
悪いものがあります
「悪いものがあります」なんともハッキリとしない言葉を聞いた。
たった一人でその言葉を聞いた。「どういうこと?」と思う反面、「ついにきたか」と思った。
この頃は、毎年の会社の健康診断で「再検査」と言われるようになった。
毎回、その度に乳腺外科にいくものの「問題ないでしょう。定期的に検査はしてください」と言われてきた。だから、「再検査」の健康診断の結果が届いてもまあ、いっとこかーという気持ちだった。しかし、今回は「至急」の文字が添えられていた。そして、再検査で病院にいったら「悪いものがある可能性」ということで細胞診をすると言われた。
細い針を疑いのあるところにさして、注射器ですいあげた細胞を調べる。「えー、それ痛いって聞いているやつやん!」いつもそこまではいかないのに、今回はなんでー」。ま、そもそも「至急」で呼び出されているので、健康診断の結果がそもそもかなりよくなかったのかな。でね、いくつかブツブツさされたんだけど、なんと脇にもさしていたみたいなのよ。気づいてなかったんだけど。(後で知った)
それから何日かたって、再度病院へ。やはり「悪いものがある」ということで、また検査といわれた。今度は「針生検」というもの。どうも組織そのものを取るらしく、細胞診より詳しい検査で「確定診断」につかわれるそう(これも後で知った)
こちらは、ピストルみたいな太い針でぶすぶすといくつもさして、組織をとっていた。麻酔はしてくれたけど、まあその麻酔の痛いこと。
確定診断って、よーわ、LEVEL(ステージ)・がんのタイプや治療方針のためなんですよね。(あとで学んだ)細胞診のときに、「がん」ってわかっていたはずなのにお医者さんは、「がんです。その種類を正確に調べます」とはいわないんですよね。(私がそうだったのか、一般的にそうなのかはわからないけど)確定診断までは「悪いものがある」とだけ言われた。その言葉では、「がんかもしれない」と腰をすえて覚悟できないじゃないですか。(まだ、そうじゃない希望があると思ってしまうのは、私だけ?)
私、1人暮らしなんです。だから、確定診断の結果も1人で聞きにいった。仕事は午前中の半日休暇をとって。人によっては、兄弟や両親、親友に「いっしょにいって」と医者の説明の同席を頼むことも多いらしい。でも、「悪いもの」で終わっていた私はそんな発想(誰かについてきてもらう)という発想そのものがそもそもなかった。なんでも1人で決め、1人でやってきた。誰かに頼るということができない、したことがない。だから例え、「がんの今後の説明」とあらかじめ言われていたとしても、1人で病院にいっていたな、私。
そんな重大な告知、家族ぐらいしか同席できないよね。同席するほうにも覚悟いるものね。(自分自身でも経験していないとドキドキするし、悪い結果だったときにどう慰めていいのかもわからないよね)でも、私の場合は、がんとわかっても最後に知らせたのが、両親。娘ががんって聞くのは堪えられないかなと思って。(親より先に死ぬのは親不孝だと聞いたことあるけど、「がん」の告知ってそれぐらいの重みあるよね)以前に「再検査したわー」と何気にいったときも、おろおろしていたしね。だから本当にがんだってわかったら、一番ショックを受けるのは私以上に母ではないかと思った。
でね、仕事を休まないといけないから、最初にがんの報告をしたのがなんと、上司。午前半休をとっての告知を受けてすぐに午後出勤したしね。たんたんと治療予定を説明している自分がいた。(でも、その予定も治療以降とんでもないアクシデントがおこってくずれまくるんだけどね。そのときは知るよしもなし)
パートナーのいない自分はだからなんでも1人。だから、「針生検」の結果も1人で聞きにいった。(そういえば、お一人ですか?とも言われた気がする)ここで初めて、「がん」ですと言われた。叔母が乳がんだったし、いつかはくるかも?と思っていたが、「ついにきたか・・・」。呆然としながらも、今後の治療のことを聞いて、とぼとぼと午後出勤に向かった。「私って強いよな。この状況で仕事に行くんやもん」なんて思いながら。
医者からは、抗がん剤治療をして、がんを小さくしてから手術をしましょうと言われた。悪いもんをすぐにとるんじゃないんやー。それから私のインターネットの検索大会が始まった。今なら、チャットGPTを使いながら、もう少し要領よく調べられたかもしれないが、とにかく正式な団体(日本乳癌学会など)らしいものをかたっぱしから調べて、今後の治療をどうしていくか1人考えた。でも、一番大事なことは「自分が納得して治療方針を決めること」なんだと膨大な情報をおっていくうちに覚悟した。
民間療法はもともと考えていなかったが、1人の医者の提示方針だけも「納得するためには」嫌だなと思った。だから、「セカンドオピニオン」というのをやってみようと思った。セカンドオピニオン、調べてみると保険がきかないから高いだよね。病院により違うけど、2~3万円。時間区切られているから、聞きたいことちゃんとまとめていかないとあっという間に時間が過ぎてしまう。(病気とは関係ないけど、市町村の弁護士の無料相談も要領よく質問するの、あせるよね・・聞きたいことさえわからないから、色々と調べて質問まとめるみたいな)
それと超驚きなんだけど、セカンドオピニオンって原則「この先生のほうがいいな」と思っても病院を簡単に変えられないんですよ。おかしくないですかー?病院も医者も患者が選んでいいと思うのだけど。絶対に病院を変更できないってわけではなんだけど、病院を変えたいと実行するには手続き+「心のハードル」がちょっと高いですよね。それでなくても、「がん」っていわれただけでショックを受けている身としては、(しかも1人ですべてを判断・向き合うので)かなりしんどい。ショックなメンタル中に色々調べて、セカンドオピニオン聞いて、「自分がどうしたいか」を決めるのはとってもしんどい。
がんって初めていわれたその晩、「死ぬのかな」(最近はそうでもない?)・「剝げるんだよね?」(やだなぁ)・胸はなくなるのかな(キツイなぁ)と、もんもんとベッドの上で考えた。治療方針で向き合い、これから先の命と向き合う時間っていう感じ。みたらあかんかなと思いつつ、「乳がん生存率」で検索してしまう自分がいた。ステージにより違いはあるが、ざっくりみると5年生存率は92.3%。「え?残りの%は5年以内に死ぬ確率があるってこと?え?命を5年単位で考えないといけないの?」10年を超えても再発率の高い乳がんは再発の可能性すらあると書かれていた。がーん。高い生存率の数字が安心どころではない。
今後のことを考えたり、調べたり、不安とむきあい流石に落ち込んだ。困ったときにすることは、やはり「本」だった。インターネットで情報はわかった。でも、事実を知っても心がおちつくわけではない。こういうとき、本屋さんだと、色々な切り口で自分に合う本と出合えることがあるんだよね。ネットで本を買うのは、「この本」とはっきりしていたら便利だけど、今の自分に寄り添える、出会いという本は、やっぱり本屋なのかもしれない。
そして私が選んだ本の中にみつけたフレーズは、「この病気は何に気づき、何を学ぶものだったのか」(『病気が治る人の予祝思考!前祝いの健康術』ひすいこたろう、三浦直樹、マキノ出版)。病気は、確かに「当たり前にあるもの」が決して当たり前ではないことに気づかしてくれる。人は、いつかは死ぬとわかっていても、それを自分ごととして意識するのはやはり、がんみたいな病気だと思う。骨折でも、一カ月以上歩けないとなるとどれほど不便か痛感する。私自身は、まさしく乳がん治療開始と同じ時期に強度のヘルニアになり、抗がん剤治療で大変な同時期に約半年まともに歩けなくなった。足が動かない、歩けないって生活の在り方が根本から変わってしまうんだよね。「歩けない」は、多くの自由を奪ってしまうことに初めて気づかされた。
スーパーにいくにも、掃除をするにも生活スタイルがすべて変わってしまう。年をとっても足腰丈夫なことは大切だということを、初めて気づいた。足が悪いと、でかけるのもおっくうになり、テレビ番組のおもりになってしまうのが初めて想像できた。そして、「当たり前」だったことに初めて「ありがたい」ことだということを痛感した。「当たり前に感謝」っていうとちょっとやすっぽく聞こえてしまうのがちょっと嫌だけど、しみじみと感じた。
当たり前が当たり前でなくなっている現状でもパートナーや家族がいない私は、1人で戦わないといけない。たまに手伝ってくれる友人がいたとしても、ずっとつきそうわけにはいかない。親だって、大人になってからも年老いた親に迷惑をかける自分が情けない。迷惑をかけられることがよいと思えるパートナーが側にいたらかなり心のよりどころになるのだろうけど。でもそれさえ、負担を強いることに申し訳なさを感じる気もする。
病気って見えてない世界がみえてくるんだなぁ。人との関係もそうだし、未来も。人との関係性は、元気なときに一緒にいて楽しい存在と、つらい時も愚痴を聞いてくれる・迷惑であってもその人に頼ることを自分に許せるなど、病気って人との関係性と距離も見えてくる。今まで見えていなかあったことがたくさん見えてくる。
そして、自分の健康を今更考える。年寄りは足腰衰えてもあたりまえやん!って思っていた自分がいた。でも、自分次第でその弱るスピードを遅らせることはできるんだということを改めて考えた。(つまり足腰の運動ね)私はそんな努力を微塵もしてこなかったな。運動を未来の貯金だということに気づいてこなかった。
がんも、生存率90%以上やん!という言葉は、励ましにいってくる人もいたが、全く逆。残りの生存しないほうの確率に目がいっちゃうんですよ。だから励ましにはならない。仕事でもなんでもそうだけど、自分がその立場にたたないと見えてこないことがいっぱいあるんだなぁ。
病気やケガもそう。ケガは治る、ちょっと我慢だと思えても、「がん」はそんなに楽観視できないから辛いんだよね。相手の立場に立って考えてみても想像でしかない。でも、想像できることが人との関係に大きく関わっていく。想像できると相手に使う言葉も変わってくる。
今、結婚しない人が増えている。結婚をしないという意思なのか、たまたまそうなったのか、人それぞれだけど、「結婚するのが当たり前」の時代ではなくなってきているようだ。そして私もその1人である。結婚しないという意思があったわけではないが、結婚したいと思える人とついに出会わなかった。
ある友達は、「結婚」という業を卒業して生まれてきたんだよといってくれた。結婚していないと、未熟者感が拭えていない私は、そういう考え方もあるのかと驚いた。確かに、結婚していても、そんなパートナーならいないほうがいいんなって思うことも多々ある気もする。パートナーがいることがイコール幸せではないんだろう。
だけど、病気になって1人で戦う時、辛さ・寂しさはぬぐえなかったな。そして、今の日本の高齢化社会では、「お一人様老人」がますます増えていくのだろう。体の衰えがあっても、1人で決断することに慣れていないと、かなりしんどいかもしれない。
頼れる子供がいるとまた違うのかもしれないが。頼ってきた旦那がいつまで健康に一緒にいれるかは誰も知る由もない。健康寿命と同じくらい、認知にならず「自分がどうしたいか」を決められる自分でいるにはどうしたらいいのだろう。
自分がどうしたいかと自分で決められることは、本当はとても幸せなことなのかもしれない。常に1人で決断しないと状況は、しんどくて寂しいとも思えるが、別の視点でいえば、自由もその手の中にあると考えることもできるのかもしれない。
この先もずっと私がお一人様でいるかどうかはわからない。でも、ずっとお一人様であっても、「今日生きている?」って確認しあえる友人は、大切にしたい。
人は、人との関わりなしではやっぱり生きられないのだと思う。語源ではないらしいが、漢字の「人」という字が人と人が支えあっているという解釈は、私には妙にしっくりくる。