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Precious Memories に぀ながる蚘憶たち

    40歳になったばかりの、あの頃

    突然、YouTubeのオススメに懐かしい曲が流れおきた。

    ​globeの『Precious Memories』。

    ​むントロが流れた瞬間、胞の奥がキュッずなっお、䞊京しおからの20幎分の蚘憶が走銬灯のようにめぐりだした。溢れおきた蚘憶を蚀葉にしおみるこずにした。

    私の “Precious Memories”。

    音楜ずずもに振り返る、小さな蚘憶の物語です。

    ​ねえ、あの頃のわたし、、、


    ​【はじたりの春】

    ​あの春、郜䌚のたちぞ向かった日、

    ワクワクが止たらなかった、あの気持ちは今も芚えおいる。

    ​気づけば、あれからもう20幎。

    「もうそんなにほんずに」っお、ちょっず信じられない気持ちもある。


    ​【東京での第䞀歩】

    ​田舎育ちの私にずっお、東京はたるで倖囜のようだった。

    話すむントネヌションも違うし、方蚀が抜けない私は、぀い気を遣いながら話しおいた。

    だから、同じ地方出身の友達ず話すず、ほっずしお力が抜けた。安心できる瞬間だった。

    ​東京でできた初めおの友達。

    その子がいおくれたおかげで、私はホヌムシックにもならず、気づけば、東京での暮らしが楜しいものになっおいた。

    ​【孊生時代のかけがえのない時間】

    ​ある日、孊校の小テストで「絆創膏」を「カットバン」ず曞いおバツをもらった。
    東京では、通じなかった。

    なんず、同じ地方出身のあの子も同じようにバツを぀けられおいお、ふたりで倧笑いした。

    ​孊生時代は、私の家でよく鍋パヌティヌをした。

    芚えおるかな 私が孊校を䌑んだあの日も、鍋パヌティヌだった。

    い぀もの仲良しのクラスメむトたちが材料を持っおきおくれお、心配しおくれた。

    ​「い぀も元気だけど、匱いずころ芋せないから、なにか悩んでるんじゃない」っお。

    ゎメンゎメン、悩んでたわけじゃなくお  ただ、どうしおもゎロゎロしたい日だったの。

    深刻に心配しおくれたみんなに察しお、なんおアホで情けない理由なんだろう。
    思い出すだけで自分に呆れおしたうけれど、そんな私のダメで怠け者な郚分も含めお、䞞ごず友達でいおくれるみんなの優しさが、たたらなく嬉しかった。

    ​孊校の友達、バむト仲間にも恵たれおいた。

    ​【぀ながっおいる】

    ​䞊京をずもにしたあの子は、今も東京の街で、自分の道を歩いおいる。

    ​倧人になっおから、小・䞭孊校時代の仲間たちず、湘南や䌊豆の海に行った倏があった。

    䞀緒に育った、たるで“幌なじみ”みたいな存圚。

    あの子も来られたらよかったけど、その頃は子育お䞭だった。

    みんなそれぞれの時間を生きおいるけれど、それでも、ちゃんず぀ながっおいる。

    そんなこずを感じた倏だった。

    ​【瀟䌚ぞ出お】

    ​瀟䌚に出おから、いろんな堎所で働いた。時には掛け持ちしながらず。

    ​おもちゃ箱みたいなあの職堎では、あの子ず出䌚った。

    私のこずを真正面から叱っおくれた、数少ない存圚だった。呚りからは「ふたりは本圓にい぀も䞀緒だね」「姉効なの」なんお蚀われるほど、濃密な時間をずもにした。

    ​「倱恋䌑暇」をもらったのもこの職堎。

    「マネヌゞャヌには颚邪で䌑んでるこずにしおおくから、元気出しなね」ず蚀っおくれた店長の、優しすぎる嘘。嘘のようで本圓にあった、あの型砎りな枩かさは今でも忘れられない。埌になっお、あの子ず「私っお本圓に倧人になれおなかったよね、瀟䌚人ずしおないよね」「店長、優しすぎでしょ」ず過去の自分が恥ずかしく、懐かしい話。

    ​私はゎリゎリの昭和䞖代でもなければ、完党なゆずり䞖代でもない。そんな狭間の䞖代だからこそ、こういうちょっず泥臭くお枩かい倧人たちに育おおもらった経隓が、今の私を支えおいる気がする。だからこそ、䞊の䞖代の泥臭さも、幎䞋の䞖代の気持ちも、どちらもなんずなく分かる倧人になれたのかもしれない。


    【青山の“瀟䌚人蚓緎所”】

    ​青山のヘアサロンでは、スタッフの数も倚く、みんなラむバルのようだった。

    だけど、働く時間が長すぎお、家族を通り越しおひず぀の家で暮らしおいるような錯芚さえ芚える関係だった。

    ​朝から終電間際たで職堎にいるこずも、圓たり前のような日々。今考えたら、ちょっず信じられないけれど、あの時代の暗黙のルヌルだった。

    䞊の人の蚀うこずは絶察。今ずは党く違う働き方だったし、愚痎を蚀ったずころで「䜕もならない」ず飲み蟌むしかなかった。倧きな声じゃ蚀えないけどあの堎所を「瀟䌚人蚓緎所」ず蟞めた埌、ひそかにそう呌んでいた。

    ​だけど、その組織のトップにいたのは、䞖の䞭で華やかに掻躍する、別栌の人だった。

    容赊なく厳しくお、時には生きた心地がしない倜もあったけれど、どれだけ突き攟されおもスタッフを決しお芋捚おない人だった。

    ​私がただ入瀟しお間もない頃のこず。ある日の営業埌、そのトップがふいに声をかけおくれた。

    「おい、がんばっおるかヌ 元気かヌ」

    ​その瞬間、私の目から涙がボロボロず溢れお止たらなくなっおしたった。い぀も匵り詰めおいた心の糞が、その䞀蚀でふっず解けたようだった。

    突然泣き出した私を芋お、呚りの先茩たちが「どうした どうした」ず慌おお心配しお近寄っおきた。私はもう、子䟛のように泣きじゃくりながら「なんか分かんないんですけど、気にかけおもらっお嬉しかったんですぅ  」ず涙目で蚀った。

    するず先茩たちは

    「そうか、そうか びっくりした〜」ず笑いながら、「がんばっおるもんね、がんばっおるもんねヌ」ず、たるで小さな効をあやすように頭をペシペシずしおくれた。

    ​雲の䞊の存圚のトップが、ただ䜕もできない私のこずをちゃんず芋おくれおいる枩かさ。そしお、それを䞀緒に喜んで包み蟌んでくれる先茩たちの優しさがあった。

    ​そしお別の日の倜、

    始たったのは、䞊叞からの熱量たっぷりの長い長い反省䌚。

    気づけば終電もなくなり、家のある䞋北沢たで䞀人で歩いお垰った。終電がなくなるたで残るなんお、今ずなっおは“あの時代らしい出来事”だったのかもしれない。

    ​枋谷の「ずんちゃん」で、マッコリ片手に語り合った倜も懐かしい。仕事の話から、ちょっずした愚痎たで。語っお、笑っお、「たた氎曜日からがんばろうか」っお思えた時間だった。

    あの先茩は、今では経営者になっおいる。

    「あのずき、よく耐えたなぁ」なんお思うこずもあるけれど、それ以䞊に、「䜕が䜕でもやっおやる、ずいうあの人の圧倒的な゚ネルギヌず芚悟は、やっぱり凄いな」ず、今では心から思う。

    ​【銀座で芋た䞖界】

    ​その埌、銀座のセットサロンぞ。

    お客様は、オヌナヌであるBossのこずを「先生」ず呌び、心から信頌しお通っおくれるママさんやお姉さんたち。

    圌女たちにずっおそこは、出勀前にほっずひず息぀きながら、倜の街ぞ向かう気持ちを敎えるための倧切な楜屋のような堎所だった。

    お店に駆け蟌んできたずきの「玠の姿」から、髪が敎うに぀れお完璧な倜の顔ぞず倉わっおいく。

    鏡の前でストヌルをふわりず矜織る仕草ひず぀に、ため息が出るほどの艶やかな色気に圓時の私は芋惚れおいた。

    心に䜙裕があり、噚の倧きなBossはずおも優しかった。でも、営業䞭の蚀葉遣いには凄く厳しかった。

    ある日の接客䞭、私が䌚話の流れで「でかい」ずいう蚀葉を䜿ったずきのこず。

    埌ろからBossに、すかさず「倧きい、でしょ」ず静かに盎された。

    銀座ずいう街の品栌、そしおお客様ぞの敬意を、Bossは身をもっお教えおくれたのだ。その日を境に、私の「でかい」ずいう蚀葉を蚀うのをやめた。

    倧きな優しさで包み蟌みながら、人ずしお倧切なこずをたくさん教えおくれた。

    本圓によくしおもらった。私にずっお忘れられない倧切な堎所だ。

    30歳からドモホルンリンクル。憧れだったけれど珟実は手が届かなかった。

    ​別のヘアセットサロンに移った先で、瀟䌚人初めおの職堎で䞀緒だった同期に再䌚。店長になっおいお、再び䞀緒に働けたのも䞍思議な瞁だった。

    ​あの頃は、職堎を倉えるこずが「長続きしない人」みたいに芋られおいた。そのこずを、私は少し匕け目に感じおいた。

    でも今思えば、いろんな堎所での経隓は、ちゃんず自分の糧になっおいる。

    ​【ランチタむムの“運動䌚”】

    ​倧手町のオフィスビルに入ったレストランで、ランチタむムに働いおいた。

    お昌になるず呚蟺のオフィスから人が䞀斉に駆け蟌んできお、店内はあっずいう間に満垭。毎日300人以䞊が蚪れる、たさに“運動䌚”みたいな忙しさだった。

    朝瀌では「アむコンタクトでノックアりト」ず声を出すのがお決たり。

    パ゚リアを運びながら店内を駆け回り、気づけば汗だく。でもそれが楜しくお、仲間ず笑いながら働いおいた。

    忙しさの䞭にも掻気があっお、今思い返しおも倧奜きな職堎のひず぀だ。


    ​【あの倜の六本朚で】

    ​そしお、六本朚のバヌ。

    私の䞭の「垞識」や「人ずの距離感」がガラッず倉わった堎所。

    ​初日、目を疑った。自分の芪䞖代が、倜な倜な螊っおビヌルを飲んでる、、、たるでクラブみたいな空間。「これが“倧人の䞖界”」ず、衝撃を受けた。「倧人っお、こうやっお自由に楜しむんだ」っお、その姿を芋お、私は心の䞭の“幎霢のむメヌゞ”を塗り替えられた。

    ​スタッフは蝶ネクタむに、癜シャツ、黒ベスト、黒のスラックス。

    仕事䞭は無駄話犁止。接客はクヌルで、ストむック。

    でも、その䞭でもにじみ出る人間性があっお

    やがお䞀緒に遊びに行くようになった。

    ​「ワヌホリ垰りで携垯の番号ただ持っおないです」
    「シェアハりス䜏みです」
    「海倖から垰っおきたばかりです。矎容垫やっおたした」
    「今は圫り垫を目指しおお」
    「匁護士の詊隓終わったからバむトしおたす」「子どもひずりで育おおたす。

    ​それたでの人生で出䌚ったこずのないような人たちだった。自由で、かっこよくお、面癜かった。刺激を受けた。

    ​【屋根の䞋のいろんな暮らし】

    ​そういえば、シェアハりスに䜏んでいた時期もあった。

    䞀軒家に、いろんな囜の人たちが集たっお暮らしおいお、毎日が異文化亀流。

    玍豆の匂いが苊手なんだよねっお笑っおたあの子、い぀も家の䞭でスニヌカヌを履いお゚クササむズしおた子。個性的だけど、それぞれの暮らしがそこにあった。

    ​ある日、ホヌムパヌティヌでお寿叞を握っおくれたのは、同じ家に䜏んでいた料理人のあの人。

    あの頃、語っおいた倢を、私は今でも芚えおいる。「きっず叶えるだろうな」ず思っおいたら、本圓に海倖でお店を開いたず知った。

    ​私も同じペヌロッパの空の䞋で暮らしおいる。

    それぞれの堎所で、自分の道を歩いおいるこずが、なんだかうれしい。い぀かふらりず圌のお店を家族ず蚪れおみたい。そんなふうに、ひっそりず応揎しおいる。

    ​

    ​【着物ず異文化ず、浅草ず】

    ​浅草の着物レンタルショップでも働いた。

    春には桜を求めお蚪れる芳光客でにぎわい、毎日が倧忙し。朝から倕方たで、時間を忘れるほど着付けの日々。早起きも、䞍思議ず足取りは軜かった。くたくたになる日も倚かったけど、笑顔が絶えなかった。

    ​店内には、日本語に英語、䞭囜語、むンドネシア語  いろんな蚀語が飛び亀っおいお、たるで“ちいさな異文化空間”のようだった。スタッフも明るくおナニヌクな人たちばかり。

    ​【ちょっず䞍噚甚な、でも面癜い人生】

    ​20代前半、「24で結婚できなかったら、婚掻パヌティヌ行こうね」なんおあの子ず冗談を蚀い合っおいた。

    そしお本圓に結婚できず、実際に婚掻パヌティヌに行くこずになるなんお。

    人生っお、思っおたより䞍噚甚で、でもおもしろい。


    【蚀葉の重さに気づいた日】

    ​あの頃、私はただ独身で、自分のペヌスで暮らせるこずを、どこか圓然のように思っおいた。

    あの子は、小さな子どもを連れお。

    ​䜕気なく口にした蚀葉が、もしかしたら、あの子を少し疲れさせおいたかもしれない。

    あのずき、もっず蚀葉を遞べおいたらよかったな。いた思えば、少し無神経だった気がする。でも、圓時の私はそんなこず、ほんの少しも考えられなかった。

    ​今、私自身が子育おをしおみお、ようやく気づいた。

    あの子のやさしさ、そしお䜕より、あのずきあの子がどれほど必死に、前を向いおよく頑匵っおいたのかが、今になっおしみるようにわかる。本圓にすごいよ、尊敬する。

    ​だから、あの子にそっず䌝えたい。

    「あのずきは、ごめんね。そしお、本圓によく頑匵っおたね」っお。

    ​【未来は、わからないから面癜い】

    占いに少しはたっおいた時期もあった。

    暪浜䞭華街で出䌚った占い垫。

    「あなたは海倖に瞁があるわよ」

    そのずきは着物のお皜叀を始めたばかりで、日本の䌝統文化に心を寄せおいた。だから正盎、ピンずこなかった。

    ​でも今、私はほんずうに、囜際結婚をしお海倖で暮らしおいる。

    占い、圓たっおるね


    【40歳の答え合わせ】

    ​友達ず笑い合ったこず。鍋を囲んだ日々。叱っおくれた人、自由に生きる姿に惹かれた日。

    あれから、もう20幎以䞊がたった。

    いろんな街で、いろんな仕事をしお、いろんな人ず出䌚っお。あの頃の私では想像できなかった今を、私は生きおいる。


    ​10代の頃、カラオケでよくこの『Precious Memories』を歌っおいた。

    歌い出しは「孊生の頃の話」。

    たさしく孊生だった圓時はただ「いい歌だな」ず思っお、ちょっず背䌞びをするようにメロディに浞っおいただけだった。だっお、あの頃の私には、振り返るほどの「過去」なんおただほずんどなかったから。

    ​40歳になっお、久しぶりに聎いたこの曲は、たったく違う歌になっお私の心に響いた。

    「懐かしくおも 䌚えずに」

    歌詞を芋お、ハッずした。

    ​今、私は遠い海倖に暮らしおいお、日本のあの街にいるみんなずは、物理的にすぐには䌚えない。

    でもそれだけじゃない。

    みんなそれぞれの人生を歩み、それぞれの堎所で生きおいる。倧人になるっお、きっずそういうこずだ。

    簡単に䌚えないからこそ、あの瞬間の眩しさが愛おしい。


    ​ねえ、あのころのわたし。

    たくさんの出䌚いが、わたしをここたで連れおきおくれたよ。


    そしお今、物語の舞台はこの囜ぞ。

    未来の「Precious Memories」が、楜しみだ。


    あずがき

    よく䞖間の飲み䌚の垭なんかで、おじさんたちが酔っ払うず決たっお「俺の若い頃はさぁ  」ず歊勇䌝を語りだす、あの定番の光景。

    40歳を過ぎお41歳になった今、たさかあのおじさんたちの気持ちが分かっおしたうなんお笑。

    ​あれは単なる自慢話じゃなかったのかもしれない。厳しい瀟䌚で必死に戊い、居酒屋で䞀息぀いおリラックスした瞬間、ふず愛おしい戊いの日々を振り返りたくなる  。

    そう、人生の節目に蚪れる、あのごく自然な回想タむムだったんだな、ず今なら枩かい目で共感できおしたう。

    これも歳を重ねた蚌拠だろうか。


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    オヌストリアの小さな町で家族ず暮らしおいたす。倫🇊🇹、2人の息子(6歳ず3æ­³)。 日本から移り䜏んで2幎。少しず぀「暮らすこず」に銎染みはじめたした。日々の䞭で戞惑いや日垞の暮らしを綎っおいこうず思いたす。🀗

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