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『火星の砂 ~雨が降り、風が来て、母は去る~』

    作:池葉 良

    THE SANDS OF MARS — The Rain Falls, the Wind Comes, and Mother Leaves

    By Ryo Ikeba




    ・声の三部作、その3
    ・作品の時代設定:1990年代の終わり
    ・
    初出:1993年6月/note向け編集:2026年6月




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    I 落下


    1. 火星の呪い


     クーパー少佐が駆動エンジンの異常を知ったとき、人類初の火星着陸探査船は引き返せなくなっていた。船外に向いているカメラは、真っ赤な大地が接近してくる様子を淡々と送ってくる。

     高度250キロを周回する指令船に残ったフルガム技師が、冗長検査信号に含まれるビット・エラーを無線で告げる。それは、この着陸船に乗るふたりが、もうどこにも帰れないことを意味していた。

     クーパーは反射的に天を仰ぐ。

     船長のアルブレヒトが冷静に「了解」と返し、続ける。

    「着陸地点の座標を確認」

     クーパーと指令船のフルガムが同時にそれぞれの計器を確認して、座標を突き合わせる。当初の計画の場所、シドニア地区のはずれに降下している。

    「大気組成の最終確認」

     アルブレヒトの命令と同時に、クーパーはセンサーから送られてきたデジタル信号の分析結果を読み上げてからつけ加える。

    「地球とほとんど同じです」

     アルブレヒトが視線を送ってくる。クーパーは小さくうなずく。

    「教科書がずっと間違っていたのです」


    「それとも、NASAがずっと真実を欺き続けてきたか。たくさんしゃべるのに本当のことをしゃべらない奴が世界には多すぎるようだ」


     アルブレヒトの言葉と同時に、着陸船に付けられた5つの落下傘が一斉に開く。足の裏から突き上げてくる衝撃が2度。自由落下から軟着陸態勢にかわったことを告げる。

    「とりあえず、ホールトマトのようにグニャっとならずにすむ」

     アルブレヒトの皮肉が続く。
     クーパーはそれを無視し、地表レーダーの陰影を読む。

    「10時の方向から直径推定一マイルほどの移動してくる影。輪郭が炎のように揺らいでいます」

    「砂嵐だ、多分。それが通り過ぎないと地表には出られない」

     今度はクーパーが視線を送る。船長は火星の地表をローバーで探索する計画を実行するつもりらしい。しかしその瞳は無感情だ。

    「来たぞ」

     アルブレヒトが鋭く言う。ふたりは船外用の宇宙服に着替えずに、座席に深く座り込む。手際よく固定ベルトをロックする。船外に向くレンズをサーモン・ピンクの煙が覆い、着陸船の目を潰したことがわかる。

     船体に叩きつけられる砂の容赦ない音が断熱隔壁板を次々と通過し、船内に乾いた震動を伝える。そこに、微かな叫びのような音が混じった。クーパーは一瞬、息を呑む。

    「制御は?」

     アルブレヒトの声が彼を引き戻す。アルブレヒトには聞こえていない。

    「バランス制御指数2。駆動エンジンの出力30。パラシュートで着陸させようとした連中に礼が言いたいですね」

     クーパーは汗を滲ませている。火星の声から逃れるために、続ける。

    「たくさんしゃべるのに本当のことは言わないというのは、ネイティブ・アメリカンの台詞でしたよね」

    「イーストウッドの映画じゃなかったかな」

     船体が大きく傾く。右、左、右と交互にひねられ、ふたりのやりとりは一瞬で消える。目だけでなくパラシュートも完全に死に、自由落下に変わる。

     アルブレヒトとクーパーはまだ覚悟が定まらない。ふたりは同時に両目を閉じる。まだ耳は聞こえる。砂嵐の中に再び音が混じる。か細い、微かな叫び。目を見開くクーパー。

     上空からフルガムが無線で呼びかけてくる。受信ランプが明滅し、緑から赤になる。着陸船は火星の大地に落ちる。閃光が走り、真っ暗になる。


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    2. 火星の住人<マーシャン>


     頭の遠くで聴こえる鳥の羽ばたきと口の中に鉄の味。クーパーが意識をとり戻して瞼を開いたときに目に入ってきたのは、自分たち以外の人間だった。ネイティブ・アメリカンに非常によく似た男たち。おそらく5人。

     彼らのひとり、鳥の見事な羽飾りをつけた男が、ふたつに裂けた着陸船の近くに横たわっているアルブレヒト船長に水を与え、別のふたりは首を垂れている。祈りを捧げているように見える。残りのふたりは壊れた船の隔壁板を撫でまわしている。残骸が断続的に見せる金属部分の光沢に魅せられている。

     アルブレヒトは苦しそうだったが、丁寧に礼を言っている。クーパーの視点はようやく定まり、引き締まった赤銅色の身体に巻き付けられた薄汚れた布を見る。水の器はちょうど両目の上から半分に割った頭蓋骨。

     クーパーは首をゆっくりと動かす。真上に夕焼けのような空が広がり、風があり、太陽の光が広がっている。地球より遠くにあるその光は弱く、空は低い。呼吸は楽にでき、特別に寒くもない。そして火星の住人、マーシャンがいる。彼らはネイティブ・アメリカンそのものに見える。

     クーパーの目は周囲の事実をいくつか見てとるが、思考がまったく働かない。腰に痛みを覚えながらも、彼は縦に裂けた船をもう一度見ることにする。

     銀、金、灰色。散らかった人類の破片。お昼寝の前に散々遊んだままのおもちゃのような散らかりようが、絶望になる。

     完全に破壊された格納ブロックから放り出され、横転している火星探査用のローバー。

     割れた保護ケースから飛び出しているクリーム色の帰還用固形燃料。

     固形燃料の近くで、火星滞在用の食糧のコンテナが容器ごと次々と燃えて灰になっていく。

    灰と煙の向こうに、スターズ・アンド・ストライプスの入ったパラシュートが外れかかった断熱隔壁板にからみつき、やわらかな風に揺れている。さらにその向こうには、去っていくサーモン・ピンクの砂嵐。


     クーパーは黙ったままこれらを見る。船長やネイティブ・アメリカンに声をかけることができない。再び意識が遠のきそうになったとき、訓練を積んだ宇宙飛行士としてまず頭に浮かんだことは、この不毛の星で何日生きられるのかということだった。それはすぐに計算できた。

     頭は焦点を近づけたり遠ざけたりしていて、五感も怪しい。が、結果は明白だった。

     彼は口の中の砂を唾とともに吐き出す。鉄の臭い。顔を上げる。マーシャンはいない。消えている。アルブレヒトが静かに眠っている。その上に広がる淡い夕焼け雲を、虹色の鳥のような形に切り裂きながら、フルガムを乗せた金色の指令船が飛んで行く。

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    3.スーパーコピー


     火星で迎えた初めての夜は快適だった。気温も湿度も問題なく、天候も穏やかで、その理由はわからない。ただ、夜空の彼方で白く燃えている星々のきらめきがよく見えた。

     クーパーは肩と腰に鈍い痛みを覚えていたが、いつも通りに動くことはできた。

     アルブレヒトは左の足首あたりに傷を負っていて、宇宙服の裾が膨れあがっている。クーパーは靴を脱がすことは控えることにした。ファーストエイドのキットが見つからないので、引きちぎって集めた断熱材で船長を覆った。船長は眠っているように見える。

     クーパーは顔を上げ、地球よりも近くに感じられる地平線の上に輝く星々を、もう一度ながめる。地球を探していることを除けば、アメリカ大陸の荒野に座って星座を見ているときとまったくかわらない。火星の月フォボスとダイモスが、地球より円弧の強い地平線にひっかかっていた。どちらも消炭色のジャガイモのようで、いびつだった。

     その鈍色のふたつの月明かりの下に、狼煙がひとすじ、立ち昇った。


     翌朝、暗い紫色の朝焼けが薄暮のように空に広がる。火星に墜ちて初めての朝。赤い地表には白い羽毛が漂っている。靄のようだが、クーパーには判然としない。薄い布のようにも見える。

     クーパーは、眠っているアルブレヒトの呼吸の様子を確かめ、規則正しい呼吸音を聞いてから、あたりの様子も確かめた。昨夜見た狼煙の方角を見やると、赤錆色の細かな砂が流れるように広がる大地が続いている。青く輝く細い筋が行き先を示すかのように何本も伸びている。クーパーは促されるように歩き出して着陸船の残骸から離れる。


     火星の砂に足を取られながら、クーパーは青い筋に惹かれるように進む。足元に注意を払って歩いていると、屹立する真っ赤な壁に突き当たった。オーストラリアのエアーズロックを思い出すが、高さがあり、頂上の方には巨木の幹らしいものがいくつも見える。

     クーパーは〈エアーズロック〉に沿って右手にまわった。無意識のうちに青い筋の伸びている方向を選んでいる。大地から空に目を移す。どこにも狼煙を上げている者はいない。どこからも狼煙は上がっていない。

     代わりにピラミッドが目に入る。民家ほどの高さのピラミッド。整然と並び、おそらくどこから見ても正三角形。どれも肌色の大理石で覆われていて、地球のピラミッドよりもずっと新しく見える。

     無神経なまでに整然と区画整理されたピラミッドの街が続いている。

     クーパーは左右のピラミッドの陰に注意しながら、〈街〉の中心の通りを歩き始める。マーシャンはおらず、完全に静かで、歩を進めるたびに足に絡む砂の木霊だけが思慮深く広がる。

     奥行きが怪しい。計算が合わない。〈エアーズロック〉の向こうまで続いているように見えていたピラミッドがすぐに途切れる。木霊も消える。

     そして、そこには街にふさわしい小さな店がある。アメリカの街中で見かけるコンビニエンスストア。看板のデザインと配色からクーパーはそう思ったが、看板にもガラスの入り口にも、どこにも読める文字はない。

     考え始めると大脳が沈んでいくことに、クーパーは気づく。だから、はめ殺しのウインドウ越しから静かに店内を覗く。無人。陳列棚があり、商品がぎっしりと詰まっていて、温かな照明がそれらを照らしている。

     彼は慎重に入口のガラス戸を押す。冷蔵陳列棚からもれる冷気の匂いと業務用冷蔵庫のかすかなうなりを察知したが、まったく違和感も遠慮もない。

     彼はもう一度慎重に店内を見渡す。誰もいない。万引防止用のカメラが天井の隅に設置されている。レンズのフォーカスリングを見ると、SONYと読めなくもない崩れた文字が刻まれている。床材は緑色のリノリュームで、複数の足跡が残されている。

     クーパーは一度深呼吸をしてから、店内の水と食料を探した。

     ツナとコンビーフ、ホールコーンとミックスベジタブル。棚にあるだけ持ち出す。自分のたてる音がやけに大きく聞こえる。缶切り、ライター、日付もメーカーも滲んだ包装のライ麦パン、ネッスルのデザインに酷似したインスタント・コーヒー、ミネラル・ウォーター、コーラとまったく同じ形のビンに詰まった黒い炭酸飲料。ポール・ニューマンに似た顔の印刷されたホームメイド・レモネイドのカートン、生のアスパラガス、スモークド・ターキーのパック、生のトマト、ベルギーのブランドに似た印のあるチョコレイト。

     無心にかき集め、レジのカウンターに並べていく。

     ネイティブ・アメリカンもだれも出てこなかった。どちらにしても、金などもっていないのだ。

     クーパーは少しためらってから、レジカウンターの内側に入り、見つけたビニール袋に食料品を詰め込めるだけ詰めてから、店を出る。

     店を出るとき、レジスターのわきにぶら下がっているサタディナイト・スペシャルに気づく。その22口径の回転式拳銃は、アメリカで売っているようにビニールに包まれている。

     クーパーはそれもビニール袋に入れる。



    「小さな店があったんです。ほとんど何でもそろっていました」

     クーパーが火星に存在する店の話をすると、アルブレヒトは見返してくる。

    「私は昨日、インディオに水をもらった記憶がある」

    「えぇ、知っています」

     アルブレヒトの瞳が曖昧になる。クーパーはその瞳に注意を払いながら、マーシャンが残していった頭蓋骨に店で手に入れたミネラル・ウォーターを入れ、固形燃料の炎にかける。


     アルブレヒトは真っ赤に熟したトマトを手にし、焦点を合わせる。

    「本物でしょう?」
    「本物だ。そのチョコレイトも、本物だ」

    「ライターも。缶切りも、ライ麦パンも」 
     そう言いながら、クーパーは銃を見せる。アルブレヒトの瞳がはっきりとする。体を起こしかけ、反射的に体を戻す。眉間に走った皺は痛みなのか銃なのか、クーパーにはわからない。

    「ご存知、使い捨ての銃です。ティーン・エイジャーが街で金を奪うのに使うやつですよ」

     アルブレヒトは首を振る。眉間の皺が深くなる。

     ふたりは着陸船の残骸の合間から火星の風景を見ながら、黙ったまま食事をとる。沸かした湯でインスタント・コーヒーをつくり、頭蓋骨の器で交互に飲む。久しぶりに素晴らしい味がふたりの口の中に広がる。

     ふたりの目に入る風景はシドニア地区と呼ばれる平地で、そこには古代遺跡が聳えている。その位置から見ると、クーパーの前に現れた〈エアーズロック〉が、1970年代にヴァイキング1号が火星を35周したときに撮った〈火星の人面岩〉であることがわかる。

     NASAは光と影の偶然だと説明していたが、その大地に墜ちた人間は、それが悲しみをたたえた人の顔だと知る。巨石文明の遺跡は、火星の天空を通して宇宙をずっと見ている。

     クーパーは〈人面岩〉の上空に伸びていく金色の糸に気づく。火星着陸も地球帰還もできない有人火星探査の指令船。

    「フルガムに連絡がとれればいいんだが」

     アルブレヒトが言った。
     彼は、スモークド・ターキーのサンドイッチをふた切れ食べてから、コーラに似た黒い飲料で抗生物質と消炎鎮痛剤を飲み込んだ。コンビーフのサラダには手をつけなかった。

    「無線は壊れています。修理をしてみますが、いくつかの部品がなければ、まず直らないでしょう」

     クーパーが言った。

    「その、えぇ、店に、部品は売っていないかな」
     アルブレヒトが遠慮がちに言った。

    「その手のものはなかったと思います。もう一度確認してきます。他に何か要りますか?」 

     クーパーが訊くと、アルブレヒトは目を閉じた。

    「あれば本とウィスキーを頼みたい」


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    II 雨


    4. 生贄


     クーパーが無人のコンビニエンスストアから小型無線機とウィスキーを持ち帰ると、アルブレヒトがいなくなっていた。頭蓋骨の器も消えている。

     クーパーは固形燃料の燃えた跡に手をかざす。暖かい。彼は着陸船の残骸周辺を見てまわる。アルブレヒトはいないが、入り乱れた裸足の足跡が見つかる。すぐに昨日目撃したネイティブ・アメリカンを思い出す。

     クーパーは、チョコレイトとミネラル・ウォーター、サタディナイト・スペシャルを持ち、裸足の足跡を徒歩でたどっていく。それは〈人面岩〉とピラミッドの〈街〉の方向に続いている。誰ともすれ違わなかったのに、裸足の足跡はクーパーの往復の道筋に重なっている。

     クーパーは向かう。

     〈人面岩〉、ピラミッド、コンビニエンスストアをこえて、さらに続く足跡をたどる。足がすっかり沈んでしまうような砂の川が待っている。そこに踏み込むと、すぐに汗が滲んだ。クーパーは水を飲み、砂の川を渡り終える。

     溶岩流を思わせる黒い石がなだらかに続く丘を作っていて、砂の川岸と丘の境界に石の門がある。巨大な方形の一枚岩でできていて、アンデス文明が南米の高地に残した〈太陽の門〉とまったく同じに見える。地球でレクチャーを受けていたクーパーには、すぐにそれが地球のものと同一のデザインであることがわかる。両手に杖をもった神、その左右には翼をもつ者たちの走る姿が石刻されている。アナサジ族の〈太陽の短剣〉と同じで太陽の昇ってくる方角を示している指標なのか、どうしてここにあるのか、それはクーパーにはわからない。

     わからないまま、クーパーがその門を通して丘の上に視線を送ると、そこに鳥の見事な羽飾りが見える。

     クーパーはミネラル・ウォーターの最後の一口を飲み、混じった砂を吐き出すと、〈太陽の門〉をくぐる。先ほど渡ってきた砂の川の行き着く先、砂の海で赤い砂が首をもたげる。東洋の伝説にでてくる龍のように、火星の天に向かって昇りはじめる。

     クーパーは〈太陽の門〉から続くなだらかな斜面を慎重に歩く。鳥の見事な羽飾りは、藍色の石の上に飾られていることがわかる。そのまわりにネイティブ・アメリカンたちの影が立っている。影の先には同じ藍色の石の台がある。クーパーはそこに向かって猛然と歩を進める。石の台に横たわるアルブレヒトの頭が見えたからだ。

     五人のネイティブ・アメリカンは、顔に赤と黒の迷彩をほどこし、右手に石斧をもっていた。誰もが顎をくっと上げ、静かに佇んでいる。その立ち姿は、大地に対する深い敬意を超え、宇宙すべてへの感謝の念から覚える敬虔さによってでしかできないもののように見える。

     白くて長い羽根の冠をかぶる男が、墜落した時に見た見事な羽飾りをかぶった男だとわかる。あの時にアルブレヒトに水を与えていた姿が再現されている。ただし、頭蓋骨の器でアルブレヒトに与えている飲物は今度は白い。


     クーパーは胸騒ぎを抑えながら、砂と石ころだらけの斜面を上りきる。小さくて黄色い太陽が真上で輝き、クーパーのあごで汗の滴が輝く。クーパーを前にしても、ネイティブ・アメリカンはみな無言だった。アルブレヒトの声もなかった。

     白頭鷲の男が両腕を広げ、十字架になった。大胸筋が強靭なばねのように伸び、後背筋がムササビのような影をつくった。その右手に頭蓋骨、左手に石斧が白く輝いている。

     風が止み、時が止まった。クーパーはサタディナイト・スペシャルを手にした。


     男の頬に深い皺が刻まれてから、声があった。周囲のネイティブ・アメリカンが跪き、錆びた大地に額をすりつけた。その先には横たわるアルブレヒト。

     風が甦り、太陽が静かな熱を余分に与える。火星の地平線が揺らめき、天に登り詰めた赤い龍のもとで遠雷が轟く。


     クーパーは石の台の前に立ち、ネイティブ・アメリカンたちを見回した。彼らは何の反応も見せない。クーパーはサタディナイト・スペシャルを構えなおしてからアルブレヒトと石の台を見下ろした。

     その石の台は、中央アメリカの古代文明においてチャクモールと呼ばれる男性臥像と同じもので、神々への供物である生贄の心臓を置くものだ。


     アルブレヒトはふと目を開き、不思議そうな面持ちでクーパーを見返す。

    「彼らがここに連れて来たんですね?」
     クーパーが確かめるように訊くと、アルブレヒトは静かに答える。

    「そうだ。私が望んだ」

    「何ですって?」

    「苦しみをとりのぞいてくれるからだ」

     クーパーはアルブレヒトをもう一度見る。

    「この台は生贄がのせられるものです、船長。それに彼らは石斧をもっています。それとも彼らの宗教を信じて、蘇りますか?」

    「君も辛辣だな。インカやマヤ族だったかのように、彼らも生贄の心臓を必要とするのかね? 彼らが石斧をもっているからといって、銃を持ち出すのは正しくないだろう」


     地に伏したネイティブ・アメリカンたちは動かない。ひとりだけ木のように立っている白頭鷲の男は、両腕を広げたまま、半眼でふたりの会話を見ている。

    「なぜ、ネイティブ・アメリカンなんです? なぜ、儀式があるんですか? ここは火星でしょう。ここには店がある。〈太陽の門〉がある。生贄の儀式まである」

     クーパーが言った。そして、慎重に周囲を見回した。


     そのとき、アルブレヒトが半身を起こした。たまりかねたように眉を寄せ、乾ききった唇を腕でぬぐった。

    「なぜネイティブ・アメリカンなのか、と君は訊く。火星だからこうはならないはずだと思っている。私は逆に訊きたい。なぜ違っていなければならないんだ? もし君の持ち出した疑問に答えを並べ始めたら、いったい何が生まれるんだ?」

     クーパーは首を振る。なぜか暑い。何もかも受け入れられない。

    「われわれは互いに一致する点には目を向けず、差異のみを探るような教育を受けてきている。火星がわれわれの星と同じようなはずはないというのは、少し感情的ではないかね。新しい星に来ても銃をもちだしたりするなんて」
     しかし、アルブレヒトの声は優しい。

    「彼らはあなたを神に捧げようとしているんですよ。旱魃、平和、人口抑制、なんでもいい。どんな理由だかわからないけど、あなたを生贄にしようとしているんですよ、船長」

    「私は足を治したい。ここでの任務を果たしてから地球に帰りたい。それは君も同じだろう」

    「それはそうです。でも、本当に帰れますか。彼らの言うなりになる理由がわかりません」

    「わかる、わからないの問題ではないのだ。私が望み、彼らが果たすというだけなのだ」

    「彼らが信用できるのかどうか、はっきりしているのですか? 彼らがどうやってあなたの希望をかなえるのか、訊いてみたんですか?」
     クーパーが語気を強めても、アルブレヒトは穏やかな表情で答えるだけだった。

    「いや、何も訊いていない。彼らも何も言わない」

    「それならどうして彼らを信じるのですか?」

    「そうと感じるからだ。それだけだ」
     アルブレヒトは微笑む。


     白頭鷲の男が目を見開いた。

     大地に伏していたネイティブ・アメリカンたちがすっと起き上がり、まったく無駄のない動きでアルブレヒトの両腕と両足をそれぞれがつかみ、四方に引っ張った。

     クーパーがあわててサタディナイト・スペシャルを持ち上げる。アルブレヒトの温和なままの瞳と視線が交わる。


     白頭鷲の男が石斧を捨て、脇にさしたアカエイの骨でできた刀を抜くと、鮮やかな手捌きでアルブレヒトの左肋骨の下に一刀を加える。完璧であるはずの宇宙服が紙のように破れ、めくれた内臓から血飛沫が吹き上がると、執行人は素早くそこに手をつっこみ、まだ動いている心臓を取り出す。


     驚愕して動けないクーパーの下で、アルブレヒトは口をかっと開き、顔を歪め、最後は静かにほほ笑む。どこまでも青い瞳が、火星の空に輝く明星、故郷の星、地球を見上げている。


     ネイティブ・アメリカンのひとりが、流れ出るアルブレヒトの血を紙の皿に入れ、白頭鷲の男に差し出した。残りの者は、生贄となったアルブレヒトの体を、石の台から丁寧に下に降ろした。それまで膨れ上がっていた船長の左足首は、嘘のように治癒していた。


     白頭鷲の男は、受け取った血の皿を藍色の石の台、チャクモールに置き、その中にアルブレヒトの心臓を入れた。


     白頭鷲の男が厳かに何かを言って、両腕を広げた。アカエイの骨でできた刀から、アルブレヒトの熱い血が流れ落ちていく。

     四人のネイティブ・アメリカンは、さらにアルブレヒトの胸の血を頭蓋骨の器に集め、白頭鷲の男に差し出す。男はそれを飲み、残りをクーパーに突き出す。血が白骨の下に流れ、大地に垂れる。


    「その骨はだれのものだ?」
     クーパーが我にかえる。だれも答えない。
    「だれのものだ? どうやって船長を騙したんだ?」

    「おまえたちの口はたくさんしゃべるが、真実はしゃべらない」

     白頭鷲の男は唇を動かさずに、そう言った。そう言ったように聞こえた。


     クーパーは頭蓋骨に溜められた血を見つめる。赤い液体が静かに輪を描いている。その輪に意識が吸い込まれそうになった時、鉄の臭いが鼻をつき、蒼白の意識が鮮明になる。 

     白頭鷲の男は、飲めとあごをしゃくってみせた。それが合図であったかのように、四人のネイティブ・アメリカンがクーパーを取り囲む。

     クーパーは高度な訓練を受けてきたが、頭の中が白くなった。

     クーパーは撃った。


     最初の弾丸はひとりめの腹部にめり込んだ。次の弾丸はふたりめの胸に食い込んだ。ネイティブ・アメリカンは逃げることも抵抗することもしなかった。

     クーパーの三発目は横たわるアルブレヒトの右腕にあたり、四発目が三人目のネイティブ・アメリカンの左目を、五発目が四人目の喉を破った。


     生贄に捧げられたアルブレヒトが、やめろと言ったような気がした。


     白頭鷲の男は跪き、自らの胸をアカエイの骨の刀で刺した。クーパーはそれでも気がおさまらず、残りの弾丸を執行人の頭に撃ち込んだ。

     丘の上にたくさんの血が広がり、ゆっくりと裾野に流れていく。
     クーパーの目の前で生贄の儀式は終わり、復讐がとげられ、火星の日が暮れた。

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    5. 豹の雫


     火星の夜空には無数の星々が白く燃えている。その中で地球が最も明るく輝いている。火星の二つの月、フォボスとダイモスが昇ると、地球は消える。

     クーパーは、横転していた火星探査用のローバーを、散乱した破片とテコの原理でどうにか起こした。ローバーは頑丈な黒いパイプのバンパーで覆われていて、転がっても中の機材にダメージを与えないように設計されている。ソーラーパネルによる電力を利用するが、馬力はあり、計算された機動性が発揮できる軽量さと頑丈なタイヤを備えている。


     クーパーは全体の状態を必要以上に念入りに確かめる。バッテリィを調整し、運転席にある多くの計器をチェックし、ボディの傷まで一つずつ確かめる。

     意味もなく、それを何度か繰り返す。

     無人の店で手に入れた小型無線機を運転席に積み込む。その瞬間、震えに襲われる。

     少し前に食べたコンビーフとミックスベジタブルをいっしょに煮た夕食を吐く。乾ききって石のようになったライ麦パンとトマトにかかり、最後の食べ物を台無しにする。

     その夜は冷えた。

     クーパーは、アルブレヒトのために手に入れたフォア・ローゼズに似たバーボン・ウィスキーを、ストレイトで口にする。咽喉が焼きつき、また吐く。シャワーを浴びたくなったが、それはできないと考えた瞬間、ギャンブルをやりたい気持ちに変わる。どちらもできない。

     無傷のままのロレックスの腕時計で時間を確認してから、彼は無線機のスイッチを入れた。チューニングすることなく、回路がつながる。

    「こちらクーパー。修復不可能な着陸船のところにいる。そんなことはどうでもいい。元気か、フルガム?」

     ややあって、つぶやくようなフルガムの声が届いた。

    「私は大丈夫ですよ、クーパー少佐。連絡がとれるとは思いませんでした。無線が使えるようになったんですね。それより食べ物は大丈夫ですか?」

    「みんな手に入るんだ。無線機もチョコもバーボン・ウィスキーも。店主がいないから金は払っていない」

     クーパーが言うと、フルガムが少しだけ間を置いてから乾いた笑い声をあげる。

    「そりゃいい。NASAの職員もそこで手に入れれば、ばっちりですよ」

    「冗談じゃないんだ、フルガム。ネイティブ・アメリカンもいたんだ。シドニア地区の西には小さなピラミッドの街があって、そこでは欲しい物はたいていのものが手に入る本物の店がある。缶詰やミネラル・ウォーターが陳列してあるんだ」

     不自然な間。火星の空電の音。クーパーは苛立ちを感じる。

    「アルブレヒト船長もその店を確認したのですか?」
     やっと声が届く。

    「〈太陽の門〉のある丘で、船長はネイティブ・アメリカンの生贄になった」
     再び空電の間。クーパーは今度は吐きそうになる。

    「彼らとはコミュニケーションがとれるのですか?」

    「わからない。取れなかったと思う。船長を刺したので射殺した」
     空電も消え、フルガムもたっぷりと黙る。クーパーを疑っている。クーパーはその沈黙を破る。

    「明日になったら、船長を埋葬する。探査用のローバーに無線機も積んで使えるようにしたから、それででかけるつもりだ。その後は当初のプランを実行する。」


    「了解。こちらも当初のプラン通り、高度をぎりぎりまで下げて、地表面の細密スキャンを実行します」

    「NASAは何も連絡してこないのか?」
     クーパーが静かに尋ねる。

    「大統領令として救出プランを至急検討するそうですが、その後は何の連絡もありません」

    「そりゃそうだろう。救出用の宇宙船を造って火星に到着させるには2年はかかるだろうからな。まぁいい。明日は地球時間の0700時に連絡するということにしよう」

    「0700時、了解」

    「おやすみ、フルガム」

     クーパーは無線を切る。フルガムの冷静な受け答えが気になる。



     翌朝、小さな太陽が〈人面岩〉の両目の谷から昇ると同時に、クーパーはローバーに乗って、〈太陽の門〉に向かった。朝になると吐き気や悪心は治まっていた。

     砂の川を越えて生贄の丘に着く。

     〈太陽の門〉も藍色の石やチャクモール、流された血の跡も残っていたが、アルブレヒト船長と五人のネイティブ・アメリカンの亡きがらは消えている。

     その代わりに、クーパーはいくすじもの轍に似た跡が乾ききった錆び色の大地に刻まれていることに気づく。


     ローバーに積んだ無線機に空電が入る。きらきらと金色に輝く矢が、近い地平線から現れる。

    「おはようございます、少佐」

    「おはよう、フルガム。今日は食糧の補給を優先する。そっちは大丈夫か」

     クーパーは船長の死体が消えたことを伝えない。

    「了解。こちらの食料はもう少しだけ残っています。地表の細密スキャンを続けます、少佐」

     最後に少佐と繰り返す理由が、クーパーには思いつかない。周波数帯域が狭いので、フルガムの感情はつかめない。指令船は黙る。クーパーは無線を切る。 


     ローバーを疾走させて、クーパーは再び砂の川を渡る。風景を頼りに着陸船のところに戻ろうとする。四本の強靭なゴムタイアは、間違いなく火星の砂と石ころを蹴散らしているが、進んでいない。方向感覚が当てにならず、同じ場所をぐるぐる回っているような感覚に陥る。

     クーパーはアクセルをさらに踏み込み、決して緩めない。音と小石だけは跳ね上がるが、景色は近づかない。

    「船長、そこにいますか?」
     クーパーが独語した。その声が木霊した。木霊は彼の脳梁で反復する。


     気がつくとシドニア地区の中心部に入っていて、風景が戻ってくる。エアーズロックと感じた聳える〈人面岩〉の下に着くと、小型ピラミッド群の〈街〉は残っていた。だが、クーパーはあの店を見つけることができない。

     クーパーはローバーを乗り回してピラミッドの迷路の中を必死に探すが、店はない。


     彼はローバーを〈街〉の端で停め、どうすればいいのかと考える。道に迷ったのでもないし、幻覚でもなかったことを確かめようとあたりを注意深く見る。

     脇の小さな岩陰が動く。クーパーは身をこわばらせる。子どもがふたり現れる。続いて五人の大人が姿を見せる。大人はみな、女だった。赤銅色の皮膚に粗い目をした布をまとっている。

     女たちはクーパーを無視し、無表情のままピラミッドの街の先にある地平線を見ている。五人とも厚手の白い布を羽織り、髪は後ろでまとめている。赤く塗られた木靴をはき、静かに立っている。脇に寄り添う子どもたちも同じ格好をしている。

     母親たちと同じように静かに立つ。だれかの帰りを待っているように見える。


     赤い風が吹き、左手に広がる砂丘が海のようなさざ波をたて始める。錆びた砂が舞い上がり、その煙を二つに裂くようにして白頭鷲が現れる。


     鷲は女たちの頭上まで飛んで来ると優雅に大きく旋回し、錆びた風の中に消え去る。風の向こうに紫色に光る厚い雲が広がり、それが空を覆い尽くして世界が真っ暗になる。闇に白い縦の閃光が走り、空と大地を結ぶ。雷鳴が轟く。地鳴りが響き、あたたかい大粒の雨が落ちてくる。雨が降りはじめると今度は空が裂け、一条の光が漏れ出す。しかし雨は激しくなり、クーパーも女も子どももずぶ濡れにする。


     髪がたれ、目を開いていることすら難しくなったクーパーは、しきりに瞬きを繰り返した。雨が目に入り、見えるものがすべて歪む。女と子どもたちは木のようにじっと立っている。


     雨水が足元で強くて赤い流れを作り、それまでひび割れていた土が赤い泥水になって動き始めると、地球の先史時代の海老に似た不気味な生き物がいくつも浮かび上がってきてはくるくると沈む。沈むときに背筋に沿った緑色の腹わたが見える。海老と蠍を合わせたような生物は、雷雨によって数万年の眠りから息を吹き返したように、軟泥の中を浮いては沈む。

     クーパーはローバーから下りない。

     火星の古代の生き物は繰り返される呪いのように円を描き続け、女の足下にたどりつくと、鋭い尾を汚泥から突き上げてその足を刺す。手前の女が倒れる。クーパーが見ている前で、他の女もみな刺され、倒れ、子どもたちも刺されて倒れていく。


     赤い泥水が渦巻き始めると、その生物は無限大の記号のようにその中を巡る。倒れた女と子どもは、みな、切り倒されたアメリカ・ハリモミの古木に変わり、汚泥の渦巻きに合わせて浮き沈みを繰り返す。


     鳥の羽ばたきの音がして、クーパーの背後の雨の音が静かになる。振り返ると、白頭鷲の男が立っている。クーパーに撃たれた傷と自分で刺した傷がそのまま残っていて、まだ血が流れている。だが、見事な羽飾りは綺麗に残っている。

     頭蓋骨にはアルブレヒトの赤い血ではなく、白く濁った液体が入っている。

     クーパーは動かなかった。

     白頭鷲の男は半眼のまま、ローバーのパイプの間から頭蓋骨を突き出す。撃たれたときの仕草を再現する。クーパーは撃ったときと同じく、それを受け取らない。男が顎をしゃくってみせる。クーパーは残っていた気力を絞り、手で頭蓋骨を払う。雫が飛び散り、その一滴がクーパーの口に入る。

    「豹の雫だ。心配ない。自分に会えるだけだ。わたしたちは本当のことしかしゃべらない」

     男は静かに告げると、残った豹の雫を一気に飲み干す。泥酔した人間のように腰から砕け落ち、だらしなく座り込む。ゆっくりと首が垂れていくが、決して横にはならない。そうやって白頭鷲の男は一生を終える。


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    III 風


    6. 真円


     豹の雫はクーパーをクーパーから離脱させた。一瞬にしてクーパーの視野が広がる。自分は身体から抜け出ていて、ローバーに乗る自分を見下ろしている。火星の大地を風のように飛び回れるようになっている。

     着陸船の残骸を見る。ピラミッドの〈街〉、〈火星の人面岩〉を見る。〈人面岩〉の目から石ころになった涙が流れている。〈太陽の門〉とチャクモール。生贄になった船長も射殺した火星のネイティブ・アメリカンもいない。

     驚きと喜びに続いて警報が頭の中で鳴り響く。このままでは肉体には戻れなくなるとクーパーは感じ取る。風の真似事はいつまでも続けられない。
     とにかく降りること、肉体に戻ることを考え始める。

     赤い大地を見下ろすが、自分が見つからない。ブルージルコンの青色の波模様が広がっている。その波の中にテーブルのように平らな赤い山がある。クーパーはそこに降り立つ。ふっと蒸し暑さを覚え、振り返るとすぐ後ろの大きな岩があり、真円の穴が空いている。

     真円の向こうは漆黒で、空気は動いていない。そこからマッチをするような掠れた音がする。黒の淵の真ん中に小さな炎が一条立ち上る。


     クーパーは一瞬目眩を覚える。

     そこには母がいて、その後ろに子供がいる。子供は母の背中に隠れるように身体を左右に揺らしている。

     ふたりの足元には蝋燭の炎がいくつも並んでいる。母の後ろから細い手が伸びてきては、蝋燭をそっと取っていく。その炎の一条一条が、ふたりの背後にどこまでも続いている闇の奥を少しの間、淡く照らしては、か細く消えていく。

    「おまえの口はたくさんしゃべるが、真実を話さない」

     突然、母が静かに告げる。火星のネイティブ・アメリカンの言葉を再現する。

    「母さん」

     クーパーは、ありとあらゆる子供時代の記憶の洪水に、頭の中を占領される。
    「僕はクモを殺していない。踏み潰したのは兄だよ」

    「もうすぐ空が堕ちてくる」

     母は天気を告げるかのように言う。足元の蝋燭の炎が,決められた順番を守るかのように、右から左へとゆらめいていく。

    「天は崩れない」
     クーパーは母を見て、静かに言い放つ。不遜な響きが含まれている。真円の中に外気が風となって押し寄せてくる。生暖かくなだれ込み、炎がオレンジの筋となって長くたなびく。

    「あっ」

     少年が蝋燭に覆い被さる。衣服に炎がうつらないかとクーパーが身を乗り出すと、少年が初めてクーパーを見る。振り返った視線が合う。クーパーはその場に座り込む。いきなり乾いた涙が一筋だけ右の瞳から落ちる。

     少年は自分で、自分は少年の心を失っている。


    「宇宙の闇の中に照らすものは少ない。でもそれはある」
     母が優しく言う。少年は炎がかき消されないように蝋燭を守り続けている。

    「あんたは母じゃない。母はいつもクッキーを焼いていた。だれなんだ。ここはどこなんだ」


     クーパーの背後で雷鳴が轟く。振り返ると鈍色の空が割れ、黒い雲が赤い空に吸い込まれていく様が目に入る。走る閃光があたりを真っ白に変え、クーパーは思わず目を閉じる。目に肌色が戻り、目を開くと、空の割れ目から太陽が顔を出している。紫の雲は素早く地平線に退き、現れた太陽に大地が赤く輝く。染み込んだ雨は急に蒸発を始め、フロリダになる。

     陽光は、赤い大地に突如できた吹き出物を照らす。ラスベガスのような街並みを浮かび上がらせる。はっきりと見える巨大なホテル群の下で、無数のネオンが濡れて輝いている。その向こうから聞こえてくる空っぽ音楽。


     クーパーはゆっくりと顔を戻す。再び優しい声がしたからだが、声の内容は聞き取れない。少年がいなくなっている。

     柔らかいカールのかかった銀色の長い髪。皺の多くなった手の甲。白くて粗い布を羽織っている母。古代から甦った生き物によって古木にされた女たちが羽織っていたものと同じ。

     その母が蝋燭の炎のように揺らめく。わずかな微笑みが見てとれたとき、闇の奥に向かって小さくとも強く燃える、いくすじかの炎が輝くだけになり、すべてが消える。

     母は去り、クーパーは覚悟を決める。


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    7. アルブレヒト


     クーパーは真円の外に立つ。雨は上がり、風は止んでいる。背後を振り返ると、黒だけが残っていて、もうそこには入れないことがわかる。

     クーパーは反対側を見やる。先ほどの情景は、墜落したときの火星の風景に戻っている。真円の黒い奥から鈴の音が流れてきて、彼の背中に触れる。最後の寒気に一瞬だけ震える。そして、ローバーに乗る自分に帰る。

     クーパーは風からドライバーになる。

     ローバーは、赤い砂を弾きながら、道のない大地を猛スピードで走り、〈太陽の門〉に向かう。チャクモールのある丘に上ると、アルブレヒトと五人のネイティブ・アメリカンが戻っている。

     クーパーはローバーを下り立つ。そして、アルブレヒト以外の者の名前すら知らないことに気づいて驚く。

     クーパーは膝を下り、すべての亡骸に祈りを捧げる。藍色のチャクモールの前に跪く。続いて天に祈る。

     祈りを終えたクーパーは、手のひらほどの石を集め始める。ローバーのツールボックスから特殊ドリルと軽量スコップを取り出し、丘の土と岩の一部を削り、均す。そこに石を平らに積み上げていく。石の隙間には削った岩と砂を詰め、小さな石の台を作る。無心に台形を積み上げていく。


     彼がチャクモールの周りに六つの台を完成させたとき、火星の月、フォボスとダイモスが別々の方角から昇る。


     クーパーは激しい空腹を覚えたが、手元には何も残っていない。生の野菜と冷たい水が欲しい。
     NASAが支給した高単位マルチ・ビタミンの錠剤をそのまま飲む。
     そして、ローバーの堅いシートに座り、遠くに輝くネオン街を見る。
     遥かな距離を耐え忍び、ついに到着した惑星。墜落して戻れなくなった人間。死んだ母、先史時代の海老、ネイティブ・アメリカン。砂嵐。


     クーパーは滑り落ちていくように眠りに入る。長いこと漆黒を泳いでいると、よく知っている声が彼を岸辺に呼び戻す。


    「君たちの声は宇宙に広がっていき、心は砂に染み込んでいく。宇宙は離れていくが、想念は中心に集まってくる。時間と意識はやがてひとつになる。神が呼吸をするように、朝になると夢から覚め、夜になれば再び違う夢をみるように、それは波の繰り返しと同じだ。永遠の流れをくむものだ」


     クーパーは目を覚ます。ふたつの月に照らされて、アルブレヒトが立っている。真の安寧を得た者だけがもつことのできる笑顔を浮かべている。


     アルブレヒトは続けた。

    「かつて、アメリカのスーパー・コンピュータが弾き出した興味深い試算を覚えているかね?地球に棲む蟻の数は銀河系の星の数に一致する可能性。もし惑星の砂の粒を正確に数えられれば、全宇宙に広がる星の数がわかるという可能性」


     クーパーはかすかに首を振る。アルブレヒトも同じように首を振る。また続ける。

    「それは次のことを意味しないだろうか。そこにある砂の粒を拡大していけば宇宙の姿を見ることができる。なぜならば、そこにはすべてが集まっているからだ。そうやって、われわれは小さな世界を知ることによって、全体を見ることができる。また、そうでなければならないのだ。外へ外へという拡張思考は、結局は知ることに限界がある」


     そこでアルブレヒトは唾を飲み、少しだけうなずいてみせる。唾を飲む、というのはアルブレヒトは生きているということではないかとクーパーは思う。


    「われわれは、物質を細分化していくと原子になるというところまで習う。その極小と思われるものはさらに細かくなる。波動と粒子が残る」


     それは光のことじゃないですか、とクーパーは思う。それを察知したかのように、アルブレヒトは明るい笑顔をたたえる。


    「一部には全体が完璧に含まれている。物質の崩壊は死を意味しない。形を変えるだけだ。死によって崩壊した肉体は光になる。その光がもつ独特の波動が心なのだ。だからこの宇宙のすべてには、たったひとつの砂粒にも、すべての時間の記憶、心が染み込んでいるのだろうね。教訓的なことに、そのことを知っているのは、高度な科学技術を誇るいわゆる文明人ではなく、大地を愛したネイティブ・アメリカンたちだったようだ」


     クーパーはアルブレヒトを射るように見返す。無意識のうちにその言葉の意味ではなく、言葉そのものを否定している。だが、ふたつのいびつな月に照らされた船長は、威厳を保ったまま立っている。


    「船長、あなたは苦しくないのですか? 痛くないのですか? 生きているのですか? どういうことですか、これは?」

     クーパーがたまらずに叫ぶ。その声は火星の尖った山脈に木霊する。木霊は砂の海原を渡り、赤い谷底を走り、ピラミッドの群れを通り抜けて宇宙に広がっていく。

     アルブレヒトはそれには答えず、再び横たわる。

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    IV 上昇


    8. クーパー


     翌朝の早くに、アルブレヒトの死体が崩れだした。宇宙服が溶け、肉体が滅び始めた。つま先の爪が黒くなり、両手の指も黒くなった。やがてその黒は微細な振動を起こし、蟻になった。アルブレヒトの体から生まれた蟻は黒い行列となって、クーパーが火星の石と砂で作った台にもぐりこんでいった。

     そうやってアルブレヒトが消えた。ネイティブ・アメリカンたちの亡骸も同じように蟻となって朽ち、錆色の砂にかえった。

     アルブレヒトの声を聞き、船長の復活を見届けたクーパーは、空腹と疲労をこらえながら身を屈めた。そして、両手でそっと火星の砂をすくう。普通の砂。蟻もいない。宇宙服のかけらも含まれていない。

     クーパーは顔を上げ、砂を払う。小さな太陽が弱々しい朝陽を運んでいた。言い知れぬ寂寥感が彼に涙を流させる。当然のことながら、辺りにはだれもいない。

     定刻の0700時になり、ローバーの無線機に空電が混じる。指令船はいきなりシドニア地区の〈人面岩〉の変化を伝えてくる。クーパーは黙って聞く。つぶやくようなフルガムの声は、他人の作った詩を読む詩人のようだった。


    「天空を見詰める〈人面岩〉は、泣いている。石の涙がひとすじ、左の頬をつたっている。何かを言っているけど、僕には聞こえない。だから僕は窓をあけて呼びかける」

     声はそこで途絶える。


     クーパーは無線の電源を完全に切断する。


     上空を指令船が飛んで行く。フルガムは手が届くような低空飛行をしている。金色の船体に取り付けられたパラボラアンテナやカメラのレンズが目視できる。その高度では、火星の引力に導かれ、やがては墜落するはずだった。

     クーパーは無関心に見送る。食糧は底をつき、水もあと一口しか残っていない。
     ローバーを離れ、広い砂の海に歩いていく。浜辺の岩場の陰にかぶら大根が群生している。クーパーは青々とした葉をつかむ。赤い砂から引き抜く。

     火星の薄い空気に触れた瞬間、白い大根は焦げ茶色に変わり、その色が褪せていく。大根の中で何かが脈打つように蠢く。

     クーパーはそれを捨てる。透明に近づいていった皮が破れ、蛾のサナギが飛び出す。 

     クーパーはもう一度、あの店を探すことにする。停めたローバーに戻り始めると、砂の海から波が打ち寄せられる。錆びついた波のすぐ向こうから、黄金の頭巾に身を包んだ骸骨が歩いて来る。頭巾の上に眩い光が放射している。

     立ち止まったクーパーの近くに、滑るようにして寄ってくる。きれいにそろった白い歯で、赤い花一輪が咲く緑色の茎をくわえている。

     クーパーは、近付いてくる人骨をぼんやりと見遣った。


    「時の声に、僕は呼びかける。窓をあけて呼びかける」


     擦れ違うときに、骸骨がつぶやく。フルガムの声だった。口が開いた時、赤い花が歯の間から落ち、砂のうえで青い炎になる。

     クーパーは、火星で見聞きしたすべてのことを、必然の光景ではないかと思い始める。頭が静かに敗北を認める。


     低い空に遠雷が響き、砂の海の遠くで赤い煙が津波のように立ち上がる。それは、火星到着の初日に有人探査機を飲み込んだ砂嵐と同じように大きく、猛り狂う。遠くから連なる砂丘を次々とのみこんでいき、サーモン・ピンクの激しい渦巻きがクーパーに近づいてくる。


     なぜか母の怒りと悲しみに気づいたクーパーは、急に心が穏やかになる。やがて砂の渦が彼を取り巻き、砂の壁が少しずつ身体に触れるようになると、クーパーは両腕を白頭鷲の翼のように広げる。


     砂は彼を愛ではじめる。それは紙やすりのようだが、削り減らされているのではない。磨かれ、研かれる。砂はクーパーの周りで激しく回転する。砂嵐の目の中に入った感覚を覚えた瞬間、すっと真上を見あげる。火星の低い空だけが見える。

     自分たちを赤い大地に叩き落とした砂嵐が、今度は上昇させようとしている。

     巻き貝に耳を押しつけると聞こえる音が始まる。これまで火星で発したクーパーのすべての声と過ごしたすべての時間がひとつになる。同時に、彼のこれまで抱いてきた疑念や不信感、拒否や悲嘆は無数の砂の中に霧散していく。

     クーパーは、目の前に迫る砂の壁にそっと手を差し込んでみる。手のひらが、赤い砂でいっぱいになる。

     彼が鳥の翼のように広げた手の先を上に返すと、何の変哲もない火星の砂が、指の隙間から水のように流れ落ちていく。

     クーパーはつぶやく。



     砂は落ち、私は昇る。




    (了)



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    池葉 良:「火星の砂」 ~雨が降り、風が来て、母は去る~
    Ryo IKEBA:THE SANDS OF MARS ― The Rain Falls, the Wind Comes, and Mother Leaves
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    ブログ<Echoes : Story, Book, Film and Music>をnoteで引き継いで、映画や音楽、興味を惹かれた書籍、若干手を入れた古い習作などを紹介します。池葉良はペンネーム、ゴルトカッツは8mm時代に立ち上げた自主制作映画のプロダクション名です。

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