
【IT業界小説】試されているのは誰か
朝のスタンドアップ
「昨日の続きで、ログインAPIの修正を進めます。午前中にPR出します」
僕がそう言い終わるのを待って、宮本さんが大きく息を吸った。
「はい、宮本です。えー、昨日いただいたタスクなんですが、ええと、あの……、すみません、進捗としては、まだ、環境のところで詰まっておりまして」
Zoomの向こうで、客先PMの笠原さんが短く咳払いをした。
僕はミュートに戻しながら、天井の蛍光灯を見上げた。
朝九時十五分。今日は月曜日。
宮本さんがうちの現場に入って、ちょうど六ヶ月目の朝だった。
「大丈夫です、後で僕が見ます」
気づけば、反射的にそう言っていた。
ミュートの向こうで、宮本さんが深々と頭を下げる気配が伝わってくる。
──また、僕が巻き取るのか。
心の中の声は、自分でも驚くくらい、冷たかった。
「分かりました!」という音
宮本さん、四十二歳。元・法人保険の営業マン。
うちの自社が二週間の研修を経て、この現場に送り込んできた人だ。
僕は二十八歳。SES五年目の、いちおうサブリーダー。
最初に顔合わせをした日、宮本さんは僕より深くお辞儀をした。
「篠田さん、よろしくお願いします! まだ右も左もわかりませんが、全力でついていきます!」
威勢の良い声は、営業時代の名残なのだろう。
でも、僕が「じゃあ、まずはGitの操作に慣れてもらって」と言いかけた時、宮本さんの目は、一瞬だけ泳いだ。
「ええと、ギット……?」
そこから、だった。
ブランチを切る、プルする、コンフリクトを解消する。
説明するたびに宮本さんは「分かりました!」と明るく答える。
ただ、手元のメモ帳は、いつまでも真っ白のままだった。
翌日、同じ質問が返ってくる。
同じ説明を、僕はもう一度する。
宮本さんはまた「分かりました!」と答える。
僕は笑顔を作りながら、心の中で短く呟いた。
──本当に、分かってますか。
簡単なバグ修正タスクを渡しても、半日が過ぎる。
画面共有を頼むと、VSCodeの左サイドバーを、ずっとマウスでなぞっている姿があった。
ファイルの場所がわからないのだ、と察するのに、少し時間がかかった。
お子さんがいるらしく、夕方五時半には、宮本さんのSlackに緑のランプが消える。
「お迎えがあるので」と、一度だけ聞いた。
責めるつもりは、ない。
ないつもりだった。
ただ、年上の後輩に、僕の想定ペースの半分で進まれると、スケジュール表の未消化タスクだけが、静かに積み上がっていく。
自社の人事部が、この人のどこを見て採用したのか。
僕はときどき、返信する気もないDMの下書きを書いては、消していた。
金曜の夕方、五時四十八分
事件は、半年目の金曜に起きた。
本番リリースは月曜の朝。
僕はその日、自分の担当機能のコードレビューを終わらせた後、ふと気になって宮本さんのPRをもう一度開いた。
決済処理の分岐を修正したはずの差分。
そこに、コメントアウトされないまま、テスト用のダミーIDを返すコードが、堂々と残っていた。
指先が、冷たくなった。
これが本番に流れていたら、全ユーザーの決済が、一件五百円で固定されていた。
軽く見積もっても、数千万単位の事故。法務も動く。クライアントとの契約も、たぶん飛ぶ。
僕はスレッドに赤字で指摘を書き込んでから、宮本さんに直接Slackのコールを鳴らした。
三コール目で、繋がった。
「篠田さん、どうしました?」
「PR、開いてもらっていいですか。該当ファイルの、百二十三行目」
沈黙が、二十秒ほど続いた。
「……あ」
「これ、本番に出てたら、どうなってたかわかりますか」
声が、思ったより低く出た。
画面の中で、宮本さんの顔色が変わっていくのが、カメラ越しにもわかった。
「年下だから、なめてますか」
言ってから、しまった、と思った。
自分の一番みっともない感情が、口をついて出ていた。
「……いえ、とんでもないです。申し訳ありません」
宮本さんは、ゆっくりと頭を下げた。
「ただ、僕も、正直、いっぱいいっぱいでして……。家のこともあって、夜に勉強する時間も、なかなか取れなくて……」
画面の向こうで、宮本さんの目が少しだけ、赤かった。
四十二歳の男が、十四歳年下の僕に、消え入るような声で謝っていた。
僕はミュートを切って、天井を見た。
ああ、と小さく息が漏れた。
僕が本当に怒っていたのは、宮本さんの不出来に対してじゃない。
こんな状態の人を半年も放置して、同じ説明を繰り返すだけで済ませていた、自分の監督責任に対してだった。
ホワイトボードに書いた三行
帰り道、駅のホームで、僕は一本電車を見送った。
未経験から転職したなら、それなりの覚悟を持ってほしい。
メモぐらい取ってほしい。
せめて、「分かりません」と言える勇気を、持ってほしい。
そう思う自分の顔が、ホームのガラスに映っていた。
正論を吐く人間の顔は、こんなにも、疲れて見えるのか。
宮本さんに「覚悟」を求める前に、僕は彼に、覚悟を見せていただろうか。
毎朝「今日は何をやるか」を一緒に握ったか。
メモを取る習慣を、業務として組み込んだか。
「分かりません」と言える関係性を、先に作ったか。
──たぶん、全部、やっていない。
僕は、サブリーダーという肩書きに、「年上にものを言いにくい」という言い訳を、こっそり貼りつけていただけだった。
翌週の月曜、僕は宮本さんより三十分だけ早く、オフィスに着いた。
会議室のホワイトボードに、黒いペンで三行だけ書いた。
一、今日のゴールを、朝に一緒に決める。
二、分からないことは、その場で止めて聞く。
三、十七時半までに、できたところを報告する。
自分のために、書いた。
リーダーとして試されているのは、たぶん、宮本さんじゃない。
九時五分前、宮本さんが入ってきた。
僕の書いた三行を、少しだけ目を細めて見ている。
僕は、いつもより半音低い声で、言った。
「おはようございます、宮本さん。今日から、ちょっとやり方、変えてみていいですか」
宮本さんは、こちらを見た。
そしていつもより、ほんの少しだけ、ゆっくりと、頷いた。
その頷きが、これまでの「分かりました!」と同じものなのか、違うものなのか。
僕には、まだわからない。
も、確かめていくのが、たぶん、僕の仕事なのだ。
お疲れ様です、Gメンです。
最初のマネジメント業務は分からないことだらけで、自分が当たり前にできていることがメンバークラスではそういうわけにもいきません。
私自身も、メンバーと合意形成を取りながら業務を進めています。
それでもうまくいかない場合も多いので、少しずつです。
あなたの職場でも、似たようなすれ違いはありましたか?
リーダー側の「覚悟」とは、何だと思いますか?
※この物語は、筆者がIT/SES業界で実際に見聞きした出来事を
ベースに、フィクションとして再構成したものです。