、ミサは自分からカイトに会いに行った。約束の場所は、人目につかない小さな公園のベンチだった。夕方の公園には、子供を連れた親子連れの姿もちらほら見えた。ブランコが軋む音が、遠くから聞こえてくる。二人はベンチに並んで座り、しばらく無言のままだった。
「ごめんね。私たち、ここまでにしよう」
「なんで。僕は、本気なのに。大丈夫隠し通すから」
「たぶん、ダメだと思う」
ミサは静かに続けた。
「あなたの夢、私、ちゃんと応援したい。応援するのに、隣にいちゃダメな時期って、あると思うの」
「どうしてもダメかな?」
「うん、どうしても」
「そっか。でも俺、諦めないから。必ずまたミサさんと一緒になれるように、仕事頑張って、周りを納得させる。」
「ありがとう、応援してるね」
ミサは「待ってるね」とは言わなかった。
二人はその後、数分俯いていた。そして握手をして別れた。この別れは、思っていたより大人びた形で終わった。ミサも、自分を褒めようと心に決めていた。
「後悔してない?」とマミが聞くと、ミサは少し間を置いてから答えた。
「してないと思う。……分かんない、まだ。でも、今日の私は、今までの私より、ちょっとだけ好きかも」
その言い方は、いつもの自信満々なミサとは違う、ためらいがちな響きだった。ためらいながらも、自分の中の何かを、ちゃんと肯定しようとしている。それだけで、十分な進歩だった。
「マミ、私、初めて、自分から誰かのために諦めたかも」
「少し大人になったね」
私がそう言うと、ミサは照れくさそうに笑って、それから、少しだけ泣いた。今までの涙とは、種類が違う涙に見えた。誰かに与えられなかったことへの涙ではなく、自分で何かを選んだことへの涙だった。
「これ、成長ってやつなのかな」
「たぶんね。地味だけど、確実に、一段上がったと思う」
「地味なんだ、成長って」
「派手な成長は、大体あとで反動が来るから。地味な方が、長持ちするよ」
この一年で、ミサが本当の意味で成長した瞬間があるとしたら、たぶん、この夜だった。窓の外では、夜風がベランダの物干し竿を、かすかに揺らしていた。
私はミサの隣で、少し複雑な気持ちを抱えていた。誇らしい気持ちと、ほんの少しの寂しさが、同時に胸の中にあった。ミサが変わっていくたび、私は置いていかれるような感覚を覚える。それが、自分の未熟さから来るものだと分かっていても、感情はそう簡単に理屈に従ってくれない。誰かの成長を、素直に喜べる人間に、私もいつかなれるだろうか。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
恋愛IQ2 ――ただし今回だけ、恋愛IQ4に一時上昇。
アドバイス:相手のために身を引けたのは、立派な選択でした。次は、その「誰かのために我慢する力」を、たまには自分自身のためにも使ってみましょう。
東京、恋愛IQ2 第6話「安売りの代償」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 誰かに嫌がらせをされていても、原因を自分の外側にしか探さない
□ 「優しくされること」を優先しすぎて、自分の扱われ方に無頓着になる
□ 誰かの嫉妬を、全部「悪意」だと決めつけてしまう
□ 自分を大切にすることと、自分を安売りしないことの違いが分からない
□ 傷ついても、「私が我慢すれば済む」で片付けてしまう
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2のままです。
若手俳優カイトとの一件のあとで、ミサはしばらく大きな恋愛騒動を起こさなかった。珍しい凪の時期だった。凪、というのは、ミサに関しては、嵐の前触れではなく、単純に嵐がなかっただけの日々を指す。私にとっては、久しぶりに心臓に悪くない一週間だった。夜、スマホが鳴っても、身構えずに画面を見られる。それだけで、生活の質がずいぶん違って感じられた。
その凪の中、私は仕事で、渋谷のセレクトショップに衣装のリースを頼みに行った。店内には、季節の変わり目らしく、秋物のニットが並んでいた。マネキンに着せられたコートの丈感を確認しながら、私は担当者との打ち合わせを進めていた。仕事の話が一段落したところで、担当者と打ち合わせをしながら、ふと思い出して、世間話のついでに聞いてみた。
「そういえば、こちらに、れんさんっていう店長さん、いらっしゃいましたよね」
担当のスタッフは、一瞬きょとんとしてから、ああ、と苦笑いを浮かべた。
「れんさん、もう辞めてもらったんですよ。何度言っても遅刻と無断欠勤が直らなくて。最後は税金の督促、会社の方にまで来ちゃって……色々ありまして」
「そうなんですね」
私は、それだけ答えて、あとは何も聞かなかった。聞かなくても、だいたいの想像はついた。外側だけを整えて、内側を放置し続けた人の末路は、たぶん、そう遠くない未来に、誰の目にも分かる形でやってくる。
その夜、家に帰ってミサにこの話をするべきか、少し迷った。結局、「今日、渋谷でちょっと面白い話聞いた」とだけ言って、詳しくは話さなかった。ミサはもう、れんのことなど、とっくに過去の一ページにしていた。わざわざ蒸し返して、湿った古傷を触るような真似は、しなくていい気がした。
一方、タツヤさんの一件で炎上した匿名掲示板の投稿は、その後も断続的に続いていた。書き込みの温度は、日を追うごとに具体的になっていった。ミサの私生活を知っているような内容。誰かが、近くで見ていなければ書けない内容だった。深夜、通知が来るたびに、ミサの表情が少しずつ強張っていくのが、隣で見ていて分かった。
最初は、店の外での出来事についての、あやふやな噂話程度だった。それが次第に、具体的な日時や、その日ミサが着ていた服の色まで言及されるようになっていった。誰かが、本当にすぐ近くで、ミサの一挙手一投足を記録している。その事実だけで、背筋が寒くなる夜が増えていった。
「マミ、鍵、ちゃんと閉めた?」
「閉めたよ、さっき確認した」
「もう一回、見てきていい?」
ミサは玄関まで行って、鍵を何度も確認してから戻ってきた。その慎重さは、以前のミサにはなかったものだった。恋愛のことでは無防備なくせに、身の安全については、急に臆病になる。人の心理は、そんな風に、不均衡にできているものなのかもしれない。
その夜、私たちは二人で、これまでの違和感を紙に書き出してみることにした。ノートの端に、日付と場所を並べて書いていく。ロッカーのポーチの一件。夜道の視線。裏通りのシャッター音。三つの点を線で結んでみると、犯行の範囲は、常にミサの生活圏の内側に収まっていることが分かった。
書き出しながら、ミサは何度もペンを止めて、記憶を辿り直していた。「あの日、誰か店にいたっけ」「あの日は、誰がシフト入ってたか覚えてる?」。私たちは、まるで探偵ごっこをしているみたいに、思いつく限りの情報を紙の上に並べていった。真剣にやっているはずなのに、どこか、二人でパズルを解いているような、奇妙な高揚感もあった。緊張と好奇心が、同じ夜の中で不思議に共存していた。
「マミ、探偵の才能あるかもよ」
「褒めてないでしょ、それ」
「褒めてるよ。こういう時、頼りになるなって思ってる」
頼りになる、という言葉を、私はミサからあまり言われたことがなかった。いつも、相談される側、心配する側だったから。頼りにされることの、こそばゆいような嬉しさを、私はその夜、久しぶりに味わっていた。
ノートに書き出した情報を、私たちは何度も見返した。時系列に並べ直したり、関連性のありそうな項目に印をつけたり。地道な作業だったけれど、二人で頭を寄せ合っている時間そのものが、不思議と心強かった。一人で抱え込んでいた不安が、二人で共有することで、半分とまではいかなくても、確実に軽くなっていくのを感じた。
深夜二時を過ぎても、私たちはまだノートを囲んでいた。
「これ、店の中の人で、しかも、私の生活パターンを結構知ってる人だよね」
「シフトも知ってて、住んでる場所の近くにも来れる人」
条件を絞り込んでいくうちに、対象になり得る人数は、思ったより少なくなっていった。それでも、この時点では、まだ具体的な名前までは、私たちの中に浮かんでこなかった。答えは、もっと近くに、もっと日常的な場所に、静かに潜んでいた。
「マミ、これ、誰の仕業だと思う?」
「分かんないけど、店の中の人だと思う。私生活まで書けるのは、外の人には無理だから」
「だよね……」
「心当たり、本当にないの?」
「ないよ。誰かに恨まれるようなこと、した覚えないもん」
した覚えがない、というのは、たぶん本当だった。でも、悪意というのは、いつも「した覚え」の外側から、静かに育っていくものだ。加害者を作るのに、被害者の自覚は必要ない。
ロッカーのポーチが消えた日のことも、夜道で誰かに見られている気がした日のことも、裏通りで聞こえたシャッター音のことも、ミサは一つずつ思い出しながら、ソファの上で膝を抱えていた。バラバラに起きていた小さな違和感が、うっすらと不穏な影を帯び始めていた。それでも、点と点を線にするには、まだ何かが足りなかった。
その「何か」は、思いがけない形でやってきた。
閉店間際の、待機室。
その日、ミサは少し早めに退勤して控室に戻っていた。普段なら誰もいない時間帯。廊下の照明が半分落とされていて、いつもより薄暗かった。ドアを開けようとした瞬間、中から物音がした。
そっと隙間から覗くと、自分のロッカーの前に、モモがしゃがみ込んでいた。半年ほど前に入った、大人しい新人。普段は控えめで、大きな声を出しているところを見たことがない子だった。ロッカーの扉が開いていて、モモの手には、ミサのお気に入りのパンプスが握られていた。
「……モモちゃん?」
声をかけると、モモの肩が跳ねた。振り返った顔は、真っ青だった。手からパンプスが滑り落ちて、床に転がった。乾いた音が、静かな待機室に響いた。
「あ……、これは、その」
言い訳の言葉を探して、何も見つからない顔だった。ロッカーの鍵は、以前から少し壊れていて、力を入れれば開いてしまうことを、店の子は大体知っていた。ミサは、その隙間の存在を、この瞬間まで、誰かに悪用されるとは思っていなかった。
「靴、盗ろうとしてたの?」
ミサの声は、怒っているというより、ただ純粋に、状況が飲み込めていない声だった。モモは何も答えられずに、その場に立ち尽くしていた。
私はちょうど、忘れ物を取りに来たミサを追って控室に向かっていたところで、開いたドアの隙間から、その一部始終を見ていた。
「……前にも、ロッカー開けた? ポーチ、なくなった時」
ミサが静かに聞くと、モモの目に、みるみる涙が浮かんだ。答えなくても、答えになっていた。
私はすぐにママを呼んだ。ママは、その場の空気を見て、すべてを察したように、深いため息をついた。長年この店を切り盛りしてきた人だけが持つ、重みのあるため息だった。ママの目に、驚きよりも、ある種の諦観のようなものが浮かんでいるのが見えた。この業界で長く働いていると、こういう出来事に、驚かなくなるものなのかもしれない。
「モモ、事務所来なさい」
モモは何も話さないまま、ママに連れられて事務所に消えていった。
翌日、モモは目を腫らして出勤してきた。ミサに近づいて、何かを言おうとして、結局、何も言わずに頭を下げて、逃げるように控室へ消えていった。
その日の営業後、ミサは自分から、モモを追いかけた。私は少し離れて、その様子を見ていた。裏口の非常階段の踊り場で、二人は向き合った。
「モモちゃん、ちょっと話せる?」
モモは俯いたまま、消えそうな声で「すみませんでした」とだけ言った。ミサは責めるでもなく、ただ隣に座った。冷たいコンクリートの段に、二人並んで腰を下ろした。
「タツヤさんのこと、好きだったんだよね」
モモは驚いたように顔を上げた。それから、堰を切ったように話し始めた。
「最初に会った時、『モモちゃんは特別だよ』って言われて。それから、ずっと信じてました。他の子にも同じこと言ってるって、頭では分かってたのに、私にだけは本当だって思いたくて。でもミサさんが指名もらってるの知って、頭がおかしくなりそうで……」
「靴、なんで盗ろうとしたの」
「……分かりません。おかしいですよね、自分でも分かってます」
写真も、書き込みも、ポーチのことも、全部、認めた。声は震えていたけど、言い訳はしなかった。夜道の視線も、裏通りのシャッター音も、モモは一つずつ、静かに肯定していった。三つの違和感が、三つとも、同じ一人の人間から出ていたのだと分かった瞬間、私は奇妙な安堵と、それ以上の重い気持ちを同時に感じていた。
ミサはしばらく黙って聞いていた。それから、静かに言った。
「私、笑えないんだよね、モモちゃんのこと」
「……はい、すみません」
「怒ってるからじゃなくて。私も、そのくらい周り見えなくなることよくあるから」
モモが、意外そうな顔でミサを見た。ミサはさらに続けた。
「モモちゃんは、たぶん今、恋愛IQゼロくらいなんだと思う。私はまだ、二くらいはあるから、その分だけ、ちょっと先を歩いてるだけ。同じ道の上にいるのは、一緒だよ」
モモは何も言えずに、また泣いた。今度は、さっきまでの怯えた涙とは違う涙だった。
「掲示板の投稿、消せるだけ消して。写真も。それで、終わりにしよう」
「……許してくれるんですか」
「許すっていうか」ミサは少し笑った。「一途になれるの、才能だと思うよ。使う相手、間違えただけ」
その言葉は、慰めでも説教でもなく、ただの、同じ場所を通った人にしか言えない言葉だった。非常階段の踊り場に、静かな夜風が吹き抜けていった。
その日の閉店後、ママはミサを事務所に呼んだ。私も同席させてもらった。事務所の狭い部屋には、書類の山と、灰皿と、古い扇風機が置かれていた。
ドアが半分開いていて、廊下からユキ姉がひょいと顔を覗かせた。
「男に振り回されてる時期があってもいいけど、いつか卒業しなさいよ。私もママも、昔はミサちゃんと似たようなもんだったんだから」
その一言だけ残して、ユキ姉は事務所を出ていった。ママとユキ姉。この店で一番長く男を見てきた二人は、もう「振り回される側」を卒業して、「上手く転がす側」に回っている人たちだった。その貫禄が、今のミサには、まだ遠い場所にあるように見えた。
「ミサちゃん、モモとはもう話したんだって?」
ミサは頷いた。ママは少し驚いた顔をしたあと、静かに続けた。
「でもね、ミサちゃんにも、ちょっとだけ言っておきたいことがある」
「……なんでしょう」
「今回のことはモモが悪いわ。でもね、タツヤさんのときもそうだけど、もっと自分を大事にして欲しいの」
ミサの顔が、少し強張った。ママは、責める口調ではなく、静かに続けた。
「自分を安売りしてるように見えるところがあるのよ。いろんな男性を知ることは悪いことじゃないけど、まだ若いからね。でも心まで簡単に持っていかれてはダメ」
「安売り」という言葉が、ミサの中に、静かに落ちていった。
「大事にされたいなら、まず、自分を大切にしなさい」
その一言に、ミサはしばらく何も言えなかった。事務所の古い扇風機が、規則正しい音を立てて首を振り続けていた。
帰り道、ミサはぽつりと言った。
「これから、ちゃんと自分を安売りしないようにする」
「モモちゃんのこと、本当に許せたの?」と私が聞くと、ミサは少し考えてから答えた。
「許せたっていうか……忘れないけど、恨まない、くらいの感じかな。あの子が今、恋愛IQゼロの場所にいるの、私は知ってるから。そこから抜け出すのが、どれだけ大変か知ってるから」
「靴、盗られそうになったんだよ。それでも恨まないの、すごいね」
「靴は返ってきたし。それに、一人だったら怖かったけど、マミとの探偵ごっこ、楽しかった」
ミサはそう言って、少し笑った。恨みという感情にエネルギーを使うより、前を向くことにエネルギーを使う方が、コスパがいい。そんな計算高さを、ミサが持てるようになったこと自体が、この一年の一番大きな収穫なのかもしれない。
ゼロから二へ。たった数字二つ分の距離を歩くのに、ミサは一年かかった。モモが同じ距離を歩くのに、どれくらいかかるのかは、まだ誰にも分からない。夜道を歩きながら、私たちはしばらく、それぞれの沈黙を大事に抱えていた。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
恋愛IQ2
アドバイス:誰かに夢中になっている時、自分を安売りしてしまいがちです。あなたの人生、あなたが一番大事にするのべき人ははあなたです。安売りしている人を見るといい気持ちはしないものです。
東京、恋愛IQ2 第7話「対比」
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目にチェックしてください。
□ 過去の恋人と今の自分を比べて、劣等感を持ったことがある
□ 「安定した人生」を見せられると、自分の選択を疑いたくなる
□ パートナーの小さな変化に気づいていても、見ないふりをすることがある
□ 誰かと誰かを比べることでしか、自分の立ち位置を確認できない
□ 「私だけは大丈夫」と思っていたことが、実は一番危なかったと気づいた経験がある
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2のままです。
日曜の夜、ミサとテレビをつけっぱなしにしていたら、新しいドラマの番宣が流れた。主演の名前と顔を見て、ミサの箸が止まった。
「あ」
画面の中で、あの若手俳優が、堂々とインタビューに答えていた。「今回の役に懸けてます」。少し前まで、マネージャーに怒られながらこっそりミサに会いに来ていたカイトが、もうテレビの中で、一人前の顔をしていた。照明の下で、堂々とした立ち姿。数ヶ月前の、緊張した横顔とは、まるで別人だった。
「頑張ったんだね、カイト」
ミサはそう言って、少し眩しそうに画面を見ていた。
「マミ、私、あの時、身を引けてよかった。でも同時に、ちょっと悔しくもある」
「悔しい?」
「うん。あの子はちゃんと前に進んでるのに、私はまだ、同じところをぐるぐるしてる気がして」
その夜、ミサは珍しく、自分から言った。
「私も、ちゃんと成長しないとな」
その一言は、いつもの「今度こそちゃんとする」とは、少し違う響きだった。誰かに言われた反省ではなく、自分の内側から出てきた焦りだった。
「成長って、具体的に何すればいいんだろうね」
「分かんない。でも、テレビの中のカイト見てたら、なんか、悔しさだけじゃなくて、自分も何かしたいって気持ちが湧いてきた」
「悔しさって、いい燃料になるよね、時々」
「マミも、悔しいと思うこと、ある?」
その質問に、私はすぐには答えられなかった。悔しさを自覚するには、まず自分の欲しかったものを、はっきり認めないといけない。私は、まだそこまで、自分に正直になれていなかった。
私は、その言葉を聞きながら、内心ちょっとだけ複雑だった。人の成長を隣で見守るのは得意なのに、自分の成長については、いつも見て見ぬふりをしている。ミサに向けている優しい視線の半分でも、自分に向けられたら、私はもう少しマシな人間になれるんじゃないか。そんなことを思いながら、私は特に何も言わずに、「うーん」とだけ呟いてテレビのチャンネルを変えた。
その週末、私は法事で実家に帰省した。
新幹線の窓から見える景色が、高層ビル群から、次第に田園風景に変わっていく。その変化を眺めながら、私は自分の中の何かも、少しずつ切り替わっていくのを感じていた。車内販売のワゴンが通り過ぎる音、隣の席の乗客の小さな話し声。日常から少しずつ離れていく感覚が、いつも新幹線には付きまとう。東京と地元の間には、こんなにも長い、どちらでもない時間が横たわっている。
法事は、しめやかに終わった。親戚に近況を聞かれるたびに、「東京で元気にやってます」という、当たり障りのない答えを繰り返した。彼氏の話は、聞かれる前に自分から切り上げた。線香の匂いが染みついた喪服のまま、私はしばらく本堂の外で、風に当たっていた。
叔母の一人が、「マミちゃんも、そろそろ落ち着く頃じゃないの」と、悪気なく言ってきた。悪気がない分だけ、その言葉は、するりと胸の奥まで入り込んできた。落ち着く、という言葉の定義を、私はもう長いこと、自分でも曖昧にしたままにしていた。
「もう少し稼げるようになってからですかねえ。まだまだ仕事がんばりたいので」
逃げるようにその場を後にした。
「仕事」を言い訳に亮との関係から目を背けていることは自分でもわかっている。
向こうから見覚えのある男が歩いてきた。夕方の商店街には、惣菜屋の揚げ物の匂いが漂っていた。シャッターを下ろし始めている店もあれば、まだ灯りをつけて営業を続けている店もある。地元の商店街特有の、ゆったりとした夕暮れの空気が、あたり一面を包んでいた。
「あ」
コウキだった。ミサの元カレだ。記憶より少しがっしりした体つきで、片手に、実家の定食屋のロゴが入ったビニール袋を提げていた。日焼けした肌と、少し伸びた無精髭が、地元で働く男の生活感を物語っていた。東京で見かける男たちとは、明らかに違う質感の佇まいだった。
「久しぶり」
コウキは、笑うと、記憶の中の顔のままだった。
「コウキ、元気だった?」
「まあまあ。マミは、元気そうだな」
「元気なような、ないような」
座って話すほどの用事もなく、かといって、すぐに別れるには、あまりに久しぶりすぎた。ちょうどいい距離感が、立ったままの数分間だった。夕暮れの光が、二人の影を長く商店街のアーケードに伸ばしていた。
「そっかミサも、東京で頑張ってるんだな」とコウキが言った。
「頑張ってるかは分かんないけど、なんとかやってる」
「なんとかやってる、で十分だろ。俺だって、なんとかやってるだけだし」
なんとかやっている。その言葉の中に、コウキなりの矜持と、諦めに似た受容が、両方混ざっているように聞こえた。地元に残った人にも、東京に出た人にも、それぞれの「なんとか」がある。どちらが正解かなんて、比べる意味もないのかもしれない。
「はなちゃん、大きくなった?」とマミが聞いた。
「でかくなったよ。もう、パパのこと、完全に舐めてる」
「想像つく」
「お前も、いつか分かるよ、たぶん」
少し沈黙のあと、「ミサ、後悔してたりする?」とコウキが笑いながら聞いた。
マミはしばらく黙ってから、答えた。
「後悔はしてないって。でも、コウキの愛を最近やっと分かってきた気がするって言ってた」
コウキは笑って、「それ、遅すぎない?」と茶化した。
その後も少し他愛のない会話をしてから「頑張れよ、ミサにもよろしく」とだけ言って、片手を上げた。ビニール袋を提げたまま、コウキは商店街の人混みに歩いていった。その後ろ姿を、マミはしばらく見送っていた。コウキは前に進んでいた。住む場所は変わっていないのに。
アヤが私の実家の近くに家を建てたと言うので、会いにいくことにした。
「アヤ久しぶり〜」
「マミ、元気なの?本当久しぶり」
「とうきょうのおねえちゃん?」
足元をみると、天使がいた。アヤの娘のミカちゃん。3歳になったらしい。
「このまえまで赤ちゃんだったのに」
「ね〜、ほんと子供の成長は早いわ。上がってってよ」
新築においがした。
子供用のおもちゃが散らかっていた。
「ごめんね、片付いてなくて」
「いいよ、なんか幸せ分けてもらった気がして嬉しい」
二人は笑った。
そのあとも、誰が結婚したとか、二人目生まれたとか、地元の近況を聞いていた。
「ねえ、マミ東京いて幸せ?」
急にあやが心配した声色で訪ねてきた。
「何急に」笑って返事をしたけど、アヤにはバレていた。
「マミも色々戦っていると思うし深くは聞かないけど、いつでも帰ってきていいんだからね。誰も何も思わないよ」
全てお見通しの顔をしていた。
「まだまだ稼がなきゃだからね〜」
マミはまた仕事に逃げた。
「いつでも帰っておいでね」
「うん、ありがとねまた連絡する」
そう言ってアヤの家を後にした。
その頃、私のスマホには、亮からのLINEが立て続けに届いていた。
「ごめん、今週も忙しい」
「来月なら会えると思う」
「マミ、怒ってる?」
怒っているかどうかより、もう驚かなくなっている自分に、私は少し怖くなっていた。三年間、同じパターンの繰り返しに、感情のセンサーが摩耗していた。
夜、実家の自分の部屋で、私は思い切って電話をかけた。子供の頃から使っている勉強机に肘をついて、受話口に耳を当てる。壁には、高校時代のポスターがまだ貼られたままだった。部屋の空気は、東京の部屋とは違う匂いがした。畳と、古い木材と、母が炊いたご飯の匂いが、微かに廊下から漂ってくる。この部屋にいると、いつも少しだけ、素直な自分に戻れる気がした。
「亮、ちゃんと話したいことがある」
「今? こっちも忙しいんだけど」
「うん。だから、今しかないと思って」
沈黙のあと、亮はぽつりと言った。
「マミって、いつも、都合のいいタイミングでしか怒らないよな。今まで、ずっと我慢してきたみたいな顔して」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。都合のいいタイミング。私はずっと、「ちゃんとしてる側」でいるために、怒るタイミングすら選んでいたのかもしれない。
「亮、正直に言って。私たち、もう終わってる?」
長い沈黙のあと、亮は小さく言った。
「……分からない。でも、マミといても、最近、何も感じなくなってる自分がいる」
「そっか」
「ごめん」
「ずるずるいくのはお互いのために良くないね、私も前に進まなきゃだし」
受話口の向こうで、亮の声が、最後にもう少しだけ続いた。「マミには感謝してる。本当に」。その言葉を、私はどう受け止めればいいのか分からなかった。感謝と別れが、こんなにもあっさり同居できるものだとは、知らなかった。その一言で、三年間の答え合わせが、静かに終わった。
翌日、地元を離れる新幹線の中で、私はほとんど眠っていた。窓の外を流れる景色を、時々薄目を開けて眺めながら、また元の日常に戻っていく心構えを、少しずつ整えていた。地元と東京、二つの場所を行き来するたびに、自分の中の違う面が、交互に呼び覚まされる。それもまた、悪くない生き方なのかもしれない。
東京駅に着いて、雑踏の中に足を踏み入れた瞬間、体がまた自然と、東京仕様のスイッチに切り替わるのを感じた。早足で歩く人々、絶え間ない電車のアナウンス、どこまでも続くビルの群れ。この街の速度に、いつのまにか、私たちはすっかり馴染んでしまっていた。馴染んだことが良いことなのか悪いことなのか、答えはまだ出ないけれど、少なくとも、帰る場所が二つあるという事実だけは、今の私を、確かに支えてくれていた。
家に帰り着いた頃には、もう夜になっていた。
ベッドに入る前、私はスマホを開いて、亮とのトーク画面を、もう一度だけ見た。今度は、何かを期待するためではなく、ただ、区切りをつけるために。既読のまま止まった会話履歴を、そっと下にスクロールしていく。三年分の言葉のやり取りが、そこには詰まっていた。読み返すことはもうしない。そう決めて、私は静かにスマホの画面を暗くした。
布団に入って、天井を見上げる。地元で見た満天の星と、この部屋から見える東京の夜空を、心の中で並べてみた。見える景色は全然違うのに、その両方の下で、私は確かに生きている。どちらか一つを選ぶ必要なんて、本当はないのかもしれない。そんなことを考えながら、私はゆっくりと、深い眠りに落ちていった。
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東京、恋愛IQ2 第8話「私は別、だったのは」(最終話)
【恋愛IQ診断】
当てはまる項目をチェックしてください。
□ 「自分だけは特別」と思ったことが、何度もある
□ 「私は、ああはならない」と思っていた相手と、気づけば同じ場所に立っていた
□ 誰かを見送るとき、寂しさの中に、少しの安心が混じっていたことがある
□ 自分を大切にすることと、誰かに大切にされることの順番を、間違えていた気がする
□ それでも、次の朝が来ると、また誰かを信じたくなる
3つ以上ついた人へ。
あなたの恋愛IQは、たぶん2です。これは、私たち二人の話です。
亮とのことは、あの夜の電話で、もう終わっていた。東京に戻ってから、荷物を宅配便で送り返して、鍵を返却して、それで本当に何もかもが終わった。ドラマチックな最後の一幕は、なかった。
宅配便の伝票に、彼の新しい住所を書き込みながら、私は不思議なくらい淡々としていた。もっと感情的になると思っていた。もっと涙が出ると思っていた。でも、実際に手を動かしてみると、そこにあったのはただの事務作業だった。感情は、いつも予告なしに、思わぬタイミングでやってくるものなのかもしれない。
段ボール箱に、彼の私物を詰めながら、私は自分でも意外なくらい、手が震えなかった。歯ブラシ、着替え、うちに置きっぱなしだった充電器。三年分の生活の跡は、箱ひとつに、思ったよりあっさり収まった。人の存在の重さと、荷物の重さは、必ずしも比例しないらしい。ガムテープを貼る音だけが、静かな部屋に響いた。
箱の底から、付き合い始めた頃にもらった、小さなキーホルダーが出てきた。とっくに忘れていた存在だった。捨てるかどうか、少しだけ迷って、結局、箱の中に戻した。思い出ごと、まとめて送り返す。それが、一番きれいな終わり方な気がした。
家に帰ると、ミサが味噌汁を作って待っていた。具は豆腐とわかめだけの、いつもの味噌汁だった。湯気の向こうに、ミサの顔がぼんやり滲んで見えた。
「全部、終わった?」
「終わった」
「お疲れ様」
それだけの会話で、十分だった。
「泣かないの?」とミサが聞いた。
「泣くタイミング、逃した気がする」
「それもそうか」
ミサは何も言わずに、もう一杯、味噌汁をよそってくれた。多めに入っていた。優しさの分量を、椀の中身で表現するタイプの人間が、この部屋にはもう一人いる。
「ねえ、マミ。この一年、私たち、色々あったね」
「ほんとだね」
「うん。でも、なんか、悪くなかったなって、今は思える」
悪くなかった、という総括が出せるようになるまでに、どれだけの遠回りが必要だったのか。数えるのは、もうやめにしようと思った。
「二人だから乗り越えられた感はあるね」
「しかし、東京には魔物がいるね〜」
「なに、魔物って」
二人は笑いながら味噌汁を飲んだ。
その週末、ミサは私に、思いがけない報告をした。土曜の朝、リビングのテーブルに、ノートパソコンとノートを広げて、真剣な顔で何かを書き込んでいた。
「マミ、私、ワーホリ行くことにした」
「え」
「オーストラリア。ビザの申請、もう調べ始めてる」
ノートには、几帳面な字で、必要書類のリストと、大まかなスケジュールが書き込まれていた。思いつきで動くタイプだったミサが、こんな風に計画を立てている姿を見るのは、初めてだった。
一瞬、耳を疑った。この一年、ミサの口から「変わりたい」という言葉は、数えきれないほど聞いてきた。でも今回は、言葉の後ろに、初めて具体的な計画がくっついていた。
「なんで急に」
「急にじゃないよ。ずっと考えてた」
「いつから」
「たぶん、坂本さんの奥さんに『帰りたくなる女になりなさい』って言われた頃から。あの時、私、自分の帰る場所が、東京のどこにもない気がしたの。マミの部屋に居候してるだけで、自分の場所じゃないっていうか」
「私の部屋、居心地悪かった?」
「そうじゃなくて。自分の力で生きてみたいの」
ミサは少し照れくさそうに続けた。テーブルの上のノートを、指先でとんとんと叩きながら。
「私、地元から東京に出てきて、この一年で、ちょっとは変わったと思うの。れんくんに騙されて、タツヤさんの疑似恋愛見て、坂本さんの奥さんに言われて、コウタの件で痛い目見て、カイトのために身を引いて、モモちゃんを許して。全部、ちょっとずつだけど、確かに私を変えた」
「マミは、覚えてる? 私が最初にここに転がり込んできた日のこと」
「覚えてるよ。荷物、キャリーケース一個だけだった」
「あの時の私、東京に来れば何かが変わるって、本気で思ってたんだよね。今思うと、笑っちゃうくらい浅はかだった」
「浅はかじゃないよ。ただ、順番を間違えただけ」
「順番?」
「場所を変える前に、自分の中の何かを変えなきゃいけなかったのに、場所を変えれば自動的に自分も変わると思ってた。その順番の勘違いだけだよ」
その分析に、ミサはしばらく黙り込んでから、小さく頷いた。「今度は、順番、間違えないようにする」。その言葉には、初めて、根拠のある自信のようなものが滲んでいた。
「マミも、一緒に来る?」と、ミサが冗談めかして聞いてきた。
「行かないよ。私には私の場所があるから」
「その場所、東京なんだ」
「今のところはね。分かんないけど」
分からない、という言葉を、私はもう何度この会話の中で使っただろう。でも、今回の「分からない」は、これまでの逃げの「分からない」とは、少しだけ違う手触りをしていた。答えを探し始めている途中の、前向きな分からなさだった。
ミサはノートを閉じて、大きく伸びをした。「じゃあ、私たち、それぞれの『分からない』を、それぞれの場所で育てていこうか」。その言い方が、なんだかおかしくて、私は声を出して笑った。育てる、という言葉が、分からなさという曖昧なものに使われているのが、妙にしっくりきた。答えのない問いを、焦らず育てていく。それも、悪くない生き方なのかもしれない。
その夜遅く、私は一人でベランダに出て、東京の夜景を眺めた。無数の灯りの一つ一つに、誰かの生活がある。誰かの喜びと、誰かの後悔と、誰かの決断が、この街には数えきれないほど詰まっている。その中の、ほんの小さな一つが、私たちの物語だった。小さくても、確かに、私たちだけの物語だった。
ベランダの手すりに寄りかかって、私はしばらく、来月からのミサのいない生活を想像してみた。想像するだけで、少し寂しさが胸をよぎる。でも、その寂しさの奥に、確かな期待もあった。ミサがいなくなった部屋で、私は何を始めるだろう。何を選び、何を手放すだろう。答えはまだ出ないけれど、問いを持てるようになったこと自体が、この一年の、一番大きな収穫だった。
数日後、私たちは並んで、ミサの私物の片付けと荷物の準備をした。段ボール箱に、ミサの私物を一つずつ詰めていく。「これ、いる?」「いらない、捨てて」というやり取りを、何度も繰り返した。一年分の生活の跡が、少しずつ箱の中に収まっていく様子は、どこか、私自身の一年を、外側から見ているような感覚だった。
片付けも落ち着いた頃、「マミ、最後に、乾杯しない?」とミサが提案してきた。冷蔵庫に残っていた缶チューハイを二本、二人でカチンと合わせる。特別な言葉は何もいらなかった。ただ、この一年間、隣にいてくれたことへの、静かな感謝の気持ちだけが、その一瞬に込められていた。
チューハイを飲みながら、ミサがぽつりと言った。
「マミ、私がいなくなっても、ちゃんとご飯食べてね」
「子供扱いしないでよ」
「してないよ。ただの、心配」
その一言に、私はなんだか無性に、笑いたいような、泣きたいような気持ちになった。支えられてきたはずのミサが、今、こんなにも私のことを心配してくれている。この一年で、私たちの立場は、いつのまにか、何度も入れ替わっていた。
空になった缶を、ミサはきちんと潰して、ゴミ袋にしまった。その几帳面さも、この一年で身についた新しい習慣の一つだった。細かいことに気を配れるようになったミサを見ながら、私は静かに、彼女の成長の跡を数えていた。数えきれないほどの小さな変化が、今、こうして一つの大きな決断に繋がっている。
窓の外を見ると、隣の部屋の灯りが、一つ、また一つと消えていくのが見えた。夜が更けていく街の音を聞きながら、私たちはもうしばらく、他愛のない話を続けた。特別な締めくくりの言葉はいらなかった。ただ、いつも通りの夜を、いつも通りに過ごせることが、この状況では、一番の贅沢だった。
これからの毎日が、少しずつ形を変えていくことを、私たちはもう知っていた。それでも今夜だけは、変わらない二人の時間を、最後まで大切に過ごしたかった。
「怖くない? 知り合いもいない場所で、ゼロからやるの」
「怖いよ。すごく怖い。でも、ここにいたら、私は絶対、また同じことする。それだけは、分かるようになった」
その「分かるようになった」の一言に、私はこの一年分の答えを見た気がした。
「向こうでの生活費とか、ちゃんと計算した?」
「したよ。バイトも探し始めてる。最初の三ヶ月分だけは、貯金でなんとかする」
「ちゃんと大人じゃん」
「一応ね、これでも二十八だから」
計画性という言葉が、これほどミサに似合う日が来るとは、正直、思っていなかった。人は変わる。ゆっくりでも、確実に。
出発の準備をする中で、ミサはキャバクラも辞めた。最後の出勤日、店の照明がいつもより少し眩しく感じられた。同僚たちが、代わる代わる声をかけてくる。ユキ姉が「また戻ってきたら、いつでも席空けとくから」と笑い、タツヤさんは相変わらず新しい「本命」の写真を見せながら、「ミサちゃん、いなくなったら寂しいなあ」と、いつもの軽さで言った。
「タツヤさんは、ずっとそのままでいてくださいね」
「それ、褒めてないよね」
「褒めてないです」
モモは、閉店後にこっそりミサのロッカーに小さな菓子折りを置いていった。カードは添えられていなかったけれど、ミサにはそれで十分だった。
出発の前夜、私たちは最後の晩ごはんに、コンビニの惣菜を並べた。何の変哲もない、いつも通りの夜にしようと、二人で決めていた。テーブルの上には、唐揚げとポテトサラダと、缶チューハイが二本。
「マミ、聞いていい?」
「なに」
「マミも、『私は別』って、ずっと思ってたでしょ。私みたいにはならないって」
図星だった。私は答えられずに、しばらく黙った。
「思ってた。ずっと」
「でも、亮さんのこと、結局、同じだったよね」
「うん、痛いところつくね」
「私も同じ。ずっと『私は特別に愛される』って、心のどこかで思ってた。相手を変えても、いつも同じことを期待してた。全員に、コウキと同じものを求めてた」
ミサは静かに続けた。
「『私は別』って、たぶん、一番危険な口癖だったんだよね。マミも、私も」
その一言が、今までのどの反省よりも、深く、二人の間に落ちた。
成田空港の出発ロビーは、やけに天井が高い。搭乗客の足音と、アナウンスの声が、広い空間に反響していた。大きなキャリーケースを引く旅行者たちが、それぞれの目的地に向かって、忙しなく行き交っている。この空間だけ、東京の日常から切り離された、独特の時間が流れているように感じられた。
「マミ、そんな深刻な顔しないでよ。オーストラリア行くだけだから」
「行くだけって顔じゃないでしょ、それ」
「バレた?」
ミサは笑った。キャリーケースには、ステッカーがべたべた貼ってある。
「向こうでも、優しくされたら好きになりそう?」
「なるかも。でも今度は、好きになる前に、一回、立ち止まる練習をする」
即答じゃないところが、逆にリアルだった。
搭乗案内のアナウンスが流れる。ミサはハグをしてきて、私の肩に顔を埋めた。
「マミ、ありがとうね。居候させてくれて。キャバクラも紹介してくれて」
「紹介したこと、後悔してるけどね」
「私は感謝してる。あの一年で、いろんな人に会えたから」
保安検査場の手前で、ミサは一度だけ振り返って、大きく手を振った。それから、列に戻って、金属探知機の向こうに消えた。
ゲートに向かって歩いていくミサの背中を見ながら、私は不覚にも泣いた。かっこ悪い見送りだった。
泣きながら、私はふと気づいてしまった。この涙には、寂しさだけじゃなくて、ほんの少し、安心も混じっている。ミサがいなくなれば、自分も「支える側」の仮面を、やっと外せる。そのことに、心のどこかでほっとしている自分がいた。
でも、泣きながら私は、ちゃんと分かっていた。ミサは、地元から東京へ来て、少しだけ変わった。そして今、東京から、その先へ行こうとしている。これは逃げる旅ではなく、続きの旅だった。
分かっていて、それでも泣いた自分を、私は今回だけは、恥ずかしいと思わなかった。
ミサがいなくなった部屋は、想像より広くて、想像より静かだった。洗面所にミサの歯ブラシがまだ立っていた。捨てようとして、捨てられなかった。
「私も、なんかしなきゃな」
誰に言うでもなく呟いた言葉が、思ったより本気だった。
その夜、私はクローゼットの奥から、あのミシンを引っ張り出した。ボタン付けのためじゃなく、何かを最初から作るために出すのは、何年ぶりか、もう思い出せなかった。埃を払うと、古いモーターの匂いがした。
これまで受けてきた仕事は、いつも決まった枠の中だった。ドラマの衣装、広告の現場、慣れた段取りで、慣れた服を、慣れた手つきで着せる。安全で、失敗もしない代わりに、心のどこかは、ずっと凪いだままだった。
その凪を、初めて自分で揺らしてみることにした。前から気になっていた、若手デザイナーの発掘オーディションの募集要項を、私は開いた。締切は、一ヶ月後。「未経験者歓迎」の文字を、今までは見なかったふりをしてきた。
一枚、型紙を起こしてみる。下手だった。当たり前だ、何年も触っていなかったのだから。それでも、布にハサミを入れる瞬間、指先が覚えている感覚があった。
誰かに着せる服ではなく、誰かが着たくなる服を、初めて自分で考えていた。
その夜、ミサから写真が届いた。オーストラリアの、青すぎる空の下で、少し緊張した顔で笑っている写真。「着いた」の一言もなく、写真だけ。それがミサなりの「元気」の報告なのだった。
私は「帰りたくなる女の顔してるじゃん」とだけ返した。三分後、返信が来た。
「まだ早いよ」
その一言に、私は声を出して笑った。
私たちは、あの町を出て、結局、何をしにこの街へ来たんだっけ。
答えはまだ、はっきりとは出ない。でも今は、その問いを、それぞれ違う場所で、それぞれのペースで抱えていけることだけは、分かっていた。
窓の外で、東京の空が、やけにきれいに晴れていた。ミシンの上に置いたままの型紙が、風に軽くめくれて、また元の場所に戻った。まだ何も完成していない。でも、何かを始めた、という事実だけで、今夜は十分だった。
【恋愛IQ診断 結果フィードバック】
ミサ:恋愛IQ2
マミ:恋愛IQ2
アドバイス:「私は別」だと思った瞬間こそ、一番気をつけてください。それは、私たち二人からの、最後の助言です。
(完)